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富士五湖編(11):天下茶屋(12.5)

 そして天下茶屋に到着。二つの山の間から河口湖を抱いた富士がきれいに見えました。それでは茶屋の二階にある「太宰治記念室」を見学させていただきましょう。なお茶屋の建物は、太宰が滞在したものから三代目にあたるそうで、開店は1983(昭和58)年です。
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 それでは太宰がここで逗留したいきさつについてひとくさり。1937(昭和12)年、パビナール中毒で彼が入院している時に、妻・初代の浮気が発覚します。ショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図りますが未遂(四回目!)となり、彼女とは離婚することになります。師である井伏鱒二は太宰のすさんだ生活を変えるために、自分が滞在していた富士のよく見える、御坂峠のここ天下茶屋に招待しました。こうした気分転換が功を奏して徐々に太宰の精神は安定していき、1938(昭和13)年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い、婚約。翌年、彼女の出身地であるここ甲府市御崎町の新居に移りました。八ヵ月ほど新婚生活を送った後、東京・三鷹に転居。1945(昭和20)年4月に再び甲府にある妻の実家に疎開しますが、爆撃のため全焼。妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつき、翌年の11月に三鷹の自宅に戻ります。この時期は中期の安定期と言われ、『駆込み訴へ』(1940)、『新ハムレット』(1941)、『富岳百景』(1943)、『津軽』(1944)、『新釈諸国噺』『お伽草紙』(ともに1945)といった傑作群が生み出されました。おしまい。
 なお太宰は『富嶽百景』の中でこう書いています。
 御坂峠、海抜千三百米メエトル。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。
 井伏氏は、仕事をして居られた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。
 二階の富士山と河口湖を一望できる六畳間に、太宰治が逗留していた部屋が復元されていました。彼が使用していた机・火鉢・徳利・杯や、彼が買い求め花瓶として使った壺なども展示されています。そして「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本や、パネル展示を見学。
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 なお茶屋の前から山道をすこしのぼると、"富士には月見草がよく似合ふ"という碑文の文学碑があります。ふりかえれば、木の葉の間から富嶽が顔をのぞかせています。そうか、太宰は富士の如き作家たちの前と相対峙して微塵もゆるがず、月見草のように健気にすっくと立ちたかったのかもしれませんね。碑陰には「惜しむべき作家太宰治君の碑のために記す」と、井伏鱒二が愛弟子のために捧げた言葉が刻まれていました。
 太宰君は昭和十三年秋 遇々この山上風趣の爽快に接し乃ち峠の草亭に假寓して創作に専念 厳冬に至って坂を下り甲府に僑居を求めて傑作富嶽百景を脱稿した 碑面に刻む筆蹟はその自筆稿本より得た 昭和二十八年秋 井伏鱒二
 彼の存在を抜きにして太宰治について語れることはできないでしょう。1930(昭和5)年に東京帝国大学に入学したときに井伏にはじめて逢い、以後ながく師事しました。金銭感覚のない太宰の世話をし、津軽からの送金も井伏を通して渡されていたそうです。精神病院入院の段取り、小山初代との離別の後始末、天下茶屋滞在や石原美知子との結婚も、すべて彼のはからいなのですね。短い文章ながらも、太宰への哀惜の念が伝わってきます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-30 06:21 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(10):河口湖駅(12.5)

