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鼓童(2)

c0051620_7324299.jpg 前置きが長くなりましたが、いよいよ鼓童の演奏の始まりです。休憩十五分をはさんで約二時間の公演、心の底まで堪能致しました。大きな和太鼓を力いっぱい目いっぱい打ち鳴らす、ドライブ感と迫力にあふれた演奏のみ…と勝手に思い込んでいたのですが、さにあらず。銅鑼や仏具などさまざまな打楽器に笛や鉄琴も加わり、コンテンポラリー風のダンスもおりまぜた、モダンな演奏でした。音の強弱やテンポの緩急の使い分け、音のニュアンスへのこだわり、聴衆に音楽で感興を与えようとする姿勢がよく伝わってきます。メンバーの前田剛史氏が"以前の鼓童というのは、歯を食いしばって、汗を飛び散らせながらデカい音を出してなんぼみたいなところが少なからずあった"とプログラムに書いておられましたが、芸術監督に迎えた坂東玉三郎氏の影響で変化したようです。プログラムから彼の言を引用します。
 そして私は、将来に向かって音楽性を重視した太鼓というものが何であろうかと考えていたのです。それは打ち手が、作曲家の意図に忠実に、速度や強弱等が十分に制御されそして抑制されていなければならないということでした。自由な表現というものは、それらの事柄が制覇され、打ち手が客観性を持って初めて成し得ることだと気が付いたのです。そして何よりも、太鼓で奏でる音楽を聴衆が「長い時間聞いていても心地良いと感じてくれること」に最大の目的を持っていかなければならないと考えたのです。
 はい、その意図は十分に達成されていたと思います。変化に富んだ演奏で、まったく飽きずに心地良く音楽を楽しめた二時間でした。やはりパブロ・カザルスが言ったように、音楽の最大の敵は単調さなのですね。とは言っても、やはりffの迫力は凄かった… 心が、体が、ホールが、空気が、地球が、宇宙が、太鼓の鼓動に共鳴し打ち震えました。これがカタルシスなのですね、心身に積りに積もった日々の澱がきれいに洗い落され、生まれ変わったような爽快感を覚えました。これはくせになりそう、ぜひまた聴きにきたいものです。

 帰途、池袋の西武百貨店に寄り、「たいめいけん」のカレーと「華鳥」のとり天中津からあげを購入。家に帰っておいしくいただきました。前者は値が高いのでもう買うつもりはありませんが、後者はほんとうに美味でした。素晴らしい音楽、美味しい食べ物、楽しい散歩、ほんとうに良き一日でした。

 ふと思いついたのですが、エル・システマ日本版をつくってはいかが。心に闇を抱え、貧困や孤独に悩み、暴力やドラッグに走りそうな子どもや若者たち、彼ら/彼女らが集まって仲間とともに太鼓を打ち鳴らせば、とてつもなく豊かな精神世界にふれられ、喜びと希望をもてるようになるのではないでしょうか。
by sabasaba13 | 2014-12-30 07:33 | 音楽 | Comments(0)

鼓童(1)

 和太鼓の演奏集団、「鼓童」のコンサートが文京シビックホールでおこなわれるという情報を入手、常々聴いてみたいものだと思っていたのでさっそくチケットを購入しました。なお私はてっきり「鬼太鼓座(おんでこざ)」が「鼓童」と改名したのかと思っていたのですが、これが勘違いでした。まず鬼太鼓座の成立については、越後編でも書きましたが、わが敬愛する宮本常一がからんでいます。早稲田大学を血のメーデー事件で放校された田耕(でん・たがやす 本名:田尻耕三)が、渋沢敬三邸に居候していた宮本常一を訪ねたのが1956(昭和31)年のこと。彼の書『海に生きる人びと』を読み、日本にも昔から民主主義があるということをやさしい言葉で教えられたためでした。宮本の影響で全国の離島を無銭旅行した田が、佐渡で出会ったのが、古くから伝わる和太鼓芸能・鬼太鼓でした。十年後、宮本のもとに田から、「鬼太鼓座という若者芸能集団をつくり、伝統芸能の復活を通して佐渡の若者たちに自信を回復させたい」という電話がかかってきました。以後、宮本は佐渡に行くたびに彼らを励まして回ったそうです。
しかし1981(昭和56)年、田耕は「鬼太鼓座」メンバーと別れ、一人佐渡を去ってしまいます。その際に田耕は「鬼太鼓座」の商標権と太鼓道具等を引き上げ、新しい鬼太鼓座で活動を始めたため、名称を「鼓童」としました。そして新たに楽器購入にあたり地元佐渡の銀行から融資を得て、佐渡の小木を根拠地として現在に至ります。
 なお分裂の理由についてはよく分かりません。音楽に対する意見の相違なのか、あるいは佐渡に対する思い入れの差なのでしょうか。それはともかく初めての和太鼓演奏、「鼓童ワン・アース・ツアー2014」、楽しみです。

