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九州編(51):熊本(11.9)

 そして本日最高の異形の物件、長崎次郎書店に到着。何と表現すればよいのでしょう、和風・中国風・洋風をごった煮にして、「目立ちゃいいじゃん」というスパイスをやめてっというくらいにふりかけた建物です。個人的には、熊本市内で一押しの物件ですね。その近くにあるのが明八、熊本の「通潤橋」や「霊台橋」を造った明治の名石工・橋本勘五郎が、東京の「日本橋」「江戸橋」、皇居の「二重橋」を架設したのち、帰郷して手がけた石橋のうちの一つ。明治8(1875)年に架設されたので「明八橋」と呼ばれます。旧第一銀行熊本支店は連続するアーチと両サイドに配置された塔屋が印象的なオフィスビルで、竣工は1919(大正8)年。一時、取り壊しの危機に際しましたが、空調メーカー「ピーエス」の所有となって蘇ったそうです。
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 その前にかかる明十橋も、橋本勘五郎の手によって造られた石橋。明治10 (1877)年に架設されたので「明十橋」と呼ばれています。このあたりは鍛冶屋町、唐人町、呉服町、魚屋町、紺屋町など、熊本城の城下町として栄えたところで、明治に入り往来が活発になるにつれ、これらの橋の架設が待ち望まれたそうです。ちょっと通り過ぎただけでも、レトロな物件が蝟集していることがわかる地域です。そして冨重写真所は明治時代の写真館遺構として貴重な物件だそうですが、正面はすっかり改修され昔日の俤はありません。裏にまわって川沿いから見るとかろうじてその雰囲気は感じますが、いかんせんまともな逆光のため上手く写真におさめられませんでした。
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 そして本日最後の訪問先、石光真清記念館へ。
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 「石光真清 生誕の地」という木標に記してあった解説を転記します。
 石光真清は、慶応四年(1868)この地に生まれ、少年時代を神風連の乱や西南戦争などで激動する熊本で過ごしました。その後軍人となり日清戦争・日露戦争に出征、また生涯の大半をシベリア・満州での諜報活動に従事し波瀾に富む人生を送りました。自伝的な手記は没後「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の四部作として出版され、近代日本の側面史を伝える資料また文学作品として全国で高い評価を受けました。
 はいっ中公文庫で読みました。その波瀾万丈の人生、信じ難い記憶力、そしてソリッドで的確な描写力、いずれも圧倒されたのですが、何といっても己の眼で事実を見詰め己の頭でそれについて考え抜く、およそ凡百の軍人にはありえない自立した冷徹な精神に感銘を受けました。例えば、以下のような文章を書ける人物が、日本の近代史において何人いたでしょうか。
 国籍が違っても階級が違っても、人間の生活感情や思想は互いに共通する部分の方が、相違する部分より遥かに多いのに、相違点を誇大に強調して対立抗争をしている。僅かな意見の相違や派閥や行きがかりのために、ただでさえ不幸になりがちな人生を救い難い不幸に追い込んでしまう。情けないことである。なにか大きいものが間違っていて、私たち人間を奴隷のようにかりたてている。一国の歴史、一民族の歴史は、英雄と賢者と聖人によって作られたかのように教えられた。教えられ、そう信じ己れを律して暮して来たが……だが待て、それは間違っていなかったか。野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性によって作られたことはなかったか。胸の中が熱くなり、また冷えた。(『誰のために』より)
 私たちの後頭部を痛打するバールのような一文です。核(原子力)発電の歴史にあてはめると、それは原子力マフィア(メディアは何故"原子力村"などという牧歌的な名称で呼ぶのでしょう?)の野心と打算によって、そして民衆の誤解と無知と惰性によって作られてきたと言えそうですね。いったい何が間違っているのでしょう、彼の問いかけはいまだに執拗低音のようにこの社会で不気味に鳴り響いています。なおこの記念館は、真清の生家があった地元の人たちの熱意により現在地に保存、修復されたもので、普段は施錠されていますが、事前に問い合わせれば内部を見学できるそうです。今回は事前の連絡を忘れたために、涙を飲んで見学は断念。彼の故地を訪れることができたので良しとしましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-27 06:18 | 九州 | Comments(0)

九州編(50):熊本(11.9)

