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『ハドソン川の奇跡』

c0051620_634425.jpg 山ノ神に、『ハドソン川の奇跡』を見に行こうとさんざっぱら誘われました。ようがす、情けは人の為ならず、付き合いましょう。蓋を開けてみれば、何のことはない、夫婦割引1100円で見られるからなのですね。
 というわけで、自転車をこいで「としまえんユナイテッドシネマ」に行きました。平日の夕刻ということもあり、空席が目立ちます。そして本編上映までに、数多の予告編を見せられましたが…その想像を絶する低劣さに空いた口が塞がりませんでした。暴力と殺人とアクションとファンタジーのオンパレードです。食指が動いた映画は一本もなし。中でも、椅子が動き、水しぶきがかかり、匂いまでするという、新趣向の映画の謳い文句「考えるな、感じろ」には、もう返す言葉もありません。そうか、考えさせられる映画はもう廃棄処分なんだ。日本人の知的劣化を、こんなところでも痛感した次第です。
 さて肝心の本編ですが、正直に言って全く期待はしていませんでした。監督はクリント・イーストウッド、主演はトム・ハンクス、ハドソン川への不時着水を見事に成功させた機長を讃えた一大感動巨編…と勝手に想像していたのですが、どうしてどうして、けっこう陰影と起伏のある面白い映画でした。ストーリーを紹介します。
 2009年1月15日、極寒のニューヨーク。160万人が暮らすマンハッタン上空850メートルで突如、航空機事故が発生。全エンジンが完全停止し、制御不能となった旅客機が高速で墜落を始める。サレンバーガー機長(トム・ハンクス)の必死の操縦により、70トンの機体は目の前を流れるハドソン川に着水。"乗員乗客155名全員無事"という奇跡の生還を果たした。着水後も、浸水する機内から乗客の避難を指揮した機長は、国民的英雄として称賛を浴びる。だが、その裏側では、彼の判断を巡って、国家運輸安全委員会の厳しい追及が行われていた……。
 保険金をケチるという圧力もあったのでしょうか、不時着水は機長の判断ミスであり、空港に引き返せば無事に着陸できたはずだと強硬に主張する国家運輸安全委員会。もしミスとなったら、すべてを失い路頭に迷ってしまう。苦悩する機長と妻。何としてでも正当性を立証しようとしますが、委員会はコンピューターを駆使した緻密なシミュレーションで機長を追い詰めます。しかしサレンバーガー機長は、この鉄壁の論証を、見事に一点突破します。その根拠は…見てのお楽しみですが、ヒントは"human factor"という言葉です。胸のすくような結末でした。
 そして不時着水を再現したシーンは、血沸き肉踊り手に汗握りました。バード・ストライクによるエンジン・トラブル、機長のぎりぎりの決断、冷静なクルーたち、臨場感あふれる着水、そして凍てつくハドソン川から乗客全員を救おうとする機長・副機長・キャビンアテンダント・沿岸警備隊・フェリーの乗組員の必死の努力。この場面だけでも見る価値があります。1100円なら充分にもとのとれる映画でした、1800円だと二の足を踏みますが。
 ただ、ふと脳裡をかすめたのが、155人の人びとを救うためにこれほど素晴らしい献身的な行為を行なったアメリカ人が、ドレスデンへの無差別爆撃、広島・長崎への原子爆弾投下や日本各都市への無差別爆撃、朝鮮戦争・アフガニスタン戦争・イラク戦争を筆頭に数知れぬ戦争や武力介入における一般市民の殺戮などに対して悔悟や反省や謝罪の意を表しないのでしょうか。真冬のハドソン川に着水した155人は助けるのに、なぜ無辜の子どもたちの頭上に原子爆弾や焼夷弾やナパーム弾やクラスター爆弾を落とせるのか。もちろん、自らも同様の行為をし、またアメリカの殺戮に抗議をせず、場合によっては片棒を担いだ日本人としては決して他人事ではありませんが。
 世界には、救うべき少数の人間と、殺してもいい多数の人間がいるということなのでしょうか。そういう意味で考えさせられる映画でもありました。
by sabasaba13 | 2016-10-27 06:35 | 映画 | Comments(0)

