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虐殺行脚 埼玉・群馬編(36):結語(14.12)

 というわけで、朝鮮人虐殺行脚、埼玉・群馬編、一巻の終わりです。この旅をしたのは2014年12月のことです。なぜ普通の人びとが、大震災によるパニック、警察・軍隊・行政によるある種の煽動があったにせよ、罪なき朝鮮や中国の人びと、社会主義や労働運動家、場合によっては一般の日本人さえをも虐殺したのか。その全容を解明する努力を国家権力はしたのか、その責任をだれがとったのか、そしてその原因を究明し臓腑を抉るような反省とともに再発を防ぐ努力を私たちはしてきたのか。若者たちにこの歴史的事実をきちんと伝え、考えてもらおうとしてきたのか。私から見れば、いずれの場合においても不十分な姿勢だと思います。一例を挙げましょう。受験生御用達の『詳説 日本史B』(笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 山川出版社)における、当該の記述は下記のものです。
 関東大震災後におきた朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に類をみないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識がったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者10人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。(p.331)
 何ともはや、歯に衣を着せてオブラートに包んで釉薬をかけて焼き上げたようなもどかしい説明です。"例外的とは言い切れない規模"? 何を、誰を恐れて、山川出版社はこのような腰の引けた表現を使っているのでしょう。そしてここには流言蜚語のきっかけとなった警察・軍・行政の行為や、殺人に対する反省のない犯人たち、それを庇いだてする地域共同体、そして刑事責任を有耶無耶にする司法当局などについても一切ふれられていません。二度と繰り返さないためにも、そこが重要なのにもかかわらず。過去を記憶しない者は、過去をふたたび生きねばならぬ(ジョージ・サンタヤーナ)、私たちはこの忌まわしい過去をふたたび生きねばならないのでしょうか。嫌だ。
 というわけで、この問題については、旅が終わった後も関連の書籍を読み続けてきました。また朝鮮人虐殺の慰霊碑などが、神奈川県・千葉県・東京都にもいくつかあるので、それも訪れたいと考えてきました。後者に関しては、今年の九月にほぼ実現することができました。この後、神奈川編・千葉編・東京編を上梓して、最後にまとめ、関連の資料と自分なりの意見を開陳したいと思います。もうしばらくお付き合いください。
by sabasaba13 | 2016-12-31 06:41 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(35):本庄(14.12)

 それでは帰郷しましょう。駅へ向かう途中にあった恰幅のよい重厚な倉庫が、旧本庄商業銀行倉庫(現ローヤル洋菓子店)です。解説板を転記します。
 この建物は、明治二十九年に建設された旧本庄商業銀行の寄棟瓦葺二階建の煉瓦造の倉庫です。かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。
 この建物は、明治二十七年に開業した本庄商業銀行で、融資の担保となった大量の繭を補完するために建てられました。絹産業が盛んであった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。
 この建物は、屋根をキングポストトラスで支え、鉄扉を備えた窓には、繭を保管するために通気性を配慮して漆喰板戸を網戸が併置され、床下にも鋳鉄製の枠を備えた通気口を設けています。壁面には、深谷の日本煉瓦製造の煉瓦が用いられ、当時一流の技師の設計による明治期を代表する近代的な建造物です。
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 ある靴屋さんの店頭には「東中学指定靴」「南中学指定靴」「西中学指定靴」という貼り紙がありましたが、万人が抱く疑問として北中学校はなぜないのでしょう? 本庄駅の近くには、大きな通気口が二つ屋根にある蚕室らしき物件や、立派な煉瓦造りのお宅がありました。なお本庄には「つみっこ」というご当地B級グルメがあるそうです。養蚕・機織りが盛んだった本庄市で、仕事の合間に食べられた地粉と地元野菜を使った「すいとん」です。「つみっこ」の呼び名は、養蚕の仕事である桑の葉を摘み取る様子と、小麦粉を練ったものを手で「つみとる」ようにちぎって鍋に入れたことを言い表した本庄地方の方言とのこと。残念ながら、食べさせてくれそうなおお店は見当たりませんでした。駅前の「カフェOB」で珈琲をいただいて、高崎線に乗って帰郷しました。
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by sabasaba13 | 2016-12-30 07:36 | 関東 | Comments(0)

言葉の花綵150

 人間を信頼することで、初めて公共的領域への冒険が可能になる。(カール・ヤスパース)

 あいつらは他の人間より劣っていると思われている。それを忘れるためには、見下げる相手が必要なんだ。(『MASTERキートン』)

 負けの数が多いほど勝った時の喜びは大きいんだ。(『MASTERキートン』)

 富とは、一人の者の手に帰した多数の者の貯蓄である。(ユージーン・デブズ)

 私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。(『ハンナ・アーレント』)

 敗れた大義はカトーを喜ばせる。(ハンナ・アーレント)

 彼女は理解するために書く。(矢野久美子)

 都市は変わってもいいが/あんたが変わるのは許さない/石には話しかけるが/あんたのことは殺そうと思う/あんたは生きてはならない/どんな嘘を信じるはめになるにせよ/あんたが過去に存在したことはあってはならない (ベルトルト・ブレヒト)

 堅固なものを打ち負かそうとする者は、親切である機会を見逃してはならない。(ヴァルター・ベンヤミン)

 どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる。(アイザック・ディネセン)

 暗い時代に そこでも歌は歌われるだろうか 歌われる 暗い時代について (ベルトルト・ブレヒト)

