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江戸東京たてもの園編(18):(14.9)

 先日読み終えた『名作うしろ読み』(斎藤美奈子 中公文庫)では、"猫文学史に燦然と輝く一冊"として『ノラや』(中公文庫)が紹介されていました。猫文学…T.S.エリオットの『キャッツ』、夏目漱石の『吾輩は猫である』の他になにがありますかね。
 ノラや、お前は三月二十七日の昼間、木賊の繁みを抜けてどこかへ行つてしまつたのだ。それから後は風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰つたかと思ひ、今日は帰るか、今帰るかと待つたが、ノラやノラや、お前はもう帰つて来ないのか。
 そして内田百閒と聞くと思い出すのが谷中安規です。1897(明治30)年、奈良長谷寺の門前町に生まれ、25歳で版画を志し、以後放浪と貧窮のなかで生米とニンニクとカボチャを食べながら独自の版画をつくりつづけます。1946(昭和21)年、栄養失調によって餓死。彼の言葉、「ぼくに就職をすすめることは、間接殺人です」が心に残ります。内田百閒が彼を敬愛し、「風船画伯」と名づけ、装丁と挿絵を彼に依頼してつくった絵本が『王様の背中』。これはぜひ読んで/眺めてみたいものです。この二人が鍵屋で一献傾けたこともあるのかな、なんて想像すると胸がざわめきます。もちろん百閒のおごりで。

 というわけで江戸東京たてもの園編、一巻の終わり。ひろびろ伸び伸びとした雰囲気のなか、名建築を探訪できる素敵な野外博物館です。桜の時期にはとくにお薦めですね。これからもどしどし収蔵建築を増やしていってほしいと期待します。東洋キネマと同潤会アパートがないのが一抹の心残りですが。
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by sabasaba13 | 2016-07-31 07:27 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(17):(14.9)

 そして本日の見納めは鍵屋です。解説板を転記します。
 鍵屋は、下谷坂本町(現、台東区下谷)にあった居酒屋である。1856年(安政3)酒問屋として創業したと言い伝えられ、酒の小売店を経て1949年(昭和24)から居酒屋の営業を始めた。手頃な値段で旨く静かに飲むことのできる鍵屋は地域の人びと、職人、サラリーマン、芸人などに支持されていった。また雰囲気と主人の人柄を愛して小説家の内田百閒などの多くの著名人も通っていた。
 鍵屋は当初平屋だったが、大正期頃に2階部分を増築した。震災・戦災をまぬがれ今なお江戸時代末期の面影をとどめている。
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 へえ、内田百閒が常連客だったんだ。彼の名を聞くとすぐに思い出すのが、『餓鬼道肴蔬目録』(ちくま日本文学全集所収 筑摩書房)です。食べる物がなくなってきた1944(昭和19)年、記憶の中から美味しいもの、食べたいものを列挙した目録。その執念には脱帽です。ちなみに「オクスタン」とは牛タンのこと、橄欖とはオリーブのことです。
註 昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナッタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデモ出シテ見ヨウト思イツイテコノ目録ヲ作ッタ
昭和十九年六月一日昼日本郵船ノ自室ニテ記

