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三渓園編(5):椿山荘(11.12)

 バスで逗子駅に戻り横須賀線で大船へ、湘南新宿ラインで長駆池袋に行き、地下鉄有楽町線に乗り換えて江戸川橋駅で下車。神田川に沿った遊歩道を十分ほど歩くと、椿山荘の冠木門に着きました。
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 まずは椿山荘の沿革について、ホームページから紹介しましょう。
 椿山荘の周辺(東京都西北部目白台)は、南北朝のころから椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていました。江戸時代初期には、神田上水の水役として出府した松尾芭蕉が、深川芭蕉庵に移るまでの4年間、椿山荘に隣接する関口竜隠庵(のちに関口芭蕉庵)に住んでいました。安政4年(1857年)の切絵図によると、現在の椿山荘の敷地は、上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷であったことがわかります。山縣有朋が明治11年(1878年)に私財を投じて「つばきやま」を購入し「椿山荘」と命名します。山縣は明治天皇をはじめとする当時の政財界の重鎮を招き、椿山荘で国政を動かす重要な会議を開いていたようです。大正7年には、当時関西財界で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主「藤田平太郎男爵」が、名園をありのまま残したいと言う山縣有朋の意志を受け継ぎました。しかし、昭和20年の空襲で、山縣公爵の記念館や一千坪の大邸宅、樹木の大半が殆ど灰燼に帰してしまいました。幸い丘の木立に囲まれた三重塔は焼失を免れ、今もその曲線を空に映しています。昭和23年(1948年)、藤田鉱業(旧藤田組)から藤田興業の所有となります。藤田興業の創業者となった小川栄一は「戦後の荒廃した東京に緑のオアシスを」の思想の下に、一万有余の樹木を移植し、名園椿山荘の復興に着手します。
 なお松本清張氏は「昭和史発掘」第一巻(文春文庫)の中で、以下のように述べられています。
 なお、山県有朋も藤田伝三郎という長州出身の政商と結んでいた。明治十二年に有名な「藤田組贋札事件」が起っているが、山県が背後にあって藤田を助けた。今日、山県邸址である目白の椿山荘に国宝の五重塔が観光用に供せられているが、これは山県歿後、その邸を買った藤田伝三郎(のちに男爵)が持ってきたものである。いま、椿山荘が藤田観光の名になっているのも、その因縁からだ。(p.10)
 ま、政権の中枢にあった元老・山県有朋と、利権で結びついた政商だったということですね。なお「藤田組贋札事件」については「日本の百年2 わき立つ民論」(松本三之介 ちくま学芸文庫)に下記のような記述がありました。
 では、警察がなぜ藤田に目星をつけたか。もとをただせば、それは薩摩と長州の藩閥争いにあった。西郷・大久保を失った藩閥がグッと落ち目になった一方で、長州閥は日の出の勢いだ。そして藤田伝三郎は財界における長州派のチャンピオンだった。井上馨の先収会社をそっくり受けつぎ前山口県令の中野梧一を顧問にすえ、官界の長州派とスクラム組んでもうけ放題にもうけている。薩摩派にとってはどうも眼ざわりだ。藤田組の不正をあばけば、脈のつながる長州派がいっせいに悲鳴をあげるだろう。劣勢挽回をはかる薩摩派はそう考えた。ところで警視局は創立以来の薩閥の牙城で、上は川路利良大警視から下はひらの巡査まで、圧倒的に薩摩出身でかためている。そこで川路大警視の指令でかねてから藤田組にさぐりを入れていた。(p.80~1)
 その結果として、薩摩藩閥勢力によって仕組まれたのが、藤田組と井上馨が贋札をつくったという冤罪事件だったのですね。日本近代史における官僚と企業家の深く暗いつながりを髣髴とさせる二人です。山県有朋については、官僚・軍部の総帥として奸智姦計を駆使して、政党勢力・社会主義勢力の伸長を抑え込もうとした元老という印象をもっています。大逆事件の黒幕も彼ですね。原敬もほとほと手を焼いたらしく、心身が疲労していた明治天皇に、社会主義の脅威を幻想的に吹き込んだ彼のやり口について、日記の中で次のように書いています。
 山県の陰険なることいまさら驚くに足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し、この奸手段に出たるならん。そのくせ余が去る一日大磯におもむくとき新橋より大磯まで同車し絶えず談話をなしたるに、一言も政治談をなさず、無論社会党に言及せず。彼の性行はつねにかくのごとくなり」(p.358~9) 「日本の百年4 明治の栄光」(橋川文三編著 ちくま学芸文庫)
 やがてその横暴さを憎まれ、宮中某重大事件によって勢力を失墜することになります。孤独で陰険な武弁ともいうべき彼が、造園に魅せられたというのもわかるような気がします。石や木や水や苔と対話をしながら、己の孤独を慰めていたのかもしれません。代表作は、小川治兵衛(植治)に指示して築いた京都の「無鄰庵」、岩本勝五郎に指示して築いた小田原板橋「古稀庵」、そして自ら指揮して築庭したのが、ここ「椿山荘」です。
by sabasaba13 | 2013-05-31 06:14 | 関東 | Comments(0)

