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『思い出袋』

 『思い出袋』(鶴見俊輔 岩波新書)読了。たまたまなのですが、鶴見氏が逝去される直前に読み終えました。氏が、戦中・戦後をとおして出会った多くの人や本、自らの決断などを縦横に語った自伝風エッセイです。今となっては、氏の遺言とも思える一文を紹介します。
 1942年5月、米国メリーランド州ボルティモアに近いミード要塞内の日本人戦時捕虜収容所で、「日米交換船が出る。のるか、のらないか」ときかれて、その場で米国政府役人に「のる」と私はこたえた。
 そのとき何を私は考えていたのか、その後六十五年の間に何度も考えた。
 そのときの考えをいつわらずに再現したい。まず、自分が日本国籍をもつから日本政府の決断に従わなければならないとは思わなかった。日本国民は日本政府の命令に従わなければならないという考え方からは、日本にいるときに離れていた。
 では、すでに日本から離れて収容所に入れられているのに、なぜ日本に戻るのか。
 私の日本語はあやしくなっていたが、この言語を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが「くに」で、今、戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その「くに」が自分のもとであることにかわりはない。
 法律上その国籍をもっているからといって、どうしてその国家の考え方を自分の考え方とし、国家の権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。私は、早くからこのことに疑問をもっていた。同時に、この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは「くに」を踏みにじる。そのときに「くに」とともに自分も負ける側にいたい、と思った。敵国家の捕虜収容所にいて食い物に困ることのないまま生き残りたい、とは思わなかった。まして英語を話す人間として敗北後の「くに」にもどることはしたくない。
 だが、私が当時の日本国家を愛し、その政府の考え方を自分の考え方としていると誤解されたくもなかった。敗戦後もそう誤解されたくない。そこをわかってもらうことは、自分の家の内部でも戦中は危険、戦後、そして現在もむずかしい。
 政治家は、必要もないのに原子爆弾を二個も日本人の上に落とした米国の言いなりになり、日本国の大臣は米国の国務長官の隣に立つとき、光栄に頬を紅潮させて写真に写っている。この頬の紅潮はかくせない。まぎれもない事実である。
 勤め先の広島で原爆にうたれ、歩いて故郷の長崎にもどってそこでふたたび原爆を落とされて生き残った人は、「もてあそばれた気がする」と感想を述べた。この感想から日本の戦後は始まると私は思うが、その感想は、国政の上では、別の言葉にすりかえられたままである。(p.161~3)
 言葉、仲間、風景、家族、友だち、それは「くに」(nation)であって、それをもとにして自分ができた。それは国民を統治・支配するための権力機構、国家(state)とは峻別しなければならない。そう理解しました。この権力の一翼を担う方々(官僚・政治家・財界)は、えてして「愛国心」という言葉を怒号し、私たちにそれを強要します。しかしそれは"「くに」を愛しなさい"ということではなく(それはそれで余計なお世話ですが)、"国家に従順であれ"ということを内実としています。富裕者を優遇し格差を拡大して多くの家族に塗炭に苦しみを与え、競争原理を煽り仲間を分断し、企業や行政の利益のために自然(風景)を破壊してきた/している彼らが、「くに」を蹂躙してきた/している彼らが言うところの「愛国心」は"国家を愛してそれに抗うな"ということでしかありえません。こういうお守り・魔除け言葉に騙されないようにしよう、常に「くに」の側に立つようにしよう、そうしたメッセージとして受け取りました。
 もうひとつ、「必要もないのに原子爆弾を二個も日本人の上に落とした米国の言いなりにな」ってきた日本という国家への痛烈な批判も胸に刻みました。その非道な米国のために、莫大な「思いやり予算」を提供し、辺野古新基地を身銭を切って建設し、米兵の犯罪を黙認し、米軍機の低空飛行訓練や爆音を容認し、沖縄をはじめ基地による被害に苦しむ人々の訴えを無視する、そういうことをする人って、普通の感覚では「売国奴」って言いませんか。最近、集団的自衛権に反対する運動、米軍基地に反対する運動に、「売国奴」という言葉を投げつける方々がいるそうです。(山ノ神も、集団的自衛権反対デモに参加したらそう言われたそうです) でも投げつける相手を間違えてはいませんか。

 自分の頭と言葉で考える、鶴見氏にはとても及びませんが、その後塵を拝していきたいと思います。
by sabasaba13 | 2015-07-28 06:27 | | Comments(0)

