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北海道編(18):網走監獄(13.9)

 さて、そうのんびりもしていられない。外へ出ると、外部からの進入や受刑者達の行動を監視する哨舎がありましたが、これは当時のものだそうです。その先にあるのが旧網走刑務所二見ヶ岡農場、刑務所付属の農場です。食料基地であると同時に、受刑者に働く喜びを体験させ、健全な心身を作ることを目標とする更生施設でもありました。人形によって春の開墾、種まき、夏の除草、秋の収穫作業を再現してあります。農場を見下すように聳えているのが高見張り。受刑者の逃走、暴行事件などの発生に備えたやぐら監視所ですが、これは復元されたもの。
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 そして監獄歴史館の前を通り、三角形をした休泊所へ。
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 ここは興味深い施設なので、解説を転記します。
 受刑者が堀の外へ出て、日帰りできない作業をする場合は「休泊所」と呼ばれた仮小屋で寝泊りをしました。明治24年の網走から札幌へと続く中央道路開削工事では、延べ1,200人の受刑者が投入され、工事の進行にともない、休泊所を解体しては移動していきました。別名「動く監獄」と呼ばれ、後の厳しい監視と強制労働で知られる一般労務者の飯場(たこ部屋)のつくりは、これを模したものといわれています。
 そして味噌蔵や通用門を見学して終了。なおこれはさきほど知ったのですが、「映画『網走番外地』撮影地の碑」が入場口前に設置されているそうです。高倉健氏のご冥福をお祈りいたします。
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 というわけで三十分強でしたが網走監獄を見学することができました。国家に抗う/まつろわぬ者を社会から排除するとともに、追随者が出ぬよう"見せしめ"としたい政治権力、徹底的に酷使できる経費のかからない労働力を渇望していた経済界、その両者の意図が見事に合致し貫徹されたのが、ここ北海道の監獄であるということがよく分かりました。"資本は、頭から爪先まで、あらゆる毛穴から、血と汚物をしたたらせながらこの世に生まれてくる。(『資本論』第1部第24章)"、マルクスの言が耳朶に響きます。そしてこの姿勢は今に到っても、多少はマイルドになりながらも、変わっていないというのが正直な感想です。国家に抗う者への有形無形の圧力、非正規雇用の激増とブラック企業の跳梁跋扈。日本が巨大な網走監獄のように思えてきました。でもこのシステムは自然にできたものではなく、人間がある意図のもとに構築したもの。変えられないわけがありません。脱獄魔・白鳥由栄曰く、「人間が造ったものは必ず壊せるんですよ」 その言を信じて、倒されても倒されても、粘り強く息長く立ち向かっていきたいと思います。ホセ・メンドーサと闘った矢吹丈のように。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-28 06:39 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(17):網走監獄(13.9)

 そしてあらわれたのが五翼放射状舎房。1912(明治45)年に建てられて1984(昭和59)年まで実際に使用されていた獄舎です。少人数でも監視しやすいように、中央見張りを中心に、五本の指を放射状に広げたようになっています。ベルギーのルーヴァン監獄を模したものと言われているとのこと。それでは中へ入りましょう。「中央見張」というブースに入ってぐるりと見渡すと、なるほど五本の廊下を手に取るように一望できます。独居房を覗くと、柳葉敏郎そっくりの人形が正座されておりました。それにしても、頑丈なドアと錠、鉄格子、これでは脱獄は不可能…おっと脱獄囚だ! 廊下上部の太いワイヤーをつたって半裸の男が逃げ出そうとしていますが、こちらも人形でした。
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 ただ展示によると、不可能を可能にした男が二人いたとのことです。まずは西川寅吉、人呼んで五寸釘寅吉。
 五寸釘を踏み抜きながら、12kmを逃げ切った男。並はずれた身体能力と彼を慕う囚人仲間の協力を得て、脱獄に成功すること6回。三度生まれ変わっても服役しきれぬ刑期を負いながら、最後に送られた網走監獄で改心。奇跡的な出獄を果たし、最期は息子の家で大往生を遂げたという稀代の脱獄王。
 寅吉は樺戸集治監の3mもある塀を、小便をかけた獄衣をたたきつけ、その一瞬の粘着力を利用して乗り越えたそうです。これは凄い。
 もう一人が白鳥由栄です。
 天才脱獄魔といえばこの男。この男をモデルにいくつもの脱獄小説が生まれている。緻密な計画、大胆不敵な行動力、超人的な体力、そして巧みな人心掌握術で、脱獄すること4回。特別厳重な監視をしていた網走刑務所からの脱獄にも成功。その後、府中刑務所で反抗的な態度が一変し模範囚に。不可能と言われた仮出所を遂げた、孤独な天才脱獄魔。
 彼はドアの視察孔にネジ留めされていた鉄枠を外すため、そのネジに毎日味噌汁をかけ腐食させたそうです。また力も強く、網走刑務所入所後、二ヶ月間に手錠を4個も破壊したとのこと。いやはや、恐るべき男ですね。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-27 06:47 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(16):網走監獄(13.9)