 この頃になると青空がひろがり、駅の向こうには富士の秀麗な姿がくっきりと見えます。ん? 駅の三角破風の角度が富士の稜線と瓜二つ。念の為両者を重ねて撮影すると、どんぴしゃ。なるほどこれを計算に入れた設計なのですね。
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 駅の隣にある観光案内所に入って、富士が映る田んぼのことを訊ねると、心当たりはないとのお答え。残念ですが、訪問は断念せざるを得ません。とりあえず、忍野八海や富士吉田の観光資料をいただきました。さてこれから御坂峠にある天下茶屋へと向かいます。そう、富士見の名所、そして太宰治が逗留した茶屋です。ただそこへと向かうバスは、一日に一本(平日)か三本(土日祝)のみ。帰りのバスも同様なので、公共輸送機関を利用するためには、土日祝日に、河口湖発9:40→10:08天下茶屋11:03→11:30というバスを利用するしかありません。というわけで河口湖駅9:40発のバスに乗りましょう。乗り場には、和気藹藹と語らう山にいちゃん・ねえちゃんたちがいました。そして出発、昨日とはうってかわって河口湖越しにきれいな富士が見えてきます。今だったら天上山からの眺望も最高でしょうね。
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 やがてバスはうんとこどっこいしょと山中の道をのぼっていきます。若者グループが途中下車したのですが、御坂峠付近でハイキングをするのでしょう。二十分ほど走ると、富士の姿が見えてきました。太宰治が『富嶽百景』で描いた有名な場面は、このあたりかもしれません。
 河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布ひふを着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-29 08:42 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(9):精進湖(12.5)

 虫の知らせか、たんなる老化のためか、朝四時半に目が覚めてしまいました。恐る恐るカーテンを開けてみると…富士山だ。薄い雲が空一面を覆っていますが、まごうことなく富士の全貌を眺めることができます。あわてて着替えてカメラを持って屋上へ駆け上がりました。すごい… 精進湖と青木ヶ原樹海、そしてその向こうに悠然と屹立する大室山を抱く「子抱き富士」を、文字通り手に取るように一望できました。金子光晴の詠んだとおり、樹海のふところからとりだした珠、そして明眸のような湖ですね。しばし呆けたように眺め、紫煙をくゆらし、そしておもむろに写真撮影。
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 そうだ、せっかくホテルの自転車を借りられるのだから、早朝サイクリングと洒落込みましょう。清冽な空気を切り裂きながらペダルをこいでいくと、精進湖や富士の眺めが刻々と移り変わっていきます。木々の新緑もじょじょに朝日を浴びて輝きはじめました。
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 四十分ほどで精進湖を一周し、ホテルに戻ってきました。その前にある浜からは逆さ富士が見えるはずなのですが、残念ながら微風で湖面が少々波立っているため拝むことはできませんでした。カメラマンの方々もチャンスを待っていましたがちょっと無理そう。まあいいでしょう。いつの日にか再訪してこのホテルに連泊し、逆さ富士に朝焼け・夕焼けに染まる富士を見て、パノラマ台まで上って眺望を楽しみ、旧上九一色郵便局やオウム真理教サティアンの跡や富士ガリバー王国の廃墟を訪れてみたいものです。
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 美味しい朝食をいただき、館内にある「浜口タカシ写真美術館」を拝見。はじめて知った写真家ですが、美しい富士と、中国残留孤児・成田闘争・安保闘争・阪神大震災などの報道写真が展示してありました。さてそれではお暇しましょう。
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 チェックアウトをすると、大浴場が利用できなかったお詫びとして女将が干しいちじくをくれた。さらに宿の若い衆が、河口湖に用事があるということで、駅前まで同乗させてくれることになりました。こういう人情にふれると、旅の思い出として心に残るというもの。精進マウントホテル、眺望も絶品、接客も満点の素晴らしいホテルでした。また合う日まで、Adios! 車中では彼からいろいろとお話をうかがいました。富士の写真を撮るのが趣味で、今の時期は富士の朝焼けが綺麗だそうです。赤・ピンク・オレンジの朝焼けはよく見られるのですが、紫色に染まるのは希有なことだそうです。その一瞬を撮影するために、酷寒の中、戸外に立ち待ち続けるとか。また逆さ富士は年間半分弱ほど見られるが、完璧な姿は稀だそうです。河口湖近辺で、富士撮影の穴場はありませんかと訊ねると、しばし黙考、そして富士吉田市立病院近くに富士が映る田んぼがあると教えてくれました。それは耳寄り情報、さっそく観光案内所で教えてもらうことにしましょう。そうこうしているうちに河口湖駅に到着、丁重にお礼を言って若い衆とはお別れです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-28 08:13 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(8):旧中道往還(12.5)

