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イタリア編(64):ファローリア山(12.8)

 それではファローリア山(Monte Faloria)の頂へと向かいましょう。歩いても行けるのですが、すちゃらかお気軽ハイカーのわれわれの眼に入ったのは、ランドクルーザー。立て看板によると、5ユーロで山頂まで往復してくれるそうです。そういえばランドクルーザーに乗ったことはないなあ、と互いに見合す顔と顔。いや別に歩くのが面倒くさいとかかったるいとかではなくて、あくまでも後学のため利用することにしました。デッキチェアで上半身裸になって気持ちよさそうに昼寝をしている運転手さんを起こし、さっそくお願いしました。Tシャツを着て挨拶をしてくれた運転手さん、ルカと名乗りわれわれを車に迎え入れてくれました。
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 U2のボノに似た、すごく優しそうで親切な方なので一安心…いやいやまだわからないぞ、山ノ神を連れ去り身代金を要求されたりしたら…ま、その時はその時、12,000ユーロぐらいに身代金を値切りましょう。そして発進、ルカさんの抜群のドライビング・テクニックで車は快調に山道をのぼっていきます。あっという間に標高2,341mの山頂に到着、うわああああああああ、凄い。360度のパノラマ、ドロミテ山塊は私のものよ、おーほほほほほほほほ状態です。あちこち歩き回って写真を撮りまくりました。
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 ルカさんに招かれて指差す方角を見ると、ひときわ目立つ魁偉な山塊が遠くにあります。あれが噂の「トレ・チーメ」ですね、そのうち行くぜ待ってろよ。近くにはリフトの降り場があったので、冬にはここから滑走を始めるのでしょうね、いいなあ。ぜひスキーをしに再訪したいものです。というわけで至福のひと時を過ごすことができました、ルカさん、ありがとう。疑ったりしてごめんなさい。再びランドクルーザーに乗って下山、ダッシュボードを見ると"maestro di sci"と記されたステッカーが貼ってありました。山ノ神に訊ねてもらうと、冬はスキーのインストラクターをされているそうです。もしドロミテにスキーをしにくることがあったらルカさんをご指名します、と約束をし、山小屋の前で降ろしてもらいました。もう彼とは二度と会えないかもしれません…と思っていたらすぐ会えてしまったんだな、これが。ま、それは後日談です。
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 ロープウェイに乗り込んで下山、乗り場の近くにある廃線跡を利用した遊歩道をすこし漫歩しました。バス・ターミナルでは、トラックから次々とマウンテン・バイクが下ろされて、集まった方々がそれぞれ受け取っています。どこかにツァーに行ってきたのでしょうか。
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 それではホテルに戻って一休みすることにしましょう。二人してベッドに寝転びうたた寝をし、目を覚ますと午後八時を過ぎていました。お腹もへってきたし、コルソ・イタリアへくりだして夕食をとりましょう。町はお祭りムード、後で調べたら聖母被昇天祭でした。ウィキペディアによると、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰を記念する祝日だそうです。民俗衣装で着飾った町の人々がくりひろげる華やかなパレードを見物し、シェル型のステージで行なわれていたバンド演奏を聞き、町を散策しているともう一軒のインフォメーションを見つけました。もう閉まっていたのですが、ガラスに明日の天気予報が貼ってあったのでチェック。ん? これはまずい、午後から雷雨となる模様です。山に関してはとうしろうですが、雷の恐ろしさは知っているつもりです。いかんなあ、これは慎重に計画を立てなければいけませんね。
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 夕食は「HOTEL ASTORIA」のレストランでいただくことにしました。ビール、ポルチーニ(porcino)のフェットチーネ(fettutine)とアップル・パイを堪能。そして部屋にもどって山ノ神と作戦会議、トレ・チーメやチンクエ・トッリへ行くのはちょっと無謀ですね、雷に襲われてもすぐ退避できるようトファーナ山(Monte Tofana)にかかるロープウェイに沿って行動することにしました。時間が余ったら、コルティナ周辺を散策するということで落着。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-31 06:25 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(63):ファローリア山(12.8)