 まずは網走川にかけられた鏡橋を渡ります。これまで4回橋は架け替えられましたが、現在のものは1994(平成6)年に、過去の橋の特徴を組み合わせて再建されたもの。なお「鏡橋」という名の由来は「流れる清流を鏡として、我が身を見つめ、自ら襟を正し目的の岸に渡るべし」というものだそうです。重厚で威圧的な正門も1983(昭和58)年に、再現建築されたもの。左右には部屋が設けられ、一方は、正門担当看守が受け付けとして使い、もう一方は、面会に来た家族が申しこみと待合室に使っていたそうです。
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 そして正面にあるのが庁舎、監獄の管理棟であった擬洋風建築で1912(明治45)年に建てられたもの。右の方へ行くと、再現された浴場がありました。作業場ごとに15人ずつが、看守の号令のもと、脱衣に3分、第1槽入浴3分、洗身3分、あがり湯の第2槽入浴3分、着衣に3分というように、脱衣から着衣まで15分間で効率よく入浴したそうです。でも監獄則では、6月から9月まで月5回入浴、他の月は1回入浴ですから、囚人にとっては楽しみだったでしょうね。
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 その前にあるのが煉瓦造り独居房、1919(大正8)年頃に建てられました。明治時代の監獄の規則には、規則違反者を窓の無い真っ暗な部屋に閉じこめ、食事を減らし、反省させるという厳しい罰則があり、この独居房も当時の規則に合わせて建てられたものだそうです。

 本日の二枚、庁舎と独居房です。
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by sabasaba13 | 2015-02-26 06:27 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(15):網走監獄(13.9)

