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足尾鉱毒事件編(17):藤岡町歴史民俗資料館(11.11)

 そして県道9号線を北上し、渡良瀬川を渡ると藤岡町歴史民俗資料館に到着。合同慰霊碑から二十分ほどかかり、現在の時刻は午後四時半となりました。しかし時すでに遅し、午後四時に閉館でした。指を加えて中を眺めていると…職員の方が仕事をされています。駄目でもともと、あたってくだけろ、あきらめたらそこで試合終了、いかにも史跡探訪をしている実直な市井の一歴史愛好家のような顔をして、見学をさせてもらえないかとお願いしました。すると「結構ですよ」という快いお返事、感謝感激雨霰、さっそくご厚意に甘えて見学をさせていただきました。谷中村や強制破壊後に正造や村民が抵抗の場とした仮小屋の写真、着物、杖、書簡、歌の掛軸、矢立など正造の遺品、谷中村の出土品、強制破壊の時に使用された槌などが展示されていました。
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 中でも目を引かれたのが一本歯の下駄。彼はこれを履いて、獅子奮迅・東奔西走していたのかと想像すると感無量です。泥濘を歩きまわるために特注したそうですが、立ち話をするときなどバランスをとるのに苦労するので長くは使われなかったとのこと。職員の方々に丁重にお礼を言って退出、そして同じ敷地内にある田中正造の銅像を撮影。
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 1978(昭和53)年に砂原放光氏によってつくられたもので、強烈な威圧感をもって谷中村の方角を凝視していました。なお前掲書によると、正造自身はこうした銅像や記念碑を嫌っていたそうです。生前、正造の頌徳碑を建てようという話が持ち上がったとき、彼はこう反対しました。
 岩崎さんはじめ、そんなことをいうようでは困った。記念碑だとか銅像というものをこしらえようとすると、必ず会計のことでもつれができる。僕はこれが大嫌いだ。まして僕の話を実行するでもなし、ただ記念碑や銅像などつくったとて何にもならない。
 死ねば川へ流すとも、馬に食わせるともかまわない。谷中の仮小屋で野垂れ死にすれば何より結構でガス。墓だの宮だの銅像だのというものは、金ばかりかかってつまらないものです。(島田宗三 『田中正造翁余録』)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-30 06:16 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(16):旧谷中村合同慰霊碑(11.11)

 なお「谷中村遺跡を守る会」が立てた看板に、「〈足尾・水俣・福島〉 -甦る田中正造の警告「デンキ開ケテ、世見暗夜となれり」- 福島第一原発事故の原因と原子力公害の脅威」と記された小さなポスターが貼ってありました。国学院大学教授・菅井益郎氏による講演会のお知らせです。内容を転記しておきましょう。
 今年3月11日に東日本大震災が発生し、福島原発一号機が水素爆発した。3月下旬、講師は現場から約30から50㌔離れた福島県飯館村の放射能汚染調査に出かけた。村長や村民と話し、村内を見学しているうちに「これは現代の谷中村ではないか。」と思いを強くしたと言う。足尾銅山鉱毒事件から120年、足尾銅山から鉱毒が流れ出して本県をはじめ群馬・埼玉県に大きな被害をもたらした。そして佐野市に於いても渡良瀬川周辺地で大きな鉱毒被害を出した。今回の福島原発一号機の事故と足尾銅山鉱毒事件は多くの類似点がある。「人々を難民化する文明とは何か。」 田中正造は足尾銅山鉱毒事件に対して鋭い文明批判をしている。この田中正造の警告をもとに2年後に迫った田中正造没後100年をどう迎えるのかを考え、その中で戦後、熊本県で発生した水俣病とともに現代社会の本質を探ってみたい。
 福島に谷中村の姿をだぶらせてしまうのは私だけではないことを知り、意を強くしました。そして県道9号線に戻りすこし北上すると、旧谷中村合同慰霊碑に到着です。
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 谷中村遺跡からここまで自転車で十五分ほどでした。正方形に設置されたコンクリート塀の内側に、びっしりと墓石や石仏が並んでいる、胸をしめつけられるような荒涼とした光景です。本来あるべき場所から切り離された墓石のなんと寂しげなことよ。私個人としては散骨でも風葬でもかまわないのですが、自分の生まれ育った故郷に葬られ、子々孫々を見つめ守り続けたいと願う気持ちは痛いほどよくわかります。前掲書によると、谷中村民が墳墓の地を追われた後、墓は数十年間葦原に没していました。しかし戦後社会が安定し、さらに公害問題が拡がり、田中正造の存在が甦ってくるなかで、谷中に寄せる思いが強くなり、遊水地内に点在する無縁墓地をぜひまとめてほしいという要望が藤岡町や建設省に出されました。その結果、1961(昭和46)年に、268基の石仏や墓石を集めてつくられたのがこの合同慰霊碑です。他方、墓石の移転は史跡破壊になるとして「旧谷中村遺跡を守る会」が結成され、墓地の残留、遺跡保存の運動も続いています。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-29 06:15 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(15):旧谷中村(11.11)