 それではそろそろ熊本駅方面へと戻りましょう。現在の時刻は午後三時半、16:47熊本発の新幹線まであと一時間強です。よしっ、ここからは電動をスイッチオンにしてフルパワーで疾走することにしました。途中にあったのが熊本商業高校、おぉ、ここが左門豊作の出身校か…と思いきや、熊本農林高校という架空の学校でした。正門の近くに「校門一礼」という大きな立て看板がありましたが、何に向かって礼をするのだろう??? そして熊本大学医学部内にある山崎記念館へ、官立熊本医科大学初代学長の山崎正菫(まさただ)氏を顕彰するために建てられた図書館です。設計は武田五一で竣工は1930(昭和5)年、重厚ながらもどこか軽やかな印象を与える好建築です。
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 次は小泉八雲旧居、1891(明治24)年に第五高等中学校の英語教師として赴任した際、最初の一年間を過ごした家です。なお日本に関する最初の著作である「知られざる日本の面影」はここで書かれたとか。なおこちらでいただいた『へるんさんの見た「熊本」』は、八雲関連の史跡まわりには必携の好パンフレット。それによると、この家を借りるにあたり、日本式の神棚を造ってもらい、毎朝柏手をうって礼拝したそうです。またキリスト教の嫌いなハーンは、西隣の宣教師コールを門前払いにしたといいます。
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 途中にあった警察署に、またもや「めざそうカギかけ日本一」という標語が掲げられていました。熊本では自転車泥棒がよほど多いのでしょうか。その先の花畑公園には「歩兵第二十三連隊址」という碑がありました。さきほどのパンフレットには、熊本に到着したハーンの第一印象は、「やや、がっくりさせられる。小屋や兵営、そればかりか、でかい兵営の立ち並ぶ荒野と言うべきものだった」というものだったそうです。
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 揮毫は…皇道派の巨頭・荒木貞夫大将。ウィキペディアで調べてみると、1919年7月から21年3月まで連隊長を務めました。たまたま読んでいる『昭和史発掘 第6巻』(松本清張 文春文庫)に次のような記述があったので引用しておきます。
 皇道派の巨頭たち、真崎、荒木、柳川、小畑、山下といった将官らと青年将校との間には、「革新」思想では通じあうかのようにみえても、実際には断絶していた。青年将校運動は青年将校自体による独自なものである。同様にかれらと、村上、石原、満井、牟田口らの佐官級とは何のつながりもない。これらの皇道派の将軍たちや佐官連中はその出世主義から青年将校運動を利用しただけである。彼らが「事の起るを待つかの如く」だったのは、風雲に乗じてライバルの統制派を追い落し、地位の優位を目論んでいたにすぎない。彼らは青年将校に、いいことずくめをいっていた。しかし、情勢が非となれば、いつでも青年将校を置き去りにしてゆく用意があった。利用者の常だが、この点に気がつかない磯部もまた若かったといえる。(p.284)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-26 06:17 | 九州 | Comments(0)

九州編(49):熊本(11.9)

 次なる物件は、熊本学園大学の産業資料館として保存されている、旧熊本紡績電気室。1894(明治27)年に建てられた、熊本紡績の赤煉瓦工場の一部です。全国的に見ても、明治20年代の紡績工場建物はほとんど残っていないため、貴重な産業遺産だそうです。そしてペダルをこいでいると、「戦争イヤだから 変えないで!憲法九条を」という立て看板がありました。
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 まっことその通り、異議なし。民衆を犠牲にして支配勢力が利益を得る、その最たるものが戦争ですよね。違うというのなら、フリッツ・ホルムが提唱する「戦争絶滅受合法案」を成立させていただきたいものです。
 戦争が開始されたら、10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。
 第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。
 次に見学したのは質朴な日本家屋が二軒並ぶ、徳富記念館。1870(明治3)年から蘇峰・蘆花兄弟が幼少時代を過ごした旧宅です。そして九州学院高等学校講堂兼礼拝堂へ、1924(大正13)年に竣工された恰幅のよい建築です。なお設計はヴォーリズ、彼の多彩な作風には驚かされます。
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 せっかくここまで来たのですから、ちょっとだけでも水前寺成趣園に寄りましょう。熊本藩主細川家が造園した、大きな池と起伏ゆたかな築山が印象的な庭園です。なおお土産屋さんには、おてもやんの顔はめ看板がありました。
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 その近くにあるのが、熊本洋学校教師ジェーンズ邸。熊本洋学校に外国人教師・ジェーンズ氏を迎えるために、1871(明治4)年に建てられた、熊本で最初の西洋建築です。1・2階にベランダをめぐらせたコロニアル風建築です。そのすぐ近くには漱石旧居(第三の家)が保存されていました。1897(明治30)年9月から翌年3月までの七ヵ月をここで過ごしたとのことです。
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 次なる物件へ移動する途中で、風変わりな透かしブロックを二つ撮影。
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 そして慈愛園旧宣教師館に到着、現在はモード・パウラス記念資料館となっています。将棋の駒のような形状のスレート葺屋根と、大きな出窓が何とも愛らしい、洒落た洋館です。竣工は1927(昭和2)年。なおモード・パウラス女史という方は、アメリカ出身のルーテル派宣教師、1920(大正9)年から1959(昭和34)年まで、日米戦争中をのぞいての35年間、熊本に滞在して老人ホーム、子供・乳児施設、女性救済施設としての「慈愛園」を運営するなど、社会福祉の発展に寄与された方です。同じ敷地内にあるのが、熊本ルーテル学園神水幼稚園園舎。変化に富んだ張出部や、大きな窓に眼を引かれます。中央玄関の半円アーチ窓ともこっとしたむくり屋根が何とも魅力的。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-25 06:18 | 九州 | Comments(0)

九州編(48):熊本(11.9)

 車道へ戻り、すこし先へ進んだところを左折し、急な坂道を電動の助けを借りてのぼりきると、リデル・ライト記念老人ホームの中に、リデル・ライト両女史記念館があります。1階は下見板張、2階はモルタル仕上げ、横に連続して並ぶ窓が印象的な白亜の瀟洒な建物です。設計は中條精一郎、彼の作品とは旅先でよくでくわします。さてこの建物、もともとはハンセン病患者救済のために障害を捧げたハンナ・リデルとその姪エダ・ライトが1918(大正7)年につくった熊本回春病院らい菌研究所で、現在は二人の功績を讃える記念館となっています。不学にしてこの二人の事跡については知りませんでした。敷地内に記念碑があったので、その内容を転記しておきます。
 ハンナ・リデル HANNAH  RIDDELL 1855~1932
 安政2年、ロンドンに生れる。信仰心が厚く宣教師として35歳の時来日。熊本に赴任する。桜並木の下に"初めてハンセン病者を見た" この衝撃が日本ハンセン病者救済史を動かす劇的な出会いであった。(4月3日)
 神に祈ったリデルは生涯をかけての行動をおこしこの地に回春病院を創設する。明治28年11月のことである。
 リデルの活動は回春病院経営にとどまらず「らい予防法」成立の原動力となり、各地病者たちの救済とキリスト教伝道の広がりとなった。
 強い意思と実行力を持ち、威あってやさしく社会福祉の言葉さえなかった時代、その先駆的役割を果たし昭和7年2月3日に永眠された76年の愛と奉仕の生涯を深い敬意をこめてここに銘記する。