 開演は天長節の午後二時、場所は文京シビックホール。雲一つない快晴、気温もそれほど低くはないということで、山ノ神とちょっとしたデート気分にひたれる計画を立ててみました。まずは「神田まつや」で蕎麦をたぐり、秋葉原でメイド喫…もといっ、電気屋によってイサム・ノグチの「あかり」を物色。中央通りを歩いて北上し、「うさぎや」でどら焼きを購入。春日通りを西行して湯島天神に寄って、知りあいの受験生のために御札を入手。歩いて文京区役所へ行き25階の展望ラウンジで東京を睥睨し、併設されているレストラン「椿山荘」でコーヒー・ブレイク。そして区役所内にあるシビックホールに入場。いやあ、渋いなあ、大人だなあ、侘び寂びだなあ、偕老同穴だなあ。
 さて当日です。「神田まつや」と言えば池波正太郎も足繁くかよった名店、昼時には長蛇の行列が予想されます。よろしい、午前11時の開店と同時に入って、つつっと蕎麦をたぐり、店の前に連なる行列を尻目に旗本退屈男のように(なんだそれは)颯爽と去りゆくというシナリオは如何。というわけで地下鉄丸ノ内線淡路町駅から地上に出たのが午前10時58分…白旗をあげましょう。もう長蛇の行列が出来ていました。堪え性のない私、以前にも食べたことがあるし、ここは撤退して「肉の万世」に行こうかと山ノ神に秋波を送ると、彼女はここで食べる気満々。引くところは引いて押すところは押さないのが、夫婦円満の秘訣。ようがす付き合いましょう。古い建物の佇まいや「受聞新便郵」を眺めながら待っていると、三十分ほどで中へ導かれました。
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 もちろん相席、さっそく天もり(山ノ神)、大天もり(宿六)、そして季節限定「冬至そば ゆずきり」(シェア)を注文。あっという間にたいらげましたが、葛をねりこんだ蕎麦は香りといい舌ざわりといいなかなか美味でした。
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 なおこの神田須田町界隈は、鳥のすきやき一筋の「ぼ多ん」、汁粉屋の「竹むら」、鮟鱇料理の専門店「いせ源」、火事による焼失から再建された「かんだやぶそば」、漱石も食したかきあげの「松榮亭」、昭和初期より続く喫茶店「ショパン」、下町に根づいた「近江屋洋菓子店」、明治35年創業の「神田志乃多寿司」といった古武士のような老舗が犇めいております。
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 またこのあたりは空襲をまぬかれたようで、山本歯科医院や二匹のけったいなライオンを戴く看板建築などレトロな物件が散見されます。
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 それでは万世橋を渡って秋葉原へ参りましょう。中学・高校・大学の頃は、石丸電気でよくレコードを買ったものですが、それ以来とんと御無沙汰しております。その石丸電気もヤマギワ電気も今はなく、すっかり様変わりしてゲームとアニメとメイドの街になってしまったかのようです。記念にメイドの顔はめ看板を撮影。肝心の「あかり」は結局見つかりませんでした。
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 中央通りを北上して「うさぎや」でどら焼きを購入。そして春日通りを西行して湯島天神へ、知人のために「入試突破」鉢巻を買いました。
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 さらに歩いていくと、「サッカー通り」というけったいな名の通りがありましたが、その先に日本サッカーミュージアムがあるからなのかな。バイクに跨ったサンタクロースと、啄木が下州をしていた喜乃床跡を撮影。このあたりは以前に啄木・賢治・一葉の関連物件めぐりをしたことがあります。よろしければ本郷編をどうぞ。
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 そしてゴールの文京区役所に到着、とるものもとりあえず25階の展望ラウンジへのぼってみました。スカイツリーや筑波山がよく見えましたが、残念ながら富士山は雲と靄でかすんでいました。開演時間も迫ってきたので珈琲はカット、区役所に併設されているシビックホールへと向かいましょう。
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by sabasaba13 | 2014-12-29 08:00 | 音楽 | Comments(0)

