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言葉の花綵155

 朝鮮・台湾・樺太・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより、広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を、我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計りしれない。(石橋湛山 『大日本主義の幻想』)

 だから、自分の目で見ようと思ってぼくはイラクに行った。バグダッドで、モルスで、また名を聞きそびれた小さな村で、人々の暮らしを見た。ものを食べ、互いに親しげに語り、赤ん坊をあやす人の姿を見た。わいわい騒ぎながら走り回る子供たちを見た。そして、この子らをアメリカの爆弾が殺す理由は何もないと考えた。(池澤夏樹)

 私たちは、明日も生きていられるかどうか
 わからないことが
 怖いのです。
 殺されたり、傷つけられたり、
 将来を奪われたりすることが、
 悔しいのです。
 お父さんとお母さんが
 明日もいてくれることだけが望みだなんて、
 悲しいのです。(シャーロット・アルデブロン 『私たちはいま、イラクにいます』)

 西洋は今日、叡智を熱望しています。それは原子爆弾の増産への絶望のしるしであります。なぜなら原子爆弾の増産は、聖書の予言が的中して、-願わぬことですが-いっさいが大洪水にさらわれてしまうかのように、西洋だけではなく全世界を完全に滅ぼしてしまうからです。世界に向かって、その不正と罪を告発するのが、みなさんの責務です- (マハトマ・ガンディー)

 悲観主義者が、星々の神秘を探求したり未知の土地に航海したり、人の魂にふれる新しい扉を開いたことはこれまで一度もない。(ヘレン・ケラー)

 すなわち生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。(シュヴァイツァー)

 沖縄戦の実相にふれるたびに/戦争というものは/これほど残忍で/これほど汚辱にまみれたものはない/と思うのです/この/なまなましい体験の前では/いかなる人でも/戦争を肯定し美化することは/できないはずです/戦争を起こすのは/たしかに/人間です/しかし/それ以上に/戦争を許さない努力のできるのも/私たち/人間/ではないでしょうか (沖縄「不戦の誓い」)

 人を殺して実現する正義はない。「平和のための戦争」とは自己矛盾である。単純な論理です。(竹中千春)

 政策遂行の手段としての戦争を否定し、軍隊を保持しない日本は、もし、一国の安全ということがあるとすれば、全世界で最も安全な国です。日本を危険にさらすものは、無軍備よりはむしろ在日アメリカ軍基地です。それは日本を攻撃目標に変えてしまうからです。(セント・ジェルジ 『狂った猿』)

 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。
 実はこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、恨みはやむ。これは永遠の真理である。(ブッダ 『スッタニパータ』)

 何人も他人を支配する権利を自然から受けなかった。(ディドロ)
by sabasaba13 | 2017-03-16 06:27 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『沈黙』

c0051620_6242871.jpg マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作の『沈黙』を映画化したという新聞広告を見て、これはぜひ見に行こうと決意。お恥ずかしい話、スコセッシ監督の作品は見たことがありませんが、その御高名はよく耳にします。その名監督が遠藤周作の名作『沈黙』をとりあげるのですから、期待に胸は弾みます。
 とある日曜日、山ノ神とユナイテッドシネマとしまえんへ参上。ほぼ席は埋まっており、こうした真摯な映画を見られる方がこれだけいるのかと安心しました。食指のまったく動かない予告編をさんざっぱら見せられたあと、ようやく上映開始です。公式サイトから、ストーリーを転記します。
 17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教(信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
 日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた"隠れキリシタン"と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―
 守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―
 なお余計なお世話ですが、その時代背景について関連の書籍から引用します。
『世界史のなかの戦国日本』(村井章介 ちくま学芸文庫)
 また、伝来以来半世紀のあいだに、おもに九州地方や畿内で急激に信者を拡大したキリスト教は、つぎの二点において、統一権力にとって危険な存在となりつつあった。
 第一に、信者たちが「日本的華夷観念」をはるかに超越した「デウス」に、死後をもふくめた精神のよりどころを得たことである。それが中世的な「一揆」の伝統と結びつくことにより、幕藩体制的な領主支配を拒否するてごわい抵抗の論理となったことは、1637~38年の島原・天草一揆に示されている。
 第二に、イベリア両国のカトリックと植民勢力の合体による、日本の「インディアス化」の危険性である。肥前大村領内では、全領民のキリシタン化を望む純忠の政策により、万単位での改宗者があいつぎ、ついに1580年、純忠は長崎と茂木を教会領に寄進するにいたった。これを受けてイエズス会は、ポルトガル人を中心に両地を要塞化し、87年豊臣秀吉が最初のキリシタン禁令を発すると、キリシタン大名に軍事援助を行なって秀吉への武力抵抗を組織することをもくろんだ。
 秀吉や家康は、布教を貿易から切りはなして禁止することを考えていたが、イベリア両国の世界進出が両者を車の両輪として行なわれた以上、それは不可能であった。けっきょく徳川幕府は、キリシタン禁止を旗じるしに、1630年代までに、対外交通の国家による徹底した管理体制(いわゆる鎖国体制)を築くと同時に、在地の郷村にキリシタンがいないことを証明させる「宗門人別改」を通じて、17世紀なかばまでに、戸籍制度に相当する領民把握のシステムを創出した。(p.221~2)