 エダ・ハンナ・ライト ADA HANNAH WRIGHT 1870~1950
 明治3年、ロンドンに生れる。幼少にして両親を亡くし祖父母の家で叔母リデルと共に育った。回春病院創設の翌年11月26歳で来日。各地で伝道と教師をしながらリデルを補佐する。大正12年からは回春病院に専従しリデル亡き後、事業の後継者となる。
 現在の記念館2階に居住して院内で病者と生活をともにするライトの姿は美しくやさしかった。そこに愛があった。
 戦争の狂乱は特高の監視・病院の強制解散ライト国外退去の悲劇を生む。帰国した女史は龍田寮の子らを見守り昭和25年2月26日この病院跡地に80歳の生涯を終えた。
 私達は不幸な時代の日本の在り方に悲しみを覚えつつ、見限ることなく再来熊したライトに感謝の意をこめてこれを銘記する。
 もう言葉もありません。はるか極東の日本にやってきて、さまざまな苦難や弾圧に屈せずハンセン病患者の救済に障害を捧げた二人。その崇高な行為を支えたのはやはりキリスト教なのでしょうか。そしてこうした人道的な行為を迫害した、当時の国家権力のありようも特記すべきでしょう。民衆を犠牲にするという点では、足尾鉱毒事件、水俣病、福島第一原発事故と、太い糸でつながる動きですね。それにしても何故、特別高等警察がハンセン病患者や病院を監視したのか。心に留めておき、いつか調べてみたいと思います。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-24 08:04 | 九州 | Comments(0)

九州編(47):熊本(11.9)

 坪井旧居から退去し、すこし走ると「小泉八雲旧居跡(第二の家)」の碑があります。1891(明治24)年11月に五高教師として節子夫人とともに着任、二番目に住んだ家がここにあったとのことです。ここで長男も生まれ、彼も大変気に入っていたそうです。その前にあるのが地蔵堂、地蔵祭りのきれいな飾り物や大きなトンボの作り物を見て八雲はびっくりしたそうです。
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 そして熊本大学へと向かいますが、途中で輪繋ぎの洒落た透かしブロックを発見。あいもかわらず狭い歩道に辟易しながらペダルをこぎ続けます。
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 「子飼レトロ通り」という看板があったので寄り道してみると、小さなお店が櫛比するどこか懐かしい雰囲気の商店街でした。
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 そして熊本大学に到着、ここは旧制第五中等・高等学校時代の校舎がいくつか保存されている、私のような学校マニア(学ちゃん?)にとっては垂涎の場所です。まずは1889(明治22)年に建てられた、赤煉瓦造りの威風堂々とした校舎、五高記念館を拝見。すぐ近くにある化学実験場も同年に竣工されたもので、見応えがあります。その奥にあった自転車置き場には「めざそう! カギかけ日本一」という、最高学府らしからぬ看板がありました。自転車泥棒をする不届き者が学生の中にいるのでしょうか。
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 たくさんの木々に抱かれた静謐なキャンパスを気持ちよく走り抜け、重要文化財に指定されている赤門(正門)を撮影。
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 車道を横断し、黒髪キャンパス南地区に入り、機械実験工場として1908(明治41)年に建てられた工学部研究資料館を拝見。そして熊本大学本部として利用されている建物は、旧熊本高等工業学校本館。竣工は1924(大正13)年で、シャープな造形が印象的な建築。初期における鉄筋コンクリート造校舎の実例として貴重なものだそうです。
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 なお迂闊なことに熊本大学構内に漱石・八雲記念碑があることが、今判明しました。遅かりし由良之助。なお小泉八雲英文碑には"熊本の精神…それは簡易、善良、素朴を愛し、日常生活において無用の贅沢と浪費を憎む精神である"という、五高在任中に行なった講演『極東の将来』の一節が刻まれているそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-23 07:22 | 九州 | Comments(0)

九州編(46):熊本(11.9)

