<   2013年 10月 ( 30 )   > この月の画像一覧

房総編(11):佐倉市立美術館(12.7)

 さてそれでは佐倉城址公園へと向かいましょう。廃城にされたため建物は残っていませんが、水堀・土塁・曲輪などが良好な状態で保存され、関東で唯一「日本百名城」に選定されているそうです。
c0051620_6153128.jpg

 その一画には、城主にして幕府老中の堀田正睦と、タフな交渉相手タウンゼント・ハリスの銅像が並んで建っていました。その近くで「常盤木や冬されまさる城の跡」という正岡子規の句碑を発見。解説板によると、子規が佐倉に来たのは既に病魔に蝕まれていた26歳位の時で、当時、本所から佐倉間に開通したばかりの総武鉄道に初乗りして訪れ、この句を詠んだそうです。佐倉ゆかりの画家・浅井忠と親交があったので、その縁で訪れたのかもしれません。
c0051620_6155386.jpg

 本丸跡には、県指定天然記念物の夫婦モッコクがありました。なお佐倉連隊の兵士が刻んだ「昭和十八年十月」「砲隊」という落書きがあるそうですが、視認できませんでした。さらにペダルをこぐと、「明治 大正 昭和 平成の四世に亘る 佐倉醫のこころ 茲に遺す 仁の心を腎に」という記念碑がありました。ここには、戦前には陸軍病院、戦後は佐倉療養所・病院があったのですね。
c0051620_6161390.jpg

 やがて彼方に国立歴史民俗博物館が見えてきましたが、こちらは何度も訪れているので割愛。自由広場の奥には、「佐倉兵営跡」という今村均揮毫の碑がありました。
c0051620_616334.jpg

それでは佐倉市立美術館へとまいりましょう。古い商家・町家・蔵が散見される町並みを走り抜けると、旧川崎銀行佐倉支店の建物をエントランス・ホールとして利用した美術館に到着です。
c0051620_6165818.jpg

 こちらでいたく感銘を受けたのは、20世紀を代表する椅子の名品が随所に置かれ自由に座れることです。香川県高松市牟礼にあるジョージ・ナカシマ記念館を訪れて椅子の奥深さに開眼、もっと素晴らしい椅子について知りたいなと思っていた矢先でしたので、わたりに舟です。解説に記してあったコンセプトは、「佐倉市立美術館の中には、ニューヨーク近代美術館で永久展示になっている椅子と同じものがあります。20世紀を代表する椅子の座り心地を試してみませんか?」 試さんでか! 後学のため、解説を転記しておきます。

アルネ・ヤコブセン 「エッグ・チェア」(1958~59)
ヤコブセンは、デンマークの建築家・家具デザイナーです。彼はコペンハーゲンのスカンジナビア航空ロイヤル・ホテルを設計した際に、この椅子をはじめとする彫刻的な家具調度品から照明、灰皿、食卓刃物類に至るまで、あらゆるものをデザインしました。体をすっぽりと包み込むようなこの椅子は、卵を思わせるその形態から「エッグ」と名付けられました。
c0051620_6172358.jpg


ジャンドメニコ・ベロッティ 「スパゲッティ」(1967)
イタリア生まれのベロッティは16歳で彫刻を学んだ後、公共住宅等の建築の仕事を始めました。彼は、建築や復元などの理論的な研究に加え、都市計画やインダストリアルデザインの分野でも活躍しています。この椅子は、軽量なスチール・パイプとスパゲッティのような柔らかなPVC(ビニールのコード)で構成されています。
c0051620_6174840.jpg


ミース・ファン・デル・ローエ 「バルセロナ・チェア」(1929)
ミース・ファン・デル・ローエは、ドイツ生まれの建築家です。代表作であるこの椅子のデザインは、1929年にスペイン・バルセロナ世界博覧会のドイツ館(ローエ設計)で発表されました。湾曲した平鋼をX状に交差させてクッションを支えており、溶接技術の進歩により可能となった優美で品位のあるデザインです。
c0051620_6181467.jpg


アルネ・ヤコブセン 「ダイニング・チェア」(1955)
ヤコブセンは、スカンジナビアの家具デザインの近代化に重要な役割を果たしました。1951年から'52年に製作された椅子は、くびれたウエストラインと細い脚の形態から「蟻(アント・チェア)」と呼ばれました。その椅子の後継モデルであるこの椅子は「セブン・チェア(Series 7)」とも呼ばれ、7枚の薄板と2枚の仕上げ板の積層合板を背と板に曲げたうえに、体を包み込むように3次元にも曲げられています。
カラーバリエーションが豊富で「バタフライ・チェア」の愛称もあります。
c0051620_6183958.jpg