 もしわれわれが、自分の価値観に従い自分の経験に即して立ち上がらず、自分の確信や感情を犠牲にして、全体主義的制度への協力を一歩踏み出してしまうならば、協力するたびにさらにきつくなる網の目に捉えられてしまい、ついにはそこから自由になることができなくなってしまうのである。(ブルーノ・ペテルハイム)

 独りでいるときこそもっとも独りでない。(カトー)
by sabasaba13 | 2016-12-28 06:14 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『韓国現代史』

 関東大震災時の朝鮮人虐殺についてずっと追いかけていますが、ふと立ち止まると、朝鮮の歴史についてあまりに無知なことに気づき愕然としました。いかんいかん、すこし勉強しなければ。というわけで手に取ったのが『韓国現代史』(文京洙[ムンギョンス] 岩波新書984)です。

 日本による植民地支配からの解放(光復)、米ソによる南北分断と済州島4・3事件、李承晩による独裁、朝鮮戦争、学生と市民のデモで李承晩政権を倒すも(4・19革命)、朴正熙によるクーデターで軍事政権が成立。彼が射殺されて民主化(ソウルの春)への期待がふくらみますが、全斗煥による5・17クーデターが成功。民主化運動が沈黙を余儀なくされるなか、唯一この新軍部政権に抗議して立ち上がったのが光州の市民・学生ですが、アメリカの協力のもと全斗煥政権は武力でこの動きを鎮圧します(光州事件)。これに関して、文氏はこう述べられています。
 だが、光州事件は、この学生運動にとっても骨身にしみる体験であった。光州の悲劇は、体験者の口コミや運動歌謡「ニムの行進曲」などを通じて外部にも伝えられた。そうした体験談や目撃談を伝えきいて、「憤怒して涙を流し、社会の現実に無知であった自身を恥じ、また罪責感にさいなまれ、学生運動に参画していった者も数知れない」(真鍋祐子 『光州事件で読む現代韓国』)という。(p.156)
 そして1987年、民衆デモの巨大なうねりがこの新軍部政権を力でねじふせます(六月民主抗争)。全斗煥を退陣に追い込んだのですが、新憲法下での大統領選挙で民主化勢力は候補者を一本化できず(金大中・金泳三)、軍部の盧泰愚が当選します。しかし多数派を制した野党が国政調査権を発動、政財界の有力者を聴聞会に召喚し、新軍部政権期の不正や人権弾圧を次々と暴いたのです。これが盧泰愚政権の息の根を止め、三十年ぶりの文民政権・金泳三政権が誕生しました。その後、金大中政権を経て、韓国の宿痾とも言うべき地域主義と、保守勢力の打破を掲げて盧武鉉が大統領選に立候補します。ネティズン(インターネット+市民)と呼ばれる若い有権者の支持を得ますが、やがて日韓共催W杯の熱気によって、人びとの政治に対する関心が冷え切っていきます。ところが…
 (※2002年)11月、米軍事法廷の下したある無罪判決がネティズンたちを激怒させ、数万の市民の反米蝋燭デモが全国の主要都市で繰り返された。五カ月前に女子中学生二人が米軍装甲車によって轢死する事件があり、米軍は駐韓米軍地位協定(SOFA)を盾に加害米兵の引渡しを拒んで米軍軍事法廷に処分を委ねていたのである。W杯から蝋燭デモへと、ネティズンたちの気分は、もう一度政治へと傾き、投票日を間近にひかえて盧風(ノブン)が猛烈な勢いで再燃した。(p.204~5)
 こうして盧武鉉が大統領に当選。彼は、強い意志をもって韓国が犯してきた過ちの清算に乗り出し、民主主義を進化させていきます。2005年の光復節(クァンボクチョル)(8月15日)、この解放六十年の記念すべき式典で盧武鉉大統領は演説し、過去清算について次のように述べています。
 「国民に対する国家機関の不法行為によって国家の道徳性と信頼が大きく毀損されました。国家は自ら率先して真相を明らかにし、謝罪し、賠償や補償の責任を尽さなければならないでしょう。(中略)国家権力を乱用し、国民の人権と民主的基本秩序を侵害した犯罪に対しては、そしてこのために人権を侵害された人びとの賠償と補償については、民・刑事の時効の適用を排除したり、適切に調整したりする法律をつくらなければなりません」 (p.214~5)
 そして2004年の韓国国会は、過去清算に関する立法のラッシュとなりました。朝鮮戦争の民間人虐殺の被害者救済にかかわる法律、植民地期の強制連行などにかかわる特別法、さらになんと一世紀以上前の甲午農民戦争に関する特別立法、植民地期における親日反民族的行為を究明する特別法などが次々と制定されました。そしてこうした特別法を総括する母法として、植民地期から軍事政権期にいたるすべての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を効率的に実施できるような特別法(真実・和解のための過去事整理基本法)が成立します。(p.215~6) こうした動きに反発する野党勢力(ハンナラ党)も強かったのですが…
 ところが、2005年の3~4月におきた思わぬ事態が法案成立の追い風となった。島根県議会の「竹島の日」条例案の採択や、扶桑社の歴史教科書問題をめぐって対日批判の機運が盛り上がったのである。過去を忘れ去ろうとする日本人・日本社会のあり方がいわば「反面教師」となって、韓国人の過去に向き合おうとする意識があらためて喚起され、ハンナラ党もそういう機運におされて譲歩する以外になかった。(p.217)
 しかし反対勢力は、不正な選挙運動・側近の不正などを理由に、国会において大統領弾劾訴追案を可決させます。しかし世論はこの弾劾に激しく反発。
 こうして、弾劾反対の世論を主導したのは、国会に長年巣くいながら有権者不在の派閥争いや不正に明け暮れてきた政治家たちに対する、まったく未組織のネティズンたちの積もり積もった怒りであった。それは、インターネット時代における直接民主主義の新しい可能性を示したともいえる。(p.222)
 弾劾の当否を問うかたちとなった2004年の総選挙では、盧武鉉とウリ党を支持するネティズンたちが活発な活動を行ないました。インターネットによる情報発信、大規模なデモや集会、落選運動や選挙監視、さらにじかに候補を擁立するなどの運動を追い風にして、ウリ党は圧勝。これをもって事実上の大統領信任と見なされ、さらに憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却されました。
 さらにこの総選挙ではドラスティックな国会の刷新が実現します。議員の63%が新人に入れ替わり、国会の八割が新人と二選の議員で占められました。87年の民主化以前からの国会議員は一人のみとなり、多選議員のボスが党運営を牛耳って党改革の足を引っ張るといった構造は大きく払拭されます。そして70~80年代に街頭で民主化運動をたたかった世代が大半を占める形となりました。