さわら刺身 生姜醤油
たい刺身
かじき刺身
まぐろ 霜降りとろノぶつ切
ふな刺身 芥子味噌
べらたノ芥子味噌
こちノ洗い
こいノ洗い
あわび水貝
小鯛焼物
塩ぶり
まながつお味噌漬
あじ一塩
小はぜ佃煮
くさや
さらしくじら
いいだこ
べか
白魚ゆがし
蟹ノ卵ノ酢の物
いかノちち
いなノうす
寒雀だんご
鴨だんご
オクスタン潮漬
牛肉網焼
ポークカツレツ
ベーコン
ばん小鴨等ノ洋風料理
にがうるか
カビヤ
ちさ酢味噌
孫芋 柚子
くわい
竹の子ノバタイタメ
松茸
うど
防風
馬鈴薯ノマッシュコロッケ
ふきノ薹
土筆
すぎな
ふこノ芽ノいり葉
油揚げノ焼キタテ
揚げ玉入りノ味噌汁
青紫蘇ノキャベツ巻ノ糠味噌漬
西瓜ノ子ノ奈良漬
西条柿
水蜜桃
二十世紀梨
大崎葡萄 註 備前児島ノ大崎ノ産
ゆすら
なつめ
橄欖ノ実
胡桃
椎ノ実
南京豆
揚げ餅
三門ノよもぎ団子
かのこ餅
鶴屋ノ羊羹
大手饅頭
広栄堂ノ串刺吉備団子 註 広栄堂ハ吉備団子ノ本舗ナリ
日米堂ノヌガー
パイノ皮
シュークリーム
上方風ミルクセーキ
やぶ蕎麦ノもり
すうどん 註 ナンニモ具ノ這入ッテイナイ上方風ノ饂飩ナリ
雀鮨 註 当歳ノ小鯛ノ鮨ナリ
山北駅ノ鮎ノ押鮨
富山ノますノ早鮨
岡山ノお祭鮨 魚島鮨
こちめし
汽車弁当
駅売リノ鯛めし
押麦デナイ本当ノ麦飯

by sabasaba13 | 2016-07-30 07:55 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(16):(14.9)

 小寺醤油店は、大正期から現在の港区白金で営業していた酒屋で、味噌や醤油を販売していました。看板で醤油店と掲げているのは、創業者が醤油醸造の蔵元で修行したためと伝えられています。当時、酒屋で味噌や醤油を売ることは珍しいことではありませんでした。張り出した腕木とその上に桁がのった重厚な出桁造りと、在庫の商品や生活用具を収納する袖蔵のマリアージュがいいですね。
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 万徳旅館は青梅市西分町に幕末に建設され、明治初期に増築された旅館(旅籠)です。青梅街道に面して建っていたこの旅館は、富山の薬売りなどの行商人や、御嶽講の参拝者が利用していたそうです。こちらも出桁造りですね。
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 仕立屋は、現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町屋です。正面の格子や上げ下ろし式の摺上げ戸などに、江戸からの町屋の造りをうかがうことができるそうです。仕立屋は、特に店構えなどはせずに自宅を仕事場としており、親方のもとに弟子が住み込みで働くのが普通でした。なお『東京たてもの伝説』によりますと、藤森氏の見立てでは建てられたのは少なくとも明治12年より前とのこと。するとすかさず森氏が「明治12年というと、ちょうど本郷六丁目の法真寺の隣りに七歳の樋口一葉がいたころ建った建物ですね」と鋭いつっこみ。それほど離れていないし、縫い子をしていた一葉がここから仕事をもらった可能性もあるとのことです。
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 子宝湯は足立区千住で営業していた銭湯で、開業は1929 (昭和4)年です。建物は施主が出身地の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたということです。玄関には神社仏閣を思わせる大型の唐破風がのっており、船に乗る七福神の精巧な彫刻が取り付けられています。また鷹と雀の彫り物がありますが、よく見ると雀をつかんではいません。これは「平和な世」という意味だそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-28 06:32 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(15):(14.9)

 花市生花店は1927 (昭和2)年に、千代田区神田淡路町に建てられた花屋です。この建物も典型的な看板建築ですが、銅板にあしらわれた花屋らしいラブリーな模様に緩頬。二階の窓の下には、梅、桜、菊、牡丹などの花が飾られ、三階には蝶と菊が対角線上に配置されています。これらの銅板の模様は、墨で下絵を描いたカシの木を大工が彫り、その型に銅板をのせて木槌などを使って打ち出すという手法で作られたものだそうです。匠の技に乾杯。
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 なお最近読んだ『茶の本』(岡倉覚三 岩波文庫)の中に、花に関する素敵な一文があったので紹介します。
 喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。花がなくては死んでも行けぬ。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって瞑想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくしてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。病める人の枕べに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇の世界に喜悦の光りをもたらすものではないか。その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊するものは花である。
 悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。(p.77~8)
 武居三省堂は、明治初期に創業した文具店。当初は、筆・墨・硯の書道用品の卸を中心に商売していましたが、のちに絵筆や文具も扱う小売店に変わりました。茶色のタイルを前面に貼ったファサードがいぶし銀の逸品です。
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 川野商店(和傘問屋)は大正15 (1926)年に、現在の江戸川区南小岩に建てられた出桁造りの建物です。重厚な屋根の造りや格子戸に、江戸の残り香を感じます。小岩は、東京の傘の産地として当時有名で、川野商店では、職人を抱え傘を生産し、また完成品の傘を仕入れ問屋仲間や小売店へ卸す仕事をしていたそうです。
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by sabasaba13 | 2016-07-27 06:28 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(14):(14.9)

