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近江編(37):修学院離宮(15.3)

 そして楓橋を渡りますが、その名の通り、楓の木が多く紅葉の時期にはさぞや見事な眺めでしょう。でもその時期に参観するのは至難の業なんですよね。アドルフ・安倍首相が刎頚の友だったらなあ。そして中島にある窮邃(きゅうすい)亭へ。後水尾院によって造営された上御茶屋・下御茶屋の建物のほとんどが滅失・再建されているなかで、ここが唯一、創建当時のものとされているそうです。
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 内部は18畳の大広間で、間仕切りはありません。浴龍池に面した突き上げの板戸が開けられており、池の水面が天井に映って揺らぎ、幻想的な雰囲気でした。動画でお見せできないのが残念。後水尾院は、ここまで計算に入れたのでしょうか。なお猿が入ってくるので開けない時もあるとのこと、今日は幸運でした。
 そして土橋を渡りますが、ここから西浜の桜並木が池の水面に映る景色が見られました。桜の時期はさぞ見事でしょう、でも抽選に当たるのは困難ですね。ヨゼフ・菅官房長官が竹馬の友だったらなあ。
 西浜は池の堰堤となっており、右手には、異なる種類の樹木を混ぜ植えたものを刈込んで、全体の形を整えた大刈込がありました。これは、池の水がもれぬように石垣を組んであるので、それを隠すためのものだそうです。
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 これにて参観は終了。御成門をくぐって松並木をふたたび歩いて表総門から退出しました。雄大なパノラマや霞棚など、桂離宮とはまた違った景観や趣向を楽しめました。それにしても、返す返すも、何としてでも、万難を排して、荊妻を( )に入れてでも、紅葉の季節に訪れたいものです。でも間違いなく抽選は高倍率、ヘルマン・麻生副総理が莫逆の友だったらなあ。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-30 08:03 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 16

 警察による流言の組織的かつ意図的な流布、殺人の容認、武器の貸与、これは各警察署が独自の判断で個別に行なった措置とはとても考えられません。やはり水野錬太郎(内務大臣)・赤池濃(警視総監)・後藤文夫(警保局長)の協議によって決定され、赤池が各警察に命じたと推測します。状況証拠の一つとして、後日に赤池が語った言があります。(②p.128~30)
 今回の警戒救護に際しては、宣伝の効能顕著なるものがあった。又痛切に宣伝の必要を感じた…斯る際人心を安定し、常調を維持せんと欲せば絶えず良好有益なる事実を極力宣伝し、之を普及徹底せしむる必要がある。当時警視庁は苟も有益なりと信ずる資料は直に之を謄写してオートバイ、自転車を飛ばし之を諸処に掲示し、大声又はメガホンを以て伝えしめた
 証言と一致する流言流布の方法を、赤池を中心とする警視庁が発案して指示したことがわかります。
 さらに「朝鮮人暴動」を事実と看做した治安当局の中枢(水野・赤池・後藤)は、その情報と、朝鮮人に対する対策を、公式なルートを通して各地に流布しました。
 1923年12月15日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県内務部長・香坂昌康は9月2日午後五時頃に東京の内務省から帰ってきた地方課長の報告を受けて、下記の移牒を郡役所経由で各町村に伝えました。
不逞鮮人に関する件
移牒
 東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し、以つて彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮わんとする虞有之候、就ては此際警察力微弱であるから、町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の対策を講ずるよう至急相当御手配相成度旨其筋の来牒により此段及移牒に及び候也 (『現代史資料』6巻)
 壊滅状態にある警察力を補強するために、各町村においていわゆる「自警団」を結成し協力するよう指示したわけです。注目すべきは「適当の対策」という文言、これは「場合によっては殺害やむなし」という暗黙の内容を含みもたせています。これによって埼玉県各地で自警団がつくられ、後に熊谷、本庄、神保原などでの虐殺事件を引き起こすことになりました。また史料は見つかっていませんが、群馬県・千葉県など近県にも同様の移牒が伝えられたと推測します。東京・横浜では戒厳司令部が在郷軍人会、青年団、消防団のみならずこの際「一般人ヲモ亦極力自衛ノ実ヲ発揮シテ災害ノ防止ニ努メラレンコトヲ望ム」との告諭を発して、広く国民全体の参加をうながしたと、姜氏は指摘されています。この告諭はビラ、回覧板、ポスターとなって一般に広く伝達されました。(①p.136~7)

