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『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』

 『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(布川了 随想舎)読了。先日、足尾鉱毒事件の史跡をめぐって佐野周辺と足尾を歩き回ってきたのですが、その際にたいへん重宝したガイドブックです。まず史跡めぐりの心構えとして銘肝したい一文が「あとがき」にありましたので、紹介します。
正造は、見学者の眼と心を次のように分類した。
以上の毒野も、ウカト見レバ普通の原野ナリ。涙ダヲ以テ見レバ地獄ノ餓鬼ノミ。気力ヲ以テ見レバ竹槍、臆病ヲ以テ見レバ疾病ノミ。
 これは、死を覚悟して直訴しようとする三日前に、甥の原田定助に書き送った書簡の一節である。このガイドブックを手に歩かれる際、心していただければ、より真実が見えてくると思い、引用しておく。(p.134)
 軽忽と臆病を排し、涙と気力をもって史跡と向き合う。しかと肝に銘じました。
 本書は、足尾鉱毒事件および田中正造に関する史跡を、足尾、日光、あかがねの道、東・黒保根・大間々、渡良瀬左岸(足利・佐野・岩舟・栃木)、渡良瀬右岸(太田・館林・板倉・北川辺)、渡良瀬下流域(藤岡・小山・古河・関宿)、東京・東北と、広範囲にわたって紹介する、フィールド・ワークにうってつけのガイドブックです。その行き届いた目配りには感嘆するしかありません、よくぞ調べたものだ。それに加えて、その史跡に関係する田中正造の文章・日記、あるいはあまり知られていない彼の言動なども紹介されており、単なるガイドブックの域を超えた厚みと奥行きをもっています。例えば、彼の墓が新たに発見された寿徳寺の紹介で、正造の指導を受けた室田忠七が遺した克明な『鉱毒日誌』の一部を引用されています。(p.56)
「御真影奉還之件ニ付、稲村忠蔵、室田忠七両人ニテ上京ノ途ニツケリ」(1899.6.14)
「田中代議士トモトモ文部大臣官宅ニ出頭、樺山大臣ニ面接シ御真影還納ノ儀ニ付陳情セリ。夫ヨリ内務省・文部省ニ出頭、前□ノ件ニツキ陳情セリ」(1899.6.15)
 表向きは鉱毒による生活の疲弊のため御真影を護持できず、これでは申し訳ないので中央官庁に返納したいと上京したわけです。しかしその内実は、利権で結びついた古河鉱業を擁護し、鉱毒被害を放置し、住民の疲弊を一顧だにしない天皇制政府からの離反を宣言する象徴的行為なのですね。何というしたたかさと豪胆さ。
また、正造が臨終を迎えた庭田清四郎家を紹介する記事では、木下尚江の談話・著作をもとにその臨終の様子を再現されています。(p.71)
 九月四日正午遂に翁の最後が来た、この日は珍しくいい天気だった。私は朝、翁の枕頭に座して「いかがですか」と訊ねた時、翁は「おれの病気問題は片づきましたが、どうも日本の打壊しというものはヒドイもので、国が四つあっても五つあっても足りることではない」と言い出して眉間に谷のようなしわを刻み、深い煩悶をせられた。
 昼近く、不意に「岩崎を呼べ」といわれた。岩崎佐十が枕辺に進むと、あの目で睨みつけ「おまえ方、大勢寄ってるそうだが、おれはちっともうれしくも有難くもねェ、おまえ方は田中正造に同情して来ているのだが、田中正造の事業に同意して来ているものは一人も居やしねェ、いって皆にそう言えッ」
 かつて議会で怒号したソックリの大声で怒鳴りつけた。岩崎は頭を垂れて出ていった。
 翁は突然、「起きる」といわれた。全身の力をこめて床の上にあぐらをかいた。私は背に廻り、両手で腰を支えると「いけねェー」といって、手を払われた。やむなく胸で背を支えた。夫人は正対してうちわで風を送っておられた。三回、五回、凡そ十回ばかり、「フーッ」と息を吐き切った時、「おしまいになりました」夫人は静かに顔を伏せた。
 他にも、県道拡幅事業による正造生家移動や、旧谷中村の墓地移転や史跡保存など、今も継続する諸問題にも触れるなど、単なる史跡めぐりに終わってほしくないという著者の思いを感じます。ただ惜しむらくは、史跡の所在地を示す地図がやや大雑把で、たどり着くのが難しかったケースがいくつかありました。小さな瑕疵ですが、改善していただけると幸甚です。

 さて、原発と放射能とによって、正造曰く「国が四つあっても五つあっても足りることではない」状況に追い込まれているのが現今の日本です。しかし、為政者やメディアは、その問題に本気で取り組もうとせず、尖閣諸島や竹島問題で中国や韓国に対する敵意と日本人のナショナリズムを煽りたてるばかり。ま、だから米軍基地やオスプレイが必要なのだという伏線なのでしょうが。DAYS JAPAN(2012.10)によると、昨年のペンクラブ会議でどなたかがこう言ったそうです。「先覚諸島や竹島どころではない。今私たちの国土は、放射能に侵略され、失われている。国境の内部でそれは起こっている」 さて、私たちは、為政者を監督し、国家権力の横暴や科学技術の暴走から自然と人間の暮らしを守るという田中正造の事業を受け継ぐことができるでしょうか。そして今年は田中正造没後100年です。どのような催しや顕彰がなされるかはわかりませんが、重要なのは彼の志した事業を受け継ぎ発展させること。その一点だけは忘れないようにしたいものです。そのためにも、足尾鉱毒事件や田中正造の事跡をふりかえることは重要だと思います。その杖となり草鞋となり道標となってくれる素晴らしいガイドブック、お奨めです。