 後者の日本語版ガイドブックも優れもの、コルティナの歴史、文化、料理、四季、イベント、ツァーの紹介など、こちらにも大いに助けてもらいました。
 そうそう、実は『地球の歩き方』に素晴らしい写真が掲載されていました。峨々たる山、さまざまなニュアンスの緑色で彩られた丘陵や木々、それらを鏡のように完璧に映す小さな湖。とても言葉で表現できないような美しい風景です。脚注にはクローダ・ダ・ラーゴ(Croda da Lago)とベッコ・ディ・メッツォディ山(Becco di Mezzodi)とあります。iの方に訊ねたところ、マップで該当の地を指差し、バスの便はなく、タクシーも走れないほどの険しい山道なので歩いていくしかないとのこと。どうやら一日がかりで歩くことになりそうです、ちょっときびしいなあ、と山爺・山姥・山男・山女・山ボーイ・山ガールの皆々様が聞いたら卓袱台を蹴り倒しそうな弱音を吐いて断念。
 係の方に丁重にお礼を言って、バス・ターミナルの先にあるロープウェイ乗り場へ。三十分に一本ですが、幸い14:00発のロープウェイにすぐ乗ることができました。途中駅で乗り換え、ロープウェイは岩壁の上をぐんぐんとのぼっていきます。雲は多いのですが青空がひろがり、ドロミテの迫力ある岩山、それらに抱かれた緑の盆地、そしてコルティナ・ダンペッツィオの街並みを手に取るように眺めることができました。それにしても何て美しく壮大な景観なのでしょう、息を呑むようにして見惚れるのみ。
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 終点駅は山小屋となっており、その裏手は展望台となっています。
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 眺望を愛でながら、周辺を散策。デッキチェアに寝ころび日光浴をする方々、ベンチでなごむ家族連れ、山をおりようとするハイカーやマウンテン・バイクにまたがる人など、みなさん思い思いに休日を楽しんでおられます。地図や案内表示によると、このあたりは冬場にはスキー場になるようですね。
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 さて、小腹もへったので、山小屋にあるレストランで遅い昼食をとることにしましょう。アマトリチャーナ(amatriciana)とサラダをいただきましたが、これがなかなか美味しうございました。とくにミニトマト、マッシュルーム、オリーブ、アンチョビのサラダは絶品。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-30 06:22 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(62):コルティナ(12.8)

 そして石橋を叩いて渡る、転ばぬ先の杖、バス会社の窓口で帰りのヴェネツィア行きのバスの切符を購入しておきました。ちなみに一日に一本のみ、15:15に出発です。それでは今夜の塒、Splendid Hotel Veneziaへと参りましょう。JTBがくれた地図と案内標識を頼りに歩いて数分で着くことができました。チェックインをして部屋に行きすぐさま窓を開けると、残念、マウンテン・ビューではありませんでした。通りに面しているので向かいのホテルや建物が視界を遮ります。
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 それでは町の中心にくりだしてインフォメーションで情報を収集し、ロープウェイでファローリア山にのぼることにしましょう。町を貫く目抜き通り、コルソ・イタリア(Corso Italia)までは歩いて数分、なるほど"ドロミテの真珠""黄金の盆地"と呼ばれるわけがよくわかりました。谷底に位置しているため、周囲を囲むドロミテの雄渾にして魁偉な山々を手に取るように眺めることができます。通りは歩行者天国となっている石畳の道で、左右には華やかなブティックが建ち並んでいました。
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 そしてiへ、これからの三日間をどう使うか相談してみようと思います。腹案として抱いていた訪問先は、トレ・チーメ(三本の爪のような巨岩)+ミズリーナ湖(♪森とんかつ…♪のような湖)、およびアルペ・ディ・シウジ(広大な丘陵)です。前者についてはツァーの有無、後者についてはタクシーの利用について伺いましたが、iの優しい女性担当者は、トレ・チーメとミズリーナ湖についてはバスで簡単に行ける、また高額のタクシー料金と時間を要するアルペ・ディ・シウジよりは、チンクエ・トッリ(五つの巨岩)の方が良いと教えてくれました。そしてコルティナからロープウェイでのぼれるトファーナ山からの素晴らしい眺望を楽しみ、午後は町の周辺をハイキングしてはいかが、という助言。"少しのことにも、先達はあらまほしき事なり"(徒然草第52段)、そのプランに乗りましょう。そして行き方を懇切丁寧に教えてくれ、バスの時刻表もくれました。ディスプレイを借りてお礼を申し上げます、ほんとうにありがとうございました。なおiでロハでいただける「Cortina HIKING MAP」と「コルティーナ・ダンペッツォ ガイドブック(日本語版)」は絶対に入手しておくべきです。前者は、コルティナ周辺の正確無比な地図にさまざまなハイキング・コースが記されているもので、言葉では言い尽くせないほど重宝しました。おまけにコースの難易度も、"Easy paths""Medium difficulty paths""Difficulty paths""Fixed rope and laid routes"(伊語・英語・独語)と四種のわかりやすい線で記されており、さらにコースの特徴も"Waterfalls & Alpine lakes""History & legends""Trail Running"と、三種類に色分けされた登山家のピクトグラムで示されています。
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 これはもう感動すら覚えました。「英国人にとっての地獄は、ドイツ人が警官をし、スェーデン人が喜劇役者で、イタリア人が国防軍を組織、フランス人が道路工事をして、スペイン人が列車を走らせる」というジョークがあるそうですが(日本人が政治家・官僚・CEOを務める、と付け加えたいところですね)、ついついイタリア人はずぼらでいいかげんだという先入観が国際的にも、そして私にもあります。ま、たしかにそういう面もあるのでしょうが、この地図を見ると、仕事は適当でも人生を楽しむことにかけては妥協しないぜ、という心意気を感じます。ジョットやマザッチョやミケランジェロを生んだ土壌はこんなところにあるのかもしれません。そういえば、『あしたはアルプスを歩こう』(講談社文庫)に書いてあったのですが、角田光代さんの山岳ガイドを務めたルイージ・マリオさんは、エスプレッソの道具やワインのボトルをかついで山に登り、休憩の時に美味しいエスプレッソやワインをふるまってくれたそうです。彼女曰く…
 イタリア人ってなんかすごい。このとき私は密かに思った。あの雪山では本格的なエスプレッソだったし、この渓谷ではワインである。エスプレッソもワインも、道具もボトルもかさばるし重い。それでも持ってくる根性がすごい。インスタントですまそうとか、ワインは我慢しようとか、近道的な発想がないのだ。おいしいものを味わうためには、ひとときの安らぎを得るには、まるで労を惜しまない。
 私は三月に旅したイタリアのことを思い出した。あのとき感じた、ぴくりとも揺らがない文化や芸術の重さを思い出した。エスプレッソ道具を持ちワインのボトルを何本もナップザックに忍ばせてなんでもなく山を登るマリオさんを見ていたら、あの揺るがなさ、重さは当然だろうと思えた。
 他国と比較して我が国の欠点をあげつらうことを私は好まないが、けれど、なんでも便利にしようとし、楽をしようとし、近道を好む私たちの国民性を少しだけもったいなく思った。私たちも茶道具を持って山を登るべきなのだ。一升瓶をかついで乾杯をするべきなのだ。さすれば文化は揺るがない。目に見えないものが重さを持つ。(p.61~2)
 文化とは守るものではなく、そうせずにはいられないもの、それなしでは人生が味気なくなるものなのかもしれません。やたらと愛国心を怒号し強要する方々にかみしめてほしい一文です。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-29 06:21 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(61):コルティナ・ダンペッツィオ(12.8)

