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関東大震災と虐殺 2

 二つめ、被害者の数を明示していないこと。もちろん正確な数字がわからないのは重々承知しておりますが、研究の進展によって概数はほぼ明らかになっていると思います。研究者の松尾章一氏によれば、朝鮮人が六千人以上、在日中国人が七百人以上です。〔『世界史としての関東大震災』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社) p.4〕
 三つめ。事件発生直後から、政府・軍・警察がその真相を隠蔽したこと。そして現在にいたるまで、政府は虐殺の責任を認めず、遺族に謝罪せず、犠牲者やその遺族についての調査を行なっていないこと。これらについてこの教科書は一切ふれていません。
 四つめ。「流言」の内実についてふれていないこと。民衆によるものだけではなく、内務省・軍・警察が率先して流言を発信していたことが明らかになっています。
 五つめ。「人為的な殺傷行為」「多くの朝鮮人が殺傷された」とあるように、殺傷(虐殺)を行なった主体がぼかされていること。これも軍や官憲の責任を曖昧にするための所為でしょう。
 六つめ。戒厳令についてふれていないこと。大辞林によると、戒厳とは「戦時またはこれに準じる非常事態の際、立法・行政・司法の事務の全部または一部を軍隊の手にゆだねること」です。この関東大震災において戒厳令を施行したということは、政府が「戦時またはこれに準じる非常事態」であると認定したことを意味します。つまり朝鮮人に対する戦争ですね。民衆が大規模な殺戮におよんだのも、戒厳令によって「朝鮮人=敵、つまり殺してもかまわない」という意識が蔓延したからではないでしょうか。これはきちんと指摘すべきでしょう。
 そして最後に指摘したいのは「市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使した」という表現です。"例外的とは言い切れない規模"??? このまわりくどい物言いの意図は何なのでしょう。ちょっと穿った見方をすれば、「日本の市民・警察・軍が大規模な虐殺を行なった事例は、例外的なものではなく、しばしばあった」という叙述にしようとした著作者に対して、文部科学省が圧力をかけた可能性もありますね。国家と民衆が犯した罪を明記しようとした著作者と、国家の犯罪をできるだけ隠蔽したい文科省官僚のせめぎ合いによって、このような隔靴搔痒的文章になったのかもしれません。

 というわけで、教科書に頼ってはいられません。自分なりにいろいろと調べたことを披露したいと思います。参考文献を下に列挙しておきました。本文中の丸数字は、当該文献を指しています。

①『関東大震災・虐殺の記憶』 (姜徳相 青丘文化社)
②『戒厳令』 (大江志乃夫 岩波新書37)
③『関東大震災と朝鮮人虐殺』 (姜徳相・山田昭次・張世胤・徐鐘珍ほか 論創社)
④『震災・戒厳令・虐殺』 (関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編 三一書房)
⑤『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』 (山岸秀 早稲田出版)
⑥『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 -虐殺の国家責任と民衆責任』 (山田昭次 創史社)
⑦『関東大震災と戒厳令』 (松尾章一 吉川弘文館)
⑧『関東大震災』 (吉村昭 文春文庫)
⑨『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』 (加藤直樹 ころから)
⑩『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』 (田原洋 岩波現代文庫)
⑪『地域に学ぶ関東大震災』(田中正敬・専修大学関東大震災史研究会編 日本経済評論社)
⑫『大正大震災 -忘却された断層』 (尾原宏之 白水社)
⑬『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』 (関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)
⑭『地域に学ぶ関東大震災 千葉県における朝鮮人虐殺 その解明・追悼はいかになされたか』 (田中正敬・専修大学関東大震災史研究会編 日本経済評論社)
⑮『いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人』 (千葉県における追悼・調査実行委員会編 青木書店)

 追記です。「釜山聯合ニュース」(17.8.30)によると、1923年の関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺事件の被害者遺族が、真相究明と賠償を求めるために遺族会を立ち上げたとのことです。日韓の協力で歴史の闇を、白日の下に晒してほしいですね。期待しています。
by sabasaba13 | 2017-08-31 07:55 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

不染鉄展

c0051620_6205432.jpg 先日、吉田博展を見て、いたく感銘を受けたことは拙ブログで報告しましたが、その際にこれから開かれる展覧会のチラシを何枚かいただきました。食指を動かされたのが、「鈴木春信展」(千葉市美術館)、「長沢芦雪展」(愛知県美術館)、そして「不染鉄展」(東京ステーションギャラリー)です。ふ・せんてつ? ふせん・てつ? 恥ずかしながらはじめてその名を聞きました。ただチラシに載っていた絵に眼を引き付けられました。威厳ある富士とそれを取りまく村々を鳥瞰して描いた「山海図絵」、陸に打ち上げられた巨大な廃船を描いた「廃船」、一台の古ぼけた自転車を描いた「古い自転車」。心がざわつくような不思議な、そして魅力的な絵です。いったいどういう方なのでしょう、興味をひかれて先日東京ステーションギャラリーに行ってきました。

