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江戸東京たてもの園編(2):(14.9)

 中に入ると午砲が野外展示されていました。江戸時代の「時の鐘」に替わり、正午を通報した空砲で、かつて皇居内旧本丸跡にあり、1871(明治4)年から1929 (昭和4)年4月まで時を告げていたそうです。
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 それでは東ゾーンを徘徊しましょう。まずは常盤台写真場です。解説を転記します。
 この写真場は、戦前からの代表的な郊外住宅地、常盤台に建てられた。常盤台は1935年(昭和10)東武東上線の開業により武蔵常盤駅(現在のときわ台駅)が設置され、これを契機に分譲住宅地として開発された。内務省都市計画課の「健康住宅地」プランにより、編み目状の道路網、公園、電気、ガス、水道、下水道などの設備を備えていた。
 常盤台写真場は分譲当初の1937年(昭和12)に建てられた。2階写真場北側の天上から壁面は全面がガラスである。これはスラントといい、照明設備の無かった頃の写真館の特徴をよく表している。
 まず、装飾を一切拒否するような断固とした意思を感じさせる、シンプルな外観に目を引かれます。看板もなく、最上部に「TOKIWADAI PHOTO STUDIO」と店名が掲げられているだけです。全体的に左右非対称の構成で、角の部分を搭状に高くしているのが印象的。調子を変えながらリズミカルに穿たれた、縦長の窓もいい味を出しています。中に入ることができ、二階にあがるとそこが写真スタジオで、北側にはムラのない自然光を取り入れるための大きな摺りガラス窓(スラント)をとってありました。この手法は画家のアトリエでもしばしば用いられるそうです。
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by sabasaba13 | 2016-06-29 06:35 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(1):(14.9)

 近代の名建築を野外展示した「明治村」の記事は先日掲載しましたが、実は東京にも同様の博物館があるのですね。その名も「江戸東京たてもの園」。同園のホームページより、そのコンセプトを引用します。
 江戸東京たてもの園は、1993年(平成5年)3月28日に開園した野外博物館です。都立小金井公園の中に位置し、敷地面積は約7ヘクタール、園内には江戸時代から昭和初期までの、30棟の復元建造物が建ち並んでいます。当園では、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。
 なお私が私淑する建築史家の藤森照信氏が、野外収蔵委員として参画されています。
 以前に、山ノ神を同伴してお花見がてら訪れたことがあるのですが、今回はじっくりと拝見したいと思います。というわけで2014年の九月末、爽やかな秋晴れの某日、ふらりと小金井公園に行ってみました。JR中央線の武蔵小金井駅北口からバスに揺られて五分で公園に到着。緑の木々や芝生、紺碧の空を愛でながらすこし歩くと「江戸東京たてもの園」に到着です。付近にあった「エサやるな」「花火禁止」のピクトグラムと、宮崎駿氏制作のマスコットキャラクター「えどまる」を撮影して、ビジターセンターへ。
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 この建物は旧光華殿で、1940(昭和15)年に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された式殿です。「仮設」というのが気になりますが、そう言えば『夢と魅惑の全体主義』(文春新書526)で、井上章一氏が興味深い指摘をされていました。ファシズム体制がいだいていた意欲は建築や都市計画に投影されるという観点から、ドイツ・イタリア・ソ連・日本のファシズム期建築を比較・考察したのが本書です。ドイツ・イタリア・ソ連のファシズム体制は、権力の簒奪者が支配の正統性を補うために、明るく素晴らしい未来像を建築や都市計画という可視的な形で民衆に提示し大衆動員を行ったと分析されています。それに対して日本では、日中戦争開始直後の1937年10月に「鉄鋼工作物築造許可規則」が公布され、鉄材を50トン以上使う建築(※軍関係は例外)を禁止したそうです。その結果、建設中の鉄筋コンクリート建築は未完成のままほうりだされ、官庁を含めて首都中枢に木造のバラック群があらわれました。この光華殿もその一端を示すものかもしれません。未来への幻想を提供するのではなく辛くて厳しい生活への覚悟を国民に求めた、あるいは独裁者の夢想ではなく官僚の現実主義が支えたのが、日本のファシズムであったと著者は述べられています。『昭和ナショナリズムの諸相』(名古屋大学出版会)の中で、橋川文三氏は"結局日本ファシズムは、ファシズムに値するほどの異常性を表現したものではなく、近代日本の伝統的な官僚制の異常な戦時適応にすぎなかった…"(p.184)と指摘されていますが、官僚によって築き上げられた日本ファシズムの矮小性を語り継ぐ、歴史の証人なのかもしれません。
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by sabasaba13 | 2016-06-28 06:39 | 東京 | Comments(0)