 やがてぎざぎざとした魁偉な、あるいは石灰質岩のために白い山々が現われてきました。もうドロミテ(ドロミーティ)山塊に着いたようです。それではスーパーニッポニカ(小学館)から引用しましょう。
ドロミーティ(Dolomiti)山地
イタリア北部、アルプス東部、南チロール地方の山地。垂直に切り立つドロマイト(苦灰岩または白雲岩とよばれる石灰質岩で、名称はフランスの地質学者ドロミューにちなむ)の岩峰が特異な景観をなす。最高峰マルモラーダ山(3342m)。ほかにチベッタCivetta(3218 m)、サッソルンゴSassolungo(3181 m)、ラバレドLavaredo(2998 m)、クリスタロCristallo(3216 m)など多くの岩峰がある。人工登攀の発祥地とされており、ロック・クライミングが盛んである。登山基地トレンティーノ・アルト・アディジェ州ボルツァーノからベネト州コルティーナ・ダンペッツォにかけてはドロミーティ街道が通り、ヒュッテなどの施設が整備され、観光・保養地としても知られる。1985年7月、トレント北東カバレーゼ近くのスタバ渓谷で降雨によりダムが決壊、観光客ら200人以上が犠牲となる事故があった。
 そう、登山、ハイキング、スキーなどを楽しめるヨーロッパ有数のリゾート地です。予定ではこちらに四泊五日して、ドロミテのハイキングを思い切り楽しむつもりです。できれば♪森とんかつ、泉にんにく、かこんにゃく、まれてんどん、静かにんにく、眠るんぺん♪のような湖に行ってみたいな。後は好天であることを祈るのみですが、神様+変人という天下無敵のコンビ、泥舟に乗った気でおります。おっスキーのジャンプ台があるぞ、これは1956年に開催された第7回冬季オリンピックの際につくられたものですね。なおこの大会では、トニー・ザイラーがアルペン3種目優勝で史上初の3冠王となりました。また猪谷千春選手がアルペン回転競技で第2位に入賞し、冬季オリンピック史上初の日本人メダリストとなったのもこの大会です。そして午前11時半ごろ、コルティナ・ダンペッツィオ(Cortina d'Ampezzo)に到着。小さなバス・ターミナルになっており、とるものもとりあえず、二人してトイレへとかけこみました。
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 ふう、先に用を済ませて外で待っていると、山ノ神が苦笑しながら出てきました。個室トイレは有料だったので50セント投入して扉を開け、用を済ませ外へ出ると、イタリア人のおばさんが扉をおさえて「あたし細かいお金持っていないのよ」と中に入っていったそうです。河田雅史風に言うと「やるでねが」。でもイタリアのGDPをあげるためには、「やだね、自分で払いな」と鼻先で冷たく扉を閉めるべきでしょう。経済成長というのは、そういうことなんですよね、安倍伍長。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-28 06:17 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(60):ドロミテへ(12.8)