 追記。間違いなくそれを受け継いだ一人、原発を批判し続けてきた原子力工学者の小出裕章氏を紹介する記事が朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」(2012.9.6)に掲載されていたので紹介しましょう。
 京都大学の原子炉実験所は、大阪府南部の熊取町にある。助教の小出裕章(63)の部屋には、田中正造の写真が置かれている。
 農民とともに、足尾銅山の鉱毒被害を告発した正造。小出は時折、この写真を見つめる。昨年3月、福島で原発事故が起きた時もそうだった。
 東京出身の小出は、高校時代に見た原爆展で被害のすさまじさを改めて知った。そのエネルギーを人類の末来に役立てたいとも思い、東北大の原子核工学科に入った。
 入学翌年の1969年1月、小出は学内の生協のテレビに映った東大紛争の映像に息をのむ。安田講堂に立てこもる学生、攻め込む機動隊。東北大でも学生運動はあったが、別次元の烈しさだった。
 小出は活動家たちの主張に耳を傾けた。学問の役割とは何か、彼らはそれも問うていると小出は思った。
 問いかけは自分の専攻分野に向かった。広島の原爆で核分裂したウランは800㌘。これに対し、標準的な原発は1基につき年間1㌧のウランを燃やしている。いったん暴走すれば、このエネルギーは人間を襲う。
 本当に安全なら、なぜ電気を大量に消費する都会に原発を置かず、過疎地にばかりつくるのか。この問いに答えられる教員はいなかった。「国がやっていることだから」「我々にも生活がある」。こんな言葉が返ってきたこともあった。
 小出は原発の建設計画が進む宮城県内の女川町に赴き、住民と語り合った。公害の歴史も勉強し、明治天皇に直訴まで試みた田中正造の生涯をくわしく知る。「少しでも近づきたい」。小出は女川の反対運動に加わった。

by sabasaba13 | 2013-07-28 05:48 | | Comments(0)

