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メサイア

c0051620_814295.jpg 12月23日、山ノ神と一緒にヘンデルの『メサイア』を聴いてきました。場所はサントリーホール、鈴木雅明の指揮によるバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏です。生で聴いてみたいものだと以前から思っていたのですが、やっと願いが叶いました。なおシュテファン・ツヴァイクに、『人類の星の時間』(みすず書房)という傑作があります。ナポレオン、レーニン、ゲーテ、ドストエフスキーといった歴史的人物の人生における、いや世界の歴史における決定的な瞬間となった一日を描いためっぽう面白い本ですが、その中にヘンデルも登場します。「ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルの復活 1741年8月21日」という一編ですが、当時の彼は脳溢血による右半身不随と奇跡的復活、しかし女王の崩御による上演の中止やオーストリア継承戦争の勃発、異常な寒さや聴衆の無理解といった不運やトラブルに襲われ、借金と絶望の深淵に落とされます。そしてこの日、かつて一緒に仕事をした詩人ジンネンスから送られてきた新作の詩が彼を奮い立たせ、ほぼ不眠不休で作曲に打ち込みわずか24日間で『メサイア』として結実するわけです。その詩をヘンデルが呼んだ瞬間を引用しましょう。
 最初の句を読んで彼はハッと愕いた。Comfort ye-台本はこの言葉で始まっていた。「慰めあれ!」この言葉は不可思議な力を持っていた-いや、もはや言葉ではなかった。それは神から与えられた答であった。悲嘆に荒れた彼の心へ、運命をみちびく天の奥から呼びかけた天使の叫びだった。「慰めあれ!」-何たるひびきだったろう。何とこの言葉は! そしてこの言葉を読み、その意味を深く感じるやいなや、ヘンデルにはそれが音楽となって聴こえた。それは音となって漂い、呼び、ざわめき、歌った。おお、この幸福よ、扉は急に開け放たれた。彼は感じた、彼は聴いた、ふたたび音楽を通じて! (p.106)
 その奇跡とも言える曲に包まれるのを楽しみに、騒音に満ちた師走の赤坂をホールへと向かいました。開演は午後三時、厳粛な序曲の後、ヘンデルに神が与えた答、"Comfort ye"という言葉がテノールによって紡ぎ出されて、キリストの誕生から受難、復活、救いの完成までを3時間かけて辿っていく『メサイア』のはじまりです。第一部は救世主到来の預言と誕生を描きます。私の大好きな「私達のために一人の嬰児が生まれた」をはじめ、愛と喜びにあふれた名曲が目白押し。なお舞台に搭乗した独唱者が男性三人・女性一人だったのでちょっと怪訝に思っていましたが、なんてことはない、カウンター・テナー(ダニエル・テイラー氏)がアルトのかわりだったのですね。生で聴くのははじめてだったのですが、その艶やかな歌声にはすっかり魅了されました。
 ここで二十分間の休憩がはいります。そして第二部は救世主の受難と復活、そして福音が広まっていく様子が描かれます。弦楽器によって執拗に刻まれる付点音符のリズムは、救世主が鞭で打たれる情景を暗示しているのですね、解説で知りました。最後をしめくくるのがハレルヤ・コーラス。バルブのないナチュラル・トランペットをはじめて聴きましたが、たいへん難しそうですね。そして第三部は復活した救世主への賛歌です。最後を飾るのはアーメン・コーラス。ツヴァイク曰く、"今やヘンデルは、このたった二つの音綴(シラブル)からできている短い語(Amen)をつかんで、それを天にまで届く音の段階建築に建て上げようと思った"。(p.112) まさしく音の大伽藍に身も心も包まれ、言い様のない充実感とともに幕は閉じられました。アンコールは指揮者のご子息である鈴木優人氏編曲の讃美歌「あめにはさかえ」、合唱の美しい響きにうっとり。人間の声ってほんとうに素晴らしい楽器なのだとあらためて痛感しました。
 鈴木雅明氏の指揮もバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏・合唱も、けっして大言壮語はしませんが、すんなりと音楽に入り込むことができる真摯かつ誠実なものでした。機会を見つけてまた聴きにきたいと思います。

 アイルランド旅行の際に、『メサイア』が初演された聖パトリック大聖堂を訪れたことを二人で思い出しながら、"金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい"という救世主の言葉などどこふく風と、ブランド品や広告が渦巻く赤坂の街を足早に歩きぬけ家路につきました。
by sabasaba13 | 2013-12-31 08:15 | 音楽 | Comments(0)

イタリア編(43):ペルージャ(12.8)