三渓園編(4):三渓園(11.12)

 その先には展望台があり、コンビナートの向こうに富嶽を眺めることができました。そして道を戻り、旧燈明寺三重塔へ。京都相楽郡加茂町の燈明寺にあった三重塔を移築したもので、創建は室町時代と推定され、関東では最古の塔だそうです。ここからの眺望を期待したのですが、木立にさえぎられ見晴らしは良くありませんでした。
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 そして山を下り、田舎家風草庵の横笛庵へ。横笛は、高倉天皇の中宮・建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性ですね。その像は戦争に際に失われたとのこと。なお奈良・法華寺からの移築とも言われますが詳細は不明だそうです。その先にあるのが合掌造の旧矢箆原(やのはら)家住宅。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されたそうです。
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 禅宗様の旧東慶寺仏殿は、鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907(明治40)年に移築されました。なおこのあたりの紅葉はひときわ見事でしたので、去りゆく錦秋を惜しみながらしばしそぞろ歩きを満喫。それではそろそろお暇をしましょうか。初音茶屋は、かつて入園者に麦茶などをふるまい、タゴールや芥川龍之介もその様子を文章に残しているそうです。龍之介がつくった句が「ひとはかり うく香煎や 白湯の秋」…うーん、ごめんなさいよくわかりません。
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 そして大池をめぐりながら、旧燈明寺本堂、三渓園天満宮を通り過ぎると、これでほぼ一周、入口に戻りました。
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 それではバス停に向かいましょう。近くのお土産屋さんでは、「割り目に味をわざわざしみこませた割り餅」という、おそらく日本一長い名称の菓子を売っていました。"わざわざ"という副詞に、職人の矜持を…感じないですね。時刻は午前11時ちょっと前ですが、「満車」というプラカードを持った係の方が自動車の整理をされていました。午前9時の開園と同時に入ってよかった。やはり、早起きは三文の得ですね。
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 バスで根岸駅に戻り、大船で横須賀線に乗り換え。小腹がへったので大船軒の「鯵の押し寿し」を購入、逗子に向かう車中で舌鼓を打ちました。そして逗子駅からバスに乗ること二十分弱で神奈川県立近代美術館(葉山)着、こちらで見た「ベン・シャーン展」については以前に拙ブログで紹介しましたので、よろしければご笑覧ください。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-30 06:21 | 関東 | Comments(0)

三渓園編(3):三渓園(11.12)