『天皇の世紀』(大佛次郎 文春文庫)
 江戸時代を通じて長い年月の間、日本に於ける切支丹宗門の絶滅を政府が方針としたのは、島原の乱のような大規模な農民の一揆が以前にあって、その再発を現実に恐れた故もある。幕府を中心とした封建体制を維持する上に、異国の勢力が国内に入るのを排斥した鎖国政策と並んで、切支丹を絶対に国内に入れまいとしたので、これが幕府という大建造物の大切な土台石となる方針なのを信じて採ったことである。鎖国に依って外国人の入国を拒絶したところで、切支丹信仰という西からの勢力が国内に浸潤するのを許して置いては、幕府の体制が知らぬ間に危うくなる。
 切支丹に迫害を加えたのは、鎖国が発令される以前からであった。為政者は切支丹の絶滅を期待した。代々それこそ極度で、周到なものであった。一人なりとも、生かしておかぬ方針だったとも言える。いつの世にも人間の弱いところで役人たちは地位の安全を計って上からの命令を極限まで持って行った。手柄を立て他人の犠牲の上に自己の利益を打算した。刑罰は手段を尽して惨虐なものに化した。隠れている信者への見せしめと考えた。(第11巻 p.14)
 冒頭から息を呑むような緊迫した場面の連続です。見つかったら命にかかわる密入国と潜行、隠れキリシタンの村人たちとの交流、彼らに対する凄惨な迫害、殉教と棄教に揺れるキリシタンたち、そして杳として分からぬ師の行方。まだ生きているのか、殺されたのか、まさかキリスト教を棄てたのか。彼らの不安と苛立ちがひしひしと迫ってきます。そしてとうとう捕えられたロドリゴに対して、長崎奉行の井上筑後守は棄教を迫ります。しかも彼を拷問にかけるのではなく、彼の面前で日本人の信者たちを拷問にかけることによって。彼が信仰を守り抜けば信者は苦しみの末に殺される、彼が信仰を棄てれば信者の命は助かる。苦悩するロドリゴ、拷問にさらされ塗炭の苦痛に喘ぐ信者たち、しかし神は黙っています。

 たいへん重いテーマです。人々の苦しみに対してなぜ神は沈黙しているのか。この当時も、そして今も、日本や世界各地で苦しむ人々を、神はなぜ放置しているのか。スコセッシ監督は答えを出していません。答えではなく問いかけを、私たちにつきつけています。いっしょに考えましょう、と。

 たまたま最近読んだ『釜ヶ崎と福音』(岩波現代文庫)のなかで、本田哲郎司祭はこう述べられていました。
 わたしたちは礼拝で、手を合わせ、心を澄ませて、「神さま、あなたが全能であることを信じます。どうか、この人の病気を治してください」と祈るわけですが、それで病気が治るのだったら、医者はいりません。しかし、わたしたちはけっこう本気で、そう信じてしまっているところがあります。祈れば治るはずだ、と。アフリカで飢饉に苦しんでいる人を助けたいと思って、自分は動かずに一所懸命祈って、こう期待する。「神さまは、きっと飢えている人たちに食物を送ってくださるはず」と。自分が動いて、自分で送らなければ、あるいは仲間たちに声をかけ、呼びかけて行動にむすびつけなければ、神の力のはたらく場がないのです。神は、必ず人間をとおしてはたらかれる。これが神のはたらきなのです。
 「では、神など信じず、人間が自助努力をすればいいというのと同じではないのか?」 人間の力には限界があり、弱さもあって、それをのりこえるためには、それ以上の力がいる。そこに神の力がはたらく。神が共にはたらいてくださるという実感、それは自分のささやかな体験の中で見いだしていくしかない。(p.171)
 神は何も語らず何もしない。しかし神はいつも共にいてくれる、そして人間をとおして苦しむ人びとを救う、これが答えのひとつなのかもしれません。