2016年衆議院補欠選挙

 先週のある日、夕刻に練馬駅の前を通り過ぎると、衆議院補欠選挙の東京10区立候補者、若狭勝氏(自民党公認)が大音量でがなり立てていました。「若狭勝、若狭勝、若さで勝る、若狭勝…」 やれやれ、政見や公約の主張というよりは、サブリミナル効果を狙った低劣な演説でした。こんな候補者に票を入れる有権者がいるのかな? と思ったら何と当選してしまいまいた。福岡6区では鳩山二郎氏が当選して、自民党が追加公認したそうな。これで自民党が二議席を確保したわけですね。やれやれ。
 自民党が何をめざしている政党なのかは「2016年参議院選挙」で紹介しましたのでご参照ください。そう、私たち庶民を使い捨て、見捨てようとしている政党なのですが、みなさんそれを承知でこの二人に票を入れ、あるいは棄権されたのでしょうか。すこし関心をもってすこし本を読めば分かりそうなものですが。推測ですが、「小池百合子都知事が推薦したから何となく良さそう」「故鳩山邦夫氏の息子だから何となく良さそう」という理由で投票された方が多いのではないでしょうか。しかしこの二人に一票を投ずることは、自民党のえげつない政策に賛意を表することであると気づいてほしいものです。白井聡氏は『「戦後」の墓碑銘』(金曜日)の中で、こうおっしゃっています。
 第二次安倍政権が成立して以来、多くの人々が危惧の念を表明してきた。すなわち、「日本は再び戦争をするのではないか」と。今回の総選挙を経て、この危惧は新しい段階に入るだろう。いまや問題は、「日本が戦争をするかどうか」ではない。戦争をすることはもはや既定路線であり、「いつ、誰と、どんな戦争をするのか」が問題である。
 安倍政権の選挙戦勝利は、この戦争路線に国民が賛意を示したことを意味する。「ちょっと待て! 経済政策に対する期待から安倍政権に投票した、あるいは投票に行かずに与党が勝利を収めるのをボンヤリ見ていただけで、〈戦争する日本〉に賛成した覚えなどない!」と言う人もいるだろう。私ははっきり言うが、甘ったれた寝言はいい加減にしていただきたい。安倍晋三という政治家の首相になる以前からの、また第一次政権当時の言動、そしてこの二回目の政権担当期間に何をやってきたかを見れば、この人物が何をやりたい人なのか、それは一目瞭然だ。そして、「選挙の争点」なるものがメディアによってどう設定されていようとも、衆議院総選挙とは、政党・政治家の政治姿勢・政策に対するトータルな支持・不支持の表明機会以外の何物でもない。有権者が主観的にどう考えていようが、制度を通じて打ち立てられる客観的事実として戦争路線は是認されたのである。(p.283~4)
 これは小なりとはいえ補欠選挙に関しても言い得ると思います。おまけに東京10区の投票率は34・85%、福岡6区は45・46%だそうです。やれやれ。
 ま、この有権者にしてこの政党あり、ということなのでしょう。所詮、政治のレベルは国民一般のレベルを超えませんから。ハロウィンやポケモンやオリンピックに現を抜かす暇があったら、その百分の一でもいいから政治に関心を持ってほしいですね。"肉屋を支持する豚"にならないためにも…
by sabasaba13 | 2016-10-25 06:34 | 鶏肋 | Comments(0)

戸隠の紅葉

 先週の土曜日に、山ノ神と戸隠に紅葉狩りに行ってきました。お目当ては、戸隠連山と紅葉を湖面に映す鏡池。残念ながら曇天でしたが、それでも見惚れるような景色を堪能できました。奥社参道の紅葉や杉並木も素晴らしい。とりあえず、写真でご報告します。
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by sabasaba13 | 2016-10-24 07:35 | 鶏肋 | Comments(0)

アルジェリア

 映画『アルジェの戦い』を見てきましたが、そのおかげでアルジェリアのことがいたく気になりました。アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家・精神科医・革命家、フランツ・ファノン (1925-1961)のことは、『地に呪われたる者』の書評で触れました。彼は精神科医として赴任したアルジェリアで独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、アルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加。アルジェリア戦争を戦い、FLNのスポークスマンとして脱植民地化(ポストコロニアル)時代のアフリカ植民地を周り、アフリカの独立指導者達からアルジェリア独立への支持を取り付けました。しかし1962年のアルジェリア独立を目前にした1961年、白血病によりアメリカのワシントンD.C.近郊で帰らぬ人となりました。
 また、アルジェリア生まれのユダヤ人で、フランスに移住した歌手、エンリコ・マシアス。『日本を問い直す -人類学者の視座』(青土社)の中で、川田順造氏はこう述べられています。
 マシアスは学校教員をしながら、アルジェリア戦争中も、後に義父となるシェイク・レーモンのバンドで演奏活動をしていたが、1961年23歳の時義父がアラブの過激派に殺され、身に危険が迫るなか妻と共にフランスに脱出、パリのカフェなどで歌った。アルジェリアを去る悲しみを歌った『さらば私の国』、世界の子どもたちに呼びかけた前記の『すべての国の子どもたち』などが、62年にパリでヒットし、歌手としてデビュー。ヨーロッパ各国、レバノン、ギリシャ、トルコ、米国、日本でも人気を博したが、故国のアルジェリアでは受け入れられなかった。
 1980年、ワルトハイム国連事務総長から「平和の歌手」の称号を贈られ、1997年アナン国連事務総長は、マシアスを「平和と子どもを守る移動大使」に任命した。だが2000年にもアルジェリアでの公演を断られ、マシアスは故国への思いを綴った『私のアルジェリア』を書く。ユダヤ人ということもあってか、イスラエル寄りと非難されることが多く、そのため2003年に息子がプロデュースした新曲『橙(だいだい)』では、アラブとイスラエルの共生を歌っているという(私はまだ聴いていない)。
 2007年11月、69歳のエンリコ・マシアスは、サルコジ・フランス大統領のアルジェリア訪問に同行しようとしたが、彼のイスラエル支持を理由に、ベルハデム首相をはじめ、各種団体や個人の強い反対にあって入国を拒否された。マシアスはフランスでは、同じアルジェリア脱出者「ピエ・ノワール(※黒い足)」にデビュー以来一貫して熱烈に支持されてきたが、「アルジェリアにとどまって最後まで戦わなかったユダヤ人」という烙印は、あの歌のような理想を歌っても、アルジェリア人にとっては、マシアスの額から消すことができないのかも知れない。(p.158)
 なお私のしがないデータベースに検索をかけたところ、以下のような文献にヒットしました。アルジェリニアについて考えるための材料として、紹介します。

