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北海道編(33):納沙布岬(13.9)

 さていわゆる"北方領土"問題ですが、まず、声高に、感情的に、居丈高に、「返せ」と怒号するのをやめないと、かえって解決を困難にしてしまうことになるでしょう。伊勢﨑賢治氏が、『日本人は人を殺しに行くのか』(朝日新書485)の中で述べられているように、相手の面子に関わるような強硬な抗議をすれば双方とも引っこみがつかなくなり、状況は悪化するだけ(p.208~9)。例えば、メドヴェージェフ大統領の"北方領土"訪問に対して日本政府が激烈な批判をしたことによって、ロシア国民の手前、ロシア大統領はますます訪問せざるをえなくなり、譲歩する訳にもいかなくなりました。ま、きちんと分析することをせずに不安や不満を抱える方々のガス抜きとして利用するのなら、話は別ですが。
 まずおさえておくべき点は、1951 (昭和26)年に調印された対日講和条約において、"北方領土"については「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定されていることです(第2条c)。その範囲については、択捉・国後が千島列島に属することを、西村熊雄条約局長が1951(昭和26)年10月の衆議院特別委員会で認めています。つまり、択捉・国後はソ連領、歯舞・色丹は日本領という合意は成立していたのですね。もしこの了解に納得がいかず「日本固有の領土・四島を全て返せ」というのであれば、この講和条約の廃棄を宣言して、もう一度連合国相手に戦争をするのが筋でしょう。ちなみにドイツは、敗戦によってオーデル・ナイセ以東のシュレージエン、ポンメルン、東プロイセンをポーランドと一部ソ連に割譲しますが、「ドイツ固有の領土だから返せ」という話は聞いたことがありません。
そして1956(昭和31)年、日ソ両国の国交回復をもたらした日ソ共同宣言は、「ソ連は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定します。これを受け入れていれば、領土問題は解決していたはずです。しかし、日ソ間に紛争の火種を残すために、アメリカが介入します。「択捉・国後を手放すのなら、沖縄は返さないぞ」とね。この恐喝に屈した日本政府は前言を翻して、「択捉・国後は千島列島に含まれない」と主張、四島返還の立場を今に至るまで堅持しています。やれやれ。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-03-30 07:03 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(32):納沙布岬(13.9)

 さて列車は根室をめざして、広野の只中を疾駆していきます。単線のため茶内という駅で対向列車を待ち合わせ、下車してホームと駅舎をぶらつくと、あちこちにルパン三世や銭形警部のパネルがありました。ここ、はまなか町はモンキー・パンチ氏の故郷なのでした。なお一日に3~5便、「ルパン列車」が運行されているそうです。ついでに「置石は犯罪です」というワイルドなポスターと、駅舎の窓を利用した顔はめ看板を撮影。
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 そして出発進行、やがて右手に海が見えてきます。途中で、貨車を利用した駅舎をいくつか見かけました。
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 寝転ぶ牛さんたちや、(たぶん)地吹雪除けのフェンスを車窓から撮影していると、東根室駅を通過しました。
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 ここは「日本最東端の駅」だそうです。ちなみに最北端の駅は三日前に訪れた稚内駅、最西端の駅は沖縄空港駅、最南端の駅は赤嶺駅。列車はが10:40に根室駅に到着。
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 駅前にあった観光案内所で資料や地図をいただき、10:45発の納沙布岬行きバスに乗り込みました。資料にざっと目を通すと、桂木と友知の間でソ連軍侵攻に備えて日本軍がつくったトーチカ群が車道から見られるそうです。目を皿のようにして車窓から凝視しましたが…発見できず。納沙布岬で現地の方に訊ねて、復路では必ずや見つけてみせましょう。昆布をひろげて干しているところをよく見かけました。「歯舞」というバス停がありましたが、きっと歯舞諸島も岬から遠望できるのでしょう。
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 バスは11:29に納沙布岬に到着。帰りのバスは13:00発なので、一時間半ほどこのあたりを漫歩することにしましょう。ご当地電話ボックスは、アザラシを乗せた流氷をかたどっていました。ご当地便所は、花咲ガニを模したもの。
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 当然男女表示もカニでした。余談ですが、ここは日本最東端のトイレだそうです。日本最北端のトイレは…知りません。
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 とるものもとりあえず、まずは納沙布岬灯台へ。バス停から歩いて数分ほどですが、予想通り、"北方領土"返還を求めるモニュメントが櫛比していました。碑文をざっと転記しますと、「奪還 日本の皇土国土北方領土」「日本固有の北方領土」「魂 北方領土祖国復帰は日本国民の悲願」「近くして遠く在りし故郷の誰が渡りしと未来に夢たくし」「祈願 北方領土奪還」「返せ北方領土」「返せ全千島樺太北の防人」「呼び返そう 祖先が築いた北方領土」「島を還せ」「一億の切なる願い島帰れ この間近なる岬に叫ぶ」などなど。ちなみに"皇土"という、現天皇が聞いたら眉を顰めるような表現をされていたのは、宮城県民族派有志二十八名の方々、全員男性なのがいたく印象的でした。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-03-29 06:33 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(31):釧路(13.9)