 そしてこれから「漱石の道」を駆け抜けて夏目漱石記念館へと向かいます。かなりきつい上りなので、背に腹は代えられない、電動を使うことにしました。途中に"菫程な小さき人に生まれたし"という漱石の句碑あり。崖に沿って右へと下るあたりは、熊本市街を一望できる恰好のビューポイント。
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 与謝野寛・北原白秋・平野萬里・太田正雄(木下杢太郎)・吉井勇の旅行記、『五足の靴』(岩波文庫)で下記のようにふれられている場所はきっとここでしょう。
 上熊本の改札口を出て、今まで渇していた東京の新聞を求めたけれども、見附からなかったので、直ぐに人力車(くるま)を走らせた。坂の上から下の市街(まち)を展望すると、まるで森林のようである。が、巨細に見ると、瓦が見えて来る。甍が見えて来る。板塀が見えて来る、白壁が見えて来る。『ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れているのだな。』と思いながら、彼方の空を眺めると、夕暮の雲が美しく漂っていて、いたく郷愁を誘われる。(p.67)
 さすがに木々は数えるほどしか見えず、そうした情景は昔日の感でした。一気に坂を下り、住宅地に入ると「宮部鼎蔵旧居跡」の碑がありました。解説板によると熊本藩勤王党の重鎮、1864(元治元)年、京都池田屋にて倒幕の密議中に新撰組に襲われて自刃した人物。吉田松陰もここを訪れたことがあるそうです。そして夏目漱石旧居(五番目の家)に到着。
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 彼は熊本在住中に、六ヶ所の家を転々としましたが、1898(明治31)年7月から一年八ヵ月と一番長く住んだのがここ坪井旧居。長女筆子もこの家で誕生し、漱石は"安々と海鼠の如き子を生めり"という句をつくっています。なお小説「二百十日」の素材となった阿蘇旅行は、この家にいた時のことだそうです。瀟洒な和風住宅で、付設されている洋館は後にこの家の所有者が増設したもの。座敷には漱石のからくり人形が置かれ、ひもを引くと猫を叩くようになっています。
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 わが畏敬する寺田寅彦が師・漱石とはじめて出会ったのもこの家です。以下、室内にあった解説をまとめてみました。五高の学生だった寅彦が、学期末に成績の悪かった友人のために、点数のことで相談にきたそうです。漱石は点数のことには触れず、「俳句とはレトリックの煎じつめたものである」と教え、その言葉に刺戟された寅彦は、「丸で恋人にでも会ひに行くやうな心持」で、自作の俳句をたずさえて漱石宅をしばしば訪れたそうです。
 先生はいつも黒い羽織を着て端然と正座して居たように思ふ。結婚して間もなかった若い奥さんは黒縮緬の紋付を着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の眼には先生の家庭が随分端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅のようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。
 うーん、目に浮かぶようですね。家の裏には、寅彦ゆかりの馬丁小屋も残されています。書生にしてほしいと頼み込んだ寅彦ですが、住居となるこの小屋を見せられてあまりの汚さに断念したといういわくつきの物件ですね。
 先生のお宅へ書生に置いて貰へないかといふ相談を持ち出したことがある。裏の物置なら空いて居るから来て見ろといって案内されたその室は、第一畳が剥いであって塵埃だらけで本当の物置になっていたので、すっかり悄気てしまって退却した。併し、あの時、いいから這入りますと云ったら、畳も敷いて綺麗にしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのである。
 漱石は弟子の中でも寅彦を一番畏敬し、「吾輩は猫である」の寒月君のモデルは、寺田寅彦といわれています。彼がつくった短歌です。"先生と対いてあれば腹立たしき世とも思わず小春の日向" 時は日清戦争と日露戦争の戦間期、臥薪嘗胆と唱えながら次なる戦争へとのめりこむ世の中に、寅彦は腹立たしさを覚え、漱石との語らいに一服の清涼を感じていたのかもしれません。

 本日の四枚、一番下が寅彦がたじろいだ馬丁小屋です。
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by sabasaba13 | 2013-03-22 06:16 | 九州 | Comments(0)

言葉の花綵84

 無関心の名の、心に着せた外套を脱ぎ給え。手遅れにならぬうちに、決断を。(「白ばら」のビラ)

 仮に自由が連帯へと通じていかないのなら、長い目で見て自由は生きる力をもちません。(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)

 精神をぶつけ合わそう。しかし拳は静かにおさめておこう。(マルティン・ルター)

 よわい水も動いていれば、いつかは強い石に勝つ。いいかい、固いものは負けるという教えだ。(老子)

 信仰とは、まだ夜の明けぬうちから歌い出す鳥のようなものである。(タゴール)

 政治とは、道徳的な目的のためのプラグマティックな行為である。(ヘルムート・シュミット)

 公僕達に鼻の先で笑われる程度の「ご主人さま」ではなくて、公僕達に敬意を払われるような「ご主人さま」になる―そのように、国民が成熟する以外、民主主義の生きる途はないのです。(橋本治)

 科学の進歩は、われわれが答えうる質問の数によってではなく、われわれが問いうる質問の数によってはかられる。(エディントン)

 社会は、いかに生産するかをまなんだが、生産されたものを、いかに分配すべきかをまなばなかった。(ネルー)

 われわれは、傍観し、手をつかねて待つ間に、われわれがもちたいと思うような種類の世界のためにはたらこう。人間が、凶暴で、破壊的な、その粗野なままの段階から進歩をとげてきたのは、自然の命ずるままにちからなくそれに屈服したからではなく、往々にしてそれに挑戦し、それを人類の利益のために支配しようと意欲したがためであった。
 今日もやはりおなじことだ。明日の創造は、おまえたちと、おまえたちの世代、すなわち、これから成長して、この明日のためのつとめを果たすべく、自分たちをきたえつつある、全世界の幾百万とない少年や、少女の肩にかかっているのだ。(ネルー)

 すべての企業と国家は、保障と気ばらしという二つの要求の周辺に組織される。つまり、世の中の不安から守ってほしいという要求と、世の中の不安から解放されたいという要求である。(ジャック・アタリ)

 現実と理想を融合させるために、英知と努力を傾けるのが政治家の任務である。(南原繁)

 勉強の偏差値も大事だが、心の偏差値はもっと大事だ。(某中学教師)
by sabasaba13 | 2013-03-21 06:45 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『おどろきの中国』