ミース・ファン・デル・ローエ 「カウチ(258-M)」(1931)
ミース・ファン・デル・ローエが、最後のバウハウス校長として勤めていた頃の作品です。取り外し可能な肘当てを幅2メートル程のゆったりとした皮革のクッションで構成されています。
c0051620_61979.jpg


ハリー・ベルトイア 「スモール・ダイヤモンド・チェア」(1957)
ベルトイアはイタリア生まれの彫刻家です。代表作であるこの椅子はスチール・ワイヤーを網状に溶接して有機的なシェル型に作られています。向こう側の見えるデザインは、家具の形態と概念を一新させたベルトイアの造形意識が反映されています。
c0051620_6193950.jpg


ヘーリット・トーマス・リートフェルト 「ジグ・ザグ」(1934)
リートフェルトは「椅子は複雑であってはならない」と語っています。たった四枚の板で構成されたこの作品は、「椅子」という家具の要素を極限まで切りつめています。それぞれの板は、組継ぎによって接合され、隈木によって補強されているだけですが、以外にも頑丈です。この「椅子」の本質を問うかのような大胆なデザインは、のちのデザイナーに大きな影響を与えました。
c0051620_619599.jpg


ル・コルビュジエ  ピエール・ジャンヌレ  シャルロット・ペリアン
「スリング・チェア」(1928)

ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレ、シャルロット・ペリアンが共同で設計した一連のLCシリーズは、一般にコルビュジエの椅子として知られています。そのひとつ、この椅子はスチール・パイプと仔牛の毛皮張りで構成されており、背の角度が姿勢に応じて自由にリクライニングするため「バスキュラント・チェア(仏語 Basculant Chair)」(上下に動く椅子)とも呼ばれます。
c0051620_6204547.jpg


ヘーリット・トーマス・リートフェルト 「レッド・アンド・ブルー」(1918)
リートフェルトはオランダの代表的なデザイナー・建築家です。組木によって構成された幾何学的で単純なかたち、赤、青、黄の三原色を用いたカラーリングには、彼が参加していた「デ・ステイル」運動や画家モンドリアンの影響が見られます。一見、機能的とは思えない構造ですが、いざ腰掛けてみるとその座り心地の快適さには驚かされます。そこには彼の「形態は機能性を具現化したものであるべきだ」という信念が生きているのです。
c0051620_622175.jpg


ル・コルビュジエ  ピエール・ジャンヌレ  シャルロット・ペリアン
「グランコンフォール(LC-3)」(1928)

スイス生れの建築家コルビュジエは、20世紀の世界的な巨匠です。彼と従弟のシャルロット・ペリアンが共同でデザインした椅子です。グランコンフォールは大いなる快適という意。その言葉を体感できるこの椅子では、垂直と水平が意識され、華奢なフレームとボリューム感のあるクッションによって構成されています。昨日性を重視したところから生れてくる形態の美しさを求めるコルビジエの建築とも通じるものがあります。
c0051620_622378.jpg


 もちろん、とっかえひっかえ全ての椅子に座りました。そしてあらためて椅子の有する奥深さを体感することができました。座り心地とフォルム・色の美を高い次元で融合させた名品の数々。私が一番気に入ったのは、ヘーリット・トーマス・リートフェルトの「レッド・アンド・ブルー」。その立体的抽象絵画のようなユニークな形態、色の対比の面白さもさることながら、解説の通り座り心地の良さには驚きました。快適でありながらも頭と心を麻痺させず、思考を優しく刺激するとでもいうのかしら。ぜひ我が家にも一つ欲しいものです…が…インターネットで調べたら価格は346,500円(税込)… やれやれ、見果てぬ夢のようです。なおこの美術館の一階にあるレストラン、「カフェ・ブォナ・ジョルナータ」はお薦めです。洒落た室内装飾と調度品、大きな窓によるオープンな雰囲気もさることながら、パニーニ、ヴィシソワーズ、サラダ、ゼリーに珈琲がついたワンプレートランチはたいへん美味しゅうございました。
c0051620_623080.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-31 06:23 | 関東 | Comments(0)

房総編(10):佐倉(12.7)