 朝六時に目覚め、窓を開けるとまだ陽はのぼっていません。でも今日も好天のようです、御慶御慶。煙草を吸いながら運河を眺めていると、いろいろな船が行き交い見ていて飽きません。乗客のいないヴァポレット、警察の船(POLIZIA)、監視員の船(GUARDIA)、飲食物やクリーニングした衣類や塵芥などを積んだ船、運河はこの町の動脈なんだなと痛感しました。
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 ふと左を見ると、ホテルに接岸した船から、働くおじさんたちが食料品を荷揚げしています。御苦労さまです。そうこうしているうちにお日様が顔を出して、運河を黄金色に染め上げていきました。
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 さて、7:50発のバスに乗らなければいけないので、そうのんびりもしていられません。フロントの脇にはたくさんのトランクが整然と並べられていましたが、ということは…朝食会場に行くと団体旅行の日本人観光客でごったがえしていました。かろうじて席を確保し、ベーコンとスクランブル・エッグとパンを珈琲で流し込んでfinito。
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 荷物を取りに部屋に戻り、チェックアウトをしてローマ広場へと向かいます。石畳にキャスターをひっかけながらトランクをごろごろとひきずる山ノ神、私はテニス・バッグを肩にかけてナップザックを背負っているので両手が空いています。「手伝おうか」と言うと、「大丈夫」という頼もしいお答え。うぉっと、広場に行く橋には階段がありました。うるうると私を見つめる山ノ神、はいはい(「はい」は一回でいい)、わかりました。トランクの上の取っ手を持って先行する山ノ神、トランクの横の取っ手を持って♪おおきなふくろをかたにかけ、だいこくさまがきかかると…♪と歌いながら後をついていく私。ようやく難所をクリアし、コルティナ行きのバスに辿り着けました。
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 切符を運転手さんに見せて乗車、眺めの良い最前列を陣取りました。バスは定刻通り7:50に出発、信号も横断歩道もバスも無視してうぞうぞと移動するツーリストたちを蹴散らし、いやこれはものの譬え、強面に追い払いながらバスは進みます。ラグーナに架かる橋を渡って、ヴェネツィア・メストレへ。
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 壁に"NO NAZI"といういたずら書きがあったのが心に残ります。バスの前を走り抜けていくLRV(Light Rail Vehicle/超低床車両)の路面電車や、犬を連れて散歩をしているおじさんや、のんびりとペダルをこぐ人たちを撮影していると、きれいな運河のある町、Trevisoに着きました。
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 すると乗り込んできた若いカップルが切符を見せながら、「ここは私たちの席だ」とおっしゃいます。これは失礼つかまつりました、指定席制だったのですね、席を移動して仕切り直し。やがてバスは山中へと入っていきます。
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 ある町には"fermata scuolabus"というスクール・バス停留所の看板がありましたが、あわてて走る兄妹の絵に思わず緩頬。さて出発してからそろそろ二時間、バスはトイレ休憩のためドライブインに停車しました…が、下車して用を足したのはわれわれ二人のみ。そういえばヨーロッパに来ていつも思うのは、トイレの小便器や個室の数がとても少ないことです。ヨーロッパの方々の体は、あまり排尿・排便をしないですむ構造になっているのでしょうか。気候や風土とも関係あるのかしらん、御教示を乞う。そして出発、まだまだ先は長いのに、渋滞にはまってしまいました、やれやれ。と思いきや、すこし進むと事故を起こした車が車線を塞いでいます。美しい景色に見惚れて運転をあやまったのでしょうか、それはともかくすぐに快調に流れるようになりました。
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 サイクリングを楽しむ人も、よく見かけます。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-27 06:22 | 海外 | Comments(4)

イタリア編(59):ヴェネツィア(12.8)

