言葉の花綵153

 亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国 (田中正造)

 ほんとうのことを知らないというのは、戦争に賛成しているのと同じことだったのよ。わたしは、吉二を戦争で死なせた罪があるの。「無知の罪」という罪が、ね。(米田ひさ)

 これが日本であったら、人の心も知らないやつだといって、たたき殺されるような深い憤怒と悲哀のなかで、彼は私に「ここを写せ!」と叫ぶのです。「このおれを撮れ!」と迫るのです。そして、これこそ戦争をやめさせる最大の力であり、そのような民衆のいるかぎり、かならず平和はかちとられるという確信を、私はもつことができました。(岡村昭彦)

 ベトナム戦用の枯葉剤を米軍に納めていたアメリカの化学企業ダウ・ケミカル社は、国内向けの缶入り除草剤には次のような注意書きをつけていた。「この薬品はかならず子どもやペットの手の届かないところに置いて下さい。また、他の目的で家事に用いたり、灌漑用水を汚染したり、飲んだりしてはいけません」―と。これを(対人)散布しながら、米軍は除草と言いはったのである。生きている人間の価値はペットよりも低くみなされたのだ。(中村梧郎)

 戦争は人を不道理になすのみならず、彼を不人情になします。戦争によって、人は敵を憎むのみならず、同胞をも省みざるに至ります。人情を無視し、社会をその根底において破壊するものにして戦争のごときはありません。戦争は実に人を禽獣化するものであります。(内村鑑三)

 武具は市民服に従うべし。月桂冠は文民の誉れに譲るべし。(キケロ 『義務について』)

 常備軍は時とともに全廃されるべきである。…さらに常備軍について考えねばならぬことは、殺すために、あるいは殺されるために雇われるというのは、人間がほかのものの手で(たとえそれが国家であるとしても)単なる機械や道具として使用されることを含んでいるように思われるということである。しかし、そのような使用は我々の人格がもつ人間性の権利と一致するはずがないのである。(イマヌエル・カント 『永遠の平和のために』)

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と。
 あやまち? ほんとうにそれは過失だったのか。また、いったい何があやまちなのか。アメリカが原爆を投下したことか。日本が中国を侵略したことか。米英蘭に宣戦を布告したことか。それとも客観的に、十五年戦争の発端となった満州事変の謀略であるか。…それらすべてが国家的確信犯罪でなくて過失だったというのか。(高橋和巳 『孤立無援の思想』)
# by sabasaba13 | 2017-02-13 08:09 | 言葉の花綵 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(13):国府台(16.9)

 なおこのサイトで、八千代市大和田新田に「無縁仏の墓」が、八千代市・萱田山長福寺に「震災異国人犠牲者 至心供養塔」が、八千代市民会館のすぐ隣にある墓地に「無縁供養塔」があることを教示していただきました。また朝鮮人たちを拘束した陸軍の捕虜収容所は、現在、習志野市東習志野保育園となっているそうです。いずれ日を改めて訪れたいと思います。

 本日の締めは、国府台(こうのだい)にある教会です。バスに乗って八千代台駅に戻り、特急に乗ること二十分ほどで京成八幡駅に到着、普通列車に乗り換えて数分で国府台駅に着きました。持参した地図を片手に十分ほど歩くと、日本福音ルーテル市川教会会堂(千葉県市川市市川4-288-14)に到着です。均整のとれた白亜の教会で、四角い鐘楼がいいアクセントになっています。竣工は1955(昭和30)年、設計はヴォーリズでした。駅へ戻る途中で初見の透かしブロックを発見。そして国府台駅から京成電鉄に乗ってわが家へと帰りました。
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 というわけで、虐殺行脚千葉編一巻の終わり、次回は東京編です。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-12 08:27 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(12):高津観音寺(16.9)

 軍隊が無辜の朝鮮人を村人に引き渡して、殺させたわけですね。自らの手を汚さず、民族主義者・社会主義者など厄介な朝鮮人を村人に始末させて、責任をなすりつけたのでしょう。これまで縷々述べてきた虐殺のことを考えるにつけ、当時の日本が、底無しに下劣な国であったことを痛感し恥ずかしく思います。そして虐殺の全貌と真相を調査せず、その原因を明らかにせず、加害者の責任を認めず、謝罪もしない現在の日本も。
 朝鮮人虐殺はなかったという方も時々いらっしゃいますが、その気持ちは痛いほどわかります。きっとそうした日本という国の下劣さを認めるのが、身を切るほど辛いのでしょう。軍・警察・民衆が無辜の異民族を大量に虐殺し、その責任を認めず、謝罪もせず、忘却に淵に沈めようとしている下劣な国だと。でも、反省しなければまた繰り返すのが人間の性、その兆候があらわれているのに危惧の念を感じます。「悪いことをしたら、それを認めて謝る」、子どもだってわかるごく基本的な道徳なのに。