 そして今、韓国市民はまた立ち上がり、朴槿恵大統領を退陣へと追い込みました。

 著者の文京洙氏は、最後にこう述べられています。
 市民社会が幼弱だった70年代までの韓国では、反共と開発を掲げた「強い国家」のもとで学生や市民による自発的な協働は、いともたやすく捻じ曲げられたり捻じ伏せられたりしてきた。だが、70年代以降の民主化過程で韓国社会は実に豊かにこの下からの自発的な協働に発する組織や運動団体(アソシエーション)をはぐくんできた。それは、「強い国家」の時代から「強い市民社会」のそれへの転換であったと言い換えることもできる。韓国のサイバー空間が一方的な中傷や誹謗、差別表現や人身攻撃の場に堕することなく、市民参加や水平的な討議の手段となりえたのも、基本的にはインターネットの普及がそういう市民社会の成長の時代と軌をいつにしていたからであろう。
 市民社会の強さとは、互いに異なる立場や見解をもつ実に多様な集団や個人どうしの尽くされた討議や対話を前提としている。(p.229)
 韓国の現代史を理解するためのキーワードが、「強い市民社会」であると痛感しました。文氏の言を借りれば、"多様な考え方や主張が対等で開かれた討議や対話を通して問題解決に貢献しようとするときの場やルールをいかに確保するのか"ということです。(p.233) そして「強い市民社会」を闘いによって自らの力で勝ち取った韓国の市民、心の底から尊敬します。その不撓不屈の闘いを支えたものは何か。まずは、引用文の中にあるように、"憤怒""激怒""怒り"です。義憤と公憤。自国他国を問わず、国家権力による人権侵害や市民社会への攻撃に対して、きちっと怒ってきたこと。そして植民地期には日本によって、戦後は軍部政権によって、言語に絶するような人権侵害・虐殺・弾圧を受けてきたこと。国家権力に対する不信感・警戒感と、市民社会に対する不信感が、市民の心根にしっかりと根づいているのではないでしょうか。

 できればしたくはないのですが、わが日本と比較しましょう。米兵の犯罪に激怒した韓国市民、怒らない日本国民。パチンコを全廃させた韓国市民、カジノ法案を成立させてしまった日本国民。反民主的な大統領を何度もやめさせてきた韓国市民、「他の首相より良さそう」という理由で安倍伍長政権を六割が支持する日本国民。国家の犯した犯罪や過ちを究明し謝罪し補償しようとする韓国政府とそれを後押しする市民、それを隠蔽する日本政府とそれを支持する、あるいは無知・無関心な国民市民社会を守るために怒り闘ってきた韓国市民、市民社会を守ろうとしない日本国民。怒る韓国市民、怒らない日本国民。
 その絶望的な懸隔には目が眩みます。それにしてもなぜこのような状況になってしましったのか。歴史に学びましょう。『永続敗戦論』(太田出版)の中で、白井聡氏はこう述べられています。
 戦後のある時期までの台湾や韓国の政治体制の抑圧性は、言ってみれば、日本において「デモクラシーごっこ」が成り立つための条件であった。ここに浮かび上がるのは、敗戦による罰を二重三重に逃れてきた戦後日本の姿である。実行されなかった本土決戦、第一次世界大戦におけるドイツに対する戦後処理の失敗の反省の上に立った寛大な賠償、一部の軍部指導者に限られた戦争責任追及、比較的速やかな経済再建とそれに引き続いた驚異的な成長、かつての植民地諸国に暴力的政治体制の役回りを引き受けさせた上でのデモクラシー、沖縄の要塞化、そして「国体の護持」…。冷戦構造という最も大局的な構図に規定されることによって、これらすべての要素が、「日本は第二次世界大戦の敗戦国である」という単純な事実を覆い隠してきた。(p.42)

 付記。韓国の軍部政権を日本政府が支えてきたことも絶対に忘れないようにしましょう。例えば、1982年末に登場した中曽根政権は、韓米日の新次元での安保協力関係の構築に意欲を燃やし、40億ドルの借款供与によって全斗煥政権を支えました。(p.154)

 付記その二。朴槿恵大統領は、朴正熙の娘さんだったのですね。
by sabasaba13 | 2016-12-27 06:28 | | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(34):本庄(14.12)

