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越後編(29):石泉荘(13.3)

 そして清水園のすこし先にある石泉荘へ。入口の門をくぐると、いきなり「おぬし、やるな」と呟きたくなりました。ピエト・モンドリアンの絵のような洒落た意匠の敷石、それが途中でくいっと左へと曲がりまだ見ぬ景色への期待感をかきたててくれます。脇を飾るのは(たぶん)蓮華寺形灯籠、素晴らしいvistaですね。渋い中門をくぐると、今度は右へと曲がりゆく飛石がお庭へと続きますが、そちらに行く前に離れ座敷に上がらせていただきましょう。
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 申し遅れましたが、この場所にはかつて「花菱」という料亭がありましたが、1904(明治37)年に火災で焼失。その後、新津で製油を業としていた石崎家所有となり別邸として使用され、現在では一般に公開されています。この離れは料亭の建物として使われていたそうで、なるほど通人好みの洒落た意匠です。座敷に座りながら池と庭を眺められる開放的な造りが気持いいですね、ここで芸妓をはべらせて、"山ありて山おもしろく 瀧ありて瀧おもしろく 見ゆる庭かな"などと一首ひねりながら酒池肉林の…壁に耳ありクロード・チアリ、これ以上は書けません。
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 それではお庭を拝見させていただきましょう。驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音器、池かと思いきや、なんと新発田川という自然河川でした。自然の地形を上手に利用した河川廻遊式庭園(?)で、樹叢と滝石組・石橋・石灯籠があいまって、野趣にあふれながらも粋な景観を楽しめます。特筆したいのは工夫をこらした意匠の石畳と敷石、見飽きることがありません。ええもんみせてもろた、ここはお薦めです。
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 それでは駅へと向かいましょう。歩いているうちに、ひだる神にとり憑かれたのか無性にお腹がへってきました。これはたまらん、すると渡りに哲也、小嶋精肉店でわが心のメンチカツを売っていました。さっそく購入してむしゃむしゃと頬張りながら歩を薦めます。途中にあった諏訪神社には御柱が祀られてありました。
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 そして新発田駅前に到着、なおすこし離れたところにある月岡温泉に「恋人の聖地」があるそうですが、時間の関係で省略。ここから新潟行きのバスに乗って、木崎へと向かいましょう。お目当ては、木崎村小作争議記念碑と、争議に関する資料を展示している「横井の丘ふるさと資料館」です。詳細については後ほど。事前にインターネットで調べてプリントアウトした地図を持参してきたのですが、どこにあるのか今一つ不安です。駅構内にある観光案内所で訊ねると、バス亭「笠柳」・ふるさと資料館・豊栄駅が記載されている地図をくれましたが、これは後でたいへん重宝しました。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-30 06:34 | 中部 | Comments(0)

越後編(28):清水園(13.3)