 それはともかく出発進行。国道の右手に、現在の網走刑務所があると教えてもらいました。そして十分ほどで網走監獄に到着。運転手さんに30分後に迎えに来てくれるよう依頼して別れました。それではtouch and goですが、博物館として公開されている網走監獄の見学を始めましょう。おっとその前に、北海道における監獄の歴史について、『河童が覗いたニッポン』(新潮文庫)の中で、妹尾河童氏が要を得た説明をされているので、紹介します。
 北海道には、五つの集治監(※監獄)が1881(明治14)年から1891(明治24)年の間にあわただしく作られたが、これは維新後の明治新政府に批判の抗議闘争が各地で起こり、逮捕者が急増したからだ。"反政府革命を意図した賊"として4万3千人も捕えられている。それらの政治犯を収容する獄舎を建てる必要に迫られていた政府は、アイヌから奪った土地を開拓し、新領土とすることを急務と考えていたから、その人的資源として投入する。「おカミに楯突き、体制を批判する行動をとった者や、凶悪犯罪者は、苦痛をともなう労役が相応である」という考えにもとづき、政府はやっかいな政治犯を北海道へ送り込んでいった。内地から急に寒冷地へ連れてこられた人達は、厳しい寒さだけでも耐えられなかったはず。おまけに獄舎には火の気もなかったから、全員が凍傷やあかぎれで皮膚が破れ、血膿を流して苦しんだという。その上に、開放される望みもなく、労役の日日が続いた。脱走・抵抗した者は、その場で斬殺された。政府は北海道開拓の重要な事業として、鉱山の開発にかなり前から注目し、採鉱に着手していたが、一般坑夫を使うより、タダ同然の囚人達の労役をこれに当てることを考えた。その労役の悲惨さは言語に絶するもので、ある報告書には、連鎖されたまま12時間も坑内労働をさせられている囚人達や、事故で手足を失って不具になった206名が、失明した50人ほどといっしょに、なお作業を続けさせられていると記されている。坑内でガスの発生が懸念されるときは、囚人を縄で縛り、吊り降して調べた。胴吊りされた囚人が動かなくなれば、ガスがあると判断し、新しい換気孔をうがった。またある硫黄鉱山では、わずか半年で囚人300名中の145名が罹病。42名が死亡している。この硫黄鉱山は、なんと民間の経営で、安田財閥の祖安田善次郎のものであった。ここでも経費のかからない労働力として囚人が徹底的に酷使されていたのである。当時の記録のあちこちに、後年日本を動かす財界人の名が現われている。渋沢栄一、安田善次郎、岩崎弥太郎、大倉喜八郎などが、政府内部の一派と手を結び、着々と財をなしていっているのが見える。
 さらに政府は、北海道開発をより早めるには、まず道路を開通させることが急務であり、それには、国家財政の負担になる一般の坑夫は雇わず、すべて囚人の労役によることが得策であると決定した。「囚人だから死なせてもかまわない、人数が減れば出費が助かる。補充の囚人は内地から新しく送ればよい」と考える政府首脳が要求した道路計画は、無謀に近いプランであった。特に旭川から網走を結ぶ『中央道路』は、山岳部を通る170キロの大工事で、膨大な犠牲者を出している。死亡者162名、うち逃亡を企て殺害された者3名、重労働に耐えかね自殺した者1名。死因も、栄養失調の上の過労というのが実態。他に、病気によって倒れた者延べ1916名。「年内に完成せよ」という厳命のもとに、計画してから8ヵ月間で開通させるという、驚異的な記録と『死の囚人道路』の名を残した。今、国道39号線と呼ばれている道である。
 しかし"集治監"の歴史は、過ぎ去った明治時代の物語として終わってはいない。というのは、我々が生きている"今日"という時代に、1908(明治41)年に制定された『監獄法』が、いまなお権威ある法律として存在しているからだ。この法は、すでに1919(大正8)年から"人権無視"が問題になっていた。しかし、今も厳然と原型をとどめている。刑務所・拘置所の建物が新しくなっても、この『監獄法』があるかぎり、"集治監時代"は終わっていない。『国連の最低基準規則』と比べると、それが一層ハッキリする。
 ちなみに、1881(明治14)年月形町に樺戸集治監、1882(明治15)年三笠市に空知集治監、1885(明治18)年標茶町に釧路集治監、その分監として1890(明治23)年網走囚徒外役所がここ網走に誕生しましたのですね。なおテニアン飛行場建設には、網走刑務所の囚人136人が動員されたそうです。
 なお、こうした苛酷な囚人労働を物語る遺跡が、囚人工夫の上に土をかぶせてできた土まんじゅう、鎖塚(くさりづか)。囚人は二人ひと組で足を鎖に結ばれ、場合によっては死ぬ時も鎖を付けたままでした。従って、これらの土まんじゅうからは人骨と同時に鎖が出土するというのがその名の由来です。北見市端野町緋牛内の、囚人道路が国道39号に出る手前に三基が残っているとのこと。これはいつの日にか是非訪れたいものです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-25 06:30 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(14):網走監獄へ(13.9)