『日本を問い直す -人類学者の視座』 (川田順造 青土社)
 海外県、海外領土と本国の関係としての、アルジェリアとフランスの関係の特殊性は、おもに次の四点に集約できるだろう。
 第一は、両者がきわめて古くから、共通の文化圏の二地域として交渉をもって来たこと。第二に、フランス統治以前の、アルジェリアにおける先住民の状況や支配=被支配の関係が、きわめて複雑であったこと。第三に、本国の国策によって、大量の農業移民が送り込まれたこと。第四に、フランスによって支配された先住民が自立を要求しただけではなく、移民の子孫や現地の軍部も、本国とは異なるアイデンティティーを抱くようになったこと。
 第一と第二の点は、重なり合う面が多いので、ひとまとめにして述べる。
 南フランスとアルジェリアが、「日の昇る」レバントから「日の沈む」マグレブまで、イベリア半島南部やイタリア半島やいくつかの島をふくめて、フェニキアやローマの時代から、環地中海文化圏の一部をなしていたことは、あらためて指摘するまでもない。現在のアルジェリアの首都アルジェは、フェニキア語でイクスムと呼ばれていて、ラテン語でイコシウム(フクロウの島)と表記されていた。
 四世紀頃は、現在のチュニジア・アルジェリアの北部地方は、ローマ帝国の一部だったが、七世紀以後、イスラーム・アラブの西漸の結果、アルジェリアは一〇世紀にはファティマ朝の、アルジェリア北西部は一一、一二世紀には、先住遊牧民スンハジャ族を母胎とするムラービト朝の、勢力下に入る。
 だが、こうしたイスラーム系勢力の進出以前の、この地域の先住民として、かつては「ベルベル人」と総称されていた人たちがいる。彼らのうちにも、ムラービト朝の母胎となったスンハジャ族のように、強度にイスラーム化され、サハラ南縁に栄えたガーナ帝国を滅ぼすなど、軍事的にも強力な広域支配者となった人々もいた。
 ベルベル人という呼称は、北アフリカがローマの支配下にあった頃、ローマ人が彼らを指して呼んだ「バルバロス」、つまり意味不明のことばを話す人たち、転じて野蛮人を意味する差別語に由来している。近年では「自由人」を意味する「アマジール」と呼称も改めたこれら先住民が、現在のチュニジア、アルジェリア、モロッコなど、主にフランスの植民地統治に由来する国境を越えて、連帯を強めている。
 一旦はイスラーム化されたイベリア半島からの、カトリック勢力によるイスラーム教徒放逐「レコンキスタ」(再征服)以後の時代、おもに一七世紀初めに、強制的にカトリックに改宗させられていたイスラーム教徒の農民、およそ二七万五〇〇〇人が、アルジェリアに移住して来た(彼らは「モリスク」と呼ばれている)。かつてはイベリア半島でイスラーム教徒と共存していた多数のユダヤ教徒も、アルジェリアに逃れてきたことは、第一四章でも述べた。
 「レコンキスタ」につづく時代に、オスマン帝国が、西部を除く北アフリカにも勢力を伸ばし、アルジェはオスマン帝国の御用海賊の拠点となる。一六世紀には、神聖ローマ帝国のカール五世の軍隊がアルジェを包囲したのに対し、フランスやイギリスの艦隊が砲撃を加えるなど、ヨーロッパ諸勢力の軍事干渉と相互対立が激しくなる。そしてフランス王政復古期のシャルル一〇世治下の最後の年、一八三〇年にフランスはアルジェを軍事占領し、農村不況のフランスから、農民のアルジェリアへの移住が始まったのである。
 第三点、フランス人の農業移民の問題に移ろう。
 一八三〇年のアルジェの占領以後、フランスから大量の農民がアルジェリアに移住し、柑橘類や酒造用ブドウの栽培が盛んになる。フランス政府は、資金貸し付けなどで移民を奨励した。一八四八年秋には、パリからマルセーユまで、当時整備されたばかりの川と運河の舟運によって、一万三五〇〇のフランス農民が、これは私営組織の主導によるものだったが、移民としてアルジェリアに渡った。
 このようにして一八五一年には、移民は一〇倍の一三万一〇〇〇人に、一八六〇年には二〇万人に達したが、この間、フランス本国の政体も、王政復古期から束の間のルイ・ナポレオンの第二共和制へ、そして同じルイ・ナポレオンのナポレオン三世としての第二帝政期へと変転を重ねており、一貫した対アルジェリア政策があったわけではなかった。
 さらに一八七一年、普仏戦争にフランスが敗れ、葡萄酒の名産地アルザス=ロレーヌ地方がドイツ領になると、フランス国籍にとどまるためにアルジェリアへの移住を希望するアルザス=ロレーヌの農民に、第三共和制のフランスは、一〇万ヘクタールのぶどう栽培地を与えた。
 二〇世紀初めフランス本国を襲ったブドウのネアブラムシ病の被害は、ブドウ栽培農民のアルジェリアへの移住に拍車をかけた。アルジェリアのブドウ栽培地は、一八七八年の一万七〇〇〇ヘクタールから一九〇七年の一七万七〇〇〇ヘクタールへ、さらに一九三八年の四〇万二〇〇〇ヘクタールへと急増する。
 その一方で、フランスによる支配への反乱や抵抗、それに対する軍事的鎮圧も続いていた。コンスタンティーヌのオスマン朝総督、老アハメドは、逃亡の末、砂漠縁辺の寒村でフランス軍に捕らえられた。ザーチャのオアシスを拠点としたシェイク・ブー・ジアンの聖戦を鎮圧するのに、一八四九年、アルジェリア駐留フランス軍は一万人の兵力で五〇日間包囲作戦を行ない、一〇〇〇人もの戦死者を出している。
 他のオアシスでの武装蜂起や、東部カビリー地方の先住民の反乱もあとを絶たなかった。砂漠のオアシスを拠点に交易を行なう、イスラーム化された先住民ムザーブは、一八五三年にアルジェリア駐留フランス軍による統治を受け入れた。一八五九年にも、西部地方での旱魃にともなう反乱の鎮圧に、軍隊が投入され、コレラの流行も加わって、三五〇〇人の犠牲者を出した。
 一八五二年に皇帝として即位したナポレオン三世は、アルジェリア植民地に強い関心を示し、現地を視察し、文民統治に否定的になる。一八六〇年には、強大な権力をもつ軍人の総督制を敷き、とくに第二代総督に任命されたマクマホン元帥は、一八六四年から七〇年の在任中、厳しい軍部独裁を行なった。
 マクマホンはナポレオン三世の信任が厚い王党で、アルジェリア征服の初期にも軍人として活躍した。クリミア戦争などでも、戦功をあげ、元帥に任じられた。アルジェリア総督在任の末期には、普仏戦争が勃発してナポレオン三世とともにヨーロッパの前線で戦い、負傷して捕虜にもなっている。後に第三共和制フランスでの王党派として、第二代大統領にもなった軍人=政治家だ。
 マクマホンのアルジェリア総督赴任直後の一八六五年、ナポレオン三世は六週間にわたってアルジェリア各地を視察した。これはフランス元首による最も長いアルジェリア訪問であるという。視察から戻った皇帝は、マクマホン総督に親書を送り、「アルジェリアは、アラブの王国であり、ヨーロッパの植民地であり、フランス軍の野営地である」と述べているが、この時期のフランス指導者のアルジェリア観をよく表している。
 フランス移民の子孫でアルジェリア生まれの、二代目、三代目…の農民も増え、世代がくだるにつれて、本国とのつながりも薄れてゆき、彼らはむしろ、アルジェリアの「コロン=植民者」としてのアイデンティティーを強くもつようになる。そして、フランスに支配された、先住民アマジールや、さまざまなイスラーム朝への帰属意識の強いアラブ系住民、オスマン帝国への帰属意識をもつトルコ系住民などの、フランスによる支配からの独立要求の動きとは異なる動機から、フランス系コロンたちも、本国からは自立したフランス人を志向するようになる。
 先に挙げた第四点は、このような背景から生まれている。植民地統治に重要な役割を果たしたアルジェリアの駐留のフランス軍部の自立意識も強まってゆき、一九五四年から八年間続いたアルジェリア独立戦争のときも、ド・ゴール将軍のアルジェリア独立承認政策に強く反発する母胎となった。(p.236~40)