 もうひとつ興味深い…というよりも心胆が寒くなったのは、「日本は沼のような国だ」という台詞です。たぶん信念が根づかずに、立ち枯れてしまう文化風土だということだと思います。信者たちの信念を棄てさせて権力に屈服させる文化。ほんとうに信念を棄てたか否かは問わず、また新たな信念を強要もせず、外見だけでも権力に屈従すれば生存を許される文化。
 そういえば小倉寛太郎氏が、講演のなかで次のように話されていました。
 それでは、労働組合の役目とは何か? まずは労働者の錯覚を正すことにある。その錯覚とは「自分(労働者)はこの企業で働くために生まれてきた/この企業のために生きている」ということである。もう一つは、無能・無責任な経営者を監視すること、経営の在り方についてのお目付役をすること、失敗したら経営者にきちんと責任を取らせること、である。ところが経営者側にとっては、そんなことはさせたくない。そこで経営者側の反撃が始まる。労働組合を丸抱えするか(御用組合化)、分裂させるか(第二組合の結成)である。後者のケースが多いが、そこで経営者が行なうのが組合分裂工作、つまり脅迫と誘惑である。第一組合に残れば「出世をさせない」と脅かし、第二組合に入れば「主任にしよう」と誘惑する。人間は「正しい/正しくない」という行動基準を持つべきだが、しかし人間は弱いものでもある。経営者側の脅迫と誘惑にあい、損得勘定をし、正/不正を考えず、自分の弱さに屈し、第二組合に移ってしまう人が多い。つまり、組合分裂工作とは、人間が自分の弱さに屈することにお墨付きを与える、いいかえれば企業による人間性の破壊である。
 国歌や国旗の強要も、この文脈でとらえられるかもしれません。ほんとうに日本を愛しているのかは問わないし、愛するに値する国であるか否かもどうでもいい。とにかく外見だけでも権力に屈服しろ、と。「正しい/正しくない」という行動基準を立ち枯らせる沼のような国…

 以前におとずれた出津で、「沈黙の碑」に出会いました。本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-15 06:25 | 映画 | Comments(0)

『高木仁三郎セレクション』

 政府は、福島原発事故による避難地域の指定をせっせと解除しています。事故原因の究明も進まず、その収束の見通しもつかず、放射性廃棄物の対策もたてられず、放射能はだだ漏れし、原発事故避難者に対するいじめが蔓延し、被害者への補償が打ち切られるといった暗澹たる状況が続いているのに。ハロルド・ピンター氏が言ったように、『何も起こりはしなかった』ことにしたいのでしょう。政治家・官僚は権力を保持するために、自らの生命に関わる真実についてさえ無知である状態に大衆をとどめようと、さらに言葉を操ることによって、事実や真実を覆い隠す。こうした凄惨な事故を引き起こした方々、東京電力、自民党、関係省庁の官僚、原発利権にたかってきた学者やメディアは万死に値するはずです、死刑制度には反対ですが。しかしまともに責任を取ろうとせず、あろうことか再稼働と原発輸出に血道をあげている始末。そして無関心が夜の闇のように、私たちを包み込んで眠らせようとしています。

