マーラー交響曲第七番

c0051620_6263381.jpg 気鋭の指揮者・山田和樹氏が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振る「マーラー・ツィクルス」がいよいよ第3期に入りました。これまでに、第2番「復活」第4番、第5番、第6番「悲劇的」を聴いてきましたが、いずれも聴き応え充分でした。今回の交響曲第7番「夜の歌」も楽しみです。
 開演は5月14日の午後三時。しかし好事魔多し、日曜日だというのに無慈悲にも仕事が入ってしまいました。せんかたなし、山ノ神とは現地で落ち合うことにして、急いで仕事を済ませて渋谷へ駈けつけました。傍若無人にスマートフォンの画面に見入る人びとを掻き分け掻き分け、開演五分前にBunkamuraオーチャードホールの座席に辿り着けました。ふう

 パンフレットから引用します。
 マーラーと武満徹。
 一見するとまったく違う作風の二人の音楽作りの根底にあったもの、それは伝統的な音楽への尊敬でした。とりわけ、音楽の父とされるバッハへの想いは特別だったようです。
 伝統的な音楽から、それまでになかった革新的な音楽への飛翔。自然の音に耳を澄ませ、生と死をみつめ、人間の歌にこだわった二人の作曲家。その姿を追いながら、いよいよ第3期『昇華』を迎えることになりました。マーラーの後期交響曲では、"美"が突き詰められていきます。その先にあったものは一体何だったのか。
 「やがて私の時代がやって来る」-その通りになった現代、マーラーの音楽が私たちに問いかけるものは何なのか。
 祈りと絶望、陶酔と狂気、刹那と永遠、喜悦と怒り、それらが同時に交錯する世界の中で、僕は叫びたくなります。その叫びたくなる感覚はどこから来るのか。死というものを近くに感じるからなのか、美しいものに触れるからなのか。そもそも音楽の始まりは、歌だったのか、叫びだったのか。
 第3期『昇華』は、生きる上での哲学とともに、音楽の原初を辿る旅にもなりそうです。
 溢れる想いを胸に、二人の作曲家に感謝しながら。
 そう、このツィクルスでは、山田和樹氏の強い希望によりすべて武満徹氏の曲と組み合わされています。今回の曲は、「夢の時(オーケストラのための)」。アボリジニの間に伝わる天地創造の神話をテーマとした曲です。グリッサンドやトリルが多用された音の波動に身を任せ、しばし夢の世界に遊びました。
 そして休憩の後に、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」が演奏されました。…告白しますと、第3楽章までは、仕事の疲れもあって酔生夢死状態。鼾をかかぬように気をつけてうつらうつらと夢心地で音楽に浸っていました。マーラーさん、ごめんなさい。しかし第4楽章の「夜曲 アンダンテ・アモローソ(愛情を込めて)」が始まると、とたんに覚醒。ああ何て愛らしく魅惑的な音楽なのでしょう。逍遥するような穏やかなテンポに乗って、親しみやすくチャーミングなメロディが流れていきます。意外な取り合わせですがギターとマンドリンの音も、曲想によく合っています。睡魔も眠ってしまうような至福のひと時でした。そして第5楽章「ロンド‐フィナーレ」では、音の洪水と爆発に圧倒されました。「夜の歌」の終楽章なのにこの底抜けの明るさは何なんだ。ま、いいや。身悶えするような音の響きと迫力に身も心もゆだねましょう。

 実は『マーラーの交響曲』(金聖響+玉木正之 講談社現代新書)のなかで、指揮者の金聖響氏が、この交響曲はよくわからない、とぼやいておられるのですね。しかしその後で、マーラー研究家のアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ氏の言葉を引用されています。
 マーラーは聴かれることを望んでいたが、裸にされることは望んでいなかった。彼は自作についての分析や注釈や解説を嫌悪し、晩年にはそれらを禁じたほどだった。歌曲のひとつにドミナント(属音)の和音で終わるものがあると指摘されたときには、腹を立て、その曲は理性よりもむしろ直観で聴いてほしいと答えたという。(p.218)
 マーラーの楽曲を分析する能力も理性もない小生としては、たいへん心強いお言葉です。これからも虚心坦懐に音に身も心も委ねることにしましょう。

 さあ次回は交響曲第8番「一千人の交響曲」です。いまからワクワクしています。
# by sabasaba13 | 2017-05-17 06:27 | 音楽 | Comments(0)