 おおインフォメーションがありました。さっそく山ノ神に英語で通訳してもらい、バスの時刻表を所望しバス・ターミナルへの行き方を教えてもらいました。ペルージャでは三泊する予定で、一日行動ができる二日間をどう使うかが思案のしどころです。アッシジ(Assisi)訪問は確定として、あと一日の訪問先は中世の面影を色濃く残す町グッビオ(Gubbio)、眺望の良いオルヴィエート(Orvieto)、丘の上の町トーディ(Todi)などが候補です。インフォメーションの女性はグッビオとトーディを薦めてくれたので、以上三ヶ所へ行くバスの時刻表をいただきました。そして町の中心、第一次世界大戦の戦勝を記念して名づけられた11月4日広場へ。中央には大噴水(Fontana Maggiore)、それを取り囲むように大聖堂とプリオーリ宮(Palazzo dei Priori)が建っています。
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 時刻は午後七時、一日の仕事や勉学を終えた人々が夕涼みがてらそこかしこで談笑しているのを見ていると…ぶるぶる…ん?…ぶるぶる…手が震えてきたぞ。これは…禁断症状だ。そういえば昨日も今日もジェラートを食べておりませぬ。♪ど、お、に、も、と、ま、ら、な、い♪などと歌っている場合ではありませぬ。さっそく近くにあったお店に入って、私はジェラートを、禁断症状から脱したらしき山ノ神はグレープフルーツのジュースを注文。ombra(日陰)となったプリオーリ宮の石段に坐って、広場を行き来する人を眺めならいただきました。それにしても犬を連れた方が多いですね、すぐ下の段でも大きな黒犬が気持ちよさそうにsiestaをしています。プリオーリ宮の核となった豪華な集会所、「公証人の間」を覗いてみましたが中には入れず、とりあえず入口から写真を撮りました。
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 目抜き通りのヴァンヌッチ通りを歩いていくと、焼きとうもろこしを売っている屋台がありました。そろそろお腹がへってきたなあ、そろそろホテルへ戻って夕食をとることにしますか。
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 県庁の先にあるカルドゥッチ公園からは、素晴らしい眺望が楽しめます。夕日に赤く染まった街並み、緑と丘陵と山々、しばし時を忘れて見惚れてしまいました。
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 そうそう、石橋を叩いて渡る、明日のためにバス・ターミナルの場所を確認しておきましょう。県庁の西側にあるエスカレーターを下っていくと、すぐ正面にありました。これで大丈夫、ホテルに戻って、フロントの方に近くのレストランを教えてもらうことにしましょう。先程とは違う方がフロントにいて、片言の英語で懇切丁寧に教えてくれました。おまけに予約を入れてくれた上、料金15%引きの割引券までくれました。Grazie mille! パウロさん。
 ホテルから歩いて数分のところにあるLOCANDA DO LAZZIという小さなレストランに入店、腰の低いご主人にお薦めの料理を出してもらうことにしました。まずは地ワインに咽喉鼓を打ち、シーフードのスパゲティ、たらこのラヴィオリ、そして豚肉のステーキを堪能。いずれも美味でしたが、特に豚肉は感動ものでした。柔らかくジューシーな肉と玄妙なソースのコラボレーション。私も山ノ神も、今回の旅行で一番美味しかった料理だと追憶いたします。料金もリーズナブル、ご主人と奥さんにお礼を言ってホテルに戻ると、パウロさんがまだいらっしゃいました。
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 「どうだった?」「美味しかった!」「そうだろそうだろ」というような感じのやり取りをして、部屋へ。窓を開けると、もう陽は落ちて夜の帳がペルージャとウンブリアを包み込んでいます。一献傾けながら夜景を愉しみ就寝。おっといちおう、持参したタニタのストップウォッチ兼目覚まし時計をセットしておきましょう。あれ? ごそごそ ない。紛失。こりゃあフィレンツェのホテルに置き忘れたな。諦めて山ノ神に話すと、「もったいない!」と一喝されました。明日、ホテル・アルバーニに電話してあげるという有難いお言葉、忝い。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-30 08:09 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(42):ペルージャ(12.8)

 駅前で客待ちをしているタクシーに乗って、ホテルまで行くことにしましょう。運転者さんは若い方でたいへんフレンドリーで、山ノ神と楽しげに会話をしてくれました。十分ほどで旧市街にあるホテル・シーニャ(SIGNA)に到着。細い路地のどんつきに入口がありましたが、どことなく貧相な素っ気ない外観です。やれやれ外したかな、でも今更仕方がない、内装はそれほど悪くはないので諒としましょう。フロントでチェックインをして部屋へと案内されました。狭い部屋でおまけにダブルベッド、やれやれ鼾で迷惑かけますが御免ねと心の中で山ノ神に詫びつつ窓を開けると…