 朝目覚めてカーテンを開けると、空はどんよりとした曇天。雨の心配はなさそうなので諒としましょう。まずは佐倉へと向かいます。木更津駅から内房線に乗ること約40分で千葉駅着、総武本線に乗り換えて20分ほどで佐倉駅に着きました。駅に附属した観光案内所で「歴博への道」という観光パンフレットをいただきましたが、これがなかなかの優れもの。かなり正確なイラスト地図と玄人好みの物件が記載されており、重宝しました。そして自転車を借り、いざ出発。その前にスーパーニッポニカ(小学館)から引用して、佐倉について紹介いたしましょう。
 千葉県北部、下総台地北部と印旛沼の低地に広がる市。鎌倉時代、千葉氏の一族臼井氏が印旛沼を見下ろす高台に城を構えて一帯を支配したが、その衰退後は馬加(まくわり)氏が現在の酒々井(しすい)町本佐倉の将門山に居城した。江戸時代には幕府の江戸防衛の拠点とされ、1610年(慶長15)土井利勝によって佐倉城が築かれた。その後多くの大名の転封が続いたが、1746年(延享3)の堀田正亮入封後は幕末まで堀田氏11万石の房総最大の城下町として、また佐倉街道の宿場町としても栄えた。幕末には蘭学者佐藤泰然が順天堂と称する塾を開いて西洋医学による教育と医療を行い全国に知られた。明治以後は城跡に陸軍の兵営が置かれ、明治末には歩兵57連隊となったが、1983年(昭和58)その地に明治百年記念事業の一環として、歴史・考古・民俗資料を展示し、調査研究を進める国立歴史民俗博物館が開館した。
 自転車にまたがって駅前の彫刻通りを疾走すると…キーッ。なまめかしくフィットしたミニのワンピースの裾をおさえる少女の像がありました。作品名は「風のいたずら」、おじさんは嬉しいぞ。
c0051620_6204961.jpg

 佐倉の城下町は台地上にあるので、緑におおわれた風情のある薬師坂をのぼっていきます。途中で息が切れ、自転車を押して登攀。のぼりきったところを左に曲がると、そこが武家屋敷通りです。関東では最大級の武家屋敷群で、佐倉に残る武家屋敷のうち五棟がここにあります。緑なす生垣も美しく、たいへん気持のよい通りでした。
c0051620_6211886.jpg

 そのうち三棟(旧河原家・旧但馬家・旧武居家)が公開されているので、内部を見学。
c0051620_6213852.jpg

 旧河原家と旧但馬家の間にあるのが暗闇坂、なるほど坂の両側に樹木が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い雰囲気です。武家屋敷の反対側には、「児玉源太郎旧居跡」という表示がありました。ここにはかつて佐倉連隊長の借家があり、日露戦争遂行の立役者、児玉源太郎が1880~85(明治13~18)年に住んでいたそうです。その先には、西村茂樹の書斎、修静居跡の碑がありました。明治時代に活躍した官僚・思想家で、明六社の創立に関わり、明治天皇の侍講を務めた方ですね。ひよどり坂は、竹林に囲まれた古色あふれる小路で往時の面影を色濃く残します。
c0051620_6215882.jpg


 本日の三枚、二枚目が暗闇坂、三枚目がひよどり坂です。
c0051620_6222012.jpg

c0051620_622431.jpg

c0051620_623240.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-30 06:23 | 関東 | Comments(0)

房総編(9):木更津(12.7)

 16:26に木更津駅に到着。昨日、観光案内所でいただいた「ぶらり木更津まち歩き」を片手に、さあ木更津の散策開始です。まずは「志保沢園」、1948(昭和23)年創業の老舗お茶屋さんです。「茶道具」という看板がいいですね、この地域の文化の息吹を感じます。その近くにあるのが1935(昭和10)年に建てられた木造平屋の「内山洋服店」、前面の壁に焼夷弾の破片がめりこんだ痕跡があるそうですが確認できませんでした。
c0051620_6185244.jpg

 選擇寺(せんちゃくじ)の本堂は、1930(昭和5)年に建立された鉄筋コンクリートの建造物で、国指定の登録有形文化財に指定されています。関東大震災で被害を受けた本堂を、伝統的な木造建築の仏堂形態を正確にコンクリートで再現したことが評価されたそうです。このお寺さんには、与三郎の相棒、こうもり安の墓もあります。
c0051620_6191450.jpg

 小林一茶はたびたびここ木更津を訪れたそうで、その隣にある末寺の東崖寺にある大藤のもとで句会を開いたそうです。その時に詠んだ「藤棚やうしろ明りの草の花」という句が石碑に刻まれています。木更津第一小学校の校庭にある藤がそれなのでしょうか。
c0051620_6193466.jpg

 桔梗屋斎田薬局は、外見からは想像もできませんが、1881(明治14)年に建てられた建物だそうです。山田眼科医院は、洒落た洋館が並んでいますが、左の下見板張り・白ペンキ塗りの洋館は1928(昭和3)年に、右の半円アーチの窓枠が印象的な洋館は1937(昭和12)年に建てられました。そして港の方へ歩いていくと、昨日訪れた日本一高い歩道橋を遠望することができました。
c0051620_6195552.jpg