 なお警察署の付帯施設として小さな木造の人民控所が残されているのは珍しい。警察署を所用で訪れた人たちがここで待たされたそうです。資料館の前には田村本陣の正門が保存されていました。
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 それでは古い橋梁である賀美橋と寺坂橋を拝見しに行きましょう。地図を片手に十数分歩いてまず賀美橋を見つけました。竣工は1926(大正15/昭和1)年、伊勢崎と本庄を結ぶ伊勢崎新道に架けられた橋で、高欄の白タイル貼の連続アーチが洒落ています。
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 寺坂橋は1889(明治22)年につくられた石橋で、関東地方に数少ない明治期建設の石橋の一つだそうです。
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 近くにあった若泉公園の入り口に、「世紀の思想家 石川三四郎翁文学碑入口」という標識があったので、後学のために寄ってみました。園内には「私は何時も 永遠を 思ふが故に 時間を限った 世業を願はない」という言葉や、事績を刻んだ記念碑がありました。「児玉の四季の散歩道」というサイトから引用します。
 石川三四郎は本庄市出身の社会思想家、アナキスト、作家。
 石川三四郎は明治9年(1876)に埼玉県児玉郡山王堂村(本庄市)の五十嵐家の三男として生まれる。幼い頃、村内の石川半三郎の養子となる。明治23年(1890)、14才で上京して、哲学館(東洋大)に入学するが、世話になっていた栃木の福田友作(自民党員)が窮乏に陥った為、帰郷する。石川三四郎は、明治30年(1899)に再上京して、東京法学院(中央大)へ21才で入学する。明治34年(1901)に卒業する。卒業後、キリスト教の洗礼を受けている。明治36年(1903)に幸徳秋水が平民社を開くと入社し、「平民新聞」に多くの論説を発表する。明治39年に、石川三四郎が足尾鉱毒事件で谷中村を訪問したことから、田中正造http://sabasaba13.exblog.jp/19838649との関係が始まる。大正2年(1913)に37才の時、第一次世界大戦前にヨーロッパに渡る。大正9年(1920)に終戦後に帰国する。昭和2年(1927)には世田谷区(千歳村)で農業を始める。農業をしながら、作品を出していた。昭和8年(1933)には「近世土民哲学」を出している。昭和14年~昭和17年(1942)には、東洋文化史-百講の上、下巻を出している。昭和21年(1946)には、「社会美学としての無政府主義」など、数多くの著書がある。昭和31年(1956)没、80才。
 いつかは読んでみたいと思いながらも、彼の著作を手にしたことはありません。これを機に挑戦してみようかな。なお拙ブログに、田中正造と石川三四郎が見上げた榎、三四郎の友人・内山愚童の言葉についての記事がありますので、よろしければご笑覧ください。また先日読み終えた『ある弁護士の生涯 -布施辰治-』(布施柑治 岩波新書)の中に、彼の名前が出てきました。
 七月二十日、F氏の出獄記念会を機会に"自由懇談会"ができた。会員は蔵原惟郭、石川三四郎、水野広徳、三木清、秋田雨雀、高津正道、加藤勘十、F氏、その他だった。翌月、自由懇談会を母胎に"極東平和友の会"ができた。(p.85)
 旅をすること、本を読むことの喜びのひとつは、こうしてさまざまな人・事件・場所がつながって歴史が立体的に見えてくることですね。
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by sabasaba13 | 2016-12-25 08:24 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(33):本庄(14.12)

 それでは歴史民俗資料館へと向かいましょう。途中にあった商店のシャッターには、「本庄の偉人 盲目の国学者 塙保己一 世のため後のため」と記されていました。本庄仲町郵便局は、竣工が1934(昭和9)年。外壁をタイル貼とした特異な外観だそうですが、残念ながら大幅な改修のために見えなくなっていました。
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 そして本庄市立歴史民俗博物館に着きました。1883(明治16)年に本庄警察署として建てられた、この地方で初めての本格的な洋風公共建造物です。1935(昭和10)年まで利用されていたので、暴徒たちが取り囲み、なだれ込み、破壊したのがここなのですね。それでは中に入って見学をしましょう。土器や埴輪、本陣関係の資料、および虐殺に関する展示がありました。事件に関する公判の展示が興味深かったので転記します。
公判日割
本庄事件大正十二年十月二十五日 午後九時
裁判長 陪席判事 大中裁判長
検事 根本 下山 今
辯護士 宮崎一 小島周一 高橋泰雄 卜部?太郎
場所 浦和地方裁判所 一号法廷
被告のことば
・かたきをうつつもりで四十五人殺した。
・にくいと思い。
・やれやれと言った。
・フテイ野郎だから。
・当時は名誉だと思ってやった。
 殺した理由が、「やれやれと言った」であるというのはどういうことなのでしょう。ひとつの仮説として、助かりそうになった朝鮮人の方が安堵の思いで発した「やれやれ」という言葉で激情し、殺害したのでしょうか。実は『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)にこういう逸話が記されていました。埼玉県大里郡妻沼町で、ある日本人が朝鮮人と間違われて殺されそうになりました。やっと誤解が解けて助かりそうになった時に、思わず両手をあげて「バンザイ」と叫んだそうです。すると殺気立っていた群衆は、その態度に反感をいだき「バンザイとは何事だ。生意気だ、殺してしまえ」と殺害してしまいました。(p.186~7) うーむ、もしかすると彼ら暴徒は、誰でも、どんなささいなきっかけでも、とにかく鬱憤をはらすために暴力をふるいたかった、人を殺したかったのかもしれません。
 「フテイ野郎だから」という理由も興味深い。「勝手に振る舞う・道義に従わない」という「不逞」の意味(大辞林)を知らずに、周囲に付和雷同して殺害した可能性があります。まわりが「フテイ」というレッテルをはりつけた人間は殺してもかまわない、ということなのでしょうか。当時の人々の底無しの深淵を覗き込んだような気がします。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-12-24 06:43 | 関東 | Comments(0)