 鎌倉心平寺の地蔵堂を持仏堂とした天授院、徳川家康が京都伏見城内に建てたという月華殿、三溪が建てた一畳台目の極小の茶室・金毛窟を見学して蓮華院へ。
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 こちらも三溪が建てたもので、竹林にある茶室というコンセプトだそうです。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられるそうです。御門と同様、京都東山の西方寺にあった門を移築した海岸門のあたりにはひときわ見事に色づいた楓がありました。
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 それでは築山にのぼりましょう。三重塔の奥に歩いていくと、関東大震災(1923)で倒壊した松風閣の残骸がありました。
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 解説板を転記します。
 初代・善三郎が別荘として明治20年ごろに築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。…断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三渓の代となり本邸・鶴翔閣が建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。大正5(1916)年には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数ヶ月滞在し、詩「さまよえる鳥」をのこしている。
 この間、詩聖タゴールは日本についてどう考えたのか。非常に興味あることですが、最近読んだ「日本の百年5 成金天下」(今井清一 ちくま学芸文庫)で触れられていました。長文ですが、たいへん重要な内容ですので引用します。
 タゴールは5月29日に神戸についてから9月2日に日本を去ったが、その大半を横浜の原三渓邸で送り、東京帝大、慶応、早稲田、日本女子大などに講演にもいった。慶応では「日本の精神」と題する講演をおこなったが、それは日本の国家主義が際限なく膨張することにたいする警告であった。
 「もとより私は自己防禦のための現代的な武器を取得するのを怠ってよい、ということを意味するつもりはありません。しかしこのことは、日本の自衛本能の必要以上に決して出てはならないものであります。(略) もしこの人びとが力を求めるに急なあまり、自分の魂を犠牲にして武器を増加しようとしたら、危険は、敵の側よりもその人たち自身の側にますます大きくなっていくものであるという事実を、日本は知らねばなりません。」
 「日本にとってそれにもまして危険なのは、西洋の外観を模倣することではなく、西洋文明の原動力を日本自身の原動力として容認することであります。(略) 今日西洋文明が流行している国においては、国民のすべてがその少年時代からあらゆる方法によって、憎悪と野望とを養いそだてることを教えこまれているのであります。歴史のなかへ半面の真理と虚偽とをつくりだして、それを人びとに教えこもうとするのです。(略) そうすることによって、国民のあいだに絶えず隣人や他国家にたいする悪意をかもし出そうとしているのであります。これこそまさに人類の泉に毒をなげ入れるものであります。(略) したがってわたくしは、西洋の政治思想の乱暴な圧力が、日本のうえに被いかぶさってくることを恐れているのです」(『タゴール生誕百年祭記念論文集』 1961)
 そしてインドに帰ると、彼は『西洋における国家主義』のなかで、もっと端的に論じた。
 「わたしは日本において政府の民心整頓と国民の自由の刈り込みに全国民が服従するのをみた。政府が種々の教育機関を通じて国民の思想を調節し、国民の感情をつくりあげ、国民が精神的方面に傾く徴候を示すときには油断なく疑惑の眼を光らせ、政府自身の仕方書にしたがって、ただ一定の形の塊に完全に鎔接するのに好都合なように(真実のためではなく)狭い路を通って導いていくのを見た。国民はこのあまねくいきわたる精神的奴隷制度を快活と誇りをもってうけいれている。それは自分でも『国家』と称する力の機械になって、物欲のために他の機械と覇を競おうとの欲望からである。」(『タゴール生誕百年祭記念論文集』より) (p.482~3)
 背筋を節足動物が這いあがるような気持ちにさせられます。子どもたちに、憎悪と野望、そして歴史における半面の虚偽を教え込み、隣人や他国家にたいする悪意を醸し出す。政府が種々の教育機関を通じて国民の思想を調節し、国民の感情を作り上げ、ただ一定の形の塊となるよう導いていく。そして国民は、このあまねくいきわたる精神的奴隷制度を快活と誇りをもって受け入れ、『国家』と称する力の機械になって、物欲のために他の機械と覇を競おうとする。嗚呼、現在の日本はこの情況からどれほど変化したのでしょうか。いまだに、「人類の泉に毒をなげ入れる」行為をしつづけているのではないのでしょうか。タゴールの言に謙虚に耳を傾けるべきだと思います。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-29 06:06 | 関東 | Comments(0)

三渓園編(2):三渓園(11.12)

