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虐殺行脚 千葉編(6):松尾(16.9)

 松尾駅に行き、ふと駅前にあった観光地図を見上げると成東駅からすこし離れたところに「伊藤佐千夫生家 歴史民俗資料館」がありました。生家マニアとしては寄ってみたいところですが、時間的に厳しいかな。ここからタクシーに乗って訪れるという大尽旅行も考えましたが、財布と相談して断念しました。再訪を期す。なお読書というのはほんとうに面白いもので、その後にたまたま読んだ『近代秀歌』(永田和宏 岩波新書1407)の中で、伊藤佐千夫についてふれられていました。引用します。
 牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

 伊藤左千夫は千葉県の農家に生まれたが、上京し明治法律学校(現在の明治大学)に学んだ後、明治22年(1889)、26歳のとき、牛乳搾取業を起業した。屋号が「乳牛改良社」というのは、時代性を感じさせておもしろいが、元来経営の才には恵まれていたようで、家業は順調に発展していった。
 生業だけでなく、正岡子規亡きあとの根岸短歌会を発展させ、「馬酔木」「アカネ」を経て、「アララギ」を創刊した後は、多くの若い弟子を育て、「アララギ」が近代の一大結社になっていく基礎を築いた。短歌ばかりではなく、雑誌「ホトトギス」に拠って、『野菊の墓』をはじめとする小説を発表するなど、その精力的な活動には目を瞠るばかりである。
 さらに家庭的にも九人の女児と四人の男児の父親となったというから、そのエネルギッシュな活動は、ひ弱く、青白い文学青年というイメージからはほど遠い(子供は、男児は四人とも夭折、女児も一人が池に落ちて死亡するなど、悲しみの多い子育てでもあった)。
 掲出の一首は、まさにそのような壮年期の左千夫の意気ごみが伝わってくるような歌である。制作年次ははっきりしないとされるが、初期の歌であることはまちがいない。牛飼いである私のような庶民が歌を詠む時代になった。だからこそ、このような開かれた時代にふさわしい新しい歌が大いに起こるのだ、という意味。(p.116~7)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-31 06:32 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(5):松尾(16.9)

 駅からすこし歩くと古色あふれる下見板張り木造家屋がありました。事務所として使われているようですが、鬼瓦に「水」という字と家名が記されているのに気づきました。
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 その先にあった「シノヅカ」というお店の看板を見ると、「宝飾 時計 メガネ 補聴器 テニス」… テニス? 何とも唐突に記されていたので驚きましたが、ご主人はよほどの庭球ファンなのでしょうか。同志よ。
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 そして成東駅に戻り、銚子行総武本線に乗って松尾駅に着いたのが11:21です。こちらの駅舎は古武士のような風格のある木造建築で、1898(明治31)年開業時のものだそうです。印刷して持参した地図を頼りに十数分歩くとお目当ての日本基督教団九十九里教会(千葉県山武市松尾町松尾60-1)に着きました。竣工は1884(明治17)年、切妻屋根に下見板張りの質朴な外観ですが、入母屋造の玄関ポーチがチャーミングです。驚いたのは、設計者があのヘボン式ローマ字で有名なヘボン(ジェームス・カーティス・ヘップバーン)だということ。彼は伝導のためここ松尾の地を訪れ、教会堂の創建にあたって、寄付金総額の三分の一にあたる200円を投じました。それに加えてヘボンは自ら設計図を引き、直接教会建設の指揮をとったそうです。教会堂の屋根は急勾配で、瓦職人が恐々作業にあたり、また室内には柱を一本も使わないなどの指示に辟易して、棟梁が3人も替わったとのこと。聖書の研究や英語の学習に情熱を注いだ往事の人びとの熱い息吹が伝わってくるようです。

 さて次は船橋に行って市営馬込霊園に寄りたいのですが、列車が来るまで小一時間あります。幸いなるかな、駅前に「寿々木」という洋食屋がありましたので、ここでゆっくりと昼食をとることにしました。まったく期待もせずにチキンカツ定食を注文したのですが、鄙にも似ず(失礼)、これがとても美味でした。肉汁あふれる鶏肉にクリスプなころも、味わい深いソースに舌鼓を打ち、食後の珈琲を楽しみながら読書にいそしんでいると、あっという間に一時間が過ぎました。ごちそうさまでした。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-29 06:35 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(4):成東(16.9)