 まずは小さな丘の上にある雷電神社跡へ。守る会が設置した解説板には次のように記してありました。
 雷電神社は、旧谷中村のほぼ中央の丘の上に鎮座し、谷中村民の深く崇敬した社である。
 足尾銅山鉱毒事件の折、県当局の谷中村強制買収反対運動に生命を賭して戦った田中正造翁もこの神社をこよなく愛し、この社殿で村民青壮年と共に寝食を忘れて談じ或る時は難戦苦斗する村民を慰め激励した処でもあった。
 田中翁は病気重態の折、我が身を担架に乗せて遠く谷中に送り届けよと頻りに要望したほど翁が最期の静養を志したのもこの社地であった。
 この神社跡地こそ、日本公害の原点地、谷中村の存在を永久に証する無くてはならぬ貴重なる遺跡であると云い得る。
 草生し木々生い茂る丘の天辺には、「雷電神社跡」と刻まれたささやかな木柱が、まるで人々の忘却に抗うかのように屹立していました。百年とすこし前、ここで正造と谷中の村人たちが車座になって、何を語っていたのか、何に怒り何に嘆いていたのか、そして何をめざしていたのか、もちろん知る術はありません。しかし、それを想像し、その事業を引き継ぐ責務がわれわれにはあるのではないでしょうか。
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 すぐ近くには、木々の間や草むらに無数の墓石や無縫塔がたちならぶ処がありますが、ここが延命院跡・共同墓地です。その寂寥感には胸をぎりぎりとしめつけられました。一つの村や町が滅ぶ/滅ぼされるというのは、こういうことなのですね。
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 守る会が設置した解説板には次のように記してありました。
 延命院は室町時代に谷中村古川に創立された寺院であり、共同墓地の墓石は江戸時代初期より連綿と存在する。谷中村は五穀豊穣の地として栄えていたが、足尾鉱毒事件により、この延命院もまた強制買収され廃寺となり、いまわずかに墓石を残すのみとなる。
 田中正造翁が谷中村に入って六年明治四十三年四月一日の日記の一部に谷中村事件を次のように記している。「谷中と銅山の戦いなり。官権これに加わりて銅山を助く。人民死を以って守る。何を守る。憲法を守り自治の権を守り祖先を守りここに死をもって守る」と主張した。
 この地は昭和四十七年谷中湖造成計画に入っていたが、公害斗争の原点であり、谷中村事件の唯一の生証人として残すべきと谷中村の遺跡を守る会の陳情運動により保存されたものである。
 今で言えば、「福島と電力会社の戦いなり。官権これに加わりて電力会社を助く」。あるいは「水俣とチッソの戦いなり。官権これに加わりてチッソを助く」「沖縄と米軍の戦いなり。官権これに加わりて米軍を助く」とも言えるかな。第二、第三、第四、第五、第六、第七…(以下略)の谷中村が現出するのを防ぐためにも、私たちは福島・水俣・沖縄の方々とスクラムを組み、"陰険邪悪なる奸計を弄し、正義を無視し人道を蹂躙し、権力と金力とを擁して、横暴不義、残忍酷薄なる手段を廻らし、虐待、凌辱、酷遇、詐瞞、邪計奸策の限りを尽して"人びとに塗炭の苦しみを与えている"厚顔無恥、冷血非情"なる日本国政府に立ち向かっていかなければなりません。ちなみに、この表現は、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(岩波文庫)から引用しました。書評にも書きましたが、田中正造から足尾鉱毒事件を世に訴えるために是非書いてほしいと依頼され、1907(明治40)年、土地収用法によって谷中村が強制的に破壊されるという事態に接して、寒村が一気に書き上げたドキュメンタリーです。参考のため、当該部分をあげておきましょう。
 あゝ厚顔無恥、冷血無情なるものよ、汝の名は日本政府なり。
 政府が奸計の凡てを挙げて、無智無力の農民を残害したる罪悪は、吾人以下更に大にこれを摘記せん。(p.72)