 その前にあるのが清水園(清水谷御殿)、新発田藩主の溝口家下屋敷で、元禄時代には遠州流の茶人で幕府庭方であった縣宗知が江戸から招かれ、庭園もつくられました。明治時代になると、越後屈指の大地主・伊藤家の所有に、戦後は北方文化博物館が管理するところとなりました。それに伴い庭師・田中泰阿弥氏が、清水谷御殿の全体を修復し、「清水園」として現在の姿となったそうです。それでは入園いたしましょう。萱葺の渋い総門をくぐると、かつて馬術や弓術の鍛錬が行なわれていた小砂利の道(百間馬場)がのびています。そのさきの中門は、江戸初期の茶匠、千宗旦の高弟・藤村庸軒が京の黒谷、淀看の席の入口に建てた門を新発田に運んだものとされています。
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 中門をぬけると、草書体の「水」の字をえがく大池泉を配した池泉廻遊式庭園が眼前にひろがります。解説によると、庭石を多くは使わない江戸初期の特長をもつ庭園だそうですが、なるほどあまり技巧くささを感じない、雄大な自然美を楽しめる庭園でした。それでも処々に配置された岩島・滝石組・石橋・飛石・石灯籠がいいアクセントになっているのはさすが。ちなみに素人にはわかりませんが、近江八景が取り入れてあるそうです。
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 庭を愛でながら池を廻遊、そして書院に上がりましたが、庭に面した開放的な縁側からの眺めも素晴らしい。書院が池に浮かんでいるような錯覚を覚えます。
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 するとボランティア・ガイドさんがやってきて、清水園についていろいろと教えてくれました。戊辰戦争の際、数千に及ぶ領民が藩主溝口直正に出兵を止めるよう訴願したので、彼はこの清水谷御殿に留まり、新発田は兵火を免れたこと。また書院は戊辰戦争における官軍の本部だったそうで、庄内藩の殿様が詫びに来たとのこと。また庭には八橋と見立てた石があり、「かきつばた」の歌を説明してくれました。"からころもきつつなれにし…"と言うと、「この歌を知っておられる方は年に一人ぐらいです」と褒められました。後はうろ覚えだったのに、もごもご。
 なお清水園ホームページによると、米国の日本庭園専門誌「Journal of Japanese Gardening」の「2005年日本庭園ランキング」の23位に選ばれたそうです。これは、米国在住のダグラス・ロス氏が日本庭園を世界中に紹介するために1998年に創刊した英語の隔月刊誌で、ただ「大きい」「有名」であるだけの庭園よりも、本当にゆったりとした美しい空間に人々の目を向けようと、日・米・豪の専門家たちが日本全国の日本庭園を調査し、庭そのものの質、建物との調和、利用者への対応などを総合的に判断し順位をつけたそうです。参考までに2014年のランキングを見てみると…残念、選外になってしまいました。がんばれ、清水園。後学のため、2014年のベストテンを紹介しましょう。
第1位 足立美術館 (島根 美術館)
第2位 桂離宮 (京都 国有財産)
第3位 湯村-常磐ホテル (山梨 旅館ホテル)
第4位 御所西 京都平安ホテル (京都 ホテル)
第5位 山本亭 (東京 旧個人邸)
第6位 養浩館庭園 (福井 旧藩主別邸)
第7位 無鄰菴 (京都 旧山県有朋邸)
第8位 佳水園皆美 (島根 旅館ホテル)
第9位 栗林公園 (高松 旧藩別邸)
第10位 庭園の宿 石亭 (広島 旅館)
 私が訪れた庭園は、足立美術館、桂離宮、京都平安ホテル、無鄰菴、栗林公園の五つですが、まあ妥当な選択だと思います。「なぜ光明院波心庭が入っていない! 責任者を出せ責任者を!」などと目くじらをたてず、これを話の種にしてあーでもないこーでもないと和気藹藹と言い合うのが、この手のランキングの楽しみ方だと思います。余談ですが、東京に住んでいながら第5位の山本亭は初耳でした。インターネットで調べたところ、葛飾区柴又にある故山本栄之助氏の和洋折衷住宅と和風庭園で、公開されていました。これはぜひ訪れてみましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-29 08:09 | 中部 | Comments(0)

越後編(27):新発田(13.3)