 時刻は午前七時、「釧路ロイヤルイン」の朝食会場に行くと、おおっこれは凄い。おかずの品揃えの豊富さに加えて、北海道名物もとりそろえた素晴らしいものです。このホテルはお薦めです。お目当てのご当地B級グルメ、"ザンギもいただくことができました。鳥の唐揚げとのちがいはよくわかりませんでしたが。
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 トイレ男女表示を撮影して部屋に戻り、身支度を整えていざ納沙布岬へと出発。
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 なおこのホテルに連泊するので荷物はそのまま部屋に置いておきます。釧路駅へ行き、8:15発の根室本線根室駅行き列車に乗り込もうとしたところ、運休に関するお知らせがありました。そういえば最近JR北海道では事故があいつぎ、レール補修の放置が見つかるなど不祥事が続いています。保全・保安の再点検なのでしょう、なになに…釧路13:25発のスーパーおおぞら10号が運休だとお! 明日は8:25~13:00の「ノロッコ号とバスでの釧路湿原めぐり」をすでに予約してあり、その後におおぞら10号に乗って14:54に帯広着。豚丼を食べてばんえい競馬を見て、帯広17:00発のバスで糠平温泉に行って宿泊。明後日はタウシュベツ橋梁見学ツァーに参加するという完璧な旅程が、シュリーフェン計画のように木っ端微塵に破綻してしまったじゃないか。どうしてくれるJR北海道。
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 おおぞら10号の次の特急だと、糠平温泉に着くのが午後九時過ぎ、これでは宿も迷惑でしょう。となると8:39発のおおぞら6号か11:29発のおおぞら8号に乗るしかありません。「釧路湿原めぐり」はキャンセルするとしても、ここまで来たのですから湿原をひと目でも見たいものです。帯広での散策時間もある程度とりたいし…でも無理かな。いやいや、絶望は愚か者の結論、あきらめたらそこで試合終了、泣くのはいやだ笑っちゃお、釧路湿原を訪問して帯広を散策して糠平温泉にたどり着くための方法があるはずです。とりあえず根室行きの列車に乗り込んで、時刻表とにらめっこ。灰色の脳細胞をフル稼働させて七転八倒した挙句、やっとブレイクスルーを発見しました。釧路駅6:06発の釧網本線に乗って6:24に釧路湿原駅に到着。ここから湿原を一望できる細岡展望台まで徒歩で行けるとのことです。釧路湿原の眺望を堪能して釧路湿原駅に歩いて戻り、7:37発の列車に乗って釧路駅に到着するのが7:56。これならば8:39発のおおぞら6号に余裕の吉田松陰で乗れるぞ、やったあ。よろしい、「砂漠のプロメテウス作戦」と命名しましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-03-27 08:48 | 北海道 | Comments(0)

言葉の花綵117

 わしらは、国家のない国に生まれたかったのう。(『黒い雨』 井伏鱒二)

 伝統とは火を護ることであって、灰を崇拝することではない。(グスタフ・マーラー)

 みな、生きていかねばならぬ人生がある。(They all have a life to live.) (水平派の一人)

 日本国憲法は権利を保障しているのではなく、権利を獲得するために闘う権利を保障している。(C.ダグラス・ラミス)

 人間性が一番よくなる状態というのは、だれも貧しくはないが、もっと豊かになろうとする者もなく、だれかが前に進もうとすることで自分がおしのけられるのではないかと恐れる理由がどこにもないような状態だ。(ジョン・ステュアート・ミル)

 たとえ、有益な目的のためでも、人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成できないことをやがて悟るであろう。(ジョン・ステュアート・ミル)

 無理な注文のほうがありがたい。(藤田剛)

 地獄とは他者に他ならない。(サルトル)