 江戸後期に奉納された石灯籠を撮影して、ヤマニ綱島商店へ。創業1866年という蔵造りの重厚な商家です。
c0051620_6201629.jpg

 昭和初期の雰囲気を残すという森田家でコロッケを食べようとしたのですが、残念ながら「当分の間休業」という貼り紙がありました。
c0051620_6203693.jpg

 安室薬品は1929(昭和4)年竣工、上部に半円形の装飾、両脇にピラスター(付け柱)のある縦長窓が並ぶ、洒落た意匠が心に残りました。人参湯は入母屋屋根に二重の千鳥破風が風格を醸し出す、現役営業中の銭湯です。
c0051620_621392.jpg

 映画館・木更津東映は廃業したのでしょうか、傾いたH型の煙突がもののあはれを誘います。金沢美容室は昭和初期に建てられた、ソリッドな意匠の看板建築。
c0051620_6212812.jpg

 その近くには、千葉県に唯一残るという見番がありました。江戸時代から房総の玄関口として栄えたここ木更津では、「木更津芸者」と呼ばれる芸妓が生まれ育ちました。この芸妓と宴席との取次や代金の精算をする事務所、および稽古場が見番です。その先には、鋸山から切り出した房州石で造られた護岸跡が残っていました。明治まではこのあたりは海だったそうです。
c0051620_6214845.jpg

 證誠寺(しょうじょうじ)は、有名な狸囃子伝説の舞台。夜な夜なお寺の境内にたくさんの狸があらわれ腹を打ちながら踊っていたのですが、とうとうお腹を叩き破って死んでしまったそうです。それを憐れんで和尚さんがたてたのが「狸塚」。その伝説を題材に野口雨情(作詞)と中山晋平(作曲)によってつくられた「証城寺の狸ばやし」の記念碑もありました。
c0051620_6221218.jpg

 1920(大正9)年に建てられた旧山崎医院を撮影し、成就寺でフェイス・ハンティングをし、木更津駅に帰着。うん、なかなか楽しい街歩きでした。
c0051620_6223440.jpg

 夕食はインターネットで調べておいた「カフカ」というお店でガーリック・チャーハンをたべようとしましたが、18:30より貸し切りとのこと。現時刻は17:40なので何とかならないかとお願いしたら、すげなく断られました。お店の名前の由来も知りたかったのですが残念。その前にあった開花屋で千葉県マーガレットポーク厚切りステークをいただきました。そしてホテルに戻って明日の旅程を確認。布佐の近くにある赤松宗旦旧居・柳田国男記念公苑・旧布川小学校、市川駅の近くにある郭沫若記念館も候補にあげていたのですが、今回は佐倉をじっくりと彷徨して、京成バラ園で「恋人の聖地」を撮影することにしました。
c0051620_623118.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_6231893.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-29 06:24 | 関東 | Comments(0)

房総編(8):鋸山(12.7)

 まずは、1966(昭和41)年にかつての石切場跡に、世界戦争戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のためにつくられた百尺観音へ。このあたりは切り出した鑿の跡も生々しく苔生した石の壁が垂直にそそり立ち、異次元のような雰囲気です。はるか上を見上げると、でっぱった石の上には手摺りがついています。あれが噂の地獄のぞきですね。
c0051620_614519.jpg

 来た道を戻り、長い石段をのぼりきると、そこが地獄のぞき。高い所はあまり気にならないので、さっそくよじのぼり手摺りのある先端部まで行ってみました。おおこれは絶景だ。海、港、町、山なみを手に取るように一望でき、下をのぞけば先程見た百尺観音のあたりです。視界がクリアでないのが返す返すも残念ですが、素晴らしい眺望を満喫することができました。
c0051620_6151442.jpg

 そして不動滝、護摩窟を拝見しながら、石段や坂道をだらだらと下りていくと、大仏へと向かう参道に到着。まだ紫陽花がきれいに咲き誇っていました。
c0051620_6154263.jpg

 そして日本最大の大仏、薬師瑠璃光如来とご対面。何でも、世界平和・万世太平を祈願し、1783(天明3)年に大野甚五郎英令が27人の門徒と共に3年かけて岩山を彫刻した石仏が原型で、その後1966(昭和41)年に修復されたとのこと。さてそれではロープウェー駅へと戻りましょう。石段や坂道をだらだらと上り、千五百羅漢道を抜けて三十分ほど歩くと駅が見えてきました。
c0051620_616937.jpg