 それでは新発田(しばた)に向かいましょう。村上から三十分ほど普通列車に揺られると新発田駅に到着です。レンタサイクルを駅で貸してもらえるという情報を入手していたのですが、無念なことに冬期は中止、再開は4月1日以降とのこと。いたしかたない、徒歩で散策することになりました。駅構内に掲示されていた蕗谷虹児の複製画を撮影して歩きだすと、いきなり珍しい意匠の透かしブロックを発見。
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 そしてアントニン・レーモンド設計によって1966(昭和41)年に建てられたカトリック新発田教会へ。モダンにして土俗的、なんとも不思議な魅力を発する建築です。観光パンフレットによると、煉瓦は坂町の煉瓦工場から入手、材木は村上の山奥で伐採、ステンドグラスは和紙(夫人のノエミ・ぺルネッサンがデザイン)、潤沢ではなかった予算のなかでレーモンドは土地柄を生かしたシンプルな教会を設計したそうです。"建築はsimple、natural、economical、direct、そしてhonestでなければならない"、彼の言です。内部も、祭壇を中心として半円形に信者席を配列して一体感をかもすなど、ユニークな構造だそうです。内部見学は土日のみで事前予約が必要なのでご注意を。アントニン・レーモンドは以前から気になっていた建築家で、軽井沢の聖パウロ教会の記事でふれております。よろしければご笑覧を。
 そして蕗谷虹児記念館へ。彼の原画800点をはじめ、関係する書籍や資料が所蔵されています。叙情と哀愁に満ちた彼の絵を見ながら、しばし時が経つのを忘れました。なお虹児の絵に出てきそうなこの建物は、国が指定する「公共建築百選」にも選ばれているそうです。玄関が、ガラスのフードで覆われているのは、厳寒の地ゆえでしょう。山田君、座布団一枚もっていきなさい。
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 さてそろそろ小腹がへってきました。「煉瓦屋」という軽食がとれる喫茶店があったので入店してみると、「アスパラみどりカレースパゲッティー」という一品がメニューにありました。店の方にその正体を訊ねると、新発田はアスパラガスの産地で、そのピューレを使った緑色のカレーだそうです。つまりはご当地B級グルメ、喰わいでか。さっそくその一品を注文、アスパラみどりカレーがかかったスパゲッティーをたいらげました。うん、これは美味しかった。アスパラガスのさわやかな旨味が、マイルドなカレーとあいまって、体内の毒素を洗い流してくれるようです。食後の珈琲をいただきながら、これからの行程を確認。水路に沿って歩きながら、清水園、そして石泉荘をめざすことにしましょう。近くにある旧高橋屋旅館と平久呉服店、そして水路の上にある公設市場を撮影。通りの正面には、残雪を戴く山が見えてきます。
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 道路の中央部には小さな穴がありますが、融雪用の水が出るのかな。しばらく歩くと、旧新発田藩の足軽長屋がありました。木造茅葺きの質素な建物で、二軒割り八住居となっています。建築年代は不明ですが、棟札には天保十三年(1842)の文字があったとのこと。歴史的にも貴重な遺構で、重要文化財に認定されています。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-28 07:54 | 中部 | Comments(0)

越後編(26):村上(13.3)