 『おどろきの中国』(橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司 講談社現代新書2182)読了。いやはや、尖閣諸島をめぐっての日本と中国の対立、困ったものです。それよりももっと困るのは、中国に対する感情的かつ好戦的な物言いが目立つことです。こんな時にこそ、碩学マルク・ブロックの言葉を思い浮べて頭を冷やしてほしいものです。"ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ" さてそれでは中国とはなにものなのか。勿論これは同時に、日本とはなにものなのかも考えなければいけないのですけれどね。後者については自分なりにトレースしていますので、とりあえず前者の問いに関する本を読みたいなと思っていました。そんな折、本屋の店頭で見かけたのが本書です。おっ、名著『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)の名コンビに宮台真司氏を加えた鼎談か、これは即買いですね。期待は裏切られず、たいへん興味深く面白くためになる本でした。
 中国に関して造詣の深い橋爪氏が軸となり、それにトゥウィードルダムとトゥードルディーのように大澤氏と宮台氏がからむという鼎談。まず大澤氏が本書の構成について概説をされているので紹介します。(p.14~5) 第1部、中国とはそもそも何か。中国を中国たらしめている基本的な論理とは何か。第2部、近代中国と毛沢東の謎。中国と日本における近代化の違いとは何か。第3部、日中の歴史問題をどう考えるか。近代における日中関係をどう考えるべきか、どうして歴史問題と呼ばれるような葛藤が発生するのか。第4部、中国のいま・日本のこれから。改革開放以降の中国で何が起きているのか、社会主義市場経済というのは社会科学的にどのように捉えるべきか、そして、アメリカのことなども考慮に入れながら、日本としては、これから、中国との関係をどう築いていくべきなのか。
 論点は多岐にわたるので、とても要約はできませぬが、眼から鱗が落ちコンタクトレンズをはめたように視界がクリアになることしばしばでした。例えば、"中国は二千年以上も前にできたEU"という意表をつく指摘を挙げましょう。(p.29~30) 中国にはアルプス山脈も地中海もなく、移動のコストが安いので戦争が常態であった。それがローカルな政府が分立していた春秋戦国時代。その不幸な経験を踏まえて、全体がひとつの政権に統一されるべきだという人々の意思統一ができあがった。これが中国であるという分析です。よって中国社会において最も優先順位の高い価値は「安全保障」であり、政府もそのために存在する。(p.56~7) なるほどねえ、そう考えると宇宙から見える唯一の人工物、万里の長城を建設した中国人の思いも納得できます。また何故中国では武官よりも文官が優位なのか? 橋爪氏はこう説明されます。中国の人びとは、アグレッシブで自己主張が強く、自分の個人的な能力で人生を生きていこうと考える。こういう中国人が大勢集まると、力のぶつかり合いになってしまう。そうした争いや戦いを避け平和にものごとを進めるため、聡明にも統一のルールにより競って順番をつけ、その結果には全員が従うと合意する。それが科挙の本質であり、また中国共産党の序列もこれで説明できる。(p.80~3) うむむ、奥が深い。これも無駄な戦いを防ぐための、一種の安全保障なのですね。このように、どのように世界を見ているかという「コグニティヴ・マップ」(認知地図)は、中国と日本、そして朝鮮半島とで全く違う。相手の認知地図をつかむのが外交や異文化理解の基本なのだが、その努力が(特に日本で)圧倒的に足りないという指摘は銘肝しましょう。
 なお本書では、"日本とはなにものか"について考えるためのヒントも盛りだくさんです。例えば、なぜ日本は近代化に成功し、中国はその後塵を拝したのか。ちなみに橋爪氏は、近代化を"ヨーロッパ・キリスト教文明が、その外側の世界に影響を与えていくプロセス"と定義されています。中国にも、インドにも、イスラムにも、その文明の骨格を形成して「こう考え、こう行動しろ」と書いてある根本教典のようなテキストがある。(ex.四書五経、ヴェーダ聖典、コーラン) それをやめようにも、自分で自分を説得できないので、近代化に時間がかかる。それに対して日本には、自分たちの考えや行動の規範となるテキストが存在しない。そこで、西欧的な制度を受け入れるのに、自分を説得する必要がない。(p.113~4) お見事! こういう鋭利な論考に出会えると、つくづく知の愉しみを感じます。
 近代における日中関係については、橋爪氏の以下のようなたとえ話が鮮烈な印象を受けました。
 列強の端くれになりたいというのが、日本の近代化でした。それも許せないんだけど、日本の生き残り戦略として仕方がない面もあった、と理解できる。
 いちばん許せないのは日本人が、歴史を忘れることです。
 これを、たとえてみると-さんざん頼まれて、昔、隣人に金を貸してやった。隣人はその金で自宅を新築した。でも、礼を言うどころか、道ですれ違っても挨拶もしない。垣根ごしにこちらの敷地にゴミを捨てて、知らん顔をしている。とんでもないやつだ。そのうち隣人が死んで息子の代になったら、息子は「借金のことなんか聞いてない、なんの話ですか」と言い出した。これって何だい?と思うでしょう。
 戦後生まれの日本人が、自分たちは悪いことはしていないし、侵略戦争にも責任もない。だいたい中国で何があったかよく知りません、という態度なのは、やっぱり許せない。(p.230~1)
 それでは侵略戦争において日本は中国に何をしたのか。これについても橋爪氏は、南京事件を例にとり、立場を入れ替えた思考実験をされています。
 神奈川県や長崎県が、イギリス、フランスの植民地にされてしまった。日本がかわいそうだ、助けてあげると、中国軍がやってきた。で、イギリスやフランスと戦争するのかと思ったら、なんと日本軍と戦争を始めた。「中国軍の言うことを聞け。これは日本のためなんだ」。日本政府が「いやです」と言うと、「これだけ日本のためを思ってやってるのに、まだわからんのか」と、首都の東京を占領しに攻めてきた。途中の村々は厚木でも八王子でも、物資を奪われて、火をつけられて、日本人の女性がおおぜい暴行されたり殺されたりした。東京では、逃げ出した人びとも多かったけれど、逃げおくれた民間人や東京を防衛していた兵士たちが五万人か何十万人か殺されてしまった。こんな無茶を黙ってられるか、断固戦うぞ!と、誰だって思うでしょう。そこで首都を、甲府に、そして松代に移して、国をあげて徹底抗戦する。
 この怒りの核心がなにかと言うと、具体的な被害もさることながら、言ってることとやってることがちがうじゃないか、ということじゃないのか。(p.267~8)
 この問題に関しては、実は当事者も、日本が何のために中国と戦争をしているのか十全に理解していなかったのではないか、という大澤氏の興味深い指摘があります。(p.269) 何を間違えたのかを理解できていないということは、それに対する謝罪もできないということですね。