いいなあ

 フランス大統領選挙で、極右候補が敗れました。

 いいなあ。

 大韓民国では、政権交代が起こりました。

 いいなあ。

 日本では、極右の首相と極右の政党が、政権を握り続けています。

 やれやれ。

 ちょっと本を読んで、ちょっとニュースを見て、ちょっと考えれば、この御仁と政党の正体なぞ簡単に見破れると思うのですが。詳細については『街場の憂国論』(内田樹 晶文社)と『安倍改憲政権の正体』(斎藤貴男 岩波ブックレット871)の書評を読んでいただくとして、要するに、アメリカの属国としての地位に甘んじながら、弱者・貧者を犠牲にして、大企業・政治家・官僚の利益を最大化するということだと思います
 それなのに、相当数の人々が安倍政権を支持するのは何故なのか? わかりません。こういう時には歴史から学ぶのが常道です。最近読み終えた『ヒトラー』(イアン・カーショー 白水社)は、なぜドイツの人々がアドルフ・ヒトラーを支持したのかを鋭く分析した好著ですが、安倍政権を支持する現今の日本人との共通点がほのかに見えてきます。例えば…
 世紀転換期のドイツ・ナショナリズムの自己主張を支えていたのは、少なからず、恐怖心からくる攻撃性だった。すなわち、フランスに対する伝統的な敵意、イギリスに対して高じつつあった敵愾心、東方スラブに対する潜在的な恐れである。同時に、国内的には、社会民主主義の脅威、国民国家ドイツの堕落と没落に対する文化悲観論的な憂慮もそうした攻撃性を生んでいた。
 国民にとって脅威となると目される内外の敵を不条理なまでに恐れる雰囲気のなかにあっては、過激な反マルクス主義に加えて、人種主義イデオロギーが広まったのも驚くにあたらない。(上p.105)

 しかしドイツでは、ポピュリストの急進右翼が標榜する人種思想を保守派が中心になって支え、個々のマイノリティにとって相当な脅威になるほどにまで支持が広がった。個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発がドイツ・ナショナルな感情のなかで次第に目立つようになると、それにともなって「人種問題に自覚的であること」が求められるようになり、ユダヤ系マイノリティへの敵意が膨れ上がっていった。ユダヤ系マイノリティは数的にもわずかで、同化しようとする者が大勢だったにもかかわらずである。(上p.105~6)

 支配的な存在感、(よく歪曲されてはいたが)細かな事実についての異様なほどの記憶力、イデオロギー的確信に立脚した(異論を許容しない)絶対の信念は、ヒトラーの特異な資質をすでに信じかけている者には強い印象を与えた。しかし、知識ある者が批判的に距離を保って見れば、その粗雑な議論はすぐに底が知れるようなものでしかなかった。(上p.309)

 「大衆は何も見ず、愚かで、自分が何をしているのかも知らない」とヒトラー主張した。大衆の「考えは未熟である」。大衆にとって「理解」は「不安定な基盤」にしかならない。「安定的なのは感情、すなわち憎しみである」。ドイツが抱える問題の解決策として、非寛容、力、憎しみを説けば説くほど、聴衆はそれに賛同するようになった。(上p.314)

 批判的な者にとっては半面だけの真実、歪曲、過度の単純化、曖昧で疑似宗教的な救済の約束をごた混ぜにしたような理解に苦しみ代物だった。しかし、シュポルトパラストを埋めた一万六千人の人びとは知的な議論を聞きにやってきたわけではない。彼らは聞きたかったものを聞けたのだった。(上p.332)

 労働者大衆はパンとサーカスを求めるだけで、理想の意味など決して理解しようとしない。(上p.352)

 社会全体の窮状の原因は指導力不足にある。民主主義、平和主義、国際主義が無力化と弱体化を招き、偉大なる国民に膝をつかせた。そうした腐敗を一掃すべきときだ、という主張だった。(上p.356)

 恐慌期の困窮と緊張は報復感情も強めた。この悲惨な状況の責任を誰かに負わせる必要があった。罪をかぶせる相手が必要とされ、標的となる敵が定められた。政敵の名が挙げられ、晴らすべき恨みが数え上げられた。たいていの場合、個人的な敵意と政治的反目は密接に関連していた。(上p.433)

 無関心は往々にして無力感からくるものだった。(上p.434)

 「ウィーンでは無名だった者」、「名もなき一兵卒」、ビアホールの扇動家、何年ものあいだ過激派の一勢力にすぎなかった政党の指導者、複雑な国家機構を動かす資質をもたず、ナショナリスティックな大衆の卑しい衝動をかき集めることだけに長けた者が、ついにヨーロッパの大国のひとつで政権を任されることになったのである。(上p.446~7)

 そのせいで、抑圧された攻撃性に満ちた手負いの巨人ともいうべきドイツ国民国家の権力は、政治的暴徒の危険な指導者の手に握られることになったのである。(上p.447)

 そして排外主義で歪んだヒトラーのドイツ意識は、国民としてのドイツの独自性、なかでも文化的優越性を主張する知識層の意識に立脚していた。(上p.449)

 「こんなことは全部気違い沙汰だとは思うが、自分にはどうでもよいことだ」というのがある非ユダヤ人が漏らしたその日の感想だが、これはあながち典型的ではないとはいえないだろう。(上p.494)