 内房線は一時間にほぼ一本しか走っていないので、五分後に出発するあのロープウェーに乗らないと、ちょいと厄介なことになります。んが、駅を眼前にしてへたりこむほどの疲労感が全身を包み、膝ががくがくと笑いはじめました。おかしいなあ、健脚だと自負していたのだがなあ。さっきお賽銭をあげなかったので仏罰があたったのか、たんに寄る年波のせいなのか。手摺りにつかまりながら駅へとたどりつき、かろうじてロープウェーに乗り込むことができました。ゴンドラの椅子にへたりこんで疲労回復を待ち、山麓駅からよたよたと歩き15:47発の列車に予定通り間に合うことができました。なお浜金谷駅から南へ一つ目の保田駅近くには、菱川師宣の墓がある別願院、彼の生誕地、そして徒歩二十分のところに菱川師宣記念館があるのですが、今回は木更津散策を優先しました。

 本日の四枚です。
c0051620_6163064.jpg

c0051620_6165156.jpg

c0051620_6171059.jpg

c0051620_6173074.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-28 06:18 | 関東 | Comments(0)

房総編(7):東京湾フェリー(12.7)

 駅のすぐ近くにあった「竹岡系ご当地ラーメン」と謳う「ちゃちゃまる」というお店に入りましたが、竹岡ラーメンとは何ぞや。お店の方に訊ねると、「房総半島2大ご当地ラーメン 勝浦タンタンメン 竹岡ラーメン」という記事のある情報誌を見せてくれました。それによると、発祥は千葉県富津市竹岡にあるラーメン店「梅乃家」と「鈴屋」。この二店のラーメンを模倣したのが竹岡ラーメンだそうです。その特徴はスープで、しっかりと肉のうま味を含ませた醤油ダレに麺茹でに使用した湯(または何も入れず沸かした湯)を入れるのみ。これで見た目は濃いがまろやかな味のスープとなるとのこと。ふむふむ。おっいよいよご来臨、まずは噂のスープを口に含むと…なるほど見た目ほどくどくはなく、いいお味でした。
c0051620_7395921.jpg

 一気呵成にたいらげ、駅のとなりにある珈琲チェーン店で、食後のコーヒーをいただきました。異様に広い喫煙スペースが印象的。紫煙をくゆらしながら観光パンフレットを眺めていると、木更津駅の敷地内に放射状の線路と円形が記されています。これはもしや…転車台! 表敬訪問したいところですが、近づけそうにありません。こうなったら乾坤一擲、動態視力にはまったく自信はないのですが、走り行く列車の車窓から撮影しましょう。12:45発の内房線列車に乗り、カメラを構えてドアのところで仁王立ち。ばしゃ。うーん、辛うじて写真におさめることができましたが、転車台根岸の里の侘び住まいそれにつけても腕のにぶさよ、ですね。
c0051620_7402048.jpg

 列車は東京湾を右にしてひた走り、13:19に浜金谷駅に着きました。ここから歩いて十分ほどのところに東京湾フェリー乗り場があり、その駐車場の海沿いに「恋人の聖地」モニュメントがありました。おそらく夕日や夜景がきれいなのでしょうね。鐘が吊り下げられていたので、こやつをカランコロンカランカランコロンと鳴らせば…どこかで鬼太郎の下駄の音がするのかな。
c0051620_7404525.jpg

 そして南の方へ十五分ほど歩くと鋸山ロープウェー乗り場、さっそく乗り込みました。残念なことに天空は厚い雲に覆われ、視界もよくありません。それでも雄大な山容や魁偉な巨岩、後ろを振り向けば東京湾と金谷港を愉しむことができました。そしてこの鋸山の南側斜面10万坪余りを境内としているのが日本寺、約1300年前に聖武天皇の勅詔を受けて行基によって開かれた関東最古の勅願所だそうです。せっかくなので、百尺観音、日本最大の大仏、そして何より地獄のぞきを見物しにまいりましょう。
c0051620_741998.jpg


 本日の四枚です。
c0051620_7413223.jpg

c0051620_7415180.jpg

c0051620_7421142.jpg

c0051620_7423110.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-27 07:44 | 関東 | Comments(0)

房総編(6):久留里(12.7)

