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ヴァロットン展

 今年の夏は、二週間ほどスイス旅行をしました。はじめにチューリヒに二泊、中日にヴィンタートゥールという町へ行き、印象派の逸品が所蔵されているレーマーホルツ美術館を見学。そしてオスカー・ラインハルト美術館とヴィンタートゥール美術館も訪れたのですが、後者ではホドラーやクレーの作品に心を惹かれながらも、ある画家の絵が気になりました。足が棒のようになり疲れていたせいかどんな絵だったかは失念したのですが、静謐な画面がかもしだす不気味さと不安さだけが記憶に残ります。後日に調べてみようと、"Vallotton"という画家の名前をカメラにおさめておきました。
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 帰国後はすっかり忘れてしまい、多忙な日々を送っていたのですが、9月6日放送の『美の巨人たち』で、フェリックス・ヴァロットン(1865-1925)の「ボール」という不思議で怪しい作品を紹介していたのを見ていて、はたと気づきました。ヴァロットン、ヴィンタートゥール美術館で気になったあの画家だ! おまけに三菱一号館美術館で、現在彼の展覧会が開かれているとのこと。これは行かねば、山ノ神を誘って「冷たい炎の画家 ヴァロットン展」を見てきました。
三菱一号館美術館は初めて訪れたのですが、丸の内で最初のオフィスビルである三菱一号館(設計はジョサイア・コンドル)を忠実に復元した建物だそうです。内部は、あまり広くはない展示室が迷路のようにつながっており、関係者以外立入禁止のビルに忍びこんで企業秘密を盗撮しているような不思議な気持ちでした。親密な室内の情景を好んで描いたアンティミスト(親密派)たる彼の作品を展示するには、恰好の雰囲気。
 最初の展示室に入って、まず後頭部をバールのような物で殴られたような衝撃を感じたのが「休息」という作品。下半身をシーツでくるんだ横たわる裸婦、その美貌と均整のとれた肉体、しかし生気のない瞳、人形のような表情、蝋細工のような肌… そのアンバランスには慄然とします。まるで、女性への嘆美とともに恐怖と憎悪が渦巻いているような悪夢。まるで静物画のように、女性の肉体の一部を描いた「4つのトルソ」や「臀部の習作」にも、画家のただならぬ女性観がにじみでているようです。
 そして問題の「ボール」という作品。歪んだような不安定な構図、日なたには小さな赤いボール、日陰には大きな赤いボールがころがっています。帽子をかぶった少女は日なたのボールに向かって駆けていますが、が彼女に襲いかかるように後ろから迫る不気味な木々の影。その彼方には、母親なのでしょうか、少女の存在を無視するかのようにもう一人の女性と佇んでいます。
 「夕食、ランプの光」も、背筋が凍るような絵ですね。夕食のテーブルを囲む四人の家族。少女と青年と女性は仮面のような表情で、その視線は微妙にすれ違っています。もう一人は漆黒に塗り潰された後姿のシルエットで、表情はもちろん服装すらわかりません。森田芳光監督の『家族ゲーム』では横一列に並んで食事をする場面で、崩壊する家族を暗示していましたが、こちらの家族には禍々しさすら感じます。いや、そもそもこれは家族なのでしょうか。大きく描かれたナイフとフォーク、女性の前に置かれた不気味な植物(?)が、見る者の不安をさらに高めます。
 ヴァロットンは1899年、パリの大画商の娘で三人の子がいる未亡人と結婚し、貧乏な画家生活から抜け出したとのことです。しかしその裕福な暮らしは、彼を幸せにしたのか。日陰にある大きな赤いボール(裕福だが息苦しい生活)よりも日なたにある小さな赤いボール(貧しいが自由な生活)を追う少女、そして黒いシルエットの人物が、彼の苦悩と疎外感を雄弁に物語っているような気がします。
 他にも、黒と白の対比を効果的に使った木版画、冷徹なタッチで描いた肖像画も印象的でした。中でも、第一次世界大戦を描いた木版画の連作「これが戦争だ!」が心に残ります。有刺鉄線にからまった兵士の死体、炸裂する砲弾、兵士たちの乱痴気騒ぎ、暗闇に光る銃剣、そして悲嘆にくれる民衆。黒白二色と描線だけで、戦争の禍々しさを見事に表現したその力量と志には頭を垂れましょう。これはゴヤの「戦争の惨禍」にも匹敵する傑作だと思います。
 熱情を抱きつつも冷徹に対象に迫ったフェリックス・ヴァロットン、まるでクリス・エバートのテニス(古いなあ)を彷彿とさせる魅力的な画家でした。これからも彼の作品を追いかけていきたいと思います。