 そして警保局長・後藤文夫は、おそらく2日の午後、各地方長官宛に在日朝鮮人が暴動を起こしたことを告げて彼らに対する取締りを命じた電文を起草しています。内容は下記の通りです。
 東京付近の震災を利用し、朝鮮人が各地に放火し、不逞の目的を達成せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。既に東京府下の一部に戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締りを加えられたし。(琴秉洞編・解説 『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅱ 朝鮮人虐殺関連官庁史料』 緑蔭書房、1991年、p.158)
 翌9月3日午前8時15分に、船橋海軍無線電信所から各地方長官宛にこの電文が送られましたが、その欄外に「この電報を伝騎にもたせやりしは二日の午後と記憶す」と記されているので、電文の起草は9月2日と考えられます。
by sabasaba13 | 2017-09-29 06:24 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(36):修学院離宮(15.3)

 先ほど歩いた松並木を戻り、どんつきのT字路を右に曲がってさらに松並木道をのぼっていくと、柿葺の屋根を持つ御成門に着きました。おっここはわれわれのような庶民もくぐらせてくれるのですね。中に入ると急な石段を上りますが、左右は背の高い刈り込みで視界を遮られています。広大な浴龍池(よくりゅうち)を見せずにじらすための工夫ですね。
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 石段を上り切ると突然視界が開け、眼下に浴龍池と借景の山々を望む大パノラマが広がります。ブラーボ。なお池には万松塢・中島・三保ヶ島という島がありますが、それらが龍が水浴びしている姿にみえることから「浴龍池」と名付けられたそうです。
 この雄大な景色を堪能できるビュー・ポイントに建つのが隣雲亭、純粋に景色を眺めるために装飾はほとんどありません。白い漆喰で固められた三和土には、鞍馬の赤石と賀茂川の真黒石が埋められており、一個・二個・三個の組み合わせによって点々と模様を描かいているので「一二三(ひふみ)石」と呼ばれるそうです。
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 縁に腰かけてしばし胸のすくような眺望を堪能しました。そして石段をおりると途中に滝見灯篭、そして杉木立の奥に雄滝が見えました。後水尾院は、この滝の音を聴きながら、隣雲亭にある洗詩台で詩歌をつくったそうです。
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 やがて万松塢と中島に架かる屋根がついた千歳橋が見えてきましたが、後水尾院の作庭時にはなく、1824(文政7)年の大改修の際に、内藤信敦が石橋台を、水野忠邦が屋形を寄進したそうです。ブルーノ・タウトが「環境に似つかわしくない中国風の橋」と言ったそうな。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-28 06:27 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 15

 ここで疑問を感じるのは、この時点では、正式な戒厳令は出されていないということです。既述のように、水野錬太郎内相らが要請した戒厳令施行は、閣議において拒否されています。ということは、この軍隊に発せられた戒厳令は、正式な手続きを踏んでいない違法なものと言わざるを得ません。それでは誰がこの戒厳令を決定したのか? 1日午後11時に出発した野戦重砲兵旅団第一連隊の第一、第二、第三救援隊は救援活動を行ない、2日の朝に出発した第四、第五、第六救援隊は朝鮮人虐殺を行なったということは、1日の深夜に戒厳命令が出された可能性が高いと思います。1日の夜半に、「朝鮮人暴動」という誤報が各警察より権力中枢にあがり、水野・赤池・後藤の三人はそれを事実と看做してしまったと思われます。よって、朝鮮人へ先制攻撃をするために、この三人と軍部の中枢が結託して、事実上の違法な戒厳令を発令したのでしょうか。当時、「大正デモクラシー」期の軍縮ムードや、シベリア出兵の失敗など、威信の低下を痛感していた軍部ですから、積極的に賛同した可能性がありますね。例えば、軍部の「伝家の宝刀」である軍部大臣現役武官制はすでに官制上は廃止されていましたが、1922年の第45議会では、現役・非現役だけでなく「陸海軍大中将」という任用制限も撤廃せよという建議案が採択されました。この議会では、国務大臣の輔弼を経ずに軍令事項を天皇に直接上奏できる「帷幄上奏」の問題も議論されています。軍部が内閣や議会のコントロールを受けずに独立した政治勢力として行動できるシステム自体の問題が焦点化していたのですね。(⑫p.139~40) 軍部の危機感がわかります。
 いずれにせよ、こうした軍隊による朝鮮人虐殺を目撃した人びと、その話を聞いた人びとは、朝鮮人に関する流言蜚語をあらためて確信し、朝鮮人=敵であるという認識を持ったと考えられます。