『自由を耐え忍ぶ』

 『自由を耐え忍ぶ』(テッサ・モーリス-スズキ 岩波書店)読了。著者は日本近現代史を専攻する気鋭の歴史学者、私も「北朝鮮へのエクソダス」(朝日新聞出版)、「天皇とアメリカ」(集英社新書)、「辺境から眺める」(みすず書房)などを拝読いたしましたが、その斬新な問題関心と鋭い分析には頭が下がります。まずは岩波書店による紹介文を転記しましょう。
 9・11事件後、アフガニスタン戦争は「不朽の自由作戦」(Operation Enduring Freedom)と名づけられ発動された。アフガンで、イラクで、自由を付与するとの美名の下に、数多の民間人が殺され、傷ついた。彼ら彼女らにとっての「自由」とは頭上から降り注ぐ爆弾のように、耐え忍ぶ(enduring)ものなのだろうか? 軍産複合体が肥大化し、市場が国家と融合した。人々の生活のあらゆる局面に産業化・市場化が浸透し、自由までもが規律化された。戦争や強制収容所が民営化されていく。知的財産は企業によって囲い込まれ、平等に享受しうる情報や自由が収奪される。グローバリゼーションに関わる最新の文献を踏まえ、9・11事件後に世界各地で進行する事態をおさえながら、新たな社会運動へ向けて批判的想像力を羽ばたかせ、市場の社会的深化に抵抗するオールタナティブを探る。
 本書は、グローバリゼーションのもとで今進行している状況、企業にコントロールされた「モノを売る/買う自由」があらゆる局面において浸透し、われわれが耐え忍んでいる状況に焦点をあてています。その根柢にあるのは、ひたすら経済成長をめざすというヴィジョンだというのが著者の指摘です。"人間がより幸福な存在になるという西欧近代性が目指した変革のヴィジョンは、変化を求めない容赦なき成長の終わりない行進というヴィジョンに、取って換わられてしまった"(p.8) 著者はこうした状況の基礎を、ヨーロッパの植民地帝国の建設に求めています。たとえば、オランダ東インド会社の「まだ実現しない利潤のために資本を募る」という原理、いいかえると資本を調達するためには拡大=経済成長の保証が必要であるということ、これこそが企業市場経済を理解する鍵である。しかし拡大の限界をむかえると、企業はその解決策として、まず外部への拡大、より遠くの世界へ向けて新たな市場を開拓することになります。これがいわゆる植民地拡大=帝国主義の歴史ですね。もう一つは内部への拡大、著者が「市場の社会的深化」と呼ぶ過程です。私なりの理解で言えば、これまで国家のみが関わってきた領域(ex.戦争・刑務所…)や、公共性の高い領域(ex.健康・知的財産…)を企業市場経済が蚕食・併呑するという状況です。著者があげられている、きわめて身近な一例を紹介しましょう。
 知的財産権に関する世界規模での厳しい規制は、コンピュータソフトウェアやバイオテクノロジーなどの知的集約産業に投資する一部の人間の利益を過剰に保護し、安価な治療薬や安いコンピュータソフトの存在で恩恵を受ける圧倒的多数の人々の利益を無視するものである。この意味において、知的財産という制度は、一部の法律家や科学者たちだけに関係した、専門家でなければわからない事象ではない。これは現代の日常生活における最も重要な部分に直結する問題なのである。例えば、先進国で最も差し迫った社会問題の一つは医療保険制度の破綻ないしは危機であろう。これらの保険制度が疲弊した主な理由は、もちろん医療費の急激な高騰であり、その原因の一つは明らかに製薬会社が課す高額な特許料が薬価に転嫁されているからである。(p.96~7)
 そして、人間やその政治的行動を絶えず支配する永遠の法則を疑いなく信仰することを「原理主義」と定義するなら、市場競争こそが繁栄と幸福の唯一の道だと主張する企業市場経済もりっぱな「原理主義」であると指摘された上で、この企業市場経済原理主義に当然の如く抗う人びとも現われます。そして彼らは、偏狭で暴力的な宗教や同じく偏狭で暴力的な民族主義・ナショナリズムの再生といった別の原理主義の砦へと追い込まれてしまう。そこに大きな問題点があると述べられています。(p.162)
 政府および企業市場が強制するもう一つの原理主義として、著者があげられているのが「全体主義的個人主義(totalitarian individualism)」です。個々人は自らのことのみに関心を持つべきであり、従って、なにごとも社会に要求せず、国家に「迷惑」を及ぼすことを禁ずる、いわゆる「個人責任」の進化形です。(p.205) その狙いは、個々人の選択の背景にある政治的、社会的、経済的文脈にかかわる複合的な諸問題から目をそらせ、産業構造の変化、技術革新、教育政策の失敗といったいろいろな要因が、失業や貧困をもたらしているのではないかという問いを封じ込めるためです。それでは失業や貧困といった不公正に満ち満ちた社会に生き、それを「個人責任」に帰せられた人びとはどういう対応をするか。
 …多くの人々は、不公正で欠陥に満ちた社会に生きていることを自覚しているが、その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる。何もすることができないまま不公正な社会を生きるには、その対応として次の二つの選択肢を採用する。一方は、世界を変えることのできない自分自身の無力さを嫌悪することであり、他方は、外部に標的を定めて感情を表出することである。そして不公正の原因が特定できない時、この怒りの破壊的な力は、壊しやすいものに向くことになる。すなわち弱者や少数者や異物が標的と定められる。デッカ・アイケンヘッドが報道した憎悪および日本でのイラクで拘束された人質に向けられた怒りは、換言すれば、自身をとりまく世界に有意義な関与ができないことに対する個々人の大きなフラストレーションから発した行き場のない憎悪が出口を発見したといえる。「現代世界は、はけ口を探す絶望的なフラストレーションとさまよい歩く恐怖で、満杯となった容器のようだ」とバウマンは述べた。
 現代社会が孕むフラストレーションの具体的な痕跡を「2チャンネル」のようなインターネットの掲示板に見ることができる。その掲示板の書き込みを読んで驚くのは、(おそらく)教育水準もそれほど低くない赤者たちが毒々しい憎悪をあからさまに表現しているというだけでなく、それが執拗に繰り返されている点だ。その悪意に満ちた言葉は、まるで出口を求め制限された空間の中を飛び回るハエの羽音のようだ。掲示板に書き込まれるレトリックは同じものの繰り返しにすぎないが、その標的は目まぐるしく変化する。ある時は憎悪の行き先が北朝鮮や「中国人犯罪」だったかと思うと、次にイラクで拘束された三人のような特定の個人や集団へと変化する。標的を求めて「彷徨する」憎悪である。まさにそれゆえ、この憎悪は深刻に受けとめねばならない。イラク人質に対する憎悪の嵐がたとえ過ぎ去ろうとも、新しい危機はまた訪れ、その際にはより大きい共同の憎悪の標的が必ず新たにデッチ上げられるのだから。(p.206~7)
 鋭い分析ですね。憎悪の標的をつくりだすことに長けた石原氏や橋下氏、かつての小泉氏のような人物が人気を博す理由がよくわかります。それではこの袋小路から抜け出す路、違う選択肢(オルタナティブ)はあるのか。著者はこれを三つの課題として提示されています。(p.194~8) まず、国家・官僚・企業による癒着と連携を統制する指針を制定すること、具体的に言えば、憲法によって企業活動を統制すること。なるほどと思ったのは、企業について言及する憲法を持つ国はないのですね。こうした改憲なら大賛成です。第二に、市場と国民国家の関係や、市場の機能を規定する国際法や国際機関の枠組みを再編成すること。第三に、現代社会が持つ複合性をより理解可能なものへと転化させるための努力。これに関しては情報へのアクセスと教育が重要だと指摘されています。前者については、当然メディアが大きな責任を負っています。政府発表の検証、日々変化する事態にかかわる客観的な取材、そして視聴者・読者への情報の提供などですね。後者については、我々の生きる世界の現実にかかわる知識、世界認識のための多様な解釈、人々の生に影響をおよぼす法規や制度(ナショナルな憲法や議会、多国籍企業、WTOのような国際機関、軍隊、刑務所、国際的・国内的法制度)について学ぶ機会を、生徒に提供すること。残念ながら、偏狭で抽象的なイデオロギーで現代社会を単純化し、国家の誇りなどといった空虚な言葉や愛国心の表示、国旗・国歌にかかわる儀式行動を子供たちに強要しているのが、日本の教育の現状だと指摘されています。(p.197)