 さすがは山ノ神、入場券を提示するとさまざまなサービスがあるという企画をめざとく見つけました。それでは目の前のビル地下にあるイタリア料理店でパスタをいただき、おまけの珈琲を飲みましょうか。櫛比するお洒落なお店、小奇麗な服装で行き交い食事をとる幸せそうなカップルや家族連れ。まれで、いまだ収束の目途がたたない福島第一原発事故も、普天間基地の辺野古移転問題も、福島や沖縄の人びとを見殺しにしながら軍事力による"安全保障"に固執し暴走する安倍伍長政権も、まるで存在しないかのような平和な光景です。もしヴァロットンが生きていてこの光景を見たら、彼ら/彼女らを、そして私たち夫婦をどんな絵に描くのでしょうか。肌に粟が生じます。
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by sabasaba13 | 2014-09-30 06:37 | 美術 | Comments(0)

『面白い本』

 『面白い本』(成毛眞 岩波新書)読了。伊藤一刀斎曰く、"剣に生きると決めたなら、正しいかどうかなどとどうだっていい。感じるべきは、楽しいかどうかだ"(『バガボンド』第32巻 井上雄彦 講談社) 御意。本に生きると決めたわけではありませんが、掛け値なしに楽しく面白い本をたずねて三千里。本書は、とにかく"面白い"という一点突破にこだわった、ありそうでなかったブックガイドです。著者は書評サイト「HONZ」の代表をされている方だそうですが、稀代の本好きという自負が紙背から沸々とたちのぼってきます。あっという間に読み終えたのですが、仰天…としか言えません。よくぞまあ、世の為人の為には何の役にも立たない、単なる暇潰しで、でも面白い本を見つけられたものです。「いかに手間隙をかけずに自分の付加価値を上げるか」的な本が猖獗をきわめている昨今、「読書は道楽」と言い切るその姿勢には一陣の涼風を感じます。
 またテーマやジャンルの広範さ…というか支離滅裂・驚天動地さは圧巻。トンパ文字、マタギ、毛沢東にポル・ポト、人妻、介錯、回虫、ハダカデバネズミ、ノアの洪水、不死細胞ヒーラ、フェルマーの最終定理、金魚、歌舞伎、エクソシスト、贋作、野糞、ダチョウ、城の作り方、宮大工、刑事、コンテナ、ロボトミー手術、無人島… まるでロートレアモンの詩のようです。これはしばらく楽しめそう、成毛氏に深甚なる感謝をいたします。なお恥ずかしながら私が読んだことがあるのは、『全国アホ・バカ分布考-はるかなる言葉の旅路』(松本修 新潮文庫)と『縛られた巨人-南方熊楠の生涯』(神坂次郎 新潮文庫)の二冊。鉄板中の鉄板ノンフィクションでは、『冷血』(トルーマン・カポーティ 新潮文庫)、『ワイルド・スワン』(ユン・チアン 講談社文庫)、『銃・病原菌・鉄-1万3000年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド 草思社文庫)の三冊でした。
 さて、何から読もうかな。とりあえずドッグ・イヤーをつけたのは、『毛沢東の大飢饉-史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962』(フランク・ディケーター 草思社)、『731-石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』(青木冨貴子 新潮文庫)、『鑑賞のためのキリスト教美術事典』(早坂優子 視覚デザイン研究所)、『はい、泳げません』(高橋秀実 新潮文庫)、『日本全国津々うりゃうりゃ』(宮田珠己 廣済堂出版)、『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』(ハル・ビュエル 日経ナショナルジオグラフィック社)、『新装版 道具と機械の本-てこからコンピューターまで』(デビッド・マコーレイ 岩波書店)、『絵本 夢の江戸歌舞伎』(服部幸雄 岩波書店)、『ご冗談でしょう、ファイアマンさん』(リチャード・P・ファイアマン 岩波現代文庫)、『ヤクザと原発-福島第一潜入記』(鈴木智彦 文藝春秋)、『チョコレートの真実』(キャロル・オフ 英治出版)、『からのゆりかご-大英帝国の迷い子たち』(マーガレット・ハンフリーズ 近代文藝社)、『脱出記-シベリアからインドまで歩いた男たち』(スラヴォミール・ラウィッツ ヴィレッジブックス)、『無人島に生きる十六人』(須川邦彦 新潮文庫)、『もの食う人びと』(辺見庸 角川文庫)です。