『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ』

 『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ エル・システマの奇跡』(トリシア・タンストール 東洋経済新報社)読了。いやあ嬉しいですねえ、硬骨の報道写真誌『DAYS JAPAN』(2014.12)に、「エル・システマ」を紹介する記事が掲載されていました。簡にして要を得た一文なので、紹介いたします。
 1975年、経済学看であり音楽家のホセ・アントニオ・アブレウ氏は、「ベネズエラ国立青少年オーケストラネットワーク(通称、「エル・システマ」)」を設立した。子どもたちに音楽教育をする国家基金だ。今では国中で、約30万人の子どもたちや青年たちに無料の音楽教育を受けさせるまでに成長した。そしてその音楽教育システムは、世界的に知られるようになった。
 今では全国285か所に支部があり、子どもたちは単に音楽の授業を受けるだけでなく、ここで思いやりや規律、連帯や調和などを学ぶ。こういった基本的な資質は、オーケストラの演奏にも必要だが、暴力や犯罪、社会の分断に晒されているベネズエラの子どもたちにとって、将来、社会を成長させていくために必要な能力となるのだ。そういう意味で、このプロジェクトは音楽を超えた成果を発揮している。
 また音楽をとおして、身体や精神に障がいのある若者たちを社会に参加させるプログラムにも取り組んでいる。彼らに課外活動の場を提供することで、その家族にも自由が与えられ、生活の幅を広げることにも一役買っている。
 この音楽プログラムに参加する子どものたちの実に70パーセントが、貧困層の出身だ。現在20歳のアンドレスは、早くに父を亡くし、母はドラッグに溺れたため、6歳の時から路上生活を余儀なくされた。しかし、彼が12歳で行き着いた孤児院に「エル・システマ」のプログラムがあったことで、彼の人生は音楽と交差し始めた。初めて楽器に触れてから8年経った今、彼のトランペットの音色は、音楽が人生に喜びと平和をもたらすことを証明している。現在、彼は音楽家として活動するだけでなく、「エル・システマ」の支部で子どもたちにオーケストラの指導もしている。
 この学びと教えの伝承は、今ではベネズエラの著名なオーケストラの楽団員たちにも浸透している。彼らは国内だけでなく世界中で、「エル・システマ」のプログラムを広めている。音楽が社会変革と自己克服のツールであることを証明しているのだ。
 2009年からロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督を務めるグスターボ・ドゥダメルもそのひとりだ。また13年、オーストリアのザルツブルグ音楽祭では「エル・システマ」が特集され、ベネズエラから招待された約1200人のメンバーが演奏した。今後も、「エル・システマ」は多くの子どもたちにチャンスを与え、そして人生を変え、これからも平和と調和の旋律を奏で続けるだろう。
 音楽教育者のトリシア・タンストール氏が、実際にベネズエラを訪れ、このオーケストラの関係者や団員の子どもたちを取材して結実したのが本書です。ほんとうにこんな奇跡のようなことが起こるのか、はじめは耳を疑ってしまいました。しかし現実なのですね。もう一人、エステバン君の例も紹介しましょう。
 痩せっぽちで用心深い目をした9歳のエステバン君は、カラカス市内の貧困地区で暮らしている。ここは掘っ立て小屋のような家が丘の斜面にひしめき合っている。水が出ないこともあれば、電気がつかないこともある。どちらもダメ、という日もある。
 夜、怒鳴り声やエンジンをふかす音が聞こえてくると、妹は怖がって眠れない。兄は15歳で学校へ行かなくなり、家にも寄りつかなくなった。ギャングに入ったのだ。父親は刑務所で服役中。最後に会ったのはいつだったか覚えていない。
 エステバン君も学校でしょっちゅう問題を起こした。勉強にもついていけず、先生に「お前は、ばかだ」と言われた。でも、1年前からシステマのラ・リンコナダ教室でバイオリンを習い始めて、自分は愚かではないことを知った。最初から楽器を持たせてもらい、今ではモーツァルトやヴィヴァルディの曲を弦楽アンサンブルで弾いている。バイオリンを自宅へ持って帰り、家でも練習する。
 教室は自宅から遠いが、毎日学校から帰ってくると、お母さんにメトロの駅まで送ってもらい、そこから無料送迎バスに乗る。お母さんは仕事を増やしたいが、そうなったら幼い娘の面倒は誰が見てくれるか心配していた。だから最近、エステバン君はお母さんにこう言った。
 「もうバス停まで送ってくれなくても大丈夫。妹も音楽教室に連れていくよ」 (p.168~9)
 キーワードは「音楽を通して子どもたちを救う」。アブレウ氏やドゥダメル氏、教師や関係者、そして子どもたちへのインタビューを軸に、タンストール氏自身によるさまざまな見聞をもとにして、エル・システマの"奇跡"を追った素晴らしいドキュメントです。一読、音楽と子どもたちへの信頼と愛情の上に築かれたそのやり方には胸が熱くなりました。合奏には他者への思いやりと協働が必要、それが人間としての成長につながる。そして、オーケストラはコミュニティーであり、そこでは自分に居場所があり、存在意義がある。音楽を通してコミュニティーの一員となり、連帯感と社会の規範を学ぶことができる。このシステムを支える方々の温かく人間的な信念がひしひしと伝わってきます。ホセ・アントニオ・アブレウ氏の言葉をいくつか紹介しましょう。
 住むところや食べるものに不自由している状態だけが貧困ではない。孤独であるとか、他人に評価されないとか、精神的に満たされていない状態も貧困である。物質的に恵まれない子どもが、音楽を通して精神的な豊かさを手にしたとき、貧困が生む負の循環は断ち切られる。(p.7)