 なお朝鮮風の鐘楼の由来については、千葉県議会議員・丸山慎一氏のサイトでわかりました。1983年、関東大震災を素材にした映画を作るためにこの地域を訪れた韓国の文化人が、同胞の霊を供養するために韓国で募金を集めて、韓国でつくられて日本に運ばれたそうです。その建立文が紹介されていたので、引用します。
 1923年9月の関東大震災の際に、無残に死んでいった韓国人の魂を慰めるために、ここに高津観音寺の境内に普化鐘楼を建て、この慰霊の鐘を奉献した。
 韓国13の市・道の土を集め、韓国の瓦と木材、そして韓国式丹青で真心をこめて建てたこの鐘楼は玄界灘を超えて、いまこの場所に立っている。
 あのむごたらしく暗い歴史は、あの日の悲鳴とともに埋められてしまい、魂はそのままにされてきた。しかし、ここ観音寺の二代にわたる住職が慰霊の塔婆を立て、また多くの市民グループが時刻の恥部を掘り起こす作業をすることにより、失われた歴史は再び明らかにされたのだ。
 いわゆる「朝鮮人襲撃」のうわさの虚構性も、記録するのもはばかられる狂気の真相も、半世紀が過ぎて再び世の中に姿を現した。
 しかし、現代の韓国人はその暗い歴史を憎みはしても、今日の日本や日本人をとがめたくはない。むしろ、歴史を正視し、その歴史の前に謙虚な日本の友人にありがたいとさえ思う。
独立40周年、韓日国交正常化20周年である今年、この小さな鐘をささげながら私たち現代の韓国人は感慨無量である。この習志野の野原の静かなこだまがすべての韓国人と日本人の胸に刻まれ、お互いに厚く手を取り合う震源になることを願いたい。
この鐘の音をともに聞きながら63年前の悲しい歴史をともに想い、その多くの犠牲者の痛みをもともに分かち合い、今日の韓日の相互理解を相互尊重をともに誓おう。
 この呼びかけに、私たちは何と答えればいいのでしょうか。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-10 06:37 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(11):高津観音寺(16.9)

 もうひとつ、加藤直樹氏のブログ「9月、東京の路上で」から引用します。
八日 太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする 小石川に二斗 本郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此(そこ)に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。(姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)

 千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。
 すでに書いたように、9月4日、戒厳司令部では東京附近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配にも悪い影響を与えることを恐れたのだ。
 自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆からは守られることだけは確かなはずであった。現に、前回の記事で紹介した鄭チヨさんの一家、あるいは丸山集落の「福田」さん、「木下」さんは、その後無事に帰って来ている。最大で3200人の朝鮮人を収容した習志野収容所は、およそ2ヵ月後の10月末に閉鎖された。
 ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。
 収容される側にいた申鴻湜(シン・ホンジェ)さん(当時18歳・学生)もまた、腑に落ちない体験をしていた。収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたのだが、仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されたのである。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言う。だが何のあいさつもないのは妙だ。申さんは疑問を残したまま、収容所を後にすることになった。
 軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになるのは、戦後のことである。研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)によれば、収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。
 殺害を行った村人の当時の心情は、残された記録や証言だけではつかみかねる。しかしその後、彼らは盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。上の日記で殺害の現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、ひそかに卒塔婆が立てられた。
 高津の古老たちが重い口を開くのは、1970年代後半のことである。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。聞き取りに訪れた子どもたちに、古老たちは当時のことを証言し始めたのだ。冒頭の日記も、中学生が当時のことを調べていると知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだものである。
 同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。
 98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断する。親や祖父母たちの行ったあやまちを認めることは決して簡単なことではない。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。
 警官立会いの下、8時間にわたってショベルで掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。翌月、遺骨は観音寺に納められ、翌99年には境内に慰霊碑が建立される。同年1月12日付けの朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-09 06:33 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(10):高津観音寺(16.9)