 まずはチラシにあった展覧会の概要を転記します。
 不染鉄(ふせん てつ)を、ご存じですか。
 不染鉄(本名哲治、のち哲爾。鐵二とも号する)は、稀有な経歴の日本画家です。日本画を学んでいたのが、写生旅行先の伊豆大島・式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。才能を高く評価されながら、戦後は画壇を離れ、晩年まで飄々と作画を続けました。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。画業の多くは、謎に包まれてきました。
 その作品も、一風変わっています。富士山や海といった日本画としては、ありふれた画題を描きながら、不染ならではの画力と何ものにもとらわれない精神によって表現された作品は、他のどの画家の絵とも異なり、鳥瞰図と細密画の要素をあわせ持った独創的な世界を作り上げています。不染は「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」とし、潔白な心の持ち主にこそ、美しい絵が描けると信じて、ひたすら己の求める絵に向きあい続けました。
 東京初公開となる本展では、代表作や新たに発見された作品を中心に、絵はがき、焼物など約120点を展示し、日本画家としての足跡を、改めて検証するとともに、知られざる不染鉄作品の魅力を探ります。
 8月某日、東京駅北口にあるステーションギャラリーへ。初期の作品群から、魅了されてしまいました。山のふところに、海辺に、林の合間に、雪の中に、静かに佇む数件の家々。ときどき部屋の中にいる人影が見えるだけで、人の営みはほとんど描かれていません。しかし何と静謐で満ち足りた絵なのでしょう。人間は一人の個人としては生きていけない、家々=共同体に包まれながら自然に生かされているのだ、という作者のメッセージを感じます。
 そして画業が円熟するにつれて、彼の想像力の翼は大きくはばたいていきます。前述した「山海図絵」、「廃船」、波間にただよう一艘の船を描いた「孤帆」、薬師寺東塔や奈良の古寺をモチーフにした連作。中でも、私が大好きになった絵が二つあります。
 まず「海」(1975)。上部には岩場の海岸が描かれますが、絵の大半は紺碧の海です。深さを増すにしたがって色濃くなる海の中を、楽し気に遊弋する大小さまざまの魚たち。そして魚たちと戯れるかのように、海の中に茅葺きの家々が数軒建ち並んでいます。海と魚と共存する人間の共同体、何とも幻想的であたたかい絵です。
 もう一つは「古い自転車」(1968)。何の変哲もない、古びた自転車が描かれているだけの不思議な一枚です。なお申し遅れましたが、彼自身の朴訥な字で、絵にコメントがつけられている絵があるのも彼の特徴ですが、これもその一枚。こう記されています。
長いあいだ苦労したんだろうねえ。雨の日風の日色々の事があったんだろうねえ。此頃はピカピカの自転車の走るあいだをふらふら心細そうに走るのかねえ。こいつ何だか私に似てるよ。私は七十八だよ、いくらかふらふらだよ。君も少しさびてところどころはげているが私もはだかになれば君と同じさ。友達だねえ。これをかいていると色々思ひ出すねえ。春の櫻や夏の月やそれからそれとつきないねえ。今は冬の枯野かなあ。淋しいけれどこれもいいぜ。身にしみるなあ。仲よくしようよ。

文化館の展覧にお前をだしてやる 色々な人がお前を見るぞ。恥しくはない、恥しいのはきれいに見えるうそだ。お前よく知ってるだろう。眞實こそ天人ともに美しい。これをかいてるうちに信念のようなものが燃えてくる。うれしいなあ。何だかお前と俺とは一つものか自轉車と俺は同一人か。
 そして額縁にも、絵が描かれ、自らの一生をふりかえるコメントが記されています。
明治廿四年六月十六日東京市小石川区光円寺に生れる いてふ寺とも言はれる 秋になると黄色い落葉が雪吹のようになる 小學三年の時生れてはじめての船に乗せられ、房州富浦の漁村 西光寺へ行く 途中風雨はげしくとても恐ろしかった。
東京から来た児だと大事にされ あばれるので少しあきれられる
ようやく中學を卒業する。田端の山田敬中先生の門下生になる 父死ぬ。勉強する気になる。小さい展覧會に賞をもらふ。
廿四の時美術院研究生となる。女を知り身を持ちくずす。人間の淋しさを深く知り、一切のうそをやめようと思うようになる。中々できない。画がわかり始める。
廿七の春伊豆大島に渡る。三年を夢のようにくらす 画かきになりたいと思ひながら漁師の手つだいとなる 楽しい。
廿九の春花の京都へ来る。帝展入選。丗の時美校へ入學。潮風荒い大島の漁師から美しい美術學生となる
首席卒業となる 答辞を讀む 夢ではない。心配をかけたよ父よ母よ先生よ ほんとに一番だよ。これだけで生れた甲斐があったねえ。

戦後正強高校の校長を七年余やる。
校舎より生徒が大事だと思った。

西之京に住む
雪の北国
春の信州
南の国 みかんの丘の港
楽しい思出はつきない。こんな年?生きる。
美しい心のいい人にならなければねえ
七十四の時ここに住むようになる。まあ門番だねえ 役に立たない。とても静かでいい家だ。何不自由なくとても倖せだ。相野様では何の役にたたぬ私をとても大事にしてくれる この画は今ここでかいている 七十八の暮である 人生終りに近い。我まま一パイにくらしてきたのにこんなに倖せになる そこで此の作品は相野様に保存していただく。

昭和四十三年十二月二十九日 不染鉄
 文中にある"人間の淋しさ"という言葉が、彼の作品を理解するキーワードだと思いました。人間は淋しい、一人では生きていけない。だから縁者や知人と寄り添って村や町をつくり、自然や動物や植物と心を通い合わせながら生きていくものだ。あるいは、自分たちが精魂込めてつくった物、例えば古い自転車とも交感しながら。それが人間の幸せだ。彼の絵から、そうした懐かしくあたたかい思いを感じました。
 もう後戻りはできませんが、かつてこうした暮らしがあったのだと、素晴らしい絵として残してくれた不染鉄氏に感謝します。
by sabasaba13 | 2017-08-30 06:21 | 美術 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 1