 粗品ですが、お礼として、私が出会った面白本も紹介します。成毛氏だったらすでに読んでいるだろうな。ま、蟷螂の斧、蛮勇をふるいましょう。

石光真清の手記』(石光真清 中公文庫)
ジャズ・アネクドーツ』(ビル・クロウ 村上春樹訳 新潮社)
夜を賭けて』(梁石日[ヤン・ソギル] 幻冬舎文庫)
アフリカン・ブラッド・レアメタル』(大津司郎 無双舎)
世界でもっとも阿呆な旅』(安居良基 幻冬舎)
あいうえおちゃん』(森絵都・文 荒井良二・絵 理論社)
グ印関西めぐり(濃口)』(グレゴリ青山 メディアファクトリー)
アメリカ俗語辞典』(ユージン・ランディ編 堀内克明訳編 研究社)
廃墟の歩き方 探索編』(栗原亨監修 イースト・プレス)
アダルト・ピアノ おじさん、ジャズにいどむ』(井上章一 PHP新書306)
西洋音楽史』(岡田暁生 中公新書1816)
20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(宮下誠 光文社新書234)
浅草博徒一代 アウトローが見た日本の闇』(佐賀純一 新潮文庫)
パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツィアビの演説集』(学習研究社)
あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書』(新評論)
ものづくりに生きる』(小関智弘 岩波ジュニア新書318)
by sabasaba13 | 2014-09-29 06:39 | | Comments(0)

言葉の花綵109

 Sauve qui peut (ソーブ・キ・プ) 生き延びられるものは生き延びよ (船長や指揮官が最後に宣言する言葉)

 あのクソったれ連中に僕がまだここにいることを知らせてやりたい。まだ生きて書いているんだぞってことを。(ロドルフォ・ウォルシュ)

 口を割るのは罪ではないが、捕まるのは罪だ。(ロドルフォ・ウォルシュ)

 私が目指したのはただひとつ、次の日まで生きていることだった。ただ生き延びるだけでなく、自分として生き延びることだ。(マリオ・ビラーニ)

 他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤のこびりついた眼鏡よりはましであろう。(エドワード・S・モース)

 私は殺されることはあっても負けることはない。(『老人と海』 ヘミングウェイ)

 空っぽになるまで君を絞り上げてやる、それからわれわれを、その跡に充填するのだ。(『1984年』 ジョージ・オーウェル)

 加害行為は一気にやるべきである。そうすれば相手にそれほど苦しい思いをさせることもなく、その分、相手の恨みを買わずにすむ。(『君主論』 マキアヴェリ)

 人間には食欲と性欲にならんで知識欲がある。(立花隆)

 最後には真実と正義が勝利すると私は信じています。何世代もの年月がかかるかもしれないし、もしこの戦いのさなかに死ぬことになったとしてもかまわない。でもいつの日か、私たちは必ず勝利します。私は敵が誰なのか知っています。そして敵も私が誰なのか知っているのです。(アルゼンチン農業連盟事務局長 セルヒオ・トマセラ)

