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8.30国会10万人集会

 昨日、山ノ神と「8.30国会10万人集会」に馳せ参じてきました。戦争法案反対集会に参加するのはこれで三度目ですが、もっとも参加人数が多く、熱気と怒りとパワーにあふれていたような気がします。永田町駅で降りて国会正門前に向かいましたが、人・人・人の波に呑み込まれ身動きがとれずに、やっとのことで国会図書館の前あたりに移動してここに最後まで居続けました。主催者発表によると、参加者は12万人。警察の発表によれば3万3千人。もちろん正確な数はわかりませんが、実際に体感した雰囲気では前者に近いような気がします。できるだけ影響を抑え込みたいという警察関係者の気持ちはわかりますけれど、あまりにも過小に見積もると信頼感をますます失いますよ、老婆心ながら。
 心地良い疲労感とともに帰宅し、午後七時のNHKニュースを見ました。さてこの大規模な集会については何番目に報道されるか? 山ノ神の予測はトップ、私の予測は三番目。ビンゴ! トップはバンコクで起きたテロ事件、二番目が「スズキ」と「フォルクスワーゲン」の提携解消、やはり三番目でした。ま、籾井君ですから、こんなところでしょうね。そういえば、これだけ大きな集会だったのに、ジャーナリズムの飛ばすヘリコプターも少なかったような気がします。

 先日読み終えた『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』(矢部宏治 文/前泊博盛 監修 書籍情報社)に、次のような叙述がありました。
 日本国憲法の成立について知った2年後、1994年10月10日に、同じくらいびっくりするような記事が朝日新聞にのりました。9日付のニューヨーク・タイムズが「CIAが1950年代から60年代にかけて、自民党に百万ドル援助」という内容の記事を報じたというのです。
 この記事を書いたティム・ワイナー氏は、その後10人の元長官を含むCIA職員、元職員に300回以上のインタビューを行ない、2008年に『CIA秘録』を出版しています。そのワイナー氏の目から見ると、そもそも自民党というのは「岸がCIAに金を出してもらってつくった政党」なのだそうです(そこまで言いますか)。
「岸はアメリカに自分を売りこんで、こう言った。『もし私を支援してくれたら、この政党(自民党)をつくり、アメリカの外交政策を支援します。経済的に支援してもらえれば、政治的に支援しますし、安保条約にも合意します』」「CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった」「岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束した。アメリカは日本の軍事基地を維持し、日本にとっては微妙な問題である核兵器も日本国内に配備したいと考えていた。岸が見返りに求めたのは、アメリカからの政治的支援だった」(ティム・ワイナーの証言) (p.175)

 岸がCIAから資金提供を受けてつくった自民党の本質的機能とは、「安保体制を守り、運営する」ことだった。そして自民党の右派とリベラル派(保守本流)が安保を守り、自民党のリベラル派と社会党が憲法を守るという安定した三極構造(55年体制)のなかで、日米安保さえ守っていれば国内でいくら痴呆的な政治闘争に明け暮れていても政権は安泰だった。だから日本は「外交、防衛のすべてをアメリカに頼る保護国」(愚者の楽園)となっていったのだと。経済的繁栄とひきかえに、外交、防衛、そして政権選択といった国家主権を手離したツケを、これからわれわれは払わねばならないのでしょう。(p.177)
 さて彼のお孫さん、安倍晋三伍長が、安保体制の総仕上げに向けてぶいぶいと突っ走っております。意味不明かつ稚拙な例え話には噴飯してしまいますが、要するにアメリカ政府と軍が行なう先制攻撃・大義なき戦争・国家テロの片棒を一所懸命にかつぎたいということでしょう。なぜ独立国家の体裁をとりながらも、自国の利益よりもアメリカの利益を優先させるのか。(ちなみにガバン・マコーミック氏の定義では、そういう国は「属国」です) "三つ子の魂百まで"、CIAから資金提供を受けてつくられた自民党の存在理由であり本質なのですかね。
 戦後の日本と世界の歴史についてはこれからも考え続けていきたいし、これからの展望についても考えていきたいものですが、とりあえず安倍伍長に引導を渡さねばなりません。「市民の足による投票は選挙の一票よりも有効な時がある」というレーニンの言葉を支えに、できるかぎり集会やデモに参加する所存です。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-31 06:30 | 鶏肋 | Comments(0)