 埼玉、群馬神奈川千葉(その一)千葉(その二)、そして東京と、関東大震災時の朝鮮人虐殺を追いかけてきました。これからも探究は続けるつもりですが、すこし立ち止まって、この出来事の全体像をまとめておきたいと思います。かなり長期の連載となりますが、おつきあいいただけると幸甚です。

 まずは受験生御用達の『詳説 日本史B』(山川出版社)から当該部分を引用します。
関東大震災の混乱
 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計の針はすべて吹きとばされた。地震と火災で東京市・横浜市の大部分が廃虚と化したほか、東京両国の陸軍被服廠跡の空地に避難した罹災者約4万人が猛火災で焼死したのをはじめ、死者・行方不明は10万人以上を数えた。全壊・流失・全焼家屋は57万戸にのぼり、被害総額は60億円をこえた。
 関東大震災後におきた朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に類をみないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者10人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。(p.331)
 うーむ、隔靴掻痒というか、奥歯に物をはさむというか、オブラートに包むというか、曖昧模糊とした言い回しですね。責任を問われないようにしながら重要な事実を隠蔽する、まるで官僚が書いたような文章です。

 例えば、"虐殺"を"人為的な殺傷行為"とする言い換え。人間の尊厳をふみにじるような殺し方を"虐殺"と定義するならば、数多の証言がその多発を示しています。例えば『関東大震災 記憶の継承』(関東大震災90周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)によると…
 首が肩の際から切り取られている(永代橋)
 二十人位の首を日本刀で切っていた(砂町小学校)
 土手の桜並木に一人ずつ縛りつけ兵士が「今夜ぶった切る」(赤羽土手)
 電柱に縛られ傍らに「不逞鮮人なり、殴る蹴るどうぞ」と棍棒まで置いてある(洲崎)
 堀に飛び込んだ人に石を投げつけ、沈み、浮いたらまた投げる(上野科学博物館裏)
 遠くから石を持って打ち殺した(下谷)
 蓮田で女性の急所を竹槍で突き通して殺したのを見た(墨田雨宮ヶ原)
 腹を裂かれ胎児がはらわたの中にころがっている妊婦の陰部に竹槍が(大島)
 針金で縛り焼け残っている火の中へ放り込む(浅草公園)
 材木に縛りつけて燃えている上野駅の火中に投げ込んで焼殺(上野)
 四人を針金で縛し一升瓶の石油をぶっかけて火をつけた(被服廠跡)
 五~六人を石炭の焼け残りの火中に投げ込んだ(月島三号地) (p.141~2)
 また『関東大震災と朝鮮人虐殺』(山岸秀 早稲田出版)では次のような証言が紹介されています。
 朝鮮人は、元荒川にとび込みました。…水の中でずいぶん苦しんでがまんしていたようですが、土手に引き寄せられたとおもうと、また水の中にしゃがんでしまいました。そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、それを脳天にぶっ刺し、引き寄せたのです。血と脳漿がふき出した。脳天から四筋も六筋も血が流れ、口の中へ入っていくのが目のあたりに見えました。(p.153)
 これが"人為的な殺傷行為"ですませられる殺し方でしょうか。撤退→転進、自殺攻撃→玉砕、敗戦→終戦、占領→進駐、核発電→原子力発電と同様、責任と真相を隠蔽するための官僚的言辞ですね。
by sabasaba13 | 2017-08-29 07:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

パリ・マグナム写真展

c0051620_6242651.jpg 先日、山ノ神と京都文化博物館で「パリ・マグナム写真展」を見てきました。「なぜ京都で?」と思われる方のために、話せば長いことながら説明いたします。先日、はじめて祇園祭を見てきたのですが、その際に参考としたのが『祇園祭の愉しみ』(芳賀直子 PHP)です。その中で紹介されていたのが大極殿本舗六角店の甘味処「栖園」の提供する美味しそうなスイーツ「琥珀流し」。宵山の日に寄ったところ、やはり長蛇の列でした。しかし名簿に名前を書いておけば順番が過ぎても優先して案内されるというでした。さあどこで時間をつぶすか、その時にすぐ近くに京都文化博物館があり「パリ・マグナム写真展」が開催されていました。しかし船岡温泉でひとっ風呂浴びて彫り物とマジョリカ・タイルを拝見することに決していたので、こちらはカット。そして銭湯で汗を流して「栖園」へ戻ると、長い行列にも拘らずすぐ席に通されて「琥珀流し」を楽しめた次第です。上質の寒天ゼリーにペパーミントのシロップ、舌をくすぐる官能的な触感と爽やかな香り、これは病みつきになりそう。なおこのシロップは月替り、八月には生姜味の冷やし飴。実は、五山送り火にも行く予定でしたので、ぜひ再訪しようと二人で誓い合いました。
 そして五山送り火の当日、午後四時半ごろに「栖園」に行くとやはり長蛇の列、しかも午後五時まで入店ということでした。うーむ、三十分か… とりあえず名簿に名前を書いて、「パリ・マグナム写真展」を鑑賞、三十分弱で鑑賞が終われば「栖園」へ、展覧会が面白ければキャンセルしてそのまま鑑賞を続行、という結論に達しました。結局、写真にひきこまれて「琥珀流し」はキャンセル、再訪を期すことになったわけです。
 長口舌で申し訳ない、何が言いたいかというと、この展覧会がおもしろかったということと、「琥珀流し」は美味しいということです。