『へいわって どんなこと?』

 「日・中・韓国 平和絵本」という絵本のシリーズをご存知ですか。迂闊にも私は初耳、某書ではじめて知り、その一冊『へいわって どんなこと?』(浜田桂子 童心社)を読んだ次第です。まず刊行の言葉を引用します。
 アジア・太平洋戦争の終結から65年が過ぎました。それでもなお、紛争の火種はいたるところにあり、それらは先の戦争が積み残した問題が原因となっているものも多くあります。
 一方、近隣の国同士の人びとの交流は様ざまな形で広がっており、互いに手をつなごうとする動きは確実に進んでいます。
 この"絵本シリーズ"を創るために続けられた日本、中国、韓国の絵本作家たちや出版社同士の交流は、6年を数えます。これは国の違いを超えた、相互理解と痛みの共有への努力の歴史です。そして三か国共同出版(それぞれの国で、それぞれの言語で、12冊の絵本を刊行しあう)という絵本史上初めての試みを成功させるための冒険の歴史でもあります。
 平和のために立ちあがった三か国12人の絵本作家たちの熱い思いは、強固な「友情と共感」、そして「希望への連帯」の結びつきを作りました。
 その意気やよし。嫌中・嫌韓本がうず高く本屋に積まれている今こそ、こうした共同作業が必要だと思います。そして魯迅ではありませんが、まず子どもたちを救うこと。日本人だって中国人だって韓国人だって、少々の違いはあるけれど、同じ人間であり、平和に暮したいと願っているのだということを知ってほしいと思います。人間を昆虫と同じように分類し、何千万という人間集団に「善」とか「悪」とかのレッテルが貼ってしまうような嘆かわしい精神的習慣から、せめて子どもたちは無縁でいてほしいものです。
 いろいろな人種・民族の子どもたちを彩り豊かに描いた絵も、戦争の醜さと愚劣さを描いた絵も、ともに子どもたちに訴える力をもっています。そして分かりやすく、真摯な気持ちのこもった詩が素晴らしいですね。
せんそうを しない。
ばくだんなんか おとさない。
いえや まちを はかいしない。
だって、だいすきな ひとに いつも そばにいてほしいから。
おなかが すいたら だれでも ごはんが たべられる。
ともだちと いっしょに べんきょうだって できる。
それから きっとね、へいわって こんなこと。
みんなの まえで だいすきな うたをうたえる。
いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。
わるいことを してしまったときは ごめんなさいって あやまる。
どんな かみさまを しんじても かみさまを しんじなくても だれかに おこられたりしない。
おもいっきり あそべる。
あさまで ぐっすり ねむれる。
いのちは ひとりに ひとつ、たったひとつの おもたい いのち。
だから ぜったいに、ころしたら いけない。ころされたら いけない。
ぶきなんか いらない。
さあ、みんなで おまつりの じゅんびだよ。
たのしみに していた ひが やってきた。パレードの しゅっぱーつ!
へいわって ぼくが うまれて よかってって いうこと。
きみが うまれて よかったって いうこと。
そしてね、きみと ぼくは ともだちに なれるって いうこと。
 "いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる"など、単に戦争を否定するだけではなく、どういう状況になると戦争に一歩近づいてしまうのかを、子どもにも分かる言葉で伝えようとしているのが見事です。一人でも多くの子どもたちに、そして大人たちにも読んでほしい絵本です。

 安倍伍長、"わるいことを してしまったときは ごめんなさいって あやまる"のが大事なんですよ。
by sabasaba13 | 2016-06-26 08:43 | | Comments(0)

言葉の花綵143

 現代人は、かつてのように何でもかんでも信じてしまうわけではない。彼らはテレビで見たことしか信じないのだ。(ベルギーの漫画家・グレッグ)

 疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、漠とした対立が続くときも。(アンヌ・モレリ)

 熱い心と、冷たい頭をもて。(アルフレッド・マーシャル)

 唯一、それがために戦う価値のある大義とは、果たされぬ大義である。(『スミス都へ行く』 フランク・キャプラ)

 民主主義が終わってるなら、始めるぞ。(奥田愛基)

「こいつら、しつこい」と思わせるのが大事。(古賀茂明)

 われらが力と頼むのは、戦いの仕掛けや虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにない。(ペリクレス)

 民主主義は他者と生きる共生の能力である。(ジョン・デューイ)

「永久革命」という言葉に意味があるとしたら、民主主義だけが永久革命という名で呼ばれるに値する。世界中のどこにも民主化が完了した国はない。日々、これから永久に革命していかなければならない。あらゆる国は民主化の過程にある。(丸山眞男)

 人は、個としては死ぬが、類としては死なない。(カール・マルクス)

 民主主義国家だったら、どんなに間違っていてもやり直すことができる。独裁国家にはその機能がない。デモクラシーだったらどんな悪政でも覆すことができる。(ジョシュア・ウォン)

 源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ。(ズビグニェフ・ヘルベルト)

 結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中まで持って行けるのはそれだけである。(レイモンド・カーヴァー)

 イマジネーションとは記憶のことだ。(ジェームズ・ジョイス)

 私が言いたいのは、君のやりたいように演奏すればいいということだ。世間が何を求めているかなんて、そんなことは考えなくていい。演奏したいように演奏し、君のやっていることを世間に理解させればいいんだ。たとえ十五年、二十年かかったとしてもだ。(セロニアス・モンク)
by sabasaba13 | 2016-06-25 06:22 | 言葉の花綵 | Comments(0)

2016年あじさい便り3

 登山鉄道の終着駅、強羅で下車し、坂道をのぼること数分で強羅公園に着きました。入園料を払って「あじさい展」に行ってみると…温室のなかでの鉢植え展示会でした。
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 なんだあ、てっきり野外にあじさい園があると思って期待したのに。でも見たことのない綺麗で珍しい紫陽花を堪能できたので諒としましょう。
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by sabasaba13 | 2016-06-23 06:45 | 鶏肋 | Comments(0)

2016年あじさい便り2

 今日はあじさい寺と呼ばれる阿弥陀寺に行くことにしました。大平台駅から箱根登山鉄道に乗って次の駅、塔ノ沢で下車します。この駅のホームには銭洗弁財天があります。
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 ここから坂道や石段をのぼること二十分ほどで阿弥陀寺に到着です。けっこうきついので、水は必需品ですね。早起きは三文の得、午前九時ころに着いたので境内は静寂な雰囲気につつまれていました。それほど広くはない境内を紫陽花が埋めつくし、そろそろ見頃を迎えていました。目を瞠ったのは、その品種の多種多様なこと。へえーこんな紫陽花もあるんだ、と驚きながら花の饗宴を楽しませてもらいました。点在する石の仏さまと紫陽花のとりあわせもいいですね。心なしか、御尊顔がほころんでおられました。
 写真を撮っていると、初老の女性から話しかけられました。小田原在住の方で、昨日鎌倉の明月院を訪れたところ、常軌を逸した混雑で辟易されたそうです。品種もワンパターンで、入場料もとい拝観料を五百円もとられたと舌鋒鋭く批判されました。私もこの時期に明月院を訪れたいなと常々思っていたのですが、思い直したほうがよさそうですね。花は静かな雰囲気のなかで愛でるものだ、ということで意気投合。なお彼女はこれからイワタバコをさがしながらハイキングをするとのことです。
 そして塔ノ沢駅へと戻り、さきほど大平台駅に貼ってあったポスターで知った強羅公園の「あじさい展」を見にいくことにしましょう。
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by sabasaba13 | 2016-06-22 06:40 | 鶏肋 | Comments(0)