重森三玲の庭編(35):旧山邑家住宅(14.3)

 ブラントンは、日本の近代化を助力し、そして何よりも洋式灯台についてのノウハウを伝授してくれた灯台マニアにとっては足を向けては寝られない恩人です。スーパーニッポニカ(小学館)からブラントンのプロフィールを引用しておきます。
Richard Henry Brunton (1841―1901) イギリスの技術者、幕末・明治初期のお雇い外国人技術者。スコットランドのアバディーンシャーに生まれる。父は船長であった。私立学校卒業後、鉄道工事の見習技師となり各地の工事に従事した。その後、徳川幕府の依頼を受けたスティーブンソン兄弟の斡旋で1868年(慶応4)来日し、本格的な洋式灯台の建設に携わった。さらに新時代の工学知識と西欧技術を多方面からの依頼に応じて発揮し、鉄道建設の必要を建言のうえ、まず東京―横浜間の鉄道敷設を説いた。また、横浜にあった鉄の橋の吉田橋の架設や横浜居留地の公園計画、下水道敷設などを行った。横浜の都市づくりに多くの提案を残し、76年(明治9)帰国した。
 なおブラントン設計の灯台は旧和田岬灯台の他に14基現存しており、これまでに樫野崎江埼角島犬吠崎御前崎尻屋崎友ヶ島、菅島でその姿を見てきました。残るは神子元島、六連島、鍋島、部埼、釣島、金華山、ぜひとも全てを踏破してみたいものです。
 ここから須磨海岸をのんびりと歩いて駅へと戻ります。このあたりは海水浴場になっており、「他人に恐怖心を与える行為の禁止!(入れ墨等の露出)」というピクトグラムがありました。
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 JR須磨駅から神戸線に乗って三ノ宮に戻り、阪急に乗り換えて芦屋川駅へ。だいたい四十分ほどで到着しました。ぎっちりと護岸された川の両岸には五分咲きの桜並木がありました。ここはお花見の名所でもあるそうです。右手の高台に、木々に埋もれるように佇む洋館が見えてきましたが、あれがフランク・ロイド・ライト設計のヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)です。私は二度目ですが、ぜひ山ノ神に見せてあげたいので再訪しました。
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 橋を渡り、ライト坂をすこしのぼると到着。芦屋川駅から歩いて十分弱といったところです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-30 08:10 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(34):旧和田岬灯台(14.3)

 「神戸牛 森谷商店」で"森谷のミンチカツ"を発見、さっそく購入してすぐに立ち食いしました。昼食として「イスズベーカリー」でカレーパンとフランスDEあんことバターを購入。実はこの行為が後に悲劇を生むことになります。
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 元町駅からJR神戸線に乗ること10分で須磨に到着です。駅の改札口を出ると、すぐ目の前にデンマークの国旗を掲げた店があったので、気になって近づくと「コペンハーゲン」というホットドッグ屋さんでした。ああ懐かしい、コペンハーゲンは二度行ったことがあるのですが、屋台のソーセージが美味しくて連日そればかり食べていました。食べたい、しかし豚まん+北京ダック+中華バーガー+ミンチカツで胃袋は膨満し、昼食はミート・パイ+カレーパン+フランスDEあんことバターを購入済み。無念、悔しい、と店の前で地団駄を踏んでいると、デンマーク人らしきご主人が出てきて流暢な日本語で「食べていきませんか」と勧めてくれます。事情を話して固辞し、コペンハーゲンのソーセージは美味であったという思い出話をすると、しばらく同地の四方山話に花が咲きました。ビヤーネ・リンボー・ハンセンさん(ご主人のお名前)、必ず再訪してホットドッグをいただきます。ん? するってえとなにかいご隠居さん、スタン・ハンセンはデンマーク系なのかい。
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 閑話休題。持参した『歩く地図14 大阪・神戸』を頼りに東の方へ十分ほど歩くと、海浜公園があり、その一角にお目当ての旧和田岬灯台が屹立していました。赤く塗られているのには違和感がありますが、鉄骨造りの武骨な、巧言令色鮮し仁とした趣の灯台です。長い間、船に無償の愛を捧げ続けて、今ここに安住の地を見出した灯台に敬意を表したいと思います。ご苦労様でした。
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 なお解説板を転記しておきます。
 日本の洋式灯台建設の歴史は、1866年幕府が諸外国との間に、主要な港に灯台を作る条約を結んだ時から始まります。翌1867年、幕府と英国大使が兵庫開港(同12月)に備えて結んだ大坂約定で建設を約束した5つの灯台のうちのひとつが和田岬灯台です。
 和田岬灯台は「日本の灯台の父」と呼ばれるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導で、明治4年和田岬砲台の横に作られました。当初は木製で8角形の灯台でしたが、明治17年に現在の鉄骨造の灯台に建て替えられました。
 その後、和田岬は埋め立てが進み、昭和38年には廃灯となりましたが、明治時代の洋式灯台建設の歴史を示す貴重な資料でもあり、現在の須磨海岸に移築・保存され、平成10年には国の登録有形文化財となりました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-29 06:49 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(33):ユーハイム(14.3)