 もう一つ注目すべきは、朝鮮人の放火、投毒、強盗、集団進撃の流言が、一日夜半から二日にわたり、東京、横浜全域に拡大し、さらに隣接の各県にも浸透し、関東一円から全国に伝播したことです。交通、通信がすべて杜絶した状況のなかで、このように広範囲におよんで流言が急速に拡大したことは、官憲による組織的伝播・宣伝があったことを推測させます。
 警察官が、朝鮮人による暴動等の流言を広めたという証言は数多残されています。いくつか紹介しましょう。
 一方、9月2日午前、この流言を組織的に伝播する事例が続出した。
 市ヶ谷士官学校牆壁に「午後一時強震アリ不逞鮮人来襲スベシ」、茗荷谷では「学校を中心に放火略奪を擅にする不逞の徒があるとの謄写印刷を配布する者が出現」、各巡査派出所に「鮮人、放火の恐れあり」「井戸に毒薬を投入する各自注意せよ」のビラが貼り出されたりした。山崎今朝弥はそれを巡査が「思い切って公然且つ大ッピラに電信、電話、無線、電報、騎馬、自動車、オートバイで宣伝」したとのべている。生命の危険にいかに対処するかで頭一杯の民衆にビラをつくり謄写印刷をする余裕などある筈はない。このデマの発信元は官憲そのものであった。(④p.49)

 人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起そうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともに頭にうけて、殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。このはり紙の印象が、今日までずっとわたくしの頭にこびりついているのである。警察署の名において-、場所もはっきりしている。神楽坂警察署の板塀であった。時間は震災の翌日の九月二日の昼さがり、明らかに警察の名によって紙が張られていた以上、ただの流言とはいえない。(『昭和時代』 中島健蔵 岩波新書275 p.15~6)

 上杉慎吉(憲法学者) 「警察官憲の明答を求む」(『国民新聞』夕刊 1923.10.14)
 九月二日から三日に亙り、震災地一帯に○○(※鮮人)襲来放火暴行の訛伝謡言が伝播し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の情況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うべからざる事実である (②p.128~30)
 また、警察官から「朝鮮人を殺しても差し支えない」という発言があったという証言もあります。
 9月2日になると、警察官はさらに進んで「朝鮮人を殺しても差し支えない」と民衆に言った。東京市芝区の一住民は新聞への投書で9月2日に三田署の警察官が「××(鮮人=引用者)と見たらば、本署に連れてこい、抵抗したら○(殺=引用者)しても差し支えない」といった(『東京日日新聞』 1923.10.22)。弁護士布施辰治の友人である在郷軍人分会長は9月2日の晩に警察官の命令で日本刀を下げて戸外にいると、また一人の警察官が来て、「鮮人が来たならば、ヤッツケてもカマワない」と言った(布施辰治 「鮮人騒ぎの調査」 『日本弁護士会録事』 1924.9)。(④p.79)

