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京都錦秋編(1):東京駅(12.12)

 ミケランジェリ奏でるドビュッシーの『子供の領分』のCDを聴きながら、ふと山ノ神は第1曲の名を覚えたかなと確かめたくなりました。「ねえねえ、この曲の名は?」「"パッヘルベル・カノン・パルナッソス博士"でしょ」 前半は壊滅、後半は惜しい。正解は"グラドゥス・アド・パルナッスム博士"でした。部屋に飾ってあるクレーのポスター"パルナッソス山へ"と混乱したのでしょうか。こんなお茶目な彼女と旅をすると無上の喜びと些細な苦悩を味わえるのですが、高齢の、もといっ、恒例の京都錦秋旅行は仕事の関係で同行できませんでした。よって2012年12月初旬、一人で晩秋の京都二泊三日の旅を楽しんでまいりました。今回のコンセプトは、自転車を借りて脚も折れよとペダルをぶんまわし、天馬の如く洛西・洛東をかけまわって有名無名合わせ呑み沢山の紅葉を見ること、そしてトッピングとして近代建築をふりかけることです。ご用達の京都サイクリングツアープロジェクト(KCTP)でレンタサイクルの予約をし、宿も京都駅近くのホテル京阪京都をおさえました。持参した本は『蕪村』(藤田真一 岩波新書705)です。

 2012年11月30日、新幹線のぞみに乗車して京都へ乗り込みますが、天気予報によるとあまり天候は良くない模様です。天下無双の晴れ男と自負しておりますが、やはり山ノ神のご加護がないとお天気powerは半減してしまうのかな。年次休暇がとれたので、すこし早目に出かけてリニューアルされた東京駅を見学することにしました。まずは丸の内南口ドームに行き、原敬首相の暗殺現場を撮影。プレートを転記します。
原首相遭難現場

大正10年11月4日午後7時20分、内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向っていた。そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。原首相はその場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。犯人は、原首相の卒(ママ)いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。
 少々補足しましょう。犯人は、鉄道省山手線大塚駅転轍手の中岡艮一(こんいち)で、供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされています。その他、一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考えるようになったようです。逮捕された艮一は、東京地裁で無期懲役の判決を受けました。なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判でした。その後の艮一は、三度もの大赦で1934年には早くも釈放され、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたそうです。戦前、政党人を殺害した犯人の罪科が軽いような印象を受けるのですが、調べてみましょう。
星亨を殺害した伊庭想太郎は無期徒刑、小菅監獄で病死。

犬養毅を殺害した三上卓は禁固15年の判決を受け、1938年に仮釈放。

浜口雄幸を殺害した佐郷屋留雄は、殺人未遂罪により死刑判決を受け、1934年恩赦で無期懲役に減刑され、1940年に仮出所。

井上準之助を殺害した小沼正は無期懲役となったが、1940年に恩赦で仮出所。
 やはり軍国主義への傾斜が深まると、司法も軍部・官僚に迎合するようになったようです。「国策・国益」に寄り添う判決を乱発する現在の司法のルーツも、このあたりにあるのかもしれません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-04-30 06:27 | 京都 | Comments(0)

言葉の花綵102

 人は二度回心するとき死なねばならぬ。(清水幾多郎)

 歴史は裁くことではなく、理解することですからね。批判するよりも、なぜそうあらざるを得なかったかを理解しなければ。(渡辺京二)

 歴史叙述とは、人間の営みを人間ならざるものの眼で突き放しつつ認識することであると同時に、人間の一切のいとなみの内部に共感をもって浸透することである。(渡辺京二)

 不如省事 (椎名悦三郎)

 誰よりも民衆を愛した君は
 誰よりも民衆を軽蔑した君だ。(芥川龍之介 『レニン 第三』)

 個人の尊重とは、この世に生まれたひとりひとりが自分であることを尊んで、自分が自分でなくなることをおそれること。(樋口陽一)

 差不多 (中国の格言)