 そして、「1789年の思想」、自由主義思想のもつ合理性と相対主義を拒絶し、非合理主義を意識的かつ自覚的に取り入れ、個人ではなく「民族共同体」に意味を見出し、「国民的覚醒」によって自由を得ようとする彼らの思想に感化されて、ドイツの多くの知的エリートがヒトラーの第三帝国の反知性主義、低級なポピュリズムにとらわれることになった。(上p.502)

 1934年の危機的な夏が去り、9月に入ると、ヒトラーは再びニュルンベルク党大会の大がかりなプロパガンダで本領を発揮した。前年の党大会と比べても、今回の党大会は意識的に総統崇拝を強化する場とされた。ヒトラーはいまや運動の頂点に君臨し、大会ではヒトラーに敬意が表された。才能にあふれた魅力的な監督レニ・リーフェンシュタールが撮影した党大会の映画は、この後、国中の観客の前で放映され、ヒトラー崇拝に独自の重大な貢献をすることになった。映画の題名を「意志の勝利」にすると決めたのはヒトラー自身だった。実際には、ヒトラーの勝利は意志によって得られたものだとはいいがたい。勝利が得られたのは、むしろ、夏の権力闘争のなかで、ドイツ国家をヒトラーの勝手にさせることで多くの利益を得た者、もしくは利益を得たと考えた者たちのおかげだった。(上p.546)

 ヒトラーがデマゴーグとして成功したのは、不満を抱く大衆が聞きたいことを語り、大衆の言葉を話し、絶望した心理を捉えてそこにつけ込み、不死鳥のような国民の再生という新たな希望を示す能力があったからである。ヒトラーは人びとの憎悪、ルサンチマン、希望、そして期待を語ることに誰よりも長けていた。そして、似通ったイデオロギー的主張をもつ誰よりも甲高く、熱烈に、表現豊かに、そして説得力のある言葉で語った。ヒトラーは、すべてを飲み込む国民的危機という決定的な時期において、ナショナリスティックな大衆の代弁者だったのである。(下p.33)

 ヒトラーが狂喜したことに、ドイツ人選手たちは競技を国民的勝利に変えた。ドイツは最多のメダルを獲得したのだ。これは、他国よりも優れているという国民の信念を大いに高める結果だった。(下p.46)

 しかしながら一般市民も、憎しみの風潮とさもしい本能に訴えかけるプロパガンダに感化され、純粋な物質的羨望や強欲にも突き動かされて、多くの場所でナチ党の指導に従い、ユダヤ人資産の破壊と略奪に加わった。(p.179)

 おべっか使いとイエスマンと日和見主義者に囲まれたヒトラーの権力は、この時絶対となった。(下p.226)

 自身が置かれた不確かな経済状況への恨みは、民族至上主義的な陣営、そしてナチ党へと彼らを駆り立てた。(下p.289)

 1941年に続いたヒトラーの不在は、戦いが進行し、最終勝利が幻想となるにつれて、扇動の達人で、その権力の少なからぬ部分を国民の期待とルサンチマンをかき立てる稀代の能力に依拠していた20世紀の最も有名なポピュリスト指導者が、国民から隔絶した手の届かぬ人物へと変わっていくプロセスの始まりだった。(下p.453)

 そうした目標はたしかに、権力の傲慢とドイツ民族が生れながらに他民族より優れているという思い上がりから追及された。(下p.772)
 安倍上等兵は、安倍上等兵によっては説明できません。国民を見殺しにする人物が国民に支持されるというこの不可解かつグロテスクな現象を説明するには、彼に魅力やカリスマ性を見出した人びとの側から考える必要があるでしょう。ドイツ人の場合で言えば、恐怖心からくる攻撃性、個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発、パンとサーカスを求めるだけで理想の意味など決して理解しようとしない労働者大衆、無関心と無力感、ナショナリスティックで卑しい衝動、反知性主義、低級なポピュリズム、純粋な物質的羨望や強欲、自身が置かれた不確かな経済状況への恨み、ドイツ民族が生れながらに他民族より優れているという思い上がり… こうして列挙してみると、ヒトラー政権と安倍政権を支持するメンタリティの共通点が浮び上ってきます。また、著者のイアン・カーショー氏はヒトラーを、"知性も社会性もなく、政治以外の点ではおよそ見るべきところがなく、近しい者にとってさえ得体が知れず、真の友人をつくることもできそうになく、高い地位につけるだけの素養もなく、首相になる前には閣僚経験すらなかったような人物" (上p.22)と評されています。安倍上等兵とは面識はありませんが、その人となりや性格の共通点もけっこうありそうですね。