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(ナオミ・クライン 岩波書店)
が、実際には拷問はとくに複雑でも神秘的なものでもない。それはもっとも粗野な強制の手段であり、その国の暴君や外国の占領者が支配するのに必要な同意を得られないとき、高い確率で出現する。フィリピンのマルコス大統領、イランの国王、イラクのサダム・フセイン、アルジェリアのフランス人、パレスチナ占領地のイスラエル人、イラクやアフガニスタンの米軍…と、その例は枚挙にいとまがない。拘束者に対して広範に行なわれる虐待は事実上、その国や地域の多くの人々が反対するシステム-政治的なものであれ、宗教的、経済的なものであれ-を政治家が強制的に実施しようとしていることの確実な兆候である。(上p.177)

『戦争論』(西谷修 講談社学術文庫)
 第二次大戦の連合国側の勝利は、「ファシズム」に対する「自由」や「民主主義」の勝利とされたが、そのことはアジアやアフリカの各地で植民地独立運動を活気づけることになった。ところが、掲げる原則とは違い、どの宗主国も簡単に植民地の権益を放棄しようとはせず、たいていの独立運動はなんらかのかたちで弾圧を受けることになる。
 そうすると運動は合法的な部分と非合法の部分とに分裂し、地下運動は植民地支配当局の警察や宗主国の軍隊との武力闘争に入ってゆく。だがそれは、一方があらゆる権力や武器や物資や法的手段をもち、他方はあらゆるものを剥奪されているという、圧倒的に不均衡な闘いだった。だから地下運動はテロやゲリラ戦に訴える。「文明」に抑圧され、すべてを奪われた者たちが、「文明」の権力を「野蛮」の闇に引き込んで暗がりのなかで戦おうとする。だからそこには恐怖が伴う。それは「闇雲」の戦争で、もはや「光」は役に立たない。ひとたび闇を掃討し、恐怖を克服して勝ち誇る「啓蒙」は、ここでふたたび「恐怖」にさらされることになる。
 物量の面で圧倒的に劣る独立運動が戦いを続けるためには、住民の広範な支持と協力が欠かせず、多数の住民を引き入れる平等原則はこの運動に不可欠だった。それに「自由」だけでなく「平等」こそは、独立要求の基盤でもある。そこで当然のことのように民族独立運動は社会主義的な原則と結びつくが、たしかに戦前の独立運動をヨーロッパで支持したのは、社会主義的な勢力だけだったのである。そうした事の成り行きから、独立後の新しい国の多くは冷戦下で社会主義陣営に属することになる。
 植民地独立闘争が過酷な戦争であったことは言うまでもない。ただこの戦争はもはや国と国との戦争ではなく、宗主国とまだ国家でない勢力との宣戦布告もない戦争である。宗主国はそれを領土内の反乱とみなし、非合法化して弾圧する。だから「敵」に対する姿勢は「犯罪者」に対する姿勢になる。
 一方独立を要求する側にとっては、当然の権利を軍事的に踏みにじる不当な支配に対するまったく正当な抵抗である。この対立にはもはや「合法性」の共通の土俵はない。そのため戦争の状況は悲惨になる。一方は文明国を任じながら、相手を文明人つまり人間扱いせず、害虫を駆除するように最新兵器で掃討しようとする。ところが「害虫」は叩いても叩いても根絶できない虫けらのように増え、その「不気味さ」に恐怖して、文明国の兵士たちはますます残酷な対応にでる。見せしめ、拷問、虐殺はふつうのことになり、戦場は「文明化」した人間がどこまで野蛮で残酷でありうるかのグロテスクなショーウインドーになる。
 その「汚い戦争」の代表的な例がアルジェリア戦争であり、ベトナム戦争だった。アルジェリア戦争は「自由・平等・博愛」の理想を掲げたフランスの伝統を、その芯から蝕む正義のない戦争となり、フランス社会に大きな亀裂を走らせて、やがて68年に爆発する社会的反抗の素地を準備することになった。そしてベトナム戦争。アメリカが五十万を超える大軍を投入し、あの小さな地域に第二次世界大戦で使われた以上の爆弾を投下し、ナパーム弾で村ごと人を焼き、枯れ葉剤で森を枯らし、生まれてくる子を奇形にし、捕えられたゲリラや村人に、婦女子も含めて、残虐行為のかぎりを尽くして、戦争史上もっとも凄惨な光景をさらしたベトナム戦争は、「自由」の国アメリカの「正義」がいかなるものであるかを白日のもとにさらすことになった。(p.273~5)