 わが国の民衆のもっとも高い、そしてもっとも鮮明な特徴―それは公正の感情とその渇望である。その人間に価値があろうとなかろうと、どこででも、なにがなんでも、かきわけてまえへ出ようとする雄鶏の悪い癖―そういうものは民衆にはない。(ドストエフスキー 『死の家の記録』)

 右でも左でもない、前だ。(緑の党)

 観客に真実を伝えようとするなら、面白くなければならない。(ビリー・ワイルダー)

 君あり、故に我あり。(サティシュ・クマール)

 愛情と配慮、熟練と精魂を込めて良い仕事が成されたとき、その仕事は芸術に姿を変えるのである。(サティシュ・クマール)

 戦争の種子は経済の拡大によって蒔かれる。(サティシュ・クマール)
by sabasaba13 | 2014-04-29 06:33 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『セプテンバー11』

c0051620_6293312.jpg 『11'09''01 セプテンバー11』という映画をご存知でしょうか。2002年に制作されたオムニバス映画で、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件をテーマに、フランスのプロデューサー、アラン・ブリガンが、世界11ヵ国/11名の映画監督にショートフィルムを製作させたオムニバス映画です。「2001年9月11日」を「11.9.01」として、映画を11分9秒+1コマに収めるという条件だけを課した以外は、それぞれの監督が自由に映画を製作できるという試みです。テレビ放映された時に見たのですが、この事件についてきちんと考えなければならないなと思う今日この頃、もう一度見てみたいと思っていました。インターネットで調べたところ、幸い通販で購入できることがわかったので入手し、ひさしぶりに鑑賞しました。
 11人の監督は以下の通りです。イランのサミラ・マフマルバフ、フランスのクロード・ルルーシュ、エジプトのユーセフ・シャヒーン、ボスニア・ヘルツェゴビナのダニス・タノヴィッチ、ブルキナファソのイドリッサ・ウエドラオゴ、イギリスのケン・ローチ、メキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、イスラエルのアモス・ギタイ、インドのミーラー・ナーイル、アメリカのショーン・ペン、そして日本の今村昌平です。
 いずれも面白く興味深い短編映画でした。ただすべての作品に共通していると思えるのは、この9・11が、特別な大事件ではないという視点です。理不尽な暴力とそれによる多くの犠牲者、この事件をそうとらえれば、これは世界の各地で普遍的かつ日常的に起きている事態なのだということです。アメリカおよびいわゆる"先進国"からは不可視の事態ですが。そしてその責任の一端は(あるいはほとんどは)、アメリカを筆頭とする"先進国"にあるという視点です。
 心に残った作品は三つです。まずはボスニア・ヘルツェゴビナのダニス・タノヴィッチの作品。登場人物であるボスニアの女性ムスリムたちは、毎月11日にデモを行なっています。何故か? これはインターネットで調べてわかったのですが、1995年7月11日、セルビア人に殺された夫や息子7,000人を追悼するためのデモだったのですね。いつもどおり集まった彼女たちの前に、テレビは「9・11」のニュースを映し出します。デモに出ることを躊躇する彼女たちですが、主人公の女性は、戦争で両足を失った車椅子の知人男性と二人きりでデモを行ないます。ふと振り返ると仲間の女性たちが後に続いていました。「デモを続けないと。彼らと私たちのために」という呟きとともに。9・11の犠牲者と、世界各地の理不尽な暴力による犠牲者が等価となった瞬間ですね。
 二つめは、今村昌平の作品。アジア・太平洋戦争の戦場で凄惨な体験をした兵士が、精神に異常をきたして復員します。彼は蛇と化し、身をくねらしながら地を這い、鼠を食べ、そして村人に追われて川の中へと消えていきます。最後にあらわれるテロップは「聖戦なんかありゃしない」。戦争を賛美すること、そして人間であることへの強烈な嫌悪と抗議。その射程は、9・11以後に行なわれるであろう戦争への批判をもふくんでいます。
 最後に、イギリスのケン・ローチの作品です。主人公は亡命しているチリ人の男性、彼が「もう一つの9・11」について手紙を書き、アメリカ人に問いかけるという内容です。そう、1973年9月11日に起きたチリのクーデター、アメリカの援助を受けたピノチェトがアジェンデ政権を軍事力で崩壊させた事件ですね。詳細については、『サンチャゴに雨が降る』と『ミッシング』の拙映画評をお読みください。被害者である前に、まず加害者としての立場を自覚せよ、その上で二度とこういう事件が起こらぬよう手を取り合おうというメッセージだと思います。