 さて、それでは日本はこれから中国との関係をどう築いていけばいいのか。まず日本は、米中関係の付属物に過ぎないという厳然たる事実を冷静に受け止め、そこから中国・アメリカとの関係を築いていくしかない、というのが三氏の結論です。詳細や具体策については本書を読んでいただくとして、衝撃だったのがその外交を担うべき日本の政治家たちの蒙昧さ・愚劣さです。不学にして私も知らなかったので、宮台氏による三点の指摘を紹介します。
 もともと尖閣諸島をめぐっては、田中・周恩来協定(日中共同声明)、あるいは大平・鄧小平協定(「鄧小平声明」)では、「主権棚上げ」「実行(ママ)支配(施政権)は日本」「資源の共同開発」という三つが基本の柱でした。その前提にもとづいて、日中漁業協定が結ばれた。そのとき暗黙のルールになっていたのは、まず、日本の実行支配の領域に中国漁船が入ってきたら、停船要求ではなく、退去要求を出す。それに従わなかったら、停船させて捕まえるわけだけど、そのときも「逮捕・起訴」ではなく、「拿捕・強制送還」とする。…ところが、民主党政権になったときに、これが受け継がれなかったんです。
 ビデオを見るかぎり、海上保安庁は、退去ではなく、停船を要求した。しかも、そのあと前原国交大臣は、拿捕・強制送還ではなく、逮捕・送検した。これは中国との協定に対する二重のバイオレイションだったんです。もちろん、外務省の人間はそのことを知っていました。
 当時のぼくはこれに驚倒し、ただちに前原大臣に面会を求めて、秘書たちに会って話することができたのですが、そのときのやりとりからうかがえるのは、前原大臣は日中間の協定の歴史をまったく知らなかったということです。だから、「領土である以上、主権を行使して、粛々と対処するのが当たり前である」なんて言ってしまった。(p.342~3)

 たとえば2002年に、北朝鮮から拉致被害者が一時帰国したときに、北朝鮮に戻すか戻さないかが議論になって、小泉首相や福田官房長官は「約束通り戻そう」と言ったんだけど、安倍晋三官房副長官が「それでは政権がもたない」とブロックしたと言われていました。それでじつは、外務官僚が考えていた行動計画がオジャンになって、最終的には北朝鮮の核開発を止めるために必要なロードマップを踏むことができなくなってしまった。…
 同じようなことは原発問題でもあってね、福島第一原発の事故発生からしばらくして、ぼくは政権内の方に、低線量内部被曝データを公開してほしいと繰り返しお願いしました。…そしたら、「無理です。データを公開して、マスコミにこれは安全なのかと聞かれたら、政府は答えられません。なぜなら、学会にさえ共通見解がないからです」と言う。たしかに、低線量内部被曝データについては、核保有国の利害を反映したIAEAによって研究が抑止されてきた歴史があるので、学会の共通見解がないんです。だから、政府にデータを評価する力がないのは当たり前。ヨーロッパの人間はみんなそれを知っているから、市民と科学者のネットワークで評価しましょうという自治のマインドが、この問題についてはとくに広がっているわけです。だから、政府は評価しなくてよいのですから、データを出してくださいと言ったら、やっぱりそこで出てきたのが、「そんなことをしたら政権がもちません」だったんですよ。(p.344~5)
 これに対して橋爪氏が「話を聞いていてね、そんなにバカで愚かな人間は、中国にはいない。北朝鮮にもいない。アメリカにもいない。いるのは日本だけだ。その連中をどう退治するかがまず、中国とまともにつき合う第一歩だと思います。この本の読者は怒ってください」と獅子吼されたことを付記しましょう。彼ら政治家たちの第一公理は「政権の維持」なのですね。そのためには世論の感情的ナショナリズム(もともとは自分たちで煽ったところも多いのですが)に配慮し、情報を秘匿し、非合理な判断をして国民の利益を脅かすことも辞さない。こうした無能な政治家を跋扈させている日本とは、どういう国なのか。"安全保障のためにもトップリーダーは有能でなければならない"という中国の公理は、この国には存在しないようですね。世襲議員がはびこるわけだ。一刻も早くこうした御仁たちを"退治"したいものです。それにしても何でこうなってしまったのだろう? 橋爪さん、大澤さん、宮台さん、次の鼎談のテーマはぜひ『あきれた日本』にしてください。

 余談ですが、これからの世界について、中国はアメリカに比べて予測可能性が少ないので、覇権国家にはなれないという指摘も鋭いですね。キリスト教文明圏の諸国が、中国が覇権を握らないように、よってたかって下り坂のアメリカにテコ入れする。つっかえ棒がいっぱいあるアメリカ覇権体制がしばらく続くというのが橋爪氏の予測です。(勿論日本もその中の一本) それはそれで納得はするのですが、それではグローバル企業が傍若無人に世界を食い物にするという現体制がまだ続くということですね。世界を崖っぷちに追い込んでいるこの覇権体制への言及がまったくされていないことは残念でした。
by sabasaba13 | 2013-03-20 08:38 | | Comments(0)