 まずは定番、ドゥカーレ宮殿から新牢獄にかかる橋で、囚人たちが溜息をついたという「溜息の橋(Ponte dei Sospiri)」を撮影。ドゥカーレ宮殿を見ながら海沿いの道を歩き、サン・マルコ小広場の入口に着くと聖テオドロスとヴェネツィアの象徴・有翼の獅子を載せた二つの円柱が屹立しています。毛のはえたライオンさん、御健勝のようでなによりです。
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 サン・マルコ寺院は以前訪れたので省略し、眺望の素晴らしい鐘楼にのぼることにしましょう。あまり長い行列もできていないのも幸運でした。入場料を払ってエレベーターに乗り塔の最上部へ、おおっ相も変わらず素晴らしい眺望。ここは再訪となりますが、何度でも来たいですね。サン・マルコ広場、サン・マルコ寺院、サン・ジョルジュ・マッジョーレ教会、そして美しい街並みやラグーナを手に取るように一望できます。夕日を浴びて神々しく輝く東側の街並みには圧倒されました。ここを先途と写真を撮りまくり。ああええもんみせてもろた。
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 エレベーターで降りてサン・マルコ広場や寺院、鐘楼を撮影。
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 午後八時になろうとしていますが、まだ残照が輝いています。観光客のみなさんは夕食をとられているのでしょうか、それほどの混雑ではありませんでした。そして私のお気に入りの眺望を見るため、広場から徒歩でアカデミア橋へと向かいます。細い路地、町を縫うように流れる運河、ゴンドラ、古い家々を愛でながらの漫歩、何よりも嬉しいのは、あの化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやるあの悪魔の機械、macchinaの姿が影も形も見えないことです。
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 そう、ここヴェネツィアは自動車の乗り入れ禁止、というよりも階段のある大小の橋がそこいら中にあるので、走れるものなら走ってみろ的な街なのでした。ああ清々しい。なお帰国後に読んだ『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(C.ダグラス・ラミス 平凡社ライブラリー)の中に、次のような一文がありました。
 おそらく、それぞれの読者が減らすべき機械の優先順位リストを作れると思いますが、私自身のリストの第一位は(武器や原発、その他明らかに有害なものは別にして)車です。これまでは、車の数を増やすということが経済発展の一つの象徴でした。車を減らすことは「対抗発展」の一つの象徴になるかもしれません。車自体と車を走らせるための道路工事は大変な環境破壊になっているし、車は街の雰囲気を壊すし、社会のなかのストレスとイライラの大きな原因の一つだし、自動車組立工場のラインで働くのはとても楽しい仕事とは思えません。そして車は交通事故の名で大虐殺と言っていいほどの規模で人殺しを続けています。もちろん、今の社会には車がないと仕事ができない人もたくさんいて、すぐにできることではありませんが、車のない社会(たとえばベネチアのように)を一つの将来の目標としてたてることができます。(p.157~8)
 十数分歩くと木造のアカデミア橋に到着、ここからも見事な眺望を楽しめます。滔々と流れる大運河、正面遠くにはサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会のクーポラ、そしてヴェネツィアン・ゴシック様式の素晴らしい建物群。中でもすぐ左手に見えるバルバロ宮は芸術家のサロンとして使われたそうで、クロード・モネのアトリエがあったほか、ヘンリー・ジェイムズが滞在して『鳩の翼』を執筆したとのこと。それではリアルト橋に行きましょう。橋のたもとにある船着き場アカデミア(Accademia)から再びヴァポレットに乗りましたが、いやはや大変な混雑、缶詰の中のオイル・サーディンのように身動きもとれないほどでした。そしてリアルト(Rialto)で下船、もう陽は落ちてそろそろ灯されはじめた明りが川面に揺らいでいます。リアルト橋(Ponte di Rialto)は、大運河に架かる最大の橋で、ヴェネツィアのシンボル的存在です。橋の上には土産物屋が櫛比し、おおぜいの観光客で賑わっていました。夜風を浴びながら、しばし橋からの眺めを堪能。
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 さてそれではホテルに戻って夕食をいただきましょう。リアルトからヴァポレットに乗りましたが、幸い最後尾の席に座ることができました。夕闇の中、灯火に照らされて浮かび上がる建物群、船の航跡に揺曳する火影、夜は夜でまた違う表情を見せてくれる町、ヴェネツィア。
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 そしてフェローヴィア(Ferrovia)に接岸、駅に一番近い船着場です。せっかくなので、ホテル近くの路地を散策。仮面やヴェネツィアン・グラスを売るお店をひやかし、ヴァイオリン二重奏を奏でる大道芸人に拍手を送り、ホテル・コンチネンタルへと戻りました。
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 ホテルのレストランで牛肉料理をいただき、デザートにはティラミスを注文。部屋に戻って、大運河の夜景を眺めながら一献傾けました。さあ明日はいよいよドロミテです。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-26 06:28 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(58):ヴェネツィア(12.8)