 そしてやってきたバスに乗り込み、十数分で「高津石橋」バス停に着きました。観音寺はすこしわかりづらいところにあり、前もって調べて印刷した地図を持参して正解でした。車道から奥まったところにあるお寺さんで、入口にある駐車場のすぐ先に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」「関東大震災韓国人犠牲者慰霊詩塔」と朝鮮風の鐘楼がありました。
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合掌

 それではここで何が起きたのか。前記の幸い、田中正敬氏による「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」からふたたび引用します。
 一方、習志野の軍隊の命令により朝鮮人を虐殺した村の一つである高津では、震災から四〇年前後を経過した頃から古老二人が六人の犠牲者が眠る地に塔婆を立てるようになった。また、高津の近くの大和田新田では一九七二年に「無縁仏之墓」が建てられた。外部の人間には知られない「有志」により行なわれた追悼は、その追悼者が亡くなることにより、追悼はおろかその「記憶」についてもいずれ忘れ去られる可能性を持っていた。船橋の虐殺事件については一九六三年に日朝協会が調査を行ない、また地域での研究も続けられていたが、本格的な調査が始まったのは、一九七四年の千葉県歴史教育者協議会の集会で行なわれた「関東大震災時の朝鮮人虐殺について」という報告がきっかけであった。報告者の高橋益雄氏は、馬込霊園の追悼式に参列し、一九六三年の調査にも参加してきた。その後、高橋氏の問題提起を受けた高校教員などの地域の人々の取り組みにより、調査が進められていった。他方、習志野市や八千代市でも中学校教員が中学校の「郷土史研究会」というクラブの学生たちと一緒に地域の歴史を調査する過程で地域の虐殺の事実を知り、一九七六年から虐殺の目撃者に対する聞き取りを行なった。この調査にも多くの人々が主体的に関わった。一九七八年には高橋益雄氏を実行委員長として「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼 調査実行委員会」が発足し、自治体職員や主婦、市会議員など様々な人々が集まり、さらに調査を進めていった。収容所に勤務していた元軍人や虐殺事件を起こした地域の住民は、実行委員会の粘り強い交渉もあって事件についての証言や資料の提供に応ずるようになった。こうして、前述のような事件の実態を明らかにした実行委員会は、一九八三年に『いわれなく殺された人びと』を刊行してその成果を活字にする一方、同年、高津の地域住民と共同で追悼行事を行なうようにもなった。高津での朝鮮人虐殺が具体的に明らかになったのは、高津の住民が実行委員会に日記を提供した ためである。当時の住民の日記の震災関連部分は次のとおりである。

 一日西区のA方で将棋をやる。正午大地震起る。何回となく続いて来る。午后二時頃帰宅、 豚が子を産で居たので見てやる。変りなし。昼飯を食って又Aへ行って将棋をやる。…三日…夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。在郷軍人団青年団やる。 四日村中集会両区の要処ゝゝ警戒線を張り区内の安全を期すべく決定、鉄砲刀何れも武器持参なり。 七日…皆疲れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃、バラック(収容所―引用者註)から鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有ったとて急に集合させ、主望者(ママ)に受取りに行って貰う事にした。…夜中に鮮人十五人貰い各区に配当し(中略)と共同して三人引受、お寺の庭に置き番をして居る。八日…又鮮人を貰ひに行く。九時頃に至り二人貰って来る。都合五人(中略)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。(中略)穴の中に入れて埋めて仕舞ふ。皆疲れたらしく皆其処此処に寝て居る。夜になると又各持場の警戒線に付く。九日…夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人一人貰って来たと知らせ有る。之は直に前の側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りで、切る。(『いわれなく殺された人びと』より 一部抜粋)

 九月一日の記述では比較的被害が少なく牧歌的な雰囲気があったと思われる村が、三日の役場からの通知以後に一挙に緊張が高まっていく様子がわかる。七日に朝鮮人を渡された住民はこれを各地区に「配当」し、高津では二日にわたり六人が虐殺された。軍隊が村に指示しなかったならば、住民が加害者になることはなかったであろう。
 日記に書かれた事件が事実であったことは、一九九八年の発掘で六体の遺骨が出てきたことにより証明された。翌年、地域住民、観音寺、そして実行委員会は共同で高津観音寺に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」を建立して遺骨を安置し、犠牲者を弔った。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-07 06:37 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(9):八千代台駅前(16.9)