 JR元町駅に向かって歩いていると、元町商店街の入口に「ユーハイム」本店があるのを山ノ神が目敏く発見。実は彼女、ユーハイムのミート・パイの大ファンなのです。さっそく神戸牛のミート・パイを2個購入。
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 実はユーハイムにはちょっとした歴史秘話があります。HPの「ユーハイム物語」を参考にして紹介いたしましょう。草思社の創業者のカール・ユーハイムは1886年、南ドイツのカウプ・アム・ラインに生まれて菓子職人となり、1908年にドイツの租借地・中国の青島で菓子・喫茶の店に就職し、やがて店を譲り受けて独立しました。カールの作るバウムクーヘンは「本場ドイツの味」と評判を呼びました。1914年にはエリーゼと結婚、しかし第一次世界大戦が勃発し、青島は日本軍に占領されてしまい、カールは日本に強制連行されてしまいました。広島の収容所に入ったカールでしたが、1919年、広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)でたまたま開かれた似島収容所浮虜製作品展覧会で自慢のバウムクーヘンを出品、これこそ日本で初めて焼かれたバウムクーヘンでした。1920年捕虜生活から解放されたカールは、家族を青島から呼び寄せ、横浜に店を開きました。
 しかし1923年、関東大震災によって店は全焼、命からがら船で逃げ出した夫妻がたどり着いたのは神戸でした。このときふたりの全財産はカールのポケットに入っていた5円札が1枚だけ…。しかし、夫妻はあきらめません。多額の借金をして神戸・三宮に新しい店を開店、港町神戸には当時から多くの外国人が住んでおり、ユーハイムは本場のドイツ菓子を売る店として注目され、順調に業績を伸ばしていきました。やがて第二次世界大戦が勃発。職人たちも次々戦場へ赴きました。神戸も空襲を受け、夫妻も六甲へ疎開しましたが、カールは病に倒れ、日々衰えていきました。1945年夏、広島・長崎に原爆が投下され、終戦を迎える前夜、ついにカールは息を引き取りました。その上、エリーゼも終戦後ドイツに強制送還されてしまったのです。
 しかし戦争から戻った職人たちが1950年神戸・生田神社前に店を開き「ユーハイム」を再開し、 1953年には、6年ぶりにエリーゼを日本に迎えることができたのです。おしまい。
 そうそう、降伏したドイツ兵の収容所の一つ、坂東俘虜収容所が、鳴門市ドイツ館として博物館になっています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-28 07:43 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(32):老祥記(14.3)