 もう一つの展示が、噂の「上総掘り」に関するものでした。解説板から引用しますと、"「上総掘り」は、竹ヒゴ・掘鉄管・削り屑を取る「スイコ」の組み合わせによる井戸の掘削技術で、明治時代の中頃に君津地方で開発されました。…竹ヒゴと簡単な鉄製部品を使い、少ない人力で深く掘削できるため、水不足に悩む東南アジアやアフリカの地域でも、その技術が生かされて"いるということです。足場のミニチュア模型なども展示してありました。いま、世界で、水が足りないためにいったいどれくらいの人々が死に直面していることか。ジャン・ジグレール氏は、『私物化される世界』(阪急コミュニケーションズ)の中でこう言っておられます。"人類史上初めて、私たちは過剰な財を享受している。地球はその財貨の重みに耐えかねて、ほとんどくずれおれんばかりだ。供給可能な財は人類の生存に必要な量を1000倍も上回っている。しかし、死体の山も増え続ける。開発の遅れを象徴する黙示録の四人の騎士の名は、飢え、渇き、疫病、戦争である。このために、六年間の第二次世界大戦の大殺戮を上回る数の男女、子どもたちが毎年死ぬ。第三世界のひとびとにとってはまさに「第三次世界大戦」が進行中なのだ。(p.12~3)" ハイテク機器や技術で水を供給しても、結局はグローバル企業が修理やメンテナンスで荒稼ぎをするだけです。それよりも、現地で入手できる材料と人力で井戸を掘れる、上総掘りのようなローテクの方がどれほど人の命を救えることか。推測ですが、江戸時代はこうしたローテクの宝庫だと思います。そういう意味でもこの時代を見直す必要は多々あるのではないでしょうか。
c0051620_6202969.jpg

 さてそろそろ列車がやってくる時刻です。せっかくここまで来たのですから、久留里線の終着駅、上総亀山駅まで行ってみることにしました。入線した列車に乗り込み、車窓から流れゆく風景を眺めていると人家や田畑もなくなりだんだん山がちとなってきました。新緑や清流を愛でていると二十分ほどで到着。駅には「上総亀山駅は、平成24年3月16日をもちまして無人駅とさせていただきます」という悲しい知らせが貼ってありました。ベンチには「久留里線輸送力を促進する会」と記されていましたが、どういうことなのでしょう??? そしてとんぼ返りで木更津行きの列車に乗り、11:44に到着。これから昼食を食べて浜金谷へ移動し、「恋人の聖地」と鋸山を見物する予定です。
c0051620_6205394.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_6211873.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-26 06:22 | 関東 | Comments(0)

房総編(5):久留里(12.7)

 久留里商店街のゲートには、久留里城の櫓がどんと乗っかっていました。線路と並行する商店街には、ところどころで古い商家を見かけます。
c0051620_6264550.jpg

 また井戸水を汲める場所がいくつかあり、解説板には"城下町として栄えた久留里のまちで昔から生活に密着してきた「生きた水・久留里」は、上総掘りの自噴井戸による地下水です"と記されていました。上総掘り? はじめて耳にしますが、このあたりで行なわれていた井戸掘り技術なのでしょうか。
c0051620_62774.jpg

 初見の交通安全足型透かしブロックを撮影し、ある金物屋の店頭をふと見ると、売っていたのが「小動物捕獲器 税込¥8505」という大きな金網製の籠。畑を荒らす猪を捕獲するにはちょいとやわそうだし、野鼠をつかまえるには大げさすぎるし、イタチ? 穴熊? 妄想はふくらみますが、ご教示を乞う。
c0051620_6272861.jpg

 駅前に戻ると、細長い建物に抉られたような洞穴のような「みゆき通り商店街」を見つけました。恐る恐る入ってみると、すべてシャッターが閉まっています。ここにある「喜楽飯店」を紹介する雑誌記事が貼ってありましたが残念ながら開店は11:00、炒飯ハンターの私としては後ろ髪を引かれますがいたしかたありません。
c0051620_6275029.jpg

 列車がくるまでまだ時間があるので、すぐ近くにある石造の「久留里観光交流センター」に立ち寄ってみました。こちらで展示・解説されていたのが黒文字楊枝。これもはじめて知ったのですが、黒文字というクスノキ科の香木で作った、香りが良く形の美しい楊枝のことだそうです。その黒文字の産地であるここ久留里では、江戸時代に武士や町人の内職としてさかんに作られましたが、昭和40年代以降は機械で大量生産されるようになり、その技術が廃れてしまいました。そこで地元住民が職人から伝統技術を学び、黒文字楊枝を復活させたとのこと。その楊枝が展示されていましたが、目を瞠ったのがその意匠です。伝統的なものだと思いますが、煙管、鶴、白魚、鰻、太刀、櫂、鉄砲などなど、よくぞまあ楊枝にこれだけの遊び心を込められたものだと感嘆いたしました。金をかけず、他者を傷つけず、環境を壊さず、人生をすこしでも面白いものにしようと努めた江戸時代の人々。われわれが学ぶべき点はまだまだたくさんありそうです。
c0051620_6281448.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_6283313.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-25 06:29 | 関東 | Comments(0)