 まずは「マグナム」について、博物館HPに掲載されていたサマリーを転記します。
 1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成されました。以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。
 本展は、2014年12月から翌年4月までパリ市庁舎で開催され、大きな反響を呼んだ展覧会の海外巡回展として企画。マグナム・フォト設立70周年にあたり、60万点に及ぶ所属写真家の作品の中から、パリをテーマにした作品131点を選び展観するものです。
 芸術の都・パリは多くの歴史的事件の舞台でもあり、かつ、写真術発明以来、常に「写真の首都」でもありました。20世紀の激動を最前線で見つめ続け、現代においても現在進行形の歴史をとらえ続けるマグナムの写真家たちが提示する豊穣なイメージは、都市とそこに生きる人々の歴史にとどまらず、写真表現の豊かさをも我々に提示してくれると同時に、世界を発見する驚きに満ちた写真家たちの視線を追体験させてくれます。
 第一部は「マグナム・ビフォア・マグナム 1932-1944」。マグナム設立以前に撮影されたロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真が中心です。水たまりを跳び越す男とその影、ブレッソンの有名な作品「サン・ラザール駅」(1932)を見ることができました。そしてナチス・ドイツによるパリ占領と傀儡政権の樹立、それに対するレジスタンスとパリ解放を記録した数々の写真も印象的でした。
 第二部は「復興の時代 1945-1959」。戦争は終結しましたが、荒廃したパリで、明るくたくましく、あるいは苦難に打ちひしがれて生きる人びとの姿がカメラにとらえられています。ポスターに採用された写真は、ロバート・キャパの「凱旋門」(1952)です。
 第三部は「スウィンギング・シックスティーズ 1960-1969」。社会に対する若者たちの怒りが爆発した「五月革命」をとらえた写真が心に残りました。投石やバリケードのためにはがされた歩道の敷石、壁をうめつくす政治的主張をこめたポスターやビラ、そして若者たちの怒りと不安に満ちた、しかし真摯な表情。この出来事を歴史にとどめようとするマグナムの写真家たちの気持ちあが、ビシビシと伝わってきます。
 第四部は「多様化の時代へ 1970-1989」。社会秩序の回復を求める声が高まる一方、慣習からの脱却を求める動きも活性化します。常識や慣習を疑い、人間についての考究を続けた思想家たち、ジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ミシェル・フーコーたちのポートレートが印象的でした。
 第五部は「解体の時代 1990-2014」。マグナムの写真家たちは、現在のフランスが抱える諸問題を四角いフレームに切り取り記録として残すことを継続します。移民・難民問題、あいつぐテロリズム、そして極右勢力の台頭とマクロン候補の勝利。とくに目を引き付けられたのが、パリ郊外の集合住宅に押し込められた移民たちの様子や暮らしを撮った写真です。絶望、諦め、怒り、不安、微かな希望、その表情やしぐさからさまざまな感情が伝わってきますが、テロリズムが蔓延する理由の一端を雄弁に物語っているように思えました。

 というわけで、たいへん充実した、心に残る写真展でした。写真家たちが切り取った現実の一部を、それにきちんと向き合い力を尽くして読み解くのが私たちの仕事なのだと思います。そして、過去に世界で何が起こって、現在の世界で何が起きているのか、人間がどういう状況に置かれているのかに思いを馳せる。そうすれば「DAYS JAPAN」の表紙に掲げられた言葉のように、「1枚の写真が国家を動かすこともある」かもしれません。あらためてフォト・ジャーナリズムに期待します。
 また錚々たる手練れのさまざまな写真を見て、構図の重要性をあらためて痛感しました。ちょっとした工夫で、安定感・緊迫感・スピード感などを表現できるのですね。アマチュア・カメラマンのはしくれとして、たいへん参考になりました。お土産のポストカードとして、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」、チェ・ゲバラ、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィスのポートレートを購入。

 マグナムの詳細な歴史と現状、所属した写真家のプロフィールと作品などについて知りたい方は、マグナム・フォト東京のサイトがたいへん参考になります。

 追記。以前に拙ブログで紹介したジョセフ・クーデルカの写真もありました。彼もマグナムの一員だったのですね。
by sabasaba13 | 2017-08-28 06:25 | 美術 | Comments(0)

追悼しないの? 小池知事

 わが目を疑うような、信じ難い記事を読みました。インターネット版「毎日新聞」(17.8.24)の記事です。以下、引用します。
小池知事 朝鮮人犠牲者慰霊式典へ追悼文送付を取りやめ

 東京都の小池百合子知事が、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する9月1日の式典への追悼文送付を取りやめていたことが分かった。歴代知事は毎年送付し、昨年は小池知事も送付していた。都の担当課は「知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。