戦争絶滅受合法案

 安倍伍長、フリッツ・ホルムが提案した「戦争絶滅受合法案」も成立させてくれませんか。
戦争が開始されたら、10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。
第一、国家元首。
第二、その男性親族。
第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。
第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。
第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。
 えっできない? どうしてですか?
by sabasaba13 | 2015-07-27 06:29 | 鶏肋 | Comments(0)

尾形乾山展

c0051620_1871161.jpg ある日ある時、どこからともなく山ノ神が「着想のマエストロ 乾山見参!」という展覧会の招待状をもらってきました。"倒るる所に土を掴め"を座右の銘とする山ノ神に強力に誘われ、サントリー美術館に参ることにしました。尾形乾山か、光琳の弟、ユニークな意匠の器をつくった陶工、晩年は江戸の入谷に住んだ、くらいのことしか思い浮かばない無学な私。乾山の器を見たことがないので楽しみです。さて尾形乾山とは何者か、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
尾形乾山 (1663‐1743) 江戸中期の陶芸家、画師。
 京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれる。名は深省。権平、惟允とも称した。尾形光琳は彼の次兄である。富裕な商家に育ちながら2人とも商人にはならず、もっぱら文化的な素養を身につけ、自由な生活を楽しんだ。1689年(元禄2)27歳のとき乾山は洛西双ヶ岡に習静堂という一書屋を構えて文人生活に入っている。近くに高名な野々村仁清が活躍する御室焼があり、この窯に遊ぶうちに陶工になる決意を固め、99年に2代仁清より陶法の秘伝を受け、近くの鳴滝泉谷に窯を築いて本格的な製陶生活に入った。この窯が京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」を窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身も雅号に用いている。
 乾山は仁清に技術を学びながら、その様式を継承することをせず、兄光琳の創始した琳派とよばれる復興大和絵の画風をみごとに意匠化することに成功し、一家をなすことができた。白化粧地に鉄絵や染付を使って表す装飾画風はまことに雅趣に満ち、瀟洒な作風は個性に輝いており、製品には師のかわりに「乾山」と筆で自署するのも画師と同じ芸術家意識を表している。
 1712年(正徳2)に鳴滝から市中の二条丁字尾町に窯を移した時期から、彼の作陶は第二期に入るが、16年(享保1)に絵付に参画した光琳が死亡したころは、陶業は不振をきたしたといえる。しかし彼の遺品をみると、得意とする白化粧地鉄絵、染付のほか、色絵にも新機軸を生み出し、中国、朝鮮、オランダの陶芸を模倣し、京都では初めて磁器を焼出するなど、彼ほど新技術の進取に取り組んだ陶工も少ない。その意欲的な精神は75歳の37年(元文2)に著した『陶工必用』に横溢している。享保(1716~36)の中ごろに江戸に赴き、晩年はこの地で送り、寛保3年6月2日、81歳で没したが、晩境にあっては絵画に名作を多く残し、「京兆」「平安城」を冠称して「紫翠深省」と自署し、自ら京都文化の保持者であることを誇示した。
 都営12号線の六本木駅からとことこ歩いて「東京ミッドタウン」とやらに到着。こんなに物をつくって売って買って捨てまた売って買わなければ経済は発展しないのかと絶望するくらい、わけのわからない虚飾に満ちたお店が乱立する中を息を止めて足早に通り過ぎ、三階のサントリー美術館に辿り着きました。年配のご婦人を中心にけっこう混雑していますが、忍耐できないほどではありません。いざ拝見いたしましょう(ロハだし)。