『戦争の克服』(阿部浩巳・鵜飼哲・森巣博 集英社新書0347)
鵜飼 イギリスの場合は、理念よりも打算です。大英帝国は、重商主義的な思想の遺産をずっともっていたと言えるのではないでしょうか。得にならないと思ったら、無責任に引き上げちゃう。第一次大戦中、アラブ人にもユダヤ人にも「建国を約束する」なんて言っておいて、その後の混乱を結局、解決できなかった。第二次大戦後、国連パレスチナ分割決議が下ると、もうこれで知りませんとイギリスは引き上げる。そののちシオニスト軍とアラブ軍が衝突し、パレスチナ問題が起こります。インドでもエジプトでも、これはヤバいと思ったらすぐ帰ってしまう。
 一方、フランスの場合、ある種の理念を掲げて出ていくから帰れなくなる。1945年にはアルジェリアで4万人を虐殺し、次の年にヴェトナムでも大規模な虐殺を起こしています。47年にはマダガスカルでも9万人を虐殺している。54年からのアルジェリア独立戦争では、100万人もの人間を殺戮しています。ナチス・ドイツからフランス自体が解放されてから62年のアルジェリア独立まで実に17年間の植民地戦争です。なぜここまで引き際が悪いかというと、その理由の一つは、自由、平等、博愛という理念を世界に広めるとうい使命感です。ここで引いてしまえば現地の人たちを文化程度の低い世界に置き捨てることになる、という論理なんですよね。

『アメリカ帝国の悲劇』(チャルマーズ・ジョンソン 集英社)
 さらにヨーロッパの国々は、国内の革命を未然に防ぐことを意図して、植民地を犯罪者や政治犯のごみすて場として組織的に利用した。各国の政府は急進派や革命運動家になるかもしれないと考えた人間たちを追いだすために、「流刑」の判決をいいわたした。1848年にパリで起きた労働者の蜂起のあと、フランス政府は1万5000人以上のパリ市民に金を払って、アルジェリアの植民地に移住させた。イギリスは通例、アイルランドやそのほかの急進派を北アメリカの流刑地に送り、アメリカ独立後はオーストラリアへ流刑地を変更した。(p.42)

『私物化される世界 誰がわれわれを支配しているのか』(ジャン・ジグレール 阪急コミュニケーションズ)
 1945年5月8日、フランスでは(第二次大戦の)停戦が陽気に祝われていたが、他方アルジェリア東部のセティフではフランス軍が大殺戮をおこなっていた。デュヴァル将軍の命令は疑問の余地のないものだった。「いま12時25分だ。明日の12時25分までに、邪魔立てをする先住民は、15歳以上の男子であれば全員残らず殺せ」
その結果、4万5000人が殺され、数千人が負傷した。(p.270)

『世界の歴史13 帝国主義の時代』(中山治一 中公文庫)
 このうちエジプトは、…十九世紀末にイギリスの占領下に入ったのだが、もっとはやくからヨーロッパ諸国の支配下におかれたのはアルジェリアである。ナポレオンの没落後、地中海のフランス商船はアルジェリア人海賊の跳梁に苦しんでいたが、1830年、フランスは口実をもうけてアルジェー市を包囲し、ベイを追放して、アルジェリア占領を宣言した。以来、アルジェリアのフランスに対する反抗は、こんにちにいたるまで執拗につづけられるのである。(p.212)
by sabasaba13 | 2016-10-22 05:29 | 鶏肋 | Comments(0)