 そして13:48にフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に到着。ヴェネツィア行きの列車に乗り換えますが、四十分ほど時間があるので駅のカフェで昼食をとることにしました。可もなく不可もない味のピッツァとフルーツをいただき、14:25発のESスターに乗り込みました。
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 車内はほぼ満席、JTBに依頼して二等指定席を押さえておいたのは正解でした。でもボローニャやパドヴァで下車する方もけっこういましたが。ポー川を渡るとそこはヴェネト州、広大な畠が広がりますが、葡萄・玉蜀黍の生産ではイタリア第一位だそうです。
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 午後四時にパドヴァ駅に到着、以前に訪れたスクロヴェーニ礼拝堂のことを懐かしく思い出しました。本土側にあるヴェネツィア・メストレ駅を通過し、列車はいよいよラグーナ(潟)にかかる長い橋梁を疾駆していきます。そしていよいよアドリア海の真珠、ヴェネツィアの街並みがぐんぐんと迫ってきました。ヴェネツィア(Venezia)は数年前にしゃぶりつくしたので、今回は一泊のみ、明日にはコルティナ・ダンペッツィオへと出立です。
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 16:33にヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に到着、今夜の塒ホテル・コンチネンタルまでは歩いて数分です。前回もこのホテルに宿泊したのですが、駅から近く部屋や内装もまあまあだったので今回も撰んだ次第。ただあの時の部屋は道路に面していたので、今回はカナル(運河)に面した部屋だと僥倖です。フロントでバウチャーを渡してチェックイン、そして案内された部屋は…やりっ、運河に面した部屋でした。小槍の上でアルペン踊りを踊りだしそうな二人。
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 いやいやそんなことをしている場合ではありませぬ。今回の旅行で一番気懸りなコルティナへの足を確保しなければいけません。事前にいろいろと調べたところ一日に一本直通のバスがあるはずですが、それがなかった、あるいは満席の場合は、代替手段を考える必要があります。たぶん列車でパドヴァに行き、乗り換えてカラルツォへ、そこからバスで行けるはずですが、かなり煩雑となります。荷物を部屋に置き、駅の先にある橋を渡りローマ広場へ。こちらは広大なバス・ターミナルになっていますが、ガイドブックによると駅から見て右側にATVO社バス切符売り場があるはずですが…うろうろきょろきょろ…あった。さっそく事務所に飛び込み、山ノ神にお願いして訊いてもらったところ、7:50発のバスがあるそうです。よかったよかった、切符を購入し、これで心おきなくヴェネツィア散策をすることができます。天気は相変わらずの好天、ただでさえ美しいこの街をいっそうひきたてています。まずはサン・マルコ広場へと行ってみますか。
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 駅前のヴァポレット(Vaporetto)乗り場で12時間券を購入し、乗ったことがない2番航路を利用することにしました。そして出航、♪はあれた空、そおよぐ風♪と口ずさみたくなるような素晴らしいお天気です。あまり使われない航路なのでしょうか乗船客も少なく、眺めの良い特等席を陣取ることができました。ヴェネツィアと本土を結ぶ道路・線路を眺めていると、やがてヴァポレットは市場(Mercato)やトロンケット(Tronchetto)港を通り過ぎていきました。港には豪華客船も停泊していましたが、君らが神の国に行くのはらくだが針の穴を通るよりも難しいぞと引かれ者の小唄。
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 舟は大きく左に旋回し、ヴェネツィアとジューデッカ(Giudecca)島の間を抜けていきます。たしか左のあたりはザッテレ(Zattere)、わが敬愛するジョン・ラスキンが滞在したペンショーネ・カルチーナがあったはずです。前方右手に見えるサン・ジョルジュ・マッジョーレ教会の鐘楼がぐんぐん近づき、大運河(Canal Grande)も見えてきました。そして船着場サン・ザッカリア(S.Zaccaria)に接岸。三十分ほどの愉しいプチ・クルーズでした。
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 下船すると、さすがはヴェネツィア、観光客で芋洗い状態の大混雑。しかしジャック・アタリが『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)の中で、"完全に海の方へ目を向けたひとつの強大な経済機構"(p.104)と表現した往時の殷賑はまた違った姿だったのでしょう。本書によると、たぶんこのあたりに山と積まれていた商品は、フランドル地方の羊毛、ミラノとフィレンツェの毛織物、バルセロナの珊瑚、ターナの奴隷、コンスタンティノープルの絹と明礬、アナトリアの金属類、ペルシアの絹織物、マラバルの胡椒などであったそうです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-25 09:45 | 海外 | Comments(0)

イタリア編(57):ヴェネツィアへ(12.8)

 朝目覚めてカーテンを開けると、今日も晴天の下、胸のすくような眺望が広がっています。でもこれで見納めなんですね。
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 朝食を食べにいき、パウロさんとお別れの挨拶。いろいろとお世話になりました。
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 珈琲を飲みながら、山ノ神に本日の旅程についてレクチャー。まず11:39発の普通列車に乗ってフィレンツェへ向かいます。よってフロントでタクシーを呼んでもらい午前十一時すこし前にホテルを出発すれば余裕の萬鉄五郎で間に合うでしょう。フィレンツェで座席指定をしてあるESスターに乗り換えて、16:33にヴェネツィア着。駅近くのホテル・コンチネンタルにチェックインをし荷物を置いて、ローマ広場にあるというATVO社バス切符売り場で、明日のコルティナ・ダンペッツィオ行きバスの指定席券を購入。そしてヴェネツィアの街歩きを楽しんで夕食、というプランです。出発までの二時間は、部屋でホテル・ライフを堪能することにしました。『神曲』を読み、まどろみ、ウンブリアの風景を眺めていると、あっという間に時が過ぎていきます。そして後ろ髪を引かれるように部屋を去りました、Arrivederci, Hotel Signa! フロントでタクシーを呼んでもらうとロビーにいたスペイン人の中年女性二人から、駅まで同乗させてくれないかと英語で頼まれました。情けは人の為ならず、旅は道連れ世は情け、困った時はお互い様、ようがす、御一緒しましょう。やってきたタクシーに乗り込み、山ノ神が話を聞くと、これから列車でアッシジに向かうとのことです。先日の経験でバスの方が便利だとわかったので、時刻表を調べるとちょうどいい具合のバスがあります。さっそくアドバイスをすると、予定を変更してバスで行かれるとのこと。われわれはペルージャ駅で降り料金を折半、運転手さんにお二方をバス・ターミナルへ送るよう頼みました。
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 切符はJTBに依頼してすでに購入済みなので、荷物を持ってホームへ。おっ高架の上を丸っこい乗り物がのてのてと移動していくぞ。あれが駅と旧市街を結ぶ無人ケーブルカー「ミニメトロ」ですね。そして11:39発の普通列車が到着、中に乗り込むと空席が目立ちます。自由席なので向かい合った窓側の席を二人占め、窓から後ろを振り返ると丘の上にペルージャの町並みを遠望することができました。Arrivederci, Perugia!
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 それではしばらく車窓からの眺めを楽しみましょう。野山、森、町や村、畠、そしてたおやかな丘陵、ウンブリアの美しい景観を満喫。時々、ペルージャにように丘の天辺につくられた町をみかけましたが、ヨーロッパにおける戦乱の激しさと防衛のための営みをあらためて痛感します。異民族の侵入や"帝国"の不成立などが原因なのでしょうが、その結果として近代世界を席巻した強大なる軍事力が生まれたのでしょうね。トイレに行ったついでに一等車を覗いてみましたが、こちらは座席が大きくゆったりとしています。
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 本日の一枚は、部屋からの眺望です。
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by sabasaba13 | 2014-01-24 06:20 | 海外 | Comments(0)