 而して揚言して曰く、東洋の君子国と。咄、厚顔無恥なるものよ、爾の名は日本国なり。(p.162)

 政府の谷中村を買収せんとするや、堂々たる憲法治下において、明々白々たる法律の明文に依るなく、敢てあるひは陰険邪悪なる奸計を弄し、正義を無視し人道を蹂躙し、権力と金力とを擁して、横暴不義、残忍酷薄なる手段を廻らし、虐待、凌辱、酷遇、詐瞞、邪計奸策の限りを尽して、以て可憐無告の村民をして、塗炭の苦に疾ましむ。(p.176)
 それにしても、開いた口がふさがらないのは、"可憐無告"の人びとに塗炭の苦しみを与えている官僚・政治家・財界諸氏が、「愛国心」を高唱し強要していることです。まるでドメスティック・バイオレンスを繰り返しながら、「私を愛せ、私を愛せ、私を愛せ」とつきまとうストーカーのよう。そしてそのお先棒を担ぐジャーナリストや学者の何と多いことか。"資本家と政府との、共謀的罪悪"(p.164)を指弾すれば「自虐史観」と切り返し、尖閣諸島や竹島問題を煽りたて中国や韓国への敵愾心やナショナリズムを鼓吹する。やれやれ… 寒村はこうも言っています。
 あゝ、かく筆を執れる間にも、わが心は悲憤の炎ほに燃ゆ。あゝ愚かなるかな、五千万の鸚鵡と豚よ、爾(なんじ)が戴ける政府、国家とは、実にかくの如き暴戻、悪虐、残忍、冷酷なるものなるを知らざる乎。爾が何ものにも勝りて尊崇せる、政府、国家とは、人民の膏血に腹を肥し、その権利を蹂躙し、その財産を掠奪し、法律の暴力を藉り来つて、人民をその墳墓の地より追ふものなるを知らざる乎。あゝ爾が崇拝せる国家の本体とは、法律てふ爪と、政府てふ牙を有して、軍隊、警察等の保護の下に、力弱き人類を取り喰ふ怪物なるを知らざる乎。(p.112)
 鸚鵡や豚とならぬためにも、この怪物の真の姿を見極め、その動きに細心の注意を払い、私たちに牙を剥いた時には匹夫の勇をふるって抗いたいものです。

 なおこちらに置いてあった“谷中村の遺跡を守る会”が発行している「谷中村たより」(1982.1.1)に次のような記事がありましたので転記します。この無知蒙昧さと無神経さには鳥肌がたちます。
 渡良瀬遊水池に原子力発電所。新年早々アットいうような話。自民党の植竹国会議員によれば遊水池の利用問題で陳情した藤岡町の町議に政府の一部には遊水池は関東地方のヘソの部分にあたり国家的事業に原子力発電という意見もあるそうです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-28 06:18 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(14):旧谷中村(11.11)

