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虐殺行脚 埼玉・群馬編(20):高崎(14.12)

 それではもう一つのお目当て、日本聖公会高崎聖オーガスチン教会聖堂へと向かいます。歩道には自転車レーンが設置されていました。さすがは高チャリを提供する町、見識を感じます。途中に黒塗りの重厚な商家がありましたが、解説によると明治15年頃に建てられた旧山源漆器店でした。『七人の侍』に登場する島田勘兵衛のような風格、町のランドマークですね。
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 印刷して持参した地図を見ながら右往左往して、ようやく日本聖公会高崎聖オーガスチン教会聖堂に着きました。1929(昭和4)年に建てられた高崎初の鉄筋コンクリート建築で、四角い鐘楼が印象的です。なお古い教会を訪ねていると"聖公会"という組織によく出会いますが、それについての解説板がありましたので後学のため転記します。
 私たちの高崎聖公教会はイエスをキリスト(救い主)と信ずるキリスト教会で、イギリス国教会(アングリカン・コミュニオン)の一員です。(中略) 聖公会の信仰の特色は「あれかこれか」式の二者択一を避ける「あれもこれも」式の包括性にあると言うことができます。聖公会はカトリックともプロテスタントとも呼ばれますがローマカトリック教会がローマ流のカトリック教会であるのと同じように英国流のカトリック教会なのです。
 なるほど…よくわかりません。ごめんなさい。
 教会の近くには、煉瓦造のりっぱな蔵があるお宅がありました。それでは高崎駅に戻って夕食をいただきましょう。途中にあった「あがり歯科医院」はモダンな造形、おそらく戦前の物件でしょう。
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 そして高崎駅に到着。自転車をラックに返却し、駅ビルの中にある「登利平」でご当地B級グルメの鳥めし重をいただきました。舌鼓を打ちながら、さきほどいただいた観光パンフレットを見ていると、「だるま生産量日本一 高崎だるま」という記事がありました。
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 何の後学になるのかわかりませんが、とりあえず転記しておきます。
 年間約90万個をつくり、日本一の生産量を誇る「高崎だるま(筆者注:登録商標です)」。まゆ毛は鶴、ひげは亀を表し、別名「福だるま」「縁起だるま」とも呼ばれています。
 だるまと群馬県で盛んな養蚕との関わりは深く、蚕の脱皮を「起きる」、繭になることを「上がる」と言い、七転び八起きのだるまは養蚕の縁起物とされました。
 だそうです、はい。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-30 06:40 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(19):高崎(14.12)

 それでは今夜の塒、高崎へと向かいましょう。群馬藤岡駅から八高線に十数分揺られると高崎駅に到着です。観光案内所で地図と観光パンフレットをもらって駅前に出ると、ん? 貸自転車らしきものが並べられています。高チャリ? 解説を読むと、ハンドルについているキーボックスに100円硬貨を入れると、チェーンキーがはずれてラックから取り出せます。返却するときは、チェーンキーをボックスに差し込むと鍵がかかり100円が戻ってくるという仕掛けです。ブラーボ、ブラーバ、ブラービ、アミーゴ! なんて素晴らしいアイデアなんだ。こうしたシステムが普及して、自転車レーンを拡充して、駐車料金を高額にして、重量税を大幅に引き上げれば、化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやる悪魔の機械をかなり駆逐できるのではないでしょうか。高崎アーバンホテルにチェックインをして荷物を置き、高チャリをお借りしてしばし高崎の町を散策することにしました。
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 まず訪れたのは豊田屋旅館本館です。1932(昭和7)年に建てられた老舗旅館で、正面の庇や唐破風に風格を感じます。
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 次なるはモダンな意匠のコンサートホール、群馬音楽センターです。アントニン・レーモンドによって設計された建築で、竣工は1961(昭和36)年です。アントニン・レーモンド(1888‐1976)は、チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日しました。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残し、日本人建築家に大きな影響を与えました。私も彼の建築が好きで、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学を訪れたことがあります。
 アントニン・レーモンドの名前が出たついでに、一つエピソードを紹介しましょう。[参考文献:『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社 p.108~9)] 日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは「空襲」という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。うーむ、建築の歴史あり、ですね。
 なお同センター内には「アントニン・レーモンド ギャラリー」があり、群馬音楽センターや旧井上邸の模型の他、数点のパネル、プロフィールが展示されているとのことです。今回は時刻も遅く中に入れなかったので、再訪を期しましょう。
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by sabasaba13 | 2016-11-29 06:31 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(18):成道寺(14.12)