 いいものを書くために欠かせないのは、嘘を見破る能力だ。どんな衝撃にも耐え得る完全内蔵型嘘発見器。偉大な作家はみなそれを備えていた。創作のレーダーとして機能するのだ。(アーネスト・ヘミングウェイ)

 今度の選挙の結果は、もう今からばっちりお見通しだ。勝利するのは間違いなく、市民の暮らしと苦しみを屁とも思っていない、年食った白人男性! (クレイグ・キルボーン)

 絶えず働いて摩耗して駄目になるよりは、錆びついて駄目になるほうがましだな。(フォルスタッフ 『ヘンリー四世』)

 興味がわく町は、人々の仕事に出会える町であり、旅人は思わずそこにひき込まれる。わざわざ休暇をとってやってきた旅人が。(アーサー・ビナード)

 ほんの小半時でも、大人が介入しない世界に浸る-それこそが成長の現場だったんじゃないかと思う。(アーサー・ビナード)

 相手のことを決めつける前に、まずそのモカシンを代わりに履いて二カ月ほど歩いてみるがいい。(アメリカ先住民の諺)

 神さまは、まず最初にこの世の愚か者たちをこしらえてみた。それは腕試しというか、練習のためであった。そして今度は、この世の教育委員会をお作りになったのだ。(マーク・トウェーン)

 われわれは夢と同じ材料でつくられている。(シェークスピア 『あらし』)

 民主政治においては、人々は自らにふさわしい政府しか持てない。(アレクシ・ド・トクヴィル)

 雁鴨は われを見捨てて 去りにけり 豆腐に羽根の なきぞうれしき (良寛)

 この世さえ うからうからとわたる身は 来ぬ世のことを何思ふらむ (良寛)
by sabasaba13 | 2015-03-26 06:30 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『日本はなぜ原発を輸出するのか』

 『日本はなぜ原発を輸出するのか』(鈴木真奈美 平凡社新書)読了。鈴木氏は、以前に拙ブログで紹介した『核大国化する日本』(平凡社新書336)を書かれた方で、核や原子力に関する問題を調査し追及されているジャーナリストです。
 さて、福島原発事故の原因究明や責任の追及も十分になされず、いまだ事故収束の見込みもたたず、周辺住民の健康被害への対処も等閑にされ、被害への補償の目処もたっていないのに、なぜ自民党や政府は原発の輸出に拘るのか。その答えは、原子力産業の維持と“国産”の原子力技術の保持にあるというのが、著者の結論です。以下、引用します。
 濃縮技術の拡散に対する世界の目は厳しくなる一方だ。商業的にはほとんど機能していない六ヶ所村濃縮工場を日本が保持することに対し、海外から疑義が出ても不思議ではない。日本政府は世界から非難されることなく濃縮技術を持ち続けるため、同工場は国際的な核燃料供給保証に活用可能であることを、この備蓄事業を通じてアピールし、それを既成事実化してしまいたいのだろう。(p.112~3)
 原子力プラント建設や核燃料供給による利益のために、原発再稼動を強行しようというのが自民党や政府の狙いのようです。さらに世界で原子力プラントの供給能力をもつ国々は一握りしかなく、その特権的なポジションを獲得するため(p.231)。そして核兵器製造の潜在的な技術やノウハウを保持するためでもあります。NPT体制の下で、日本のような「非核兵器国」が核兵器製造に直結する核燃料サイクル技術を、世界から掣肘を受けないように保持するには、国内に一定規模以上の原子力発電を商業規模で維持する必要があるからですね。核兵器製造能力を隠すためのイチジクの葉っぱということですね。やれやれ、こうなると核兵器廃絶を提唱する日本政府の姿勢も眉唾に聞こえてきます。著者によると、1961年から2009年までの約50年間で国連の核軍縮決議に対する賛成率は平均55%、1980年代には30%の年もあったと記録されているそうです(p.217~8)。

 そして鈴木氏は、核エネルギー利用を拡大し続け、さらには福島原発事故を引き起こした日本人は、地球全体からみれば加害者であると強く主張されています。とくに海洋への意図的な放射能放出と現在も続く垂れ流しは、現世代だけでなく将来世代に対しても、地球規模の放射能汚染を強要することになってしまいました。被害者として、加害者として、私たちは核エネルギー依存から抜け出す道を切り開いていかなければならない。そして世代を超える、これほど重要な問題を、いつまでも少数の閣僚たちによる決定に委ねておいてはならない。どのようなオルターナティブがありうるかを含め、開かれた議論が必要であると締めくくられています(p.228~9)。
 また胡散臭い話として、海外の新規原発建設の事前調査に投入されている納税者の金の不可解な使途についての指摘がありました。ベトナムのニントゥアン第二原発建設計画の事業化可能性調査(フィージビリティ・スタディ)に関わる2011年度分予算は、なんと東日本大震災復興予算の一部があてられたそうです。原子力輸出による利益は東北にも還元されるという理屈ですが、被災者・被害者の方々を愚弄する行為ですね(p.113~4)。