 貧困は人の個性を失わせる。(p.60)

 オーケストラが子どもたちに与える意義は、喜びであり、モチベーションであり、チームワークであり、成功である。音楽は社会に幸せと希望をもたらす。(p.61)

 音楽から生まれるとてつもなく大きな精神世界は、物質的な貧困を打破する。(p.61)

 貧しい人たちの文化が貧しい文化であってはならない。(p.62)

 あなたはA、B、Cという3つのことしか知らないとします。でもそれは、あなたにはAとBとCを教えられる能力があるということ。あなたには教える責任がある。教えることによって自らも学び、あなたの力はさらにDやEやFまで伸びていく。(p.89)

 この国のすべての子どもたちが、無料で思う存分音楽を楽しめるようにするという目標を達成するまで、システマは拡大し続けます。(p.115)

 社会を芸術に触れさせるという発想はやめて、芸術のなかに社会を取り込む。いちばんつらい思いをしている弱者、すなわち子どもたち、そして他者から人として認められ、尊厳を保ちたいと願う人たちのために芸術を役立てるべきです。(p.148)
 音楽教室の数は約300、それぞれが複数のオーケストラを持っており、人口が3000万人に満たないベネズエラで、およそ37万人の子どもたちがシステマに参加しているとのことです。さらに感銘を受けたのが、2010年度の事業規模は約1億2000万ドルで、その大半は連邦政府からの助成金、残りは一般の寄付や預金金利などによって賄われているという事実。(p.59) ベネズエラ政府の見識と高い志に敬意を表します。それに対して、教育予算を徹底的に削減し、子どもたちに競争を強要し、良き社会をつくる学力よりも権力と権威に黙従する要領を身につけさせ、経済成長を支える使い捨ての部品としての資質を鍛え、最終的には国家権力に抗わぬ愛国心を育成しようとする、わが日本の教育。「子どもたちを救う」と「子どもたちを洗脳して利用する」、彼我の違いには暗澹とします。ま、多くの方々が暗黙のうちに了解しているのかあるいは無関心の結果なのかは、はたまた積極的に支持しているのかはわかりませんが、しばらくはこの路線が続きそうです。やれやれ… ドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラによる『フィエスタ』というCDがあるそうなので、さっそく購入して耳を傾けながら、いろいろな意味で遠いベネズエラに思いを馳せることにしましょう。

 追記。朝日新聞(14.12.22)に気になる記事が載っていました。『反米大陸』でも紹介しましたが、これまで故チャベス大統領のもとに反米・反新自由主路線を歩んできたベネズエラ。財政赤字と高いインフレ率、そして原油安によって経済状態が悪化しているというニュースです。さらに盟友キューバがアメリカと関係を改善、また同様の動きを見せる南米の国も増え、孤立化も進んでいるとの分析でした。アメリカ合州国民の現状と暮らしがいかに凄惨なものか、堤未果氏のレポートを読めば一目瞭然。安易にアメリカにすり寄るのもいかがなものかと思うのですが。いずれにしてもエル・システマへの助成金がどうなっているのか、気がかりです。
by sabasaba13 | 2014-12-28 07:43 | | Comments(0)