 国家間の武力紛争は私たちを恐怖に陥れる。だが経済戦争も武力紛争と同じくらい悲惨である。経済戦争はいわば外科手術のようなもので、延々と続く拷問にも等しい。それがもたらす惨害は、戦争文学に描かれた悲劇に劣ることはない。私たちが経済戦争について関心を払わないのは、その致命的な影響に慣れてしまっているからだ。戦争に反対する運動は健全であり、私はその成功を祈っている。だがその運動が、あらゆる悪の根源にあるもの-人間の欲望-に触れずに失敗に終わるという恐れに、私は絶え間なく苛まれている。(『非暴力-最大の武器』 マハトマ・ガンジー)
by sabasaba13 | 2014-09-28 07:28 | 言葉の花綵 | Comments(0)

オーストリア編(20):シナゴーグ(13.8)

 シュテファンスプラッツ(Stephansplatz)駅から地下鉄U1に乗って、次のシュヴェーデンプラッツ(Schwedenplatz)駅で下車。創建740年と伝えられる、ウィーンで最も古いルプレヒト教会を撮影して、路地へと分け入ってまいります。このあたりの三角形エリアは若者向けのカフェ・バーが集まり、飲んで朝まで帰ってこないので「バミューダ・トライアングル」と呼ばれているそうです。ザイテンシュテッテン小路(Seitenstettengasse)には車両通行止めのような鎖がありますが、これはユダヤ人居住区ゲットーの境界線にはられていたものだそうです。鎖に触れると歴史の重みが伝わってくるようです。
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 なおこの通りにはウィーンシティ・シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)があり、警官が物々しく巡邏をしていました。1982年にここでテロ事件が起きたため、警戒が厳重になったそうです。前掲書によると、このシナゴーグのみが戦前からの姿を残しているそうです。普通、シナゴーグは広場の中心に独立して建てられるのですが、ここは建物の中に組み込まれ外観からはそれとはわからず、しかも他の建物と境界を接しています。なぜこうした特異な姿となったのか? このシナゴーグが建てられたのは1824‐26年、当時ウィーンに住んでいたのは富裕なユダヤ人がほとんどでしたが、彼らはシナゴーグをつくることを許されませんでした。皇帝に懇願した結果、やっと建設が許可されたのですが、その条件は、外から見てシナゴーグと分からないようにすること、他の建物と接してつくるというものでした。
 その後、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が生まれ、ユダヤ人はキリスト教徒と同じ権利を持つことができるようになります。税金なしでウィーン市街に出入りすることができるようになり、ユダヤ人の人口は5千人から15万人にふくれあがりました。ジークムント・フロイトやグスタフ・マーラーが活躍したのもこの時代ですね。しかし前述のように、ナチスおよびオーストリア人によるユダヤ人迫害がはじまり、「水晶の夜」事件では、ウィーンにあった90以上ものシナゴーグがすべて破壊されました。このウィーンシティ・シナゴーグだけが全壊を免れたのは、ここに火をつけると他の建物に燃え移り旧市街が大火災になることを恐れたためです。そこでナチスは、内部だけを破壊し、建物はそのまま残したとのことです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-27 06:31 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(19):ウィーン(13.8)

 朝目覚めてカーテンを開けると、青空がひろがっています。この街角も見納めだなと、万感を胸に写真撮影。
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 朝食会場に行き、このオムレツも食べ納めだなと、万感を胸に写真撮影。食事をとりながら、本日の旅程について山ノ神にレクチャー。
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 まずはリンク内にある史跡を歩いて探訪し、フンデルトヴァッサー・ハウスとクンストハウス・ウィーンを見学、そしてアム・シュタインホーフ教会を表敬訪問してリンツへ移動、ペストリンクベルク登山電車に乗ってリンツとドナウ川を眺めるという計画です。チェックアウトをして荷物をフロントに預け、さあ出発。まずは『ウィーン旧市街 とっておきの散歩道』(ダイヤモンド社)と『観光コースでないウィーン』(松岡由季 高文研)を片手に、リンク内の史跡をめぐります。ホテルの近く、シュピーゲル小路(Spiegelgasse)9番地には、シューベルトが交響曲「未完成」を作曲した建物があり、プレートが掲げられていました。
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 シュテファン寺院前から延びる通り、グラーベン(Graben)にあるアンカーハウスはオットー・ヴァーグナーによる設計で、かつてフンデルトヴァッサーがアトリエとして使っていたそうです。ドロテーア小路(Dorotheergasse)に入ると、モーツァルトと因縁の深いアントニオ・サリエリのプレートが掲げられた建物がありましたが、ドイツ語のため由来は不明。申し訳ない、ご教示を乞う。
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 3番地にあるホテル・グラーベンは、フランツ・カフカの常宿で記念のプレートがありました。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-26 06:27 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(18):ウィーン(13.8)