 というわけで散策を開始。いきなり受付のあたりで数匹のが屯をしていました。猫好きの私としては素通りできませぬ、さっそく撮影。その中の一匹は、片足を見事に垂直に上げたポーズでした。ところでお主、どこを舐めておる。
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 入園料を支払い、まずは正面の築山と三重塔を水面に映す大池へ。幸いに天気も良く、心が広々となるような景観でした。その近くにある鶴翔閣は1902(明治35)年に三溪が建て、三溪園造成の足がかりとなった屋敷です。上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、"鶴翔閣"と名づけられたそうな。横山大観、下村観山といった日本美術院の画家が創作活動のために滞在したとのこと。椿の花と色づいた楓、石畳と白壁の調和が美しい一画があったので撮影。
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 鏡のように風景を写す睡蓮池の脇を歩き、京都東山の西方寺にあった薬医門・御門をくぐって石畳を歩いていくと、綺麗に紅葉した楓の古木がありました。
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 そして池に望む臨春閣へ、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘・巌出(いわで)御殿ではないかと考えられているそうです。池に映る姿が優美な数寄屋風書院造りの建物ですが、それほど紅葉が多くないのが残念。裏に回ると、千利休が刺客に襲われた時、体をかわしたので流れた刀が当たったという「身代わり灯籠」がありました。
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 その先にある旧天瑞寺寿塔覆堂のあたりから、人里離れた幽谷の雰囲気がただよってきました。彫りものが素晴らしいこの小さな建物は、秀吉が母のために建てた寿塔を覆うためのものだそうです。紅葉も見頃を迎えており、写真を撮りながらしばし散策。
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 この近くにある茶室・春草廬あたりの風情もいいですね。しぶい待合と散り紅葉のコラボレーションは、もう一幅の絵でした。なおこの茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられ、九つの窓があることから「九窓亭」と呼ばれていたとか。ぜひ中に入って拝見出来るよう善処を期待します。
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 その先にある聴秋閣は 徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。三つの屋根の絶妙なるバランスが見もので、かつては「三笠閣」と言われたそうです。書院および茶亭として、独創性・変化に富んだ内部の意匠だそうですが、こちらも残念ながら内部には入れません。ここから渓流沿いに短い遊歩道が整備されており、聴秋閣の屋根越しに三重塔を眺めることができます。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-28 06:20 | 関東 | Comments(0)

三渓園編(1):前口上(11.12)

 2011年の紅葉狩りもいよいよ最終局面とあいなりました。今季の掉尾を飾るのは、そう、横浜三渓園です。以前に一度訪れたことがありますが、紅葉の時期ははじめてです。せっかくそこまで行くのですから、神奈川県立近代美術館葉山館に寄って「ベン・シャーン展」を拝見することにしましょう。そして帰りがけに、椿山荘で錦秋を愛でてフィニート。うん、これでいきましょう。
 師走初旬のとある日曜日、湘南新宿ラインに乗って横浜へ、根岸線に乗り換えて根岸駅で下車。ここからバスに乗ること約十分、バス停「本牧」で下車して徒歩へ三渓園へと向かいます。途中で珍しい意匠の透かしブロックを二つゲット。
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 ん? 「亀の子石」? 解説板によると、大昔、漁師の網にかかった大亀が石と化したもので、咽喉を守る神として崇められているとのこと。百日咳などが治ると亀の子たわしを奉納する習わしで、なるほどいくつものタワシが積まれていました。
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 十分弱で三渓園に到着、ホームページからその由来について引用します。
 三溪園は生糸貿易により財を成した実業家原三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000㎡に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
 東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。
 ついでに原三溪についても紹介します。
原三溪(本名富太郎) (1868-1939)
 岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。

by sabasaba13 | 2013-05-27 06:15 | 関東 | Comments(0)

京都錦秋編(10):蓮華寺・琉璃光院(11.12)