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 すっごおおおおおおおおおい!!! 眼前を遮るものは何もなく、ペルージャの街並み、そしてウンブリアの平野・山岳・丘陵を眺望できます。信じ難いほどの広大な景観、ダンテだったら"読者よ、汝いまわがいふことをたやすく信じえずともあやしむにたらず、まのあたりみし我すらもなほうけいるゝこと難ければ(『神曲』 地獄第二十五曲)"と言うのだろうなあ。破顔一笑、二人でハイタッチをしてこのホテルに泊まれた喜びを分かち合いました。
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 まだ明るいし、インフォメーションにも寄ってバスの時刻表も手に入れておきたいし、旧市街をぶらついてみることにしました。ペルージャ(Perugia)は、ウンブリア州の州都にして、中世自治都市としての長い歴史をもつ古都です。また国立の外国人大学もあり、さまざまな国籍の若者が行き交う国際的な町でもあります。そうそう中田英寿が所属していたサッカー・チームがペルージャでした。町を歩いていると地元の方がおおぜい集まってきてわれわれを抱きしめながら、"Giappone! Nakata! Amico!"と歓待されるのかなと身構えていましたが、そんなことはまったくありませんでした。ま、当然ですが。古い街並みやサン・ドメニコ教会を眺めながらカヴール通りを散策し、噂のペルージャ・サンタンナ駅に寄ってみました。丘の上につくられた町だけにそこいらじゅう坂道だらけなのですが、駅へと向かう路地にはエスカレーターが設置してありました。人影もない小さな駅舎の中に入って時刻表を確認すると、やはりローカル線の終着駅でした。
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 そしてサンタクローチェの辻を抜けて中心部へと向かいますが、古い建物が密集して建ち並ぶ狭い路地や坂道がメロンの皺のようにうねり、まるで迷宮です。土地勘と方向感覚と地図の見方には多少の自信がありますが、ペルージャの前には無力、道を間違えて遠回りになってしまいました。
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 やっとのことでイタリア広場に辿り着きましたが、iの場所がわかりません。ガイドブックの地図を手に右往左往していると、通りすがりの地元の中年女性が近づいてきて、想像を絶するほどの早口と大声で一所懸命に教えてくれました。もちろん一言も理解できなかったのですが、しきりに指差す方角にあるのだなと判断し、丁重にお礼を述べました。Grazie mille! ミラノでもそうでしたが、ほんとうに皆さん、旅人に優しいのですね。最近読んだ『世界史の構造』(岩波書店)の中で、柄谷行人氏はこう述べられています。
 たとえば、ヨーロッパの場合、教会が国家の中で定着するにつれて、教会法がそれまでのゲルマン法やローマ法に由来する世俗法の影響を受けて形成された。教会法は、弱者(貧者、病人、孤児、寡婦、旅人)の保護、刑罰の人道化、裁判の合理化、私闘(フェーデ)の抑圧と平和の確保(神の平和、神の休戦)などの点で、世俗法に大きな影響を及ぼした。(p.225)
 もしかすると教会法の影響が今日まで残っているのかもしれません。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-29 07:31 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(41):ペルージャへ(12.8)

 さてそろそろペルージャへと向かうため駅に戻りましょう。列車の発車時刻まですこし時間があるので、中央市場を経由して歩いてホテルに行くことにしました。てくてくと歩いていると、道に迷ったらしいフランス人家族から中央市場への道を訊ねられました。それでは御一緒に、と市場まで同行。われわれ二人、こうして海外旅行をしていると、道を訊ねられたり写真撮影を頼まれたりすることがよくあります。人畜無害に見えるためでしょうか、きっといいことですね。掏摸が狙わず、他者が頼み事をしたくなるような服装・物腰を心がけていますが、一応功を奏しているようです。さて中に入りましょう。見知らぬ土地へ行くと、その地の日常を知るためにできうる限り市場に寄るようにしています。食肉や鮮魚、チーズ、ワイン、オリーブオイル、パスタなどを売るお店を興味深く拝見。ミラノ大聖堂やピサの斜塔などイタリア名所をかたどったパスタには思わず緩頬してしまいました。それにしてもイタリアの方はよく喋ること喋ること。売り手と買い手の丁々発止のやりとりを見ているだけで幸せな気分になってきます。日本のコンビニエンス・ストアでの沈黙交易を見たら唖然とするだろうなあ。
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 そしてホテル・アルバーニに到着、預けておいた荷物を受け取り丁重にお礼を言ってフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅へと行きました。自転車マークのついた車両を見ると、ああヨーロッパにいるのだなあと実感します。売店でサンドイッチを購入し、14:12発の列車に乗り込みました。Arrivederci, Firenze! なおこれは後の祭りなのですが、『あしたはアルプスを歩こう』(角田光代 講談社文庫)によると、フィレンツェには18世紀末に作られた多数の人体解剖蝋人形を所蔵・展示するラ・スペーコラ(La Specola)美術館というユニークな美術館があるそうです。見たいような見たくないような…もし再訪できたらその時に判断しましょう。