 憎まれ、呪われ、責任を問われなければ、また同じことを繰り返す。自明の理です。それでは加害者たちは憎まれ、呪われ、責任を問われたのか。違いました。まず国家権力は、こうした事件の本質をできうる限り隠蔽し、その実態を軽微なものに見せかけ、さらには責任の追及も表面的・微温的なものでした。『日本の歴史14 明治時代中期から1920年代 「いのち」と帝国日本』(小学館)の中で、小松裕氏はこう述べられています。
 関東大震災下の朝鮮人・中国人虐殺は、まぎれもなく日本歴史の一大汚点である。しかし、さらに問題であったのは、その後の日本政府の対応であった。虐殺の真相糾明を妨害したばかりか、国際世論の批判を緩和させようと、朝鮮人による大逆事件を仕立てあげたのである。
 1923年(大正12)9月5日、臨時震災救護事務局警備部打ち合わせが開催され、暴走する自警団の取り締まりに加え、国際的非難を恐れての宣伝の方針が決定された。それは、「赤化日本人」と「赤化鮮人」の煽動があった事実を強調することと、朝鮮人の被害を少なく、日本人の被害を多く宣伝するというものであった。こうして、関係者に対する口止めと隠蔽工作が始まる。
 だいぶあとのことになるが、野戦重砲兵第一連隊第六中隊の久保野茂次は、11月28日に、中隊長から〈震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない〉と訓示されたことを日記に記している。
 政府は、朝鮮人の犠牲者数を、内務省警保局が231名、司法省が233名(加えて東北・沖縄出身の日本人59名が犠牲になったと)、朝鮮総督府が832名と発表した。朝鮮から来た金承学(キムスンハク)を代表とする罹災同胞慰問団は、官憲の妨害や、新聞社、一般民衆の非協力のなかで調査を進め、最終的に6661名の同胞が犠牲になったと発表した。こうした政府の姿勢は、政府に協力的であった右翼の内田良平さえ批判していたのである。
 それに加えて政府は、自警団に責任を転嫁しようとして、10月1日から自警団員の大量検挙を始めた。しかし、因果を含めての検挙であったことは、そのほとんどが無罪か執行猶予付きの判決であり、収監された人も、1924年1月26日の皇太子結婚の恩赦で釈放されていることから判明する。なおかつ、1926年には、叙勲されたり恩賞をもらったりしているのである。
 加害者の側も罪悪感はほとんどなく、地域全体で彼らをかばっていた状況がうかがわれます。東京の千歳村(現世田谷区)での様子を、『九月、東京の路上で』(ころから)の中で、加藤直樹は次のように記されています。
 「このとき(12人が起訴されたとき)千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」 …烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえている。(p.50)
 私たちは、この冷厳たる事実ときちんと向き合い、そして学んだのでしょうか。"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"、ヨハン・ガルトゥングの言です。どうやら私たちは、差別と人権蹂躙という運命にまた甘んじなければならない暗い予感がしてなりません。

 本日の一枚です。碑文には“非常の死”という曖昧な表現が記されていました。
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by sabasaba13 | 2016-11-27 19:35 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(17):成道寺(14.12)

 もう一つは、群馬県玉村町町会議員石川まさお氏のブログです。
 1923年9月1日の関東大震災に際し、デマ・流言飛語により全国で6000人とも言われる朝鮮人が日本人の手により虐殺された。藤岡市でも9月5日、藤岡警察に「保護」されていた朝鮮人17人が、警察に乱入した自警団により虐殺された。
 当時の藤岡警察は成道寺の隣にあり、当時の藤岡町長の依頼で成道寺に埋葬された。以来、墓地には犠牲者の慰霊碑が建てられ、先代の住職自筆による当時の状況が書かれている。