『アルジェの戦い』

c0051620_6252067.jpg 以前からどうしても見たかった映画、『アルジェの戦い』が新宿の「K's cinema」で上映されるという情報を入手し、喜び勇んで見てきました。監督はイタリア人のジッロ・ポンテコルヴォ、第二次世界大戦ではレジスタンス運動に参加した方です。彼はロベルト・ロッセリーニの『戦火のかなた』に感銘を受け、映画の世界に入ったとのことです。『Movie Walker』に要を得たストーリー紹介がありましたので、引用します。
 1954年11月1日、仏領アルジェリアのカスバを中心として、暴動が起きた。それはアルジェリアの独立を叫ぶアルジェリア人たちの地下抵抗運動者によるものだった。激しい暴動の波はアルジェリア全域から、さらにヨーロッパの街頭にまで及び、至る所で時限爆弾が破裂した。1957年10月7日、この事件を重大視したフランス本国政府は、マシュー将軍(ジャン・マルタン)の指揮するパラシュート部隊をアルジェに送った。独立運動地下組織の指導者はサアリ・カデル(ヤセフ・サーディ)という青年であった。彼はマシュー将軍の降伏勧告に応じようとせず、最後まで闘う決意であった。日増しに激しさを加えるテロ行為に対処するため、マシュー将軍は市内に数多くの検問所を設け、現地人の身体検査から、パスポートの検閲まで、厳しく取締まった。そしてテロ容疑の情報が入ると抜き打ち的に民家やアパートを襲って、アラブ人の強制逮捕を行なった。そのたびごとに地下指導者たちは監禁され、ある者は拷問され、またある者は殺された。しかしサアリは屈せず、女性連絡員ハリマ(ファウチア・エル・カデル)をはじめとするわずかの部下を率いて、地下活動を続けた。パラシュート部隊の執拗な追求の手を巧みにのがれてきた彼も、ある日、街頭でフランス官憲に目撃され、ついに本拠をつきとめられてしまった。彼はマシュー将軍の投降の呼びかけにも応じなかったため、ハリマと共に軍隊の手にかかって射殺された。サアリの死後三年経た1960年12月、平静だったアルジェは、独立を願うアルジェリア人たちの叫びで再び騒然となった。
 冒頭のシーンではいきなり息を呑みました。拷問の痕らしいひどい火傷のある、怯えた表情の半裸のアルジェリア人。どうやら苦痛に耐えかねて、独立運動のリーダーをフランス軍に密告したようです。その苦悩と悔恨の表情が印象的です。バックにはJ・S・バッハの「マタイ受難曲」冒頭のコラールが荘重に鳴り響きます。リーダーたち、いやアルジェリア人すべての受難と、ユダのような彼の裏切りを象徴しているのでしょうか。そして彼を伴ってアジトを取り囲むフランス軍、追い詰められたリーダーたち。ここから過去にさかのぼって映画は始まります。
 圧倒的な武力と警察力で独立運動を弾圧するフランス。それに対して徒手空拳、対抗テロルをからめながら抵抗するアルジェリア人。息詰まるような場面の連続です。中でも、バーナーや電気ショックを使った拷問のシーンは衝撃的でした。自由・平等・博愛というのは国内向けの美辞麗句でしかなかったことを思い知らされます。しかし見ていてあまり沈鬱な気持ちにならないのは、映画全編を通じてあふれでる人々のパワーを感じるからでしょうか。男性・女性・子供・老人、自由と独立を求める気持ちがびしびしと伝わってきます。そした圧巻はラストシーン。独立運動が息の根を止められた二年後、突如、人びとが自由と独立を求めながら町にあふれでます。結局、この動きが二年後のアルジェリア独立につながるのですね。その迫力たるや、見ていて圧倒されました。パンフレットによると、主要キャストには実戦経験者を含む素人たちが多数参加し、アルジェリア市民8万人が撮影に協力したそうです。そう、これはたんなる映画ではなく、彼らの戦いを再現してフィルムに焼きつけたドキュメント作品なのですね。

『〈新〉植民地主義論』(平凡社)の中で、西川長夫氏はこう述べられています。
 私のとりあえずの(※植民地主義の)定義は、「先進列強による後発諸国の搾取の一形態」というきわめて簡単なものです。これを「中核による周辺の搾取の一形態」と書きかえてみると、植民地主義という用語に秘められたより深い真実が見えてくるのではないでしょうか。(p.53)
 そしてアルジェリア独立運動の指導的理論家、フランツ・ファノンは『地に呪われたる者』(みすず書房)の中でこう語っています。
 〈第三世界〉は今日、巨大なかたまりのごとくにヨーロッパの面前にあり、その計画は、あのヨーロッパが解決をもたらし得なかった問題を解決しようと試みることである筈だ。
 だがこの場合に、能率を語らぬこと、〔仕事の〕強化を語らぬこと、〔その〕速度を語らぬことが重要だ。否、〈自然〉への復帰が問題ではない。問題は非常に具体的に、人間を片輪にする方向へ引きずってゆかぬこと、頭脳を磨滅し混乱させるリズムを押しつけぬことだ。追いつけという口実のもとに人間をせきたててはならない、人間を自分自身から、自分の内心から引きはなし、人間を破壊し、これを殺してはならない。
 否、われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩きつづけたい、夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。(p.183)
 先進列強による後発諸国の搾取、中核による周辺の搾取、強者による弱者の搾取といった"植民地主義"が消滅したとはとても言えないのが現状です。あるところでは相も変わらずに、あるところでは巧妙に姿を変え、搾取が続けられていると思います。それに抗して、すべての人間とともに歩きつづければ世界は変わるのではないか。そんな希望を与えてくれた映画です。
by sabasaba13 | 2016-10-21 06:26 | 映画 | Comments(0)

言葉の花綵149

 邦に道有るとき、貧しく且つ賤しきは、恥なり。邦に道無きとき、富み且つ貴きは、恥なり。(『論語』)

 はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。そうしてわれわれは勝つのだ。(ガンディー)

 どの社会にとっても、赤ん坊にミルクを与えることほど素晴らしい投資はない。(チャーチル)

 共産党がなくなったらいけないのか? 庶民をだますこと以外、この党にこの国を治めるどんなひけつがあるんだ。(浦志強)

 神は急いでおられない。焦らなくいい。(アントニ・ガウディ)

 民の安寧(salus populi)は至高の法たるべし。(キケロ)

 自由民主主義とは、敵とともに生きる、反対者とともに統治することである。(オルテガ・イ・ガセット)