『サンチャゴに雨が降る』

c0051620_195349.jpg "もう一つの9・11"をご存知でしょうか。1973年9月11日にチリで起きた、ピノチェトによるクーデターです。以下、ウィキペディアから引用します。
 1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。
 こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。
 アメリカ政府と企業の利益を妨害する勢力を抹殺するための介入、アメリカ十八番の国家犯罪の一つだと理解していたのですが、最近読み終えた『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン 岩波書店)で、もっと深い意味があったことがわかりました。今、世界を奈落の底へ落しつつあるいわゆる新自由主義、「公共領域の縮小+企業活動の完全自由化+社会支出の大幅削減」という三位一体の政策を、チリに押しつけるために仕組まれたクーデターだったのですね。その黒幕には、アメリカ政府・CIA・アメリカ企業がいたことは論を俟ちませんが、新自由主義の教祖ともいうべき経済学者ミルトン・フリードマンが育てた弟子たち「シカゴ・ボーイズ」がいたことは見過ごされています。ナオミ・クラインは、新自由主義という経済的ショック療法を実施するための素地としてクーデターというショックを与え、さらに拷問というショックにより反対勢力を沈黙させる、つまり三つのショックを組み合わせて新自由主義的経済政策を強要するというはじめての生きた実験がなされたのがチリであったと指摘されています(p.99)。この"ショック・ドクトリン"はその後近隣諸国で、そして30年後のイラクでもくり返される。つまりチリ、新自由主義という反革命の、そして恐怖の起源であったと述べられています。
 この事件のことをもっと知りたいと思い、そういえばこのクーデターを描いた『サンチャゴに雨が降る』という映画があったことを思い出しました。通信販売でDVDを手に入れ、鑑賞。これは凄い映画だなと感服した次第です。監督はエルビオ・ソトー、アジェンデの知己でクーデターの際に即座にフランスに亡命したということなので、当事者と言ってよいですね。そこでプロデューサーのジャック・シャリエと出会い、協力してこの作品を、何とクーデターの二年後(1975年)に完成させました。(フランス映画として制作されたため、会話はフランス語) その志に共感したジャン=ルイ・トランティニャンなどの俳優はノーギャラでの出演を快諾。都市の真ん中で戦車が走り砲撃を行なうようなシーンを撮影するために、ブルガリアで撮影が行なわれたそうです。なお哀愁をたたえた音楽にも魅惑されたのですが、作曲は、アストル・ピアソラでした。
 映画は、1970年9月4日にアジェンデ政権が誕生したシーンを回想としてまじえながら、クーデターの過程を緊迫感にあふれた映像で追っていきます。滅多に雨が降らない首都サンティアゴ、「本日、サンティアゴは雨です」というラジオ・ニュースがクーデター決行の合図でした。クーデターへの加担を拒否する一部の兵士、容赦なく彼らを処刑する軍上層部。大統領官邸に襲いかかる軍隊、そして砲撃をする戦車隊。武器を手にして最後まで抵抗するアジェンデと側近たち。彼がラジオ放送で行なった、チリ国民への最後の言葉は実際の音声で挿入されています。なおこの最後の放送は「ユー・チューブ」で聞くことができ、その内容は「マスコミに載らない海外記事」というサイトで知ることができます。そしてアジェンデの死(自殺説が有力)。さらに学生たちが立てこもる大学を攻撃する軍隊、戦車による攻撃で屈服する学生たち。首謀者を銃殺し、とらえられた学生たちをスタジアムに並ばせる兵士たち。たった一人で革命歌「ベンセレーモス(我々は勝利する)」を歌い殴打される学生、その歌に唱和せず怯えたように見つめる学生たちの姿が印象的でした。こうした一連の過程で、随所にちらつくアメリカの影をほのめかす演出も秀逸です。そしてノーベル賞受賞者でアジェンデ政権を支持し続けた詩人、パブロ・ネルーダの訃報が入ります。その葬列で力強く「ベンセレーモス」を歌う人びとの姿とともに、映画は静かに幕を閉じます。
 そう、この映画の主人公は…"暴力"です。民意を踏みにじり荒れ狂う圧倒的な暴力を前にして、私たちは何ができるのか。もし自分がこうした状況に置かれたら何をなすべきなのか。深く考えさせられる映画でした。アジェンデは最後の放送で、「犯罪が犯されたのです。歴史が彼らを裁きます」と言っていました。この犯罪を記憶し、それを裁く歴史のささやかな一翼を担うこと。できうればそこから始めたいと思います。