オーストリア編(79):パッチャーコーフェル(13.8)

 それでは出発、頭を雲の上に出すノルトケッテ連峰や、インスブルックの街並みを愛でながらのんびりと二時間ほど歩くとトゥルファインアルム(Tulfeinalm)に到着。
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 ここには食事ができる店があったので軽食と珈琲でもいただこうかとテーブルに座りましたが、混雑しているためかなかなか注文をとりにきてくれません。ま、それほどお腹もへっていないのでトイレだけ借りて退散することにしました。
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 ここから一人乗りのリフトに乗って山を下り、二人乗りのリフトに乗り継いでトゥルフェス(Tulfes)という町に下ります。このリフトからの眺めも素晴らしいものでした。ノルトケッテ連峰のふもとに広がる緑野と寄り添うように建ち並ぶ家々、リフトから落ちないように気をつけながら写真を撮りまくりました。
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 そしてリフト降り場の前にある駐車場に行き、ここの停留所からポスト・バスを待ちます。近くの街並みを撮影していると、幸いすぐにバスがやってきました。
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 美しいチロルの風景を車窓から楽しんでいると、約三十分でインスブルック中央駅に到着。
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 ただいまの時刻は午後三時ちょっと過ぎ、インスブルックの街歩きを楽しんだ後、標高2334mの展望台、ハーフェレカー(Hafelekar)にのぼることにしましょう。ここインスブルック(Innsbruck)は「イン川にかかる橋」という意味で、チロル州の州都です。12世紀にイン川のたもとの集落にはじまり、15世紀にはこの町を愛したマクシミリアン1世の統治下に発展を遂げました。女帝マリア・テレジアをはじめ多くの皇帝に愛され、約650年にわたりハプスブルク帝国の「影の首都」と呼ばれたそうです。1964年と1976年の二度、冬季オリンピックも開催されました。なお私たちがここインスブルックを訪れるのは、何年か前にスキーのために来て以来、二度目です。夏に来るのははじめてなので、楽しみにしています。

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2014-12-26 06:25 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(78):パッチャーコーフェル(13.8)

 朝目覚めてバルコニーに出ると、雲が多いながらも青空が垣間見えています。雨の心配はなさそうです。ホテルのレストランで朝食をいただき、身支度をととのえトレッキング・シューズを履いてさあ出発。
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 ホテルの近くにあった木樋の水飲み場でペットボトルに水を詰め、豚の丸焼き看板を写真におさめ、歩いて数分のところにあるロープウェイ(Patscherkofel bahn)の山麓駅に到着。山上までの片道切符を購入して乗り込みました。なお余談ですが、「インスブルック・カード」を購入すれば周辺のロープウェイ各一往復が無料で乗れることが後に判明。もったいないことをしました。
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 それはさておき、オリンピックの五輪マークが記された赤いロープウェイの乗客はわずか数人、思う存分に風景を眺めることができました。窓ガラスに貼ってあったピクトグラムは、「窓ガラスに頭をつけて眺めると危険」という意味でしょう。
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 そして標高1951mの山頂駅に到着、すぐ近くには入場無料のアルペン植物園(Alpengarten)があったので寄ってみました。咲き誇る高山植物の中に、エーデルワイス(Edel weiss)がありました。実際に見るのははじめてですが、綺麗な花ですね。高貴な(edel)白(weiss)という命名も納得。なお花言葉は、「高貴」「大切な思い出」「忍耐」「尊い思い出」だそうです。
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 山頂駅はパノラマ・レストランとなっていたので、トイレを拝借。気がつけば雲も消え、青空が広がっています。展望台に行くと、インスブルックの町とその背後に聳えるノルトケッテ連峰が一望できました。
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 さあこれからツィルベンヴェーク(Zirbenweg)というハイキング・コースを歩きます。ツィルベとはコース上にたくさん生えているしもふり松のことで、とても香りがよく、家屋や家具の材木として好んで使われるそうです。コースは平坦でわれわれのような極楽蜻蛉ハイカーでも問題なく歩けましたが、下りで足をくじかないよう、また少し岩場もあるのでトレッキング・シューズは履いたほうがよいと思います。
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 「Zirbenweg」という標識に従えば道に迷うこともなく、時々岩場にオーストリア国旗がペインティングされているので安心です。
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 雄大な景色を眺めながら一時間ほど歩くと、ボシェーベン(Boscheben)の山小屋に到着です。ここでベンチに座ってひと休み。なおこの山小屋では、シュペックブロート(ベーコンと黒パン)というチロルの郷土料理を味わえるそうです。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2014-12-25 06:37 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(77):イグルス(13.8)