 朝目覚めてテレビの天気予報を見ると、曇り時々晴れ、雨の心配はなさそうです。本日はまず村上を訪れますが、その途中で坂町駅にある転車台を見学する予定です。チェックアウトをし、今夜の宿泊地・長岡への移動の便を考えて、新潟駅のコインロッカーに荷物を預けました。そして7:35発の村上行き普通列車(白新線-羽越本線)に乗り込み8:46に坂町駅で下車。これからの行程を考えると、9:06に坂町駅を発車する特急「いなほ」に是が非でも乗りたいところ。猶予された時間は約二十分、いざ勝負です。ホームからすこし離れたところにある給水塔と転車台を視認できたので、改札から出てその方向に急ぎ足で歩き跨線橋を渡ると、草にうずもれかかっている転車台をすこし近くで見ることができましたが、接近は不可能なのでズームで撮影。なお扇型車庫があったことが敷地から視認できましたが、跡形もなく取り壊されていました。急いて駅へと戻り、特急列車にかろうじて乗り込むことができました。やれやれ、間に合った。何の因果でこんな苦労を背負いこむのか、そう、そこに転車台があるからです。
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 特急「いなほ」は9:14に村上駅に到着。駅でレンタサイクルを借りて、古い町屋めぐりの開始です。駅の近くで、ユニークな意匠の透かしブロックを四つも発見、これはかなりの密度ですね。
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 観音寺には、日本最後のミイラとして知られる仏海上人の即身仏が安置されています。上人はこの寺の住職として布教に尽力し、1903(明治36)に76歳で入寂、遺言にしたがって1961(昭和35)年にその遺体が発掘されたそうです。お会いしてご尊顔を仰ごうかと思いましたが…やめました。怖かったんじゃないやい、時間がなかっただけだい。
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 鍛冶町・小国町とペダルを踏んでいると、鮭をデザインしたマンホールの蓋を発見。ちなみに「鮭・酒・人情」というのが村上の観光スローガンです。町屋が櫛比する通りをのんびりと走っていると、大町のあたりで種田山頭火の句碑を見つけました。"水音がねむらせない おもひでが それから それへ" 1936(昭和11)年にここ村上で開かれた句会で提出した句だそうです。井筒屋は、1869(元禄2)年6月に、芭蕉と曽良が「奥の細道」行脚の途次で宿泊した「宿久左衛門」跡とのこと。
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 ある仕舞た屋の二階側面で、「電氣パン」という浮き彫りを発見。これはもしかすると「民衆理髪」以来の大発見かもしれない。
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 このあたりで路地に入ると安善小路、黒塀が続く情緒あふれる通りです。
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 村上大祭で曳き回される山車「おしゃぎり」を展示している「おしゃぎり会館」の前を走り抜け、村上駅に戻り自転車を返却。駅には「サケリン」というゆるキャラ顔はめ看板がありました。なお瀬波温泉には「恋人の聖地」があるそうですが、泣いて馬謖を切る、時間の関係で訪問は断念しました。わりーね、わりーね、マリーネ・ディートリッヒ。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-27 06:33 | 中部 | Comments(0)

越後編(25):新潟大学医学部(13.3)

 そして1914(大正3)年につくられた、赤煉瓦と白花崗岩による古典主義の新潟大学医学部表門(赤門)と、風格のある煉瓦塀を見学。近くある旧新潟師範学校記念館は、1929(昭和4)年に、創立五十年を記念して建てられました。上昇性と左右対称性を強調するネオ・ゴシック様式で、スクラッチ・タイルが渋いですね。新津記念館は、新潟県三島郡出雲崎町出身の石油王・新津恒吉が外国人迎賓館として1938(昭和13)年に建てた西洋館です。残念ながら、11月24日から4月8日までは冬期休館中でした。
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 1936(昭和11)年に竣工された中村写真機店は、タイル貼りのモダンな建物です。1883(明治16)年に新潟県会議事堂として建てられた新潟県政記念館を撮影し、それではホテルへと戻りましょう。
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 新潟市は自転車レーンが広いので走行しやすく、その見識は高く評価します。地下駐車場で自転車を返却し、もうご用達となった錦屋酒店で地酒「鶴齢」を購入。荷物をホテルの部屋に置き、それでは夕食を食べに出かけましょう。観光案内所でもらった「新潟タレかつ丼お店マップ」によると、ホテルのすぐ近くにある「ぐりる かんだ」で新潟B級グルメ・タレかつ丼が食べられるとのこと。さっそく入店して注文、やがて噂のタレかつ丼がしずしずと登場。揚げたての薄いトンカツを甘辛醤油ダレにくぐらせて、ご飯にのせただけのシンプルな一品です。豚肉とお米の味を純粋に楽しめるその潔さには感銘を受けました。お店マップの表現を借りれば、たいへん毘味でございました。このお店にはメンチカツカレーもあったので、機会があったらまた寄りたいと思います。
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 ホテルの部屋に戻りシャワーを浴びて一献傾けながら、今日撮影した写真を点検。坂口安吾の『日本文化私観』に、1933(昭和8)年に来日した建築家ブルーノ・タウトが、新潟を"日本に於ける最も俗悪な都市"と評したと紹介されていますが、どうしてどうして。趣ある和館や洋館、素敵なお庭、史跡に記念碑、美しい橋梁、素晴らしい都市だと思います。さて、明日は村上・新発田・木崎を訪れ、長岡に宿泊する予定です。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-26 06:44 | 中部 | Comments(0)