 さて、一時間ほどで本栖湖を一周、このあたりで夕食をとることにしました。「本陣」というお店に入って、鹿カレーを所望。野趣あふれる鹿の肉と、スパイシーなカレー、なかなかおいしゅうございました。近くには、ここにも"本栖湖をかこめる山は静かにて烏帽子が岳に富士おろし吹く"という与謝野晶子の歌碑がありました。
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 お土産屋さんで地酒を購入し、精進湖へと戻りましょう。三十分ほどペダルをこぐと湖に到着、今度は東側の道を走ってホテルへと向かうことにしました。U字型の複雑な形をした湖の移り変わりゆく景観を楽しみながら十分ほど走ると、「旧中道往還と居村集落」という案内板がありました。甲斐と駿河を結ぶ古道で、中世には軍用道として、近世には物資流通の道として利用されたそうです。その道沿いに栄えたかつての村の佇まいを残しているようです。それではぶらぶらと散策してみることにしましょう。まずは精進諏訪神社へ、境内にある大杉は根元の周囲12.6m、樹高40mの堂々たる巨躯で周囲を睥睨しています。他にも杉の古木があり、森閑とした鎮守の森の雰囲気をよく残していました。近くにあった「精進小学校旧校舎跡」という記念碑が無情の念を誘います。
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 道の両側に建ち並ぶ集落は、かなり寂れた風情です。江戸時代には、海産物の荷駄賃稼ぎや下駄・天秤棒・鍬の柄・角箸などの細工物を活計としていたそうですが、今はどうされているのでしょうか。
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 そして数分ほどでホテルに到着、部屋に戻って窓から眺めると、富士がおぼろげに見えてきました。大浴場がメンテナンス中ということで部屋の風呂に入り、さきほど買った地酒を呑みながら明日の好天を祈りました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-27 06:18 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(7):本栖湖(12.5)