房総編(4):久留里(12.7)

 本日はまず久留里線に乗って、久留里散策へとまいります。木更津駅の久留里線ホームに行くと、おおっ、まるで島田勘兵衛のような風格のある車両が停車していました。これが鉄ちゃん・鉄子さんの間で噂の、1960年代に製造され、ツートンカラーの国鉄色が復刻されたキハ30ですね。これはわずか3両しかなく、久留里線はおおむね一時間に一本しか運行されていないことを勘案すると、これはかなりの幸運と見た。鉄道の神さま、ありがと。なおインターネットで調べたところによると、この久留里線は、戦前に千葉県が道路事情の悪さをカバーするため、県内各地に建設した軽便鉄道で、1923年に国へ無償譲渡され、鉄道省の久留里線となりました。当時の木更津中学陸上部の生徒が競争して勝ったとか、自転車に抜かれたとか、かなりのんびりした路線だったようです。戦後は京葉工業地帯の通勤客が増えたとはいえ閑散線区の域を出なかったのですが、幸いに将来性が認められて国鉄諮問委員会による赤字ローカル線廃止勧告を免れたとのこと。御慶。7:23 に木更津駅を出発、やがて列車はのどかな田園地帯をのてのてと走り抜け、7:54に下郡駅に到着。ここで途中下車して、旧下郡郵便局を見学に行きました。白鷺が舞い飛ぶ田んぼを眺めながら、用意した地図を頼りに十数分歩くと到着です。
c0051620_6143131.jpg

 竣工は1935(昭和10)年、木造平屋建で、寄棟造の瓦葺屋根。ペンキ塗下見板張の外壁と縦長の窓が洒落た雰囲気をかもしだしています。当時としてはモダンな建物だったのでしょうね。
c0051620_6145424.jpg

 写真を撮影し下郡駅へと戻ると、8:51発の列車(たぶんキハ37)がやってきました。乗り込むと車内は閑散としており、ある学生などは長椅子に寝ころび熟睡のようす。やれやれ、"神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し"と呟きたいところですが、日本も世界も今、奈落を覗いているところなんですよ、学生さん。
c0051620_6151656.jpg

 そして9:04に久留里に到着。古武士のような佇まいのキハ30が停車していました。駅構内には「フラッシュ撮影はご遠慮ください」というポスター、ま、そりゃそうだよね、運転手さんの目が眩みます。
c0051620_6163786.jpg

 それでは小一時間ほど久留里の街を徘徊することにしましょう。なおスーパーニッポニカ(小学館)より、久留里についての解説を引用します。
 小櫃(おびつ)川中流に位置する商業中心地。戦国時代、里見義堯(よしたか)が築いた山城の久留里城があり、雨城ともよばれていた。伝統工芸の黒文字の木を使った雨城楊枝がいまに伝えられている。近世には3万石の大須賀氏、土屋氏、黒田氏と続き、流域の農村を後背地とした市場町でもあった。

 本日の三枚です。
c0051620_6165660.jpg

c0051620_6172189.jpg

c0051620_6174446.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-24 06:18 | 関東 | Comments(0)

房総編(3):木更津(12.7)

 そして内房線に乗ること四十分ほどで木更津駅に着きました。とるものもとりあえず駅前にあった観光案内所で地図や資料を所望。こちらでいただいた「ぶらり木更津まち歩き」は、レトロな商家や民家を紹介している秀逸な観光パンフレット。今日は時間がないので、明日はこれを参考に木更津の街歩きをすることにしましょう。
c0051620_6191068.jpg

 富士見通りを海に向かって二十分ほど歩くと、木更津港にかかる中の島大橋に到着。こちらは高さ27メートル・長さが236メートルという日本一高い歩道橋で、夕暮れ時には富士山を背景にロマンティックな雰囲気に包まれることから、「恋人の聖地」に選定されています。橋のたもとには、タヌキのカップル像が設置されていました。
c0051620_6193034.jpg

 ジグザグになったスロープをのぼっていくと、まるで空中に浮かんでいるような歩道橋に到着。中央まで歩いていくと、東京湾・木更津港の茫漠とした風景を一望できます。ここにも金網があり数多の「愛の南京錠」がかけられていました。なお、この橋はテレビドラマ&映画「木更津キャッツアイ」のロケ地となり、若い男女がおんぶして渡ると恋が叶うというストーリーから「赤い橋の伝説」が生まれたそうです。
c0051620_6194958.jpg