越後編(24):日本海タワー(13.3)

 なおこのあたりは「ドン山」と呼ばれ、空砲を撃って正午を知らせていた場所でした。その大砲と番小屋が復元されていました。歩道橋からは日本海を見渡せるのですが、残念ながら曇天のため海は鉛色、佐渡も見えませんでした。近くにあったのが竹内式部の像、うーん、大学受験の際に覚えたなあ。たしか尊皇論を唱えて江戸幕府に処罰された学者だったと記憶しています。
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 後学のため、解説を転記します。
竹内式部(1712~67)
 當地の医家に生る。青年の日上洛して徳大寺家に仕え、儒学、神学を修め、後、家塾を開く。説くところ、神道に基づく尊王思想なり。少壮の公卿多く師事して、その感化により、朝廷の権威回復を志し、為に宝暦九年(1759)京都を追わる。宝暦事件と云い、尊王論者処罪の最初の事件とす。後、友人藤井右門明和事件明和三年(1766)を起こすや、累、式部に及び、翌四年八丈島へ流罪の途中十二月五日寄港地三宅島にて病歿す。
 なかなか格調の高い文章ですね。彼も天皇を道具として利用しようとしたのでしょうか。ユニークな意匠の透かしブロックや、洒落た趣の住宅を撮影し、南山配水場へと向かいます。
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 ここは日本初の二階層配水池で、上部には日本海タワーが乗っかっています。さっそく入場料を支払ってタワーに上って鉛色の空と海を眺めましたが、天気の良い日は素晴らしい眺望でしょう。そして新潟大神宮へ、鳥居のところに「安吾生誕の地」碑があります。"私のふるさとの家は 空と海と砂と松林であった そして吹く風であり風の音であった"(『石の思ひ』より)
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-25 06:35 | 中部 | Comments(0)

越後編(23):川村修就像(13.3)

 公園の西側に行くと、ここにも會津八一の歌碑がありました。"みゆきつむ まつのはやしを つたひきて まどにさやけき やまがらのこゑ" 1946(昭和21)年、彼が先述の北方文化博物館新潟分館に住んでいた時に詠んだ歌です。川村修就という武士の銅像があったのですが、寡聞にして何をされた方なのか存じません。
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 碑文を転記しましょう。
 川村修就は、新潟が長岡領から幕府領になった天保十四年(1843)、初代新潟奉行として着任した。在任九年の間海防に努め、砂防、消防、物価の安定など、庶民生活の向上に力を尽くした。

うつし植えし
   二葉の末に秋の月
梢のかげは
   だれか仰がん

 この歌は天保十五年八月十五日、初めての松苗の植え付けが終わった夜、その感慨を詠んだものである。
 へえー、庶民のために尽力した幕府の能吏だったのですね。これは特段の根拠はないのですが、今の官僚諸氏よりも江戸時代の役人の方が責任感や倫理感に飛んでいたような印象を持っています。ま、下手をうったら切腹という事情もあったのかもしれませんが。電力会社とつるんで原子力(核)発電所を雨後の筍の如く乱立させあげくのはてに深刻な事故を引き起こし福島の人々に塗炭の苦しむを与えてながらも蛙の面に小便反省の気配が見えない官僚の方々など、洛中引き廻しの上獄門晒し首に処したいぐらいですね。「政府が人民を恐れるときには自由がある。人民が政府を恐れるときには専制がある」というトーマス・ジェファーソンの言葉がありますが、江戸幕府は意外と人民を恐れていたのかもしれません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-24 06:31 | 中部 | Comments(0)

越後編(22):坂口安吾記念碑(13.3)