 そして二十分ほど東へ走ると、わが心の蓮華寺に到着です。小振りですが、雅趣にあふれ、しかも訪れる人もそれほど多くない紅葉の穴場。何回も来ていますが、今回も期待を裏切りませんでした。山門をくぐると、きれいに色づいた楓と公孫樹、その散り紅葉がお出迎え。脇にある石仏群は、京都市電河原町線の敷設工事に際して発掘されたものだそうです。河原町周辺はかつて鴨川の河原で、戦災や天災による死者や刑死者の屍が打ち捨てられる遺棄葬の場であり、そうした死者を弔うための石仏群が、鴨川の氾濫によって埋没していたらしいです。
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 そして書院の座敷にあがると、池と庭園を一望することができます。作庭者として石川丈山もしくは小堀遠州の名が挙げられることもありますが、造営の年代には両人とも故人だったのでそれは違うとのこと。しばし座して、紅葉を水面に映す美しい光景を満喫。
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 なお池の周囲を歩くことはできず、こちらから眺めるだけの池泉鑑賞式庭園です。ここからお庭におりることができ、本堂のまわりを散策。茶人好みの蓮華寺形灯籠を愛でながら、去りゆく錦秋を楽しみました。
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 さてそれでは本日最後の訪問先、琉璃光院へと向かいましょう。高野川に沿った国道367号線の坂道をひいこらと十数分のぼり、比叡山ケーブル八瀬駅に自転車を置き、すこし歩くと琉璃光院に到着です。おおっ、この時期だけの特別拝観とあってたくさんの方々が訪れています。すこし行列に並んで、瀟洒な数寄屋造の書院へと入りました。解説板によると、ここ「八瀬」の地は、「矢背」とも記されるように、壬申の乱で背中に矢傷を負われた大海人皇子(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちに「やすらぎ」の郷として愛されてきたそうです。琉璃光院は明治に建てられた別荘で、囲碁本因坊位の対戦場ともなったとか。座敷や縁側から、紅葉とさまざまな苔と一条の清流が見事なコラボレーションを奏でる「琉璃の庭」、池泉庭園の「臥竜の庭」を拝見。俗塵を振るい落としました。なお邸内には、日本式蒸し風呂の原型「八瀬のかま風呂」がありました。
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 それでは一路京都駅へと向かいましょう。時刻は午後三時十五分、ほんとうは東山の養源院に寄りたかったのですが、時間的にちょっと厳しいでしょう。石橋を叩いて渡る、新幹線の発車時刻に遅れぬよう、涙を呑んで割愛しました。さすがに八瀬から京都駅までは時間がかかりましたね、南座の前に到着したのが午後四時すこし過ぎ、そして午後五時少し前に京都駅にたどり着きました。「京都サイクリングツァープロジェクト(KCTP)」に自転車を返却し、山ノ神は駅構内でお土産を物色。夕食として、「ゐざさ」の焼さば鮨と柿の葉寿司を購入して新幹線に乗り込み、帰郷。
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 本日の七枚、六枚目までが蓮華寺、最後の写真が瑠璃光院です。
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by sabasaba13 | 2013-05-26 08:06 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(9):円通寺(11.12)

 そして円通寺に到着、西村家からは三十分ほどかかりました。比叡山を借景とした枯山水庭園で名を馳せていますが、もとは後水尾天皇の山荘(幡枝御殿)で、自らこの地を選び石を配したそうです。後水尾天皇といえば、天皇に対する幕府の統制と威嚇(紫衣事件)に憤激し、幕府の制止をきかずに娘に譲位(明正天皇、859年ぶりの女帝)、徳川氏を心底てこずらせたあのお方ですか。これに懲りた幕府は、以後強硬策から懐柔策へときりかえ、修学院離宮の造営などに資金援助をしたそうです。こちらの山荘の造営資金も幕府から出たのかな。これには後日談がありまして、後水尾天皇の中宮は徳川秀忠の娘・東福門院和子で、天皇家の外戚となるべく家康によって送り込まれたのですね。ところがこの一件以来、宮中における立場が悪くなったようで、幕府も懐柔策をとっているため援護できません。精神に変調をきたしたのか、その後の彼女は衣装に狂い、ある半年間には1億5千万円もの服を注文したそうです。その用達をしたのが雁金屋、そう尾形光琳の実家です。光琳の才の背後には薄幸の女性の狂気があった…などと空想の翼がはばたいてしまいます。などという怪しげな蘊蓄はさておき、座敷に坐って枯山水と比叡山の借景を堪能、庭には楓の古木が一本あるだけですが、見事に色づいて光景を飾っていました。
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 それでは、わたくしご用達のお寺、蓮華寺へ向かいましょう。そうそう申し遅れましたが、JTBでもらったパンフレットに、京都人のソウル・フード「餃子の王将」一皿無料クーポンがついておりました。倒るる所に土をつかむ山ノ神、おまけに「餃子の王将」の餃子(あーややこしい)を食べたことがないそうな。もうすでに昨日の段階で、「食べる」という神託がくだりました。ようがす、そのしぶちんさと飽くなき探求心に敬意を表し、昼ごはんは「餃子の王将」でいただくことにしましょう。(途中にあったらだよ、あったら) ほのぼのとした"飛び出しカップル"を撮影し、宝ヶ池通を東へ走っていくと…
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 ありました、やれやれ。袖触れ合うも多生の縁、これも運命とあきらめて入店しました。餃子定食とサービスの餃子とあま辛チキンを所望、中庸の味を堪能。ま、それなりの美味しさですが、餃子といえばやはり神保町の「スヰートポーヅ」、ああまた食べたいなあ。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-25 08:06 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(8):西村家(11.12)