 乗りこんだ列車が到着したのはフランツ・ヨーゼフ駅(Franz Josefs Bahnhof)、ガイドブックの地図を見ると近くにシューベルトの生家があるので寄ってみましょう。地図をたよりに十分ほど歩くと、二階建ての質素な家に着きました。
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 写真を撮って駅へと戻り、路面電車に乗ってウィーン中心部へと戻ります。路面にはローラーブレード禁止のピクトグラムがありました。やってきた路面電車に乗り込んでウィーン中心部をとりかこむリンク(Ring)という環状道路に到着。
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 せっかく公共輸送機関乗り放題のウィーン・カードを持っているのですから、路面電車に乗ってリンクを一周することにしました。オペラ座、オットー・ヴァーグナー設計の郵便貯金局を車窓から眺め、ウラニア天文台のあたりで路線1番に乗り換えです。
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 実は、山手線のようにリンクを一周する電車は走っていないのですね。停車場には美術史博物館のポスターが貼ってありましたが、アルチンボルドの『夏』という絵に大きく"Organic?"。うまい! 昇太さんに座布団一枚。ブリューゲルの『バベルの塔』には"Finished?"。これもうまい! 小遊三さんに座布団一枚。しかしもう一枚の絵がわかりません。上半身裸体の女性像に"Fake?"と記されています、山田君、これは何だい。ああ悔しい。あまりに悔しいので、今必死にインターネットで調べたところ判明しました。やった。ルーベンスの『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』でした。二番目の愛妻を描いた作品で、売却を禁じエレーヌに寄贈するよう遺言に書き残した特別な作品だそうです。愛称は彼女が身にまとっている"毛皮さん"、なるほど"Fake?"とはこの毛皮をさしていたのですね、勉強になりました。
 やってきた1番の路面電車に乗り込みオペラ座の前でおりました。夕食は予想通り…ケバブでしたが、ご用達のお店は材料が切れて二十分待ちとのこと。リンク沿いにある違う店に行って食しましたが、あまりはやっていないのか野菜がしなびていると山ノ神が鋭い指摘。
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 ホテルの部屋に戻り、荷物を整理して明日の移動に備えました。明日は、いよいよ待望のアム・シュタインホーフ教会を拝見して、次の宿泊地リンツ(Linz)へと移動です。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-25 06:22 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(17):デュルンシュタイン(13.8)