 こういう状況であるからこそ、原子力発電に反対し、市民の側に立った発言と行動を続けた科学者・故高木仁三郎氏の謦咳に接したいと考え、『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)を読みました。裏表紙の紹介文を転記します。
 生涯をかけて原発問題に取り組み、最期は原子力時代の末期症状による大事故の危険と、放射性廃棄物がたれ流しになっていく恐れを危惧しつつ2000年にガンで逝去した市民科学者・高木仁三郎。3・11を経てその生き方と思想と業績にますます注目が集まっている。厖大な著作のなかから若い人に読み継がれてほしい二十二篇を精選した文庫オリジナル編集版。
 静謐にして論理的な叙述、エコロジーという観点からの根本的な批判、そして市井の人びとが安心して暮らせるために科学者はどうあるべきかを常に考える姿勢。今なお、多くのことを教示してくれます。いくつかを引用します。
 今度の連続講座をやって、改めて20世紀というのは、つくづく戦争の時代だったなと思うのです。第一次、第二次世界大戦があって、その戦争によって科学技術が発達した。そして、そのカッコ付きの平和利用というか、商業利用、民事利用によって戦後世界は発展してきたのだけれども、それが、いまドサッと問題を出してきた。
 原子力はもちろんそうだし、環境ホルモンもそうだし、ダイオキシンなんかは典型的です。アルミニウムも、いま議論があるところですが、少なくとも危険因子として、やめたほうがいいという話になっています。軽くて固いといったことで、アルミニウムとその合金が使われだすのは、圧倒的に第二次世界大戦の戦闘機その他軍需からなのです。その他の化学物質も、第一次、第二次世界大戦の、戦争のためのいろいろな需要です。その技術の基本原理は殺りく・破壊と競争です。非常に効率よく人を殺せたり、大量に破壊できたり、攻撃に強かったり、攻撃しやすかったりという、強さとか速さとかが、技術の価値の基準になっていた。軍事技術ですから、もちろん安全は二の次だし、あとのゴミをどうしようなんていうことは考えてもみなかった。基本的に刹那主義です。しかも、人間を個としてではなく、マスとして対象としているから、個人に対しては抑圧的・反人権的になる。(p.35~7)

 その背景には、一度決めた計画の非は認めたがらないという官僚機構の問題や、すでに多くの投資をし多くの技術者を抱えている原子力産業の慣性や結んでしまっている商契約による拘束というようなことが絡んでいよう。(p.121~2)

 しかし、これは実験のやりようがないんですね。原子力発電の事故の実験なんてできないわけですから。われわれの常識からいって、普通の実験科学者-私は実験科学者ですが-実験科学者の常識からいうと、実験というのはせめてデータを数十例とりたいですね。たとえば、こういう条件だったら放射能はアウト、完全に漏れちゃった、こういう条件だったら漏れなかった、そういうのをそれぞれ何点もとってみて、こういう条件だったらこの装置はうまく動くという条件を決めて、この装置を使う。こういうふうにしたい。ところが一回漏れたら大災害ですからね。だからそんな実験はできない。
 …ですから、いままでの実証科学という概念が崩れてしまう。完全に。(p.236~8)

 しかし、科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。(p.261)

 核エネルギーは、したがって、どんなに平和的にみえる民生利用の場面においても、常に、大量殺りく技術としての牙をむき出しにする可能性を秘めており、この技術の利用は常に緊張のもとに置かれざるをえない。そのため、その利用の推進は、中央集権的な管理体制のもとで、厳重に情報や施設への市民の接近を制限しながら行われることになる。
 かくして、一見非政治的にみえる核エネルギーの推進も、強大な政治権力を背景にしてのみ可能となるという意味において、市民生活に対して政治的支配力をもってしまうのである。そして、むしろその支配力が政治権力にとって魅力となっているとさえ思われる。日本も含めて原子力を推進するほとんどの国々において、実際には核エネルギーがその国の一次エネルギー生産のうちに占める比率は10パーセント以下であるにもかかわらず、このエネルギーの開発に、予算・人材など最大限の精力を傾注し、また、民主主義の原則を否定するような情報の非公開性に各国政府がかくも鈍感でいられるのも、右に述べたこのエネルギーの支配力の魅力の故ではないだろうか。(p.331~2)

 核テクノロジーと人間社会との間に存在する上述のような本質的な非和解性は、さまざまな困難となって現れるが、そのしわ寄せは必ず、もっとも底辺的なあるいは辺境的な人々や社会に押しつけられてくる。これが、核の生み出す差別である。(p.357)
 権力や利潤のためではなく、市民の安心のために貢献する科学技術の必要性。市民と不安を共有し、市民とともに働くという科学者の責務。生涯をかけて、それらを追い求めたその志の高さには感銘を受けます。原子力産業で権益を手にしている方々の燃料となる無関心、無力感、知的・倫理的怠惰を払拭して、彼の跡を継ぐような市民科学者と共に歩んでいきたいと思います。