 実は9・11が起きた時、私は茫然自失しました。なぜこのような事件が起きたのかまったく理解できなかったからです。その後、この事件が起きた理由を知るために、そしてその背景にある世界のあり方を考えるために、けっこう勉強するようになりました。凡百な人生を送ってきた者ですが、私なりに生き方が変わる転機となった出来事です。その頃むさぼり読んだ『現代思想10月臨時増刊 これは戦争か』(2001 vol29-13)からいくつかの文章を引用して筆を置きます。
 アメリカの平和は、他の場所で起こっている破滅的事態で贖われていた。ここにこそ爆撃の真の教訓がある。それがここで起こらないようにする唯一の方法は、それが他のどこであれ起こるのを防ぐことなのである。(スラヴォイ・ジジェク p.21)

 個々人の安全の崩壊は、アメリカ国民にとって初めての衝撃であるかもしれないが、それはいまや現実となった。それは、世界の他の多くの地域において、すでに現実のものだったのである。(イマニュエル・ウォーラーステイン p.33)

 そしてとりわけ、次の黄金率を忘れてはなりません。これこそ、国際関係における天秤になるはずです。すなわち、平等への希望、です。一人の人間がもう一人の人間と同じ価値を持つ、ということ。(ベルトラン・バディ p.63)

 覚えておこう。一般市民を攻撃したり、空襲したりすることは犯罪、つまり殺人罪、である。今までもそうだったし、今もそうだし、これからもそうだ。(ダグラス・ラミス p.137)

by sabasaba13 | 2014-04-28 06:29 | 映画 | Comments(0)

『マイケル・コリンズ』

c0051620_91874.jpg 以前、アイルライドを訪れた時に、独立運動の闘士たちを収容し処刑したダブリンのキルメイナム刑務所を見学しました。その記事にETCマンツーマン英会話さんがコメントを寄せてくれて、映画『マイケル・コリンズ』でジェームズ・コノリーが処刑されたシーンは、まさにこの場所で撮影されたようだと教示してくれました。へえー、アイルランド独立を求めて闘った英雄マイケル・コリンズを主人公とした映画があるんだ、これはぜひ見てみようと思いつつ幾年月、ようやく通販でDVDを入手することができました。監督・脚本はニール・ジョーダン、主演はリーアム・ニーソン、共演はジュリア・ロバーツです。