上杉慎吉(憲法学者) 「警察官憲の明答を求む」(『国民新聞』夕刊 1923.10.14)
 当時警察官憲は人民に向て○○○○(※不逞鮮人)の検挙に積極的に助力すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯を認容したのであった。而して手に余らば殺しても差支えなきものと、一般をして何となく信ぜしめたのである (②p.128~30)
 さらに驚くべきことに、自警団等に武器を貸与したケースもあります。(①p.144~7) 二つの例を紹介しておきます。
 千葉幕張「自警団一区に銃三丁弾丸十五発」支給 (『東京日日新聞』 1923.10.21)

 「牛込区に於ては守備隊より在郷軍人会会長に六十名の補助員を要求し、是等の分会会員に対し第四中学の教練用の武器を使用せしめたり」 (『東京震災録』別巻 p.300)

by sabasaba13 | 2017-09-27 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(35):修学院離宮(15.3)

 そして中離宮に到着です。中離宮はそもそも創建当時の構想にはなかった御茶屋で、後水尾上皇の第八皇女である朱宮(あけのみや)光子内親王のために造営された山荘・楽只軒を中心とした朱宮御所が前身です。後に林丘寺(りんきゅうじ)の境内となりましたが、明治時代に皇室に返却され、中離宮として新たに修学院離宮に加えられたとのことです。
 表門は国公賓が訪れたときのみ開かれる門で、われわれの如き下賤な衆生は入れません。脇にある通用門を抜けて石段をあがると中門ですが、われわれの如き縁なき衆生は入れません。
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 通用門をくぐり、洒落た飛び石や石橋を歩いていくと楽只軒に着きました。朱宮御所創建当時からあり、中離宮では最も古い建物です。
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 前庭と池を撮影して客殿へ。見どころは、五枚の欅板を高さを変えて設置し、霞のたなびく様に似せた「霞棚」です。桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一とされております。その優美で洒落た動的な造形には惚れ惚れしますが、背面に貼られた和歌・漢詩の色紙のリズミカルなバランスと、両脇にある襖腰張の群青と金箔のモダンな菱形模様も素晴らしいですね。
 座敷の杉戸には鯉が描かれていますが、全体が網で覆われています。夜毎に杉戸を抜け出して池で遊ぶので、金色の網を描かせたといわれています。鯉の絵の作者は不明、網は円山応挙の筆と伝えられていますがほんとかな。ちがう杉戸には、祇園祭の山鉾が描かれており、作者は住吉具慶と言われています。こちらの座敷には明るい陽射しがさしこむとともに、微風にゆらぐ池の水面が壁に映って、光の饗宴を楽しめました。
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 客殿の北側、仏間の外側の縁には、数本の直線で構成される手摺がありました。「網干(あぼし)の欄干」と呼ばれるもので,漁の網を干した姿を現しているとのことです。それでは上離宮へと参りましょう。途中にきれいなむくり屋根があったので近づくと、菊の紋章がついていました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-26 06:19 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 14