 川俣から進路を東へ変え、一時間ほどペダルをこぐと正造の墓がある北川辺霊場に到着です。時の政府は、渡良瀬川の洪水を防ぐ名目で谷中・利島・川辺の三村を潰し、遊水池化することで問題の解決を図ろうとしたため、正造は谷中村に仮住まいを作り、地域住民と共に不休の活動を続けたため利島・川辺は遊水池となることを避けることができました。この両村が、報恩のために彼の分骨を祀ったのがこちらの墓所です。北川辺西小学校に接して、覆屋の中の小さな墓石、そして友人・高田早苗揮毫の「田中正造翁頌徳碑」がありました。なお隣に「忠魂碑」「招魂碑」があるのには少々違和感を覚えますが。
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 二十分ほど走ると、最後の大押出しの集結場所となった養性(ようしょう)寺です。1902(明治35)年、利島・川辺・海老瀬・谷中の村民を主とした約二千もの農民が大挙請願を決行しますが、栗橋のあたりで待ちかまえていた五百余の警官隊に食い止められ、それをくぐりぬけた五百余人が農商務省の玄関に坐り込みます。3月6日には平田東助農商務相に面会、しかし内海忠勝内務相は会おうともせず、結局同日に帰村しました。なおこれが最後の大押出しであったそうです。
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 そして谷中湖・渡良瀬遊水地に到着、川俣から二時間ほどかかりました。大きな駐車場や売店、楽しそうな家族連れなど、今ではすっかりレジャー施設に変貌してしまいましたが、ハート型をした人造湖のくぼみのあたりに「史跡保存ゾーン」として谷中村遺跡が保存されています。1970(昭和45)年、谷中湖造成の際に旧谷中村はほぼ水没、せめて共同墓地と延命院跡のある丘を守ろうと、水野勝作・大野明之進など共同墓地ゆかりの人々が、墓石を撤去しようとするブルドーザーを身を挺して止めさせました。これを機に岩崎正三郎を会長とする旧谷中村の遺跡を守る会が、建設省利根川上流工事事務所と交渉を重ね、署名運動を行ない、世論の後押しもあって、設計を変更させたそうです。そのためからくも遺跡は守られ、谷中湖はハート型にくぼむことになったのですね。守る会によってつくられた表示に従って葦原の奥へと進むと、遺跡に着きました。その経過ですが、川俣事件の翌年1901(明治34)年、なんら問題解決に動こうとしない政府や政党に絶望した正造は、明治天皇への直訴を決行しました。この事件は社会に衝撃を与え、被害民を支持する世論が高まると、翌02年政府は、鉱毒問題の根本解決を避けて谷中村に貯水池を設けて渡良瀬川の治水を図るという計画をたてました。洪水を防げば鉱毒による被害も防げるという論理ですね。04年、栃木県議会は堤防修築という名のもとに谷中村買収案を強行採決します。正造は水没の危機にさらされた谷中村に居を移し、村人とともに谷中村強制買収に反対します。しかし廃村実施と村民追い出しのため、政府の意により栃木県は、谷中残留16戸の強制破壊(1907)、さらに防水堤防の決壊水攻めなど、過酷な措置を次々と実行していきます。しかし正造および村人はその後もここに留まり、眼を覆うような辛酸をなめながらも仮小屋で雨風をしのぎ、頑強な抵抗を続けます。村民の頼りの綱であった田中正造は老体をひきずり、延々と続く訴訟の費用工面、鉱毒洪水現地調査レポート作成作業に尽力しますが、病魔(胃癌)のために前述の庭田清四郎宅で行き倒れ、1913(大正)年9月4日に終焉を迎えました。正造の意志をつぐ残留農民は以後も抵抗をつづけますが、やがてこの地を去って行くことになります。彼は「谷中村復活」によって日本を亡国の淵から救済することを唱えて最後まで抵抗したとのことです。谷中村を見殺しにすれば、国家権力は同じような惨事をつぎつぎと現出させていくことを看破していたのでしょう。「一人の命を救うことは、全世界を救うことである」というユダヤの格言を思い出します。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-27 06:57 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(13):川俣(11.11)

 その近くには「川俣事件衝突の地」という、対になった石碑がありました。なお気になるのは、田中正造のことですが、ウィキペディアによると、彼はこの事件を知らずに東京の国会で鉱毒問題に関する質問を行っていたそうです。これは被害民たちが正造の国会質問日をあえて選んで押出しを決行したためという指摘がありました。彼に迷惑をかけまいという配慮だったのかもしれませんね。なお彼が有名な「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」、いわゆる「亡国演説」を衆議院で行なったのは川俣事件の直後、1900(明治33)年2月17日のことです。「民を殺すは國家を殺すなり。法を蔑にするは國家を蔑にするなり。皆自ら國を毀つなり。財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。右質問に及候也」と趣意書にあるように、真っ向から国家権力を糾弾したものですが、山県有朋首相はこれを「質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず」と無視します。
 さて、前掲書によると、五段に布陣して待ちかまえていた二百の警官と十余名の憲兵たちは、突入した被害民たちに対して「土百姓」とののしり、サーベルの鉄さや(抜けないように麻ひもで結んでいたとか)で、突く、殴るの暴行を加えながら、目立つ者を二~三人がかりで縛り上げたそうです。また1900年2月の正造の日記には「毒ニ死スルモノ千六十四人、毒シタルモノモ霊アリ。中ニハ毒ニ殺サレタルヲシラズアランケレドモ、苟も霊あり。此請願ノ貫徹ヲ願ハザルナシ。内務ヘノ電報ハ十五人ヅツ。此ウラミヲ晴サデ置クベキカ。七度生れ代りても」とあるそうです。そして事件後の3月9日には次のような檄文を書いています。「入監者ハ皆神ナリ、之ヲ助クルモノハ仏ナリ。人ヲ殺害スルモノハ悪魔ナリ。天帝之ヲ照覧セラル。…毒ヲ以テ良民ヲ殺スモノハ誰ナルゾ。古河市兵衛ト外一物ナリ」 彼の裂帛の気合、瞋恚の炎がびしびしと伝わってきます。それにつけても、国家権力や企業による犯罪的行為に対して本気で怒ることが、私たちにはきわめて少ないように思えます。正確に言うと、被害者の怒りに対して無関心であるということです。例えば、『写真集 水俣 MINAMATA』(三一書房)の中で、W.ユージン.スミスはこう言っています。「患者たちの憤怒は、患者たちだけでなく国中が感じるべきものだった」(p.85) そして個別分散的に、そうした犯罪的行為が隠蔽され忘却されていってします。日本の近現代史はその繰り返しではなかったでしょうか。官僚・政治家・財界人諸氏は、そうした憤怒を共有し抗おうとしない私たちをなめきって、平然と"悪魔"的所行をくりかえすのだと思います。彼らの腰を引かせるような怒りをいかにして共有し叩きつけるか。これも田中正造から学ぶでき点の一つだと思います。箴言を蒐集している個人的な詩華集『言葉の花綵』から、「怒り」に関するものを三つ紹介しましょう。
 希望には二人の娘がいる。"怒り"と"勇気"だ。(聖アウグスティヌス)