『石光真清の手記』

 『石光真清の手記』(石光真清 中公文庫)読了。日本軍の諜報として満州やシベリアなどで活動した石光真清の自伝です。彼の略歴をウィキペディアから引用します。
 明治元年(1868年)熊本に生れる。少年時代を神風連や西南の役の動乱の中に過ごし、陸軍幼年学校に入る。陸軍中尉で日清戦争に参加し台湾に遠征、ロシア研究の必要を痛感して帰国、明治32年(1899年)特別任務を帯びてシベリアに渡る。日露戦争後は東京世田谷の三等郵便局長を務めたりしたが、大正6年(1917年)ロシア革命の後、再びシベリアに渡り諜報活動に従事する。帰国後は、夫人の死や負債等、失意の日を送り、昭和17年(1942年)76歳で没した。
 「1城下の人」「2曠野の花」「3望郷の歌」「4誰のために」の四部からなり、 "国の運命と人の行末が、細やかに結ばれていた時代"、日本のために身命を捧げながらも、その祖国に裏切られた男の波瀾万丈・疾風怒濤の物語、あっという間に一気読みしてしまいました。まず惹かれたのはその小気味良いクリスプな文章です。贅言を用いず、的確に情景や心情を描写するその筆力はとても素人とは思えません。例えば、「生きるに必要なもの以外は皆棄てた。生きるに必要のない自尊心も見栄も一緒に棄ててしまった。(2p.57)」「私自身もまた抜け落ちた片方だけの手袋のように、いずれはこの世から消える運命にある。雪になった。(4p.119)」といった文章ですね。
 そして満州やシベリアの風土、そこに暮らす人々の風俗も見事に活写しています。例えば"満州の馬賊"と聞くと、私などは馬に乗って各地を荒らしまわる強盗集団という画一的なイメージしかわかないのですが、それほど単純なものではありません。
 満州にはどこにも漉局(ルーチー)があります。旅をするとき、荷物を送るときには、お金を出して漉局に頼みますと、その旅程は全く安全でなんの被害も受けません。漉局の仕事は土地土地の頭目の間に連絡がありまして、例えば高頭目の方から、いつどういう男がどこどこに旅をするからという知らせがありますと、私どもの方でそれを保護するわけです。局では、荷物ならその種類とか見積もった金高とか、人ならば身分とか所持金とかをきいて、それに相応した料金を出させるわけです。町には都統とか鎮守使とかの軍隊が居りますし、村には保甲団がありますが、この広い満州ですからそんなものでは全部が治められるわけはありません。町から少し離れたら、あとは漉局の力にたよるだけです。馬賊と言いますと、のべつに強盗ばかりしているようですが決してそんなものではありません。筋を立てて漉局にたのめば、警察より確実に保護をしてくれるのです。(2p.192)
 また満州やシベリアの荒野を、苛酷な自然と戦いながら旅する場面は、下手な冒険小説など及びもしません。血沸き肉踊り手に汗握ること必定です。例えば…
 それだけ言って旅支度にかかった。トロイカで二昼夜駆け続けるためには、内蔵の動揺を防がなければならない。私は昔の武士が早駕籠に乗る時のことを思い出して、下腹に白木綿の生地を幾重にもキリキリと巻きつけた。ピストルを一挺、生卵とパンを少しばかり用意した。ピストルは自決のため、ナイフはトロイカが転覆した時に身体を縛りつけてある縄を切るためである。馬車の上には枯草を厚く敷いたが、いかにも貧弱な事である。駅站専用車と聞いたが、馬は蒙古の老いぼれである。これで小興安嶺が越えられるかな…と首を傾げた。(4p.178)
 知識としては知っていたのですが、この頃、母国で食いつめた多くの日本人が大陸で稼ごうと渡来していたことにも実感がわきました。シベリア鉄道の工事、洗濯屋、写真屋、密輸、麻薬売買、そして何よりも"日本の専売である娘子軍"(2p.268)、女衒と女郎などなど。
 そして本書の最大の面白さは、彼が出会ったさまざまな人々との交流の様子です。中国人、朝鮮人、ロシア人、馬賊、難民、白軍、赤軍、日本からやってきた女衒や女郎、国籍や職業に関係なく、相手を人間として認め、分け隔てなく接しようとする彼の態度には感銘すら覚えます。書中で誰かが言っていた"食うこと、寝ること、交媾すること、死を怖れること、この四つは人も獣類も変りがない" (2p.70)という人間観を、彼ももっていたのかもしれません。その中でも"運命に対する従順さと、運命に従って生き抜いてゆく根強い生活力"(2p.242)をもつ人や、悲惨のどん底に突き落とされた人に出会うと、彼の共感や友情や愛情が湧き出でます。
 亡命ロシア人の馬車の列がめっきり多くなっていた。雪に埋もれ、風に傷めつけられた彼等の顔は、作りもののように魂がなかった。私の馬車に行きあうたびに、彼等は手を挙げて挨拶した。顔を知っているからではない。私を歓迎しているわけでもない。同胞の間で憎みあい殺し合って追われた彼等は、異人種のわれわれからさえ親愛の情が欲しいのであろう。敗れた地に再び心重く帰る私もまた彼等に無限の愛情を感じ、手を挙げて微笑した。(4p.187)
 やがて彼は、満州やシベリアにおける日本軍兵士の無礼で粗暴で不道徳で傍若無人で気儘勝手な態度に失望し、シベリア出兵における鉄道の占有・船舶の徴発・国有の金塊の押収・軍用貨物の略奪といった行為に怒りを覚えます。
 「(※石光)大佐よ、ロシア市民は革命のために混乱と不安に喘いでいます。この困難の隙に乗じて抵抗力のない市民を暴力で脅かし、金品を奪うなどは、同盟国軍のなすべきことではありますまい。協力に関する根本問題は別に定めることにして、まずこれらの暴力を防止する命令を速やかに発していただきたい。私は正式に日本軍に要望します」 (4p.271)
 そして何よりも、シベリア出兵の目的とは何なのか? 大義の不分明な戦争に駆り出された兵士たち、日本軍によって多大の犠牲を蒙るロシア人を前に、彼の祖国への信頼はぐらつきます。そしてシベリアを去る時に、血の滲むような心情をこう吐露します。
 私は涙ぐんでいるのに彼女たちは弾むような足どりである。希望に満ちた若い命はありがたい。彼女たちが朗らかで無邪気であればあるほど、私の胸は限りなく締めつけられる。国籍が違っても階級が違っても、人間の生活感情や思想は互いに共通する部分の方が、相違する部分より遥かに多いのに、相違点を誇大に強調して対立抗争している。僅かな意見の相違や派閥や行きがかりのために、ただでさえ不幸になりがちな人生を救い難い不幸に追いこんでしまう。情けないことである。なにか大きいものが間違っていて、私たち人間を奴隷のようにかりたてている。一国の歴史、一民族の歴史は、英雄と賢者によって作られたかのように教えられた。教えられ、そう信じ自己を律して暮して来たが…だが待て、それは間違っていなかったか。野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性によって作られたことはなかったか。胸の中が熱くなり、また冷えた。私は湧きあがる懐疑の念を払いながら東洋館ホテルに向った。(4p.306)
 "国の運命と人の行末が、細やかに結ばれていた時代"を生き、その国に裏切られた男の一代記。「日本の百年4 明治の栄光」(ちくま学芸文庫)の編著である橋川文三氏が、巻末でこう述べられています。"個人的記録としてはなによりも石光真清氏の四部作がもっともすぐれており、各所において引用させていただいた。筆者はしばしば本巻全体をもってしても、石光氏の伝える「明治時代」にはおよばないという感をいだかざるをえなかった"(p.521) 明治時代の光と影をあますところなく伝えてくれる重厚な一冊、お薦めです。
by sabasaba13 | 2013-03-19 06:16 | | Comments(0)