 こうした軍隊による朝鮮人虐殺を目撃した福島善太郎氏の証言も紹介しておきます。(④p.47~8)
 「二日の昼下がり私は市川の町へはいる十町余り手前の田圃道を途中で配給された玄米の握り飯で腹をこしらえて歩いていました。遂ぞ見たこともない大型の陸軍飛行機が幾度ともなく炎熱の空を飛んで行きました。鴻ノ台(※国府台)騎兵隊が幾組ともなく避難民の列を引き裂いて砂塵を上げて駆け走ってゆくのでした。
 『朝鮮人を兵隊が叩き殺しているぞ』『暴動を起そうとした片割れなんだ!』『太え野郎だ!畜生!』『うわあっ!』 今迄引きずるように歩いていた避難民の群衆が恐ろしい叫びをあげて勢いよく走りだしました。つい私もつりこまれて走っていました。そして一町近く走ったとき、群衆の頭越しの左側の田圃の中で恐ろしい残虐の事実をはっきり見たのです。粗い絣の単衣を着た者、色の燻んだ菜葉服を着た者達が七人後ろ手に縛りつけられて、しかも数珠つなぎになって早口に叫んでいました…。『ほざくな野郎!』 突然一人の兵隊が銃剣の台尻を振りかぶったと見るや一番端で矢鱈にもがいていた男の上にはっしと打ち降しました。『あっ』 さすがに群衆に声はなかったのです。そして一様に顔をそむけました。やがて恐る恐る視線を向けたときには頭蓋骨はくだかれ鮮血があたり一面に飛び散り、手足をピクピクと動かしていました。『あはははは、ざまあみろ』…『こいつら、みんな叩き殺してしまえ!』『よしきた、畜生!』『やい! 不逞鮮人奴! くたばりやがれ!』
 十人余りの兵隊が一斉に銃剣や台尻を振りかぶりました。あの二日の午後二時前後に、市川へ渡る橋の手前数町のところで、この事実を目撃した人たちが必ずあるにちがいない。
 胸を貫かれて、かすかに空を仰いだだけで息絶えた者、二の腕を殆ど切り落とされんまでに斬られて、泥田の中へ首を突っ込んでもがいていた者、断末魔の深い呼吸を泥といっしょに吸いこんだため、胸を苦しげに大きく波打たせていたもの等々の光景をいま思い出してもぞっとします。…二度目は二日の夕方、菊川橋際で工場の焼跡整理のかえり、素っ裸にされて、電線でぐるぐる巻きにされて、鳶口や日本刀を持ったひとたちにめった殺しにされている二人の朝鮮人をみたのでした」(『民族の棘』 p.25~26)
 旧四ツ木橋付近でも、軍隊による朝鮮人殺戮が行なわれました。(⑨p.76~8) なお2009年9月、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」によって追悼碑が建立されました。詳細は拙ブログの記事をご参照ください。

 証言のいくつかを紹介します。
「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉)
 これは…戒厳軍です。被災地を戦争状態とみなし、「敵」である朝鮮人を殺戮してよい、そうした命令が出されたわけです。姜徳相氏曰く「宣戦布告なき戦争」です。いや、前述の三・一独立運動や間島での無差別殺戮を考えれば、韓国併合以来続けてきた「宣戦布告なき戦争」の延長といっていいのかもしれません。(④p.38)
by sabasaba13 | 2017-09-25 08:15 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(34):修学院離宮(15.3)

 まずは下離宮の見学です。御幸門を通り抜けると右手奥に袖塀を持つ中門があります。石段をのぼると、後水尾院の御座所となった寿月観の御輿寄です。
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 御輿寄を左に見ながら進むと小さな苑池があり、四隅が反った朝鮮灯篭がいいアクセントになっています。
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 そして後水尾院行幸時の御座所となった建物、寿月観に着きました。なお「寿月観」の扁額は,後水尾上皇の宸筆だそうです。
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 寿月観の東にある小さな滝は、後ろの三角形の石を富士山に見立て、水の落ちる様が白糸を引いたように見えることから「白糸の滝」と呼ばれているとのこと。ここから鑓水が流れますが、緑にあふれたこのあたりの景観は格別です。櫓型灯篭もいい風情ですね。
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 東門を抜けると視界が開け、松並木の間を歩いて中離宮へと向かいます。この松並木は明治になって拡幅整備されたもので、かつては田んぼの畦道でした。なお綺麗に手入れされた松並木ですが、葉や枝を間引いて空間を開けて姿を整えつつも、あたかも人手を加えていないような柔らかな感じに仕上げる「御所透かし」という手法で手入れされているそうです。松並木の間からは,のどかな田園風景を眺めることができます。後水尾上皇は、離宮の造営の際に利用する域を最小限にとどめて他は耕作地として残し、耕作する農民の姿を自然景観に取り入れようとしたそうです。いい気なものですが。現在は農地を買い取り、地元の農家と賃貸契約を結んで耕作を依頼しているそうです。おお、京都市街も微かに見えてきました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-09-24 08:54 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 13