 なおこの映画の細部にはさまざまなメッセージが仕掛けられており、それを読み解くのも勉強になりました。例えば、クーデターの直前、アジェンデの側近の家に「ジャカルタ 死」と記された紙で包まれた礫が投げ込まれます。これは1965年、インドネシアで起きたスハルトのクーデターを意味しているのでしょう。多国籍企業の利益を否定し自国経済の保護を優先したスカルノを排除するために、CIAやアメリカ国防総省がスハルトを全面的に援助し、50~100万人の「共産主義者」が殺害されたという残虐なクーデターですね。なお前掲の『ショック・ドクトリン』によると、アジェンデ政権転覆を画策した人々にとってこのクーデターは恰好の研究材料となったようです。容赦ない恐怖と大規模な弾圧を先制的に行なえば、国全体が一種のショック状態に陥り、抵抗勢力を排除できるということ。そしてフォード財団の資金でアメリカに留学した学生たち(「バークレー・マフィア」)が、スハルト政権でテクノクラートの地位を占め、インドネシアを多国籍企業に対してきわめて開放的な環境へと転換させたということ(p.93~7)。つまりチリにおけるクーデターのプロトタイプであったわけですね。
 また、たった一人で革命歌「ベンセレーモス」を歌い殴打された学生のモデルとなったのは、スタジアムで虐殺された伝説的フォーク歌手ビクトル・ハラであること。兵士たちは、彼が二度とギターを弾けぬように両手を打ち砕き、銃で44回撃ったそうです。
 パブロ・ネルーダは、チリの国民的詩人であり、私の大好きなガブリエル・ガルシア=マルケスが「どの言語の中でも20世紀の最高の詩人」と称えていること。9月11日にアジェンデ政権がピノチェトのクーデターによって滅ぶと、軍事政権はネルーダの家に押し入り、調度品を破壊し蔵書を破り捨て、徹底的に家を破壊しました。ネルーダはこのことで絶望し、病状は急激に悪化したといわれます。クーデターの12日後、ネルーダは危篤状態に陥り、病院に向かいましたが、途中の軍の検問で救急車から引きずり出されるなどして、病院に着いたときには亡くなっていました。この二人については、あらためて調べてみたいと思います。

 さあ次は、このクーデターを舞台とした映画『ミッシング』を見ましょうか。
by sabasaba13 | 2014-01-23 06:18 | 映画 | Comments(0)

川瀬巴水展

c0051620_621252.jpg 「す、て、き…」 テレビの前に陣取っていた山ノ神のうっとりとした溜息が耳に入ってきました。これはただ事ではないと駆けよると、なるほどそれはそれは素晴らしい絵が画面に映されていました。南禅寺でしょう、クローズ・アップで描かれた三門が両側に紅葉をしたがえ、雨後の水溜りにその一部を映しています。その色彩や構図の見事なこと。一緒に番組(『日曜美術館』)を見ていると、大正から昭和にかけて活躍した川瀬巴水による版画だということが判明。不覚にも不学にもこの方のことは知りませんでした。千葉市立美術館で展覧会が行なわれているとのこと、互いに見かわす顔と顔、次の日曜日に行くことに即決。
 一月の某日曜日、JR千葉駅からとことこ歩いて十五分、千葉市立美術館に行くと、けっこうな賑わいです。まずは「ウィキペディア」から引用します。
 川瀬巴水(かわせ はすい、1883-1957)は、日本の大正・昭和期の浮世絵師、版画家。本名は川瀬文治郎。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表、日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれる。アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られ、国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気がある。
 彼の全生涯をほぼ網羅した展覧会、心ゆくまで堪能いたしました。宿場町、門前町、港町、農村、社寺仏閣、そして東京の、何ということもないのだけれども心に残る風景を、静謐で美しい版画に仕上げたその技量には唸ります。歌川広重の『名所江戸百景』とつい比べたくなりますが、大胆な構図と斬新な着想という点では広重に軍配をあげましょう。しかしこの美しい静謐感にも心惹かれます。「動の広重」「静の巴水」といったところでしょうか。中でも、闇、雨、雪、そして水面に映って揺らぐ光や物の表現が素晴らしいですね。点景として人物が一人配されている版画が多いのですが、その方になりかわってその風景の中に佇んでみたいという思いにもとらわれました。
 なお購入したカタログによると、養女の川瀬文子氏がある場所をさして「このような綺麗な場所を絵にしたらいいのに」と言ったところ、「なんでもない場所を絵にして良く見せるのがプロだよ」と答えたそうです。見方によって美しく見えるなんでもない場所をどんどん潰していった時代への抗議、そしてそうした場所への追悼という意味合いもあったのかもしれませんね。忘れられない絵師がまた一人増えました。
by sabasaba13 | 2014-01-22 06:03 | 美術 | Comments(0)