 三宮神社には「史蹟 神戸事件発生地」という碑がありました。へえ、この神社の前で起きたんだ。
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 スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 明治維新期における外国兵との衝突事件。1867年(慶応3)12月20日、岡山藩に摂津国西宮警備の命が出され、家老以下2000の兵が西宮に赴く途中、翌68年1月11日、英・仏兵と紛争を起こし相互に発砲した。しかも駆けつけたイギリス公使パークスにまで発砲したので、岡山藩兵は大事になることを考えて西宮に退き、ただちに新政府に報告。他方イギリス側も、米・仏陸戦隊の応援を得て、神戸の東西両口を抑え、港内停泊中の諸藩艦船を抑留した。対外関係の悪化を恐れた政府は、各国公使にいろいろと陳謝し、かつ家老の家来滝善三郎に責任をとらせて自刃させたので、ようやく事なきを得た。
 通りを渡るとそこが南京町、いよいよお目当ての「老祥記」でぶたまんが食べられま…と思いきや、たいへんな行列ができていました。So it goes on. でもどんどんはけているので、それほど時間はかからないでしょう、とにかく最後尾に並びました。
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 この間に薀蓄を、というよりも同店のホームページの受け売りを。中国は天津地方の、天津包子(テンチンパオツー)と呼ばれる饅頭を、味・名称ともに日本人に馴染む物にしようと考え『豚饅頭』を生み出したのがここ老祥記です。開店当時は中国の船員さんが故郷の味を求めて集まる憩いの場でもあったそうです。一日1万3000個の豚まんがつくられ即日売り切れ、スタッフは1分間に13個の豚まんを包むことができるそうです。
 そうこうしているうちに、十五分ほどで店の中に入ることができました。なお平日の10:00~11:00と17:25~18:15が狙い目だそうです。さっそく1個90円の豚まんを8個注文、小振りなのでこれくらいは(文字通り)朝飯前でしょう。うん、美味しいですね、ジューシーな餡と官能的な皮の絶妙なコラボレーション、私が5個、山ノ神が3個、あっという間にたいらげました。店の奥ではスタッフの皆さんが輪になって、せっせせっせと豚まんを包んでいらっしゃいました。
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 まだまだ食べられそうなので、近くにあった屋台で北京ダックと中華バーガーを立ち食いしました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-27 06:31 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(31):東遊園地公園(14.3)

 閑話休題、この公園には他にもいくつか記念碑やモニュメントがありました。モーツァルト像? なして? 今、インターネットで調べたところ、由緒は不明のようです。モラエス翁像もありましたが、この方の存在は徳島ではじめて知りました。
Wenceslau de Moraes (1854‐1929) ポルトガルの海軍士官、日本文化研究家。海軍兵学校を卒業して海外植民地に勤務。1889年(明治22)初めて来日、以後しばしば日本を訪れた。98年マカオ港務副司令(海軍中佐)を最後に退役し、日本に移住。神戸、大阪領事となり、徳島生まれの芸者福本ヨネと結婚。ヨネの死後1912年徳島に移住、その姪(めい)斎藤コハルをめとったが、3年ほどでコハルも病没し、同地で孤独な晩年を送った。日本の庶民文化を熱愛し、これを研究紹介する多くの作品を故国の新聞・雑誌に書き送った。
 1898年~1913年の間、外交官として神戸のポルトガル領事館に勤めた後、1913年に徳島に移り住んだのですね。また「ボウリング発祥の地 1869」という記念碑がありました。神戸市立博物館には、聖フランシスコ・ザヴィエル像や桜ヶ丘絵画銅鐸がありますが、以前に見たので先を急ぎましょう。
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 このあたりはかつての居留地で、その面影を残す唯一の建物が十五番館です。とはいえ阪神淡路大震災で全壊。解説によると、旧居留地内では、地震による液状化現象が生じ、20棟を超すビルが全壊したそうです。しかし部材を回収して復旧工事がすすめられ、3年をかけて震災前の姿に復元されたとのこと。なお隣には、旧居留地にあった煉瓦造の下水道管の一部が展示されていました。
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 早咲きの桜を撮影したところで、山ノ神が「猪木ピンチ」。きょろきょろ、あっ大丸神戸店があった。外で人通りを眺めながら待っていると、彼女が「どや顔」で戻ってきました。誇らしげにかざるデジタル・カメラのディスプレイを見ると、大丸店内にぶら下がっていた「山側・海側」という掲示でした。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-26 06:31 | 近畿 | Comments(0)