 〈流言や官民やや狼狽の色ありて、各県皆在郷軍人会、青年団、消防団を持って自警団を組織し、各自獲物をもって昼夜警す。ただし、警察、役場より通知を発し組織せしむ。なお、警察は自警団に対し朝鮮人を発見次第警察に同行して来たれと命ず。ときに人心激高の極みに達し、朝鮮人と見れば皆敵国人を見るがごとく、殺気充満す。たまたま、新町鹿島組配下岩田金治郎方に雇いし者12名、他より5名、当藤岡署に保護す。
 民衆9月4日武州本庄町神保原にて百数十人撲殺の実況を視察し、藤岡もかの例にならい、国賊朝鮮人を撲滅すべしとなし、警察に談判すること数日、ついに夜8時ごろより10時、民衆数千人警察前に集まり、拘置所を破壊し、16人引き出し、門前にて撲殺し警察に並べて死の山となす。なお7日の夜、民衆非常に激昂し、残りの一人の朝鮮人を拘置所より出し、殺し、警察を破壊し、8時より11時までまったく無警察状況となり。乱暴すること非常なり。当夜警鐘を乱打す。18日町役場より命を受け
岡住豊吉(朝鮮人の日本名)ら17名の朝鮮人の死体を集め大葬す。即ち、遺骨は成道寺墓地に埋める〉 一読慄然、肌に粟が生じます。これが人間のすることか… こうした虐殺事件の裁判で、朝鮮人のために尽力した弁護士・布施辰治の、臓腑を抉るような言葉を思い起こします。
 殺されたものの霊を吊(とむら)うの前に先ず殺したものを憎まねばならぬ、呪わねばならぬ、そしてその責任を問うべきである。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-26 05:29 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(16):成道寺(14.12)

 閑話休題。さて肝心の成道寺ですが、目抜き通りから路地を入ったところにありました。見事な屋根瓦が印象的ですが、やはり地元産なのでしょう。道路をはさんだ向かい側に墓地があり、そこに入ったすぐ右側に慰霊碑がありました。
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合掌

 いったいここ藤岡では何が起きたのか。まずは『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)から引用します。
 群馬県多野郡藤岡市では、九月二日頃から早くも朝鮮人来襲の流言が、東京方面からの避難者の口から伝わりはじめていた。そしてその日、同郡鬼石町の自警団員が不審な朝鮮人一名をとらえて藤岡町の藤岡警察署に連行した。
 警察では、その朝鮮人を検束して厳重な取調べをおこなったが、かれには自警団員の訴えるような不穏な点は全く見られなかったので、五日に釈放した。
 が、その頃藤岡町の空気は極度に険悪なものになっていた。それは前日に埼玉県本庄町等で起った朝鮮人殺害事件の発生が伝わってきたためであった。しかもその報せは、朝鮮人が貨物自動車で本庄町等に来襲した結果起ったものであるとして伝えられたので、町民の恐怖はたかまり、夜も自警団が交代で検問と警戒をつづけていた。
 その頃、内務省から朝鮮人来襲説は根拠のない流言にすぎないという指示があって、県警察部では朝鮮人の保護に手をつけはじめていた。
 そして、藤岡警察署でも警察部からの指令で五日早朝に朝鮮人労働者ら十七名を署内に収容し、震災後の行動を取調べていた。
 藤岡町では、それら朝鮮人が警察に検束されたことを知って不穏な空気がたかまった。
 そして、日没頃から自警団員らが、竹槍、棍棒、鳶口、日本刀、手槍、猟銃等をたずさえて各所に集りはじめ、警察に向かって動きはじめた。人の流れは他の流れと合流し、日が没した頃には、警察の周囲に群衆がひしめいていた。
 自警団員は群衆とともに気勢をあげて喧騒をきわめたので、勤務中の巡査部長が五名の署員とともに応接した。これに対して自警団員数名が、
 「九月二日に、われわれ自警団が不逞朝鮮人をとらえて警察に渡したのに、警察ではろくに調べもせず釈放したのはどういうわけだ。このように朝鮮人の来襲が各地で起っている時に、釈放するなどとは論外だ」
 と、激しくなじった。
 巡査部長は、
 「不審な点が全くないことがわかったので釈放したのだ」
 と答えたが、自警団員らは承服せず、警官に荒い言葉を浴びせかけはじめた。
 群衆も曖昧な警察側の回答に憤激し、
 「今、鮮人をどこにかくしている。逃がしたのだろう。嘘をつくとただではすまないぞ」
 と威嚇し、さらには署内にいる朝鮮人を引渡せと要求した。
 提灯の灯はさらに増して、凶器を手にした群衆の数は五、六百名に達し、かれらは口々に朝鮮人を引渡せと叫んだ。
 「やっつけろ、やっつけろ」
 と煽動する声に、自警団員と群衆は警察署内に乱入した。そして、留置場の板塀をこわし、場内になだれこんだ。
 かれらは狂ったように看守巡査を殴打し突き倒し署内を荒し廻った。そして、
 「朝鮮人をかばう警察は、社会主義だ」
 「朝鮮人をにがした警察官は殺してしまえ」
 と、口々に叫び、遂に留置場から朝鮮人十七名中十六名を引きずり出して殺害してしまった。
 さらに翌日の夜にも、約千名の群衆が押しかけて投石の後署内になだれこみ、重要書類を場外に持ち出して焼却し、署長官舎にも乱入して家財を叩きこわした。そして、その日収容していた朝鮮人一名を路上にひきずり出して殺害した。
 この間、署員は群衆の慰撫につとめたが、暴徒化した群衆を制圧することが出来ず殺害事件を傍観する形になった。(p.178~80)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-24 06:35 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(15):藤岡(14.12)