 さてお暇しようと靴を履くと、係の方が「奥庭もありますのでご覧ください」とおっしゃいました。ま、せっかくのお誘いですので、裏へとまわると…おおっ、これは素晴らしい池泉回遊式庭園だ。池に木橋に石灯籠、それを覆い隠すように生い茂る色づいた楓、そして錦を織りなす散り紅葉。水面に映る紅を揺らがせ遊弋する鯉。佇む者はわれわれ二人だけ、心なき身に沁みいる閑寂な雰囲気、徳冨蘆花風に言えば"人籟すべて絶へて、直ちに至上の声を聞く心地す"。しばしの間、行く秋を満喫いたしました。朝、ホテルでくすねてきた麺麭をあげると、はむはむと鷹揚に呑みこむ池の鯉。こんな上品な鯉は珍しいですね。萬葉植物園(奈良)と渉成園(京都)と清澄庭園(東京)の鯉よ、爪…はないか、剥げ落ちた鱗でも呑んで見習いなさい。というわけで、今回の旅で見つけたとっておきの穴場でした。
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 再び自転車にまたがり西村家前の道を東行、しばらく走ると見事な紅葉のある太田神社を発見。またすこし走ると、こちらも美しく色づいた楓が林立するリストランテ「愛染倉(あぜくら)」をゲット。こうしたmyもみじに出会えるのも、京都錦秋の楽しみの一つです。
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 そして深泥池のほとりを走って坂道をえっさほいさとのぼっていくと、またまた紅葉の綺麗な一画がありました。人呼んで「輝ける熟年のために… 京都ヴィラ」。いいなあ、こんなところで老後を過ごしてみたいなあ、インターネットで調べてみると、入居時に3,100万円、月額73,500円が必要だそうです。(Aタイプ) はい、やめやめ、撤収。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-24 06:20 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(7):河合神社(11.12)

 そしてすぐ近くにある河合神社へ。それほど楓は多くありませんが、公孫樹の黄色と素晴らしいコラボレーションを奏でる紅葉がありました。なおこちらの神官の家系に生まれたのが鴨長明、重職に就くことができず世を嘆いて「方丈記」を書いたと言われています。彼が住んだ方丈の復元建築が展示されていました。なお解せないのが、門前に「女性守護 日本第一美麗神」という看板があったことです。
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 "日本で何番目"コレクターとして写真にはおさめましたが、どういう意味なのでしょう。念の為調べてみると、こちらの祭神の玉依姫命にちなんで女性の守護神として信仰されているとのこと。また最近では、パワースポット流行りの影響なのか、美人祈願として人気があるそうです。ぜひ見てみたかったのが「鏡絵馬」。手鏡型の絵馬で、裏には願い事を書き、表に描いてある女性の顔に自分の使っているアイテムを使ってお化粧をして奉納するという、なんともはや、面白うてやがて哀しき鵜飼かな的しろものです。それにしてもここまでして綺麗になりたいのかなあ、と呟くと、「なりたいわよ!」と隣りでとんしゃぶをつくっていた山ノ神に一喝されました。それにしてもpart2、昨今のパワスポ・ブームにはざらざらとした違和感を覚えますね。いったいこの国はどこまで退行していくのだろう、清沢洌の言葉を借りれば"イグノランスの深淵は計りがたい"。ちなみにイグノランスとは、知識がないことではなく、疑問を発せられない状態を指します。
 さてそれでは上賀茂へと向かいましょう。三十分ほどペダルをこぐと、清流明神川に沿って土塀で囲まれた屋敷が並ぶ落ち着いた街並みに到着。そう、代々上賀茂神社に奉仕してきた神官らの屋敷、社家町です。めざすは、唯一公開されている社家、そして紅葉の穴場、西村家。現存する中でも古い社家で、昔の面影をとどめる庭園を拝観することができるそうです。それではさっそく拝見させていただきましょう。幸いなことに、われわれの他に観光客は見当たりません。行く秋の山城国の上賀茂のもみじの風情を思う存分に堪能できそうだわい、と喜びいさんでお庭を一望できる座敷へとあがらせてもらいました。木々の生い茂る野趣あふれるお庭で、中央には池ではなく遣水を配しているのが面白いですね。曲水の宴が行われたのでしょうか。解説によると、明神川から庭園内に水を導入し再び川にもどしているそうです。しかし肝心の紅葉ですが、きれいに色づいた楓の古木が一本のみ。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-23 06:17 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(6):高瀬川(11.12)