 なかなかメディアが伝えてくれない裏の事情がよくわかりました。あらためて原発再稼動の中止と一刻も早い全原発の廃棄を求めます。ただこの問題は、原発の可否という視点からだけでなく、もっと大きな視点、中野敏男氏言うところの「犠牲やリスクを不平等に配分する差別的な秩序」という視点からも考えるべきだと思います。原発の輸出や再稼動などによって、とてつもない犠牲やリスクを押しつけられる人々の視点が欠かせないのではないか。原発周辺に暮らす人びと、輸出先の国に暮らす人びと、原発労働者、ウラン鉱山の労働者、そして放射能や核廃棄物を押しつけられる将来の世代。一部の特権階級のために、多くの人びとに犠牲やリスクを押しつけるシステム。ここからいかにして脱却するか。みんなで議論をし、考えていきたいものです。
by sabasaba13 | 2015-03-25 06:25 | | Comments(0)

本日 小田日和

 先日、山ノ神から「本日 小田日和」という小田和正のコンサートに行かないかと誘われました。おだかずまさ? うーん、たしかオフコースのヴォーカルだった方でしたかな。若い頃、「僕の贈りもの」「眠れぬ夜」「さよなら」「I LOVE YOU」を聴いていいなとは思いましたが、とりたてて入れ込んだ記憶はないし、今でもさほど関心はありません。彼女の職場に小田氏の大ファンがいて、全国ツァーを締めくくる横浜アリーナでのコンサートの切符を抽選で手に入れてくれたとのことでした。何でもなかなか手に入らないプラチナ・チケットだそうです。そういえば、おしょすい(※仙台弁)話、わたくし、ロックやポップスのコンサートに行ったことがありません。RCサクセションだけは聴きにいきたかったのですが、まごまごしているうちに忌野清志郎氏が早逝されてしまいました。合掌。よろしい、後学のためにもつきあいましょう。
 三月某日、山ノ神と新横浜駅ビル「キュービックプラザ」の十階にある中華料理店「點心茶室」の前で午後五時に待ち合わせました。ところが好事魔多し、渋谷駅まで来たところ、東急東横線の人身事故のため菊名駅までたどりつけません。駅員さんにお訊ねしたところ、復旧には時間がかかりそうなので、JR湘南新宿ラインで横浜まで行き横浜線で行った方がよいとのお答えでした。いたしかたない、JR渋谷駅に向かっていると、ひさしぶりに岡本太郎氏の『明日の神話』を見ることができました。下の方に描かれた小さな船が第五福竜丸でしょうか。
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 ご教示の方法で新横浜に辿り着いたのが午後五時十分、十数分後に山ノ神も到着しました。しかし肝心のお店は、コンサートに行く観客で満員、やれやれ、次善の策として同じ階にある「文の助茶屋」でにしん茶そばをいただきました。京都八坂の塔の近くにあるあのお店の支店がここにあるのですね。京の味を楽しみ、ここから徒歩五分ほどの距離にある横浜アリーナに向かうと…おおっわれわれと同年輩の善男善女の方々がぞろぞろぞろぞろぞろと同じ方向に歩いていきます。アリーナ場内は観客一万七千人が座席を埋めつくしています。中年世代の、落ち着いた感じの期待感と高揚感が空気を充たし、何とも心地よくなってきます。ポップスのコンサートははじめてなので、新鮮な体験でした。ステージからは観客席の間を縫うように花道が設けられていますが、小田氏があそこを走り回るのでしょうか。
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 そして小田和正とバック・バンドが登場、新作アルバム「小田日和」に収録された曲(たぶん)の演奏が始まりました。すると驚いたことに観客はほぼ総立ち。ええっ? 奏でられた音楽に感動して立つのではないのかい。ったくもう、見えづらいったらありゃしない。しかし彼の語りが始まると、自然にみなさんは陸続と席に腰をおろします。そして新作アルバムを中心に、オフコース時代の曲「言葉にできない」「YES-YES-YES」を織り交ぜながらステージは進行していきます。小田氏の魅力的なハイ・トーン、安定した技量のバック・バンド、十二分に楽しめた三時間でした。場内をカラフルに彩るレーザー光線やスクリーンに映し出される映像も、なかなかよろしかったです。ただ気になったのは、お歳のせいなのか、PAのせいなのかはわかりませんが、弱音の時に歌詞が聴き取りづらかったこと。四方の壁面に歌詞が電光掲示されていましたが、聴覚にハンディキャップのある方のためであるとともに、聴き取りづらさを補う措置なのでしょうか。もう一つは、同じような曲調と歌詞が多くやや退屈してしまったこと、正直、欠伸を三回ほどしてしまいました。しかし会場を埋め尽くした観客は、ほとんどの方が総立ちし、曲に合わせて同じように腕を振り、時に「小田さーん」と叫んでいます。小田氏の音楽を聴きにきたというより、教祖の説教に恍惚とする信徒のようでした。ま、人世の楽しみ方は十人十色、別にこうしたあり方を否定する気は毛頭ありませんが、私はやはり音楽を聴きたいですね。よってもう彼のコンサートに行くことはないでしょう。S席8640円(税込)は高いしね。
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by sabasaba13 | 2015-03-24 06:37 | 音楽 | Comments(0)