『京都 秘蔵の庭』

 『京都 秘蔵の庭』(写真:水野克比古 文:小埜雅章 光村推古書院)読了。昔からお庭を見るのは大好きで、旅行先では有名無名の庭園をできる限り訪れるようにしてきました。不惑を過ぎた頃からは、多少の知識と経験も身につき、庭師の意図にも気を付けるようになりました。また小川治兵衛(植治)重森三玲といった、卓越した庭師を知ることができたのも喜びです。次回の京都旅行を計画している時に、ある本で紹介されていたのが本書です。「秘蔵」というからには、あまり知られていないお庭も紹介されているのかなと期待してインターネットで購入。期待どおりの素敵な写真集でした。まずは写真が素晴らしい。紅葉や桜にこだわらず、そのお庭が一番良い表情を見せてくれる時を的確に撮影しています。新緑の頃が多いかな。選んだ庭も、宮廷の庭、茶家の庭、神社の庭、寺院の庭、別荘庭園、料理旅館の小庭とバラエティに富んでいます。桂離宮や孤篷庵といった超弩級の大物から、大聖寺本堂庭園や岡崎つる家庭園といった名もなく貧しく(?)美しい脇役まで、さまざまな佇まいのお庭が紹介されていて、ページをめくるたびに「眼福」と囁きたくなります。寝る前に一献傾けながら本書を紐解き、やがて睡魔の懐に抱かれれば良い夢を見られること必定。
 また短いけれども、専門家の眼から見た的確な解説もたいへん参考になりました。一見さんの素人にはまずわからない庭園の構成を、よく理解することができます。例えば…
表千家/不審菴露地 [上京区]
茶庭の鑑賞上、飛石の据え様は大きな景色の一つである。不審菴露地の飛石で気付く点は、飛石本来の導線とは別にやや逸れて小ぶりの飛石を遊びに置くことである。踏石手前の二番石の左側がそうであるし、さらに四石ほど手前の刀掛に至る飛石にも同手法が見られる。飛石が小さいゆえに歩行に余裕をもたせるためとも考えられるが、むしろ実用よりも景を重視した結果ではないか。目的地に向かうだけの単刀直入な線構成を、余分の一石を置くことによって面的に広げて曖昧とし、苔地平面とのなじみをよくしているのである。不審菴躙口の二番石の遊び石は、表流の露地にはよく見受けられる。(p.19)
 「据え様」「景色」「導線」「遊び」「景」「なじみ」といった庭に関するジャーゴンもたくさん知ることができました。これで、今までよりも深く庭を語ることができるようになれそうです。
 お値段は3800円と少々張りますが、元が取れること請け合い。お薦めです。次の京都旅行では、正伝永源院と紫織庵中庭を訪れてみようと思います。
by sabasaba13 | 2015-08-25 06:32 | | Comments(0)

言葉の花綵124

 わたしは安物の装飾具を作るために時間とエネルギーを浪費することを決して受け入れません。なぜなら愚か者だけがそうしたものを欲しがることを知っているからです。むしろわたしは反逆します。(ウィリアム・モリス)

 人間を恐怖に貶めるのを止めて人間を信頼することを学び、わたしたちを競争から解放して協力を築くこと。これこそがわたしたちの無上の義務です。(ウィリアム・モリス)

 わたしたちは本を読み、絵画を鑑賞し、美しい田園を散策しその片隅を発見し、静かに日光浴をし、同時代の知識に親しむことができないでいます。要するにわたしたちは、知的もしくは動物的ないかなる楽しみも欠けているのです。(ウィリアム・モリス)

 次にこれらの貧しい人々は、その苦しく不安な生活が邪魔して、彼らの生活をより良くする何らかの変革を想像することがほとんどできないのです。そして、自らの不幸な状況を改善するために行動を起こすことで彼らの貧しい所有物の一かけらを失うリスクをも取りたがらないのです。(ウィリアム・モリス)

 わたしは、自分の生活の物質的環境は楽しく寛大で美しくあってほしいと思っています。これが大きな要求であることは存知しています。しかしわたしは言わずにはおれないのです。もしこの要求が満たされないのであれば、そしてもし文明化した社会がそこで暮らすすべての成員にこうした環境を提供することができないのであれば、世界が止まってしまう方がよいとわたしは思います、と。(ウィリアム・モリス)