 この本を一助として、悔いの残らない、未来に禍根を残さない、他国の人びとから「いいなあ」と羨ましがられるような選択をしたいものです。1933年1月末、ルーデンドルフが大統領ヒンデンブルクに宛てた手紙と同様のものが、後世の日本で書かれないようにしましょう。「あなた」を「有権者」に読み替えてください。
この呪われた男がわれらの国を奈落の底へと突き落とし、
わが国民は想像を絶する辛酸を舐めることになるに違いありません。
あなたの所業に対して後世の人びとは死したあなたを謗るでしょう。(上p.402)

# by sabasaba13 | 2017-05-16 06:23 | 鶏肋 | Comments(0)

若草山山焼き編(8):奈良少年刑務所(15.1)

 閑話休題。それでは奈良少年刑務所へと参りましょう。お好み焼・焼きそばの「三角屋」では、骨董を買い受けるそうです。さすがは奈良、マンホールの蓋には鹿が描かれていました。
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 そして奈良少年刑務所の正門に到着。噂には聞いていましたが、魂消た物件です。円筒を両側に侍られせた、まるでお伽噺に出てくる古城のような煉瓦造りの建築です。いやはや、「どこが刑務所じゃ、責任者を呼んでこい」と一喝したくなるような愛らしさ。いったい、誰が、どうしてこのような刑務所をつくったのでしょうか?
 はい、実はわかっています。『建築探偵 東奔西走』(朝日新聞社)から、藤森照信氏の論考を私の文責でまとめてみます。竣工は1908(明治41)年、設計は山下啓次郎。驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音機、ジャズ・ピアニスト山下洋輔氏の祖父にあたる方なのですね、これが。それではなぜこれほどモダンな刑務所を、政府はつくったのか。不平等条約の改正を宿願とする明治政府は、欧米諸国が改正に応じない理由の一つとして、監獄の不備があることを知りました。そこで、全国から五つの刑務所を選んで重点的に整備することにしましたが、その全てを担当したのが山下啓次郎です。警視庁に勤める父・房親が、大学で建築を学んだ息子にその仕事を任せたようです。ちなみにその筋では、奈良・千葉・長崎・鹿児島(現存せず)・金沢(現存せず)を五大監獄と言うそうです。入所は遠慮しますが、千葉と長崎刑務所の外観だけでも見てみたいものです。なお散歩の変人による刑務所探訪として、ダブリンのキルメイナム刑務所と、網走監獄の掌編がありますので、よろしければご一読を。

 追記です。2017年3月31日、老朽化のため、ここは刑務所としての運用を停止し閉鎖されました。今後はホテルや博物館など観光資源として活用される見通しだそうです。ぜひ第二の人生を送っていただきたいものです。

 近くにあった植村牧場は、創業1884(明治17)年、明治時代からの牛舎を今も使用されているそうです。その前にあるのがコスモスで有名な般若寺です。
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 それでは奈良ホテルへと向かいましょう。東七坊大路をてくてくと南へ歩いていくと、煉瓦造りや起(むく)り屋根の古い町屋が点在しています。
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 東大寺の転害(てがい)門は、1180(治承4)年の平重衡の兵火、1567(永禄10)年の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構だそうです。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-05-15 08:14 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(7):夕日地蔵(15.1)

 近くに、ほっこりと微笑む石仏がありましたが、これが夕日地蔵です。秋艸道人・会津八一の歌を記した立て札が傍らにありました。
 ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり
 漢字で表記すると、「奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり」でしょうか、優しさに満ちた心あたたまる歌ですね。家に帰ったあと、『自註鹿鳴集』(岩波文庫)で確認したら、下記のような自註がありました。
 ならざか 昔は平城京大内裏の北方を山城国へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越」(ウタヒメゴエ)といひ、もとの般若寺越の坂を「ならざか」といふこととなれり。
 いしのほとけ 奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年(1509)四月の銘あり。その表情笑ふが如く、また泣くが如し。またこの像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥かに相対するが如し。(p.37)
 以前にも書きましたが、会津八一の歌に出会うと、大学時代、新潮文庫の『会津八一歌集』と『大和古寺風物誌』(亀井勝一郎)を鞄に入れて友人と二人で奈良の古寺めぐりをした思い出がいつもよみがえります。大垣止まりの普通(急行?)列車(今でもあるのでしょうか)に自転車を分解・携行して(いわゆる「輪行」)乗り込み、普通列車を乗り継いで奈良に到着。宿は高畑にある奈良教育大学の学生寮。帰省している学生の部屋を、一泊200円で使わしてくれましたっけ。朝食は抜き、昼食は食パンのみ、夕食はご飯と缶詰(サバの水煮かカツオのフレーク)。キャンピング・ガスバーナーと飯盒を持参したので、奈良町で米を買い、部屋の中で(!)ご飯を炊きましたね。とにかく一円でも経費を抑え、一箇所でも多くの古寺・古墳を訪ねようとした旅でした。たしか期間は一週間、もちろん一回も風呂に入らず、ひたすらペダルをこいで奈良の主な見どころはすべて踏破しました。今、山ノ神に提案したら、即座に三行半を叩きつけられそうな汚い/貧しい旅ですが、懐かしい思い出です。F君、元気ですか。今にして思えば、いかに費用を安くできたかを誇る「貧しさの美学」が往時の学生には横溢していたような気がします。学生にとっては、自家用車や海外旅行なんて見果てぬ夢の時代でした。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-05-14 08:20 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(6):北山十八間戸(15.1)