 私たちは、自分が生きるということに、しあわせに生きることに、もっと貪欲になるべきではないか。生きる権利というものに、もっともっと目ざめなければいけないのではないか。生きる権利をがむしゃらに求めるところからすべてはじまる。そして、生きる権利に挑戦し、迫りつつあるもの-公害はその最大の敵の一つだ-に対して、私たちは腹の底から恐怖と怒りを感じて、自分自身がなにをすべきか、人間としてどう生きるべきかを、自分に問いかけてみる。そのとき自分の心のなかに勃然として何かが生まれてくる-。(田尻宗昭)

 この世界にあっても、許し難いことは存在する。それを見つけるためには、目をよく見開き、探さなければならない。若者よ、探しなさい。そうすれば、きっと見つかる。いちばんよくないのは、無関心だ。「どうせ自分には何もできない。自分の手には負えない」という態度だ。そのような姿勢でいたら、人間を人間たらしめている大切なものを失う。その一つが怒りであり、怒りの対象に自ら挑む意志である。(ステファン・エセル)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-26 06:20 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(12):川俣(11.11)

 そして渡良瀬川を渡って県道7号線をさらに南下、川俣をめざします。時刻は十二時半、そろそろお腹がすいてきたので、道路沿いにあった「ラーメン亭」に立ち寄りました。まあまあ美味しい醤油味のラーメンをたいらげ、トイレに行くと…和服を着た朴訥そうな男性を描いた「福の神 仙台四郎」という色紙が飾ってありました。仙台四郎? 今、インターネットで調べてみると、ウィキペディアに載っていました。「江戸時代末から明治時代にかけて宮城県仙台市に実在した人物。本名は芳賀四郎。知的障害でほとんど話すことができなかったが、四郎が訪れる店は繁盛するとして存命中から各地でもてなされた。没後、商売繁盛の福の神としてその写真が飾られるようになった」 へえー、知らなかったなあ、一種の流行り神なのでしょう。
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 さて腹もくちたし、元気よくペダルを踏んで県道7号線をさらに南下。館林のあたりで可愛い狸をかたどった仮設ガードレールを発見。「ガードレール・アニマル」と勝手に名づけていますが、これまでにもいくつか見かけています。もうすこしたまったら発表しますので乞うご期待。茂林寺のあたりで西へと進路を変え、東武伊勢崎線を越えて国道122号線にたどりつきました。そしてさらにさらに南下、利根川の手前あたりに「川俣事件」の記念碑があるはずです。持参した地図を頼りに裏道のあたりを右往左往東奔西走していると…ありました。
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 庭田清四郎宅から、昼食時間を入れて約一時間十分かかりました。横長の大きな黒い石に「川俣事件記念碑」と刻んであります。後学のため、碑文を転記しておきましょう。
川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
一八九八(明治三十一)年九月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しを決行した
その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
この後田中正造は足尾鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
一九〇〇(明治三十三)年二月十三日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第四回目の東京押出しを決行した
前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した二千五百余名の被害民は翌朝九時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ二台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ちうけた三百余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である
この事件で負傷し 現場及び付近で捕縛された被害民十五名は 近くの真如院(お寺)に連行された(翌日以降の捜査で総数百余名が逮捕され うち五十一名が凶徒聚衆罪等で起訴された)
この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行い にぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し 天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける
この地で川俣事件が発生してから百年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
この史実を永遠に風化させないために ここに川俣事件発生百年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-25 06:17 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(11):庭田清四郎宅(11.11)