 大和屋本店は乾物屋です。解説板を転記します。
 大和屋本店は、港区白金台の通称目黒通り沿いにあった木造3階建ての商店である。3階の軒下は何本もの腕木が壁に取り付き出桁と呼ばれる長い横材を支える出桁造りという形式をもつ一方、間口に対して背が非常に高く、2階のバルコニーや3階窓下に銅板を用いるなど、看板建築の特徴を備えたユニークな建物である。建物は創建当初の1928年(昭和3)に復元している。
 大和屋本店は創建当初から乾物類の販売を手がけ、海産物の仕入れが困難になった昭和10年代後半以降はお茶と海苔などを販売していた。復元にあたり店舗部分は鰹節や昆布、豆、スルメ、海苔、鶏卵などを販売する戦前の乾物屋の様子を再現している。大和屋本店では煙草も販売しており、店舗前面に煙草屋の造作が取り付けられていた。今回取り付けられている煙草屋の造作は昭和20年代のもので、青梅市二俣尾一丁目、武田清氏よりご寄贈いただいたものである。
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 植村邸は昭和初期に建てられた建物で、全体を銅板で覆われています。まるでジャイアント・ロボ(古いなあ)のような強面で周囲を睥睨しています。ま。二階の窓の上にあるアーチ部分の装飾は手が込んでいて、中央には六芒星とローマ字の「U」と「S」を重ねた模様が見られますが、これはこの建物を建てた植村三郎氏のイニシャルからとったものだそうです。なお一階部分の銅板に多数の傷が残っていますが、これは戦時中の空襲による爆弾等の破片が突き刺さってできたものです。歴史の証人としても貴重な物件です。
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 荒物屋の丸二商店は、昭和初期に現在の千代田区神田神保町に建てられた店舗併用住宅です。外連味にあふれたキッチュな看板建築ですね、私大好き。ファサード上部のわけのわからない意匠や柱と、江戸小紋の網代や青海波をあしらった銅板のミスマッチ。
 また裏手には、丸二商店に隣接していた創建年を同じくする長屋を復元し、路地の情景が再現されています。
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by sabasaba13 | 2016-07-25 06:31 | 東京 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(13):(14.9)