北海道編(30):釧路(13.9)

 再び「港文館」の前を通り過ぎ、幣舞橋を渡って左に曲がると、「くしろよろしく」という掲示がありました。…回文でした。裏道をホテルの方へ歩いていくと、北海道電力のビルを発見。うーむ、この会社が泊核(原子力)発電所をつくって、放射能によって大気や海洋や生物を汚染し、危険な核廃棄物を後の世代に押しつけた元凶か。
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 近づくと、「電気料金値上げに関するお願いについて」という掲示物がありました。その一部を転記しますか。"しかしながら、現在、泊発電所は長期停止した状態が続いており、火力燃料費が大幅に増加しております。…泊発電所の発電再開を見通すことができない状況が続くなか、現行の電気料金を維持したままでは、収支の改善を図ることは困難であり、今後、自己資本の毀損がさらに拡大し、燃料調達や設備の保守・保全などに必要な資金の調達も困難となり、電力の安定供給にも支障をきたすおそれが生じます" だから値上げだ文句あるか、嫌だったら核発電所の再稼動を認めろ、というわけですね。今現在の収支さえ改善できれば、深刻な事故の可能性も、放射能汚染も、核廃棄物を後の世代に押しつけることも知ったこっちゃない、か。その近視眼的な破廉恥心には感動すら覚えます。すぐ近くに「みんなで守ろう子どもたち 子どもの安全を見守る運動」というステッカーが貼ってあったのは強烈な皮肉です。耳なし法一みたいに、北海道電力ビル壁面すべてにこのステッカーを貼ったらいいのに。ちなみにこの運動の推進主体は、「北海道犯罪のない安全で安心な地域づくり推進会議」で、事務局は北海道/北海道警察/北海道教育委員会。各自治体教育委員会を使いっ走りにしている文部科学省が、原発予算にたかっている現状からすれば、望み薄ですけれどね。
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 その先には釧路停車場跡で、ここにも啄木の歌碑がありました。
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浪淘沙
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな
 啄木が「さいはての駅」と歌ったのはかつてここにあった駅なのですね。解説によると、1917(大正6)年に根室線(釧路-厚岸間)が開通したのにともない、釧路駅は現在の場所に移転。この駅は「浜釧路駅」と改称され貨物専用となりましたが、その後、操車場の新設により姿を消したそうです。
 そして和商広場の前を通ってホテルに到着。
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 というわけで釧路の啄木史跡めぐり、一巻の終わりです。これまで彼の足跡は、渋民村盛岡函館札幌小樽旭川本郷と辿ってきました。この釧路散策で一息ついたような思いですが、彼とのつきあいはこれからも永くなりそうです。なお啄木の歌碑は、札幌大間崎上野駅佐野十和田湖で出会えました。こちらはまだまだ探訪の余地があるでしょう。
by sabasaba13 | 2015-03-23 06:34 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(29):釧路(13.9)

 さてそれではそろそろホテルに戻って朝食にありつきましょう。途中にあったのが「啄木ゆかりの人 小奴碑」、こちらには朝日生命保険相互会社による懇切丁寧な、そして啄木への愛情に溢れた格調高い解説があったので、謝意とともに転記しておきます。
明治四十一年一月二十一日石川啄木妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しやも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