 追記。最後の解説で、編者の佐高信氏がこう書いておられます。
 高木の一生は、まさに国から民間にパブリックを取り戻す闘いに終始した。
それを恐れたから、国策として原発を推進する有象無象が高木を脅かしたのである。『週刊現代』の2011年5月21日号で、パートナーの高木久仁子がこう言っている。
「嫌がらせはいろいろありました。注文してもいない品物が自宅に届けられたりするのはしょっちゅう。散歩途中に車に轢かれそうになったことも一度や二度ではありません。自宅の前には不審な人物がいつも張り付いていて、講演に出掛けると、一緒に電車に乗ってくる。いちいち驚いていられないほどです。こちらは常に緊張していたけれど、彼は淡々としていましたね」 (p.373)
 嘔吐を催すぐらい卑劣な連中とシステムですね。ここまでして守らなければならないというところに、原子力発電のいかがわしがよくあらわれています。それにしても、反原発運動にさまざまな妨害・いじめ・嫌がらせを行なっている"有象無象"の正体および実名をぜひ知りたいところです。ま、だいたい想像はつきますが。

 追記その二。毎日新聞(17.3.13)によると、東京都内で11日にあった東日本大震災の政府主催の追悼式で安倍晋三伍長が「原発事故」の文言を式辞で使わなかったそうです。福島県の内堀雅雄知事は13日の定例記者会見で、「県民感覚として違和感を覚える。原発事故、原子力災害という重い言葉、大事な言葉は欠かすことができない」と批判したそうな。やっぱりね、何も起こりはしなかった、か。
by sabasaba13 | 2017-03-14 06:34 | | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(6):八広(16.10)