 そして東ゾーンへ、ここは昔の商家・銭湯・居酒屋などが建ち並び、下町の風情を復元しています。まずは村上精華堂、解説板を転記します。
 村上精華堂は、台東区池之端、不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。奥の土間で化粧品の製造を行い、卸売りや、時には小売りを行っていた。創業者の村上直三郎氏は、アメリカの文献を研究して化粧品を作ったと言われている。そのせいか、建物はイオニア式の柱を並べたファサードをもち、西洋風のつくりとなっている。この建物は関東大震災後、東京市内に多く建てられた「看板建築」の一種であり人造石洗い出し仕上げである。
 1942年(昭和17)頃、村上精華堂の本店が浅草向柳原に移り、この建物は支店となった。
 1955年(昭和30)頃には化粧品屋としては使われなくなり、1967年(昭和42)、二代目の村上専次郎氏により、寄贈者の増渕忠男氏に譲渡された。
 おうっ、これぞ看板建築。イオニア式柱が無秩序にアナーキーに乱立するファサードに、「寄らんかい」という店主の魂の叫びを感じます。ところで「看板建築」とは何ぞや? 実は前出の藤森照信氏が提起された建築様式で、『東京たてもの伝説』(藤森照信・森まゆみ 岩波書店)の中で、御自らこう語られています。
 《看板建築》は関東大震災のあとの東京の商店に、防火対策として登場した建築様式です。関東とその近辺の東日本に分布していますが、関西にはほとんど見られません。タイル貼りのもの、銅板貼りのもの、モルタル塗りのもの。仕上げ材はいろいろありますが、すべてに一致している特徴は、建物の正面が平板で、全体が看板となっているような外観にあります。(p.203~4)
 なお『看板建築』(三省堂)の中で、藤森氏は次のような鋭い分析をされています。
 近代の建築の歩みの中で工場建築や産業施設の果たした決定的影響についてはすでに語られている。大きなスケール、無装飾な壁、鉄の駆使、合理性や機能性や力動性、こうした工場建築の性質は近代の機能主義建築の本質を形づくることになる。
 しかし、ここで改めて考えてほしいのは、近代の工場が大量の商品を製造したということは、実は、その大量の商品を売るための商店が発達したことを意味する、ということ。
 つまり、工場と商店は実は二人三脚をしながら近代という時代を作りあげてきた。
 にもかかわらず、皮肉なことに、工場と商店は建築的表現としては全く反対の方向をめざさざるを得なかったし、実際そうなった。
 工場の建物に求められたのは、均質で大量の生産力の確保ということであり、そこから自ずと合理的で機能的な表現が生まれてくる。一方、そうした工場からトラックで送り出された商品はどのように人々に手渡されるかというと〈商品経済の発達〉という環境の中で手渡されることになる。具体的に言うと、大量の商品を大量の人々に手渡す場としての商店は、いかに多くの客の目を引くかが勝負となり、そこから自ずと、過剰に飾り立てられた個性的な表現が生まれてくる。工場とは正反対な建築にならざるをえない。
 過剰で個性的な表現-これが前近代と近代の商店の二つを分けるポイントになる。
 蔵造や出桁造といった前近代に成立した商店があそこまで似た姿をしていたのに、近代になってから誕生した洋風商店、バラック商店、そして看板建築がなぜあそこまで派手でメチャクチャで乱暴なまでに変化に富んでいるかというと、その過剰で個性的な表現こそが近代の商店の生命だったからである。
 当然のように、近代商店は、精神の深みにうったえるような表現は愚の骨頂で、街ゆく人々の目玉の表面をヒッパタイテ刺激を与えるような消費的デザインに傾くし、また、とにかくまず人目をうばわなくては何もはじまらないからファサードを重視するようになる。
 消費的なデザインとファサードの重視-これはもうそのまま看板建築の性質である。
 逆にいうと、東京は、看板建築の誕生によって、近代という名の〈消費の時代〉へ、街ぐるみ突入したのだった。
 そして、二度と、蔵造や出桁造の落ち着いた街に戻ることはない。(p.209~10)

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by sabasaba13 | 2016-07-24 08:39 | 東京 | Comments(0)

言葉の花綵145

 貧しき者、抑圧されし者、飢えし者、この地へきたれ。(自由の女神像に刻まれた碑文)

 敵がいなくなれば、国を守る軍隊はその存在意義を失う。軍が生き残るには別の脅威に対する戦略を新たに作る必要がある。(サムエル・ハンチントン)

 国家とは責務を負わない。あるのは利害のみ。(シャルル・ドゴール)

 新聞なき政府か、あるいは政府なき新聞か、そのいずれを持つべきかの決断を迫られたならば、私は一瞬のためらいもなく後者を選ぶであろう。(トーマス・ジェファーソン)

 やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似まねがしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十把一ぱひとからげにして、阿蘇の噴火口から真逆様まっさかさまに地獄の下へ落しちまったら。(『二百十日』 夏目漱石)

 ブルジョワ的生産関係、交換関係、所有関係をもつ近代的ブルジョワ社会、このように巨大な生産手段や交換手段を魔法のように呼び起こした社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の力をもはや思うようにできなくなった魔法使いのようです。(『共産党宣言』 カール・マルクス)

 精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう。(マックス・ウェーバー)

 彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、讒言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。(『ローマ人への手紙』 パウロ)

 完全な無思想性-これは愚かさとは決して同じではない-、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。(『イェルサレムのアイヒマン』 ハンナ・アーレント)
by sabasaba13 | 2016-07-22 06:24 | 言葉の花綵 | Comments(0)