 12世紀以来英国に支配されたアイルランド。独立を求めてマイケル・コリンズ(リーアム・ニーソン)は、イーモン・デ・ヴァレラ(アラン・リックマン)ら指導者のもと、1916年に「イースター蜂起」と呼ばれる武装蜂起を決行するが失敗しました。彼らが最後に抵抗の拠点としたのがダブリンの中央郵便局ですね。そして運動家たちはキルメイナム刑務所で処刑されますが、もはや立つことも出来なくなっていたため、椅子に腰掛けさせられたまま銃殺されるコノリーも描かれていました。釈放されたコリンズは、「アイルランド義勇軍」なる親衛部隊を率いて、新たな独立運動を展開。ヴァレラと協力しながら、命知らずの青年たちに命じて英国の官憲たちを暗殺していくなど、大胆な戦略で敵を翻弄、独立運動を支えました。そんな彼の安らぎは、彼とハリーを見守る同志の女性キティ・カーナン(ジュリア・ロバーツ)の存在でした。英国は冷酷無比な予備隊「ブラック&タンズ」を送り込み、恐怖政治を敢行。1920年に起きた「血の日曜日事件」、イギリス軍の部隊がクローク・パークで行われていたゲーリック・フットボールを観戦中の民衆に発砲し、14人の市民を殺害した事件も描かれていました。これに対する報復として、コリンズはイギリス軍幹部らを次々に暗殺して反撃、とうとう音を上げた英国は休戦を申し入れました。デ・ヴァレラの命令でコリンズは交渉役として英国に赴きますが、英国の提示した条件は、北アイルランドの分離と英王室への忠誠。彼は苦渋の末、殺し合いを終結させるためにこれを受け容れ休戦条約に調印します。しかしアイルランド国内では、この条約をめぐり賛成派と反対派が決裂、国内は二分され、デ・ヴァレラは反対派の領袖となり、ここに内戦がはじまります。デ・ヴァレラを説得してアイルランド人同士の殺戮をやめさせるために、コリンズは反対派の総本山ウェスト・コークへと乗り込みます。そして…

 盛り上がりや見せ場、映画的な面白さにはやや欠けるものの、アイルランド独立に至る苦難の道のりを、マイケル・コリンズという不撓不屈の人物を通して描いたいい映画でした。特に条約をめぐっての内戦については何も知らなかったのでたいへん勉強になりました。マイケル・コリンズについては、前半におけるイギリスに抵抗する際の果断と冷徹、後半における内戦に直面しての逡巡と苦悩がうまく描き分けられていたと思います。
 一番印象に残ったのは、彼がアイルランドの人びとを前に演説をするシーンです。彼はこう叫びます。「われわれの最大の武器は、英国に対する拒絶だ」 たしかガンディーも同様のことを言っていたと記憶します。少数のイギリス人が広大なインドを植民地として支配できるのは何故か。それは、多くのインド人が、イギリスによる支配に協力するからだ、と。それならばイギリスの支配に協力することをやめよう。これは、今の私たちにも訴求する力をもつ戦術ですね。集団的自衛権の容認、原発の再稼働促進、沖縄の米軍基地の放置、格差社会の維持、私たちを分断し犠牲にしながら、企業・官僚・政治家の権益を追い求める安倍伍長政権に対してどう立ち向かうか。それを考える際の一助になるかと思います。
 もう一つ。イギリスの植民地にされたアイルランドと、アメリカの属国とされた日本が、二重映しに見えてきます。ただそれに呻吟し暴力をともなったとはいえ果敢な抵抗を行なった前者と、気づかない、あるいはそのふりをしている後者には大きな違いがありますが。
by sabasaba13 | 2014-04-26 09:17 | 映画 | Comments(0)

香嵐渓編(10):豊橋(12.11)

 というわけで心温まる足助散策でした。巴川と並行しているのでゆるやかにカーブを描き、先を見通せないわくわくするような道。その両側に櫛比する平入・妻入の古い町屋や商家、入り組んだ狭い路地、T字型の交差点や鍵の手、そして町を見守るような小山、人間が暮らす場所はこうでなくてはと感じます。人間が暮らしやすい町、それを考究したジェーン・ジェイコブスというジャーナリストの存在を、『社会的共通資本』(宇沢弘文 岩波新書)ではじめて知りました。彼女が提唱した、人間的な魅力を備えた都市の四条件を、宇沢氏はこうまとめられています。
第一の原則は、街路の幅はできるだけせまく、曲っていて、一ブロックの長さは短い方が望ましいというものである。人々の生活の必要から自然発生的に形成された街路が望ましいということが強調されている。…
第二の原則は、再開発にさいして古い建物ができるだけ多く残るように配慮しなければならないということである。…
第三の原則は、都市の多様性にかんするものである。都市の各地区は必ず二つないしはそれ以上の機能をもっていなくてはならないという条件である。…
第四の原則は、都市の各地区は、人口密度が十分高くなっているように計画されなければならないということである。(p.120)
 パブロ・カザルスは、「音楽の最大の敵は、単調さである」と喝破されましたが、人間の住む町も同じなのかもしれません。そういう意味で、この足助という町はかなりポイントが高そうです。