 その近くにある、本瓦葺きで切妻造りの長屋のような建物が北山十八間戸です。『奈良県の歴史散歩 上』(奈良県歴史学会 山川出版社)から引用します。
 今在家から国道を離れ、旧街道(京街道)を北へ200mほど行くと、金網で囲まれた白壁の建物がある。真言律宗の僧で叡尊の弟子、忍性がハンセン氏病患者のために建設したといわれる北山十八間戸(国史跡)である。最近は教科書に掲載されることも少なくなり、さびしい気もするが、わが国で最も古い病院遺構、あるいは救済事業施設の遺構の一つであることにかわりはない。当初は般若寺の北東に建てられたこの建物は、1567(永禄10)年、三好・松永の乱で焼失し、寛文年間(1661~73)に現在の地で再建されたもので、切妻造・本瓦葺の建物である。
 川上町は佐保川の上流にあるところから名づけられたというが、建物のわきから奈良市街をながめていると、このあたりが高台にあることを改めて知るとともに、ハンセン病のために物乞いに行くことができない患者を背負って毎日、奈良の市に連れていったという忍性の伝説を思い出す。第2次世界大戦後は、引揚者の共同住宅になったこともある。今は訪れる人もほとんどなく、近くの16世紀初めにつくられたという夕日地蔵とともに静かにたたずんでいる。(p.51)
 忍性という律僧には興味を引かれます。『週刊朝日百科 日本の歴史 中世Ⅰ‐7 鎌倉仏教』(朝日新聞社)から引用します。
 叡尊の弟子の忍性は、はじめ西大寺で活動したが、関東に戒律をひろめるために、建長四年(1252)西大寺を去った。常陸国で律宗の寺院を開き、殺生禁断の地を定めるなど幅広い活動を続けた後、鎌倉に入り、文永四年(1267)以降、北条重時の創建になる極楽寺を中心に活動した。忍性は、師の叡尊が一人一人の人間を救うことに仏教の意味を見出していたのと異なり、道路を開き、橋をかけ、井戸を掘り、多くの病人を看護するための施設を作ることなどを目的として、力を尽くした。架けた橋百八十九か所、開いた道路七十一か所、井戸三十三か所を数えることができ、救癩のために尽くすことも大きかった。こうした社会事業を行うには多大の費用を要したが、そのために律宗の僧たちは活発な勧進を行った。それが鎌倉時代中期以降の交通や商業の発展を背景にしていることはいうまでもない。そして、こうした活動を続けるために、忍性は積極的に政治的な権力に近づき、保護と援助を求めた。こうした点でも、律宗の行き方は、新仏教とは対照的であった。(4-208)
 鎌倉仏教と言うと、いわゆる新仏教のことのみが注目されます。法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元といったビッグネームが綺羅星の如く活躍したのですから当然ではありましょう。しかしこれまで仏教の研究に専心してきた旧仏教が、新仏教の隆盛に刺激されて、民衆とともに歩もうとしはじめた動きも見逃せません。貞慶、明恵、叡尊、そしてその中でもこの忍性の活動には瞠目します。現実的な方法(橋、道、井戸、北山十八間戸)によって、苦しんでいる人びとを一人でも多く救うのが仏教だ、彼はそう考えたのではないでしょうか。ベルトルト・ブレヒトが戯曲『ガリレイの生涯』(岩波文庫)の中で、ガリレイにこう言わせています。"私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ"(p.192) 宗教の目的も、そういうものであって欲しいですね。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-05-13 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(5):きたまち(15.1)