小奴といひし女の
やはらかき
耳朶なども忘れがたかり

舞へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴また啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす
 すこし歩くとまた歌碑を発見。
北の海
鯨追ふ子等大いなる
流氷来るを見ては喜ぶ
 その先にあったガソリンスタンドはかつて釧路新聞社の社屋があったそうで、こちらにも啄木の歌碑がありました。
十年まへに作りしといふ漢詩を
酔へば唱へき
旅に老いし友

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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-03-22 09:14 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(28):釧路(13.9)

 それでは下宿跡へと向かいましょう。「啄木通り」に出ると、ケーテ・コルヴィッツに似た彫刻がありました。作品・作者名を見ると「母と子 米坂ヒデノリ」。歩道には、釧路の昔日を物語る品々、「石炭ストーブ」「ゲロリ(下駄)スケート」を描いたタイルがはめこまれています。
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 このあたりで見かけた啄木の歌碑が二つ。
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神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒の山の雪のあけぼの

わが室に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日
 「釧路シーサイドホテル」の近くが啄木の下宿跡で、解説と歌碑がありました。"啄木は、釧路に着いた2日後には洲崎1丁目にあった関下宿(関サワ)の2階8畳間で釧路での生活をはじめました。現在、下宿は残っていませんが、この関下宿で日記や長い手紙を書いておりました"
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こほりたるインクの壜を
火に翳し
涙ながれぬともしびの下
 その近くにあるのが「啄木ゆめ公園」で、ここにも解説と歌碑がありました。"啄木は、東京へ行って作家活動をしたいと言う夢を持ってこの周辺を歩いていたことでしょう。そんな啄木の夢を想って「啄木ゆめ公園」と名づけられました"
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さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき

by sabasaba13 | 2015-03-18 06:34 | 北海道 | Comments(0)

北海道編(27):釧路(13.9)

 そして川沿いにすこし歩いていくと、煉瓦造りの小振りなビルが見えてきました。そう、お目当ての「港文館」です。石川啄木が釧路駅に降り立ったのは1908(明治41)年1月21日の夜、その後、釧路新聞の新聞記者として76日間滞在し、社会論説や連載に精を出し、数多くの歌も残しました。これは旧釧路新聞社を復元したもので、市民の憩いの場として利用されるとともに、啄木の関連資料が展示されています。もちろんこの時間では開館していませんが。敬意を表して、毅然と腕を組み遠くを見つめる啄木の銅像と歌碑を撮影。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
 その縁で、釧路市内には啄木歌碑が27基もあり、観光協会のサイトから「歌碑マップ」を入手することができます。とても全ては見られないので、これからそのうちの数基を拝見し、彼の下宿跡にも寄ってみようと思います。
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 その前に、スーパーニッポニカ(小学館)とウィキペディアを参考に、ここまでの啄木の歩みを辿ってみましょう。岩手郡渋民尋常小学校を卒業した啄木は、盛岡高等小学校に進み、128名中10番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学しました。しかし上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、カンニング事件を起こして盛岡中学校を退学しました。やむなく彼は文学をもって身をたてるという美名のもとに1902(明治35)年の秋上京、新運命を開こうとするが失敗。翌年2月に帰郷して故郷の禅房に病苦と敗残の身を養いました。その年の夏、アメリカの海の詩集『Surf and Wave』の影響を受けて詩作に志した啄木は、その後与謝野鉄幹の知遇を得て東京新詩社の同人となって『明星』誌上で活躍、明星派の詩人としてその前途が嘱望されました。しかし啄木の父が宗費滞納を理由に曹洞宗宗務局より宝徳寺の住職を罷免されたので、一家は盛岡に移り、啄木は堀合節子と結婚して一家扶養の責任を負うことになります。まもなく生活に行き詰まったため06年の春渋民村に帰り、母校の代用教員となりました。彼は勤務のかたわら再起を図るため小説家を志しますが失敗、故郷を去って北海道に移住することになります。
 1907年(明治40)年5月、函館に移って函館商工会議所の臨時雇い、弥生尋常小学校の代用教員、函館日日新聞遊軍記者などで生計を立てますが、大火によって函館を離れざるをえなくなります。9月、札幌で「北門新報」の校正係となり、9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社します。1908年(明治41)年1月、家族を小樽に残して「釧路新聞」に勤務しますが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決意をすることになります。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-03-17 06:40 | 北海道 | Comments(0)