2016年あじさい便り1

 先だっての土日に、紫陽花を愛でに箱根に行ってきました。小田急ロマンスカーで箱根湯本駅へ、噴火も小康状態ということで、客足も戻ってきたようです。御慶。ここから登山電車に乗り換えて大平台へと向かいます。沿線には数多の紫陽花が咲き誇り、もう見頃を迎えています。そして二つ目の大平台駅で下車。駅から線路沿いにすこし歩くと、紫陽花と登山電車を至近距離から撮影できる場所があります。おおっもう知れ渡っているようですね、たくさんのカメラマンが蝟集されています。私もその中に混じって撮影。なおこの時期は、線路に立ち入らせないようにガードマンの方が巡邏されています。
 この線路沿いの小道にも紫陽花が群生し、散歩を楽しめます。湯本と宮の下というビッグ・ネームにはさまれた大平台温泉、見ものはありませんが心静かにくつろげる温泉場です。射的・スマートボールという古典的な遊技場もあるし。今夜は大平台温泉に泊まります。「ブラタモリ」を見て、温泉につかって、ビールを飲んで極楽気分を満喫。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-21 06:33 | 鶏肋 | Comments(0)

立石鐵臣展

 先日、たまたま野暮用があって東府中に行き、たまたま小一時間ほど暇ができました。東府中と言えば、武蔵野の俤を残す府中の森公園と府中市立美術館ですね。どんな展示会が開かれているが知りませんが、ぶらりと訪れてみました。立石鐵臣? 初耳ですね、でも未知の画家との出会い、わくわくします。美術館のホームページから転記します。
 日本統治時代の台湾で活躍した油彩画家立石鐵臣(たていしてつおみ)(1905年-1980年)の展覧会を開催いたします。立石鐵臣は台北に生まれ、少年期に帰国し、日野尋常小学校、明治学院中学校に学びます。幼少期は病身がちでしだいに絵画に関心を深め、鎌倉で岸田劉生から、さらに東京で梅原龍三郎と、大正と昭和を代表する二人の巨匠から指導を受け、日本絵画の将来を嘱望されました。幼少期の台湾経験もあり、再び台湾にわたり絵画、民俗研究、装丁、批評活動などに幅広く活躍。台湾近代油画の重要画家、楊三郎、陳澄波、陳清汾、李梅樹、李石樵、廖繼春、顔水龍らが、台湾最大の在野油絵団体「台陽美術協会」を創立するにあたり、ただひとりの日本人として立石鐵臣おみが迎え入れられるなど、まさしく台湾を愛し、そして台湾から愛された画家でした。