 霊園入口にあるバス停からバスに乗って船橋駅へ戻り、京成船橋駅から京成電鉄に乗って八千代台駅へと向かいました。そうそう、高校生のころにつくったナゾナゾを思いだしました。「美人の乗客が一番多い鉄道はなーんだ?」 答えは「傾城電鉄」 ハーハッハッハハハ… それほど面白くないですね、失礼しました。快速に乗って東行すること十五分ほどで八千代台駅に着きました。めざすは八千代市高津区観音寺、西口より東洋バスに乗って「高津石橋」バス停で下車、徒歩5分のところにあるそうです。バスを待っていると、停留所のすぐとなりに「住宅団地発祥の地」という記念碑がありました。後学のために転記しておきます。
 この附近には明治以来習志野騎兵旅団が駐屯し 八千代台団地もその旅団の練兵場であったが 時は移り昭和30年3月多くの方々のご協力を得て 千葉県住宅協会の手でこの地に全国初の住宅団地が誕生した
 これが契機となって住宅金融公庫の団地造成に対する融資制度も確立し 全国に続々と住宅団地の造成を見るようになった
 今から見れば 八千代台団地は必ずしも大団地とは云えないが 団地誕生の歴史を回顧すれば八千代台団地のできたことは洵に意義深いものであった
 そうか、このあたりは朝鮮人虐殺に関与した習志野騎兵旅団の練兵場だったのですね。駅前には「知っているかい 便利とひきかえ 温暖化」という標語の看板がありましたが、田中君、傑作です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-06 15:23 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(8):馬込霊園(16.9)

 裏面の碑文はハングルによる記載のため、浅学な小生では判読できません。しかし「虐殺」「煽動教唆」「蠻行」といった漢字表記から推測するに、被害者の立場から事件の真相を記録しようとする姿勢がうかがわれます。碑を建立したのは在日朝鮮人連盟中央本部で、もともと船橋市本町にありましたが、1963年に現在の位置に移設されました。なお在日朝鮮人連盟(朝連)とは、1945(昭和20)年8月15日の解放直後から、在日朝鮮人の故国への帰国を援助し、生活権を守るために各地に多数つくられた自主的な団体が結集した組織です。碑文によると、中央総本部委員長・尹槿筆の名前で1947年3月1日に建立されています。1919(大正8)年、三・一運動が起きた日ですね。この当時の朝鮮はどのような状況であったのか、姜尚中氏が『戦争の世紀を超えて』(姜尚中・森達也 集英社文庫)の中で、的確にまとめられているので紹介します。これは責任の一端を負う者として、われわれ日本人が知らなくてはいけない歴史だと思います。
 一方、朝鮮半島はどうだったのか。金日成がスターリンの事実上の黙約のもとに武力南進を始めるのですが、その前の48年の段階で、南は単独選挙によって李承晩が大統領に選ばれています。が、その単独選挙もアメリカの介入によるものでした。
 朝鮮半島については、カイロ宣言で、朝鮮半島の奴隷状態にかんがみてという文言が入っているんです。ですから連合国は、奴隷状態にあるこの半島をどうするかについてカイロ宣言で話し合った。ルーズベルトは、つまり、アメリカは朝鮮半島についてほとんど知らなかったんですね。ただ間違いなく地続きであるソビエトの影響力が将来大きくなるだろうと考えていた。それをどうするかということで、アメリカが単独でソビエトの影響力を抑制するよりは、共同統治を選んだ。信託統治にして、連合国が共同で管理し、自発的は政府と議会を作ろうという、そういう段取りです。
 ところが、これをめぐって紛糾する。ソビエトはアメリカに北海道分割統治案を完全にけられてしまいますが、しかしヨーロッパのほうでは、後にワルシャワ条約機構をはじめとする勢力圏があって、かなり意見が通るわけですよね。だから朝鮮半島は連合国にとって、ある種のブラインドスポット(盲点)だったと思うんです。彼らにとって一番重要なところはやっぱりヨーロッパだった。ヨーロッパの中での米ソの位置づけが、何より大事なテーマだった。そのときアメリカは、朝鮮半島でのソビエトの影響力を可能な限り相対化したいがために、結局信託統治案に持っていく。けれど、いろいろな思惑が錯綜して信託統治の最終案がなかなか決まらないんです。
 そうこうしている間に朝鮮半島の内部は、右と左を包摂した統一戦線を作ろうという動きがあり、これが後の朝鮮人民共和国となる。呂運亨(ヨウンヒョン)らが中心になって、李承晩から金日成まで入れて、それで受け皿を作ろうとしたわけです。そのとき敗戦間際の日本の朝鮮総督府は、最終的に朝鮮半島はソビエトの統治下に入るだろうと思っていましたが、アメリカが仁川に上陸するというのがわかって、対応を変えた。日本側はすぐにアメリカ側と交渉を持った結果、朝鮮半島について何も知らないアメリカが、既存の植民地時代の統治機構を利用して朝鮮半島を管理することになったんです。しかも軍政支配です。ですから、朝鮮半島の解放直後の事態というのは、日本、ソビエト、アメリカ、そして朝鮮半島内部の確執がほんとうに入り組んで、非常に混乱した状況だった。(p.243~4)
 震災時の虐殺についての究明を怠り、責任も取らずに忘却の淵に沈め、そして解放後の在日朝鮮人に対しても放置したままの日本に対する怒りと批判がこめられているのかもしれません。そして苦難の歴史をふりかえりながら、祖国の再建に全力を尽くそうという決意も感じられました。