 式典は市民団体などで作る実行委員会の主催で、都立横網町公園(墨田区)の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で毎年9月1日に実施される。この日は同公園内の慰霊堂で関東大震災と東京大空襲の大法要も開催され、歴代知事は毎年出席して哀悼の意を表した。都によると、少なくとも石原慎太郎氏ら歴代知事は、主催者の求めに応じて朝鮮人犠牲者の慰霊式典に追悼文を送付してきた。
 追悼文を巡っては、3月の都議会第1回定例会の一般質問で古賀俊昭都議(自民)が虐殺された人数に異論があるとして、「追悼の辞の発信を再考すべきだ」と発言。小池知事は「犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知している。毎年慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方が慣例に従って送付した。今後は私自身が目を通した上で適切に判断する」と答弁していた。
 都公園課の担当者は「(見合わせは)以前から検討していたこと。この答弁で決めたわけではないが、きっかけの一つとなったのは事実」としている。
 関東大震災50年の1973年に設置された追悼碑には「あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。【柳澤一男】
 いったいどういうことなのでしょう。理解できません。虐殺された人数がはっきりしなから、追悼しなくてもよいということなのか。あるいは地震と火災等でなくなった方々と一緒に追悼すれば事足りるということなのか。古賀俊昭都議(自民)と小池百合子都知事の言動から透けて見えるのは、「日本は素晴らしい国だ、その誇りを守るために過去の過ちはなかったことにしよう/忘れてしまおう」という発想です。やれやれお二人さん、ちょっとここに座って、『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されている、大沼保昭さんの言葉をよくお聞き。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 そう、過ちを認めない恥知らずな国になってほしくないのです、私は。失敗や過ちから学ぶことをしないから、この国はいまだに失敗と過ちを繰り返し続けているのではないですか。
 それにしても腑に落ちないのは、国家が犯した過去の過ちを認めない御仁が、なぜたくさんいるのかということです。素晴らしい国・日本が過ちを犯すはずがないという、単純かつ夜郎自大に思い込んでいるだけなのか。あるいはもっと深い狙いがあるのか。片山杜秀氏は『大東亜共栄圏とTPP』(ARTES)の中で、こう指摘されています。
 …福祉国家モデルが、いまつぶれようとしています。とくに日本。では、どうするのか。
 国が「面倒みます」とはいったものの、もう面倒をみられなくなった。面倒をみられなくなったのなら、同じ国で国民だとかいう必要ももうありません。道州制どころか国は分裂して、昔みたいな薩摩藩とか何藩だとかに分裂しちゃえばいいじゃないか、食えるところだけ食っていけばいいじゃないか、みたいな話になってきます。オレだけ食えればいいじゃないか、ということですね。そうなってしまったら、歴史は浅いけれども、今まで積み上げてきた近代国家のシステムは壊れてしまいます。国家を壊さないとするなら、どうするか。やはり福祉国家の破産後には、安上がりな連帯のしかけがまた帰ってくるでしょう。
 橋下市長がいっている《君が代》とかのポーズは、また戦争しましょうとか、また帝国主義のモデルに帰ろうといっているわけではありません。たんに、もう面倒はみられないんだけれども、だからといって、社会を壊してもらっては困るんですといっているわけです。いちおう日本国民じゃないですか、まあ仲良くして絆があるようなふりをしようじゃありませんか、錯覚して一生生きててくださいということなんですね。
 そのためには国旗とか国歌とかで、仲間だということにしておくのがよい。お互い面倒はみないけれど、仲間なんだよと。お互いが面倒をみないのになんで仲間なんだかわかりませんが、一緒なんだよ、日本人なんだよというわけですね。やはり、われわれはバカですから、国旗や国歌でなんとなく仲間かなと思っていると、何年かはごまかされます。やっぱり、おかしいかな、と思っているうちに死んでいく。この国はそういう段階にきてしまっているんです。
 橋下市長がいっていることは、大阪維新の会の維新八策とかのスローガンを見ればわかるように、基本的には新自由主義です。自助、自立、自由、自己責任。国家や自治体は面倒をみません。勝手にやってくださいと。そのぶん、役人とかがいらなくなるから給料を減らしますよと。だから、お金がかからないようにしますと。お金がかからないということはサーヴィスも低下します。あんたたちの面倒はみないんですと宣言しているに等しいですね。でも、同じ日本人じゃないですか、国旗、国歌があるから、仲良くしましょう、社会を壊して反乱を起こさないようにしてくださいね。いっていることは結局これだけではないですか。
 ひどい国ですね。私は本当にもう、泣けてくるというか、ついにここまできたかという感じがいたします。いま《君が代》がどうとかいっているのは、戦争をしようとか、そんな話とはまったく関係のない、ただこちらは面倒をみないけど、少しでも連帯心を低下させないような安上がりなしかけをひとつでも多くもっていたい、というそれだけの話にすぎないわけでしょう。
 左翼の人は、「また戦争が」とかいって心配してますが、どうも違うのではないか。ただ、安上がりで絆があるように見せかけようという話だけなんですから。そこをわかっていただいて、今の日本を考え直すことが大事なんだと思うんです。(p.52~6)
 まさかここまで下劣な意図があるとは思いたくありませんが…可能性はありますね。