 茂原から外房線に乗って大網へ、東金線に乗り換えて成東へ。総武本線への待ち合わせ時間が少々あったので成東駅周辺をぶらつきました。駅前にあったのが「礎」という石碑です。解説文を転記します。
 昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東駅構内下り一番線に停留中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分、火煙を発した。之を認めた国鉄職員十五名将兵二十七名は、被害を最少限度に止めようと機を失せず、身を挺して貨車の隔離消火に務め、一方旅客及び町民を避難させたが、必死の健闘も空しく十一時l五十八分弾薬はついに爆発して全員、悉く壮烈な最後を遂げ、平和の礎と化しました。
 昭和三十二年八月、十三回忌にあたりその功績を称え町民並びに鉄道職員を初め、多数の方々の御支援によりここに礎の碑を建立せられました。
 ということです。いつも思うのですが一般人や兵士の非業の死をもって"平和の礎"と表現するのは、もうやめたほうがよいのではないでしょうか。誰に戦争責任があるのか、それを究明・反省したうえで連合国側の戦争犯罪を弾劾すべきではないのか、敗戦後の平和はどのようにしてもたらされたのか、いやそもそも本当に平和だったのか。考えるべき多くのことを雲散霧消してくれる便利なマジック・ワードになっているような気がします。なお最近読んだ『日本を問い直す -人類学者の視座』(青土社)の中で、川田順造氏も下記のように鋭く指摘されていました。
 東京大空襲・戦災資料センターでは、被災者の語りも聞いた。東京都慰霊堂での追悼の辞、「この悲惨な経験を風化させることなく、次の世代に語り継がなければならない」と同じく、ここでの被災者の語りにも、3月10日の残虐行為を、綿密な計画のもとに、新型兵器を使って実行した米国に対する憤りや、その元になった日本の国策への批判はなく、こうした悲劇をくり返さないように、戦災の記憶を語り継ごうという透明・中立な呼びかけだけがあった。原爆被災者の語りにも、それは感じられる。それ自体は美しいことかも知れない。だが憤りをバネに、具体的批判を探求する努力なしに、ただ悲惨を語り継ぐことにどれだけ意味があるのだろうか。(p.299~300)
 また最近読み終えた『魂鎮への道 BC級戦犯が問い続ける戦争』(岩波現代文庫)の中で、ニューギニア戦線における兵士たちの非業な死を目の当たりにし、自身がBC級戦犯として裁かれた飯田進氏が、その体験をもとに血を吐くような批判をされています。長文ですが引用します。
 祭文というものがありますね。死者に捧げる追悼の言葉のことです。その祭文はどれを見ても不思議に一致しているところがあります。
 それは勇戦敢闘して戦死したあなたがたの尊い犠牲のおかげで、今日の経済的繁栄と日本の国際的地位の向上がもたらされている、ということです。
ぼくが違和感をいだくのは、次のような理由からです。(p.222)