 なお最近読んだ『ドキュメント 在日本朝鮮人連盟』(呉圭祥 岩波書店)の中に、下記の一文がありました。この碑を建立する前年に追悼大会が開かれていたのですね。なにか関連があるかもしれません、ご教示を乞う。
 日本と朝鮮の民主主義団体は、関東大震災犠牲者追悼大会を1946年9月1日に宮城前広場で共同で開催している。ここでは司会を朝連南浩栄、議長、副議長を日本人で構成して、自由法曹団布施辰治、中国から帰国した鹿地亘、日本共産党野坂参三、日本協同組合戸沢仁三郎、自治同盟入江汎、社会党代議士山花秀雄などが二度とこのような不幸な出来事が起きないようにと力説している(「解放新聞」 1946.9.10)。(p.88~9)
 もう一言。その大会に、自由法曹団の布施辰治が加わっているのを知り、感無量。私の尊敬する人権派の弁護士です。と書いたのですが「人権派弁護士」という言葉があること自体が、日本法曹界の退嬰を物語っていますね。人権のために闘わない弁護士の方が多いということなのでしょう。情けない。それはさておき、『日本の歴史14 「いのち」と帝国日本』(小松裕 小学館)にこうあります。
 布施は、1920年5月に「自己革命」宣言を行ない、社会運動の闘士として、法廷よりも社会で活動することを宣言すると同時に、法廷で取り扱う事件も、官憲に無実の罪を押しつけられた冤罪事件、弾圧と闘う無産階級の事件、人間差別と闘う事件、朝鮮人・中国人の利益のために闘う事件などの六項目に限ることを誓っていた。
 朝鮮人虐殺事件に関して、布施が所属する自由法曹団は真相調査を行なうことを決定し、〈少なくとも六七千の問題数が残る〉と犠牲者の数を推定している。そして、布施は〈×(殺)されたものの霊を吊うの前に先ず×(殺)したものを憎まねばならぬ、呪わねばならぬ、そしてその責任を問うべきである〉と激しく批判した。さらに、朴烈・金子文子大逆事件の弁護を買って出て、二人は朝鮮人虐殺事件の「弁疏」のために検挙されたと指摘した。(p.315)
 そう、大震災時の虐殺事件に際して、真相解明に尽力し、朝鮮人のための裁判活動を行なった稀有なる方です。敗戦後も、朝鮮人のために協力を惜しまなかったのですね。さすがです。

 本日の一枚です。
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 追記。『いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人』(千葉県における追悼・調査実行委員会編 青木書店)を読んでいたら、碑文の訳がありましったので引用します。