 駅に戻る途中の「活き活き亭」には車えびの顔はめ看板がありました。「證誠寺たぬきばやし保存会」という看板の脇には、楽器を奏でる陶製のたぬきたちが設置してあります。
c0051620_6201437.jpg

 パンフレットを読むと、月夜の晩に和尚さんとおはやしの競争をして、ついには腹の皮が破れて死んでしまった大狸の伝説が伝えられる證誠寺が近くにあるのですね。群馬県館林市茂林寺の「分福茶釜」、愛媛県松山市の「八百八狸物語」と並んで、日本三大狸伝説のひとつだそうです。♪しょ、しょ、証城寺、証城寺の庭は…♪ではじまる「証城寺の狸ばやし」は、この地を訪れた詩人・野口雨情が、狸ばやし伝説をもとに作詩し、中山晋平が曲を付けて発表した童謡です。駅近くの光明寺には、歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」でお馴染みの切られ与三郎の墓がありました。与三郎のモデルとなったのは、山武郡増穂村(現大網白里町)の紺屋の次男・大吉で木更津の紺屋で働いていた職人。のちに長唄の太夫・四代目芳村伊三郎を襲名。舞台で看板にしていた体の傷跡が八代目団十郎の目にとまり、その来歴をもとにして、鶴屋南北の門下・三世瀬川如皐が狂言に書き下ろしたそうです。
c0051620_6203594.jpg

 五平町通りをぶらぶら歩いていると、旧金田屋洋品店や紙類・鰹節・銘茶・砂糖を商いする「はまだや」など、異形の物件を見つけました。これは明日の散策が楽しみです。
c0051620_6205748.jpg

 さてそれでは夕食をいただきましょう。パンフレットで当たりをつけた「ラケルモカ」という洋食屋でオムライスとハンバーグ定食を堪能、なかなか美味しゅうございました。そして駅の東側にあるビジネス・ホテルに投宿。
c0051620_6211698.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_6213663.jpg

c0051620_6215629.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-23 06:22 | 関東 | Comments(0)

房総編(2):千葉ポートタワー(12.7)

 たまたま近くにバス停があったので、しばらく待った後、千葉駅行きのバスに乗り込みました。そして駅前から「千葉みなとループバス」に乗って「千葉中央警察署」で下車、ここから歩いて数分でガラス張りのオベリスクのような千葉ポートタワーに到着です。高さ125.2m、千葉県の人口が500万人を突破したことを記念して1986(昭和61)年にオープンした展望施設だそうです。入館料410円は高いなあとぶつぶつ言いながらエレベーターに乗って展望階へ。ここからは千葉港や東京湾、千葉市街を一望することができます。ぽーとくんが持つ風船の顔はめ看板を撮影して、階段で「愛のプロムナード」へとおりました。
c0051620_1430717.jpg

 はい、ここが「恋人の聖地」です。どうやら夜景が綺麗だというので選ばれたようです。お決まりの「愛の南京錠」がいくつか金網にかかっていましたが、「恋の街ローマで、恋人達が愛を誓い合いミルヴィオ橋に南京錠をかけたこと」がその由来なのですね、知りませんでした。なお何故"南京錠"と言うのか、気になってウィキペディアで調べてみると、"近世において、外国由来のものや、珍しいものや小さいものが「南京」を冠して呼ばれたことに由来する"ということでした。"南京虫"もそういう類の言葉なのでしょうか。
c0051620_14302437.jpg

 千葉都市モノレール「千葉みなと」駅に向かって歩いていると、歩道のど真ん中にがふんぞりかえっていました。駅の近くでは紫陽花が見頃をむかえています。
c0051620_14304183.jpg

 モノレールに乗って千葉駅でおりて駅構内にある全国チェーンの喫茶店で軽食と珈琲をいただき、改札口へ向かうと、駐輪禁止を呼びかける仰々しい掲示がありました。後学のため転記します。
 "あなたの心に訴えます" あなたは、ここに自転車をとめて置くことはいけないことだと知っています。しかしひそかに置いて行く人がいます。人は誰でも良心を持ち合わせています。みつめ直してください。大切な自分を! 千葉駅長
 駅前駐輪にこれだけの能書きをたれるよりも、きちんとした駐輪場を整備してほしいものです。まるで自転車に乗るのを抑制し、経済成長のために自動車を買わせて乗らせようとしているのではないかと邪推してしまいます。
c0051620_14305962.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_14311545.jpg

c0051620_1431336.jpg

by sabasaba13 | 2013-10-22 14:32 | 関東 | Comments(0)