 なお著者のことを調べていて、びっくらこいてぶっとんでしまったのは、夫君はあの森巣博氏なのですね。なるほど、旦那さんは奥さんの姓(モーリス)を、奥さんは旦那さんの姓(スズキ)を名乗っているわけだ。氏については、拙ブログで「戦争の克服」「ご臨終メディア」の書評を掲載したのでご照覧ください。また、「無境界家族」(集英社)、「無境界の人」(集英社)というとてつもなく面白い本もあるのですが、ギャンブラーにして、現代の国家や社会を鋭く批判する評論家。ほんとに驚きました。この御夫婦の会話を一度聞いてみたいものですね。
by sabasaba13 | 2013-07-27 06:42 | | Comments(0)

瀬戸内編(25):倉敷(12.3)

 何はなくとも江戸紫、ではなくて大原美術館へ。倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家・大原孫三郎が、前年死去した画家・児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立した、日本最初の西洋美術中心の私立美術館です。孫三郎にうながされて渡欧した虎次郎は、制作に励むかたわら、孫三郎の同意のもとに、日本人としての感覚を総動員してヨーロッパの美術作品を選び取るという作業に熱中します。こうしてエル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティスなどを中心とする見事なコレクションができたわけですね。
 この大原孫三郎という人物に対して、私は畏敬の念を抱いております。長文ですが、『日本の百年5 成金天下』(今井清一 ちくま学芸文庫)から引用します。
 資本家が人間として誠実に生きる道は何か、ということを真剣に探求した人物に、もう一人、大原孫三郎がいる。彼は父の大原孝四郎が創立した倉敷紡績を継ぎ、これを倉敷レイヨンに発展させたが、かたわら社会事業に熱心であった。十八歳のとき二宮尊徳の『報徳記』をくり返し読み、事業の利益の何割かは社会へ還元すべきであって、私腹をこやしてはならない、という訓えに心をうたれた。そして二十歳のときにキリスト教の熱烈な感化を受けた。彼はまず、彼にキリスト教を教えた石井十次の経営する岡山孤児院を援助した。
「岡山孤児院は、一時は千二百名の孤児を収容したこともあるが、孫三郎は日記に『孤児院のために働くは孤児院のために働くにあらず。石井のためにはもちろんあらず。また石井の事業にあらず、世界の事業である。神のための事業である』と記している。
 孫三郎が岡山孤児院に喜捨した金は莫大であるが、石井の明治四十一年の日記には『大原兄は満二年間、ほとんど毎月のように孤児院の会計の欠損せるにたいし、未だ一言の小言も言わずに助力せらる。毎月、頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの』とある。
 大正三年、石井が死去すると、孫三郎は孤児院長になった。彼の孤児への助力は、実業家の慈善のワクをはるかに越えていたのである。」
 大原孫三郎は、この他郷里の倉敷市に、病院、美術館、民芸館、考古館、天文台、農業研究所などをつくって一般に開放したが、中でも、大正八年に設立された大原社会問題研究所は、資本家の社会事業の常識を破ったものであった。
「大原社会問題研究所は、大正、昭和初期の社会科学のメッカであった。所長の高野岩三郎の下に、櫛田民蔵、久留間鮫造、森戸辰男、大内兵衛、細川嘉六、笠信太郎などの学者が、ここから輩出した。この研究所がわが国の社会科学や労働運動に投げかけた影響は測り知れないものがある。
 それだけに大原社研はアカの巣窟とよばれ、孫三郎はアカの飼育者と非難されたことがしばしばであった。だが彼は高野所長の識見と人格を信頼して、これに関して一言の文句も言わなかった。彼は学者の尊重すべきこと、学問研究の自由は冒してはならないことを、その当時の誰よりもよく知っていた。」(青地晨 「大原三代」、『中央公論』1961.4)
 茂木惣兵衛や大原孫三郎のような生き方は、資本家としては例外であった。しかし、こうした例外は、明治の資本家にはないものであった。富の収奪や蓄積だけではなく、富の分配の問題を、心ある人びとは真剣に考える時期に達していた。(p.53~5)
 なお柳宗悦の日本民藝館設立にも助力したことも付言しておきましょう。富の分配についても真剣に考える心ある資本家、こうした例外は平成の資本家にもないものですね。"社会は、いかに生産するかをまなんだが、生産されたものを、いかに分配すべきかをまなばなかった"、 ネルーの言葉です。
 それでは見学いたしましょう。先述の西洋画コレクションが有名ですが、青木繁、岸田劉生、熊谷守一、関根正二、藤島武二、松本竣介、萬鉄五郎など近代日本画の名品も粒ぞろいです。また河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司、バーナード・リーチなどの馥郁たる陶芸の名品もお見逃しなく。私の大好きなイサム・ノグチの作品「山つくり」に出会えたのも僥倖でした。
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 というわけで、その充実したコレクションのおかげですっかり時間をとられてしまいました。でも、わが青春に悔いなし、あとは古い街並みが残る本町通りをさくさくっと見て、帰郷することにしましょう。
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 鶴形山にある阿智神社からの眺めがよいということなので、長い石段をのぼりましたが、木立にさえぎられてあまり見通しがききません。残念。
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 倉敷駅へと戻って自転車を返却し、山陽本線で岡山へ。ここからバスで岡山空港へ、車窓から「交通安全 母の会」と記された交通安全人形を撮影。空港のレストランでは、ままかり酢漬け、下津井産イイダコ唐揚げ、ホルモンうどんと、ご当地名物三連発をたいらげました。
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 そして搭乗ですが、最新鋭機のボーイング787に乗ることができました。航続距離の長さが売りということですが、われわれ乗客が感知できるのはやはり内装です。窓が大きくなったことと、ボタンで明暗を調整できる電子カーテンが印象的でした。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-26 06:18 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(24):倉敷(12.3)