 さて精進湖から三十分ほどで、金子光晴曰く"無の湖"、本栖湖に到着、湖を一周する道路があるので周囲約13kmを走破しましょう。相も変わらずの曇天、小雨が降ったりやんだりの悪天候ですが、今さら後には引けません。それでも、河口湖・山中湖のような「金落とせ」的な騒々しさもなく、新緑を愛でながら気持のよいサイクリングができました。
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 しばらくペダルをこいでいると、千円札・旧五千円札の富士山撮影ポイントに到着。しかし裾野がぼんやりと視認できるだけでした。ちなみにもとになった写真は、本栖湖から眺める富士をこよなく愛した写真家・故岡田紅陽氏が撮影したものだということでした。
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 近くには"ゴミを捨てるような人には、来ていただきたくありません""ゴミが「いっしょに帰りたいと泣いています"という観光協会の注意書きがありましたが、ラジャー、捨てるようなゴミの持ち合わせはありませんが気をつけます。
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 しばらく走ると、タイガーロープに「渡河訓練実施中 入らないで下さい」という札がぶらさがっていました。なるほど、湖畔では自衛隊の方々が架橋訓練をされていました。すこし走ると今度は「教育支援施設隊宿営地」という看板があり、多くの軍用トラックやテントがありました。
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 自衛隊のことはよくわからないので、インターネットで調べてみると、教育支援施設隊とはいわゆる「工兵」を指すようです。通常の道路、橋梁補修や陣地の構築、はたまた地雷原の埋設から、撤去、橋のない河川への架橋や戦闘工兵として最前線にて進撃通路の啓開までをこなすそうです。3・11の東日本大震災の際には、救助活動等に大いに尽力されたとのこと。心より感謝いたします。しかし、いっそのこと、その災害救助に特化してはどうかとい私は考えております。詳細については、拙ブログの国営国際救助隊「雷鳥」を参照してくだされば幸甚です。あまり報道されてはいない(意図的に?)のですが、自衛隊における自殺・いじめ・体罰・ノイローゼの蔓延という深刻な事態を少しでも改善するためにも必要なことだと思います。それに関して、「すくらむ」という、国家公務員一般労働組合のブログに、たいへん興味深い記事がありましたので、私の文責で要約して紹介します。詳細についてはこちらをご覧ください。
 『東京新聞』(2012.9.27)によると、2003年に始まったイラク戦争で、中東へ部隊派遣された自衛官のうち、先月までに25人が帰国後に自殺していたことが防衛省への取材で分かりました。自衛隊全体の2011年度の自殺者は78人で、自殺率を示す10万人あたり換算で34.2人。イラク特措法で派遣され、帰国後に自殺した隊員を10万人あたりに置き換えると陸自は345.5人で自衛隊全体の10倍、空自は166.7人で5倍になります。一般公務員の1.5倍とただでさえ自殺者が多い自衛隊にあっても極めて高率です。
 イラクから帰還した陸上自衛隊員の自殺率345.5というのは、2011年の日本全体の自殺率24.0と比べると、14.39倍もの高率となる驚くべき数字になっているのです。それは何故か? ジャーナリストの三宅勝久さんは以下のように話されています。以下、引用です。
 私は自衛隊員の自殺問題を取材する中で、自衛隊の現場では人権を無視した残酷ないじめや暴力事件が蔓延していることを知りました。私が自衛隊の取材を始めたきっかけはサラ金の取材でした。今から5年前、私がサラ金問題を取材していたとき、サラ金の多重債務に苦しむ自衛隊員のあまりの多さに驚いたことが自衛隊員の問題を取材するきっかけになったのです。
 国から衣食住が保障されている自衛隊員がなぜサラ金で借金を重ねるのか? 疑問に思った私が取材を進めると今度は自衛隊員の自殺が多いことに気づきました。
 1994年から2008年までの15年間で、1,162人もの自衛隊員が自殺しています。また、2007年度の数字を見ると、暴力事件での懲戒処分80人。わいせつ事件での懲戒処分60人。脱走による免職326人、そのうち半年以上も行方が分からず免職になった自衛隊員は7人。病気で休職している自衛隊員は500人にのぼっています。
 私は『自衛隊という密室――いじめと暴力、腐敗の現場から』(高文研)という書籍の中で紹介しましたが、取材を進める中で自衛隊というのは「暴力の闇」の中にあると感じています。男性の自衛隊員から殴打も含む虐待を受け、声を出すこともできなくなり自殺に追い込まれた女性自衛隊員。異動のはなむけとして15人を相手に格闘訓練と称したリンチを受け亡くなった自衛隊員。先輩の暴行を受け左目を失明した自衛隊員。自衛隊員の自殺の原因に、日常的な上官らのいじめがあったとして遺族が提訴しているケース。守るべき一般市民を自衛隊員が襲った連続強姦事件。上司からセクハラされた上に退職強要を受けた女性自衛官の裁判闘争。自衛隊員へのアンケート結果によると、女性隊員のうち18.7%が性的関係の強要を受け、強姦・暴行および未遂は7.4%にものぼり、自衛隊全体で700人以上が強姦・暴行および未遂の被害を受けているのです。
 また、制服幹部一佐の年収は1,000万円以上、退職金は4,000万円。そして納入業者に役員待遇で再就職。防衛省との契約高15社に在籍しているOBは2006年4月に475人もいて、三菱電機98人、三菱重工62人、日立製作所59人、川崎重工49人などとなっています。2008年度の1年間で、防衛省と取引のある企業に再就職した制服幹部一佐以上は80人。三菱重工と防衛省との年間契約高は2,700億円にのぼっているのです。
 こうしたいじめ、暴力、汚職などが蔓延する職場が自衛隊という密室なのです。そうした職場のストレスから酒やギャンブル、女遊びにはまって借金を作り、身動きがとれなくなる人は後を絶たず、自殺者も続出しているのです。
 なぜ自衛隊という職場にはこれほどのストレスがあるのか。一般論として、まずそれが軍隊という、人を殺すための組織だからでしょう。甘粕正彦曰く、"軍人というものは、人殺しが専門なのです。人を殺すのは、異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです" [『甘粕正彦 乱心の曠野』(佐野眞一 新潮文庫)より] 沖縄のある新聞記者曰く、"だいたい人権意識の強い兵隊って使い物にならないでしょ" [『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 〈下〉』(佐野眞一 集英社文庫)より] 元海兵隊員のアレク・ネルソン曰く、"ベトナムの実際の戦闘では、上官から、殺したベトコンの耳を切り取って、それを勲章として首飾りにしろと教えられました。沖縄に帰れば、女でも酒でも楽しめる、暴行しても逮捕されないとも言われました。こういう洗脳教育で正常な人間の感覚が麻痺していくのです…" [『沖縄に基地はいらない』(岩波ブックレット)より] 洗脳教育によって、正常な人間としての感覚や人権意識を麻痺させ、異常な心理状態に追い込む。
 さらにこれに旧日本軍の伝統をひきずるという独自の事情が加わります。藤原彰氏は、『餓死した英霊たち』(青木書店)の中で次のように述べられています。もともと陸軍が範としたヨーロッパ大陸国の徴兵制の軍隊は、国家によって解放された独立自営の農民=国民の存在を前提としており、自らの財産を守るために戦うという自発的な戦闘意識や愛国心を期待することができました。ところが日本では、守るべき財産のない貧しい小作農が兵士の中心であったため、それらを期待できません。そこで兵士にたいしては、厳しい規律と過酷な懲罰をもって、上級者にたいする絶対的・機械的な服従を強制したのですね。それは同時に、下級者である兵士の人権を著しく侵害することにもなりました。上級への絶対服従、苛酷な規律と懲罰、人権意識の欠如、そういった旧日本軍の病弊がそのまま自衛隊にも脈々と受け継がれているのではないでしょうか。先述の記事によると、2007年度の一年間で、海上幕僚長の行った20回の訓示の中には、「帝国海軍」「海軍兵学校」などという「旧海軍」を讃える発言が15回もあったそうです。
 というわけで、自発的に人を殺せる兵士を育てる組織であるかぎり、この悪弊は払拭できないでしょう。自衛隊から国営国際救助隊「雷鳥」へと転身すれば、それをなくすことができると思います。また世界中の国から掛け値なし/無条件の賞賛と敬意を得ることができ、救助隊員として働くことにやりがいも生まれ、誇りと自信をもって任務に励めるでしょう。隊内における自殺やノイローゼや非公式のいじめ/いやがらせも劇的に減ると思います。また汚職の温床をつくっている軍需企業の糧秣を絶つことができ、汚職も劇的に減少するでしょう。良いアイデアだと思うんですが、いかがですか安倍伍長。
 なおこの問題とオウム真理教の問題には通底するものがあるのではないでしょうか。それは、日本社会において、個人の尊厳や人権が蔑ろにされているということ。昨今、学校でのいじめや体罰が問題・話題になっていますが、学校は社会の縮図です。日本社会全体にいじめ・体罰=人権や尊厳の軽視が蔓延っているかぎり、学校の内部だけでそれらを根絶させることなど無理というもの。穿った見方をすると、学校でのいじめ・体罰をセンセーショナルに取り上げることによって、日本社会の人権軽視を隠蔽しようとしているのではないでしょうか。メディアの皆様方、自衛隊や企業におけるいじめ・体罰も同時に報道しなければ、それは片手落ちというのものです。
by sabasaba13 | 2013-09-26 06:18 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(6):本栖湖(12.5)