 それではもらった地図を頼りに、散策をはじめましょう。幸い、青空もすこし見えてきました。街並みを抜けると、散歩道がひろびろとした緑野の中を貫いています。おおまるで東山魁夷の絵のようだ。野原、山々、そして一本の道、何ということもない風景なのに、とても心惹かれます。散歩をする家族、軽やかに走り去るジョガーやサイクリスト、馬に乗る子どもとそれを引く母、いろいろな人と挨拶を交わしましたが、みなさんとても幸せそうでした。
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 木彫りの大きな熊の脇を通り過ぎ、教会の尖塔が見えたあたりで引き返します。
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 斜面にはパラグライダーの練習をする人、そして牛の姿が見られました。
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 途中に、クロスカントリー・スキーのピクトグラムを記した表示板がありましたが、なるほど歩くスキーには恰好の場所ですね。こんな景観の中、静寂に身を委ねながら雪原を滑りゆく、気持ちいいだろうなあ。私たちは経験したことがないのですが、いつかやってみようねと常々語り合っています。
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 林間を抜けてイグルスの町へと戻り、明日乗る予定のパッチャーコーフェルへのロープウェイ駅を確認して、二時間弱のお散歩は終了。
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 時刻は午後六時、夕食をとるためにバスに乗ってインスブルックへ繰り出すことにしました。iとなりのバス停留所からJ番のバスに乗って山を降り、駅にもっとも近いSillparkという停留所で降りました。ここから駅まで徒歩五分。旧市街の方へ歩いていくと、キングス・ケバブ(King's Kebap)というケバブ屋を発見。渡りに舟、ここで夕食をとることにしましょう。クレープのような生地で巻いたものと、皿にのせたものを注文。肉も、その味付けも美味しいし、野菜も盛りだくさん。店の旦那も、筋肉質で笑顔が素敵なナイス・ガイだし、気に入りました。ケバブをぱくつきながら「毎晩ここでもいいね」と冗談半分で話し合いましたが、まさかそれが本当になろうとは。
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 そしてSillparkの停留所へと戻り、バスに乗ってイグルスへと帰りました。明日はパッチャーコーフェルのツィルベンベーク(ツィルベの小道)を歩く予定です。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-12-24 06:33 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(76):イグルス(13.8)

 今夜の宿は、市街地から少し離れたところにあるイグルス(Igls)にある「SPORTHOTEL IGLS」です。パッチャーコーフェルの登山口にある自然豊かな村で、バスか路面電車で簡単にアクセスできるということで選んだ次第です。でもバス停からホテルへの道筋がいまひとつ把握できず、重い荷物もあるので、今回のみは苦渋の選択、泣いて馬謖を斬る、韓信の股くぐり、タクシーを使うことにしました。駅前で客待ちをしていたタクシーに乗り込み、ホテル名を書いたメモを運転手さんに提示。市街地を抜けて山道をのぼっていくと、わずか十数分で「ここがインスブルックの近郊なのか」と目を疑いたくなるような風景が広がります。雄大な山並み、緑の沃野、点在する村々、イグルスに宿泊するのは正解でした。そして「SPORTHOTEL IGLS」に到着、案内された部屋からは残念ながら甍の波とロープウェイのかかる山ひとつしか見えませんでした。でもロフト風の居心地の良い部屋で、小さなバルコニーもついており、これならばホテルライフを満喫できそうです。
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 時刻は午後二時半、これからどこかに行くにはちょいと遅い時間です。せっかく自然にあふれた長閑な村なので、近くに散歩道があるかどうかフロントの方に訊いてみました。すると一枚の地図をくれ、二時間ほどで戻ってこられる散歩道を教えてくれました。それでは歩いてみることにしましょう。おっとその前に、村の探検をしなければ。ホテル近くには郵便局とスーパーマーケット(SPAR)がありました。インスブルック行きJ番のバスの停留所を確認して、時刻表を撮影。十五分に一本ほどあるので、アクセスは便利です。その近くにインフォメーションがあったので、さっそく情報を収集。インスブルックとイグルスを結ぶ路面電車があるはずですが、訊ねてみると修復中。森の中を走る気持ちの良い路線だということで楽しみにしていたのですが無念。市内公共交通機関の一週間券を13.9ユーロで買えたのは収穫でした。iのとなりに、花にかこまれた撮影用の大きな額縁とベンチがあったので、山ノ神に鎮座してもらい撮影。あるお宅では、壁面にたくさんの玉蜀黍が干してありました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-12-23 07:45 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(75):ザルツブルク(13.8)