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 サンドイッチをぱくつきながら車窓を流れゆく風景を楽しんでいると、大地を黄色く染め上げるひまわり畑を発見。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ひまわり』を思い出すなあ。
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 そしてトラズィメーノ湖が見えてくると、そこはウンブリア州です。人呼んで「イタリアの緑のハート」、半島の中央に位置し、山岳と丘陵と緑と古い町にあふれた魅力的な地方です。今夜の宿泊地ペルージャには16:19に到着の予定、そろそろ降りる準備をしましょう。念の為JTBでもらった宿の地図と『地球の歩き方』で再確認、ペルージャ・サンタンナ駅で降りて数分のところにホテルがあります。しかしこの駅は行き止まりのターミナル駅のはず、列車が停まろうとしているペルージャ駅にはその気配がありません。あわてて昨日撮影した時刻表をディスプレイで確認すると、「Perugia 16:19→Perugia P.S.G. 16:29」とありました。ガイドブックの地図をもう一度よく見ると、ある道路に「ペルージャ駅へ 900m」と表記してあります。もしや…ペルージャ・サンタンナ駅は違う路線で、この列車は停まらない! あわてて荷物をかつぎ下車、その直後にぷしゅーとドアが閉まりました。やれやれ間に合った。

 本日の一枚です。Buon appetito !
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by sabasaba13 | 2013-12-28 08:07 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(40):捨て子養育院美術館(12.8)

 そして退場、シニョリーア広場で大道芸人を撮影し、ドゥオーモへと向かいます。時刻は午前十二時すこし前、さすがにたくさんの観光客で賑わっていました。
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 そういえば洗礼堂の中は見たことがありません。後学のため入場してみると、円柱と角柱が周囲を取り巻くように並び、クーポラは金地のビザンチン風モザイクで埋めつくされています。
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 そして円蓋への入場を待つ長い行列ができているドゥオーモの脇を通り抜け、再びサンティッシマ・アンヌンツィアータ広場へ向かいました。
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 お目当ては、ヨーロッパ最初の孤児院にして、ブルネレスキが設計した捨て子養育院美術館です。半円形のアーチを細い円柱で受けとめ、アーチの直径と円柱の高さを同じにするという単純明快な構成が軽やかで清々しい印象をかもしだしています。アーチの面にはめこまれた青いメダイヨンには布に巻かれた幼子がデザインされていますが、これはアンドレア・デッラ・ロッビアの作品。なお柱廊の左奥には、身元を明かさずに子どもを預けることができる回転扉が残されていました。
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 中に入ると柱廊に囲まれた瀟洒な中庭があり、建物の二階が美術館になっています。ボッティチェッリの最初の作品『聖母子と天使』や、手書きの写本や楽譜、孤児院を写した古い写真などが展示されていました。
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 そしてサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会へ。ファッチャータ(建物前面)を飾る柱廊が印象的ですが、これは16世紀のものだそうです。中へ入ると、かつてたくさんの誓願の札がかかっていたという「誓いの回廊」を抜けると、荘厳なゴシック空間が現われます。町の人々の信仰を集める教会で、多くの方々が祈りを捧げていました。
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 外へ出て“COMUNE”と記されているマンホールの蓋を撮影し、サン・マルコ広場へ行くと、噴水のオンブラ(日陰)に鳩たちが群がって休んでいました。湿度が低いのであまり苦にはなりませんが、やはり日射しは強烈、気温も30度を優に超えているでしょう。