 そしてきっちりと護岸工事をされた貧相な川に出ましたが、ここが佐保川ですね。かつては南都八景のひとつ、佐保川の蛍と称えられたそうですが、昔日の面影はありません。ちなみに残りは、東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、雲井阪の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪だそうです。すこし歩くと聖武天皇陵にでくわしました。へえーここにあったのか。
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 佐保川沿いの道に出て、お地蔵さんや石仏、土塀に築地塀に格子窓を愛でながら歩いていると、「多門町」という町名表示のホーロー看板の下部に「仁丹歯磨」という宣伝がありました。
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 仁丹が歯磨きを売っていたとは知りませんでした。またこの町名表示は、広告を入れることを条件に仁丹がつくって配布したものなのでしょうか。謎が謎を呼びます、だから散歩はやめられません。あるお宅は、渋い築地塀、そして門の屋根が本瓦葺でした。維持管理はたいへんかと思いますが、町の景観に潤いをあたえる物件ですので大切にしていただきたく思います。
 またあるお宅の塀には、殺意を感じるほどの鋭い忍返しが設置されていました。あっ鹿だ。このあたりまで徘徊しているのですね、驚きました。
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 そして奈良坂です。『大系 日本の歴史5 鎌倉と京』(小学館)の中で、中世史研究者の五味文彦氏は次のように述べられています。
 都市の境界領域に目をやれば、北里の東北の奈良坂が注目される。平氏の南都攻めのさいには攻防の拠点となっており、『平家物語』は衆徒六万の軍勢が奈良坂を固めたと記している。奈良坂は奈良の出入口であり、その名も車道とよばれ、京都の出入口である清水坂とは、宇治路で結ばれていた。まさに軍事・交通上の要地である。
 そこには清水坂と同様に下層民の集住する場、北山宿がある。文永六年(1269)、北山の般若寺の西野において、律宗の叡尊は非人二〇〇〇人にたいし、大規模な施行をしており、また北山十八軒戸のハンセン病患者救済施設も叡尊のたてたところという。叡尊の弟子忍性は、ちかくにある東大寺の大勧進となって、東大寺の修造に関与したが、大勧進職は、重源にはじまり、栄西・行勇らの禅僧がそれにつづき、そして律僧の手に帰したものである。(p.250~1)
 京都の清水坂と奈良の奈良坂には多くの非人が住んでおり、「坂の者」と呼ばれていたことを思いだしました。たしか興福寺が支配していたのですね。東大寺大仏殿が見下ろせるので、ここが高台であることがよくわかります。装飾にあふれた煉瓦造りの小さな建物がありましたが、奈良市水道計量器室です。奈良にはじめて水道が引かれた時、1920(大正9)年ごろにつくられたそうです。
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 本日の五枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-05-12 06:32 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(4):奈良女子大学(15.1)

 お礼を言って構内に入ると、すぐ左手に最大のお目当て物件がありました。そう、奉安殿です。ペディメントが印象的な神殿風の建物でした。解説があったので転記します。
 この建物は、1934(昭和9)年に奈良女子高等師範学校創立25周年を記念して、本学同窓会(佐保会)から寄贈された「奉安殿」である(「奉安庫」又は「奉安所」とも呼ばれる)。
 「奉安殿」は第二次世界大戦中まで、全国の学校に下付された天皇・皇后の写真(御真影)や教育勅語を納めていた建物である。戦後、民主化が進む中で、学校から御真影が撤去されたことに伴って、ほとんどの「奉安殿」が解体され、今では、ごく少数が残るのみである。
 本学に残るこの「奉安殿」には、「戦後、本学の生物学教員が、日本を占領していたGHQ(連合国軍再考司令部)と交渉し、遺伝の研究用にショウジョウバエの飼育室として使う許可を得たため、破壊を免れた」という逸話が伝えられており、時代の変遷を物語る貴重な歴史の証人である。
 なるほど、奉安殿に歴史あり、ですね。その教員が奉安殿を破壊から守った理由は、天皇への敬慕からか、あるいは歴史的な資料としての必要性を痛感したからなのかは判りませんが、何はともあれ"貴重な歴史の証人"として残されたのは僥倖でした。子どもや若者を、何も考えさせず、権威への盲従を体に叩き込めば、どんな国家ができて何をしでかすかを教えてくれる証人です。
 奈良女子大学記念館は、奈良女子高等師範学校の本館として1909(明治42)年に建てられたもので、重要文化財に指定されています。ハーフティンバー様式の瀟洒な洋館ですね。佐保会館は、同窓会会館で竣工は1928(昭和3)年。近代木造建築の規範として登録有形文化財となっています。グラウンドのはしに石仏がまとめられていましたが、数輪の花と紙コップに入れた水が供えられていました。こういう心遣いはすてきです。自転車置き場には空気入れ機が設置されていましたが、こういう配慮もいいですね。
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 さてそろそろお暇しましょう。気がつけば守衛所の建物もなかなか洒落た物件でした。守衛さんに低調にお礼を言って外へ出ました。
 ちなみにここは、江戸時代に大和一円を統治した奈良奉行所があったところで、わが敬愛する川路聖謨が奈良奉行として勤めていたそうです。ふと見ると、道の彼方に若草山をバックに東大寺大仏殿の巨大な甍が浮び上っています。絵になりますね、山焼きの炎に浮かび上がる大仏殿のシルエットは素晴らしいでしょう。視界は開けていないのですが、このあたりから眺めるのも一興かもしれません。

 本日の五枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-05-11 06:29 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(3):きたまち(15.1)