 児玉駅から八高線に乗って、十分ほどで群馬藤岡駅に到着です。山小屋風の洒落た駅舎は、1931(昭和6)年だそうです。さて時刻はそろそろ午後三時、さすがに空腹となりました。藤岡には、「藤岡ラーメン」「トンコロ」「キムトマ焼きうどん」「肉巻きライスドッグ」といった食指をそそられるご当地B級グルメがあるそうですが、残念ながらお目にかかれませんでした。駅周辺をぶらぶら歩いていると「麦挽屋今助」という蕎麦屋があったのですが、残念ながら昼休みでした。いたしかたない、その近くにあったイトーヨーカ堂に寄って「ポッポ」という軽食屋で、焦がし玉葱ラーメンとキムチチャーハンをいただきました。
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 それでは慰霊碑が立つ成道寺へと向かいましょう。途中に旧倉林歯科医院という古い病院がありました。さて、成道寺はどこかなとうろうろしていると…こ、ば、た…やった、久方ぶりの「こばた物件」を発見しました。車に気を付けて向こう側に渡り、慎重に撮影。井上陽水ではありませんが、♪さがすのをやめた時、見つかることもよくある話で♪というやつですね。これは嬉しい。マンホールの蓋は鬼瓦の意匠ですが、児玉瓦と同様、このあたりも良質な粘土が取れる瓦の一大産地だったようです。あるお宅の玄関には「雷除 雷電神社」というお札が貼ってありました。そうか、このあたりは雷もよく落ちるのですね。雷除けの呪文としては「くわばらくわばら」が有名です。御霊となって雷を落としまくった菅原道真ですが、自分の領地である桑原荘にだけは落とさなかった、という伝説から生まれたようです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-23 08:05 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(14):児玉(14.12)

 なおこちらには「児玉地域文化財マップ」があったので、再訪のために撮影しておきました。
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 つらつらと眺めると…「秩父事件 金屋戦争激戦地」がありました。しかし旧給水塔の先にあるので、これから戻るとすればかなり時間がかかります。これからの予定もあるし、泣いて馬謖を斬る、訪れるのは断念しました。再訪を期しましょう。こんな時に折りたたみ自転車があればなあ…と、これは伏線です。
 秩父事件については、先日掲載した秩父編でふれましたので、よろしければご一読を。金屋戦争については、「秩父事件と和同開珎」というサイトに下記の記述がありました。
 しかし、皆野の本営が崩壊した後も、各地で戦闘が行われています。「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」の大野苗吉らが指揮する5~600の部隊は、塙保己一の故郷・旧児玉町(現本庄市域)の金屋に転戦し、鎮台兵70余及び警察官と小銃戦となりました。この戦闘では、困民党側に死者6名、負傷者9名、軍・警察側に負傷者4名が出ました。大野苗吉は、この最中、銃弾を受けて倒れたと伝えられています。
 ここ児玉は、塙保己一の故郷だったのですね。なお彼の墓所は東京の愛染院にあります。