 まずは"乾山への道-京焼の源流と17世紀の京都"というコーナーでは、乾山を育んだ17世紀京都における町衆の美意識が紹介されていました。本阿弥光悦の「赤樂茶碗 銘 熟柿」の高台を呑み込むようなもっこりとしたふくよかな佇まいには思わず緩頬。俵屋宗達の料紙に光悦の書という豪華なコラボレーションにも目を奪われました。いやあいきなり眼福ですね。
 そして"乾山颯爽登場-和・漢ふたつの柱と大平面時代"、いよいよ乾山の登場です。鳴滝窯で作られた角皿は、まるで器という四角いキャンバスに描かれた絵画。着想の妙ですね。兄・光琳との合作にもお目にかかれましたが、文人画を思わせる軽妙洒脱な絵はなかなか魅力的です。私が気に入ったのは「色絵桔梗盃台」、盃を並べて置くための台ですが、綺麗な桔梗の花弁をあしらった鍔が裾広がりの円筒につけられており、その配色と形状のユニークさには脱帽です。
 "「写し」-乾山を支えた異国趣味"コーナーでは、海外陶磁の「写し」を展示していました。解説によると、中国・東南アジア・ヨーロッパなどの舶来品を珍重する文化人向けに売るための器で、乾山窯を経済的に支えた主力商品だそうです。中国、安南、はてはオランダのデルフト焼(「染付阿蘭陀草花文向付」)まで摸 した、実利を兼ねた旺盛な好奇心と探求心を感じました。
そして本展覧会の白眉、"蓋物の宇宙-うつわの中の異世界"です。紹介文を引用しましょう。
 鳴滝の窯では角皿類や写し物をはじめ、多種多様のうつわが作られていましたが、その中でも特に個性的なのが「蓋物」です。丸みを帯びた柔らかな造形は、籠や漆器に着想を得たと言われています。
 この蓋物に共通して表されるのが、外側の装飾的な世界と対照をなす内側のモノトーン空間です。それはさながら蓋を開けて初めて明らかとなる「異世界」。この世ならざる世界の扉を開けてしまうこのうつわは、未知の体験へ誘う一大イベントを演出したことでしょう。そう、乾山はこの蓋物でひとつの「宇宙」を作り出してしまったのです。
 いやはや、「銹絵染付金銀白彩松波文蓋物」には参りました。蓋には、白・金・銀で松が描かれていますが、思い切りデフォルメされ、まるで生きているかのように蠢いています。その銹色の余白とのバランスの妙も素晴らしいですね。そして内側はモノトーンに描かれた、静かにたゆたう波文。「白泥染付金彩芒文蓋物」も凄い。蓋には、白泥・マンガン呉須に金彩を施した芒が自由闊達・天衣無縫に描かれ、まるでジャクソン・ポロックの絵のようです。そして内側には肉太の筆致で描かれた花入四方襷文、外と内の対比の妙が素晴らしい。
 次の"彩りの懐石具-「うつわ」からの解放"コーナーも劣らずに見事でした。紹介文を引用します。
 乾山は正徳2年(1712)、鳴滝から京都市中の二条丁子屋町に移転し、懐石具を多く手掛けるようになります。懐石具自体は鳴滝時代から作られていましたが、時はまさに京焼全体が飲食器の量産に向かっていた時代。乾山も競合ひしめくこの分野で、果敢に勝負に出たのでした。
 ここで乾山最大の武器となったのは琳派風の文様や文学意匠に基づく斬新なデザインです。文様の輪郭に縁取られた向付、内側・外側の境界を超えて、水流が駆け巡る一瞬を取り出したかのような反鉢など、立体と平面の交叉するその着想は、現代の私たちが見ても遊び心にあふれ、新しく見えるものばかりです。
 こうして乾山は「うつわ」の枠にとらわれない彩り豊かな懐石具で成功を収めたのです。
 菊や楓を大胆にあしらった五客ワンセットの「色絵菊図向付」や「色絵龍田川図向付」は、乾山の遊び心に満ちた向付です。山ノ神のご教示によると、向付(むこうづけ)とは、膾(なます)や酒の肴を盛りつける小皿だそうです。中でも私が気に入った一品は「夕顔図黒茶碗」。深みのある漆黒に浮かび上がる二輪の夕顔。その愛らしさとあたたかさに、しばし時を忘れて見惚れてしまいました。