 まずは駅前にある観光案内所に行って情報を収集、倉敷では「ぶっかけうどん」というご当地B級グルメがあるそうなので昼食はそれにしましょう。地図をもらい、紹介してもらった店で自転車を借り受けました。まずは駅の近くにある「ふるいち」で、倉敷名物ぶっかけうどんを所望。茹で上げたうどんに、様々な具材や薬味を乗せ、その上に少量のだし汁をかけたものですが、なかなか美味でした。
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 そしてすぐ近くにある日本基督教団倉敷教会へ。さまざまな表情をもつ窓や壁、そしてリズミカルに並ぶ屋根が印象的な建築ですが、なんと設計は西村伊作でした。スーパーニッポニカ(小学館)から引用しましょう。
 西村伊作(1884―1963) 文化学院の創設者、校長。和歌山県新宮に生まれる。1921年(大正10)わが子の教育のために文化学院を設立し、与謝野晶子、石井柏亭らの協力を得て、芸術による自由主義的な教育を行う。43年(昭和18)不敬罪容疑で逮捕され、文化学院も強制閉鎖措置を受ける(戦後再開)。
 つけくわえるに、大逆事件において無実の罪で日本政府に殺された大石誠之助の甥で、幼くして両親をなくした彼は誠之助に育てられ、その生き方に深い影響を受けました。新宮にある西村伊作記念館を以前に訪れたことがあります。教会のホームページによると、彼は独学で建築を学び、1921年(大正10)、文化学院開校と同じ年に神戸市御影に西村建築事務所を設立。「教会堂、学校、ホテル、商店、事務所、劇場などの、実用と美との両方を兼ね備ふ可きもの、人間の社会的容器を美化する仕事を望みます」(雑誌『明星』に出した広告文の一部)というポリシーのもとに設計に尽力したとのことです。伊作は1922年(大正11)年、倉敷教会の設計事務を3万2千円で請負い、赤字になった経費は全部自分で負担したそうです。
 されそれでは倉敷観光の中心、美観地区へと向かいましょう。ここ倉敷は江戸時代には天領で、備中の米を積み出す河港として栄えました。そのために掘られた運河や蔵屋敷のある一帯が美観地区です。自転車をこぐこと十分ほどで到着。白壁、黒い貼り瓦、運河、石橋、柳の並木など、絵になる…というよりは人為的にむりやりピクチャレスクにしたようで、そのわざとらしさが少々鼻につく光景です。ま、堅いことは抜きにして楽しみましょう。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-25 06:16 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(23):笠島(12.3)

 やがて海沿いの道となり、正面には瀬戸大橋を眺めることができます。そして笠島城跡のある東山をぐるっとまわりこむと、笠島に到着です。港のある泊から二十分ほどかかりました。それではウィキペディアから、笠島についての解説を引用しましょう。
 塩飽諸島の中心地である本島の笠島は戦国時代までは塩飽水軍の本拠、江戸時代には水運の要所として栄え、廻船問屋を中心に町並みが形成された。江戸時代初期まで繁栄していたが同業者の乱立により次第に衰え、1720年代に幕府からの命で廻船問屋と船舶を大阪の廻船業者に譲ることになる。その後笠島の人々は船舶建造の技術を生かし、家の大工「塩飽大工」として日本各地で活躍した。彼ら塩飽大工は、年に数回笠島に戻る度に家屋を手入れした。そのため江戸時代の町並みがほぼ完全な形で保たれている。
 1985年には重要伝統的建造物群保存地区として選定され、家屋の修復等保全が進んでいる。町並みは廻船問屋など豪商の屋敷や町屋などから成り、小さな町ながらも道を鍵型につけるなど防衛的な配慮もなされている。3軒の屋敷が一般に公開され見学することができる。
 まずは廻船問屋だった真木邸へ、現在は笠島まち並み保存センターとして公開されています。
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 係の方からいろいろとお話を聞き、勧められてすぐ近くの笠島城跡のある東山の途中までのぼってみることにしました。自転車を預かってもらい、すこし歩いて石段をのぼると、そこは甍の波と海と島なみを眺望できる絶好のビュー・ポイント。
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 そして足の向くまま気の向くまま、町並みを散策しました。さすがは水軍の町並み、見通しがきかないように路地が微妙に曲がり入り組んでいます。格子窓や虫籠窓の町屋が建ち並ぶ、統一感のある落ち着いた雰囲気を楽しむことができました。建物は江戸時代のものが13棟、明治時代のものが20棟ほど残っているそうです。
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 そして自転車にまたがり、港へと戻りました。荷物を受け取って10:05出航の連絡船に乗り込み、瀬戸大橋をくぐって児島観光港に三十分ほどで到着です。
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 児島駅に行く途中で、このあたりの特産品である柑橘類を売っている店がありました。めざとく見つけた山ノ神、さっそく文旦を一袋買い込み、宅急便で自宅へと発送。そして児島駅からマリンライナーに乗って岡山へ、山陽本線に乗り換えて倉敷へ。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-24 06:21 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(22):塩飽本島(12.3)