 それはさておき、以前にも書きましたように、秩父事件とは、進行しつつある近代(優勝劣敗の競争社会)化に対し、「弱者を助けない強者には制裁を加えてよい」という前近代の社会通念(モラル・エコノミー)に基づいた抵抗だと考えます。しかし警察と軍隊の前に敗れ去り、こうした抵抗は消滅しました。言うなれば、秩父事件は近代化に対する最後の抵抗でした。以後民衆は、他者を蹴落とすためにひたすら勤勉に働くことになります。しかし(当然ですが)ほとんどの民衆は強者・富者になれず、心には不安感・孤立感・劣等感が宿ることになります。それらを解消するために、ナショナリズムと差別意識が、民衆の間に浸透していったのではないでしょうか。強大な国家の一員であると意識して、自尊心と一体感を感じるナショナリズム。弱者(女性・被差別部落・アイヌ・沖縄人・朝鮮人・中国人)を見出すことによって、優越感・満足感を充足させる差別意識。関東大震災時における朝鮮人虐殺は、このナショナリズムと差別意識が結びつき、暴発した時に起こったのではないでしょうか。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-21 08:21 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(13):児玉(14.12)

 それでは児玉駅へと戻りましょう。途中に、田島屋という古い旅館がありました。養蚕業が殷賑を極めていたころは、きっとこちらを定宿にしてたくさんの商人が押しかけてきたのでしょうか。「屋嶋田」と刻まれた立派な瓦は、きっと児玉瓦ですね。
 その近くにあったのが「久米六の井戸」。解説板によると、鎌倉時代に武蔵国を割拠した武士団、武蔵七党のひとつ児玉党の正系、久米家の館にあった井戸だそうです。当主が代々六右衛門を名乗ったので"久米六"と呼ばれたそうな。
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 そして偶然に出会えたのが、駅の近くにあった競進社模範蚕室です。切妻屋根の細長い木造平屋に、高窓が四つぴょこぴょこぴょこぴょこと乗ったユニークな建物ですが、貴重な物件なので解説を転記します。
 この蚕室は、養蚕技術の改良に一生をかけた競進社社長木村九蔵が、明治27年(1894年)に、競進社伝習所内に建てたもので、本県に数少ない産業構造物の遺構です。
 木村九蔵は、炭火の火力で蚕室の湿気を排除し、病蚕を防ぐ「一派温暖育」と称する蚕の温暖飼育法を考案した。
 この蚕室の構造は、換気に綿密な配慮がなされ、彼の考案した温暖飼育法の効果が、十分発揮できるように設計されている。
 すなわち、戸・障子の開口部を広く取り、床下に吸気口と煉瓦積の炉を設け、天井は空気が通り抜けるよう小間返しとし、高窓はロープで開閉できるようにするなどの、数々の工夫がみられる。
 この競進社流の蚕室と飼育法は、同社から巣立った多くの卒業生によって、全国に広められ、我が国の養蚕業の発展に大きく貢献した。
 こうした名もなき方々の地道な努力が、日本の近代化を支えたのですね。家に帰ったら、「ベイシー・イン・ロンドン」の「シャイニー・ストッキイング」を聴きながらグラスを傾け、その営為に思いを馳せることにしましょう。なお同様の物件として、群馬県安中に旧碓氷社事務所がありました。よろしければご一読を。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-20 07:26 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(12):児玉町旧配水塔(14.12)