 9月2日、日曜日。軍隊がいよいよ動き始めました。9月1日午後11時より、野戦重砲兵旅団第一連隊の第一、第二、第三救援隊は所在地の千葉県国府台を出発し、橋梁の確保・延焼防止・避難民の誘導・食糧の供給など救援活動を行ないました。しかし、9月2日の朝に出発し、午前十時半に小松川に到着した第四、第五、第六救援隊は朝鮮人虐殺を始めています。(④p.44)
 「望月上等兵と岩波少尉は震災地に警備の任を以てゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者二百名も兵を指揮して残虐した。婦人は足を引張りまたを引裂き、あるいは針金を首に縛り池になげ、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまりに非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い」(『久保野茂次日記』)
 また9月2日早朝より出動した騎兵第十五連隊(習志野)所属の越中谷利一氏が次のような証言を残しています。(④p.46)
 「とにかく、市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺の連隊はたいてい戒厳令勤務に服したのであった。そして「敵は帝都にあり」というわけで、実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかったわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは九月二日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて營門に整列するまでの所要時間、僅に三十分しか与えられなかった。二日分の糧食および馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は六十発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるから、さながら戦争気分! そして何が何やら分らぬままに疾風のように兵營を後にして千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先づ列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ廻った。どの列車も超満員で、機関車につまれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣の下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起る万才歓呼の声! 國賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした」(『越中谷利一著作集』 p.772)
 「戒厳令勤務に服した」「敵は帝都にあり」という証言は重要ですね。兵士たちが戒厳令=戦争状態という認識で、武装して東京に乗り込み、敵=朝鮮人を殺すという意識をもっていたことがわかります。

 次は、騎兵第十四連隊の兵士・遠藤三郎氏の証言です。(④p.54)
 「現に、私といっしょに陸軍大学を卒業した石本寅三-(最優秀で卒業した男、お父さんは陸軍大臣までやった人なんだ)-それがね、習志野の騎兵隊におり、私は国府台の連隊の方で、この地震のとき、やつがやってきましてね。そういう優秀な、陸軍大学を卒業して、しかも軍刀をもらった人ですよ、私より士官学校、三年も古い。それだけのそういう人物が"遠藤君、はさみうちをするから君の方も協力してくれ"という。騎兵隊だけでは逃がすから、私の方で退路を遮断しておいて、騎兵隊で江東方面の朝鮮人たちを皆殺しにしようというわけだ。とにかく殺せば勲章でももらえるように思っているんだから。"とんでもない、そんなバカなことするんじゃない"といって、私は反対したんだけどもね。"しかし、どうも空気はそうだぞ、殺してやらんと住民が承諾せんぞ"というんですね。」
 軍民一体の興奮状態がよくわかります。それにしても"空気"が犯人の一人であるとは…絶句してしまいます。そういえば太平洋戦争を起こしたのも"空気"でしたね、「反対できる空気ではなかった」。また、「朝鮮人を殺すと勲章をもらえる」という意識を持つ兵がいたということに注目します。戒厳令下という戦争状態のなかで、異常な功名心と使命感に燃え狂っている中下級軍人の姿が彷彿としてきます。
by sabasaba13 | 2017-09-23 07:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(33):修学院離宮(15.3)

 それでは修学院離宮を紹介いたしましょう。「京都観光Navi」の紹介文を引用しますと、1656~59年、後水尾上皇が比叡山麓に造営した広大な山荘で、約54万5000平方メートルの敷地に上・中・下、三つの離宮から構成され、いずれも数寄な趣向の茶亭等が閑雅にめぐらせた池の傍らに立ちます。自然と建物の調和が絶妙です。
 当然、莫大な費用がかかりましたが、これには裏話があります。できたてのほやほやの江戸幕府は、朝廷の権威を利用するために秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させるとともに、禁中並公家諸法度(1615)を制定するなど、その統制に細心の注意を払いました。さらに、幕府の許可なく天皇が高僧に"紫の僧衣"を与えとして、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。以前から幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 余談ですが、沢庵の配流先である春雨庵の記事を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧ください。

 表総門から入り、参観許可証を提示して中へ、参観者休所で待機しますが、桂離宮にくらべて質素な建物でした。さあ出発時間です。参観人数は二十人ほど、前に説明担当の方、後ろに歩みをせかす係の方が配置され、サンドウィッチ状態での見学となります。
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by sabasaba13 | 2017-09-22 06:24 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 12