 朝目覚めてカーテンを開けると、雲は多いものの晴れ間が見えます。今日こそ雨の心配はなさそう。おおっ虹がかかっているではありませんか、吉兆吉兆。朝風呂を浴びて朝食会場へ行くと、テーブル席が満員ということで、個室に通されました。僥倖僥倖。今日は良いことがありそう。琵琶湖を眺めながら、朝食をいただきました。
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 そしてチェックアウトをして、タクシーでJR山科駅へ。東海道本線に乗り込むと、隣りの線路を空の貨車が走りぬけて行きました。ガタコンガタコンガタコン…そのピカピカに光った車輪を凝視していた山ノ神、ぼそっと「あたし、線路の上に一円玉を置いたことがある」と衝撃の告白。ぬぅわに! そげな極道者だったのか、あなたは。私は私は…五円玉でやりました。京都駅のコインロッカーに荷物を預け、駅の近くにある「京都サイクリングツァープロジェクト(KCTP)」に行き、予約しておいた自転車を借り受けました。ご丁寧にというかあまり使えないというか、フレームには京都の通りの名を記したシールが貼ってありました。
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 ♪まるたけえびすにおしおいけ♪と口ずさみながら、まずは高瀬川に沿って紅葉を愛でながら京の街を北上。途中で、京都名物、(たぶん)小便よけのミニチュア鳥居を撮影。
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 そして、「文化遺産オンライン」で調べておいた、四条大橋の近くにある「フランソア喫茶室」へ。なんともエキゾチックで乙女チックな意匠、設計は当時京大に留学していたイタリア人のベンチベニ氏で、京都の知識人のサロンとして長年親しまれてきたそうです。そして四条大橋を渡って、「レストラン菊水」と「南」を撮影。前者は表現主義風の塔屋が印象的、大正期における京都の新建築活動の規範的作品だそうです。再び高瀬川に戻って北上、途中にあった喫茶「ソワレ」は、正面の塔がユニークな山小屋風の瀟洒な喫茶店。
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 京都市交響楽団の楽器運搬用トラックと、「佐久間象山先生遭難之碑 大村益次郎郷遭難之碑」を撮影してさらに北上。
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 古風な「貝葉書院」のある二条通を右折すると、善導寺山門の奥が怪しく輝いています。自転車を停めて入山すると、見事に色づいた楓の古木がありました。
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 橋を渡って川端通を北上、対岸にあるモダンな旧京都中央電話局上分局を撮影。そして出町柳を通り過ぎて下鴨神社の境内にひろがる原生林、糺(ただす)の森に到着しましたが、残念ながらまだ紅葉の盛りには早いようです。でも、鬱蒼とした木々といくつもの清流が織りなす清冽な雰囲気にひたれただけでもう満足、私の好きな場所の一つです。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2013-05-22 06:19 | 京都 | Comments(0)