 それでは田中正造終焉の家、庭田清四郎宅へと向かいましょう。さきほど博物館で教えていただき撮影した詳細な住宅地図をデジタル・カメラのディスプレイで確認しながら、県道7号線(佐野環状線)をくぐるとすぐに見つかりました。庭田清四郎氏のご子孫が、正造が病臥し絶命した部屋を当時のまま保存し、来訪者も快く迎えてくれるということですが、ご不在のようですので今回は遠慮しました。なお前掲書が、木下尚江の談話・著作をもとに臨終の様子を再現されているので引用させていただきます。
九月四日正午遂に翁の最後が来た、この日は珍しくいい天気だった。私は朝、翁の枕頭に座して「いかがですか」と訊ねた時、翁は「おれの病気問題は片づきましたが、どうも日本の打壊しというものはヒドイもので、国が四つあっても五つあっても足りることではない」と言い出して眉間に谷のようなしわを刻み、深い煩悶をせられた。
昼近く、不意に「岩崎を呼べ」といわれた。岩崎佐十が枕辺に進むと、あの目で睨みつけ「おまえ方、大勢寄ってるそうだが、おれはちっともうれしくも有難くもねェ、おまえ方は田中正造に同情して来ているのだが、田中正造の事業に同意して来ているものは一人も居やしねェ、いって皆にそう言えッ」
かつて議会で怒号したソックリの大声で怒鳴りつけた。岩崎は頭を垂れて出ていった。
翁は突然、「起きる」といわれた。全身の力をこめて床の上にあぐらをかいた。私は背に廻り、両手で腰を支えると「いけねェー」といって、手を払われた。やむなく胸で背を支えた。夫人は正対してうちわで風を送っておられた。三回、五回、凡そ十回ばかり、「フーッ」と息を吐き切った時、「おしまいになりました」夫人は静かに顔を伏せた。(p.71)
 ううむ、臓腑を抉られるような翁の獅子吼です。私などついつい正造翁の偉業に心惹かれてしまうのですが、重要なのはそれを顕彰し記憶するだけではなく、彼の事業を受け継ぐことなのですね。そう、国家権力の横暴や科学技術の暴走から、自然と人間の暮らしを守ること。出典を記録しなかったのは迂闊でしたが、彼のこんな言葉を思い出しました。「国民監督を怠れハ治者為盗」「物質進歩の力らハ人の力らを造り又天国をも造る。然れども此天国ハ多くの人を殺して造る天国なり」 しかし私たち日本人はその事業を十全に受け継ぐことができず、治者の監督を怠り、多くの人を殺して物質的天国に安住し、挙句の果ては、事故が起きたら文字通り日本が四つあっても五つあっても足りないくらいの核(原子力)発電所を乱立させてしまいました。前掲書によると、正造の絶筆は、日記における次の一文だそうです。
○悪魔を退くる力らなきものゝ行為の半ハ其身も亦悪魔なれバなり。己ニ業ニ其悪魔の行為ありて悪魔を退けんハ難シ。茲に於てさんげ洗礼を要す。さんげ洗礼は己往の悪事ヲ洗浄するものなれバなり。
○何とて我れを
 悪魔を退ける力をどうしたら身につけることができるのか。まだまだ、田中正造から学ぶべきものは多そうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-24 06:15 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(10):雲竜寺(11.11)