 集合時刻の十分前に駐車場に到着、バスに乗り込み出発です。対向車線はこんこんと車が詰まり大渋滞、もしや紅葉のライトアップを見に行く方々なのでしょうか。私としては、ライトアップされた桜や紅葉には食指が動きません。人工的な照明を当てると綺麗そうに見えて、だまくらかされているような気がしますので。やはり陽光のもとで拝見したいものです。そういえば、京都の白川で、ライトアップされた桜を撮影しながら、「きゃー、私たちって大人」とはしゃいでいた女性たちがいましたっけ。
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 そして午後六時ごろ、バスは豊橋駅に着きました。ここで団体行動は終了、各自新幹線に乗って帰途につきますが、一時間ほど余裕があるので夕食をとることにしました。めざすは、豊橋のご当地B級グルメ、カレーうどんです。観光案内所でパンフレットをいただき、駅近くにあるという「玉川うどん店」を紹介してもらいさっそく乗り込みました。三州豚のロースカツを加えたカレーうどんを注文し、パンフレットを読んでいると、豊橋カレーうどんの5箇条と食べ方が紹介されていました。これも後学になるかどうかわかりませんが、転記しておきます。
「豊橋カレーうどん」の5箇条
①自家製麺を使用する
②器の底から、ごはん・とろろ・カレーうどんの順に入れる
③豊橋産ウズラ卵を使用する
④福神漬又は壺漬・紅しょうがを添える
⑤愛情を持って作る

「豊橋カレーうどん」の食べ方
①カレーうどんをふつうどおりに味わう!
   POINT→器の底へ箸をさして混ぜないように。楽しみが半減してしまう!
②うどんを食べすすめると、うどんの下から「とろろがのったごはん」が出てくる!
③カレーと絡めて二度目の味を楽しむ!
 なおウィキペディアによると、豊橋の観光コンベンション協会が、地域おこしのために構想した料理で、ご当地グルメによる地域おこしがブームになっていること、豊橋市うどんは100年以上の歴史があり、うどんの消費量も多いことなどに着目して企画されたそうです。B級グルメによる地域おこしに関しては、「ヤ・キ・ソ・バ・イ・ブ・ル」(渡辺英彦 静岡新聞社)というたいへん面白い本がありますので、よろしければ拙書評をごらんください。おおっ待ちかねたぞ、苦しうない、近う寄れ。ずるずるずる、カレーうどんを一気呵成にたいらげると、なるほど、とろろとご飯が現れました。カレー雑炊のような感じで、これはグッジョブですね。ごちそうさまでした、お薦めの一品です。そして駅に向かい新幹線こだまに乗り込み帰郷。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-04-25 06:34 | 中部 | Comments(0)

香嵐渓編(9):足助(12.11)