 過ちから学びましょう。しかし意外と知られていないのは、この関東大震災時における虐殺が、とてつもない過ちだということです。デマを信じた民衆が朝鮮人を虐殺したというイメージが流布されていますが、それは事実のほんの一部です。
 この事件に興味を持ち、去年は、埼玉・群馬神奈川千葉1千葉2東京と、慰霊碑や史跡を経巡ってきました。それと同時進行で、かなり集中して研究書を読んだのですが、この事件の底知れぬ暗部を知ることができました。
 この虐殺事件には二つの側面があります。まず国家的犯罪としての側面です。まず「三・一独立運動の再来=朝鮮人による暴動・放火」という予断による誤報を、国家権力が意図的・組織的に流布したことです。そしてその予断に基づいて戒厳令を施行したこと。これにより、社会は一気に戦争状態となり、敵=朝鮮人を殺してもよいという状況が生まれました。そして軍・警察が自ら虐殺を行なうとともに、自警団による虐殺を黙認、場合によっては教唆したこと。情報が誤りであると判明すると、国家権力の責任を隠蔽するためにさまざまな手段をとったこと。軍隊・警察による虐殺については徹底的に隠蔽し、一切の責任を取っていません。そして誤報を流布した責任を免れるために、架空の朝鮮人暴動を捏造しました。さらに虐殺された朝鮮人の遺体を徹底的に隠し、虐殺数や虐殺状況を隠蔽しました。そして虐殺の責任をすべて自警団・在郷軍人会・青年団・消防団など民衆にかぶせ、かつ民衆からの批判をかわすために極めて微温的な刑罰にしか処さなかったこと。朝鮮人を保護する過程で、民族運動家・労働運動家・社会主義者などを選別して殺害したこと。そして関東大震災に関する歴史書を編纂する際に、朝鮮人虐殺の責任を朝鮮人自身と日本人民衆に押し付け、国家の責任を歴史から抹消しようとしたことです。
 もう一つは国民的犯罪です。官憲による誤報の流布があったとはいえ、朝鮮人犠牲者の圧倒的多数は、日本の民衆によって虐殺されました。そして証拠を隠滅し、加害者を庇い、その責任を免れようとした事例も多々ありました。
 言わば、レイシズムにもとづいた国家と国民の共同犯罪だったのですね。そして国家は、調査もせず謝罪もせず責任もとらず、今に至ります。つまり日本という国家は、この過ちをまったく反省もしていないし、この過ちから何も学ぼうともしていないわけです。ということは…また同じ過ちを繰り返す恐れがあるということです。

 これは居ても立ってもいられない。いつの日にか拙ブログに上梓しようと準備していたのですが、小池知事がこのような挙に出る以上、猶予はありません。私なりに調べた事件の概要を隔日で掲載することにしました。ぜひお付き合いください。

 追記。「朝日新聞DIGITAL」(17.4.23)によると、虐殺の舞台となった群馬県で、下記のような事件が起きていました。朝鮮人に対する加害責任を頬かむりしようとする動きが、静かに静かに進んでいるようです。
 群馬県立近代美術館で22日から展示予定だった、県内の「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフにした造形作品が、同館の指導で解体撤去されたことがわかった。追悼碑をめぐっては、存廃が法廷で争われている。同館は「県は碑の存廃をめぐる裁判の当事者。存否の両論を展示内容で提示できない以上、適さないと判断した」としている。
 撤去されたのは、前橋市の作家白川昌生さんの作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」。布を使って追悼碑を表現した直径5メートル、高さ4メートルほどの作品で、同県在住の芸術家の作品を集めた展示の一つに予定されていた。同館と白川さんによると、同館幹部らが21日夕、展示前の最終点検で不適と判断。白川さんと修正を模索したが、最終的に同館側が撤去を求めたという。
 碑は、戦時中に動員・徴用され、建設現場などで働いて死亡した朝鮮人らを追悼する目的で、市民団体が2004年、県立公園内に建立。県は14年、碑の前で開かれた追悼集会の発言が「政治的」で設置許可条件に違反したとして許可更新を不許可とした。市民団体が処分取り消しを求める行政訴訟を起こしている。白川さんは「群馬の問題だから、群馬で展示できれば良いと思った。残念だが、仕方がない」と話している。

by sabasaba13 | 2017-08-27 07:57 | 鶏肋 | Comments(0)

五山送り火

 京都の夏をいろどる行事、祇園祭につづいて五山送り火を見てきました。どこで見るかについては、逡巡しましたが、結論は宿泊客に解放される「ホテル平安の森京都」の屋上です。祇園祭の際に泊まって施設やサービスは合格点、岡崎神社のとなりに立地するので大文字とほど近く、船形・左大文字・鳥居形も遠望できるそうです。アクセスが少々わるいのが難点ですが、大きな瑕疵ではありません。運良く予約もとれ、8月16日から一泊二日で上洛しました。
 去年は大雨という災難に遭ったそうですが、今年は晴れ。午後八時、ホテルの屋上から、至近距離の大文字送り火、そし遠くに灯された船形・左大文字・鳥居形の送り火を、きれいに見ることができました。精霊を冥府に送るという宗教的な意味合いを肝に銘じながら、山ノ神と二人で一時間ほどの京の夜空を焦がす炎の舞に酔いしれました。
 なお翌日にモーニングサービスをいただいた白川通の喫茶「アッコ」の御主人アッコさんによると、今年の点火はたいへん上手くいったそうです。

 夜の火を撮影するのは難しいものですね。三脚も持参せず、技術的な知識もなく、撮った写真です。勉強し直して再訪を期したいと思います。
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by sabasaba13 | 2017-08-26 08:47 | 鶏肋 | Comments(0)

言葉の花綵166

 息をこらしむせび泣きつつ
 お前の名をひそかに書く
 灼けつく渇きで
 灼けつく渇きで
 民主主義よ 万歳 (金芝河 『灼けつく渇きで』)

 人を堕落させるのは権力ではなく、恐怖です。権力を失う恐怖が、権力を行使する者を堕落させ、権力の鞭の恐怖が、権力に支配される者を堕落させるのです。(アウンサン・スーチー)

 生活と権利を守ることは、口先だけでいくらいっても守れるものではないのだ。闘うよりほか、私たちの生きる道はないのだ。(朝日茂 『人間裁判』)