関東大震災犠牲同胞慰霊碑 碑文
 西紀一九二三年九月、日本、関東地方大震災時に軍閥官僚は、混乱中、罹災呻吟する人民大衆の暴動化を憂慮し、自己の階級に対する憎悪の感情を進歩的人民解放の指導者と少数異民族に転嫁させ、これを抑圧、抹殺することによって、軍部独裁を確立しようと陰謀した。当時山本軍閥内閣は、戒厳令を施行し、社会主義者と朝鮮人たちが共謀して暴動を計画中であるとの無根なる言辞で、在郷軍人と愚民を煽動、教唆し、社会主義者とわれわれ同胞を虐殺するようにした。在留同胞中で此凶変蛮行による被殺者は六三〇〇余命を算え、負傷者数万に達した、この犠牲者同胞の怨恨は、実に千秋不滅であろう。しかし、解放された我々は、世界の民主勢力と提携し、海内、海外の国粋的軍国主義の反動残滓勢力を撲滅し、真正な民主朝鮮を建設し、世界平和を維持することによって、宿怨を雪辱するよう積極的に闘争することを盟誓し、犠牲諸霊を慰労するために、ここに小碑を建立する。
在日朝鮮人連盟中央総本部 委員長 伊槿 撰
(一九四七年三・一革命記念日竣成) 船橋市馬込霊園 (p.169)
# by sabasaba13 | 2017-02-03 06:20 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(7):馬込霊園(16.9)

 松尾駅から千葉行の総武本線に揺られること約50分、千葉駅で総武線快速に乗り換えて十数分で船橋駅に到着です。そしてJR船橋駅北口から「鎌ケ谷大仏」行きバスに乗車、「馬込霊園入口」で下車して約10分歩くと船橋市市営馬込霊園に着きました。こちらには「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」があるのですが、さて広大な霊園ゆえ当てずっぽうというわけにはいきません。幸い、事務所がすぐ眼前にあったので訊ねてみると、すぐに教えてくれました。事務所から目抜き通りを数分歩くと、通りに面して右手にあるのですぐにわかりました。
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合掌

 碑文には「西紀一千九百四十七年三・一革命記念日竣成」、「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」、「在日朝鮮人連盟中央本部建之」と刻まれています。
 それではここで何が起きたのか。幸い、田中正敬氏による「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」という詳細な報告に出会えましたので、引用します。
 千葉県では少なくとも船橋、習志野、八千代、浦安、行徳、松戸、我孫子、馬橋などで朝鮮人虐殺が起こったといわれている。また、このほかに成田や佐原、福田・田中村などで日本人が虐殺された。この中で最も解明が進んだのが現在の船橋・習志野・八千代市における虐殺事件である。以下、この調査を行なった「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の成果である『いわれなく殺された人びと─関東大震災と朝鮮人』(青木書店、一九八四年)に依拠しつつ、概要を見ることとしたい。船橋では東京近郊で地震による倒壊の難を逃れていた海軍の送信所から無線により朝鮮人の流言が流され、また送信所長は近隣住民に武器を持たせて警戒態勢を敷いた。そのことが背景となって、北総鉄道の建設工事に携わっていた朝鮮人労働者が犠牲となったことは前述したとおりである。一方、千葉県の習志野には騎兵第十三~十六連隊が駐屯していた。騎兵連隊は震災後に東京や横浜方面に出動し、東京下町の亀戸事件や大島町の虐殺事件を引き起こしている。ここには九月五日に朝鮮人を保護するためとして「陸軍習志野支鮮人(ママ)収容所」が作られ、被災し危うく死を逃れた朝鮮人が収容された。ところが、その中に朝鮮語がわかる憲兵が入って朝鮮人を思想調査し、「おかしいような者」を特定し軍隊が殺してしまった。そればかりでなく、近隣の村にも朝鮮人を下げ渡して住民に殺させたという事件が起こった。少なくとも八千代の村の各地区で十八名を分けて殺したことが明らかとなっている。船橋では事件の翌年、日本人により「法界無縁塔」という碑が建てられた。この碑は西福寺の当時の住職を中心に船橋仏教会が建立したものであったが、ここには犠牲者の名前はもとより事件を連想させるような文言は一切書かれなかった。こうした問題を抱えた碑の前で、朝鮮人犠牲者の同胞は追悼行事を行なっていたが、一九四七年に在日朝鮮人は新しい追悼碑「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」を建立した。碑の裏面には関東大震災時の虐殺の経過や政府が虐殺を主導したことが朝鮮語で刻まれている。以上のように、船橋での事件の追悼行事は朝鮮人により担われたのであり、追悼式は現在も船橋市の馬込霊園で続けられている。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-02-01 06:29 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(6):松尾(16.9)