 次にめざすは雲竜寺、ふたたび国道50号線(佐野バイパス)に戻って東行すると、途中に「わが国唯一の熊胆専門店」という看板がありました。そして県道7号線(佐野環状線)を南下すること約35分、渡良瀬川にかかる渡良瀬大橋の手前にありました。
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 1896(明治29)年、田中正造は栃木群馬両県鉱毒事務所をこの寺に設け、以来、足尾銅山鉱業停止請願事務所として、栃木・群馬・埼玉・茨城の四県鉱毒被害民の闘争本部になりました。雲竜寺の鐘が響くと、続々と集まった農民たちは鉱毒悲歌を高唱しながら、東京へ大押出しを繰り返します。1900(明治33)年2月12日の夜、館林警察は第四回大挙請願にむけて集まる被害民を解散させようと雲竜寺に押し入りましたが、逆に追い出され、夜明けとともに意気揚がる被害民二千余人は東京へと向かいますが、川俣で弾圧され68名が投獄されます。世に言う川俣事件ですね。その後、鉱毒問題が治水問題にすりかえられ、正造が谷中村に入るようになると、雲竜寺事務所の機能は消滅していきます。1913(大正2)年8月、病み衰えた正造が谷中への道すがら、ここ雲竜寺に立ち寄り、そして近くの庭田清四郎家に倒れ込み絶命しました。分骨はこの寺にも納められ墓がつくられますが、現在は宝塔型の墓石となっています。その近くにある救現堂という小さなお堂は、彼の七回忌にあたって台宿町琴平神社社殿を移築したもの。名の由来は、彼が病床で「現在を救え、ありのままを救え」と絶叫したことにちなみます。中には正造の木造と、鉱毒事件に活躍した人々の名を連ねた大位牌が祀られているとのこと。なお右の縁に置かれている小舟は、川俣事件の際に使われていた川舟だと聞いたことがあります。
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 境内には、田中正造に関連する碑がいくつかありました。「田中正造翁終焉之地」「足尾鉱毒事件被告之碑」という石碑、「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に血を流すとも」という彼の歌を刻んだ歌碑。また愛らしいお地蔵さまには、「足尾銅山の鉱毒による非命の死者を慰霊する地蔵尊です 鹿瀬の工場の排水による新潟水俣病患者の阿賀地蔵を送る会から寄贈されました 鉱毒非命の死者慰霊お地蔵さんの会」と刻まれていました。そう、足尾以後を生きた日本人は、結局、企業の横暴と官僚の癒着を未然に食い止めることができなかったのですね。四大公害をはじめとするさまざまな公害、そして福島の原発事故。あらためて正造や農民たちが掲げた炬火を受け継がなければと思います。もう一つの石碑には鮭が刻まれ、「足尾に緑を わたらせに清流を 田中正造翁70回忌を期して放流を始め、75回忌の年1985・11・17回帰サケを墓前に供える わたらせ川にサケを放す会」と記されていました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-23 06:16 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(9):寿徳寺(11.11)

 道をはさんで生家の向かいにあるのが正造の墓です。なお田中正造の徳を偲び、多くの方々が分骨を望んで墓をつくり、現在確認されているのは六つです。今日一日で、すべてを掃苔するつもりです。こちらの墓碑の「義人田中正造君の碑」の揮毫は友人の島田三郎、墓碑に刻まれた「冬ながら啼ねバならぬほととぎす 雲井の尽きのさだめなけれバ」という和歌は正造自筆、そして蓑を着た正造の姿は小中出身で彼の後輩である小堀鞆音が描きました。なおすぐ近くに、「小堀鞆音画伯生家跡」という記念碑があります。
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 同じく近くにある浄蓮寺は田中家の菩提寺、門前には「義人田中正造菩提寺」という碑が建立されていました。
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 小中集落の東北隅にある人丸神社は豊かな湧泉と広い池のある清々しい神社ですが、正造が領主に抗って奥州の獄に入れられた時、彼の身を案じて奥さんが願掛けをしたそうです。
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 さて次は、1989(平成元)年に新たに発見された正造の墓に詣でるため、寿徳寺へ向かいますが、少々長距離移動となります。県道7号線(佐野環状線)をひたすら南下し、両毛線を越えて東武佐野線田島駅のあたりで国道50号線(佐野バイパス)を右折、あとはひたすら西行。途中で渡良瀬川を渡りますが、薄日を水面に映したその荘厳な景色に見惚れて写真撮影。そして持参したMapionの地図を頼りに脇道に入るとしばらくして寿徳寺に到着、人丸神社から一時間弱かかりました。「環境汚染公害対策国際運動之祖 渡良瀬川鉱毒災害民衆運動之父 田中正造翁顕徳之碑」と刻まれた顕彰碑はすぐに見つかりましたが、肝心の正造の墓が見当たりません。
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 案内や表示等もなく、途方に暮れてしまいました。前掲書によると、開山の墓に正造の分骨が合葬されたそうです。ということは、古くて大きい墓なのでしょう。しかし同じような形の墓が櫛比し、おまけに刻まれた字も風雨で摩滅し判読できません。うろうろうろうろ… はた!とひらめきました。持参した前掲書に掲載されている写真をよく観察すると、開山の墓の右手後方にロケットのような目立つ形状の特徴的な墓石があります。これをさがせばいいんだ。きょろきょろ… あった! とるものもとりあえず、合掌。その由来ですが、惣宗寺の本葬に参加した現住職の父と、鉱毒被害地久野村のリーダー・室田忠七たちが、分骨をもちかえり開山の墓に納めて、以来、ひそかに供養を続けてきたとのことです。前掲書によると、室田忠七は克明な『鉱毒日誌』を遺し、1899(明治32)年には、次のような記事があります。
「御真影奉還之件ニ付、稲村忠蔵、室田忠七両人ニテ上京ノ途ニツケリ」(1899.6.14)
「田中代議士トモトモ文部大臣官宅ニ出頭、樺山大臣ニ面接シ御真影還納ノ儀ニ付陳情セリ。夫ヨリ内務省・文部省ニ出頭、前□ノ件ニツキ陳情セリ」(1899.6.15)
 正造の指導を受けて、表向きは鉱毒による生活の疲弊のため御真影を護持できず、これでは申し訳ないので中央官庁に返納したいと上京したわけです。しかしその内実は、利権で結びついた古河鉱業を擁護し、鉱毒被害を放置し、住民の疲弊を一顧だにしない天皇制政府からの離反を宣言する象徴的行為なのですね。それにしても何というしたたかさと豪胆さでしょう。戦う時は武器を選べ、おおいに学ぶべきところがあります。
 なおこの墓地に「チビ之墓」「クロ之墓」という、愛犬なのでしょうか、小さなお墓があったことを付記しておきます。
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 本日の三枚、上から生家前の墓所、渡良瀬川、寿徳寺の墓です。
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by sabasaba13 | 2013-04-22 06:18 | 関東 | Comments(0)