 そして15:09に網走駅に到着。おっ、鉄格子がはまった顔はめ看板を発見、これは幸先がいいですね。
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 さてここからがヘアピン・サーカスです。せっかく網走まで来たのですから網走監獄はぜひ訪れたい。しかし、その後に釧網本線に乗り継いで知床斜里へと向かいますが、その列車本数の少ないこと少ないこと。一日九本、16:15発の列車に乗り遅れると次は18:27まで待つはめとなり知床斜里到着は19:13。それでは今宵の宿泊地・ウトロ温泉ターミナル行きのバスはなくなってしまいます。(最終バスは知床斜里発18:10) そうなったらタクシーを利用するしかありませんが、莫大なお金がかかってしまふ… というわけでほぼ一時間で網走監獄の見学を済ませて、16:15発の列車に乗らねばなりません。駅から監獄までは徒歩40分、路線バスは本数が少ないので、タクシーを利用することにしました。幸い網走駅前で客待ちをしているタクシーが数台あります。現地でタクシーをつかまえられる保証もないので、監獄まで乗せてもらった後、三十分ほどしたら迎えに来てくれるよう交渉しましょう。よって責任感のある篤実な運転手さんだったらいいのにな、と期待を込めて乗り込むと…うん、大丈夫。ご尊顔を拝見して、信頼できる方だと直観しました。余談ですが、最近読んだ『日本』(姜尚中・中島岳志 河出文庫)という本の中で、中島岳志氏が面白い話を紹介していました。
 吉野作造は、普通選挙導入を主張したとき、いろんな人から叩かれました。特に一部のリベラル陣営に叩かれた。「農民に国策なんか理解できるのか」「普通選挙なんて導入したら国家がメチャクチャになる」と。そこで、吉野はこう答えます。「そりゃ、彼らに政策は分からないでしょう。しかし、農民たちは普通の庶民は、じっくりと候補者の顔を見ていれば、どういう人柄の人物か、こいつに任せていいのかどうか、判断はできます。そういう判断力に賭ける。これがデモクラシーです」と。しかし、残念ながら今の現実はその反対を向いている。しっかりとした人間観に基づいているのではなく、メディアによって加工された記号的イメージで判断している。(p.171~2)
 まあ別にしっかりとした人間観はありませぬが、この運転手さんが良い方であること、安倍晋三伍長が嬉々として合州国とグローバル企業の走狗・爪牙として頤使される胡散臭い政治家であることくらいは分かります。みんなあの顔を見て、分からないのかなあ。
by sabasaba13 | 2015-02-24 06:23 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(13):網走へ(13.9)

 さてそろそろ時間です。11:19発のオホーツク3号に乗車して、石北本線を一路網走へと東行。広大な大地を眺めたり、今後の旅程を確認したり、本を読んだりしていると、車内販売の方が「大雪山レアチーズケーキ」を売りにきました。♪食べたいな、食べたいな、食べたい食べたい食べたいな♪と垂涎し、珈琲とともに購入。北海道の風景を眺めながら、濃厚な味を楽しみました。
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 と、能天気な感想を書いてしまいましたが、汗顔の至りです。無知というのは本当に恐ろしいですね。この鉄道建設の陰に、「タコ」と呼ばれた労働者たちの言葉にできぬほどの苦役があったことを、前述の『常紋トンネル』(小池善孝 朝日新聞社)で教示していただきました。これは後ほど書きますが、もともと北海道における道路の建設や鉱山の採掘は、囚人労働によって行われました。しかしあまりにも非人道的かつ苛酷な労働で多くの囚人たちが死に追い込まれ、典獄(刑務所長)や教誨師はその誤りを内務大臣井上馨に訴えました。その結果、1894(明治27)年に囚人の外役労働は廃止されました。なお廃止を主張した行刑官はそろって職を追われたそうです。囚人に代わって、北海道開発の労働力となったのが「タコ」と呼ばれた拘禁労働者たちでした。誘拐または脅迫され、あるいはわずかな前借金に縛られて、逃亡できぬようにつくられた飯場(タコ部屋)に収容され、棒頭の監視と暴力のもとで苛酷な労働を強制される拘禁労働者のことです。その呼び名の由来は、諸説あります。道内の拘禁労働者を「地雇」と呼ぶのに対して、内地から連れてこられたから「他雇」。肩にタコができた熟練土工だから。蛸が自分を手足を食べるように、体を売って生きるから。あるいは常に逃走の機会を狙い逃げ足が早いので、糸の切れた凧にたとえた、などなど。
 この石北本線は、彼ら「タコ」によって建設されたのですね。中でも最大の難工事だったのが、1914(大正3)年に三年がかりで完成した、生田原駅と金華駅の間にある常紋トンネルでした。タコたちは人権を無視された苛酷な扱いを受け、粗食と重労働で病気にかかる者も多く、医薬も与えられず、体罰を加えられました。そして使役不能と見なされた者は、一定の箇所に監禁され、死者はそのまま大きな穴の中に投げ込まれてしまう。この工事で百数十人の若者が犠牲になりました。なおトンネルの煉瓦壁の裏に、人柱のように立ったまま埋められた人骨も発見されたそうです。近代史における北海道の、いや日本の暗闇、もし石北本線に再び乗る機会があったら、今度はこの歴史を噛みしめながら列車に揺られたいと思います。
 なお常紋トンネルに東にある佐呂間町は、足尾鉱毒で村を奪われた元谷中村村長ら96戸が1911(明治44)年に集団入植したところだということも、本書で教えてもらいました。田中正造と農家とを切り離そうとの政府・県の奸策でこの地に入植させられた村民は一年で半減し、残った指導者は死の病床に伏してまで「だまされた! かえるんだ!」とうわ言を言い続けたそうです(p.31)。国家権力と資本のおぞましさには、あらためて背筋が寒くなります。
by sabasaba13 | 2015-02-23 06:33 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(12):網走へ(13.9)