 散策を続けましょう。すこし先にあるのが「井筒亀」という肉屋さんで、名物は猪コロッケ。ミンチカツも購入して店先でいただきました。その味は…根岸の里の侘び住まい、それにつけても金の欲しさよ。店頭にころがっていた、縛られた猪の剥製がもののあはれを感じさせてくれます。
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 「蘇民将来子孫也」というお札や、「ドルフィンヨーグルト」の箱などを撮影し、やや行くと「足助中馬館」です。
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 大正元年に建てられた稲橋銀行足助支店の社屋を改装して、足助の商業や金融・交通・町並み等の資料を展示していました。なお中馬(ちゅうま)とは、道程の途中、中継ポイントで次々と馬を換えていくやり方で、山間部の多い信濃や甲斐で発達した物流方法です。なお裏に行くと、巴川に張り出すように建てられた家々を眺めることができます。
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 お釜稲荷の鳥居の脇で、ユニークな形の窓を発見。その先にある志賀酒店は、大きな看板をどんどんどんどんと四つ掲げた懐かしいつくりです。
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 このあたりでUターン、そろそろ集合場所の駐車場に戻りますか。テルミ美容室には解説板があったので、後学のために転記します。
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 初代のおばあさん、通称『まあさん』は日本髪を結って50数年。明治11年生まれの『まあさん』は、髪を結うのが三度の飯より好きで当時50人近く足助にいた芸姑さんの髪をほとんど結っていたそうです。その当時、西盛座で日本髪を結う大会があって、まあさんは舞台の上で芸姑さんをモデルに奮闘した写真も残っています。現在の店主で三代目。
 うーん、後学にはならないかな。でも人に歴史あり、足助の町で女衆の髪を愉しそうに結っていたまあさんのことは(しばらく)忘れないでしょう。三度の飯より好きなことをたずきにして、互いを支え合い、端を楽にする(働く)、そんな町だったのかもしれません。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-04-24 06:36 | 中部 | Comments(0)

香嵐渓編(8):足助(12.11)

 氏曰く、この一揆は、豪商・豪農・村役人に対する打ちこわしと、領主層に対する闘争が結びついていたために、広汎な農民の団結と迅速な行動をよびおこしました。そのために領主側も各個防衛では対処できず、本来幕府によって禁じられていた諸藩の軍事協力を行わざるをえなくなります。幕藩体制そのものを揺るがした一揆なのですね。また、領主の側から恩恵としてあたえられるべき「仁政」を逆手にとり、果たすべき義務を果たさないのに対して、まちがいを正すという主張をともなっていた、つまり「世直し一揆」の嚆矢であったと津田秀夫氏は述べられています。(『日本の歴史22 天保改革』 小学館) なお寺津八幡宮の神官・渡辺政香(まさか)がこの一揆の経過と顛末を記録した「鴨の騒立」に、首謀者である辰蔵と取調べをする役人との面白いやりとりが記されているので紹介しましょう。
 …諸人難渋にて命に拘る趣、右に付世間世直の祭を致し、難渋を救合との事にて、石御堂で会合仕ツタ者。決て諸人に難渋をかくるとて企た義では御座りませぬ。(p.267)
 [多くの人々が困苦にあえぎ、命も危うい事態です。こんなことですので、世の中を変えようという祭を起こし、困苦をお互いに救い合おうと石御堂に集まり、決意した次第です。決して、多くの人に困難をかけようとして起こしたものではありません。]

 御大名ならば思召も御座る処、御旗本では、有を取立、無き者を倒ても御慈悲も御座らず。(p.267)
 [大きな大名ならば御配慮もありますでしょうが、ちっぽけな旗本では米が少しでもあれば取り立て、何にもない者からさえも取り立て、慈悲の心などありません。]

 余り人の喉首しめる者は、間には憂目に逢わねば、黄泉(よみじ)の障りになりまする。(p.267)
 [余り人を痛めていた者は、ときにはつらい目にあっておかないと冥途に行くときにえらいめにあうでしょう。]
 うわおっ。役人を前にしてのこの堂々たる意見陳述、胸がすくようです。民衆の安穏な日常生活を維持することが統治者・富裕者の責務と観念され、その責務の放棄・拒否は私欲優先の不徳なる行為として糾弾されるとともに、不正が放置された場合は民衆が直接に制裁を加える、いわゆる仁政観念あるいはモラル・エコノミーの発露でしょう。極めつけは次の一言。
 上がゆがむと下は猶ゆがみます。
 おじさんはまいった。そう、そうだよね。安倍伍長を筆頭に、現代日本を統制する政治家・官僚・財界諸氏に熨斗をつけて進呈したい言葉です。例えば「いじめ・体罰・登校拒否」といったゆがみも、文部科学省や各自治体の教育委員会のゆがみに起因するところ大ではないでしょうか。安易に彼らを信用せず、疑い、物申す気概を失わないようにしたいものです。辰蔵のように。
by sabasaba13 | 2014-04-23 06:25 | 中部 | Comments(0)