 というわけで、尾形乾山の魅力を堪能できた、素晴らしい展覧会でした。安倍伍長を筆頭に、「今だけ」「金だけ」「自分だけ」のことしか考えない恥知らず・嘘つき・人でなしが各界で跳梁跋扈する日本。絶望する気は毛頭ありませんがちょっと気が滅入っていたこの頃、一服の清涼剤を味わえて幸せです。
by sabasaba13 | 2015-07-26 18:08 | 美術 | Comments(0)

追悼 鶴見俊輔

 評論家・哲学者の鶴見俊輔さんが逝去されました。享年93歳。謹んでご冥福をお祈りいたします。正直、良い読者とは言えず、鶴見さんの本を読んだことはさほどありません。『<民主>と<愛国>』(小熊英二 新曜社)を読んで、氏の知的豊穣さに感銘を受けてぜひ読もうと思いながらも、結局手にしたのは『旅の話』、『思い出袋』(岩波新書)、『戦争が遺したもの』(新曜社)だけでした。でもこれからですね、ぜひ読んでいきたいと思います。
 『戦争が遺したもの』で、小熊英二氏とともに鼎談をされた上野千鶴子氏が、朝日新聞(2015.7.24)に素晴らしい追悼文を寄稿されていたので紹介します。
 鶴見俊輔。リベラルという言葉はこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。
 何事かがおきるたびに、鶴見さんならこんなとき、どんなふうにふるまうだろう、と考えずにはいられない人だった。哲学からマンガまで、平易な言葉で論じた。座談の名手だった。
 いつも機嫌よく、忍耐強く、どんな相手にも対等に接した。女・子どもの味方だった。慕い寄るひとたちは絶えなかったが、どんな学派も徒党も組まなかった。
 哲学者・思想家であるだけでなく、希代の編集者にしてオルガナイザーだった。「思想の科学」は媒体である以上に、運動だった。

 「思想の科学」の誇りは「50年間、ただのひとりも除名者を出さなかったことだ」と。社会正義のためのあらゆる運動がわずかな差異を言い立てて互いを排除していくことに、身を以て警鐘を鳴らした。
 リベラル、自分の頭と言葉、平易、機嫌よさと忍耐強さ、対等なつきあい、女・子どもの味方、独立心、そして寛容。これからいろいろなことを考え行動して行く上で、指針としたいと思います。『「国語」の近代史』(安田敏朗 中公新書1875)にも、鶴見さんの言葉が紹介されていたので紹介します。
 米国から輸入された「民主」、「自由」、「デモクラシー」等のお守りが盛に使はれるに至つた。終戦後に簇生した各種文化団体が、その顔ぶれと傾向の如何を問はず、或は之等を誌名に入れ、或は趣意書の中に盛込んだ状況より察すれば、之等は明らかに新時代に即した魔除け言葉として用ひられたのであらう。更に戦前から戦中にかけて侵略を歓迎せるかに見えた評論家達が「民主」、「自由」、「平和」を謳つた事を見ると、彼等がその間の変化に恥しさを感じない所の根拠は、彼等が之等の言葉のお守り的性格を考慮した結果、言葉が変つたとて内容には変りがなくてよいのだといふ認識に達した事にもあるかと判断される。(『思想の科学』創刊号より 1946.5)
 お守り・魔除けとしての言葉。自分の利益のために、あるいは敵対者を攻撃するために使われる、内実のない言葉という意味でしょうか。今でしたらさしずめ「安全保障」とか「抑止力」とか「理解を得る」という言葉ですね。こうしたお守り・魔除けにころっと騙される知的怠惰が、安倍伍長に政権をとらせ、その暴走を後押ししたのだと思います。自分の頭で言葉を紡ぐ力、あるいはお守り・魔除け言葉を見抜く力、道徳教育などよりも、そうした力を若者が身につけられるように援助するのがわれわれの役目だと思います。
 なお文中に"恥しさ"という言葉がありましたが、朝日新聞の「鶴見俊輔さんの語録」に次のような一文が紹介されていました。
 政治にとってもっとも大事なことは恥じらいをいかに堅持するかです。(1997年、「物語を通してみる日本人のこころ」)
 そっくりそのまま熨斗をつけて安倍伍長に進呈します。受け取ってくれないかな。そうそう、『戦争が遺したもの』の中に、安倍伍長に進呈したい言葉があと二つありました。上が鶴見俊輔氏、下が上野千鶴子氏の言葉です。
 大義というような抽象的なものによって、決断をすべきじゃない。人間にはそんなことを判断する能力はないんだ。誰となら、一緒に行動していいか。それをよく見るべきだ。(p.354)

 歴史は、それから学ぼうとする者の前にしか姿をあらわさない。(p.397)

by sabasaba13 | 2015-07-25 07:23 | 鶏肋 | Comments(0)

重森三玲の庭編(18):福知山線(14.3)