 荷物を置いて、フロントで自転車をお借りして、本栖湖一周へと出発。ホテルの前には、"秋の雨精進の船の上を打ち富士ほのぼのと浮かぶ空かな"という、与謝野晶子の歌碑がありました。今、インターネットで調べたところによると、1932(昭和7)年10月に、彼女は富士の裾野に遊び、精進湖に一泊しているそうです。精進湖の西側を半周し国道139号線に出て、一路本栖湖をめざします。ゆるやかなアップダウンはあるものの大きな障害とはなりませんが、行き来する車が多いので慎重にペダルをこぎました。ん? 急ブレーキをかけて自転車を停め、信号に表示されている文字に息を呑みました。「上九一色中学校入口」
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 そうか、迂闊にも気づかなかったのですが、このあたりが、オウム真理教のサティアンがあったかつての上九一色村だったのか。(現甲府市および富士河口湖町) 1995年の地下鉄サリン事件から、もう十数年たったのですね。世間の耳目を狂熱的に集めながらも、静かに風化していったオウム真理教という教団、それを単なる狂信的集団として切りすて忘れるのではなく、日本社会が抱える闇の一部として考える必要が今こそあるのではないでしょうか。例えば、村上春樹氏は『雑文集』(新潮社)所収の「東京の地下のブラック・マジック」の中でこう述べられています。
 いずれにせよ後世の歴史家が第二次世界大戦後の日本の歴史をたどろうとするとき、1995年という年は重要な里程標になるかもしれない。それは日本という国家が、大きく激しくその航跡を転換させた年だった。とはいっても、誰か特定の個人にその転換の責任があるわけではない。デ・キリコの絵の中に出てくるような、顔と名前を持たないミステリアスな誰かが、誰でもない誰かが、薄暗い操舵室で静かに舵を切ったのだ。(p.189)