 二つめは、「あなたがたの尊い犠牲のおかげで、今日の経済的繁栄がある」との事実認識のあり方です。
 ほんとうに戦死、または戦病死した将兵たちの犠牲があったから、今日の経済的な繁栄と国際的な地位の向上があったのでしょうか。
 だれでも人情的には、死を意味づけて考えたいのです。無益な死だとは思いたくないのです。しかし兵士たちの死と今日の繁栄とは、事実経過の上でも、論理的にも、ほとんと関係ないと思うのです。
 ほんとうにそうなのか、そうでないか、考えてみてください。
 日本はアメリカを主軸とする連合軍に敗れました。めぼしい都市をほとんど壊滅させられ、広島・長崎に原爆を投下され、日本は無条件降伏したのです。日本が永久に占領され、生きていく最低限の生活保障だけをされても、文句を言えない立場におかれたのです。
 しかし戦争が終わるやいなや、ソ連との間の冷戦が激化しました。否応なくアメリカは、対日占領政策のコペルニクス的転回を図らざるを得ませんでした。
 日本列島は、アメリカのアジア最大の橋頭堡として位置づけられました。その占領政策を円滑に進めるために、天皇制は温存されました。官僚制も基本的に戦前の体制のまま残されました。東京裁判はウヤムヤのうちに終わり、東条大将ら二五名の指導者たちが処罰されただけで幕を閉じました。
 そして朝鮮戦争が始まり、日本は特需景気で潤いました。日本の経済が立ち直る最初のチャンスが訪れたのです。自衛隊の前身、警察予備隊が創設されました。
 さらに一〇年後、ベトナム戦争が起きました。日本は再び戦争景気に沸き返り、そうして高度経済成長の道をひた走るようになったのです。まさに神風が戦後に吹いたのです。
 日本に戦前からの技術的蓄積があったとか、日本人が勤勉であったとか、それは経済復興の大きな理由の一つではあります。しかし戦後日本をとりまく軍事的・政治的な環境の一大変化を除外して、戦後の経済成長は考えられません。
 事実経過が明らかに示すところによりますと、日本の経済復興は、冷戦の激化と朝鮮戦争、ベトナム戦争を引き金として行なわれた、といって差し支えないでしょう。そうだとすると、兵士たちの死は、今日の経済的繁栄とどこでつながるのでしょうか。
 戦争に負けたからでしょうか。そうですね、負けたからそういう軍事的・政治的な環境がもたらされたのです。日米安保条約も締結されたのです。だがそうなると、負けたほうがよかった、負けるために兵士たちは戦い、のたれ死にをした、ということになりますね。負けたことの責任、無謀な作戦指導の責任は、誰も負わなくてよろしい、万事めでたしめでたし、そういうことになりませんか。
 それはどう考えても、没論理的です。事実の経過にそぐいません。それこそ英霊を冒?するものではないですか。
 だが大日本遺族会も数々の戦友会も、「あなたがたの尊い犠牲によって今日の繁栄がもたらされた」との認識の仕方に、死者の意味づけを求めて不思議に思いませんでした。そこからは日本にあれだけの悲劇をもたらし、まさに身内の者や、戦友を死に追いやった歴史の道筋は浮かび上がってきません。
 事実関係が違っているのですから、次の世代の若者たちに、情緒的にも論理的にも訴えかける迫力がありません。
 死者たちへの思いは、ごく僅かな親類縁者や、戦友たちの間の詠嘆で終わり、時日の経過とともに忘れ去られていきつつあります。その嘆きや痛みは、この日本の社会のなかに伝承されていく可能性がありません。現実に、そういう道筋をたどってきてはいないでしょうか。
 さらに日本の経済的繁栄は、日本人の倫理的資質の頽廃と無縁ではありません。多くの日本人が、世界中でひんしゅくを買っていることは周知の事実です。なぜでしょう。カネがあるからです。死者たちは、そのような驕りたかぶっている日本人のありようを、望んでいたのでしょうか。逆ではなかったでしょうか。日本人が謙虚な姿勢で、祖国日本の平和だけでなく、世界の平和に貢献することを、多くの死者たちは願望していた、とぼくは思います。その死者の願いに、いまの日本は反しています。「あなたがたの尊い犠牲」は、今日の日本には活かされていないのです。ぼくはその事実を、歯噛みするほど無念に思います。(p.224~7)
 なお碑文の揮毫は「日本国有鉄道総裁 十河信二」、そう新幹線の生みの親ですね。なおウィキペディアによると、彼は南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事も務めたとのこと、気になる人物ですね。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-28 06:30 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(3):茂原(16.9)

 そして路地に入ってすこし歩くと茂原昇天教会に着きました。竣工は1933(昭和8)年、全体像を見ることはできませんが、ハーフティンバー風の玄関ポーチと四本のトスカナ式の柱が洒落た雰囲気をかもしています。
 そして茂原駅に戻り、九十九里教会を拝見しに松尾へと向かいました。そうそう、遅かりし由良之助なのですが、『保存版ガイド 日本の戦争遺跡』(平凡社新書)によると隣りの新茂原駅周辺に掩体壕が現存していることが、今判明しました。同書から引用します。
 1941(昭和16)年、千葉県東郷村(現・茂原市)は突然、海軍航空基地の建設予定地となり、住民たちは海軍省から半ば強制的に移転命令を受けた。そして移転が完了したのは、43年3月頃であったという。その間にも基地建設が動き出しており、海軍施設部などの指揮で兵士が作業にあたったが、地域の住民や中学生たちも動員され、とくに厳しい土木工事では、朝鮮人たちが強制労働させられた。(中略) なお、43年頃より掩体壕建設が始まり、翌年にはかまぼこ形のコンクリート製の構造物が点在するようになり、敗戦時には誘導路沿いに17基あったと記録されている。近年の調査では11基が現存し、6基は破壊され消滅している。(p.117~8)
 韓国併合、独立運動の弾圧、差別、大震災時の虐殺、従軍慰安婦、皇民化政策と創氏改名、そして強制連行と強制労働。日本が朝鮮に対して行なってきた歴史をふりかえると暗澹たる気持ちとなります。そして現在のヘイトスピーチ、過去の歴史に対する真摯な反省はなされていないようですね。いつになったら自慰史観からわれわれは脱却できるのでしょうか。
 なお戦争遺跡としての掩体壕は、過去にもいくつか訪れました。米子の葭津掩体壕、高知空港周辺の掩体壕群、館山の掩体壕などですが、茂原の掩体壕跡も近日中に見に行きたいと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-26 06:32 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(2):茂原(16.9)