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 サン・マルコ修道院に併設されている美術館へと入りましたが、お目当てはフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)。『受胎告知』をはじめとする、純真な信仰を静謐な筆致で描いた傑作を心ゆくまで楽しむことができました。残念ながらこちらも写真撮影は禁止です。なおフラ・アンジェリコというのは渾名で、「天使のような僧」という意味だそうです。ルネサンス人は人に渾名をつけるのが好きで、マザッチョは「デブ公」という意味、ボッティチェリは「小樽」という意味だとか。
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 このサン・マルコ修道院でもう一つ忘れてならないのは、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロと出会ったのがここの庭だったことです。1489年のある日、ロレンツォ・デ・メディチがサン・マルコ修道院の庭園を散歩していました。そこには彼が蒐集した古代の彫刻が集めてあり、修道院の庭なのに誰もがメディチ庭園と呼んでいたそうです。ロレンツォはそこで一人の少年に出会います。十四、五歳のその子は、老いた牧神の頭像の模刻に熱中していました。ドナテッロ死後沈滞している彫刻の分野を振興すべく、若い彫刻家を育成しようと考えていたロレンツォは、すぐにその少年の並外れた才能と素質を見抜きます。彼は少年に近づき、声をかけ、作品を手にとって見ました。見事な出来栄えでしたが、「豪華な人」は、フィレンツェ人特有の諧謔と批評精神で驚嘆を包むことを忘れませんでした。「ふうむ、君がこの老牧神を彫ったのだな。なかなかのものだ、でも歯が全部揃っているね。こんな老人にはそれではおかしいんじゃないか。」 思わぬ欠点を指摘された少年は恥と怒りで真っ赤になり、異相の紳士は微笑みながら立ち去っていきました。翌日、再びサン・マルコ修道院に散歩に来たロレンツォを待ちかまえていた昨日の少年が、手直しした牧神頭像を見せます。歯は何本も欠けて、しかも根から抜けたように歯茎に穴まであけてありました。「豪華な人」は少年がむきになって歯に細工している姿を思い浮かべて哄笑しましたが、すっかりこの子が気に入ってしまい、またこの子が将来フィレンツェ美術界を担うであろうことを確信して、自分の屋敷に住まわせてちゃんとした教育を与えようと考えます。「君のお父さんはえどういう人だね。そして君の名は?」 「ミケランジェロ・ブオナルローティ」と少年は名乗りました。以上、『物語イタリアの歴史』(p.185~6)の抜粋ですが、同書によると(p.188)、この"豪華な人" ロレンツォ・デ・メディチに心服しなかった人間が、二人いたそうです。一人は若き天才レオナルド・ダ・ヴィンチ、もう一人が1491年にサン・マルコ修道院長となるジロラモ・サヴォナローラ。宗教改革の志を秘めたサヴォナローラはフェラーラからやってきて公然とメディチ支配に叛旗を翻し、世俗文化の遊惰な風潮に大聖堂の講壇から痛撃を加え、信奉者を増やしてメディチ家を追放することになりました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-27 07:19 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(39):ウッフィツィ美術館(12.8)

 この部屋で絵に気をとられていた山ノ神が幼子にぶつかりました。彼女が咄嗟に日本語で「ごめんね」と言ったところ、すぐにお姉さんらしき少女が妹らしきその幼子に「この人はパルドンと言ったのよ、あなたもパルドンと言いなさい」と(たぶんフランス語で)諭しました。すると彼女ははにかみながらも小声で「パルドン」。みんなで微笑みを交わして別れましたが、ダンテ曰く"信と純とはたゞ童児の中にあるのみ、頬に鬚の生ひざるさきにいづれも逃ぐ"(『神曲』 天堂第二十七曲)。こういう子どもに出会うと、人類の未来に燭光が見えてきます。
 ナポリ王を知恵と弁舌によって従わせたロレンツォ・デ・メディチを讃えたボッティチェッリの『ケンタウロスを鎮めるパラス女神』、コジモ・デ・メディチの強い意志力と、統御された欲望と、冷酷な非情さを見事に描いたポントルモの『祖国の父コジモ』も心に残りました。この寛大なる文化の庇護者について、ジャック・アタリが『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)の中で、次のように述べていました。
 聖職者たちは文化や知識や真理にあこがれ、ヨーロッパの経済の中心でも政治の中心でもないが傑出した都市、メディチ家のフィレンツェを中心とする当時のまさに国際的な《ネットワーク》の中にまとまる。一世紀前に詩の領域で道を切り開いたペトラルカとボッカチオにつづいて、新しい思想の鍵となる概念を創出した人たち-マルシリオ・フィチーノ、ルイジ・ブルチ、アンジェロ・ポリツィアーノ、ピーコ・デラ・ミランドラ-は、フィレンツェで、教会の掟は-少なくとも表面的には-尊重するにしても、自由な知識に魅力を感じ、教会の哲学とは無関係な独自の哲学を作り上げることに関心を持った寛大な庇護者たちを見いだす。
 だからすべてはフィレンツェで、まさに1462年に始まる。その年にこの都市を支配する財閥の長で最大の会社を所有するコジモ・デ・メディチは、プラトンの全著作をラテン語に翻訳する事業に出資することを決める。(p.73)
 そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』、ミケランジェロの『聖家族』、ラファエロの『ひわの聖母』などなど、名だたる名作群を堪能。ある一室では、ギベルティ、ブルネレスキ、ドナテッロの彫刻がそろいぶみ。なお申し遅れましたが館内は写真撮影禁止、前回は撮れたのになあ。アルノ川に面した廊下の窓からは、水面にくっきりとその姿を映すヴェッキオ橋とヴァザーリの回廊が見えました。二時間ほど鑑賞したでしょうか、さすがに足が棒のようになったので館内にあるカフェで一休み。テラス席に座ってアイスコーヒーを飲んでいると、小鳥が臆せずにテーブルにやってきたので撮影。なおここからは背の高い手すりにはばまれてドゥオーモの円蓋とジョットの鐘楼の上部しか見えません。手すり保存のためなのか、ロープが張ってあり近づけないようになっています。きっと素晴らしい眺めだろうに、残念でした。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-26 07:43 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(38):ウッフィツィ美術館(12.8)

 時刻は午前八時半すこし前、そろそろ予約しておいたウッフィツィ美術館の入館時間です。美術館の前にある事務所でチケットを受け取り、入口へ。もうすでに長い行列ができていましたが、私たちはすぐに入ることができました。転ばぬ先の杖、やはり予約をしておいて正解でした。
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 もともとはトスカーナ大公コシモ1世の治下、フィレンツェの諸官庁(イタリア語でウッフィツィ)を統合するために建てられたもので、設計はジョルジョ・バザーリ、1584年に完成しました。やがて分散していたメディチ家代々の美術品をここに収蔵することになり、メディチ家最後の相続者より、一般に公開することを条件に1737年トスカーナ大公国に寄贈され、1861年イタリア統一王国成立後は国家管理となった次第です。言わずと知れたルネサンス芸術の宝庫、以前に来館した時は団体旅行ゆえ駆け足で引きずりまわされたのですが、今回はじっくりと拝見いたしましょう。まずはボッティチェッリの『春』と『ヴィーナスの誕生』、やはりこれを見なくては始まりません。時刻が早いためか展示室の人影はまばら、心ゆくまで清新なこの二作品を楽しむことができました。それにしても後者におけるヴィーナスの、痛々しげにさえ見える愁いの表情は何故なのでしょう。これについては会田雄次氏が、『世界の歴史7 近代への序曲』(中公文庫)の中で的確に教示してくれています。
 カトリック信仰と不信心のあいだをさまよう典型の一人にボッティチェリ(1444‐1510)がある。…ところで読者は、このヴィーナスが、ギリシアのヴィーナスとちがって何か痛々しいような、その裸体を見るとき、見てはならないようなものを見ているというような感じを持たれないだろうか。じつはこの点が、古典時代とルネサンスとの、人間の肉体の表現上たいへん差異のあるところなのだ。キリスト教は肉欲を罪とし、肉体を悪魔の棲家だと教えた。ギリシアやローマの世界にはこの意識はない。ギリシアの神々やニンフたちは、アルカディアの野に天真爛漫に全裸でたわむれている。彼女たちが人目をはばかって胸や前をかくすしぐさをするのは、ただ恥かしいからである。ヴィーナスの彫刻などでは、その動作がかえって女体をなまめかしくさせ男心を誘う。
 しかしボッティチェリのヴィーナスは、もうそのようなヴィーナスではない。太陽を知らぬその青白い膚は、キリスト教が薄ぐらい部屋の奥に一千年間とじこめておいた若い女性のものである。自分の肉体が罪だということをいやというほど教えこまれた女なのだ。人眼にさらされることを必死になって恥じつつ、しかもあまりの恥かしさに立ちすくみ、しかも一方、自然のこのうえない心地よさに恍惚として我を忘れている。このヴィーナスは正直にいってあまりみごとなものではない。首が長すぎ、肩がおちすぎ、何か病気をしているように見える。ペーターという批評家など萎黄病にかかったなどとひどいことをいっている。しかしこの畸型がこのようなことを私たちに感じさせ、不思議な魅力をこのヴィーナスに与え、それが永遠に人をひきつけるのである。
 ルネサンスの人々は、はじめて人間の肉体の美しさを知り、それを、教えこまれた罪の意識に対抗しつつ追及していったのである。ボッティチェリは、きわめて気の弱い敬虔なカトリック教徒であった。罪の意識におののきながらも、この世のたのしさや美しい女性にひかれてやまなかったルネサンス人の一つの典型であり、この絵もそういう芸術の典型である。ルネサンスの美術は、みな人体美の表現をその主目的にしているが、それにはみなこのような心の闘いが含まれていて、それがそういう闘いのなかった古典時代や、現代の肉体の表現などとは異なった魅力を与えているのである。(p.85~7)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-25 06:16 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(37):ダヴィデ像(12.8)