悼む人々 「四ツ木橋」のたもとに建った碑

 1970年代。足立区の小学校で教鞭をとっていた絹田幸恵は、研究熱心な先生だった。近くを流れる荒川放水路が人工の川であることを子どもたちに教えるために、自分の足で放水路の歴史を調べ始めたのである。土木工事について基礎から勉強し、関連部署に通って資料を集め、話を聞く。さらに絹田は、土地の老人たちに開削当時のことを聞いて歩くようになった。
 77年ごろのある日、一人の老人を訪ねた絹田は、その話に衝撃を受ける。関東大震災のとき、荒川にかかっていた旧四ツ木橋周辺で大勢の朝鮮人が殺され、その遺体が河川敷に埋められたというのだ。老人は「お経でも上げてくれれば供養にもなるのだが」とつぶやいた。
 「大変なことを聞いてしまった」。絹田はそう思った。その後も、何人もの老人たちから同様の話を聞いた。絹田は、いまだ埋もれているであろう朝鮮人たちの遺骨を発掘し、老人の言う「供養」を実現したいという思いをふくらませていく。
 どうしたら発掘が実現するのか、どうすれば「供養」になるのか。分からないまま、たった一人で模索を始めた彼女だったが、次第に志を共有する仲間たちが集ってきた。こうして82年、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(後に「慰霊」から「追悼」に改名)が発足する。この年、行政との交渉の結果、ごく短期的な試掘が許され、遺体が埋まっている可能性が高い堤防と河川敷のうち、発掘が可能な河川敷3ヵ所を試掘することができた。
 だが遺体は出てこなかった。その後、1923年11月半ばに、警察が2度にわたってこの一帯を掘り返して遺体を持ち去っていたことが、当時の新聞資料でわかった。「追悼する会」は、その後も地域での聞き取りを続けた。証言者の数は10年間で100人を超える。1923年9月の旧四ツ木橋の惨劇は、こうした努力によって明らかにされてきたのである。
 遺骨の収集が果たせなかった「追悼する会」は、「供養」を追悼碑の建立によって行うことを決める。絹田と仲間たちの、新しい目標だった。
 「朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし」
 震災の1年後、「民衆の弁護士」と呼ばれた山崎今朝弥が書いた一文である。植民地支配を美化するスローガンとして当時、「内鮮融和」という言葉が使われており、山崎の「日鮮融和」もそれを連想させる表現だが、彼の思想性を考えれば、ここでは「日朝両民族の和解」といった意味で使っているのだろう。
 震災後、朝鮮人虐殺の事実が広く明らかになったにもかかわらず、政府や行政はその責任をまったく認めず、もちろん政府としての謝罪もなされなかった。わずかな数の自警団員が、非常に軽い刑に服しただけであった。
 追悼の動きはないわけではなかったが、やはり不十分なものだった。山崎の言うような「塚」は、埼玉、群馬、千葉など、ひどい虐殺があった場所で民間の手によって確かに建てられたが、その碑文には朝鮮人たちが虐殺によって命を落としたという事実を明記したものはひとつもなかった。約100人が殺されたと見られる埼玉県本庄市でも、震災の翌年、慰霊碑が建立されたが、そこにはただ「鮮人之碑」とだけ彫られていたのである。朝鮮人の理不尽な死を悼む思いがあるからこそ、彼らは慰霊碑を建てたのだろうが、その一方で、地域の人々こそが彼らを殺したのだという重い現実を直視できなかったのであろう。
 もちろん、当局がそれを望まなかったことも大きい。朝鮮人団体や労働組合、キリスト教徒などは震災直後から抗議集会、あるいは追悼集会を開いたが、それらは警察の強硬な取締りを受けた。集会で朝鮮人が抗議の声をあげると、たちまち集会への解散命令が下り、警官隊がなだれ込んでくるのが常であった。政府は、虐殺の事実を忘れさせたかったのである。
 とはいうものの、首都周辺でこれだけの虐殺があったのに政府として追悼のポーズを見せないわけにはいかず、政府に近い立場の人々が集まり、震災の翌々月、10月28日に芝増上寺で「朝鮮同胞追悼法要」が開かれた。これは、死者を追悼してみせつつ、虐殺への怒りも責任も不問にする性格のものだった。まさに先に書いた「内鮮融和」を狙ったものである。東京府知事や国会議員たちが、神妙な顔つきで列席した。
 このとき、ひとつのトラブルが起きたことが記録されている。法要の発起人にも名を連ねた朝鮮人の作家、鄭然圭(チェン・ヨンギュ)の弔辞朗読を認めずに式を進めようとして、主催者が鄭の抗議を受けたのである。鄭はその数日前、新聞の取材に対して、司法省の発表した朝鮮人被殺者数(233人)は桁がひとつ違っているのではないか、罪は自警団のみで警察や軍の落ち度はなかったのか、とコメントしていた。そのため、主催者は鄭の弔辞を恐れていた。
 予定されていた鄭の弔辞朗読を無視して、司会が焼香に移ろうとしたとき、彼は立ち上がって霊前に進み、列席者に向かってこう叫んだ。
 「諸君は何故に私の弔辞を阻止するのだ。人類同愛の精神によって敢て主催者の一人に加わり今日の美しき法要に加わった私の立場が斯くも虐げられるとは、諸君の或る者が強いて行ったことに相違あるまい。思わざる不幸である。今日の此醜態は一生忘れることが出来ぬ」
 鄭然圭は自らも自警団に襲われ、警察に収監された経験を持つ。また惨劇後の亀戸署を取材し、ゴミ捨て場に投げ捨てられた白骨も目撃している。現実に目を背ける者たちへの怒りと無念が「美しき法要」という反語的表現に表れている。司会はこのとき、弔辞朗読を飛ばして焼香に移ったのは「多忙の際の手落ちである」と言い訳したという。
 彼は霊前に立ったまま、弔辞を読み始めた。
 「1923年10月28日 小弟鄭然圭。血涙に咽び悲嘆にくれ、燃え猛ける焔の胸を抱いて、遥々故国数千里を隔て、風俗水土異り思い冷たく瞑する能はざる異郷の空に、昼は日もすがら哭く。夜は夜な夜な夜もすがら迷い泣き廻る。故なく惨殺されてなほ訴ふるところもなき我同胞が三千の亡き霊に、腹ちぎられる思ひの追悼の辞を、同じ運命が未だ生き残りたるけふ(今日)の命ある半島二千万同胞の一人として、謹み悲しみに涙をのんで捧げまつる。願はくば諸霊よ、あまり働することなく哀しみうけ給へ」
 戦後、行政の妨害を受けずにすむようになると、在日朝鮮人による追悼碑の建立が各地で行なわれた。また日本人が主導する碑の建立もあらためて行われるようになった。それまで碑がひとつも存在しなかった東京でも、震災50年の節日となる1973年、超党派の国会・地方議員にも協力を得て、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が横網町公園内に追悼碑を建立した。
 しかし、朝鮮人虐殺を研究する山田昭次は、戦後に日本人主導で建立された慰霊碑にも依然として問題が残されていたと指摘する。関東大震災時に朝鮮人が「殺された」ことをしっかり書くようになったのは前進としても、では「誰が殺したのか」を明確にしたものがないというのである。
 その状況を変えたのが、旧四ツ木橋で殺された人々の追悼を続けていた「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」だった。2009年8月、彼らはようやく碑の建立を実現する。それは、震災から80数年を経て初めて、「誰が殺したのか」をはっきりと直視する内容だった。