 閑話休題。新宿駅から都営地下鉄新宿線に乗り換えて馬喰横山へ、そして馬喰町から総武線快速エアポート成田(成田空港行)に乗り換えます。ホームには「強風注意」という、帽子が風に飛ばされているピクトグラムがありました。千葉駅から外房線に乗り換えて茂原駅に着いたのが午前九時半ごろでした。お目当ては、茂原市茂原581にある茂原昇天教会です。
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 印刷して持参した地図を片手にぶらぶらと歩いて行くと、時代がかかった門柱を見かけました。興味を惹かれて近寄ってみると、一つには「御塚観世音」と、そしてもう一つには「皇紀二千六百年」と記してありました。ウィキペディアから引用しましょう。
 西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。(中略) 日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争(支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
 ということで、この門柱もその記念としてつくられたのでしょうか。神社仏閣では時々見かけますが、これだけ臆面もなく堂々と記されているのは珍しいですね。ちなみに、以前に荒砥城跡と、石垣島で見たことがあります。また江戸東京たてもの園には、紀元2600年記念式典のために仮設された旧光華殿が移築されています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-25 06:23 | 関東 | Comments(0)

文科省の腐臭

 笑わずにお読みください。文部科学省のホームページに掲載されている「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ (国語、社会、地理歴史、公民)」の冒頭部分です。
 …社会科、地理歴史科、公民科では、社会との関わりを意識して課題を追究したり解決したりする活動を充実し、知識や思考力等を基盤として社会の在り方や人間としての生き方について選択・判断する力、自国の動向とグローバルな動向を横断的・相互的に捉えて現代的な諸課題を歴史的に考察する力、持続可能な社会づくりの観点から地球規模の諸課題や地域課題を解決しようとする態度など、国家及び社会の形成者として必要な資質・能力を育んでいくことが求められる。
 「社会との関わりを意識して課題を追究したり解決したりする活動」? 「社会の在り方や人間としての生き方について選択・判断する力」? 「国家及び社会の形成者として必要な資質・能力」? いやはや、呆れてしまってワンワンワワンワンワンワワンです。
 私たちが納めた血税を補助金として大学にばらまき、その見返りに当該大学に天下りをして、老後をぬくぬくと安楽に暮らそうとする文部科学省高級官僚のみなさま方。臆面もなく、こういう偉そうな御託をならべて、何とも感じませんか。廉恥心はお持ちですか。子供たちに対して恥ずかしくないのですか。子供たちは、大人の言うことではなく、することを真似るのをご存じありませんか。
 叩けばまだまだ埃が出そうなので、関係諸機関およびメディアは徹底的に追及していただきたいと思います。参考までに、古い資料なのですが、「My News Japan」(2010.1.10)に「天下り受け入れ私大」ワースト20がありましたので、そのうちワースト10を紹介します。天下り事務職員数と08年度私学助成補助金額の相関関係がわかります。
第一位 日本大学 26人 114億3266万円
第二位 早稲田大学 24人 92億6379万円
第三位 関東学院大学 16人 12億5734万円
第四位 金沢工業大学 14人 15億0492万円
第四位 聖徳大学 14人 8億5131万円
第四位 城西・城西国際大学 14人 7億5693万円
第七位 大阪工業・摂南・広島国際大学 13人 25億4242万円
第七位 武蔵野音楽大学 13人 3億8678万円
第九位 大東文化大学 12人 7億4989万円
第十位 中部大学 11人 13億5316万円
 おそらく、天下りを受け入れない私学は、文部科学省から補助金をざっくりと削られて、精神的な苦痛を感じていることでしょう。あれ? これって…「いじめ」ではありませんか。
 参考までに、文部科学省による「いじめ」の定義を紹介しましょう。
 本調査において個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
 「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。
なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
 天下りを受け入れない私学は、一定の人間関係のある文部科学省から、経済的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じていることと思います。やれやれ、「いじめ」の常習犯・確信犯である文部科学省が「いじめ」をするなと言っているのですから、クレヨンしんちゃんなら「おめーにいわれたかねーよ」と吐き捨てるでしょう。

 公僕と最高学府の腐臭漂う癒着を、「いじめ」をやめろと言いながら「いじめ」をしている文部科学省の守銭奴たちの存在を、ぜひ子供や若者に知ってほしいと思います。そしてみんなで、日本の教育行政にきちんと絶望しましょう。そこから出発するしかないのですから。

 そしてこうした事態の元凶は、安倍伍長と自民党が、天下りを原則自由としたことです。自民党のキャッチコピー「日本を、取り戻す。」とは、「日本を、(国民から、官僚・政治家・財界の手に)取り戻す。(そして私物化する)」ということだったのですね。やれやれ、戦前の日本に逆戻りだ。ただ、官僚から軍人が抜け(復活の兆しあり?)、国体が天皇制から日米安保条約に変わっただけの話です。