村上春樹とイラストレーター

c0051620_6315991.jpg そして、ちひろ美術館の企画展、「村上春樹とイラストレーター」を見にいきました。拙ブログで以前にも書きましたが、兄貴の本棚からたまたま『風の歌を聴け』を見つけて何気なく読んで以来、洒脱なレトリックと魅力的な物語世界に惹かれて彼の作品のファンです。以後、氏の初版本を全て購入したはずです、かなり散逸しておりますが。汗顔。
 その『風の歌を聴け』の表紙が、佐々木マキ氏の印象的なイラストでした。倉庫の建ち並ぶ波止場に座り、煙草を手にする顔のない男。空には土星、海には空き瓶。この佐々木氏をはじめとして、村上氏とコラボレイトをした四人のイラストレーター、大橋歩氏、和田誠氏、故安西水丸氏の原画を展示した企画展です。
 『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の初期3 部作の表紙を飾った佐々木マキ氏の謎めいた闊達さ。エッセイ『村上ラヂオ』を飾った大橋歩氏の銅版画のシンプルで寡黙な線の魅力。"村上朝日堂"シリーズをはじめ、最も多くコンビを組んだ故安西水丸氏の軽妙洒脱な遊び心。そして『村上ソングズ』や『ポートレート・イン・ジャズ』などで、音楽への愛情を共有しながら素晴らしいデュエットを奏でた和田誠氏。いずれも劣らぬ魅力的な絵に見入って時を忘れました。関連する文章の掲示や制作技法の紹介、すぐそばに実際の本を置かれて手に取れるなどといった展示の工夫もいいですね。
 中でも私が好きだったのは『ポートレート・イン・ジャズ』を飾った三枚の絵、ジミー・ラッシングとアート・ペッパーとギル・エバンスです。彼らの音楽が聴こえてくるような滋味にあふれた和田氏の絵と、リズムに乗った村上氏の文章の見事なコラボレーション。また読み返したくなりました。
 というわけで、ちひろ美術館と本展、一粒で二度美味しい幸せな時間を過ごせました。なお会期中に、絵本カフェにて『風の歌を聴け』に登場する鼠の好物「ホットケーキのコカコーラがけ」がいただけるそうですが、うむむ、これはパスしました。

 蛇足ですが、拙ブログで紹介した『小澤征爾さんと、音楽について話をする』、『雑文集』、『1Q84』、『走ることについて語るときに僕の語ること』、『村上ソングズ』、『意味がなければスイングはない』の書評も、よろしければご笑覧ください。
by sabasaba13 | 2016-07-21 06:32 | 美術 | Comments(0)