 街角にある小さな祠はお地蔵さまを祀ってあるのでしょうか、生花が活けてあり信仰心の厚さを感じます。春日ランドリーの看板は、鹿の角に物干し竿と洗濯物がかかっているイラストです。さすがは春日大社のお膝元、でも神使を物干し台に使って罰は当たらないのでしょうか。このあたりは古い町屋が建ち並んでいて、落ち着いた雰囲気です。
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 あるお宅には「度量衡器販売所」という古い看板がかかっていました。
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 ふと脇道に目をやると、彼方に(たぶん)若草山が見えました。今夜あそこが燃え上がるのかと想像すると、アドレナリンが分泌してきます。ファイヤー! 街角に「とびだすな 車は急にとまらない」という古いホーロー看板がありましたが、"とまれない"ではなく"とまらない"という点に製作者の意図を感じます。交通事故は不可抗力ではなく、運転手の責任なのだという主張でしょうか、同感です。それにしても描かれた自動車は、そうとう古い車種ですね。私は「悪魔の機械」にまったく興味がないのでわかりませんが。
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 すこし歩くと、交番を再利用した「きたまち案内所」がありました。街のランドマークになりそうな愛らしい建物です。さっそく中に入ってきたまちの観光地図をいただき、係りの方に、山焼き見物に絶好のビュー・スポットを訊ねました。奈良県庁屋上がベストだそうですが、ここは事前予約が必要だそうです。あまり近くに行くと大混雑だし山焼きの全貌が見えないので、すこし離れたところにある「奈良春日野国際フォーラム甍」のあたりが良いと教えてくれました。多謝。

 そして、きたまち散策のメイン・イベント、奈良女子大学に着きました。あ、いや、誤解がないように。女子大生を盗撮するとか香りを嗅ぐとか、そういうことではなく、お目当ての建物群があるのです、いや、ほんと。門構えからしていいですねえ、モダンで洒落た物件です。さて、問題は、関係者でない男性が、女子大の敷地内に入れるのかという点です。一張羅のブルックス・ブラザースのブレザーを着てこようかなとも思ったのですが、何とかなるだろと高をくくり、いつものように掏摸に狙われにくく不快感を与えない程度の貧乏臭い服装で来てしまいました。こういう時に頼りになるのは山ノ神、守衛さんに「この男性は私の良人で、お天道さまのもと大手を振って歩ける真っ当な人間で、高校で歴史を教えている市井の歴史学徒で、こちらの大学内にある古い建物群を後学のためにぜひ拝見したいと強く希望している。私が身許を保証し、馬鹿なことをせぬよう監視を怠らないので、中に入れてもらえないだろうか」と懇願してほしいと頼みました。そんな長い台詞は覚えられないわよ、とぶつぶつ言いながら守衛所に行き何やら話をすると、拍子抜けするぐらいにあっさりとOKが出ました。やった。

 本日の四枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-05-10 06:29 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(2):近鉄奈良駅(15.1)

 川を渡ってしばらくすると平城京の復元された朱雀門が見えてきました。近鉄奈良駅に到着し、荷物をコインロッカーに預けて公衆トイレへ。すると、鏡に傷をつける、あるいは配線を切断するという悪質な悪戯(犯罪)が連続発生しており、見かけたら通報してほしいというポスターが貼ってありました。しかしまた何でそんなことをするのでしょう。格差社会による窮乏や将来への不安、それにともなうストレスや行き場のない憎悪が原因なのでしょうか。でもだめなものはだめ。大きな不幸の原因が国家機構や社会制度にあることを見抜いて一緒に闘いましょう。そして他者を不幸にすることによって莫大な利益を得ている方々を、人間性の失陥から救ってあげましょう。ウィリアム・モリス曰く"誰も敗者とならぬ戦いに参加しよう。たとえ死が訪れても、その行ないは永遠なり"。
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 トイレから出ると、「縁結び★プロジェクト パワースポットでチカラを授かり婚活! 募集人員 男女各24名様」というポスターがあり、その上に「満員御礼」という小さいシールが貼ってありました。企業のしたたかさには舌を巻きますが、参加者みなさんの健康とご多幸を祈ります。なお縁結びのパワスポは国津神社だそうです、ご参考のため。近くにあったゴミ箱を見ると、東京に比べて「燃えるゴミ」の開口部が非常に大きいですね。関西人の広い度量を感じます。
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 山焼きまでは古都の散策を楽しみましょう。奈良町は以前に訪れたので、今回は「きたまち」散策と洒落込みました。おっとその前に、「奈良きたまち ~歴史のモザイクのまち~」というサイトから照会文を転記します。
 近鉄奈良駅の北側に広がるエリアを通称「きたまち」と呼びます。かつては奈良の北の玄関口として、京都や大阪から来た多くの旅人が行き交い、旅籠や商店が立ち並ぶ活気溢れる町でした。
 奈良時代の転害門(世界遺産)、鎌倉時代の刀鍛冶、室町時代の南都八景、戦国時代の多聞山城跡、江戸時代の奈良奉行所、明治時代の奈良女子大旧本館(重要文化財)など、きたまちには1300年間の歴史資源や文化遺産が数多くあります。
 戒壇院・水門町あたりは奈良の粋が漂う大人の散歩道。奈良街道沿いには、鏃(やじり)の穴も今なお残る天平時代の遺構、転害門。般若寺までのならだらかなの(ママ)丘陵地、平城山(ならやま)。静寂に包まれた聖武天皇陵、光明皇后陵。メルヘンチックな明治時代の洋風建築、奈良女子大、少年刑務所。散策の途中には、古い町並みの格子の家々や、きたまちに残る伝統的な技を伝える14の「まちかど博物館」、かわいいお地蔵さんたち、お洒落なカフェやアトリエにも出会えます。
 東大寺や正倉院といったおなじみの観光コースだけで帰るのはもったいない、歩けば歴史に出会える古都ならではの発見の楽しさと、初めて来たのになぜかホッとする魅力が、きたまちにはあります。