 翌朝、午前六時前に目が覚めてしまいました。カーテンをあけて外を見ると、そろそろ薄明をむかえています。はた。そうだ、朝焼けを見にいこう。低血圧の山ノ神はお留守番、さっそく歯を磨き顔を洗い着替えて海岸へと歩いていくと、もう太陽は来臨していました。しかし空を真っ赤に染め、光の筋を海に伸ばしながら陽がのぼっていく素晴らしい光景を見ることができました。♪大きな空に梯子をかけて、真っ赤な太陽両手に掴もう。誇りの一つを胸にかかげて、怖れ知らないこれが若さだ。そうとも、こ、れ、が、青春だ♪と口ずさめば、気分はもう布施明。ついでに朝の散歩と洒落込み、港へと歩いていくと観光案内所があり自転車を借りられることが判明。うんこれで笠島まで行くことができるぞ、よしよし。
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 港の近くには、「咸臨丸渡米150周年記念 顕彰碑」がありました。碑文を読むと、開国の後、本格的な海軍設立を期して海軍伝習所を開設した江戸幕府は、幕府の御用船方を勤め操船技術に長けた塩飽衆に水夫の徴募をしました。幕府への報恩のため数十人の塩飽衆が駆けつけ、咸臨丸乗組水夫50人のうち35人がこの島出身だったそうです。太平洋横断という快挙を支えた塩飽衆のことは記憶にとどめましょう。♪嵐のなかも君のためなら、七つの海を泳いでいこう(以下略)♪ なお宿に戻る途中で、「咸臨丸水夫 松尾延次郎 生家跡」というプレートのあるお宅を見かけました。
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 荷物をまとめて「塩飽家」へと行って朝食をいただき、ご主人に丁重にお礼を言って宿代を支払いました。十数分歩いて港まで行き観光案内所で荷物を預け、地図をいただき自転車を借り受けました。さあ出発です。まずは木烏(こがらす)神社へ、社殿の前には千歳座という芝居小屋があります。一見、大きな納屋に見えますが、これは幕府の禁制を免れるためだそうです。
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 その先には旧郵便局がありましたが、民営化の影響で廃されたのでしょうか。そして塩飽勤番所を撮影。江戸時代、塩飽諸島は自治が許されており、その中から選ばれた年寄がこの勤番所において政務(島務)を行ないました。建物は1798(寛政10)年に建てられたもので、現在は資料館として公開されています。織田信長や徳川家康等の朱印状、咸臨丸の模型や乗組員の遺品などが展示されているそうです。
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 そして「笠島・甲生(こうしょう)地区の埋め墓」を拝見。遺体を埋める「埋め墓」と、死者を祀るための「詣で墓」を分ける、いわゆる両墓制ですね。私もはじめて見ました。小さな自然石がランダムに配置され、得も言われぬ神秘的な雰囲気でした。「自治会内が高齢者の人が多くなり草取り掃除もままならなくなって来ましたので、…年間五千円程度を…納入するようお願い致します」という看板がもののあわれをさそいます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-23 06:20 | 山陽 | Comments(0)

2013年参議院選挙

 2013年参議院選挙、自民党・公明党が過半数を制するという結果とあいなりました。安倍政権の掲げる政策をきちんと理解し賛同した上での投票なのか、それとも民主党への懲罰としての投票なのか、それとも"経済成長"というマントラに惹かれての投票なのか、いま一つわかりませんが。

 それはそうと、最近読んだ『マジョガリガリ』(森達也 TOKYO FM出版)の中に、興味深いやりとりがあったのでご紹介します。
森達也 去年、仕事でモンゴルに行きました。首都であるウランバートルから二時間も車で走れば、周囲はひたすら広大な草原地帯です。遊牧されている羊の一群を時おり見かけます。車で走りながらふと気づいたのですけれど、どこに行っても群れの中に必ず、数頭の山羊がいるんです。割合から言えば羊百頭に対して山羊が一頭くらいかな。でも必ずいる。見ているうちにだんだん気になりだして、遊牧民の住居であるゲルがあったので、通訳に「どうして必ず山羊がいるんですか?」と訊いてもらいました。遊牧民のその男性が通訳を介して言ったことをまとめると、羊は進取の気性に乏しい生きもので、足下の草を全部食べてしまったら、そこから動かなくなっちゃうそうです。だから群れ全体で、ぼーっと立ちすくんでしまう。一頭でも動けば群れ全体が動くのだけど、その一頭がいない。そんな状態が続けば、当然ながら痩せるし毛艶も悪くなる。そこで非常にアクティブで自分勝手な生き物である山羊の出番です。彼らは好き勝手に動き回るので、羊がその後をゾロゾロついていく。その結果、羊はフレッシュな草にありつける、ということだそうです。