『シーモアさんと、大人のための人生入門』

c0051620_6302662.jpg 根津美術館で応挙展を見た後、いったん自宅に戻り、山ノ神と合流して渋谷に向かいました。そして渋谷アップリンクで映画『シーモアさんと、大人のための人生入門』を鑑賞。パンフレットから引用します。
 人生の折り返し地点--アーティストとして、一人の人間として行き詰まりを感じていたイーサン・ホークは、ある夕食会で当時84歳のピアノ教師、シーモア・バーンスタインと出会う。たちまち安心感に包まれ、シーモアと彼のピアノに魅了されたイーサンは、彼のドキュメンタリー映画を撮ろうと決める。
 シーモアは、50歳でコンサート・ピアニストとしての活動に終止符を打ち、以後の人生を「教える」ことに捧げてきた。ピアニストとしての成功、朝鮮戦争従軍中のつらい記憶、そして、演奏会にまつわる不安や恐怖の思い出。決して平坦ではなかった人生を、シーモアは美しいピアノの調べとともに語る。彼のあたたかく繊細な言葉は、すべてを包み込むように、私たちの心を豊かな場所へと導いてくれる。
 賞賛につつまれたコンサート・ピアニストとしての地位を投げ捨て、後半生を一介のピアノ教師として生きているシーモア・バーンスタインを描いたドキュメンタリー映画です。彼の日常生活、監督や知人との会話、レッスン風景を軸に、音楽の素晴らしさと人間や人生の崇高さを訥々と語るその姿、そして慈愛にあふれた微笑みにすっかり魅了されました。パンフレットに掲載されていたその言葉をいくつか紹介します。
 じぶんの心と向き合うこと、シンプルに生きること、成功したい気持ちを手放すこと。積み重ねることで、人生は充実する。

 音楽に対する最初の反応は、知的な分析なしに起こる。たとえば才能豊かな子供は、音楽の構造的なことや背景を知らずとも、音楽をとても深く理解できる。こうした無知さには、大人も学ぶことがある。だからこそ練習の時は、過剰な分析を避けるべきだ。そして音楽そのものの美が現れるままにする。さらに自分も、その美に感化されるままにする。禅の思想家は言った。"菊を描く者がすべきことは、自身が菊になるまで10年間、菊を眺めることだ"

 音楽の教師が生徒にできる最善のことは、生徒を鼓舞し 感情的な反応を引き出させること。音楽のためばかりではない。人生のあらゆる場面で、重要なことだから。

 誰もが皆、人生に幸せをもたらすゆるぎない何かを探している。聖書に書いてある――救いの神は我々の中にいると。私は神ではなく、霊的源泉と呼びたい。大半の人は、内なる源泉を利用する方法を知らない。宗教が腹立たしいのは、答えは"我々の中にはない"と思わせていること。答えは神にあると。だから皆、神に救いを求めようとするが、救いは我々の中にあると私は固く信じている。

 音楽を通じて、我々も星のように永遠の存在になれる。音楽は悩み多き世に調和しつつ、語りかける-孤独や不満をかき消しながら。音楽は心の奥にある普遍的真理、つまり感情や思考の底にある真理に気づかせてくれる手段なのだ。音楽は一切の妥協を許さず、言い訳やごまかしも受けつけない。そして、中途半端な努力も。音楽は我々を映す鏡と言える。音楽は我々に完璧を目指す力が備わっていると教えてくれる。

 音楽に情熱を感じていたり、楽器を練習する理由を理解していたりすれば、音楽家としての自分と普段の自分を、深いレベルで一体化させることが必ずできる。するとやがて音楽と人生は相互に作用し、果てしない充実感に満たされる。
 そしてクライマックスは、イーサン・ホーク監督の依頼で35年ぶりに開かれた演奏会です。スタインウェイ社の地下室でほんとうに嬉しそうにピアノを選ぶシーモアさんの姿を見ていると、ああ本当にこの人は音楽を愛しているのだなと感じ入ります。そして友人や知人、教え子が集まったアット・ホームな演奏会が、ガラス窓の向こうに行き交う人や車が見えるスタインウェイ社の小さなホールで開かれます。曲目はブラームスの『間奏曲イ長調 Op.118 №2』と、シューマンの『幻想曲第3楽章』。特に後者は、曲とシーモアさんが渾然一体となった滋味あふれる素晴らしい演奏でした。その演奏とともに、いろいろな国・地域の人々がいろいろな音楽を楽しんでいるシーンが次々と映し出されると、もう私の涙腺は決壊寸前。
 音楽の、そして人間の素晴らしさをあらためて教えてくれた映画です。シーモアさん、ありがとう。

 なおパンフレットに、教え子である大木裕子さんが、ピアノ教師としての彼についてこう書かれています。
 一度、私は彼に、「生徒によく伝えるためには、どういう教え方が良いのであろうか?」と問うたことがある。彼の答えは「誘導尋問することだ」だった。「結論的に、こういうものだと教えると、すぐに良くなったとしても、本当にその人のものにはならない。その人が一つ一つ考えを積み立てていって結論に達したと思えたとき、元は誰の考えであったとしても、そこに至る過程を自分で踏んでいるので、自分のものとして残る」と。
 もう一つの質問。「教えることと自身が演奏することの違いは?」という問いに、彼はこう答える。「要は同じ。但し、長い年月をかけて見出したことを、自分だけでやっていれば、一つの花しか咲かないが、同じことを生徒たちに伝えれば、いろいろな色の様々な花が咲く。自分にも必要な栄養を他の花にも注げば、美しい花で辺りは一杯になる」と。
 これは日本の、いや世界中のすべての先生に銘肝していただきたい言葉です。花は自ら育つ力を持ち、教師は自分にも必要な栄養を与えるだけ。そしていろいろな花を咲かせることによって、世界をより美しくする、それがシーモアさんの考える教育観なのでしょう。子どもたちを盆栽のように変形しねじまげ、国家権力や企業のために有意な人材につくりあげようとしているどこかの国の教育との何たる違い。