 まず、モーツァルトは自作を聴衆の前で自ら演奏するという数え切れないほどの経験を積み、それが彼の音楽を鍛え上げたこと。以下引用です。
 ステージで自ら演奏していれば、聴き手が自分の音楽のどこに共感を示し、どの点に不満を抱くか、反応を直接にわがものにできる。経験は次作に必ず生かされるだろう。モーツァルトは現代の作曲家に比し、何倍か、何百倍かの頻度で、そのような経験を味わう機会に恵まれていた。
 モーツァルトの音楽は、実戦に鍛えられた音楽である。一作一作に生活と人生がかかっていた。だから聴く者の心を打つ。
 次に、モーツァルトは群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した。ただ、彼はその"努力" を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかったくらい音楽が好きだったこと。そして第三に、旅が彼の音楽を鍛え上げたということ。彼の作曲技法は、父レオポルトによる薫陶ももちろんあるのですが、旅先で先輩作曲家に教えられたものがかなりの比重を占めるそうです。これは本人に語ってもらいましょう。父に宛てた手紙の一節です。
 凡庸な才能の持ち主なら、旅などしようがしまいが、いつまでも凡庸なままです。しかし卓越した才能の持ち主ならば―ぼく自身がその才能の持ち主であると自負しても、罰は当たらないと思いますが、いつも同じ場所に留まっていたら駄目になってしまいます。(1778.9)
 というわけで、音楽を根っから愛し、作曲技法を身につける努力が苦にならず、旅先でさまざまな音楽家の薫陶を受け、そして結実した曲を聴衆の前で演奏して次なるステップへと自らを鍛え直す。これまでモーツァルトという「天才」の秘密だったのですね。納得しました。
 おっと道草を食ってしまった。そろそろ中央駅へと戻りましょう。バスで中央駅へと戻り、ホテルに寄って預けていた荷物を受け取って再び駅へ。12:02発の列車に乗り込み、空いている席を探します。なおオーストリアの列車はたいへん合理的で、例えば、67番の席は「Innsbruck Hbf - Sargans」と電光掲示されているのでこの区間は指定されている方がいる席、65番の席は空欄なので自由席。並んで空いている席を見つけて座り、「EURAIL ONE COUNTRY PASS」に今日の日付を記入して車掌さんに提示しました。
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 けっこうお世話になった車内販売「Henry」の珈琲を買って飲み、車窓からの風景を楽しみました。うとうとしていると13:51に列車はインスブルックに到着しました。
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 本日の一枚は、インスブルック中央駅です。
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by sabasaba13 | 2014-12-22 06:31 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(74):祝祭劇場(13.8)

 そしてお目当て、フェルゼンライトシューレ(Fersenreitschule)です。そう、トラップ一家が、音楽コンクールで歌ったところですね。もともとは大司教が乗馬競技を見学するためにつくられたもので、メンヒスベルクの岩盤をくり抜いた見物席がそのまま残されています。かつては野外劇場でしたが、今では開閉式の屋根がついています。それにしても、切り立つ岩盤と、そこに穿たれた数多のアーチ、凄い迫力です。いったいどんな響きなのだろう、いつの日にかここでオペラを見て聴いてみたいものです。
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 なおコンサートの準備に余念がないスタッフの方々の働きぶりも心に残りました。敬意を表して写真を撮らせていただきました。
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 これでツァーは終了です。まだ時間があるので、モーツァルトの生家にも寄りましょう。1756年1月27日、この建物の四階でヴォルフガングは誕生し、1773年にマカルト広場の家に引っ越すまでここで暮らしました。二階で入場券を購入し、四階にある展示室へ。彼が使用した楽器や自筆の手紙・楽譜などを拝見しました。旧市街の住人はほとんど聖職者で占められていましたが、モーツァルト一家がここに住めたのは、父レオポルトが宮廷副学長だったためだそうです。
 なお写真撮影は禁止ですが、ちょっと愛らしいトイレ男女表示くらいはいいでしょう(たぶん)。
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 そしてザルツァッハ川を渡ってマカルト広場にあるモーツァルトの住居(Mozart Wohnhaus)へ。ここは日本生命の多額の寄付によって、当時の姿で再現されたものです。それを記したプレートが掲げられていました。展示は解説が中心でしたが、やはり写真撮影は禁止。
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 でも洒落たトイレ男女表示くらいはいいでしょう(たぶん)。
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 そして1781年 3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教の命令でミュンヘンからウィーンへ移りますが、大司教と衝突して解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住することになります。その時点まで一家と彼はこの家に住んでいたのでしょうか。ご教示を乞う。
 なおモーツァルトを「天才」という一言で片づけてよいのか、疑問を持っておりました。これについては、以前書評に書いた『モーツァルト 天才の秘密』(中野雄 文春新書487)というたいへん面白く興味深い本がありますので、かいつまんでその「天才」の秘密を紹介します。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-12-21 06:35 | 海外 | Comments(0)