「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」
 (碑文)
 1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、殖民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
 2009年9月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか

 この「追悼之碑」は、虐殺現場となった旧四ツ木橋(今は存在しない)のたもと付近にあたる土手下に置かれた。会では当初、河川敷への建立を目指していたが行政の協力を得られなかった。そのとき、この場所をゆずりたいという人が現れたのである。追悼碑の周りには、朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。毎日のように掃除に来てくれる地元の人もいて、碑は常に美しく保たれている。追悼碑に手を合わせた後で、追悼する会のメンバーに「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と打ち明けた人もいたという。
 旧四ツ木橋の虐殺の事実を知って衝撃を受け、「供養」をしたいと願い続けた絹田幸恵は、08年2月、追悼碑の完成を見ることなく、肺炎のためこの世を去った。77歳だった。もうひとつのライフワークとなった荒川放水路の研究は、小学校教員を退職した2年後に「荒川放水路物語」にまとめられた。彼女のただ1冊の著書である同書は、91年に土木学会・出版文化賞を受賞している。
 「追悼する会」は、試掘を行った82年以来、毎年9月に「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」を旧四ツ木橋に近い木の根橋付近の河川敷で今も続けている。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。
 2013年9月8日には、中国人犠牲者の追悼集会も行われた。「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」と題されたこの会には、大島で虐殺された人々の遺族が来日して参加。そのなかには、逆井橋で軍人に殺された活動家、王希天の孫の姿もあった。(p.175~81)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-13 06:56 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(5):八広(16.10)

兵隊の機関銃で殺された 1923年9月 旧四ツ木橋

 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団など一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言もいくつも掲載されている。
 一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、自警団が朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろん、それは誤りではない。しかし、それだけでは行政が果たした役割が抜け落ちてしまう。正力松太郎などの警視庁幹部、そして内務省警保局などが、流言を事実ととらえて誤った情報を拡散していたことについてはすでに触れた。正力は、2日の時点では軍も朝鮮人暴動を信じていたと語っている。
 実際、軍の記録を見ると「目黒、世田ヶ谷、丸子方面に出動して鮮人を鎮圧」「暴動鮮人沈(鎮)圧の為、一中隊を行徳に派遣す」などの文字が出てくる。
 近衛師団とともに戒厳の主力を担った第1師団の司令部は、3日には「徒党せる鮮人の暴行は之を認めざる」という判断に落ち着いたものの、各地に進撃した部隊は、多くの朝鮮人を殺害していた。
 前掲書によれば、旧四ツ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。ここでは日付は区切らず、旧四ツ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

 「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

 「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉) (p.76~8)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-12 06:29 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(4):八広(16.10)

体に残った無数の傷 1923年9月4日 火曜日 午前2時 京成線・荒川鉄橋上

 一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で叫び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張り上げました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が降り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。(慎昌範)

 慎昌範(シン・チャンボム)が日本に来たのは震災直前の8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのだという。関西を回り、30日に東京に着いた。
 9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。
 「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」
 その後、燃えさかる街を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。東京で暮らす同胞も合流していた。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。この鉄橋は今も同じ位置にある。当時の荒川駅、今の八広駅の目の前だ。当時はすぐ横に平行して旧四ツ木橋がかかっていた。
 深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうか確かめているようだった。そして、鉄橋に上がってきた彼らが、冒頭の惨劇を引き起こしたのである。
 林善一(イム・ソンイル)が日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎は、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだ。
 だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられ、よけようとして小指を切断される。
 慎は飛びかかって抵抗するが、次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神した。慎にその後の記憶はない。気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめたのだ。
 10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移される際、彼は朝鮮総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でもまともな治療は受けられず、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
 慎の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指に加えて、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足の内側にある傷は、死んだと思われた慎を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。(p.69~71)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-11 06:28 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(3):八広(16.10)