 1945年日本の敗戦により、2年間の留用期間を経て、作品も資産も全て失っての日本への引き揚げとなり、戦後はまさにゼロからのスタートでした。台湾時代に得た細密画技法は冴え渡り、日本の細密画の最高峰に至りました。台湾での様々な出会いが、戦後日本の子供たちへ昆虫図鑑や児童書の挿絵などを通して伝えられました。再び訪れることのなかった麗しきふるさと台湾へのあふれんばかりの郷愁の念が、彼の代表作「春」にこめられました。
 またこの度の展覧会では、立石鐵臣が大コレクター福島繁太郎に贈った「台湾画冊」を日本初公開いたします。ここには立石の台湾への想いが凝縮されているばかりでなく、日本統治期の台湾の世相のぬくもりさえもが濃厚に感じられます。
 台湾で活躍した立石鐵臣の回顧展は、新たな日本近代絵画の幅を広げ、今後のさらなる台湾と日本との友好と互いの文化風土の特性を認め合う相互文化の豊かさにつながるものと確信し、展覧会を開催いたします。ぜひご覧下さい。
 展示会場に入ると、来訪者は…ひとり、向うにひとり…いやはや伊藤若冲展とはえらい違いですね。おかげさまで心静かにのんびりと堪能することができました。
 やはり白眉は、トンボ、蝶、甲虫といった昆虫の細密画です。1ミリ四方に点を10打てるという超絶技巧を駆使して描かれた、それはそれはリアルな虫たちの姿には感嘆しました。小さい命に対する、作者の畏敬と愛情の念がびしびしと伝わってきます。己のできうる限り対照に迫り、その真なる姿を描き切ろうとする姿勢は、デューラーの自画像を思い起こさせます。害虫たちですら、虚心な目で見つめると、その姿はこんなにも美しいのですね。
 『台湾画冊』は、台湾への望郷の念をつのらせた立石が、台湾時代に見聞きした楽しい台湾風物を墨と水彩で描いた画帖です。絵画コレクターの福島繁太郎に献呈されたものです。自由奔放、軽快なタッチの絵と、愛情に満ちた洒脱な文章のマリアージュ。じっくりと拝見したかったのですが、時間がないのでカタログを購入することにしました。なお最後の「吾愛台湾!」では台湾から離れる別れの場面が描かれ、「ランチ二そう、わが船を追い、波止場をかなり離れるや、日章旗を出して振る。日人への愛惜と大陸渡来の同族へのレジスタンスでもあろう」と記されています。"大陸渡来の同族"とは、1949年の中華人民共和国の成立によって、台湾へ逃れてきた蒋介石政権(国民党)の関係者たちをさしているのでしょう。この時に、150万ないし200万ともいわれる官吏、軍人、商工業者とそれらの家族が大陸から台湾に流入しました。彼らは外省人と呼ばれ、すでに台湾に居住していた漢民族の本省人、そして先住民族である原住民とは区別されます。この外省人によって台湾の政治・経済は牛耳られ、1947年に役人の腐敗に端を発して本省人の大規模な抵抗がはじまります。(二・二八事件) これに対して、国民党政権は徹底的な殺戮を行い、その犠牲者は約二万八千人といわれます。以後、戒厳令がしかれ国民党による強権的な独裁政治が続き、アメリカの援助による「反共の砦」化が進められました。
 贅言ですが、台湾において反日感情が弱く、親日家が多いことから、台湾の植民地支配を正当化し、ひいては戦前の植民地支配は全面的に悪い点ばかりではなかったとする説も聞かれます。俗耳に入りやすい論ですが、台湾と朝鮮の相違点にはきちっと留意すべきでしょう。朝鮮の場合は、ナショナル・アイデンティティが生れつつあった独立国家を併合するという類例を見ない植民地化であったため、ナショナリズムにより触発された激しい抵抗を生みます。また満州・中国・ロシアに近接するという戦略上重要な位置にあるため、抗日運動を鎮圧するために日本による支配は酸鼻を極める過酷なものとなりました。以上二つの条件が台湾には欠けていたために、その支配も緩やかなものとなりました。創氏改名をした/させられた割合も台湾では約20%だったそうです。同時に、戦後の国民党による強権支配との比較で、日本による統治をまだましであったとする思いもあるのではないでしょうか。戦争に動員した台湾人への補償措置もなされていない以上、この問題は安易に考えるべきではないと思います。
 そして晩年の幻想画も素敵ですね。ポスターにもなった「春」がやはり心に残ります。上半分を青で、下半分を黒でベタに塗られた画面構成。上部では、薄い雲がたなびき、白い蝶が群れ飛びます。下部には、作者の想いを託されたモノたちの細密画が、規則ただしく並べられています。ネコヤナギ、熱帯の花々、木蓮、孔雀の羽根、蕨、麦の穂、虫たち、貝殻。そして四枚のタロットカードは、カタログによると「愚者:全てを捨てた自由人」「つるし人:どんな困難も喜んで受け入れる、あるいは両極に引き裂かれた人」「空想好きな陰の努力家」「感受性豊かな画家」をあらわしているとのことです。中央には「ベリー公のいとも華麗なる時祷書」の三月の図。台湾への望郷の念とともに、これまでの人生をふりかえりキャンバスに描いた珠玉の作品。静謐で美しい世界に見惚れてしまいました。台湾とヨーロッパ文化、そしてなによりも自然へのオマージュとも言うべき逸品です。

 というわけで、水無月の典雅なひとときを楽しむことができました。こういう未知の素晴らしい画家に出会え、そして静かにゆっくりとその絵を鑑賞できるのは、ほんとうに喜ばしいことです。伊藤若冲展も見たかったのですが、320分も待たされたうえに、芋を洗うように押し合いへしあいしながらあわただしく絵を見るのは堪えられそうもないのでやめました。やはりこうでなくてはいけません。

 なお台湾旅行記を以前に上梓しましたので、よろしければご笑覧ください。

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by sabasaba13 | 2016-06-20 14:33 | 美術 | Comments(2)