 というわけで、教育を、血税を、そして日本を私物化する御仁たちを、猜疑の目でもってしっかりと監視するのが私たちの責務です。トマス・ジェファーソン曰く、「信頼は、どこでも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく猜疑にもとづいて建国される」。
by sabasaba13 | 2017-01-23 07:44 | 鶏肋 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(1):茂原へ(16.9)

 虐殺行脚の旅、神奈川に続いて千葉編です。今回は未見の教会をいくつか絡めました。持参した本は『戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の記憶がある』(姜尚中・森達也 集英社文庫)でした。

 まず目指すは茂原です。練馬から都営地下鉄12号線で新宿駅へと向かいますが…石原慎太郎氏がつけた「大江戸線」という名称を使っている方もおられるようですね。わが家では金輪際使いません。あの御仁が命名したという、その事だけで使う気が萎えてしまいます。最近読んだ『怒りの方法』(岩波新書890)の中で、辛淑玉氏はこう述べられていました。
 ケンカを売られたな、と実感したことがある。
 2000年4月9日、石原都知事の「三国人」発言を聞いたときだ。
 私はそれまで、この政治家を二つの視点から見ていた。
 一つは、故新井将敬・衆議院議員に対する差別の当事者。それから、もう一つは、限りなく女性嫌悪者であるという点だ。
 ファシズムが台頭するとき、権力は女性と外国籍住民を排除することから足元を固めていく。その意味で私はこの人物を気にかけていた。

 1982年11月、年末の総選挙に向けて、自民党の候補として旧東京二区(大田区)から出馬する準備をしていた新井将敬氏の政治広告ポスター3000枚のすべてに、「北朝鮮より帰化」という真っ黒いシールを、同じ選挙区の石原候補の秘書が貼った。
 秘書は逮捕されたが、石原陣営は「多国籍だった者が代議士になることについては若干の問題があると思っている」と開き直った。のちに新井氏が当選すると、すぐにケチをつけたのも彼だった。
 石原氏のマザコンぶりの一端は、関根弘氏の『針の穴とラクダの夢』(草思社、1978年)に描かれている。作家としてデビューした後も、息子慎太郎を溺愛する母親に敵を追っ払ってもらい、隣の部屋でその様子に聞き耳を立てる姿は、何とも言えぬ彼の原点を見る思いがした。
 彼は母の愛情に応えるべく生きてきたが、自分が父の代用品であることを知ったとき、母を、そして女を憎んだのだろう。彼の、女性に対するコンプレックスと攻撃性は、まさに、ゆがんだ怒りとなって表出してきている。
 石原氏自身の言葉を借りれば、彼こそまさに「腐った女」そのものとして、私の目には映っていたのだ。
 その彼が、2000年4月9日、陸上自衛隊練馬駐屯地で行われた陸上自衛隊第一師団創隊記念式典での来賓挨拶でこう発言した。

 今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すらですね想定される。そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さんに出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行して頂きたいということを期待しております。
(Mainichi INTERACTIVE 石原知事「三国人」発言)

 軍隊は人殺しが仕事である。その軍隊を前にして堂々とこのような発言をする。つまり、外国人は殺してもいい、と言っているのと同じことだ。
 これが扇動以外の何であろうか。
 しかも、「三国人」という差別語を意図的に使った。
 世界の歴史の中で、災害時に外国籍住民が暴動を起こした事例は一件もない。あるのは、日本人が朝鮮人・中国人を殺戮した関東大震災の例であり、事実は逆なのだ。これは歴史に対する挑戦であり、私にふっかけられたケンカであった。(p.160~2)

 彼の人間に対する視点は、差別性を抜きにしては語れない。
 環境庁長官だった1977年、「人のスケジュールを無視して面会に来られても迷惑」と反公害の市民団体の陳情を拒否してテニスに行き、「(長官などの)特別職には公務員のような服務規定はない。空いていれば、寝ていようとテニスをしていようとかまわない」と述べた。同年、熊本に水俣病の視察に訪れたときは、患者らが手渡した抗議文について「これを書いたのはIQが低い人たちでしょう」と言い、1999年9月、府中療育センター(重症心身障害児・者施設)視察後の記者会見では、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と述べた。(p.168)