 弾をこめたピストルは、刑務所の服役者と精神病院の患者以外、だれもが持つべきだ。
 その通りだ。
 公衆衛生に何百万ドルもつぎこむとインフレを誘発する。
 その通りだ。
 武器に何百万ドルもつぎこめばインフレの抑止になる。
 その通りだ。
 右寄りの独裁制は、左寄りの独裁制よりもはるかに、アメリカの理想に近い。
 その通りだ。
 即座に発射することのできる水素爆弾の数が多ければ多いほど、人類は安全になるし、われわれの孫が受け継ぐ世界は幸福になる。
 その通りだ。
 産業廃棄物、とくに核廃棄物は、人体にほとんど害はないので、そういう問題に関してはみんな口をつぐむべきだ。
 その通りだ。
 企業は何をしてもいい。賄賂をもらったり渡したり、環境をほんの少し破壊したり、価格操作をしてもいいし、ばかな客をだましてもいいし、競争入札をやめてもいいし、倒産するときには財務省を襲ってもいい。
 その通りだ。
 貧乏人はどこかで間違いを犯している。そうでなければ、貧乏になるはずがない。したがって、貧乏人の子どもはそのつけを払わなくてはならない。
 その通りだ。
 アメリカ合衆国は国民の面倒をみる必要はない。
 その通りだ。
 自由競争がそれをやってくれる。
 その通りだ。
 自由競争に任せておけば、すべては必然的に正しい方向に進む。
 その通りだ。
 とまあ、すべて冗談だ。(カート・ヴォネガット 『国のない男』)
by sabasaba13 | 2016-10-19 06:26 | 言葉の花綵 | Comments(0)

京都錦秋編(32):平野屋(14.11)

 「田中鶏卵」で卵焼きを購入し、四条大橋を渡って円山公園の中にある「平野屋」へ。
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 山ノ神が大好きな「いもぼう」をいただきました。箸袋にはこう記されています。
元禄から享保の昔、当家の主人が御所勤めの傍ら宮様のお伴で訪れた九州から持ち帰り、京の地で育てた海老芋と献上品であった北海道産の棒鱈とを、工夫を凝らして炊き合わせたのが京名物いもぼうでございます。
十四代続いた一子相伝の技とほんまもんの味を頑なに守り今日に至っております。
 "ほんまもんの味"、堪能いたしました。なお店先には「祝 和食 伝統的な食文化 ユネスコ無形文化遺産登録」という提灯がさがっていました。御慶。
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 ふたたび四条大橋を渡り、河原町駅から阪急京都線に乗って烏丸駅へ、四条駅で地下鉄烏丸線に乗り換えて京都駅へ。志津屋のビーフサンドを買って、コインロッカーから荷物を取り出して新幹線に乗り込みました。
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 車中のトイレに行こうと通路を歩いていくと、向こうから中年男性と中年女性が来たので、先に通してあげようと脇にどきました。ところがこのお二人、お礼も言わずに私を無視して通り過ぎていきました。知的劣化に加えて倫理的劣化か… 気のせいか、最近よくこういう場面に出くわします。ま、いいや、"徳不孤 必有隣"という言葉を信じて、これからもできるだけ親切に振る舞うようにしましょう。カート・ヴォネガット曰く、「親切は世界を救う」。午後10時過ぎに東京駅に到着、東京駅の顔はめ看板を撮影して、今回の旅は終わりです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-18 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(31):錦市場(14.11)

 売店で「瓢鮎図」Tシャツを売っていたので即購入。見るべきほどの庭は見つ、自害はしないで錦市場へ行って卵焼きを買いましょう。妙心寺三門に、さらば」と別れを告げました。
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 そうそう、何気なく今妙心寺のHPを見たら、トップ・ページに"節電 節水 節油 知足 たるをしる 原子力に頼らない わたしたちにできる小さくて大きな支援"という法語(?)があり、「吾唯足知」と刻まれた竜安寺の蹲の写真が掲載されていました。その意気やよし。奈落の底に落ちる穴の徳俵に足をかけている世界と日本。とてつもない格差社会と、それを弥縫するための狂熱的ナショナリズム。相も変わらない資源と市場の暴力的な奪い合い。その結果生じる、大量の難民。またその際に行なわれる一般市民への国家テロと、それに対するカウンター・テロ。大量生産・大量消費・大量廃棄による資源の枯渇と環境破壊、地球温暖化。必要な電力を賄うための核(原子力)発電所の乱立。それもこれも、もう不可能な状況であるにもかかわらず、各国が経済成長を強行していることに起因していると考えます。充足することを知らず、ひたすら金と物を追い求める世界と日本… 「吾唯足知」という四文字こそが、人々に平和と安楽をもたらすという先哲の智恵を大切にしたいものですね。
 JR花園駅まで歩き、山陰本線に乗って京都駅へ。地下鉄烏丸線に乗り換えて四条駅で下車。錦市場の入口には「伊藤若冲生家跡」という看板がありました。そう、伊藤若冲は1716(正徳6)年、ここ錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生を受けたのですね。アーケードにも彼の絵がたくさん掲げられていましたが、わが敬愛する画家の一人です。
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 とにかく、彼の絵が好き、ただそれだけです。中野雄氏が『モーツァルト 天才の秘密』(文春新書487)の中で、こう書かれていました。
 …群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその"努力"を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である。
 そう、天才とは、"努力"を"努力"だと思わない人のことなのですね。そういう意味で若冲も天才だと思います。大好きな絵を描ける喜悦が、びしびしと伝わってきて幸せになります。以前より、石峰寺伊藤若冲展プライス・コレクションなど彼の足跡と展覧会を追いかけてきたのですが、今年は生誕300年、とてつもない規模の充実した回顧展が東京都美術館で開かれました。もちろん行く気満々だったのですが…なんと平日で五時間待ち! やれやれ、これでは入場できたとしてもまともな鑑賞はできないな、と来館を断念しました。それにしてもなぜ、突然、若冲の人気がこれほど沸騰したのでしょう? その経緯は知りませんが、来館者の多くは若冲が好きで訪れたのではなく、話題になったから来たのでしょう。JR東海キャンペーン「そうだ京都、行こう」で取り上げられた紅葉を見に行く方々と同じ行動パターンですね。メディアに踊らされるのではなく、己の研鑽と感性で好きな絵師やお庭を選んでほしいものです。このブームが一過性のものではないことを望みます。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-16 07:30 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(30):妙心寺退蔵院(14.11)