 余談です。映画の中で、シーモアさんが朝鮮戦争に従軍し、ピアニストとして慰問をする場面がありましたが、彼は涙ぐんでいました。いったい朝鮮で何を見てどういう体験をしたのでしょう。多くを語らないだけに気になるところです。すっかり忘れられた戦争ですが、決して忘れてはいけない戦争だと思います。『転換期の日本へ』(ガバン・マコーミック NHK出版新書)の中に、重要な指摘があったので紹介します。
 朝鮮戦争は夥しい残虐行為の修羅場でした。長いあいだ、北朝鮮によるものだとされてきた朝鮮戦争でのもっとも凶悪な行為の多くはいわゆる「国連軍」が関与したものでした。韓国政府による近年の調査によって、戦争初年のおよそ十万人の人々が韓国軍、米軍、国連軍によって殺されたことが明らかになっています。国連軍としては、国連の旗を掲げ、戦場へ赴いた最初にして唯一の戦いでした。米国主導の国連軍は制空権を握り、その空爆は情け容赦なく、しばしば無差別で、それはウィンストン・チャーチルが、民間人を標的にバラ撒くナパーム弾の使用に反対し抗議したほどです。米空軍は、第二次大戦の時、日本の都市へ投下したよりもずっと多くの爆弾を北朝鮮に投下しました。米空軍は、日本の主要都市の約40%を破壊し、50万人の人びとを殺戮したのですが、日本と朝鮮半島双方への爆撃の立案者であるカーティス・ルメイ将軍によれば、米空軍は朝鮮半島で「三年余りにわたって…北朝鮮と韓国のあらゆる街々を焼き払った」といいます。作戦に従事したパイロットたちは、もう爆撃する街など残っていなかった、と訴えています。空爆による死者は少なくとも300万人か400万人で、そのうち少なくとも200万人は北朝鮮市民でした。
 戦争の後半になって米空軍は、パニック状態を作りだし、北朝鮮の人々を兵糧攻めにするためにダムを爆撃しました。ナチスが第二次大戦で実行した時、それは、はっきり戦争犯罪として罰せられた行為でした。さらに米国政府は、戦争の早い段階から核兵器使用を振りかざして脅迫したのです。(中略) 核兵器に対して北朝鮮が持つ強迫観念はこの時に始まったのです。
 (中略) 北朝鮮研究者のあいだでは、同国は「ハリネズミ国家」である、というのが大方の見方です。韓国、日本、米国という圧倒的に強力な敵を向こうにまわして、恐怖と同時に近寄ればどんな目に遭わせるかわからないぞと、恐ろしいうなり声をあげて断固立ち向かう決意を示し、体じゅうの針をピンと立てている状態です。(p.267~9)

by sabasaba13 | 2016-12-22 06:30 | 映画 | Comments(0)