 なお本文を執筆中に、写真集『給水塔』(比留間幹 リトルモア)に出会えました。私はわりと古い、あるいはユニークな造形の給水塔にこだわって訪問していますが、比留間氏は周囲の風景と一体化した給水塔を撮影されています。氏の言葉です。
 給水塔があたえる印象の中核は、唐突感と異物感、そして孤立感。予想だにしないよう大きさと形状で突如、町なかに現れるその姿は、言いようのない不条理の塊です。煙を吐く煙突の饒舌さ、灯台の持つ立ち位置や役割のわかりやすさ、送電線鉄塔のような明確な連続性もなく、ただただ違和感に溢れ唐突にそして静かにその場にあります。人々の営みの傍らに、寄り添うようにありながら、周囲に馴染むことはなく、その体躯をもてあまし、身の隠し場所どころか置き場すらおぼつかず、なすすべなく不器用にその場に立ち尽くす。それは、自らの存在にうまく馴染めず、周りや自分自身との折り合いを付けきれない者たちの鏡像であり、孤独感や絶望感などのうずたかき堆積物のようにすら見えてくるのです。
 夕暮れの給水塔。日中の光の下、異物感に溢れていた姿が黄昏の中で風景へと溶け出すその一瞬。なぜか強い懐かしさ、郷愁にも似た感情が沸いてきます。うまくは説明出来ないその理由の中にこそ、人を引きつけて離さない何かが潜んでいるはずです。
 なるほどねえ、周囲に馴染めない孤高の巨躯か、そういう見方もできるのですね。言い得て妙です。私もこれからは、周囲の光景を含めて撮影をしようと思います。
 なお、本書では給水塔の写真を撮り続けた先駆者として、ベッヒャーという名前が挙げられていました。ほんとに勉強不足ですね、あわててインターネットで調べてみると、近代産業の遺物的な建造物写真を撮ったベルント・ベッヒャーとヒラ・ベッヒャーという夫婦カメラマンのことでした。二人の薫陶を受けた一群の写真家たちを、ベッヒャー派と言うそうです。給水塔マニアとしては食指が動きます。「セブンネットショッピング」で調べてみたら、残念ながら絶版。「日本の古本屋」で検索したところ…ありました。お値段は13,000円。うーむ、ちょっと値が張るなあ。でも誰かが"給料の二割は本に使え"と言っていたしなあ。いま思案中です。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-18 06:29 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(11):浄眼寺(14.12)

 寄居駅から持参した地図を片手に十数分歩くと浄眼寺に着きました。三門の近くにに無縁仏が集められていましたが、そこに「鮮覚悟道信士」という戒名だけが刻まれた小さな墓石がありました。
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合掌

 ただその由来などは一切記されておりません。もしご存知の方がおられましたら、ぜひご教示を乞いたいと思います。

 もう一つのお目当ては児玉町旧配水塔です。途中に珍しい透かしブロックがあったので撮影。また「はにぽん」という本庄市のゆるキャラがありました。今調べてみると、市内の遺跡で発掘された「笑う盾持人物埴輪」と本庄市の「ほん」を合わせて命名されたそうです。
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 浄眼寺から歩いて十分ほどのところに配水塔が屹立していました。解説板があったので転記します。
 本庄市児玉町の市街地域は扇状地地形のため生活用水が潤沢ではなく、近代水道の敷設は永年の悲願であった。この旧配水塔は、昭和3年(1928年)に着工され昭和6年(1931年)に竣工した埼玉県内で三番目につくられた近代水道施設の配水施設である。
 配水塔の構造は、隣接地に配置された地下の集水池から塔一階に設置されたポンプによって配水塔の上方の貯水槽に揚水し、自然流下の方式で各戸へ配水するものであった。この配水塔は、ドーム形天井をもつ高さ17.7メートルの筒型の建造物であり、給水人口5000人に供給する目的で設計された。現在はその役割を終え児玉地域の近代化のシンボルとして親しまれている。
 円形の窓が縦に連続して並ぶ、なかなかモダンな造形でした。町のランドマークとしてきっと、住民の方々にとっては忘れられない建築だったことと思います。文化財として保存した行政の見識に敬意を表します。解体する費用がなかっただけかもしれませんが。他所へ移り住み、ここに帰ってきた人はこの配水塔を見上げて、幼い日々を思い出し故郷に戻ってきたと実感するのではないでしょうか。

 本日の二枚です。
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 2016.12.6 追記 後日、『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(山田昭次 創史社)を呼んでいたところ、この碑についての由来がわかりました。引用します。
 その後、埼玉県では1932年9月30日に児玉郡児玉町(現本庄市)八幡山の浄眼寺の門の脇に児玉警察署一同によって1923年9月5日にこの地の群衆が虐殺した朝鮮人犠牲者一名、一説に二名の墓碑が建立された。墓碑正面には「鮮覚悟道信士」と戒名が刻まれているが、被葬者が朝鮮人であることは示されていない。(p.209)

by sabasaba13 | 2016-11-17 06:29 | 関東 | Comments(0)