 それでは丹波竹田駅へと歩いて戻りましょう。予定通り16:22発の福知山行き普通列車に乗って福知山駅に16:30に到着。ここでUターン、福知山発16:46の特急「こうのとり」に乗って、山ノ神が買った篠山の焼き栗を食べながら尼崎へと向かいます。
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 そう、この路線は福知山線、あの大参事が起きた場所です。ウィキペディアから引用しましょう。2005(平成17)年4月25日午前9時18分ごろ、福知山線塚口駅―尼崎駅間のカーブ区間で、上り快速列車の前5両が脱線し、先頭の2両が線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎」に激突。死者107名、負傷者562名を出す未曾有の大事故でした。
 以前に乗った時には事故現場を視認できなかったのが、今回は常人を凌駕する動態視力を持つ山ノ神同伴です。車窓から彼女に現場を特定してもらって撮影をしようと、「頼りにしてまっせ」と柳吉のように呟きながらカメラを構えて待機しました。たしか塚口駅と尼崎駅の間でしたね、塚口駅を通過した後に息を呑んで待ち構えていると、列車が大きくカーブしました。「ここ」と山ノ神の一言、一瞬ですが事故現場となったマンションが視界をよぎったのでシャッターを押しました。ぱしゃ。
 事故の原因については、ウィキペディアに以下のような指摘があります。
 国鉄時代から並行する阪急電鉄などの関西私鉄各社との激しい競争にさらされており、その影響からか、民営化後のJR西日本にも競合する私鉄各社への対抗意識が強かったとされて、私鉄各社との競争に打ち勝つことを意識するあまり、スピードアップによる所要時間短縮や運転本数増加など、目前のサービスや利益だけを優先し、安全対策が充分ではなかったと考えられる。

 また同社においては、先述の競争の激しさや、長大路線を抱えている点から、従業員がダイヤの乱れた時における乗客からの苦情の殺到を過度に恐れていたとの指摘もある。

 目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として、日勤教育という再教育などの実務に関連したものではなく、懲罰的なものを科していた。具体的には乗務員休憩室や詰所、点呼場所から丸見えの当直室の真ん中に座らされ、事象と関係ない就業規則や経営理念の書き写しや作文・リポートの作成を一日中させられ、トイレに行くのも管理者の許可が必要で、ホームの先端に立たされて発着する乗務員に「おつかれさまです。気をつけてください」などの声掛けを一日中させられたり、敷地内の草むしりやトイレ清掃などを命じるなど、いわゆる「見せしめ」、「晒し者」にさせる事例もあれば、個室に軟禁状態にして管理者が集団で毎日のように恫喝や罵声を浴びせ続けて自殺や鬱に追い込ませた事例もある。それが充分な再発防止の教育としての効果につながらず、かえって乗務員の精神的プレッシャーを増大させていた温床との指摘も受けている。事故の当該運転士も、過去に運転ミスや苦情などで3回の日勤教育を受け、知人や友人に「日勤教育は厳しい研修だ」、「一日中文章を書いていなければならず、トイレに行くにも上の人に断らなければならないので嫌だ」、「日勤教育は社訓みたいなものを丸写しするだけで、こういう事をする意味が分からない」、「給料がカットされ、本当に嫌だ」、「降ろされたらどうしよう」と話していた。さらに、事故直前の伊丹駅での72mのオーバーランの後、車掌にオーバーランの距離を少なく報告するように車内電話で要請したことも明らかになっている。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-24 06:33 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(17):石像寺四神相応の庭(14.3)