円山応挙展

c0051620_6352562.jpg NHKの「日曜美術館」で、円山応挙展が根津美術館で開催されていることを知りました。円山応挙(1733‐95)、伊藤若冲(1716‐1800)とほぼ同時代人ですが、彼の奇想と華麗に比してやや影が薄い存在です。私も「写生」の絵師という単純なイメージしか持っていませんでした。しかし番組を見て、そう一筋縄ではいかない絵師であることを知り、一日休暇がとれた先日の土曜日に行ってきました。なお山ノ神は仕事のために同行できず、臍を噛んでおりました。ほぞほぞ。夜、渋谷に映画を見にいこうと誘って慰めましたが。
 まずは『カラー版 日本美術史』(監修:辻惟雄 美術出版社)から、応挙についての解説を引用します。
 江戸中期の絵画様式のなかでいまひとつ特筆すべきものに、写生画がある。この写生画の場合、京坂と江戸では様相を異にしている。京坂の場合、どちらかといえば中国的写生画の傾向を多くもり、江戸は洋風写生画の影響をより多く受けた。
 京坂の写生画は円山応挙が基礎を形づくった。応挙は丹波国で生まれ、京に出て、初め眼鏡絵制作にたずさわり、石田幽汀に就いて狩野派を学んだりもするが、滋賀の円満院門主祐常の知遇を得る頃から、新しい写生画風に目ざめた。応挙の絵画は単に事物を写実的に描くというのではなく、いったんそれを我身に引き入れて、堅固な構図のなかに構成し直すのである。雪松図屏風や、藤花図屏風を見れば、そのことは明らかであろう。応挙のこの画風は表面上は平明に見えることもあって、京都中の様々の階層から圧倒的な支持を受けることとなり、狩野家や土佐家を上回る勢力を有するようにもなった。円山派はかくして一大画派となるのだが、その運命は皮肉にも狩野派の場合と酷似しており、弟子たちは応挙の祖述にいそしむばかりで、応挙を越えようとする意志は初めからなかったといってよい。(p.141~2)
 半蔵門線の表参道駅でおりて、十分ほど歩くと根津美術館に到着。思えば、大学生の時に光琳の「燕子花図屏風」を見にきて以来の来館です。竹をあしらった洒落たプロムナードを抜け入口に着くと、それほどの混雑ではないので一安心。
 まず眼を魅かれたのが「藤花図屏風」です。華麗かつ精緻に描かれた藤の花房、「付立て」という技法で一気に筆で引かれた幹、その密と粗の対照が面白いですね。そして背景は何も描かれていない総金地。装飾的な幹と背景、写生的な花房、それらをまとめあげる絶妙の構図。しばし見惚れてしまいました。
 一転、「雲龍図屏風」では、朦朧とした大気をダイナミックに引き裂いてのたうちまわる二匹の龍が描かれています。空想の聖獣を見事に描きあげたその迫力ある筆致に、「応挙=写生」という私の先入観は木っ端微塵に打ち砕かれました。特に右隻の龍は、胴の太さを微妙に描き分けることによって奥行きと動きを表現しています。
 「藤花狗子図」は愛らしい小品です。単なる"写実"でしたら猫好き犬嫌いの小生としては鼻もひっかけないでしょうが、その私が思わず頬ずりをして肉球を瞼に触れさせたくなるような可愛さです。これが"写生"ということなのかもしれません。
 「三井春暁図」は霞にかすむ三井寺を描いた風景画。とは言っても肝心のお寺さんはほとんど見えず、奇妙な言い方ですが、春霞がまるで生きているように蠢き風景をつつみこんでいます。そう、この絵の主人公は霞なのですね。空気を生きているかのように描く、これも応挙の"写生"なのかもしれません。
 圧巻は「写生図巻」、実物写生を清書した作品ですが、これぞ応挙の真骨頂。鳥、昆虫、植物などを精緻に生き生きと描いたスケッチ群です。中でも、何の変哲もない一枚の細長い草の葉をくりかえしくりかえし描いたスケッチが心に残りました。実はこの後に見に行った『シーモアさんと、大人のための人生入門』という映画の中で、このような科白がありました。
 自分も、その美に感化されるままにする。禅の思想家は言った。"菊を描く者がすべきことは、自身が菊になるまで10年間、菊を眺めることだ"
 きっと応挙は、その10年間を何分かに濃密に凝縮して眺め、対象の美を見出し、その美に感化されたのではないかと想像します。
 上階にあがると『七難七福図巻』が展示されていました。経典に説かれる七難と七福をリアルに描くことで、仏神への信仰心と善行をうながす目的で制作された絵巻だそうです。牛を使った股裂きの刑など正視に耐えないグロテスクな絵も多いのですが、荒れ狂う自然の猛威と逃げ惑う人々の恐怖を冷徹に描いた作品は印象的でした。

 というわけで、「リアルに描く」だけの画家・応挙という先入観を、心地よく打ち砕かれた展覧会でいた。さまざまな対象を(藤、子犬、龍、亀、空気…)を、さまざまな技法を駆使して、生き生きと描き、見る者の心を動かす。それが円山応挙の目指していたものかと思いました。これからも末永くおつきあいしていきたい絵師ですね。いつの日にか、ロンドンの大英博物館に行って「氷図屏風」を見たいものです。
 なお帰宅後に『新潮日本美術文庫13 円山応挙』(新潮社)を読むと、円山応挙と与謝蕪村に親交があったことを知りました。例えば、次のような蕪村の句。
筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉
 また応挙が描いた黒い子犬に、蕪村が賛の俳句をつけるというコラボレーションもあるのですね。
己が身の闇より吠えて夜半の秋
 この時期の京都は、この二人をはじめ、伊藤若冲、池大雅、曾我蕭白、長沢芦雪らが活躍していた、とてつもなく豊饒な美の都でした。

 根津美術館には、茶室が点在する池泉回遊式の広いお庭があります。展覧会を見終えた後、名残の紅葉を愛で、鳥の声・葉擦れの音に耳を傾けながらしばし散策をしました。
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by sabasaba13 | 2016-12-21 06:37 | 美術 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(32):長峰墓地(14.12)