 近くにあった砂丘館は、旧日本銀行新潟支店長役宅であった近代和風住宅でギャラリーとしても利用されています。なお戦前の日銀支店長役宅で残っているのはこちらと福島だけだそうです。會津八一記念館の前には、"於りたては なつなほあさき しほ可せの すそふきかへす ふるさとのはま"という歌碑がありました。1945(昭和20)年4月、東京への空襲で被災した八一が傷心を抱いて帰郷し、故郷に無事着いたことの安堵感を歌ったものという解説がありました。そして護国神社へ、まずは戊辰役殉難墓苑を掃苔。強い潮風でかしいだ松林の中に、小さな墓石がならんでいました。
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 解説板によると、1868(明治元)年1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いの後、薩長を主力とする西軍は4月に柏崎・小千谷を占領、7月には長岡を攻略しました。一方、同月に海路より松ヶ崎に上陸した西軍は新潟を戦場として、東軍(米沢・会津・庄内)と激戦をくりひろげました。その時の西軍戦死者と、他の場所で見つかった東軍戦死者を一緒に埋葬したのがこの墓苑です。『幕末維新変革史 下』(宮地正人 岩波書店)によると、越後口は東北戦争で最も激戦が展開する地域となりました。会津藩にとって新潟港は必要物資の主要な移入口であり、また越後の地に広大な預り地を有しており、同藩は全力をもって防戦態勢を敷きました。他方米沢藩にとって越後は故地であり、その回復を同藩は狙っていたのですね。(p.197) その越後戦線の転機は、黒田清隆に率いられた増援軍が、新発田藩の帰順に助けられ、新潟の北に位置する松ヶ崎・大夫浜に全軍無事上陸したことによると指摘されています。(p.198)
 解説板には"こゝは東西両軍区別なく、いづれも國に殉じた尊い御霊として祭祀する霊苑であります"と記されていましたが、住井すゑの『橋のない川』にあった言葉をふと思い出しました。(第二巻 p.161)
 戦争で一番阿呆を見るのは、何んというても戦死者です。ところが、戦死を阿保やと思わせないように、上の人はふだんからいろいろ工夫します。
 となりにある西海岸公園には、「ふるさとは語ることなし」と刻まれた坂口安吾の記念碑があります。裏には尾崎士郎の揮毫で「坂口安吾が少年の日の夢をうづめたこの丘に彼を紀念するための碑を建てる」とありました。解説板によると、少年時代の安吾は手のつけられないあばれん坊で、旧制新潟中学校時代もほとんど授業に出席せず、毎日砂浜で空を眺めていたそうです。風に抗うように傾く武骨な巨岩が、その姿を彷彿とさせてくれます。その近くには北原白秋のつくった童謡「砂山」の歌詞を刻んだ「砂山の碑」がありました。1922(大正11)年に新潟市で開かれた童謡音楽会に招待された白秋は、子どもたちの歓迎を受けた後、夕刻にここ寄居浜を訪れたと言います。暮れかかる日本海、砂浜、松林という新潟海岸の情景は、柳川に生まれ育った彼に大きな感銘を与え、小田原に帰ったのちこれを詩にして新潟の子どもたちに贈ったのがこの「砂山」でした。なお曲をつけたのは中山晋平と山田耕筰、ふたつとも歌い継がれているのは珍しいですね。ちなみに私は前者の曲の方が好きです。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-23 06:31 | 中部 | Comments(0)

越後編(21):安吾風の館(13.3)