 その他にも、石原氏の差別性や下品さを挙げれば、きりがない。詳しくは、フリージャーナリスト・斎藤貴男氏の『空疎な小皇帝-「石原慎太郎」という問題』(岩波書店)をお読みいただきたい。
 石原都知事のおかげで差別をすることに自信を持った人たちが増え、実名を名乗っての差別発言も目に付くようになった。もはや単に石原氏と向き合うだけでは済まない。社会が扇動に乗って動くという状況が、もう目の前まで来ているのだ。(p.172)
 はい、こういう低劣なレイシストです。関東大震災における虐殺の背景には、こうした差別意識があったことは間違いないでしょう。そしてやりきれないのは、こういう品性下劣な人物を都知事として三期も選んだ東京都民の識見です。話題のトランプ氏といい勝負だと思うのですが、大統領に当選したとはいえ、彼に鋭い批判をあびせる米国民も多いですね。なぜ日本国民はこれほど愚鈍なのか、ちょっと理解しがたいものがあります。結局、この虐殺事件を反省せず、差別意識をいまだに克服していないということですね。

 余談ですがこの御仁は、豊洲新市場問題に関する公開ヒアリングを拒否しています。やれやれ、彼の辞書には人権の"じ"の字も、責任の"せ"の字もないようです。
by sabasaba13 | 2017-01-22 06:23 | 関東 | Comments(0)

言葉の花綵152

 金持ちどもが戦争をするとき、死んでいくのは貧乏人なのだ。(『悪魔と神』 ジャン・ポール・サルトル)

 戦争とは、たえまなく血が流れ出ることだ。そのながれた血が、むなしく 地についこまれてしまふことだ。…瓦を作るように型にはめて、人間を戦力としておくりだすことだ。…十九の子供も 五十の父親も 一つの命令に服従して、左をむき 右をむき 一つの標的にひき金をひく。敵の父親や 敵の子供については 考へる必要は毛頭ない。それは、敵なのだから。(『戦争』 金子光晴)

 たった一つのローソクなどと考えてはなりません。すべての人が自分のローソクに火を灯せば、真っ暗な夜を明るい昼に変えることができるのです。(オグ・マンディーノ)

 戦争は決して地震や津波のような天変地異ではない。(石川啄木)

 人間の特性である「考える」という作業を、軍隊生活では必要としない。(枡田幸三)

 いまの戦争が、単に少数階級を利するだけで、一般国民の平和をかきみだし、幸福を損傷し、進歩を阻害する。きわめて悲惨な事実である…。しかも事がここにいたったのは、野心ある政治家がこれを唱え、功を急ぐ軍人がこれを喜び、ずるがしこい投機師がこれに賛成し、そのうえ多くの新聞記者がこれに付和雷同し、競争で無邪気な一般国民を扇動教唆したためではないのか。(幸徳秋水 『平民新聞』 1904.3.27)

 放っておけば富む者はさらに富み、貧困者はますます貧困になるのは自然なことで、それを是正するために国が機能するという精神が、この国にはないということだ。(高村薫)

 異国の者にも同国の者にも、分けへだてなく、正しい裁きを下し、正義の道を踏み外さぬ者たちの国は栄え、その国の民も花開くごとくさきわうものじゃ。国土には若者を育てる「平和」の気が満ち、遥かにみはるかすゼウスも、この国には、苦難に満ちた戦争を起こさせようとは決してなさらぬ。(ヘシオドス 『仕事と日』)

 一度戦争が起これば問題はもはや正邪曲直善悪の争いではなく、徹頭徹尾、力の争い、強弱の争いであって、八紘一宇とか東洋永遠の平和とか、聖戦だとかいってみても、それはことごとく空虚な偽善である。(斎藤隆夫)

 平和より戦争をえらぶほど無分別な人間がどこにおりましょうや。平和の時には子が父の葬いをする。しかし戦いとなれば、父が子を葬らねばならぬのじゃ。(ヘロドトス 『歴史』)
by sabasaba13 | 2017-01-20 06:25 | 言葉の花綵 | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(9):結語(16.9)