 お徒士町武家屋敷群をまわって観光案内所へ戻り自転車を返却。
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 山ノ神は大正ロマン館で名物の栗羊羹と焼き栗を購入しました。そしてバスで篠山口駅へと行き、14:30発の福知山行き普通列車に乗って、15:22に丹波竹田駅に着く予定です。めざすは重森三玲の作庭した石像寺「四神相応の庭」ですが、問題はアクセスです。駅からタクシーに乗れれば問題なく、お庭を拝見して丹波竹田駅へ戻り16:00発の列車に乗って神戸へ帰れます。しかしタクシーが見つからなかったら…お寺さんまで徒歩20分、16:00発の列車にはとても間に合いません。次の列車は丹波竹田17:14発の快速で、(たぶん)何もない駅前で無為の時間を過ごすことになります。ま、それはそれでよいのですが、できれば明日に備えて早めに就寝したいものです。昨日購入した時刻表を紐解き、『点と線』のような鮮やかなトリックはできないものかと調べてみると…できた。意表をついて丹波竹田16:22発の福知山行き普通列車に乗って福知山駅に到着するのが16:30、ここでUターンをします。福知山発16:46の特急「こうのとり」に乗れば18:14に尼崎着。やった、ねえねえ聞いて聞いて、と隣を向くと、口を大きく開けて爆睡中の山ノ神でした。そういう天上天下唯我独尊的なところに惚れたのさ。惚れたが悪いか
 丹波竹田駅に着き駅前に出ると、タクシーの"タ"の字もありません。これは想定内、しかし「タクシーをご利用のお客様へ」という小さな看板があったのは嬉しい想定外。その下には「丹波竹田駅の駐車は1台ですから御不便をおかけしますが構内にタクシーがない場合は5~6分で市島駅より配車致します下記へ電話下さい」と記されていました。んもう典型的な悪文ですね、句読点をどこかで打ってください。
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 それはさておき一縷の望みをかけて、山ノ神が持参した携帯電話で連絡をとってみると、配車まで30分ほどかかるとのこと。んー、かなりのロスタイムですね、丁重にお断りをして、Operation-Bを決行することにしました。事前に印刷して持参したMapionの地図を片手に、ゆるやかな坂道を二十分ほどてくてく歩いていくと石像寺に辿り着きました。
 こちらもユニークなお庭でした。直線的な敷石で東西南北に区分けされ、それぞれのブロックに石組が配置されています。前掲書によると、これは各方位を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の四神を表わしたもので、緑泥片岩で伏せる青龍(東)を表し砂地は青砂、阿波産の白い石英石を白虎(西)に見立て砂地は白川砂、朱雀(南)は鞍馬の赤石で砂地は鞍馬砂、丹波産の黒石を使った亀石組は玄武(北)を表し砂地の黒砂利は越前産となっているそうです。それぞれの石の表情と動きがいいですね。立ち上がり、飛びかかり、屹立し、待ち伏せし、うずくまる石たち、命がふきこまれたように蠢いています。敷石の意匠も素晴らしい、色合いの違う四種類の石をそれぞれ異なる意匠で敷きつめ、直交するあたりから見下ろすと、四種類の砂地とあいまってまるで抽象絵画のようです。竹垣には、寺号に由来する「石」と、庭園名にちなむ「四神」が三玲の手によってデザインされていました。作庭は1972(昭和47)年、重森三玲76歳の時のものです。享年は79歳ですから晩年の作ですね。老境に達してもこの表現欲、ほんとうに底知れぬパワーを持った方だったのですね。
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 なお石像寺は、天津磐座(あまついわくら)が中腹に鎮座する岩倉山の山裾に拡がっているので、三玲は巨石と寺との関係を象徴すべく、「四神相応の庭」を考案したとのことです。

 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-23 06:35 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(16):丹波古陶館(14.3)

 そしてその一角にある丹波古陶館に入りました。
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 丹波焼について、当館でいただいたパンフレットの紹介文を引用しましょう。
 平安時代の終わりに、なぜか丹波、常滑、越前などに、同じ様式の壺が造られています。それらは一般的に「三筋壺(さんきんこ)」とよばれているもので、小振りでやや外に開いて立ち上がった口造りを持ち、胴の三ヵ所に横筋の文様が施されています。
 須恵の窯から、新しい窯業集落に変わったおおよそ八百数十年前、丹波の工人たちは、中央政庁や社寺のもとめに応じて祭器、経器、薬壺など、かなり上手物を焼きましたが、三筋壺もその一つです。しかし、陶土や窯の条件は、その目的に応えることができず、丹波窯はやがて大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩むことになります。
 紐造りの困難な成形、長い日時と破損の多い焼成の結果に、陶工たちはどのような思いで取り組んだのでしょうか。
 今、私たちが感じる器そのもののもつ力強さや、窯業の生んだ鮮やかな緑の自然釉も、不可抗力な焼物造りの障害の産物だったのではないでしょうか。平安末期から慶長年間に至る穴窯の時代は、ひたすら成形と窯とのたたかいであったのです。
 慶長末年、登窯の導入によって、新しい技法を得た丹波の陶工たちは、轆轤、釉薬を巧みに使い斬新な仕事ぶりをみせます。それは生活の用に即した、美しく逞しい器の数々でした。
 登窯と塗土が生みだした燃えるような「赤土部(あかどべ)」の輝きは、すでに陶工の心にかけがえのない"美"として映っていたでしょう。それは、陶土の悪さに阻まれた穴窯の焼締め無文の時代とは大きくイメージを異にするものです。
 江戸時代末期になると、さらに新しい釉薬や漉土による陶土の改善がなされ、白、黒、灰、鉄などの釉薬の掛け合わせによる多彩な文様と、さまざまな用途をもつ器が生まれました。
 平安時代末期に生まれ、いつの時代にも衰微することなく、常に生活の器を焼き続けてきた丹波焼は、間違いなく日本民陶の歴史を代表する焼物なのです。
 質実で剛毅なフォルムと自然釉が生み出す偶然の美、丹波焼の名品を十分に満喫いたしました。なお観光ポスターで使われている写真はここの中庭から門越しに通りを写したものです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-22 06:33 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(15):蓬春庭(14.3)