 崩壊した城壁をよじのぼると360度のパノラマ、ヴァッハウ(Wachau)渓谷や、のびやかに蛇行するドナウ川やデュルンシュタインの街並みを手にとるように眺めることができました。写真を撮りまくっておりようとすると、二人連れの若い女性がのぼってきて讃嘆の声をあげました。山ノ神が話しかけたところ、ロシアから来られたそうで、街で売っているチョコレートが美味しいと教えてくれました。
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 それでは下界へおりて、しばし街を散策することにしましょう。とある鐘楼でフェイス・ハンティングをし、白壁の続く瀟洒な街並みを歩いていると、お土産屋さんの店頭に飾ってあった絵葉書が目にとまりました。豊満な胸・腹・尻を擁した、まるで***(三文字削除)に生き写しのような小像です。世界史の教科書で見たような記憶がありますが、ガイドブックで調べたところ、「ヴィレンドルフのヴィーナス」でした。身を守るのに適した地形を持つこのあたりの高原地方には、旧石器時代からすでに集落が存在し、紀元前8万年から1万年頃には、ドナウ河周辺にも人が住みはじめたそうです。このヴィーナスはそうした古代文化を物語る重要な出土品なのですね。さきほど船で通り過ぎたヴィレンドルフ(Willendolf)で発見されたそうです。多産や豊穣を祈るための像なのでしょうか。
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 観光用の機関車型自動車に手を振り、花で飾られた瀟洒な家々が建ち並ぶハウプト通りをぶらぶらと歩いていくと、おすまし猫さんを発見。
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 さきほど薦められたチョコレートを購入し、あるお店に入って噂のアプリコット・シュノードルをいただきました。うーん、美味しいことは美味しいのですが、身のちと少なきぞ哀しき。
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 絵になる風景を撮影しながら船着場に戻り、15:10発の船に乗り込みました。幸い青空も広がってきて、風景にも彩りがでてきました。はじめての橋をくぐり、終着のクレムス(Krems)に到着です。
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 ここから列車でウィーンへと戻るので、「Zentrum(街の中心) Bahnhof(駅)」という標識をたよりに駅へと向かいました。構内を表示でウィーン行きの列車を確認すると…おうまいがっ、ちょうど出発したところでした。ところが山ノ神、逆方向に向かう列車を指差して曰く「まだ間に合うから乗りましょ」。あれに乗ると大変な事になるよと懇切丁寧に説明し、次の列車を確認すると約一時間後です。これを奇貨として、クレムスの街をぶらつくことにしました。メインストリートを中心にこじんまりとまとまる小さな街で、しばらく歩いていくと街のシンボルであるシュタイナー門に到着。ここで引き返し、教区教会のあたりを散策して駅へと戻りました。
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 本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-24 06:35 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(16):ヴァッハウ渓谷(13.8)

 オフィスで乗船券を受け取り、船に乗り込んで最上階にあるオープン・エアの座席に陣取りました。なんて爽やかなのでしょう、"利根の川風袂に入れて月に棹差す高瀬舟"と小声で唸りながらメルク修道院を眺めていると、楽しげに談笑されている日本人の家族連れがいることに気づきました。小学生か中学生らしきお子様を見て、いいなあ、私があのくらいの歳で親に連れていってもらったのは船橋ヘルスセンターか谷津遊園だったものなあ、と羨望の溜息をつきました。ん? おぼっちゃまは美しい風景には目もくれず一心不乱にゲーム機をいじっておられます。(ムカムカ) きさまあ、気をつけ、目をつぶれ、歯をくいしばれ、親の金でこんな素敵な所に連れてもらいながら、一顧だにせぬとはどういう料簡だ、その根性を叩き直してくれる、と一喝したいところでした。それを放任しているご親族の方の姿勢にも疑問を感じます。
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 そして定刻通りに出航、船はドナウ川をゆるりゆるりと進んでいきました。まず右手に見えてくるのがシェーンビュール城、川に面して建つ美しい城館です。
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 山の頂に建つのはアックシュタイン城、15世紀の盗賊騎士が捕虜を閉じ込めた後、谷へ突き落したという伝説があるそうです。
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 緩やかな山なみを縫うように滔々と流れるドナウ川、川沿いの道を楽しそうに駆け抜けていく自転車のご一行、古城や街並み、そして斜面を埋めつくすブドウ畑、心の塵が洗い流されて行くような眺めを堪能。そういえば橋がないなあ、と思ったら自動車を載せた平らな渡し船が川面を滑っていきました。
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 船はシュピッツ(Spitz)という街に投錨、自転車を押す一行が陸続と乗り込んできました。12:10にデュルンシュタイン(Durnstein)に着岸、ここはガイドブックに「伝説の古城がそびえるメルヘンの町」という紹介があったので下船して立ち寄ってみることにしました。なおこの遊覧船は、何回でも乗り降りが自由です。聖堂参事会修道院教会と山頂のケーンリンガー城跡を写真におさめて、いざ散策を開始しましょう。
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 まずは船着場の近くに小粋な男女トイレ表示があったので撮影。
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 石のアーケードをくぐって石畳の狭い路地をのぼっていくと、すぐに街の中心部ハウプト通りです。ここから急な石段をのぼってケーンリンガー城跡へと向かいます。
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 途中から眺望が良くなり、ドナウ川や田園、街並みを見下ろすことができました。
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 途中に"ENTRY AT YOUR OWN RISK"という看板があったので、虎穴に入らずんば虎児を得ず、とりあえず進んでいくと手摺のない城壁最上部に到着。多少は危険ですが、眺めは最高です。
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 そして港から三十分ほどで城跡に着きました。西洋史にはまったく疎いのですが、イギリスのリチャード獅子心王(Richard the Lionheart)にまつわる城跡だそうです。第三回十字軍(1189‐92)からの帰途、彼はオーストリアのレオポルト公の怒りにふれ、ここケーンリンガー城に幽閉されたとか。ウィキペディアによると、アッコンを攻め落とした際に、レオポルト公が自身の功績を誇示し旗を掲げたのをリチャードの側近が叩き落としたのが理由だそうです。やれやれ。しかし幽閉とはいっても、実際はイギリスからの身代金が届くまでの間、リチャード王はこの地の名産ワインやアプリコットのリキュールを飲みながら、風光明媚なドナウ河畔での休日を楽しんでいたそうな。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-18 06:34 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(15):メルク(13.8)