辛酸なめ子 なんか象徴的な話ですね。想像すると可愛いですけど。

森達也 共同体における異物の役割というのかな。つまり、全部が均質になってしまうと、社会のダイナミズムが停滞してしまう。だからいろんな異物の存在が必要なのに、いまの日本社会は、セキュリティなどを理由に、異物を排除しようとする傾向がとても強くなっている。そんなことを考えました。この話の寓意としては、もうひとつあるんです。山羊がもし、野心や権力欲が強い山羊だったらどうなるか。

辛酸なめ子 腹黒い山羊ですね。

森達也 うん。そういう山羊に羊がなにも考えずにゾロゾロついて行ったとしたら、十年後二十年後にどうなってしまうのかということ。特に日本人は羊度が高い民族のような気がするから、このメタファーは笑い話ではすまない。(p.21~2)
 やれやれ。
by sabasaba13 | 2013-07-22 05:58 | 鶏肋 | Comments(2)

瀬戸内編(21):塩飽本島へ(12.3)

 さてそれではそろそろ塩飽本島へと向かいましょう。船に乗り遅れたら大ごとなので、タクシーで岡山駅へ行くことにしました。なお岡山には、夢二郷土美術館や国吉康雄の絵が見られる県立美術館京橋火の見櫓などの見どころがあるのですが、時間の関係で省略。ただ近くにある禁酒会館だけは撮影したかったので運転手さんにお願いしてその前でちょっとおろしてもらいました。大正期に建てられた三階建て木造洋館で、マンサード屋根とモルタルの表面を掻き落としたドイツ壁仕上げがいいですね。なおここはキリスト教系の組織である岡山県禁酒同盟の活動拠点だそうです。再び車に乗り込み車窓から路面電車を撮影、最新のLRV(Light Rail Vehicle/超低床車両)がずいぶんと導入されていました。
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 そして岡山駅に到着、フェイス・ハンティングを一発して、「わしゃ~備前の岡山育ち 車乗るなら岡山のタクシーじゃ~」という長門勇のポスターを撮影。いや別に理由はないのですが、何となく気になる俳優なもので。駅構内に入ると、岡本太郎の巨大な陶壁画「躍進」がありました。
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 17:42 発の瀬戸大橋線マリンライナー51号に乗り込み、児島駅で下車。児島観光港に行く途中に、旧野崎浜灯明台がありました。1863(文久3)につくられた江戸時代の木造灯台で、製塩資材を搬入する船や諸国の塩買船を見守っていたとのこと。お役目、ごくろうさまでした。そして18:30出航の船に乗り込み、塩飽本島へと向かいます。
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 大小28の島々からなる塩飽(しわく)諸島の中心の島で、古くから海運、廻船業で全国に知られた塩飽水軍の本拠地です。また咸臨丸の乗組員を多数輩出した島でもあります。伝統的建造物群に指定されている笠島の町並みもお目当て。陽も沈み、空と海を美しく染め上げる中、瀬戸大橋をくぐり三十分ほどで島に着きました。
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 今晩お世話になる民宿「塩飽家」は港から歩いて十数分ほどだそうですが、夜道なので事前に送迎をお願いしておきました。迎えに来てくれたご主人の車に乗り、数分で到着。風格ある古民家を利用した民宿で、さっそく夕食をいただきました。
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 しかし三月末なのにこの日は冬の如く寒く、隙間風が少々こたえます。不憫に思ったのか、ご主人がすぐ近くにある別宅の一軒家に連れていってくれて、泊まらせてくれました。ああこれは有難い、暖房をめいっぱいきかせ、おかげさまで熟睡することができました。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-21 06:17 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(20):後楽園(12.3)