ちひろ美術館

 山ノ神から、上井草にあるちひろ美術館で開催されている「村上春樹とイラストレーター」展を見にいこうと誘われました。インターネットで調べてみると、氏の本を装丁した和田誠、安西水丸、佐々木マキ、大橋歩の原画が展示されているとのこと。これは面白そうですね。ちひろ美術館自体も私は行ったことがないので、土曜日に訪れました。
 西武新宿線の上井草駅から歩いて七分ほどで、美術館に到着です。まずは、いわさきちひろについて、同美術館のHPより紹介します。
いわさきちひろ(1918~1974)
 福井県武生市(現・越前市)に生まれ、東京で育つ。東京府立第六高等女学校卒。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。1946年日本共産党に入党。1950年松本善明と結婚。同年、紙芝居『お母さんの話』を出版、文部大臣賞受賞。1951年長男猛を出産。翌年、下石神井(東京・練馬)に自宅兼アトリエを建てる。1956年小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)、1961年産経児童出版文化賞、1973年『ことりのくるひ』(至光社)でボロー ニャ国際児童図書展グラフィック賞等を受賞。1974年肝ガンのため死去。享年55歳。その他の代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、『あめのひのおるすばん』(至光社)、『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)などがある。
 この美術館は、いわさきちひろの遺族から、全作品、資料ならびに美術館建設用地等の寄贈を受け、ちひろの業績を記念し、絵本等の文化の発展に寄与する活動等をおこなうことを目的として、ちひろの自宅兼アトリエ跡に設立されたそうです。
 まずは「―絵のなかのわたし― ちひろの自画像展」を拝見しました。敗戦直後から1950年代半ばまでに描かれた24点の自画像が、一堂に展示されています。特に敗戦直後に描かれた二枚の自画像が印象的でした。敗戦という衝撃に見舞われながらも、新しい時代を生き抜こうとする決意がみなぎる固く厳しい表情が印象的でした。また後年の淡く優しいタッチからは想像もできないような、さまざまなタッチで自画像を描いていたのも興味深いですね。自分の絵を確立するための試行錯誤の時代だったのでしょうか。しかし結婚と出産を契機に、あのなじみの深い「ちひろの絵」へと劇的に変化していきます。そして自画像がほとんど描かれなくなり、自分の分身とも言うベき少女像・母親像が画業の中心となっていきます。もっとも心惹かれたのが、ベトナム戦争に脅かされた子と母たちを描いた『戦火のなかの子どもたち』です。中でも不安に脅える幼子を、断固たる決意で守ろうとする母親を描いた一枚には目が釘付けとなりました。彼女が一生をかけて伝えようとしたメッセージがここに凝集されているようです。子供を、そして末来を守れ。低劣な教育行政、貧困、しのびよる戦争。子どもたちと末来を脅かしている現今の日本に生きる私たちが、目を凝らして見つめなければいけない一枚だと思います。
 再現されたちひろのアトリエ、約3000冊の絵本がある図書室、様々な遊具のあるこどものへや、カフェ、ミュージアムショップ、ちひろが愛した草花を植えたちひろの庭など、設備も充実しています。入館料は800円と少々高いのですが、高校生以下は無料ということなので、寛恕しましょう。
 また彼女の第二の故郷、安曇野にもちひろ美術館ができたので、いつの日にか訪れてみるつもりです。そうそう、今年の三月に福井・富山を旅したのですが、武生に「ちひろの生まれた家記念館」がありました。残念ながら閉館で見学できませんでしたが。
 それでは「村上春樹とイラストレーター」展を拝見いたしましょう。

 本日の三枚、上から美術館全景、ちひろの庭、ちひろの生まれた家記念館です。
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by sabasaba13 | 2016-07-20 06:42 | 美術 | Comments(0)

江戸東京たてもの園編(12):(14.9)

 西川家別邸は、西川伊左衛門により、接客用兼隠居所として建てられた別邸です。西川伊左衛門は、1893 (明治26)年、現在の昭島市中神で北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家で、多摩地域の養蚕・製糸業は、大正期から昭和初期にかけて、技術改良や生糸価格の上昇にともない最盛期を迎えたとのことです。
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 伊達家の門は、旧宇和島藩伊達家が、明治以降華族に列せられ、東京に居住するため新たに建てられた屋敷の表門です。大正時代に建てられたもので、総欅造り。起(むく)り屋根を持つ片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。なお起り屋根って何となく愛くるしくて好きです。山ノ神の腹部に似ているからかな。熊本ルーテル学園神水幼稚園、美濃市の小坂家住宅、明治村の京都中井酒造などなど、プリティな物件ぞろいでした。
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 皇居正門石橋飾電燈は、皇居前広場から皇居へ向かって左手前に見える石橋に設置されていた飾電燈。橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたもののひとつでした。
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 万世橋交番は、神田の万世橋のたもと、万世橋駅のそばにあったものです。1923 (大正12)年の関東大震災により、駅とともに大きな被害を受けましたが、のちに以前のとおりのデザインに修復されました。
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 その近くにあるのが、上野消防署(旧下谷消防署)望楼の上部です。町のランドマークとも言うべき建造物ですが、建造物の高層化や電話の普及とともに、昭和30年代後半から次第に役目を終え、1973 (昭和48)年には、都内における望楼の利用はほぼ取り止めとなったそうです。火の見櫓・望楼マニアとしては悲しいなあ。
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 天明家は、代々、鵜ノ木村(現在の大田区)で村役人の年寄役を勤めたと伝えられる旧家です。正面の千鳥破風や長屋門など、農家としての高い格式がうかがえます。
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by sabasaba13 | 2016-07-18 07:39 | 東京 | Comments(0)