 お代を支払い、お庭を見せてほしいと店の方に頼むと、快く了承してくれました。ここ「蓬春庭」は、かつては篠山藩家老屋敷であった旧畑氏邸内に、1969(昭和44)年に三玲が作庭したもので、73歳のときのものです。ん? ということは、昨日拝見したとてつもない二つの庭、天籟庵の露地庭と友琳の庭と同じ年につくられたのですね。施主の好みを反映したのか、このお庭は伝統との真っ向勝負。石組、築山、苔で構成されたオーソドックスな枯山水です。しかし彼の美学が随所にあらわれているように思えます。白砂の上に大胆に敷かれた沢渡石を歩くと、海の上を浮遊しているような軽やかな気持ちになります。二つの三尊石組も、こじんまりとまとまらず、それぞれの石が激しく自己主張をしています。圧巻は白砂の上に独座する船石あるいは鯉魚石。まるで海中から飛び上がり、天へと駆け上ろうとするかのようなダイナミックな形です。さすがは重森三玲、石と話し、石の声に耳を傾けることができたのですね。
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 それでは自転車に乗って、篠山の町並みをめぐりましょう。如月庵の近くには「丹波杜氏酒造記念館」がありました。ささやま幼稚園のラブリーな交通安全足型飛び出し小僧を撮影して、河原町妻入商家群へと向かいます。
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 街道の面影を残した町並みのここ河原町は、築城後まもなく町づくりがはじめられ、城下町篠山の商業の中心として大変栄えました。道の両側に、白壁・妻入りの古い商家・町屋が建ち並ぶみごとな景観です。でもなぜ妻入りなのでしょう、出雲﨑と同様、間口の幅に税金がかけられたので狭くするためでしょうか。ご教示を乞う。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-21 06:30 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(14):篠山(14.3)

 尼崎で乗り換えて篠山口駅に着いたのが午前11時ごろでした。駅前からバスに15分ほど揺られると町の中心である二階町に到着です。丹波杜氏のふるさと、丹波猿楽として能楽のさかんな地、六古窯(瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、備前焼)の一つである丹波焼を生んだ地、そして京料理を支えてきた食材(丹波黒豆・丹波栗・松茸・山芋・猪肉)の一大供給地、篠山。鉄道が通らなかったので、城下町らしい武家屋敷や妻入商家の町並みがいまに残る魅力的な町です。なお私は以前に訪れたことがありますが、山ノ神ははじめてです。
 まずは洒落た意匠の「飛び出し娘」と大正ロマン館を撮影。後者は、1923(大正12)年に建てられた町役場を利用した観光拠点で、中にはレストランや売店などがあります。
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 その向かい側にある観光案内所で自転車を借りて地図をもらいました。まずは重森三玲のお庭がある篠山観光ホテル如月庵へと向かいましょう。篠山城の堀が、鏡の如くに木々や家々や山々を映してそれはそれは綺麗です。思わず自転車を停めて写真を撮りまくりました。
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 そして如月庵に到着、まずはこちらで昼食をいただきましょう。
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 名物だという「デカンショうどん」を注文しましたが、豚肉とゴボウ・えのき・白菜などの野菜とうどんを味噌仕立てで煮込んだ饂飩で美味しうございました。他にも「ぼたん鍋」や、シーズンには松茸も食べられます。なおその名称の由来ですが、「デカンショ節」とは、江戸時代から篠山市域で歌われていた「みつ節」が変形したものだそうです。「デカルト・カント・ショーペンハウエル」をもじった学生歌かと思っていましたが、それにはウィキペディアによると次のようなエピソードがあるとのこと。旧篠山藩主の青山家は、明治維新後は学問を奨励し、優秀な学生を東京の寄宿舎にり遊学させていました。彼らは、例年、夏には千葉県の八幡の浜で過ごしていましたが、1898(明治31)年の夏、宿泊先の江戸屋の二階で郷土の盆踊り歌を大声で歌っていました。それをたまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員が聞きとめ、たちまち気に入り、歌の指導を受けて東京に戻ってからも歌い続けました。それが多くの学生や若者に愛唱されるようになり、全国に広まったそうです。おしまい。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-20 08:58 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(13):神戸(14.3)