 問題は、社会のメイン・システムに対して「ノー」と呼ぶ人々を受け入れることのできる活力のあるサブ・システムが、日本の社会に選択肢として存在しなかったことにある。それが現代日本社会の抱えた不幸であり、悲劇であるかもしれない。このようなサブ・システムの欠落状況が根本的に解決されない限り、似たような犯罪が再び起こされる可能性は十分にある。オウム真理教団を潰せばそれで解決するような単純な問題ではないのだ。(p.202)

 彼らは物語というものの成り立ち方を十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。しかしオウム真理教に惹かれた人々には、その大事な一線をうまくあぶりだすことができなかったようだ。つまりフィクションが本来的に発揮する作用に対する免疫性を身につけていなかったと言っていいかもしれない。(p.204)
 またガバン・マコーマック氏は『空虚な楽園 戦後日本の再検討』(みすず書房)の中でこう言われています。
 オウム真理教は、イニシエーション、浄化、秘密伝授の儀式、個人の意思・知性を企業目的に同化・従属させようとするマインド・コントロールの手法において、ハイテク企業の組織に酷似している。(p.92)
 この二つの意見を敷衍して私なりにまとめると、こうなります。メイン・システム(例えば利潤追求を至上目的とする大企業)においては、マインド・コントロールによって個人をその集団に同化・従属させる。そのシステムから弾き出された個人は孤立・分散化して、反社会的なフィクションに惹かれていく。その両者ともに、「オウム真理教的なるもの」を含んでいる。稚拙な考えかもしれませんが、この問題にはこだわり続けていきたいと思います。
by sabasaba13 | 2013-09-25 06:17 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(5):河口湖(12.5)