 文革中、私が牛小屋に入れられ、反革命分子の牌子を首からかけられている時も、私の読者は隠れて、密かに私の作品を読んでくれました。それが読者です。(巴金)

 いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危機にさらされながら生活を続けていくのは、私は嫌です。末来の子どもたちにも、こんな生活はさせたくありません。私たち生徒、子ども、女性など弱い存在に犠牲を強いるのは、もうやめてください。…私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください。(仲村清子 「沖縄県民総決起集会」スピーチ)

 それぞれの土から 陽炎のように ふっと匂いたった旋律がある 愛されてひとびとに 永くうたいつがれてきた民謡がある なぜ国歌など ものものしくうたう必要がありましょう おおかたは侵略の血でよごれ 腹黒の過去を隠しながら 口を拭って起立して 直立不動でうたわなければならないのか 聞かなければならないのか 私は立たない 坐っています (茨木のり子 『鄙ぶりの唄』)

 旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため 社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も (城山三郎 『旗』)

 国民の側でもウソを容認しすぎた。軍隊への招集は、ほとんどの人にとって、迷惑・恐怖・嫌悪であったのに、表向きは「オメデトウ」「祝出征」と言う。百人中九十九人までウソなのにである。(小沢郁郎)

 二度と生きて福祉を受けたくない。あなたが死ねと言ったから死にます。(抗議する老婦人 『豊かさとは何か』)

 無知は、普遍的図式の衣をまとってあらわれるときにこそ、もっとも強く叩かなければならない。(ゲオルギ・ディミトロフ)

 権力を握ったファシズムは金融資本の公然たるテロ独裁である。(ゲオルギ・ディミトロフ)
by sabasaba13 | 2017-08-25 06:30 | 言葉の花綵 | Comments(0)

近江編(27):桂離宮(15.3)

 というわけで時間にして一時間強、至福のひと時を堪能いたしました。今回の見学での収穫は、やはり石の美しさと面白さと楽しさを知ったことです。係の方も、桂離宮は六月がお薦めと言っていました。人少なく、新緑がきれいで、そして何より雨の日には石の色が美しいから。なるほど、雨の桂離宮か、偶然を期すしかないのですが是非とも訪れてみたいものです。もちろん、花、紅葉、雪の桂も。
 そして思ったのが、日本文化の精髄とか、日本文化にもモダニズムの源流があったとか、日本文化という文脈で桂離宮を語るのはやめるべきだということです。そして日本文化を、ひいては日本という国や日本人を賞賛するために桂離宮を利用することも。出典は忘れてしまったのですが、文化人類学者・岩田慶治氏が次のように述べられています。
 このごろ、国をあげて国際化が唱えられ、その声、その流れのなかで日本文化を再認識しようという試みが活?である。
 それは大いに結構であるが、そのさい日本文化の存在が当然の前提とされている嫌いがある。日本文化とは何か、果して日本文化という呼べるものがあるのか、という根本的な自己反省から出発してもよいのではなかろうか。
 さて、はじめに触れたような文化比較論から離れて、換言すれば遠景としての日本文化論ではなく、一歩、その文化の内部に踏みこんでみよう。日本文化と呼ばれる額縁を取り外して、自ら画面の中に入って筆を取るといってもよい。そうすると、そこに見られる光景は外からの眺めとはずいぶん違うのである。そこに見えてくるのは、作者の行為とその作品なのである。農民は稲を育てて米をつくる。みかん農家はみかんの木を育ててみかんをつくる。別に、日本文化をつくっているわけではない。
 人麻呂は亡き妻を偲んで挽歌をつくり、赤人は自然の寂寥相を歌って自分を表現した。それぞれの創造者はその道によって自己表現を試みたのである。親鸞や道元が生涯をかけて追求したところは、日本文化とはかかわりのない世界であった。
 創造者たちはそれぞれに自己表現の究極を目ざしたのであった。別に、日本文化をつくろうとしたわけではない。強いていえば、自分文化をつくろうとしたのである。
 万葉集には自ずから万葉調のリズムが流れ、古今集には、また、それなりの微妙な言葉のひびきがある。だから、そこに日本文化の基調音を聞きとることはできるかもしれない。しかし、それは作者の与り知らぬことで、作者は自分の作品が日本文化の標本にされることに迷惑しているかもしれないのである。
 文化という歴史的な堆積物を、どういう額縁にいれるか、それを人間集団のどのレベルで切って、その裁断面を点検したらよいのか。自分か、民族か、国民か、人類か、それとも草木虫魚か。それが問題である。
 私としては、まず、これらの名称のもつ言葉のあいまいさを正したいのである。「自分って何」、「民族って何」、「国民って何」、「人類って何」、「草木虫魚って何」。
 言葉を正して、文化を創造する。
 私の願うことは、日本文化を支えることではなくて、自分文化を開花させることなのである。
 八条宮智仁親王も智忠親王も、そのもとで働いた庭師も植木職人も石屋も、日本文化と関わりなく、自分たちが綺麗で楽しいと思う庭、自己表現としての庭をつくっただけなのだと思います。私は桂離宮を訪れて、楽しませてもらい、美しいと感じ、それを自分文化をつくりあげるための養分として役立てましょう。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-24 07:40 | 近畿 | Comments(0)

近江編(26):桂離宮(15.3)