 やってきたバスに乗り込むと三十分ほどで西大寺駅に到着。駅前にある電話ボックスには大仰な瓦屋根が乗っていましたが、これは西大寺を模したご当地電話ボックスなのかな。
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 列車が来るまで少々時間があるので、駅前にあったサンドウィッチ・ハウス「マミー」で遅めの昼食をいただくことにしましょう。具があふれだしそうなミックス・サンドウィッチと香高い珈琲を堪能、こういう地元資本の健気な喫茶店があるとほっとしますね。○○ー○○○○や○○ー○や○○○○○ー○や○○ー○なぞに貢いで銭っこを中央に巻き上げられるこたあありません。御馳走様でした。
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 西大寺駅へ戻り、ホームで列車を待っていると、岡山学芸館高等学校の、卒業生の進学先を列挙した超弩級の看板が否が応でも眼に飛び込んできました。その上部には「文部科学省SELHi(スーパー英語校)指定校」と記されています。なんじゃそりゃ? 今、調べてみると、"英語教育の先進事例となるような学校づくりを推進するため、英語教育を重点的に行う高等学校等を指定し、英語教育を重視したカリキュラムの開発、大学や中学校等との効果的な連携方策等についての実践研究を実施する「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)」事業"だそうです。いやはや、いい気なものですなあ。原発利権にずぶずぶにはまり、子どもたちに「原発は安全」だとデマを教え込み、そして今は放射能に脅かされている福島の子どもたちを見殺しにしている文部科学省の皆々様方、他にやるべきことがあるでしょと言いたいですね。
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 入線してきた列車に乗り込み二十分ほどで岡山駅に到着、路面電車に乗り換えて後楽園へと向かいます。うおっ、車内にガチャポンが設置されている車両がありました。停留所「城下」で下車して歩いていくと、後楽園のシンボルであるタンチョウヅルを乗せたご当地ポストを発見。江戸時代から後楽園ではタンチョウを飼育していたそうです。その近くには竹久夢二の「宵待草」を刻んだ詩碑がありました。そして十分ほどで、日本三名園の一つ、岡山藩2代藩主・池田綱政がやすらぎの場として作らせた庭園、後楽園に到着です。
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 私は以前に訪れたことがあるのですが、来たことがないという山ノ神のために一肌脱ぎました。まずは藩主の居間であった延養亭へ、戦災で焼失しましたがその後当時のままに復元されました。園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めたそうです。そして広々とした沢の池のまわりを巡りながらのんびりと散策。
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 戦災を免れた廉池軒(れんちけん)、一階を水路が走る休憩所・流店(りゅうてん)、築山の唯心山、八橋などを拝見しました。
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 梅林で名残りの梅花を愛で、かつて第六高等学校で学んだ郭沫若の詩碑を撮影。
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 タンチョウヅルの写真を撮って、お土産屋さんの前を通ると「ちくわ笛名人」という謎のポスターがありました。失礼ながらこういうしょぼい話題を調べるには、ほんっとにインターネットは便利です。あったあった、ちくわを笛にして奏でる岡山県が誇るエンターテナー、住宅正人さんでした。元岡山市役所勤務で気象予報士の資格を持ち、先の岡山県知事選で、惜しくも破れたそうです。So whatと言われたらSo it goes onとしか答えられませんが。
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 その脇にあるトイレに入ると…おおっ、盲亀の浮木、優曇華の花、ここで会ったが百年目、朝顔の的として「777」というシールが貼ってありました。以前に中央高速石川PAのトイレで見かけたのですが、無念なことにカメラを持っておらず涙を呑んだ記憶がよみがえってきました。思わず抱きしめ…るわけはありません。なお隣の朝顔には、ぎざぎざ型の吹き出しに「当」と記したシールが貼ってありました。もしかしたらここ岡山は便器シールのサンクチュアリかもしれません。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-20 07:27 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(19):牛窓(12.3)

 そして竹久夢二生家から十五分ほど走ると、牛窓に到着です。瀬戸内海に面した港町で、古い町並みや、ヨットハーバー、ペンション村、オリーブ園などもある観光地です。ホームページによると「日本のエーゲ海」と呼ばれているそうですが、え、おい、じゃなにかい、エーゲ海は「ギリシアの牛窓湾」と呼ばれているのかいとからむのも大人気ないですね。余談ですが、最近妙にはまっている「恋人の聖地」がオリーブ園にあったことを発見。後の祭りですが、ふん、悔しくなんかないぞ。我々の、というよりも私のお目当ては、港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を数多く残している古い町並み「しおまち唐琴通り」です。タクシーには、牛窓海遊文化館の前でおろしてもらいました。こちらは洒落た擬洋風建築で、1887(明治20)年に建てられた西大寺警察署牛窓分署を再利用したものです。中に入ると、牛窓の歴史や民俗に関する資料館となっていました。ここ牛窓は、江戸時代に朝鮮通信使が宿泊した場所なのですね、その行列や服装などの展示を拝見。また秋祭りで曳かれる船型の山車、だんじりも展示されていました。これは通信使の船を模したものだという説があるそうですが、確証はないようです。
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 海遊文化館の裏手の小高いところにあるのが本蓮寺、朝鮮通信使の接待所として四回利用されたとのこと。元禄年間に建てられた三重塔もあります。
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 それでは港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を残す「しおまち唐琴通り」を散策することにしましょう。二階のリボン・ウィンドウが印象的な、下見板張り・白塗りの洒落た洋館は旧牛窓郵便局、現在は喫茶店「牛転(うしまろび)」として利用されています。路地から垣間見える海も風情があります。
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 天神社は石段をのぼったところにあり、「日本の夕陽百選」に選ばれただけあって海や島なみを一望することができました。鳥居越しに眺める町並みも素敵でした。
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 すこし歩くと、「映画 カンゾー先生 牛窓ロケ地 1997年夏 今村昌平作品」という小さな石碑を発見。今、ウィキペディアで調べてみると、"監督は今村昌平。坂口安吾の原作を、今村とその息子である天願大介が脚色した。出演は柄本明、麻生久美子、世良公則、唐十郎、松坂慶子、伊武雅刀。日本が敗戦を間近に控えた岡山県を舞台に、患者を「肝臓炎」としか診断しないことから「カンゾー先生」と揶揄される医者と、彼を取り巻く人々の人生を描いた喜劇映画である"とありました。坂口安吾と今村昌平か、これは面白そうな映画ですね。記憶に留めておきましょう。
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 その先には半鐘がとりつけられた原初的な火の見櫓がありました。
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 煉瓦造りの巧言令色鮮し仁的なビルは、1915(大正4)年に竣工された牛窓銀行本店、現在は街角ミュゼ牛窓文化館として利用されているそうです。
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 木造二階建てのしぶい町屋が並ぶ通りをさらに歩いていくと、唐琴の瀬戸を往く船の安全を見守ってきた燈籠堂がありましたが、往時のものではなく1988(昭和63)年に再建されたものです。そして港のあたりをぶらつき、猫を撮影し、さてそろそろ岡山へと戻りますか。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-19 06:22 | 山陽 | Comments(0)