オーストリア編(73):祝祭劇場(13.8)

 朝目覚めて外を見ると、やはり厚い雲が空を覆っていますが雨は降っていません。テレビで各観光地のライブ映像を見ると、インスブルックの南にそびえるパッチャーコーフェル(Patscherkofel)も分厚い雲で覆われています。でも天候は回復に向かう模様、山歩きをする予定のザンクト・アントン(St.Anton)にも太陽マークが出ています、期待しましょう。
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 最上階のレストランで最期の朝食をいただき、これも見納めかとエレベーターホールの前で駅の方を眺めていると…ん? あの半円形の施設はもしかすると…望遠でカメラにおさめてモニターで確認すると、間違いない、扇形機関庫です。ということは当然、転車台もあるはず。遅かりし由良之助、もっと早く気づいていれば、訪れる手立てもとれたかもしれないのに。しかし六日の菖蒲、十日の菊、今日の旅程を考えると断念せざるをえません。再訪を期しましょう。
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 フロントでチェックアウトをして荷物を預かってもらい、トロリーバスに乗って旧市街へと向かいます。これも環境汚染対策なのでしょう、ザルツブルク市の見識を感じます。上部にとりつけてある鳩の意味はよくわかりませんが。
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 時刻は午前九時すこし前、この時間だといつも芋洗い状態のゲトライデガッセも落ち着いて歩くことができます。なおゲトライデガッセ(Getreidegasse)とは日本語に訳すと「穀物通り」、さまざまな店が所狭しと軒を並べ、古色あふれる看板がいくつも通りに張り出しています。これは文字が読めない人のための工夫だったのでしょうね。よくガイドブックで紹介されている、取っ手を引っ張る古い呼び鈴も見つけることができました。向うからやってくるのは男女のコックさん、この町の普段着の表情をすこし見られたような気がします。
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 馬洗い池の前にある広場は、カラヤン広場(Herbert von Karajan Platz)というのですね、気がつきませんでした。
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 そしてホーエンザルツブルク城塞の真下にある祝祭劇場へ到着、さっそくチケット・オフィスでガイドツァーの参加申し込みをしました。開始時刻までお店を物色し、音楽祭のキーホルダーを自分のお土産に買いました。オペラのポスターを何気なく見ていると、スポンサーは「SWAROVSKI」「Nestle」「Audi」「SIEMENS」「ROLEX」、ちょっと胡散臭そうなグローバル企業の名が連ねられていました。
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 さあツァーの開始です。参加者は十名、ガイドは…妙齢の美しい女性でした。その美貌、雪のように白い二の腕・御御足に思わず見惚れて…いかんいかん、一応私は妻帯の身、己を持さねば。気づかれたかなと、山ノ神をちらりと見ると彼女も見惚れていました。ま、それくらい美しい方だったということです。閑話休題、まずは壁画のある入口ロビーに入り、英語による説明。
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 そして昨晩『戦争レクイエム』を聴いた大ホールの見学です。1956年に、メンヒスベルク山の岩を爆破して作ったもので、舞台は幅100m・高さ60m・奥行き65m、2400人を収容できる世界でも有数のホールです。
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 モーツァルトのためのホール(Haus fur Mozart)では小規模の演奏会が演じられ、2006年のモーツアルト生誕250周年を機に改装されてこのように呼ばれるようになりました。なお舞台装置がセットしてあるためか、ここは撮影禁止でした。この二つのホールの間にあるのが豪華な内装のカール・ベーム・ザール、コンサートの合間の社交場となるところですね。時計はやはりロレックスでした。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-12-20 08:27 | 海外 | Comments(0)