 そしてレストハウス「ふなつ」で昼食、おざら定食をいただきました。山梨名物のほうとうを、暖かい味噌つゆにつけて食べるというものでなかなかおいしゅうございました。
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 せっかくなのですぐ近くにある船着き場から遊覧船に乗りましょう。乗客は私一人、おまけに富士も見えなくなってしまいました。
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 ちょっとブルーな気持ちなりつつも、気をとりなおして河口湖新倉掘抜史跡館へと参りましょう。江戸時代、富士山のふもとの新倉村(富士吉田市)は溶岩流の上にあり「水無し村」といわれ、河口湖はたびたび増水による水害に悩まされていました。そこで、河口湖から新倉村まで山を掘り抜いて水を流そうとしたのが、延長約3.8kmにおよぶ日本最長の手掘りのトンネル、河口湖・新倉掘抜(あらくらほりぬき)です。幾多の困難を村人の努力と熱意で克服し、1866(慶応2)年にようやく完成しました。その工事の模様や道具、資料を展示しているのがこちらの史跡館です。興味深く拝見していると、係の方が掘抜へと案内してくれました。鑿の跡が生々しい手掘りの隧道を数十m歩きましたが、先人たちの労苦を肌で感じることができました。
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 そしてホテルへ戻り荷物を受け取り、バス停まで迎えにきてもらうため、今夜お世話になる精進マウントホテルに電話を入れ、バスの出発時刻を連絡。河口湖駅前から、13:35発の富士駅行きバスに乗りました。やがて密生した原生林を眺めることができますが、ここも青木ヶ原の樹海なのですね。14:03、バス停「精進湖入口」に到着、宿の方が車で待っていてくれました。丁重にお礼を言って車に乗り込むと、精進湖の西岸を数分走ると精進マウントホテルに到着です。周囲約5km、富士五湖で一番小さい湖ですが、ここからは、青木ヶ原樹海の緑の中に大室山を抱いて屹立する日本一美しい富士の姿を眺められるそうです。し、か、し、雨はやんだものの、厚い雲に覆われほとんど見えません。い、け、ず。己の不徳を恥じるしかないですね、とりあえずチェックインをして部屋へと行きました。窓からは精進湖と青木ヶ原樹海、そして大室山を抱く「子抱き富士」が一望できる(はずの)絶好のロケーション。天候の回復を祈るのみです。なお風呂場にも大きな窓があり、湯につかりながら富士を眺められる趣向になっていました。
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by sabasaba13 | 2013-09-24 06:25 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(4):河口湖・西湖(12.5)

 それでは、金子光晴曰く"額ぶち風な河口湖"めぐりに出発。さて、肝心の富士ですが、薄曇りの中、かろうじて視認することができます。途中で富士を象ったガードレールを見かけました。大石公園は逆さ富士が見えるビュー・ポイントですが、三脚をセットして待つカメラマンも手持無沙汰のようです。
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 一時間ほどで河口湖を半周、西端から西湖へと向かいますが途中からかなりきつい上り坂となりました。満を持して電動自転車のスイッチをオン、すいすいすいとのぼっていきましたが後一息のところでもうバッテリー切れ。まあこれは想定内、自転車からおりて押すことにしましょう。十数分で西湖の東岸に到着、河口湖とはうってかわって静謐な雰囲気です。金子光晴曰く"嫉みふかそうな、秘めやかな西湖"。湖に沿って北岸の道をひた走ると十数分で西岸に到着、ここからの富士の眺めも素晴らしいですね…晴れていれば。手前の鬱蒼とした森林が青木ヶ原樹海でしょうか。
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 そして南側は樹海の間を抜けていく道です。自転車をとめてちょっと樹海の中に入ってみましたが、人間を峻拒するように密生する木々に恐れをなしてすぐに退散。途中には「西湖蝙蝠穴」もありました。
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 そして再び湖岸に沿った道となり、周囲の山々を映す鏡のような湖面をパノラマで撮影。
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 ラジコンの水上飛行機を操作して楽しむ方々もいました。
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 下り坂を河口湖へと一気におり、南岸の道を走って四十分ほどでロイヤルホテルに到着。丁重にお礼を言って自転車を返却し、徒歩でカチカチ山ロープウェイへと向かいました。終着の天上山展望台は、河口湖の全景や、富士山の裾野まで見渡せる絶景のビュー・ポイントだそうです。今日の天気では望み薄ですが、だめでもともと、上ってみることにしました。なお太宰治の小説「カチカチ山」(「お伽草紙」収録)の冒頭に"これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行はれた事件であるといふ"とあるところから、カチカチ山ロープウェイと名付けられたそうです。
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 3分ほどで天上山=カチカチ山山頂に到着、標高1,075メートルの展望台からはかろうじて河口湖の全景が見えますが、富士は薄雲の中、おまけに小雨まで降り始めました。視界がクリアだったら素晴らしい景観でしょうね、再訪を期したいと思います。麓へおりる途中に太宰の文学碑があるということなので、歩いて下山することにしました。おっあったあった。「カチカチ山」の最後で、溺れる狸が兎に投げかける哀切きわまりない言葉、「惚れたが悪いか」と刻んであります。天気が良ければ背後に富嶽を眺めることができるのですが、狸の涙雨でしょうか。
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 本日の三枚、上の二枚が河口湖、下の一枚が西湖です。
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by sabasaba13 | 2013-09-18 06:21 | 中部 | Comments(0)