九州編(45):熊本(11.9)

 「聖く明るく美しく」という異様に爽やかな校訓の熊本信愛女学院を過ぎ、路地にはいると「こむらさき」本店に到着。
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 さっそく熊本ラーメンを注文、味わい深い豚骨スープとやや細めの麺、トッピングのチャーシュー・しなちく・きくらげ・ひともじ(わけぎ)の美味しさもさることながら、私の魂魄を揺るがした強烈なレバー・ブローが、かりかりかりかりにローストされたニンニクのみじん切りです。これはうまかった…
 さてこれから上熊本駅へと向かいますが、その途中に中津からあげ「ぶんごや」があったので、毒を食らわば皿まで、人生意気に感ず、義を見てせざるは勇なきなり、食後のスイーツおよび中津で食べられなかったことへのリベンジということでいただくことにしました。店の貼り紙にも「当店の中津唐揚げは店主が大分県中津市で30年続く「ぶんごや」にて修業し、同じタレ、油などすべて同じ物を使用しています」とあるので、これは期待できそう。さあいっただっきまーす。さくっ、はふはふ、さくっ、はふはふ、(refrain) ああうまいっ。からりと揚がったころも、肉汁したたる鳥肉、にんにくがきいた絶妙のタレ、店員さんが着ていたTシャツの"NO KARAAGE NO LIFE !"という言葉、しかと受け止めました。
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 「わが輩通り」を疾風怒濤の如く走り抜け(下り坂だったもんで)、十分弱で上熊本駅に到着。熊本市北の玄関口で、1913(大正2)年に建てられた洋風木造の駅舎が、すぐ近くにある熊本市電上熊本駅前電停の上屋として移築されています。なお夏目漱石が降り立った駅がこちらで、付近には彼にちなんだ像や句碑が置かれているそうです。さっそく付近を物色すると、駅前の通りを渡ったところに「若き日の漱石」像がありました。
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 解説文を転記します。
 夏目漱石(本名夏目金之助)は、旧制第五高等学校の英語教師として赴任、明治二十九年四月十三日、ここ上熊本駅(当時池田駅)に降り立った。漱石は、四年三ヵ月を熊本で過ごし、その間結婚や長女の誕生を迎えている。(以下略)
 その近くにあったのが「車屋の黒」像、んーそういえば「吾輩は猫である」に登場したような気がするなあ。今、ウィキペディアで調べてみると、"大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので「吾輩」は恐れている。しかし、魚屋に天秤棒で殴られて足が不自由になる(第一話)"とありました。気になったので原典にあたり、当該部分を読んでみると、以下のような黒の台詞がありました。
 考げえると詰らねえ。いくら稼いで鼠をとつたつて-一てえ人間程ふてえ奴は世の中に居ねえぜ。人のとつた鼠を皆んな取り上げやがつて交番へ持つて行きあがる。交番ぢや誰が捕つたか分らねえから其たんびに五銭宛くれるぢやねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壹圓五十銭位儲けて居やがる癖に、碌なものを食せた事もありやしねえ。おい人間てものあ體の善い泥棒だぜ
 黒の気持ちがよくわかりますね、いちおう私も人間ですが。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-03-18 06:17 | 九州 | Comments(0)