# by sabasaba13 | 2017-05-09 06:23 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(1):奈良へ(15.1)

 この歳になっても、まだまだ見たことがない祭りや行事が多いものです。食指をそそられるものを思いつくまま挙げても、若草山の山焼き、祇園祭、大文字送り火唐津くんち、御柱祭、風の盆などなど。そこで一念発起、小さいことからコツコツと、赤子泣いても蓋とるな、嫁を持たせにゃ働かん、若草山の山焼きを見に行くことにしました、ファイヤー! 時は2015年1月24日~25日、今回は「50+(フィフティ・プラス)」の格安ツァーを利用しました。山ノ神の熱い希望で豪気に奈良ホテルに止まり、一泊二日のフリー・プランです。

 まずは若草山について、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 奈良市の市街地東部にある山。嫩草山とも書く。奈良公園の一部で、標高342メートル。地質は三笠山安山岩(両輝石安山岩)であるが、旧火山ではなく侵食から残った火山岩丘である。全山美しい芝で覆われた三層の斜面をなし、かつて三笠山と混同された。頂上には国指定の史跡鶯塚(うぐいすづか)古墳がある。頂上からは四周の青垣山や奈良盆地、遠く吉野連山、山城(盆地などを一望できる。毎年1月15日の山焼きは東大寺と興福寺の境界争いに始まる行事ともいい、午後6時、若草山麓に火がつけられる。古都の夜空を焦がす奈良の代表的な年中行事の一つ。
 "古都の夜空を焦がす"か、これは楽しみです。持参した本は『増補〈世界史の解体〉 翻訳・主体・歴史』(酒井直樹VS西谷修 以文社)です。

 2015年1月24日、午前7時少し前の新幹線「のぞみ」に乗り、一路京都をめざします。東京駅で購入した駅弁、私は「いわて黒豚とんかつ弁当、山ノ神は…何だっけ、をまずたいらげました。
 なお岩手県龍泉洞黒豚についての説明が、弁当に記されていたので転記します。
高橋真二郎(兵庫県出身)・雅子(栃木県出身)ご夫妻 (2人とも東京農業大卒)
 東京農業大学卒業後、茨城県で養豚をはじめましたが、用地が狭く、豚にとって良い環境と、目指す養豚が出来ない為、困っていたところ、東京農業大学の先輩であった前岩泉町長の紹介で、岩泉に来ました。豚にとって、最高の環境で育てることが出来る所です。

高橋真二郎さんの美味しいお肉へのこだわり
■健康であること
 健康でなければ美味しい肉になりません。健康な親豚から、健康な子豚が生まれます。
■豚の旨味が勝負
 旨味のある脂の乗った肉に仕上げることです。脂の質を上げるために、飼料は、大麦とふすまが強化されています。
 雨は降っていないもののあいにくの曇天で、富士山もおぼろげに霞んでいます。「残念だね」と山ノ神に声をかけると、彼女曰く「山焼きは夜だから関係ないじゃない」。おおっなんてザッハリッヒな思考なんだ。ま、でもその通りなんですけどね。関ヶ原を通り過ぎるころから青空となり、雪を戴いた霊峰伊吹山の神々しいお姿を拝むことができました。
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 そして京都駅に到着、近鉄特急に乗り換えて一路奈良をめざします。駅のホームでは、奈良県マスコット・キャラクターの「せんとくん」が、満面の微笑をたたえて吾々を出迎えてくれました。もうだいぶ慣れましたが、まだ夜道では出会いたくないですね。
 そして特急に乗り込みますが、指定席の番号表示が大きくて見やすいですね。さあ出発、青空に屹立する東寺五重塔も吾々を出迎えてくれました。満開の不二桜をいつの日にか見に行きたいと思います。
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# by sabasaba13 | 2017-05-08 07:51 | 近畿 | Comments(0)