 頭の中でハンマーをもつと、すべての問題が釘の形に見えてくる。(マーク・トゥウェイン)

 貧富を問わずすべての消費者が食通であり、また食事の質を求めれば、われわれは良質の食料品を手にすることになるだろう。人類は農学者になる前に美食家であれ。(シャルル・フーリエ)

 衰退が繁栄をもたらすという事実は、いまや万人に与えられている新しい熱狂的な考えなのです。(ハワード&エリザベス・オダム)

 初代大統領のワシントンから、十八代大統領のグラントまでの〈進化〉は、ダーウィンをうろたえさせるのに十分な始末だった。(ヘンリー・アダムズ)
by sabasaba13 | 2015-08-24 07:53 | 言葉の花綵 | Comments(0)

重森三玲の庭編(30):慰霊と復興のモニュメント(14.3)

 そして東遊園地公園へ、ここには公園には「慰霊と復興のモニュメント」がありました。地下には震災で亡くなられた方のお名前が刻まれています。なお「神戸ルミナリエ」はこの公園が会場なのですね。
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 ガラスケースの中で赤々と火が燃えていましたが、これは「一・一七 希望の灯り」です。
一九九五年一月十七日午前五時四十六分
阪神淡路大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出

…たった一秒先が予知できない人間の限界…

震災がのこしてくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ
 気候変動、火山活動の活発化、これまで以上に激甚な自然災害が増えています。安倍伍長、「自衛隊を国防軍へ」などと寝惚けたことを言っているひまがあったら、すぐにでも自衛隊を「国際救助隊 雷鳥」に改組して、アジアで自然災害が発生したら即時に救援に向かう態勢をつくってください。悪いことを謝って、困っている人をすぐ助けに行く、そうすればアジア諸国との信頼関係の醸成に向かって大きく前進できると思います。いいかげん、マネー・ゲームとウォー・ゲームに狂奔する国から脱却してほしいものです。
 なお安倍伍長が国会で「わが軍」と口を滑らしたそうですが、万が一日本に国防軍ができても、それを「わが軍」と呼べるのはアメリカ大統領だけです。軍曹や伍長や上等兵の言う科白ではないですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-23 08:31 | 近畿 | Comments(0)

重森三玲の庭編(29):神戸港平和の碑(14.3)

 その隣にあったのが「神戸港 平和の碑」、こちらの碑文を転記しておきます。
 アジア・太平洋戦争時期、神戸港では労働力不足を補うため、中国人・朝鮮人や連合国捕虜が、港湾荷役や造船などで苛酷な労働を強いられ、その過程で多くの人々が犠牲になりました。私たちは、この歴史を心に刻み、アジアの平和と共生を誓って、ここに碑を建てました。
 2008年7月21日
 神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会
 これまでの旅や散歩で、強制連行に関するモニュメントや碑をいくつか見てきました。紹介しておきますと、足尾銅山松代象山地下壕沼倉花岡室蘭です。
 アジアの平和と共生を阻害している要因の一つが、歴史問題だと考えます。日本が過去の戦争犯罪をきちんと謝罪しないから、周辺諸国はまた同じことをするのではと懸念する。共生の前提となるのは信頼関係です。悪いことをしても「ごめんなさい」と言えない人、「みんなやってる」と開き直る人、「悪いことなんかしていない」と誤魔化す人、そんな人は信頼できないし友達にしたくないというのが社会の常識ではないのかな。なおこの二つの碑は、「神戸華僑歴史博物館」のところにあります。
 その先には、神戸郵船ビル、海岸ビル(旧三井物産神戸支店)、商船三井ビルディングと、味のある古いビルが並んでいます。関西電力神戸支店の巨大なビルを見上げていると、寡占事業体・電力会社の厖大な利益が想像できます。ちなみに関西電力が所有している原子力(核)発電所は、美浜・大飯・高浜ですね。
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 せっかくここまで来たのですから、税関マニアとしては神戸税関に会いに行きましょう。以前訪れた時は夜でしたので、昼間のお姿を撮影。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-22 09:25 | 近畿 | Comments(0)