 ウィーン西駅に戻ると、構内には、旅行鞄の上にちょこんと座る悲しげな少年の銅像がありました。ドイツ語のプレートがありましたが、不学のため意味がわかりません。エレベーターのドアには、指を挟まれて泣き叫ぶウサギのステッカーが貼ってありました。
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 ウィーン西駅8:56発の列車に乗りこむと、ラックに何台もの自転車が置いてありました。イヴァン・イリイチ曰く、「社会主義への道は自転車社会を通る」「自転車は、環境を汚染せず化石燃料も燃やさない(総有効速度では)地上で最も高速で自律的な移動手段である」。ほんとうにほんとうにほんとうに、見習いたいものです。そして9:28にザンクト・ペルテン(St.Polten)で乗り換えです。少々列車が遅れたので9:35発の列車に間に合うかちょっと心配、ホームにおりると離れたところに一両編成のローカルな列車がぽつねんと停車していました。あわてて走り込み、滑り込みセーフ、やれやれ。
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 9:57に予定通りメルク(Melk)駅に到着。予約をしておいたドナウ川遊覧船はメルクにある船着場から11:00に出航ですので、一時間ほど街を散策できます。なお申し遅れましたが、ウィーン西駅で購入したコンビチケットには、船賃、列車料金、そしてこちらにあるメルク修道院の入場券が含まれています。"倒るる所に土を掴む"(今昔物語集巻28「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」)山ノ神、この入場券を無駄にするわけがありません。Touch and goになるのは承知の上で訪れてみることにしましょう。地図を片手に歩いてくと丘の上に聳える壮麗な建物が見えてきました。
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 駅からあるいて十分ほどで、メルク修道院に到着。11世紀、バーベンベルク家のレオポルト1世が建立したベネディクト派の修道院で、18世紀に改築されてオーストリア・バロックの至宝とまでいわれるほどの華麗な姿になったそうです。マニアとしては、約10万冊の蔵書と手書き本1888冊を収めた図書館を拝見したいのですが、果して時間はあるでしょうか。さすがに名所だけあって、多くの観光客で賑わっています。中庭を取り囲む建物を見るだけで、その絢爛さが実感できます。
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 さて肝心の図書館ですが、建物に入ると長蛇の列ができていました。こりゃだめだ、潔く撤退しましょう。テラスからの眺望が素晴らしいとガイドブックにあったので寄ってみると、期待したほどではありません。船着場までどれくらいかかるのかわからないので、早めに移動することにしました。修道院のもとに佇む優美な街並みを抜けて、メルク川に沿って歩いていくと、二十分弱で到着。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-17 06:33 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(14):カール・ルエガー記念碑(13.8)