足尾鉱毒事件編(8):田中正造生家(11.11)

 ふたたび自転車にまたがり十分ほどペダルをこぐと堀米地蔵堂跡に到着です。領主の六角家に対して村民らとともに政治的要求を掲げ江戸の獄に入れられた正造は、1869(明治2)年に釈放されると領内追放となり、隣接したここ堀米(井伊家領)の地蔵堂で手習い師匠をはじめました。「居ること百有余日、門人漸く三十人に達して、師弟の間いつも和気あいあいたり」(「田中正造昔話」より) 榎の大木がその頃を偲ばせる縁でしょうか、他には小さな地蔵堂がありました。なお、1906(明治39)年9月10日、木下尚江にせがまれて、石川三四郎(他に正造を尾行する巡査)と生家に向かう途中、ここで人力車を止めさせ、この榎を見上げてこう独語したそうです。「あの時や、子供の手ほどだっただが…」
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 地蔵堂跡から数分で、田中正造生家です。道路に面して建っているのは両親のために建てた二階建ての隠居所、ここに老父・義母と妻カツが雑貨などの小商いをしながら暮らしていたそうです。こちらでは足尾鉱山の鉱毒が展示されていましたが、私も目の当たりにするのははじめてです。また「見学記念品 有料」と銘打って(要するにお土産)、鋳物製の小さな立像と、川俣事件で負傷した山崎銈次郎宛書簡に同封されていた「愛」という字を彫ったペーパー・ウェイトが販売されていました。
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 中庭をはさんで奥にあるのが、彼が生まれ育った母屋です。茅葺屋根が銅板葺屋根に変えられているのがなんとも残念。彼が鉱毒問題のために東奔西走している間、父の治療のため医者に住んでもらい村人の診療所としても利用していたとのことです。内部は土間と板敷きで、正造の遺品である籐椅子(「明治13年1月吉日 田中正造」という自筆文字あり)や先述の「愛」という掛け軸(複製)が展示されていました。なお土蔵・便所も当時のものだそうです。
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 中庭の庭木は樹齢を全うして若木と交代したそうですが、唯一百日紅だけが長寿を保ち往時のものだそうです。なお気になったのが、近くにあった「県道拡幅絶対反対 田中正造邸宅をもとの位置にもどせ 国民的文化財を道路の犠牲にするな 田中正造の生家を守る市民の会・反対地権者の会」という看板です。前掲書では、県道拡幅事業が進み、邸宅移動に迫られると、小中農教倶楽部(正造の遺志により結成された管理団体)役員・市県教育委員会は、市民はじめ各地からの反対に耳を覆い、倶楽部総会の意向にさからって、邸宅の変形異動・ハリボテ的修理をあえて強行したと指摘しています。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-04-21 06:00 | 関東 | Comments(0)