 方丈の隣りにあるのが「元信の庭」、室町時代の絵師・狩野元信の手による枯山水庭園です。元信が画家としてもっとも円熟した70歳頃の築庭と推測され、自分の描いた絵をもう一度立体的に表現しなおしたもので、しかも彼の最後の作品だそうです。『一度は行ってみたい京都「絶景庭園」』(烏賀谷百合 光文社知恵の森文庫)によると、中根金作はこう評しています。
 …その雄渾なるうちに優雅豊麗さのある手法で石組し、作庭された構成の見事さには驚くべきものがある。そしてそれはあくまでも絵画的である。庭全体の構成や石組の一つ一つにも、画家でなくしてはなし得ない感覚がみられ、この庭の作庭者がただ者でないことを容易にうなずかしめるのである。(p.232)
 それでは余香苑へと向かいましょう。途中にあった瓦には、瓢箪と鯰が刻まれていました。
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 「陰陽の庭」を過ぎると、眼前に紅枝垂れ桜が現れました。平安神宮にある紅枝垂れ桜の孫桜で樹齢約50年。2013年春の「そうだ、京都いこう」キャンペーンに使用されたそうです。これはぜひ満開の頃に見てみたいものです。
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 楓の数はそれほど多くはないのですが、見事に色づいた紅葉をいくつか見られたのは僥倖でした。これは経験則なのですが、便所の近くの楓が特に綺麗なようです。"桜の樹の下には屍体が埋まっている"と書いたのは梶井基次郎ですが、"モミジの樹の下には…" 尾籠な話で御免なさい。お茶席「大休庵」の窓も瓢箪でした。
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 そして余香苑(よこうえん)へ。小さな塔頭かと思いきや、これほど宏大なお庭が広がっていることに驚かされます。サツキの大刈り込みの間から三段落の滝が、大きな池へと流れ落ちてきます。石組、石橋、灯籠、東屋などがバランスよく配置され、まるで一幅の絵を見るよう。観光客も少ないので、閑寂とした雰囲気の中で堪能することができました。視線の快楽… 心がどんどん広がって石や木々や水と一体になっていくような見事なお庭です。最上部に先ほどの紅枝垂れ桜が見えますが、満開の頃は絶景でしょうね。
 作庭したのは"昭和の小堀遠州"こと中根金作(1917~95)。静岡県磐田郡に生まれ、浜松工業学校図案科を卒業後、日本形染株式会社に入社。捺染図案の作成を行ないますが、二年後に退社し、現在の東京農業大学造園学科に入学しました。その後京都に移り、文化財保護課で働いた後、1966年に中根庭園研究所を開設し、作庭と庭園研究に専念します。代表作は、足立美術館、昭南宮などです。これからも追いかけ続けていきたい庭師です。
 なおこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第31位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の五枚、一番上が「元信の庭」、真ん中三枚が余香苑、一番下が「陰陽の庭」です。
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by sabasaba13 | 2016-10-15 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(29):妙心寺退蔵院(14.11)

 そして退蔵院へ。以前に訪れた時にマイケル・ムーア監督に出会えたお寺さんです。お目当ては、"昭和の小堀遠州"中根金作作庭の傑作、「余香苑」です。まずは方丈の縁側に置いてある如拙作の「瓢鮎図」のレプリカを表敬訪問。
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 このお寺さんのシンボルですね。瓢箪で鯰をつかまえようとする男を描いた摩訶不思議な絵、どういう意味があるのかいろいろな説がありますが、『瓢鮎図 ひょうたんなまずのイコノロジー』(平凡社)で述べられていた島尾新氏の所説を紹介しておきましょう。
 しかし、私たちが分析するような「構造」によって、絵を作った人々の営為を理解できたと思うのは早計である。目の前にあるのは「出来上がった」ものにすぎない。「瓢鮎図」の作られた場で、どんな会話がなされたのか知るよしもない。ひとつ想像を逞しくしてみよう。

 「このあいだ、上様(※足利義持)と話をしていたら、瓢箪で鯰を捕まえる、ということを言ったやつがいて、それを新邸の屏風に、という話になった」「ひょうたんでなまずおさえる? 誰が考えたんだ、そんなこと」「でも面白いじゃないか」「そんな諺があったような気もする」「しかし、何といっても将軍の屋敷の屏風だ。そう妙竹林なものも出来ないだろう」「上様は、なにか新しいものをお作りになりたいようだ」「新しいお屋敷だからな」「先代の義満公のときには無かったようなもの?」「どんな風に描けばよいのでしょう」「とにかく上様のお屋敷に置くのだから、立派なものじゃなきゃいけないな」「ひょうたんなまずを?」「大丈夫。清涼殿にも『手長足長』なんていう妙なものがある。これだって、もともとは『山海経』だ。中国の古典だよ。それに対抗して、ちがったのを作ればいいじゃないか」「しかし公家風はまずい」「もちろん唐絵だよ」「義満公の集められた中国絵画があるな」「瓢箪で鯰は捕らえられるものでしょうか?」「そんなことできるわけがない。だからこそ面白いんだ」「瓢箪を持って鯰と格闘するところでも描けばよいのでしょうか?」「それでは何の趣もない」「鯰が竹に上るっていうはあったよな」「そうだ、竹を入れよう」「鯰はこの大地を支えているって話もある。ついでだから男は鯰の上に乗せてしまえ」「瓢箪が手につかないっていうのはどうだ」… (p.104~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-13 06:23 | 京都 | Comments(0)