 カール・ルエガーはウィーン工科大学の用務員の子として生まれながら、刻苦精励ウィーン大学を卒業して国会議員になり、やがてウィーン市長にまで上りつめました。彼は古色蒼然としたウィーンを近代都市に変貌させます。映画『第三の男』で有名な壮大な下水道は1860年代にはすでに完成されていましたが、さらに全市にガスを行き渡らせ、電気を供給し、ガス灯や市電も普及させます。ヒトラーも厄介になった貧民救済施設の建設にも積極的で、その支持層は彼自身の出身階級である手工業者や商人あるいは未熟練労働者から成る下層中産階級であり、禁欲的なつましい生活を続け、熱心に教会に通い、どこまでも実直でまじめで敬虔で保守的なカトリック教徒でした。そして忘れてはいけないのが、こうした実直な人々こそが最も過激な反ユダヤ主義者だったことです。
 彼はキリスト教社会党を率いてまず国会に進出し、そこでもユダヤ人を攻撃して憚りませんでした。「ユダヤ人が誰であるかは私が決める」とは、彼の有名な台詞です。しかし、ウィーン市長選に打って出るころから、その過激な姿勢を改めます。当時のウィーン市長は市民によって直接選ばれますが、最終的には皇帝が承認することが条件でした。ユダヤ人をはじめ多民族から成っているハプスブルク帝国を維持するにはこうした露骨な反ユダヤ主義の主張は好ましくないとして、フランツ=ヨーゼフは三度も彼の承認を拒否したのです。そして四度目にしてやっと彼をウィーン市長として承認しました。
 さて、ウィーンには、さらに過激な反ユダヤ主義者であり「汎ドイツ主義運動」を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーがいたのですが、彼はカトリックを敵に回してブルジョワ階級だけを支持基盤としていたためその勢力は弱体化していきます。当時ウィーンにいてこうした動きを観察していたヒトラーは、個々の政策よりも、カール・ルエガーのような大衆を惹きつけるカリスマ性こそが重要なのだと結論付けます。著者の中島氏は、ルエガーの「まれに見る人間通」(『わが闘争』)や「賢い戦術家」(同書)ぶりにヒトラーは脱帽し、学んだのではないかと分析されています。あらゆる人間の心理状態を見抜き、そのうえで人の心をつかむ天才的能力、それこそがヒトラーの「成功」の要因であったのではないか。ルエガーの葬儀(1910.3.10)を見たヒトラーは、『わが闘争』のなかでこう述べているそうです。
 強烈な印象を与える葬列が、亡き市長を市庁舎からリンクのほうへ導いていったとき、私もこの悲劇を観る数十万の人々の中にいた。内的感動に揺さぶられながら、同時に、この男の仕事もまた、この国を滅亡に導く必然によって無益とならざるをえなかったのだ、という感じをもった。カール・ルエガー博士がドイツに生まれていたら、彼はわが民族の偉大な人物の列に並んだであろうに。彼がこの無能な国で働いたということが、彼の仕事と人生にとって不幸であった。
 そう、このカール・ルエガーの顕彰碑が、ウィーン西駅前に一目を憚らず堂々と屹立しているのですね。なお中島氏によると、ウィーン大学前のリンクも「カール・ルエガー博士リンク」のままだそうです。(『地球の歩き方』で確認すると…ああ確かに) 歓呼をもって迎え入れたヒトラーは歴史から抹殺し、彼の師とも言うべきルエガーは歴の記憶にとどめる。ウィーン市民の反ユダヤ意識はそれだけ根深いということなのでしょうか。ファシズムと反ユダヤ主義の関係を完全には清算しきれていないように思えます。もちろん、天皇の命のもとに戦えば、A級戦犯であろうと、どんな非人間的な行為(強姦・一般市民の殺戮・放火・略奪…)を行おうと、英霊として祀る神社を有する私たちは、とても批判できる立場にはありませんが。過去の歴史とどう向き合うのか、それを考えるうえで是非多くの人に訪れてほしい場所です。

 なおこれは帰国後にわかったのですが、市立公園には彼の銅像があるそうです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-09-16 06:35 | 海外 | Comments(0)