 そしてカルツァイウォーリ通りを歩いてシニョリーア広場へ行き、ヴェッキオ宮の前にあるミケランジェロの『ダヴィデ像』を撮影。
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 レプリカとはいえ、圧倒的な存在感ですね。なおこれを書いている時にたまたま山ノ神が見ていた『秘密のケンミンSHOW』によると、福岡県では"ですね"を敬語として使うそうですね。閑話休題。羊飼いの少年ダヴィデが、ペリシテ人の巨人ゴリアテに今まさに石を投げつけようとする一瞬を見事にとらえています。均整のとれた肢体、緊張の走る筋肉、堅い決意とすこしの逡巡をただよわせる表情。芸術否定論者にしてフィレンツェの指導者だった聖職者ジロラモ・サヴォナローラを失脚させた後(1498)、共和国当局がフィレンツェの自主性を表す象徴としてとしてのダヴィデの彫刻をミケランジェロに依頼し、1504年に完成させました。藤沢道郎氏が『物語イタリアの歴史』(中公新書)の中で紹介されているのですが、ミケランジェロは常々「石の中に人が閉じ込められている、早く出してやらないと窒息して死んでしまう」と語っていたそうです。素材の中に理想のイメージを発見するや、一気呵成にそれを彫り出そうとするミケランジェロ。彼にとって芸術の本質は「取り除くこと」にあったので、彫刻が最も優れたジャンルでした。これに対してレオナルド・ダ・ヴィンチは制作をしばしば中断して観察と思考を重ね、新しい要素を付加し、構成を修正する過程を繰り返します。彼にとって芸術の本質は「付加すること」にあったから、絵画こそが最高のジャンルでした。両者は互に相手の天才を熟知しながら、根本的には相手を軽蔑しあっていたそうです。(p.207) そして『ダヴィデ像』はここシニョリーア広場に飾られたのですが、『世界の歴史7 近代への序曲』(中公文庫)の中で、会田雄次氏は次のように述べられています。
 中世では彫刻はほとんどまったく教会建築の付属物であった。ゴシック寺院は無数の彫刻に飾られていたが、いずれも柱や壁の一部分でしかなかった。それが次第に寺院から離れ、独自の意義を主張しだすのがルネサンス時代である。それでも15世紀までは、置かれた場所は室内や建物の前でしかなかった。彫刻それ自体がまったく独立に、つまり私たちが公園などで見るような形で置かれるようになったのは、フィレンツェの広場に飾られたミケランジェロの「ダビデ」であった。(p.89)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-24 06:14 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(36):天国の門(12.8)

 早朝に目覚めてカーテンを開けると今日もいい天気。テレビをつけて天気予報を見ていたら、星占いのコーナーがありました。けっこうイタリアの方も気にしているのでしょうか。朝食をとりながら、山ノ神に今日の行程をレクチャー。
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 まずは予約を入れておいたウッフィツィ美術館を見学、ドゥオーモの洗礼堂、捨て子養育院美術館、サン・マルコ美術館を拝見した後、中央市場をざっくりと見て、ホテルに戻り荷物を持ってフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅へ。14:12発の列車に乗って16:19にペルージャ(Perugia)着。と、ツァー・コンダクターの威信にかけて誠心誠意説明したのですが…低血圧の彼女はぼーっとした顔をしてベーコンをぱくついています。ほんとに聞いていたのかな、試してみましょう。「プープー?」「ラッパロ条約!」 よしよしちゃんと聞いていたようですね、でもほんとうはラパッロなのだよ。
 部屋に戻って荷物をまとめ、チップとして枕元に2ユーロを置きました。フロントでチェックアウトをして荷物を預かってもらい、いざ出発です。まずは8:30入館の予約をしてあるウッフィツィ美術館へと参りましょう。パンツァーニ通りをてくてくと歩いて洗礼堂へ、時刻は午前八時ちょっと過ぎ、さすがにドゥオーモ付近には人影もなく、落ち着いてロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti)作の門扉を鑑賞することができました。
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 まずは北側の扉『イサクの犠牲』を拝見。(※オリジナルはバルジェッロ国立美術館所蔵) この扉の制作者決定はコンクールによるものでブルネレスキも参加、市民代表の審査員が選んだのがギベルティの作品でした。失意のブルネレスキは彫刻家の道を断念し友人のドナテッロとともにローマへ旅立ち建築を修行、やがて大聖堂に架ける円蓋(クーポラ)のコンクールに参加して見事に選ばれます。その革新的な技法(遠近法)に影響されてギベルティがつくったのが東側の扉『キリストの生涯』、ミケランジェロ曰く『天国の門』です。(※オリジナルはドゥオーモ付属美術館所蔵) こうしてみると、二人は互いを高め合う良きライバルだったのですね。なお先日、『宴のあとの経済学』(ちくま学芸文庫)を読んでいたら、故E.F.シューマッハー氏がこの扉について語られていました。