 いずれにせよ、こうした流言は誰が生み出したのか。朝鮮人への蔑視感や差別意識、あるいは恐怖感をもっていた民衆から自然発生したという説と、朝鮮人を敵視する官憲が流布したという説があります。今となっては真相を明らかにすることは不可能でしょうが、状況証拠から後者を唱えるのが姜徳相氏です。(①p.47~80) 前述のように、三・一運動や間島・シベリアにおける反日闘争などの激しい独立運動、増大する在日朝鮮人労働者による労働運動の活発化や、日本人労働者との連帯の萌芽などにより、日本の官憲は在日朝鮮人の動きを最大限に警戒・監視していました。例えば、留学生を含むめぼしい者を要視察人とし、甲号視察人には五人、乙号視察人には三人の尾行をつけて日常生活を監視していました。また要視察に該当しない者でも、身辺調査を行ない、人相・特徴・交友関係・日本観などを綿密に記録していました。さらにこうした監視や敵視、独立運動に対する苛烈な弾圧に対して、朝鮮人が反発と憎悪を抱き、非常時には日本人への報復を行なうという予断もあったでしょう。そうした状況において、大震災で発生した火災を見て「朝鮮人の放火」とみなし、パニックの中で「朝鮮人が暴動を起す」という疑心暗鬼に官憲がとらわれた可能性は高い、というのが姜氏の考察です。
 9月1日に流布した流言蜚語の特徴として、発生地が関東一円の広大な地域にわたっていることと、災害(特に火災)が僅少ですみ警察力の回復が速かった地域で流布していることもその証左です。前者については、警察の通信網によって流言が伝えられたようです。例えば、埼玉県入間町では、9月1日午後七時頃、自転車に乗った警察官が町民に対して「爆弾凶器を有する鮮人十一名当町に襲来し内一名捕縛さる、此者は六連発短銃と短刀を携帯す、全町は燈を滅し戸締をせよ」と警告をしています。後日、これが誤報であったことを弁明する際に、入間川警察署は「所沢警察署の命に依りたるもの」「警察及鉄道省の電話が以上同一の言を伝達したるは奇という外なく其根源の何れにあるや詳ならず」と述べています。また警官が流言を流布したという証言も残っています。(③p.24)
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚の者が十三人避難して来ていた。…昨夜上野公園で野宿していたら巡査が来て○○(※朝鮮)人の放火者が徘徊するから注意しろといったそうだ。(寺田寅彦 「震災日記より」9月2日の条)

 九月一日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」と二度まで通知に来た…。(『報知新聞』 1923.10.28夕刊)
 9月1日夜半以来、こうした流言は権力中枢に次々と還流しはじめました。各地の警察から、朝鮮人の放火・投毒・暴行に関する同じような情報が上がってくるにつれ、水野錬太郎(内務大臣)・赤池濃(警視総監)・後藤文夫(警保局長)は、予断し警戒していたことを「事実」と看做してしまったのではないでしょうか。植民地化に反発する朝鮮人がとうとう蜂起を開始した。飢えた日本人の暴動も起こりかねない。しかし既述のように、閣議の反対によって戒厳令は施行できません。さあどうするか。

 なお、9月1日には、横浜で立憲労働党総理山口正憲を主謀者とする集団強盗事件が起きています。彼は避難民を煽動して物資を調達しようと企て、避難民を集めると、避難民を救うために「横浜震災救援団」という団体を結成したいと提唱。避難民たちは、巧みなかれの弁舌に感激し一斉に賛意を表しました。山口は、さらに自ら団長に立候補することを伝え拍手のうちに団長に推挙され、多数の者がその場で入団を申出ました。山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれた者を選び出して決死隊と称させます。かれらは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に横浜市内の類焼をまぬがれた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩き、その強奪行動は、九月一日午後四時頃から同月四日午後二時頃まで十七回にわたって繰り返されました。横浜周辺での「朝鮮人による強盗」という流言の発生に関係するかもしれません。(⑧p.132~7)

 余震と業火の続くなか、恐怖の一日が終わりました。
by sabasaba13 | 2017-09-21 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)