 朝六時に起床、てきぱきと身づくろいをしてチェックアウト、稚内駅に行き7:10発のスーパー宗谷2号に乗り込みました。列車は宗谷本線を南下、広大な大地を眺めたり、今後の旅程を確認したり、本を読んだり、働くおじさんを撮影したり、階段に接した待合室に冬の厳しさを痛感したりしていると、10:44に旭川駅に着きました。
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 ここで石北本線に乗り換えて網走へと向かいますが、オホーツク3号の発車時刻は11:19。できれば川村カ子トアイヌ記念館博愛堂竹村病院六角塔を訪れたかったのですが無理ですね。再訪を期す。なお川村カ子トについては、飯田線田本駅に関する拙ブログの記事をご参照ください。
 待ち合わせ時間は三十分強あるので急げば食事はとれそう、旭川ラーメンを食べようと駅ビル内を徘徊していると、「サニーガーデン」というお店で「旭川しょうゆ焼きそば」のポスターを発見。"旭川の新しいご当地グルメを目指す!!"か、人世感意気、功名誰復論(魏徴「述懐」 『唐詩選』巻一)、ようがす一肌脱ぎましょう。
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 念のためお店の方に確認すると、できるまでそれほど時間はかからないとのこと。さっそく旭川焼きそばを注文…おお待っておったぞ、苦しうない近う寄れ。うーん、これは予想以上の美味しさでした。醤油ベースのあっさり・すっきりとした味、人参・モヤシ・キャベツなど盛りだくさんの野菜、ジューシーな豚肉、舞い踊るけずり節、そしてピーター・ローレの如く全体をピリリと引き締める名脇役の揚げ玉。一心不乱にたいらげてしまいました。なおポスターに旭川焼きそばの掟「三箇条」が記されていましたので紹介します。
其の一 麺は、旭川産米粉と道産小麦を配合したものを使用する
其の二 味付けは、旭川産のしょうゆダレを使用する
其の三 具材は旭川(上川)産の食材を一品以上使用する
 地産地消へのこだわり、素晴らしいですね。新鮮だし、地元の経済も潤うし、安全性も担保できるし、何より輸送にかかるコストや環境への負荷を軽減することができます。『経済成長なき社会発展は可能か?』(セルジュ・ラトゥーシュ 作品社)を読んでいたら、次のようなエピソードが紹介されていました。モンブランでイタリアに向かうトラックとフランスに向かうトラックが事故を起こしましたが、炎上したトラックの積み荷はともにミネラル・ウォーターだったとさ。ちゃんちゃん。(p.270) こうなるともう面白うてやがて哀しき笑い話ですが、経済成長とはつまるところ、こういうことなんでしょ、安倍伍長。そして地産地消は、ガンジー言うところのスワデシ(国産品愛用)にあたるということが、『ガンジー 自立の思想』(地湧社)を読んでいてわかりました。以下、引用します。
 つまり、スワデシ(国産品愛用)精神です。生活に必要な物はすべてインド国内で調達する決意をしてください。それも村人たちの労働と頭脳を通じて手に入れるのです。つまり、現在のやり方を逆にします。インド六大都市と大英帝国がインドの七十万の村々を搾取し、廃墟にすることで栄えるのをやめ、村は必需品の大半を自給できるようにします。(p.123)
 現在におきかえてみると、スワデシ(国産品愛用)精神により必需品を地産地消することによって、他国やグローバル企業の支配と搾取を免れ、スワラージ(自治)を確立できる。支配と搾取がないところでは暴力も殺戮も起こらない。これがアヒンサー(不殺生・非暴力)。拙い理解ですが、そう思います。でも経済成長のためには、たいへん目障りな動きですよね、安倍伍長。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-22 09:56 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(11):宗谷岬(13.9)