 その寺院の扉は有名なギベルティの手になる青銅製のもので、完成には28年の歳月を要したとのことである。その製作には、いかなるパトロンもつかなかったし、青銅の扉が28年ではなく25年間で完成していたら、観光客の入りもそれだけ多くなるなどともくろんだ経済学者がいたわけでもない。(p.169)
 経済性の計算を度外視し最善のものとして作られた永遠の財と、つつましく使うべき短命の財を峻別できる文化を取り戻さねばならないという主張です。今回の旅ではほんとうにたくさんの永遠財を見ることができました。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-23 07:18 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(35):フィレンツェ(12.8)

 対岸に渡りふと路地を見ると、こんこんに詰った縦列駐車を発見。これはもう芸術作品ですね、しかしどうやって車を入れたのだろう??? 私がツァー・コンダクターだったら、絶対にその場面の見物および乗車しての体験、別料金でトライアルをオプショナル・ツァーに組み込みますね。なおローマの自動車事情について、村上春樹氏が愉快な一文を記されています。『大きなカブ、むずかしいアボカド』(マガジンハウス)から引用しましょう。
 …僕は若葉ドライバー時代の大半をローマで送ることになった、とひとことで言ってしまうと簡単なんだけど、ローマで初心者が車を運転するというのは、実に命の縮まるようなことなのだ。なにしろローマ市民はいったんハンドルを握るとやたら攻撃的になるし(運転はうまいんだけど)、道路はどこまでも入り組んでいて、一方通行だらけで何が何やらわからないし、ちょっとミスしたり、タイミングが遅れたりするとまわりから派手なクラクション攻撃を受けたり、窓を開けて大声でののしられたりするし、縦列駐車はまさに悪夢だし、そんなこんなでずいぶん大変な目にあった。
 でもそのおかげで、世界のどこの都市に住んでもとくに物怖じもせず、気楽にほいほいと運転ができるようになった。どんなに交通が混沌とした街でも「ローマに比べりゃなんてことない」というのが僕の変わらざる実感だ。それについては、僕はローマ市に深く感謝している。グラッツェ・ミーレ、ローマ。(p.19~20)
 悪夢のような縦列駐車、ここフィレンツェでしかと拝見いたしました。でもクラクション&罵倒攻撃は、結局今回の旅ではお目にかかれませんでした。他人事だったらぜひ見たかったのに。近くにあるサント・スピリト教会はブルネレスキの設計で、15世紀の半ばに建てられたもの。しかし彼は工事の開始直後に亡くなったため、数々の変更が加えられ、ファッチャータ(建物前面)は未完のまま残されたそうです。内部を拝見したかったのですが、Aさんが乗る列車の発車時間が迫っているため断念。建物の横にあった窓の上の装飾でフェイス・ハンティングをして、広場を通り抜けました。
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 『地球の歩き方』によると、この界隈には庶民的なトラットリアやカフェもあり、平日午前中には野菜などを売る市場も開かれ、地元っ子にはなじみのある場所だそうです。時々路上に注射針が落ちているそうですが、これはちょっと怖い。お目当てのお店は広場のすぐ近くにあり、Aさんからカントゥッチのお土産を沢山いただきました。グラッツェ・ミーレ。カッライア橋からは、サンタ・トリニタ橋とその向こうにヴェッキオ橋を眺めることができました。
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 橋のたもとに描かれていた自転車専用レーンの表示を撮影し、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場へ。振り返ると建物の間にドゥオーモの偉容が垣間見えました。
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 そしてホテルに到着、Aさんとはここでお別れです。駅まで見送ると言ったのですが、別れが辛くなるということ固辞されました。部屋に戻り荷物を持ってロビーにおりてきたAさん、山ノ神と私に抱きつき両頬に熱い接吻。再会を約して、ホテルから静かに去っていかれました。
 われわれは部屋に戻って一休み、さて夕食はどうしましょう。Aさんがいないという虚脱感もあり、駅構内にあったマクドナルドで軽くすませることにしました。ハムをはさんだフォカッチャやマック・ベーコン、チキン・ナゲット、飲み物などを食してお代は22ユーロ30セント。かなり高いですが、21回も再生した包み紙を使っているということで許しましょう。そして部屋に戻り、シャワーを浴びて就寝。明日はフィレンツェに別れを告げ、ペルージャへと移動です。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-12-22 08:43 | 海外 | Comments(0)