 というわけで、虐殺行脚神奈川編一巻の終わり、次回は千葉編です。なお気になることがあったので、紹介します。『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)によると、大地震が発生した直後、横浜市では組織立った集団的かつ大規模・悪質な強盗事件が起ったということです。長文ですが、重要な指摘ですので引用します。
 大地震の起った日の夜七時頃、横浜市本牧町附近で、
「朝鮮人放火す」
 という声がいずこからともなく起った。それは東京市内でささやかれていた社会主義者と朝鮮人放火説とは異なって、純然と朝鮮人のみを加害者とした流言だった。
 その流言がだれの口からもれたのかは、むろんあきらかではない。ただ日本人の朝鮮人に対する後暗さが、そのような流言となってあらわれたことはまちがいなかった。
 本牧町一帯は、押し寄せた炎にさらされて類焼中であった。その混乱の中で生れた流言は、炎にあおられたようにその附近一帯にひろがった。そして、一時間ほど過ぎた頃には、近くの北方町、根岸町、中村町、南吉田町に流布し、さらには横浜港外に碇泊する船舶等にまで達した。
 しかし、その流言も横浜市の一地域にひろがっただけで自然現象に関する流言とは比較にならぬほど微弱なものであった。そして、その夜流布された範囲も同地域にかぎられていたが、翌二日の夜明け頃から急激に不気味なものに変形していった。
 流言は「朝鮮人放火す」という単純なものであったのに、夜の間に「朝鮮人強盗す」「朝鮮人強姦す」という内容のものとなり、さらには殺人をおかし、井戸その他の飲水に劇薬を投じているという流言にまで発展した。
 殺伐とした内容を帯びた流言は、人々を恐れさせ、その恐怖が一層流言の拡大をうながした。そして、その日の正午頃までには横浜市内にたちまち拡がり、鶴見、川崎方面にまで達してしまった。
 さらに日没近くになると、横浜市西戸部町藤棚附近から、
「保土ヶ谷の朝鮮人土木関係労働者三百名が襲ってくる」
 という風説につづいて、
「戸塚の朝鮮人土木関係者二、三百名が現場のダイナマイトを携帯して来襲してくる」
 という流言すら起った。それは、具体的な内容をもっていただけに短時間に横浜市から市の近郊にまで伝わった。
 このような朝鮮人に関する風説については、後に横浜地方裁判所検事局で徹底した追跡調査がおこなわれた。それによると検事局では、初めその風説を裏づける事実があったのではないかという判断のもとに、流言の発生地を中心に一般人、警官、軍人等から事情を聴取したという。
 しかし、調査の結果それらの風説は全く根拠のないもので、朝鮮人による放火、強盗、殺人、投毒の事実は皆無で、保土ヶ谷、戸塚の土木関係労働者の集団的行動もなかった。
 実在しないことが、なぜこのような具体性の濃い流言になってひろまったのだろうか。その根本原因は複雑だが、一般市民が決して幻影におびえただけでもなかった。
 庶民の中からそのような不穏な流言が湧いたのも無理からぬ理由があった。が、それは日本人そのものの中にひそんでいたのだ。
 大地震が発生した直後、東京市では軽微な盗難が随所に見られたが、横浜市では大規模な強盗事件が起った。しかも、それは組織立った集団的なもので、災害に乗じたきわめて悪質な性格をもっていた。
 その代表的なものは、立憲労働党総理山口正憲を主謀者とする集団強盗事件であった。
 山口は、横浜市中村町に居宅をかまえていたが、正午直前起った大地震で家が倒壊寸前になったため、附近の小学校に避難した。
 小学校には、家財をたずさえた避難民の群がひしめき、絶えず襲ってくる余震と随所に起る火災に平静さを失っていた。
 かれらの大半は、昼食をとることも出来ず家を逃れてきた者ばかりで、救援物資が到着する望みはうすく飢えと渇きに対する激しい不安をいだいていた。
 山口も同様だったが、かれは避難民を煽動して物資を調達しようと企て、避難民を集めると、立件労働党総理であることを名乗って拳をふり演説をはじめた。そして、避難民を救うために「横浜震災救援団」という団体を結成したいと提唱した。
 避難民たちは、巧みなかれの弁舌に感激し一斉に賛意を表した。
 山口は、さらに自ら団長に立候補することを伝え拍手のうちに団長に推挙され、多数の者がその場で入団を申出た。
 山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれた者を選び出して決死隊と称させた。これらの男たちは、ただ騒擾のみを好む者たちばかりであった。
 いくつかの決死隊が編成され、山口は、かれらに赤い布を左腕に巻きつけさせ赤い布を竿にしばりつけさせて、物資の掠奪を指令した。
 かれらは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に横浜市内の類焼をまぬがれた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩いた。その強奪行動は、九月一日午後四時頃から同月四日午後二時頃まで十七回にわたって繰り返された。
 この山口正憲を主謀者とする強盗団の横行は、自然に他の不良分子に影響をあたえた。かれらは単独で、または親しい者を誘って集団で一般民家に押し入り、掠奪をほしいままにした。つまり横浜市内外は、地震と大火に致命的な打撃を受けると同時に強盗団の横行する地にもなったのだ。
 一般市民は恐怖におののいた。かれらは赤い腕章をつけ赤旗をかざした男たちが集団を組んで人家を襲うのを眼にし、凶器で庶民を威嚇するのを見た。市民には、それらの集団がどのような人物によって編成されているのか理解することは出来なかった。
 そうした不穏な空気の中で、「朝鮮人放火す」という風説が本牧町を発生源に流れてきたが、だれの口からともなく町々を横行する強盗団が朝鮮人ではないかという臆測が生れた。
 日本人と朝鮮人は、同じ東洋民族として顔も体つきも酷似しているというよりは全く同一と言っていい。一般市民は、その臆測にたちまち同調した。そして、強盗団の行為はすべて朝鮮人によるものとして解され、朝鮮人の強盗、強姦、殺人、投毒などの流言としてふくれ上ったのだ。
 また朝鮮人土木労働者が二、三百名来襲の風説も、凶器を手に集団で掠奪行為を繰り返した日本人たちを朝鮮人と錯覚したことによって起ったものであった。
 横浜地方裁判所検事局は、後になって朝鮮人に関する流言の発生が山口正憲一派をはじめとした強盗団の横行と密接な関係のあることをつきとめたが、さらに山口らが朝鮮人と称して掠奪をおこなったのではないかという疑いもいだいた。そして、検挙した山口をはじめ強盗を働いた者たちを個別に鋭く訊問したが、かれらの供述は一致していて、そのようなことを口にした事実は全くなかったことが判明した。つまり朝鮮人に関する流言は、山口らが作り上げたものではなかったが、かれらの犯行が庶民によって朝鮮人のものとして解釈されたのである。
 流言はたちまち膨張し、巨大な怪物に成長した。そして、横浜市内から人の口を媒介にすさまじい勢いで疾駆しはじめた。
 関東大震災で最も被害の甚だしかった横浜市の市民は、東京方面に群をなして避難していった。そのためかれらの口から朝鮮人に関する流言が、東京方面に素早くひろがっていったのである。(p.132~7)
 これは戦慄すべき事実です。本書の巻末には参考文献の一覧があるので、根拠のないフィクションとは思われません。日本人による凶悪な犯行が、朝鮮人によるものとして解釈され、膨張し、流布されていった可能性、あるいはそうした一面がありそうです。できうる限りそうした事実を掘り起こし、検証し、記録にとどめる必要をますます痛感しました。この歴史を再度生きぬためにも。
by sabasaba13 | 2017-01-19 06:26 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(8):東漸寺(16.9)