富士五湖編(3):河口湖(12.5)

 朝、目覚めてカーテンをあけると、おおっ、昨日よりはクリアに富士を眺めることができました。もしやこれから雲がどんどん消えてピーカンになるのでは、と大日本帝国陸軍のように自己中心的な妄想にかられましたが、いやいやいやいや気を引き締めていきましょう。チェックアウトをして荷物をフロントに預け、駅前で野外展示されている富士急行の古い車両「モ1号」を撮影。そして貸し自転車を探しに船津浜へと歩いていきます。さすがは河口湖、信号を支える支柱にも富士が乗っかっております。
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 宿・食堂・お土産屋が櫛比する船津浜に十分ほどで着きましたが…貸し自転車屋が見つかりません。おかしいなあ、ないはずはないんだけどなあ、右往左往しながら湖岸を西へと歩いていきましたがなおも見当たりません。「富士五湖自転車一周」という野望もここで瓦解か、と諦めかけた時、地獄に仏、「レンタサイクル (電動アシスト自転車) 河口湖温泉ロイヤルホテル」という立て看板を発見。天網恢恢疎にして漏らさず、やはり天は日頃の所行を見ていてくださるのだなあと自惚れながらホテルで電動自転車を拝借しました。それでは時計の針と逆方向で河口湖を半周し、西湖まで足をのばして一周し、また戻って河口湖を半周いたしましょう。なお経験則からいって電動自転車の電池はまったくあてにできません。平地では使用せず、西湖へ行く坂道の最後の局面で使うことにしました。ホテルの近くで「平和憲法を改悪して戦争が出来る国にする事に反対する。」という憲法9条を守る会の看板を発見。同感、異議なし。軍需企業からの政治献金目当ての政治家や、天下り先目当ての防衛省幹部のために、戦争に巻き込まれるなんて真っ平御免。それほど戦争がしたいのだったら、フリッツ・ホルムが提案した「戦争絶滅受合法案」をまず成立させてください、安倍伍長。
 戦争が開始されたら、10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。
 第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。
 その先には「不審者発見すぐ通報!! 町内一斉放送します」という看板。"瓜田に履を納れず李下に冠を正さず"、気をつけましょう。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-17 06:16 | 中部 | Comments(2)

富士五湖編(2):山中湖(12.5)

 なお金子光晴は富士五湖を詩に詠んでいたのですね。はじめて知りました。
『五つの湖』

五つの湖が
ふじをめぐる
山中湖は鶺鴒
霧の中のかるい尾羽
額ぶち風な河口湖
樹海のふところからとりだした珠
明眸の精進よ
嫉みふかそうな、秘めやかな西湖
そして、無の湖、本栖湖よ
五つの湖が富士をみあげる
緒が切れて
裾野にこぼれた五つの珠
五つの湖がしぐれると
ふじはもう、姿が見えない
移り気なふじよ
雲烟にかくれまわり
梅雨っぽい五つの遊戯をする
五つの湖を、めぐりあるくふじは
どの鏡にもいてどれにも止まらない
 途中で洒落たトイレ表示を撮影。
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 ワカサギ釣り屋形船の顔はめ看板も見かけました。のんびりとペダルをこいで、一時間ほどで一周。自転車を返却して、旭日丘バスターミナルからバスに乗って河口湖へと向かいます。三十分ほどで富士急行河口湖駅に到着、駅前のビジネスホテルでチェックインをして夕食を食べにでかけました。駅の向こうには富士がぼんやりと浮かんでいますが、明日はどうなることやら。宿の隣りにあった食堂でわかさぎ定食をいただきました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-09-16 08:02 | 中部 | Comments(0)