 嘘をつくな、逃げるな、誤魔化すな、眼をそらすな。毒々しいエゴイズムに徹し暗黒の孤独を内にかかえながら、欺瞞と虚飾に挑んだ坂口安吾。現実がどんなにむごたらしく救いがたいものでも、それをきっと見据え、誠実に真摯にそして勇猛に立ち向かい、言葉として紡ぎだそうとした彼の姿勢には学ぶべきことが多々あります。救いがたい現実(現在でもさほど変っていませんが)に向かって炸裂した安吾の言葉を、長文ですが引用します。『堕落論・日本文化私観』(岩波文庫)所収の「続堕落論」の一節です。
 いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
 藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。
 自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。
 それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。満洲の一角で事変の火の手があがったという。華北の一角で火の手が切られたという。甚しい哉、総理大臣までその実相を告げ知らされていない。何たる軍部の専断横行であるか。しかもその軍人たるや、かくの如くに天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。
 藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している。
 昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するとこを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日となった。
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めとも又なさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当りをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒?する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(p.235~8)
 「終戦」「進駐軍」「民主主義」「唯一の被曝国」、そして安倍伍長が鸚鵡のようにくりかえす「経済成長」という言葉なども、むごたらしく救いがたい現実を糊塗するための、ずるい看板、ニセの着物のひとつだと思います。安吾の後塵を拝し、そうした嘘を見抜く力を身につけていきたいものです。なお彼が晩年を過ごした桐生についての旅行記も掲載してあります。よろしければご笑覧下さい。
 なおこちらに掲示されていた「安吾 風の館 周辺施設」で、新潟大神宮の入口に安吾生誕の地碑があることが判明。後で寄ってみることにしましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-22 07:22 | 中部 | Comments(0)

越後編(20):安吾風の館(13.3)

 そして旧市長公舎を再活用した「安吾 風の館」へ。坂口家から寄贈された、新潟市出身の作家坂口安吾の遺品・所蔵資料を展示する施設です。
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 残念ながら展示替えのために、遺品等を拝見することはできませんでした。せめてここを訪れた記念にと、紙くずで埋めつくされた部屋でこちらをきっと見据える安吾を撮影した、大好きな写真をカメラにおさめました。解説によると、撮影したのは林忠彦、「小説新潮」(昭和23年1月号)に「二年ほど掃除をしていない書斎の写真」として掲載されたそうです。それでは、スーパーニッポニカ(小学館)から、彼の生涯についての紹介を引用します。
 坂口安吾(1906―55) 小説家。明治39年10月20日、新潟市生まれ。坂口家は旧家で大地主。放任主義の父、母にもなじめなかった安吾は、幼稚園、小学校、中学とはみだしが多く、まともに通学しなかった。「家」に反逆し孤立した彼を癒してくれたのは、故郷の海と空と風であった。1922年(大正11)県立新潟中学を退学して、東京の豊山中学3年に編入学。中学卒業後代用教員となったが、26年東洋大学印度哲学科に入学。一念発起、寸暇を惜しんで哲学宗教書、梵語、パーリ語、フランス語などを勉強し習得した。28年(昭和3)アテネ・フランセに入学。30年東洋大学卒業。同人誌『言葉』を創刊。31年、処女作『木枯の酒倉から』『ふるさとに寄する讃歌』を発表。32年、新進美貌の女流作家矢田津世子と激しいプラトニック・ラブに陥って苦しみ、京都に転住。38年帰京。太平洋戦争下に大胆破格な評論『日本文化私観』(1943)を発表。
 戦後は混迷錯乱状況のなかで、人間の本質を洞察した『堕落論』(1946)を、その実践として『白痴』(1946)を発表した。これらの文学活動は、戦後の虚脱状態にあった日本人に一大衝撃を与えた。石川淳などといっしょに新戯作派ないし無頼派とよばれ、敗戦当初の文壇の旗手として脚光を浴びた。その後、一躍流行作家となり、1947年(昭和22)名作『桜の森の満開の下』を発表。梶(かじ)三千代と結婚、その反映が『青鬼の褌を洗ふ女』(1947)となる。49年、睡眠薬と覚醒剤による中毒症状が狂暴錯乱の行動をもたらした。50年、『安吾巷談』で世相を切り続け、国税庁や自転車振興会を相手に抗議文を書き注目を集めた。脳出血により昭和30年2月17日急逝。享年50。

by sabasaba13 | 2014-06-21 08:53 | 中部 | Comments(0)