 ゆるやかな階段を海に向かっておりていくと、そこが宗谷岬。その手前に間宮林蔵の銅像がありました。言わずと知れた樺太と大陸の間にある海峡を発見したお方。この像は、林蔵が樺太へ渡る決意を秘め、はるか海の彼方を見つめる姿をあらわしているとのこと。なお解説によると、ここから国道238号線を稚内方面へ3kmほど進んだところに、彼が樺太へ渡航した場所を示す記念碑があるそうです。ちょうど復路になるので、車窓からシャッターチャンスを狙いましょう。岬には「日本最北端の地」という碑と、三角形のモニュメントがありました。海の彼方、厚い雲の下に浮かんでいるであろうサハリンの島影を想像し、アントン・チェーホフに思いを馳せながら紫煙をくゆらしました。彼は、閉ざされた流刑地サハリンにおいて、ロシア自体が「閉ざされた」サハリン島にほかならないことに衝撃を受けたそうです。ここ日本も「閉ざされた」サハリン島であるのかもしれません。
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 時刻は午後五時半、ちょうど日本海に陽が沈むところでした。空と海を深紅に染め上げる落日にしばし見惚れていると、おっともう集合時間だ。あわてて駐車場に停車しているバスに戻りました。そして出発、カメラを構えてシャッターボタンに指をあてがい車窓を流れゆく風景を凝視していると…あった! ばしゃ。「間宮林蔵 渡樺出航の地の碑」を撮影することができました。私の動態視力も捨てたものではないと自画自賛。陽はすっかり沈み、濃紺に染まる海を眺めていると利尻富士の山影を遠望することができました。
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 午後六時半ごろに稚内駅前に到着、ガイドさんと運転手さんに丁重にお礼を言って下車。夕食をとる店を探しながら町をぶらぶら歩いていると、宗谷黒を食べられる「竹ちゃん」というお店を発見。さっそくステーキを所望して舌鼓を打ちました。さあ明日は網走を経由して、長駆知床へと向かいます。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-02-21 06:35 | 北海道 | Comments(0)

言葉の花綵115

 ホレイショー、この天地の間には、人間の学問などの夢にも思いおよばぬことが、いくらでもあるのだ。(『ハムレット』 シェイクスピア)

 われわれには永遠の同盟者もいなければ、永遠の敵もいない。永遠であるのはわれわれの利益である。(パーマストン)

 民主主義は最悪のシステムである。しかし、民主主義以上のシステムは存在しない。(ウィンストン・チャーチル)

 誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。(ショーペンハウアー)

 少し食べ、少し飲み、そして早くから休むことだ。これは世界的な万能薬だ。(ドラクロワ)

 疲れた人は、しばし路傍の草に腰をおろして、道行く人を眺めるがよい。人は決してそう遠くへは行くまい。(ツルゲーネフ)

 絶望的な状況はない。絶望する人間がいるだけだ。(ハインツ・グデーリアン)

 困難な何事かを克服するたびに、私はいつも幸福を感じます。(ベートーヴェン)

 偶然は準備のできていない人を助けない。(ルイ・パスツール)

 一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ批評家に分かる。三日練習しなければ聴衆に分かる。(アルフレッド・コルトー)

 私は運命の喉首を締め上げてやる。決して運命に圧倒されない。(ベートーヴェン)

 結婚前には両眼を大きく開いて見よ。結婚してからは片眼をとじよ。(トーマス・フラー)

 「末来」は、いくつもの名前を持っている。弱き者には「不可能」という名。卑怯者には「わからない」という名。そして勇者と哲人には「理想」という名、である。(ヴィクトル・ユーゴー)
by sabasaba13 | 2015-02-20 06:32 | 言葉の花綵 | Comments(0)