香嵐渓編(7):足助(12.11)

 加東家は酒造業・質屋を営んでいた古い商家で、興味深い解説板がありました。
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 三河最大といわれる加茂一揆(天保七年=1836)は松平に端を発し近郷の参加村数二四七・一万三千人が異常物価高に抗議した住民運動です。作り酒屋であった白木屋は一揆側にとって足助の目標で、柱に鉈で切りつけた跡が残っています。いくつもの酒樽が破られ、酒が川のように流れ出たということです。
 三河一揆、うろ覚えですが、十九世紀前半に起きた激しい農民一揆だったと思います。幸いに座敷にあがることができたので、さっそく鵜の目鷹の目、柱の傷をさがしてみたのですが、私の目が節穴だったせいか、見つけられませんでした。気になったので、帰宅後にこの一揆について調べてみました。たしかこの一揆に関して「鴨の騒立」という記録があったはず、うーんどの本だったっけ、パンッ! 『日本思想大系 民衆運動の思想』(岩波書店)だ。さっそく本棚をごそごそとさがすと、あったあったありました。高橋てん一氏の解説を引用します。
 この年(※1836年)は全国的な大凶作で米価は暴騰し、ことに加茂郡のように山間地帯で田にとぼしい農民の困窮は甚だしかった。この地方は小さな旗本領が多く、領主の役人をかねた高利貸、地主らに対するその日ぐらしの生活に追われるものの対立感情も積っていた。しかも、この地方は山間ながら交通は便利で商業も活発であり、情報も伝わりやすかった。
 一揆は九月二十日夜、松平村・九久平村など加茂郡南部の村々の有志二十余名がひそかに集合し、米・酒などの安売りや頼母子の二年休会および…領主に対する年貢金納相場引き下げなどを要求としてかかげ、その貫徹を誓ったのにはじまった。彼らは翌二十一日夜より行動をおこし、まず手はじめに滝脇村の庄屋宅を打ちこわして気勢をあげ、つづいて六所山、炮烙山をかこむ村々の庄屋・米屋・酒屋などをつぎつぎに打こわし、さらに領主側の陣屋に要求をつきつけてこれを承認させ、次第に領主への反抗を露わにし、一揆の勢力を増大しながら、矢作川支流の巴川にそって下山街道を北上して足助の町にはいり、一部はさらに東北に向かい、主力は足助村民を参加させて反転して尾張藩領寺部を経て挙母城下に進入した。しかし、二十四日の夜明け、矢作川をこえたところで、待ちうけた挙母藩および応援の岡崎藩・尾張藩の銃火にさらされ、五千人をこえる一揆の主力は挙母周辺で壊滅的打撃をうけた。…首謀者は幕府の赤坂役所に引渡され、江戸送りののち、天保9年(1838)、赤坂で処刑が申渡された。(p.477~8)

by sabasaba13 | 2014-04-22 06:33 | 中部 | Comments(0)

香嵐渓編(6):足助(12.11)