 そして池の向こうに、船着場のある茶室・笑意軒が見えました。近づいて中をのぞくと、扁額の下に円形の下地窓が左右に六個並べた独特の意匠です。夜、この六つの丸窓から室内の光が漏れる光景は、幻想的でしょうね。中の間には大きな窓が設けられ、その向こうには水田がひろがっているそうです。手前に池、奥に田んぼ、涼風が吹き抜けるため、夏の茶室となっています。窓の下の腰壁もまた斬新な意匠、中央部分をひらべったい平行四辺形に区切って金箔を張り、左右の細長い直角三角形のスペースには市松文様の天鵞絨(ビロード)を張ってあります。
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 襖の引手は船の櫂の形、杉戸の引手は矢羽根の形、細部も侮れません。
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 笑意軒の前にある敷石は、さまざまな形や色の石がちりばめられ、歩くのがもったいないくらいです。ここが「草の延段」ですね。船着にあった小さな灯篭は竿や中台がなく、太陽・月・星を表す丸・三日月・四角の穴が穿たれた愛らしいもので、「三光灯篭」と言うそうです。
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 そして新御殿・中書院・古書院を左に眺めながら歩いていくと、古書院の広縁から突き出た月見台がありました。池に面した六畳大、竹簀子張りのスペースで、観月のための施設です。
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 そして最後の茶室・月波楼へ。池に面しており月見を楽しんだ茶室で、襖には紅葉の粋な小紋がちりばめられています。ここは秋の茶室ですね。古書院の月見台が主に月の出の観賞を目的としているのに対し、月波楼は小高い盛土の上に建っているので池の面を広く見下ろすことができ、池水に映る月の影を賞したようです。襖の引手は機の杼(ハタのヒ)でしたが、どういう由来があるのでしょうか。ご教示を乞う。月波楼の前に据えてある手水鉢は、水穴を鎌の刃に、右手の出張った部分を柄に見立てて 「鎌型手水鉢」と呼ばれています。秋の刈入れを象徴させたのですね。そういえば、冬の茶室・松琴亭の外腰掛には、収穫を意味する二重升の手水鉢ありましたっけ。なんと芸が細かいことよ。
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 そして古書院の玄関口である「御輿寄(おこしよせ)」へ。ここには杉苔で覆われた壺庭があり、切石をきっちりと組み合わせた延段、「真の延段」があります。石段の上には、六人分の沓の幅があることから「六つの沓脱」と称される、御影石製の沓脱石があります。また、自然石と切石を混ぜた飛び石が自由奔放に打たれており、石の饗宴とも賞すべき素晴らしい空間となっています。
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 中門の内と外にも、素敵な石が打たれていました。中門をくぐって振り返ると、ここもいい風情です。切妻造茅葺のしぶい門、右手には黒文字垣、そして洒落た敷石、一幅の絵のような光景でした。なお黒文字はクスノキ科の落葉低木で、その枝は高級妻楊枝の材料です。

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-23 07:38 | 近畿 | Comments(0)

近江編(25):桂離宮(15.3)

 そして飛石の上を歩いていくと展望が開け、池や中島、対岸の松琴亭が見えてきます。この急に視界が開けるという劇的な効果も演出されたものですね。青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てた洲浜、その先端には灯台を模した小さな岬灯篭、そして天橋立に見立てた石橋といった景色も、景観にアクセントを与えています。そして池泉回遊庭園の醍醐味、歩くにつれて景観が徐々に変化していきます。
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 白川橋という直線的な石橋を渡ると、冬の茶室である、もっとも格の高い「松琴亭」に着きました。
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 こちらにはかの有名な、白と藍染の四角い加賀奉書を互い違いに張った市松文様の襖があります。その大胆で斬新な意匠には驚嘆です。細部の洒落た意匠にも目を引かれます。そして橋本氏が喝破されたように(p.18)、池側の縁先には青い石が配置されて、室内の藍色と呼応しています。この素晴らしいカラー・コーディネイト、石の色・形・配置に注目するのも桂離宮の楽しみ方の極意ですね。ここから池を見渡すと、これまでよく見えなかった古書院と月波楼を見渡せます。すべてを見渡せるパースペクティブではなく、景観を細かいパーツに分けて楽しんでもらおうという演出ですね。
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 そして橋を渡って、飛び石を歩いてのぼると、すこし小高いところにある春の茶室・賞花亭に着きました。峠の茶屋を模したもので、皮付柱を用いた、間口二間の小規模で素朴な茶屋です。大きな下地窓を設けてあり、清々しく開放感にあふれた造りになっています。かなわぬ夢ですが、桜か新緑の時期に、薫風を肌で感じながら、この茶室でお茶をいただいてみたいものです。ここから見下ろす池の景観も、これまでとはまた微妙に変化しています。
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 飛び石をおりると橋があり、その向こうには古書院・中書院・新御殿が見えますが、こちらは見学できないようです。うーん、い、け、ず。新御殿の「桂棚」が見たかったのに。そして大きな島の西端に建つ持仏堂、園林堂へ。離宮内で唯一の本瓦葺、そして宝形造の建物です。もっこりとしたむくり屋根がチャーミングですね。かつては楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像が祀られていましたが、現在は何も祀られていないとのことです。堂の周囲には黒石を敷き詰めた霰こぼしの雨落(あまおち)がありますが、そこをしれっと方形切石の飛び石が斜めに横切っていきます。しかも余分な石があったり、最後は45度傾けたりと、遊び心にあふれた意匠です。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2017-08-22 07:49 | 近畿 | Comments(0)