小倉久寛 祝還暦記念コントライブ

c0051620_6282413.jpg 「チケットぴあ」で、山田和樹のマーラー・ツィクルス、交響曲第二番の切符を買おうとしたところ、たまたま見つけたのが「小倉久寛 祝還暦記念コントライブ ザ・タイトルマッチ2 ~笑いのDeath Fight~」という演目でした。小倉さんか…じつは私の好きなコメディアンの一人です。ぬいぐるみのような体型、縄文人のような毛深さ、生まれついての子分肌、内気で弱気、そこはかとなく漂うペーソス、時々ふるう匹夫の勇、いい味をだしています。その彼が師匠とも言うべき、手八丁口八丁の三宅裕司とからみあう二人コント。これはつまらないわけがない。さっそく山ノ神を誘ったのですが、「えー、こんとお、ま、いいや、閑だからつきあうわ」というレイジーなお返事。見てなさい、その烏の足跡を二本ほど増やしてあげませう。
 二月好日、山ノ神とともに下北沢にある本多劇場へと参りました。ほんとうにここでいいのかしらんと思うような雑居ビルの中に入ると、胡散臭げな小店舗が櫛比しています。いいですね、この猥雑な雰囲気。入場するとそれほど広くない劇場内はほぼ満員、「笑ってやるぞ」という熱気で息苦しいほどでした。そして開幕です。観客に肩透かしをくわせるように、そこは楽屋。二人が舞台衣装に着替えながら、ぼそぼそと軽妙なトークを交わしています。「今日は天気がよくてよかったね。この前の雪の日は、早くお客さんを帰してあげようとして早口になっちゃった」という三宅氏のセリフ、こうして書くと何でもないのですが、生で聞くとほんとうにおかしいのです。そして舞台が廻るとそこはビルの屋上、飛び降り自殺をしようとしている脚本家の小倉氏と、それを止めようとしているかしていないのかよくわからないプロデューサーの三宅氏の抱腹絶倒のかけあい、「まだ死なないで!」というコントの始まりです。それが終わるとまた舞台が回転して楽屋となり、コントを終えた二人がやってきてぶつぶつやりあいながら次の衣装に着替えます。こうして楽屋風景を間にはさみながら「人力車と客」「世紀の発明」「浮気調査の報告」「ブルースギター教室」と五つのコントに大笑いしました。このコントと楽屋風景を繰り返すという構成が、緩と急、弛緩と緊張というメリハリのきいたリズムを生み、休憩なしの二時間があっという間に過ぎました。山ノ神も涙を流しながら爆笑、ご満悦の様子に一安心しました。なお余禄として、最後の楽屋に日替わりのゲストが登場するという趣向がありました。本日は松本明子氏が花束を持ってあらわれ、見事な歌声を聞かせてくれました。ほんとうは伊東四朗氏に会いたかったのですが、諒としましょう。
 さてこの二人のコントはなぜこんなに面白いのか、野暮ですがちょっと分析してみました。まずプロットがしっかりしていること。しっかりとした骨組みがあってこそ、二人のギャグも映えるというものです。作家の吉高寿男氏、吉井三奈子氏、小峯裕之氏にお礼を言いたいと思います。そして十分に稽古をした上で演じられるコント。購入したパンフレットに掲載されていた加山雄三氏との対談で、次のような対話がありました。(p.23)
加山 今回のライブってコントだけ?
三宅 はい。コントだけで2時間。
加山 アドリブなしで?
小倉 なしです。
加山 よくまあ台詞を覚えられるもんだね。
三宅 むしろ覚えないと辛いんです。
小倉 それに稽古も1ヶ月やりますから。
 これは驚きでした。丁々発止の軽妙洒脱なやりとりは、すべて台詞だったのですね。しかも1ヶ月というしっかりとした稽古をかさねたうえでの芝居。たぶん、自然に聞こえるように、アドリブに見えるように、何度も何度も練習されたのだと思います。
 そして小倉久寛氏が醸し出す魅力も見逃せません。作家の吉井三奈子氏がパンフレットの中で、「乙女心」「純粋でまっすぐで可憐」と評されていますが、なるほど、言われてみればそうですね。しょぼくれてむくつけき容貌(御免なさい)とヌイグルミのような体型・体毛の内に秘めた乙女心、そのアンバランスさに惹かれるのかもしれません。
 心の底から清々しく笑えた素晴らしく楽しい二時間でした。また機会を見つけてお二人のコント・ライブを拝見したいと思います。
by sabasaba13 | 2015-02-19 06:28 | 演劇 | Comments(0)