「何もしていない」と泣いていた 1923年9月 荒川・旧四ツ木橋付近

 曺仁承(チョ・インスン)は、1923年9月2日午前5時、旧四ツ木橋の周辺で薪の山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間に、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。調査の時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
 ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言をすることに二の足を踏む人は、仮名の証言になっている。同書から、9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして貴重な証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略) 雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」 (永井仁三郎)

 「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうへ行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」 (井伊〈仮名〉)

 「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」 (青木〈仮名〉)

 「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」 (池田〈仮名〉)

 「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んでいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成したものだ。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で殺されたのである。(p.52~4)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-10 06:30 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(2):八広(16.10)

 なおこの事件については、『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)に詳細な叙述があります。長文なのですが、とても大事なことですので引用します。
薪の山のように 1923年9月2日 日曜日 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近

 (9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14人でかたまっておった。女の人も2人いた。
 そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
 翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
 橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。

 曺仁承(チョ・インスン)は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪などを経て東京に来てから一カ月も経っていなかった。
 9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。闇の中でも、都心方向の空は不気味な赤い炎に照らされていた。
 曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされていた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。
 同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり付くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。
 証言のなかで四ツ木橋とあるのは、現在の四ツ木橋や新四ツ木橋ではなく、京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にあった旧四ツ木橋のことである。…この橋は、震災直後の被災地域と外とを結ぶ重要なルートとなった。
 曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
 そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や木刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。(p.30~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-09 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(1):八広(16.10)

 関東大震災虐殺行脚の旅、いよいよ地元の東京で大団円をむかえます。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三 新潮文庫)をバッグに入れて、いざ出発。

 練馬駅から都営地下鉄十二号線に乗って新宿へ、都営新宿線に乗り換えて馬喰横山へ、そして都営浅草線に乗り換えて八広駅で下車。墨田区八広6-31-8にある追悼碑を訪れました。印刷して持参した地図を片手に、かつて惨劇が起きたことなど想像もできない静謐な町のなかをすこし歩くと、すぐに見つかりました。家と家に挟まれた小空間に、無骨ながらも力強く「悼」と刻まれた小さな碑でした。

 合掌

 裏に刻まれていた碑文を転記します。
 一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか
 またそのとなりには、建立した由来についての説明がありました。
 関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼碑 建立にあたって

 一九一〇年、日本は朝鮮(大韓民国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
 一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
 六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
 韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。

二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-08 06:29 | 東京 | Comments(0)

少女像5

 さて、私たちはこの問題に対して、どう向き合えばよいのでしょうか。もちろん一朝一夕に解決できる容易な問題ではないことは、重々承知しています。私も意見もまとまりません。ただ、逃げるのを、隠すのを、忘れるのをやめて、知り、考え、議論をすべきだとは思います。

 最期に、その際に導きの糸になる文章をふたつ紹介して、筆を置きます。

 まずは『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されていた、戦争責任問題に関する研究と政治的運動実践に長年従事してきた大沼保昭氏の言葉です。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 もうひとつは、加藤周一氏の随筆「春秋無義戦」の最後の部分です。(『夕日妄語2』 ちくま文庫)
 問題は、いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観-もしそれを文化とよぶとすれば、いくさや犯罪と密接に係りあった文化の一面との断絶がどの程度か、ということである。文化のそういう面が今日まで連続して生きているとすれば、-今日の日本においてそれは著しいと私は考えるが、-そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない今日の問題である。
 過去の犯罪の現存する条件を容認して、犯罪との無関係を主張することはできない。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決をしないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうとしないかぎり。
 たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別-そういうことと無関係に日本帝国主義は成立したのではなかった。また過去の日本帝国主義に対する今日の日本国の態度と無関係に、自衛隊員の海外活動に対するアジア諸国民の反撥と不信感があるのではない。
 自衛隊の海外活動第一年、一九九二年の暮に私の妄想はこの国の来し方行く末に及ぶのである。(92.12.17) (p.68)

by sabasaba13 | 2017-03-07 14:11 | 鶏肋 | Comments(0)