 朝目覚めてベランダに出ると、海も神戸も六甲の山並みも、朝日を浴びて気持ちよさそうでした。どうやら今日は好天のようです。パイロット(水先案内)の船も、軽やかに海面を滑りお仕事に向かっていきます。
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 本日の旅程は、篠山(ささやま)にある如月庵庭園を拝見して篠山の町並みを見物、そして丹波市に移動して石像寺「四神相応の庭」を拝見して神戸に戻る予定です。申し遅れましたが、宿泊している神戸メリケンパークオリエンタルホテルの朝食料金は、われわれボンビー人にとって、花菱アチャコ風に言うと"むちゃくちゃでごじゃりまするがな"的な額でしたので、素泊まりにしております。よって♪朝飯食わずに♪送迎バスに乗り込み三宮駅でおろしてもらいました。JR三ノ宮駅に向かって歩いていると「焼きたてクレープNo.1チェーン 売上日本一!!」という看板があったので撮影。JR三ノ宮駅のホームで列車を待っていると、長い長い貨物列車が目の前を通過していきました。近ごろ見かけなくなった光景だけになんとも嬉しくなってきます。貨車による物流がもっと増えて、トラックによる輸送が減れば、交通事故も、騒音・振動公害も、大気汚染も劇的に少なくなると思うのですが。
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 蛇蠍の如くに自動車を嫌悪する私ですが、その思いを論理的かつ明瞭に指摘してくれる『自動車の社会的費用』(宇沢弘文 岩波新書)という素晴らしい本に最近出会えました。長文ですが、引用します。
 自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因の一つとして、自動車通行にともなう社会的費用を必ずしも内部化しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる。すなわち自動車通行によって、さまざまな社会的資源を使ったり、第三者に迷惑を及ぼしたりしていながら、その所有者が十分にその費用の負担をしなくてもよかったということである。そのために、他の交通手段に比較して、自動車の場合、安い価格で当事者は快適なサーヴィスを得ることができたということが、自動車がこのように普及してきたもっとも大きな要因だったのである。
 このことは、鉄道と比較してみると明瞭であろう。鉄道の場合には、線路や駅をはじめとして車両が通行するところは、鉄道の専有地として、そのために必要な費用は原則として鉄道利用者が支払うことになっている。鉄道については、騒音・振動などによって沿線の住民に迷惑を及ぼすが、それ以外には第三者に与える被害は発生しないとみてよいであろう。ところが自動車の場合には事情はまったく異なる。ほとんどの道路について自動車通行者は無料で使用することができるが、そのために、歩行者、住民に大きな被害を与えている。重量税、ガソリン税、自動車損害賠償責任保険などによって一部自動車使用者が負担しているとしても、道路建設・維持にかかわる費用、公害、交通事故による死傷などの被害に対してごく一部にしかなっていない。(p.30~1)
 ま、要するに、「人様に迷惑をかけているんだからきっちり落とし前をつけろ」ということですね。でも「落とし前をつけさせると車が売れなくなり経済成長が鈍化してしまう、それでもいいのか」という恫喝が、政官財という黒い三角形から聞こえてきそうですね。人間らしい暮らしよりも経済成長が大事、さすれば富は下々の方まで流れてくるぞよ、というトリクルダウン理論ですか。でも池澤夏樹氏が『終わりと始まり』(朝日新聞出版)で言われているように、"下流で待っていても何も来ないという悲しい流し素麺"(p.81)じゃあないですか。この没義道で不公正な日本社会、このまま放置しておくと「一将功成りて万骨枯る」ということになりかねません(もうなっているか)。スマホをいじって閑をつぶし、中国・韓国の悪口を言って憂さを晴らしている場合ではないと思うのですが。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-07-19 06:20 | 近畿 | Comments(0)