 ここから数分歩くと、足助です。入口にあった解説板から転記します。
 足助は、尾張・三河と信州を結ぶ伊那街道の道筋にあたり、古くから海と山を結ぶ物資運搬の要所として栄えました。重要な交易品の一つが塩です。三河湾等でとれた塩は、足助まで船と馬で運ばれ、ここで配合され、包み直されて、険しい山道を運ばれました。このような塩は、"足助塩"や"足助直し"などと呼ばれました。
 足助には、室町時代後期には町場が形成されていたと考えられています。江戸時代には宿場町としても栄えましたが、交易の発展に伴い次第に商家町としての性格を強めていきました。安永4年(1775)の大火で町並みの大半が焼失しましたが、その後すぐに町は再建され、現在でも江戸時代中期以来の重厚な町屋が多く残されています。
 複雑に折れ曲がる伊那街道沿いは、平入と妻入の町屋が混在し、生活感あふれる変化に富んだ景観を見ることができます。足助川沿いには、川岸に高く築いた石積みの上に、離れや土蔵が建ち並びます。
 昭和50年代より住民が主体的に保存に取り組んできた歴史的な町並みは、豊田市足助伝統的建造物群保存地区とされ、平成23年6月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 まずは宿場の入口である西町へ、すぐ目についた常夜灯には寛政11年(1799)の銘があり、秋葉講の人々によって建立されたそうです。落ち着いた雰囲気の町並みを歩いていると、玉田屋旅館がありました。解説板によると、この西町には旅籠や旅館が七軒ありましたが、現在残っているのはここだけだそうです。かつては客引きの賑やかな声で活気にあふれていたのでしょうね。
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 その先にあった商工会は、1886(明治19)年に建てられた警察署を再利用したもの。巴川にかかる中橋を渡ると、いよいよ伊那街道と宿場の中心部です。まずはマンリン小路へ、黒板と白漆喰塗りの壁がいいコントラストになっている狭い路地です。風変わりな名称ですが、昔々ここで商いをしていた林さんの屋号が「万屋(萬屋)」だったので「万林」、はい山田君、座布団一枚。妻入の町屋が三軒並んでいるのもいい風情です。あるお宅には、「防火砂」という古い木札がかかっていました。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-04-21 06:32 | 中部 | Comments(0)

香嵐渓編(5):香嵐渓(12.11)

 さてそろそろ集合時間です。七福坂をおりていると、その脇をスロープカーがのてのてとのぼっていきました。バスに乗り込み、いざ出発。すぐに幕の内弁当がくばられたので、さっそくたいらげました。
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 そしてバスに揺られること二時間弱で香嵐渓の駐車場に到着です。一般的なルートでないためか、渋滞には巻き込まずにすみました。いやはや、駐車場は大変な数の車やバスで埋まっています。道沿いには屋台も立ち並び、観光客で大賑わいでした。そして添乗員さんからは、三時間後にここに集合という指示が出されました。前半は香嵐渓を見学して、後半は近くにある宿場町・足助(あすけ)を散策することにしましょう。人ごみをかきわけて川沿いの道にでると、巴川と河原、モミジの並木、そしてきれいに色づいた飯盛山を一望できました。
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 巴橋を渡って右に行くと、いよいよ香嵐渓に到着です。1634(寛永11)年に足助にある香積寺の三栄和尚が、巴川から香積寺に至る参道にカエデやスギの木を植えたのが始まりだそうで、さらに地元住民などの手によって数多くのカエデが植え足されたり、散策道がつくられたりして現在のようになりました。その数四千本、東海随一の紅葉の名所です。まずは「もみじのトンネル」、背の高いモミジが並木となっています。すこし歩くと、香嵐渓のシンボル的存在と称される待月橋です。たもとには、緑、黄緑、黄、橙、赤と、五色のグラデーションで紅葉していく「五色もみじ」があるそうですが…どれでしょう? 定点観測をしなければわかりませんね。
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 大混雑の橋を渡り、真ん中あたりで香嵐渓の全景を撮影。モミジを愛でながらさらに歩を進めると、香積寺(こうじゃくじ)への参道がありました。石段をのぼり境内に入ると、そこも見事な紅葉で埋めつくされています。本堂から山門を見下ろすと、フォトジェニックな風景を楽しむことができました。
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 ふたたび川沿いの遊歩道に戻り先へと進むと、モミジの古木が巴川に枝をはりだしています。この眺めもいいですね。吊り橋(香嵐橋)を渡って、対岸から写真撮影。一の谷を通り過ぎると国道420号線につきあたりました。ここでUターンして、今あるいてきた道を戻りましょう。きれいな散り紅葉や、飯盛山の斜面を染め上げるモミジを写真におさめながら二十分ほど歩くと、巴橋に到着です。
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 本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2014-04-20 08:43 | 中部 | Comments(0)