伊勢・美濃編(75):帰郷(14.9)

 それでは退村することにしましょう。さすがに疲れたので500円を払って村内バスに乗り、解説のテープを聞きながらとろとろと正門に戻りました。路線バスに乗って犬山駅に着いたのは午後四時、没法子、四日市へ寄るのは断念しました。末広橋梁と臨港橋と潮吹き堤防ととんてきとコンビナート夜景よ、いずれ会いましょう。そして名鉄に乗って名古屋駅へ。名鉄百貨店地下に喫茶店があったので鉄板スパゲティを食べられるかと期待しましたが、C'est la vie、ありませんでした。せんかたない、9階へ行き、「まるや」でひつまぶしを食べようとしたが長蛇の列ができています。So it goes on、しようがない、「矢場とん」でご当地B級グルメのみそかつをいただきました。もぐもぐ、美味しいなあ、とふと気づくと店員さんが着ているまわしを腰にまいた愛らしいブタのTシャツが販売されていました。これは欲しい、即購入しました。
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 そしてJR名古屋駅へ、山ノ神を慰撫するために「赤福」と、名古屋名物の手羽先とビールを購入。新幹線に乗り込み、手羽先をつまみにビールを飲みながら次なる旅へと思いを馳せました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-06-18 08:03 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(74):明治村(14.9)

 私見では、この「原則」を達成したのが日露戦争後(1905~)でした。しかし日本は、これに代わる「原則」、あるいはより高次の「原則」を見つけることができませんでした。強い軍隊とほどほどの経済力はもてたけれども、それではそれを使って何をするのか? あるいはそれを使って日本をどういう国にするのか? もうそろそろ背伸びはやめて、身の丈に合ったやり方に変えてもいいのではないのか?
 この課題をペンディングとしたまま、「手続き」だけはずるずると保持されていきました。そして第一次世界大戦の勃発(1914)、この戦争は世界のあり方を激減させました。総力戦に勝ち抜くためのより一元的な国家体制の必要、ロシア革命に起因する民主化要求のうねり、そして独立を求める植民地の動きです。しかし日本はこうした変化に応じた新たな「原則」を打ち立てることなく、これまでの「手続き」を場当たり的に補修しながら、船長なきまま(元老はあらかた死んでいます)古い舵で荒海を漂っていきました。もっと強い軍隊を、もっとたくさんの植民地を、よおそろお! 世界恐慌(1929)、満州事変(1931)、日中戦争(1937)、第二次世界大戦(1939)、太平洋戦争(1941)といった状況の中で軍部が強権をふるうようになりますが、権力の分立・多元的構造は変わりません。"日本はどうあるべきなのか/世界はどうあるべきなのか"という「原則」(あるいは「理念」)なく、ファシズム体制(一元的な全体主義)も打ち立てられず、強いリーダーシップもなく、大衆を犠牲にしながら戦い続けました。そこにあるのは、日本の利益でも国民の利益でもなく、己の地位の保全および己の属する組織の利益のみを追求する姿勢だけでした。
 敗戦後、軍事力の強化という目標は廃棄させられましたが、その代替である日米安全保障条約に抱かれながら、"大衆を犠牲にした経済成長"という「手続き」だけがあいもかわらず続けられます。そこには"日本はどうあるべきなのか/世界はどうあるべきなのか"という「原則」「理念」は影も形もありません。先述の対談にあった久野収氏の卓抜な表現を借りれば、「自浄の制度や能力を意に介さずに"向上"的堕落」を、今に至るまで続けています。
 こうしてみると、日本において近代という時代はまだ終わっていないのかもしれません。他国に冷や飯を食わせて陽の当たる場所に出るための経済戦争の時代、大衆を総動員して犠牲にして背伸びをしてひたすら経済を成長させる時代、そういう意味での近代にそろそろ幕を引く時ではないのかな。片山杜秀氏は『未完のファシズム』(新潮選書)の中でこう述べられています。
 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しみを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。そんな当たり前のことも改めて噛み締めておこう。そういうことかと思います。(p.333)


 本日の一枚、聖ザビエル天主堂です。
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by sabasaba13 | 2016-06-17 06:36 | 中部 | Comments(0)