 そしてすぐに、横浜市鶴見区塩田町3‐144にある東漸寺(とうぜんじ)が見つかりました。空漠とした境内の正面には本堂があり、その正面右手に「故大川常吉氏之碑」という小さな記念碑がありました。碑文を転記します。
 関東大震災当時流言蜚語により激昂した一部暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し 当時鶴見警察署長故大川常吉氏は死を賭してその非を強く戒め300余命の生命を救護したことは誠に美徳である故私達は茲に故人の冥福を祈りその徳を永久に讃揚する
1953年3月21日 在日朝鮮統一民主戰線 鶴見委員会
合掌

 『県警察史』によりますと、9月2日夕、自警団員が四人の男を朝鮮人だと鶴見署に突出し、「持っている瓶に毒が入っている。たたき殺せ」と騒ぎました。当時、46歳の大川常吉署長は「そんなら諸君の前で飲んで見せよう」と瓶の中身を飲み、暴徒を納得させました。翌日、状況はさらに緊迫します。大川署長は多数の朝鮮人らを鶴見署に保護しましたが、群集約千人が署を包囲し、「朝鮮人を殺せ」と激高します。大川署長は「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先に片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝。体を張っての説得に群集の興奮もようやく収まったかに見えました。しかし、それでも収まらない群集の中から代表者数名が大川に言います。「もし、警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と。すると大川署長は「その場合は切腹して詫びる」と答えました。そこまで言うならと、とうとう群衆は去って行きました。保護された人は朝鮮人220人・中国人70人ら、計300余人に上ります。保護された朝鮮人・中国人は横浜港に停泊中の崋山丸に身柄を移され、その後海軍が引き受けて保護しました。保護された朝鮮人のうち225名はその後も大川署長の恩に報いるべく震災復興に従事したそうです。
 大川常吉氏は1940(昭和15)年に死去、墓地はここ東漸寺にあります。なおこれは今知ったため、墓参はできませんでした。申し訳ない。そして死後13年目の1953年、関東大震災30周年を機にこの石碑が建立されました。大川常吉氏は後年「警察官は人を守るのが仕事、当然の職務を遂行しただけ」と語ったと伝えられています。
 その人間性と胆力には、心から敬服します。ただ彼を「日本人の誇り」と短絡すべきではないでしょう。朝鮮人や中国人を虐殺した、「日本の恥」とも言うべき多くの人びとがいたことと、トレードオフにはできません。それでも氏のような方が、少数とはいえいらしたことはせめてもの救いです。
 そしてバス停から、JR川崎駅行きのバスに乗ってわが家へと帰りました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-01-17 07:34 | 関東 | Comments(0)