 『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(山田昭次 創史社)によると、戦前に建立された追悼碑の碑文は「鮮人之碑」という差別的な表現だったので、在日朝鮮人の方々から納得できないという声が上がり、1959年秋に新たに建立された碑だそうです。原水爆禁止日本協議会理事長安井郁が執筆した碑文の一部には次のように記されています。
 一九二三年関東震災に際し朝鮮人が動乱を起こそうとしたとの流言により東京方面から送られてきた八十六名の朝鮮人がこの地において悲惨な最期を遂げた。我々は暗い過去への厳粛な反省と明るい未来への希望をこめてこの碑を建立し日朝友好と世界平和のために献身することを地下に眠る犠牲者に誓うものである。
 "悲惨な最期"か… さきほど訪れた神保原の安盛寺慰霊碑も同じ表現でした。"日本人が朝鮮人を虐殺した"と書きたくないのですね。なぜ過去を直視しないのでしょう。ヴァイツゼッカーが演説で "過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです"と語ったように、また同じことを繰り返しそうな悪寒を感じます。その前触れでしょうか、1999年9月7日にここ長峰無縁墓地で、この慰霊碑を囲む石柱23本の内、7本が倒されるという事件が起こりました。また碑の西側にある無縁の墓34基の内、27基が倒され、うち7基がハンマーで割られたそうです。目撃者の証言によると30代から40代の男が犯行に及んだらしいのですが、逮捕することは出来ずに時効を迎え有耶無耶となってしまいました。これほど陰湿な悪意と憎悪を、人間は持てるものなのですね。
 インターネットでいろいろと調べているうちに、もう一つ気になることがありました。本庄市のホームページで見つけたのですが、「新たに慰霊碑を建立する必要はない」という市民の意見に対して、本庄市はこう答えています。
 関東大震災における朝鮮人の虐殺事件につきましては、○○様のご紹介のとおり、毎年9月1日に、「過ちは二度と繰り返さない」ことを誓って、長峰墓地において犠牲となった人々の慰霊追悼式を行っております。また、事件の現場であります旧本庄警察署である現在の本庄市立歴史民俗資料館において、事件についての資料や写真を常設展示しているところです。
なお、この事件については、本庄市といたしましては平成7年発行の『本庄市史』通史編3において、「朝鮮人事件」として22ページにわたって、記述しており、地域住民の中にもこの悲惨な事件を制止した人々のいたことも「一連の事件に対する美談」として示し、事実は事実として、公正・中立な記述となっております。
本庄市では、この事件を史実として継承していくことが大切であると考えておりますが、事件のあった現本庄市立歴史民俗資料館敷地内への石碑建立の件につきましては、要望される方々がいらっしゃる一方、反対の立場の方々もいらっしゃいますので、充分にその対応について検討をしてまいりたいと考えております。(略)
 いずれにいたしましても、本庄市では、この石碑建立の件につきましては、公正・中立な立場で対応してまいりたいと考えておりますので、今後ともご提言ご協力を賜りますようお願い申し上げます。
 事件を記憶に留めようとする立場、留めなくてもよいという立場、事件はなかったとする立場、そうした立場から行政は等距離をとるということでしょうか。"中立"という言葉を安易に使うことに、ちょっと危ういものを感じます。メディアと違って行政には限界があるのは理解できますが、「非人間的な行為を二度と繰り返すまい」という立場、そしてそれを実現しようとする努力は放棄しないでほしいと考えます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-12-19 06:57 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(31):長峰墓地(14.12)

 神保原駅へ戻る途中で、珍しい透かしブロックと古い建物を撮影。後者は郵便局のような気もしますが確証はありません。
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 神保原駅から高崎線に乗ると、次の駅が本庄です。地図を片手に二十分ほど歩くと城立寺長峰墓地に着きました。こちらに「関東震災朝鮮人犠牲者 慰霊碑」があります。

合掌

ここ本庄では何が起きたのか。『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)から引用します。
 この両事件(※埼玉県大里郡熊谷町・児玉郡神保原町)を発端として、その後各地の自警団員らの集団暴行はさらに激化して官憲にも反抗し、警察署を襲って収容されている朝鮮人を殺害する事件も続発するようになった。
 九月四日午後八時すぎ、埼玉県警察部では朝鮮人十数名を貨物自動車に乗せて送り出し、さらに二台の貨物自動車で数十名の朝鮮人を群馬県内に向かって出発させた。貨物自動車には、自警団の検問を通過できるように「埼玉県警察部」と書き記した旗をかかげていた。
 後発の二台の貨物自動車は途中本庄警察署に到着したが、先発の貨物自動車は群馬県多野郡新町の自警団にさえぎられて群馬県内に入ることが出来ず、本庄警察署に避難してきた。
 これら三台の貨物自動車に朝鮮人多数が乗っているのを目撃した住民たちの中から、
 「朝鮮人の来襲だ」
 と叫ぶ者がいて、それはたちまち人の口から口に伝わった。
 自警団では、団員を鐘楼に駈け上らせ警鐘を乱打させた。
 夜の町に鐘の音がひびき、それを耳にした他の鐘楼でも鐘がたたかれ、本庄町とその周辺は騒然となった。そして、女子供はかたく戸をしめて家に閉じこもり、男たちは提灯を手に日本刀、シャベル、鳶口、鉄棒をもって本庄警察署附近に集まってきた。
 群衆は急激に増加してその数は三千人にも達し、警察署の周囲は、提灯の灯でうずまった。
 かれらは口々に、
 「朝鮮人を出せ」
 と、警察署員に向かって連呼し、狼狽する署員の制止をふりきって署内に乱入した。そして、貨物自動車で移送途中の朝鮮人が収容されている演武場その他に殺到した。
 群衆は、翌五日朝までに建物を鳶口等で破壊し、朝鮮人三十三名をとらえると、熊手、日本刀、鉈、鳶口、長槍等で殺害した。
 警察の非力を知った群衆は、自警団員を中心に一層凶暴化した。すでに本庄町とその周辺は無法地帯になっていて、煽動者は、バンザイ、バンザイと叫び、凶器を手に、
 「やっちまえ、やっちまえ」
 と、町の所々に集る群衆に声をかけて歩いた。
 翌六日午後、本庄警察署長村磯重蔵が帰署してきたことを知った煽動者たちは、日頃から署長に反感をいだいていたので、群衆に、
 「署長を殺してしまえ」
 と、説いて歩いた。
 群衆もこれに応じて警察署周辺に集り出し、夜に入った頃にはその数も数千名にふくれ上った。
 煽動者たちは、署長を殺し警察に放火せよと叫び、遂に午後八時頃署内に喚声をあげてなだれこんだ。
 署長はその間に逃れたが、煽動者たちは、日本刀、シャベルをふりかざして署員をおどし、署内を荒し廻った。
 警察では軍隊の派遣を乞い、それによってようやく鎮圧することが出来た。(p.176~8)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-12-18 08:12 | 関東 | Comments(0)