 松尾駅に行き、ふと駅前にあった観光地図を見上げると成東駅からすこし離れたところに「伊藤佐千夫生家 歴史民俗資料館」がありました。生家マニアとしては寄ってみたいところですが、時間的に厳しいかな。ここからタクシーに乗って訪れるという大尽旅行も考えましたが、財布と相談して断念しました。再訪を期す。なお読書というのはほんとうに面白いもので、その後にたまたま読んだ『近代秀歌』(永田和宏 岩波新書1407)の中で、伊藤佐千夫についてふれられていました。引用します。
 牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

 伊藤左千夫は千葉県の農家に生まれたが、上京し明治法律学校(現在の明治大学)に学んだ後、明治22年(1889)、26歳のとき、牛乳搾取業を起業した。屋号が「乳牛改良社」というのは、時代性を感じさせておもしろいが、元来経営の才には恵まれていたようで、家業は順調に発展していった。
 生業だけでなく、正岡子規亡きあとの根岸短歌会を発展させ、「馬酔木」「アカネ」を経て、「アララギ」を創刊した後は、多くの若い弟子を育て、「アララギ」が近代の一大結社になっていく基礎を築いた。短歌ばかりではなく、雑誌「ホトトギス」に拠って、『野菊の墓』をはじめとする小説を発表するなど、その精力的な活動には目を瞠るばかりである。
 さらに家庭的にも九人の女児と四人の男児の父親となったというから、そのエネルギッシュな活動は、ひ弱く、青白い文学青年というイメージからはほど遠い(子供は、男児は四人とも夭折、女児も一人が池に落ちて死亡するなど、悲しみの多い子育てでもあった)。
 掲出の一首は、まさにそのような壮年期の左千夫の意気ごみが伝わってくるような歌である。制作年次ははっきりしないとされるが、初期の歌であることはまちがいない。牛飼いである私のような庶民が歌を詠む時代になった。だからこそ、このような開かれた時代にふさわしい新しい歌が大いに起こるのだ、という意味。(p.116~7)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-01-31 06:32 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編(5):松尾(16.9)

 駅からすこし歩くと古色あふれる下見板張り木造家屋がありました。事務所として使われているようですが、鬼瓦に「水」という字と家名が記されているのに気づきました。
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 その先にあった「シノヅカ」というお店の看板を見ると、「宝飾 時計 メガネ 補聴器 テニス」… テニス? 何とも唐突に記されていたので驚きましたが、ご主人はよほどの庭球ファンなのでしょうか。同志よ。
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 そして成東駅に戻り、銚子行総武本線に乗って松尾駅に着いたのが11:21です。こちらの駅舎は古武士のような風格のある木造建築で、1898(明治31)年開業時のものだそうです。印刷して持参した地図を頼りに十数分歩くとお目当ての日本基督教団九十九里教会(千葉県山武市松尾町松尾60-1)に着きました。竣工は1884(明治17)年、切妻屋根に下見板張りの質朴な外観ですが、入母屋造の玄関ポーチがチャーミングです。驚いたのは、設計者があのヘボン式ローマ字で有名なヘボン(ジェームス・カーティス・ヘップバーン)だということ。彼は伝導のためここ松尾の地を訪れ、教会堂の創建にあたって、寄付金総額の三分の一にあたる200円を投じました。それに加えてヘボンは自ら設計図を引き、直接教会建設の指揮をとったそうです。教会堂の屋根は急勾配で、瓦職人が恐々作業にあたり、また室内には柱を一本も使わないなどの指示に辟易して、棟梁が3人も替わったとのこと。聖書の研究や英語の学習に情熱を注いだ往事の人びとの熱い息吹が伝わってくるようです。

 さて次は船橋に行って市営馬込霊園に寄りたいのですが、列車が来るまで小一時間あります。幸いなるかな、駅前に「寿々木」という洋食屋がありましたので、ここでゆっくりと昼食をとることにしました。まったく期待もせずにチキンカツ定食を注文したのですが、鄙にも似ず(失礼)、これがとても美味でした。肉汁あふれる鶏肉にクリスプなころも、味わい深いソースに舌鼓を打ち、食後の珈琲を楽しみながら読書にいそしんでいると、あっという間に一時間が過ぎました。ごちそうさまでした。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-01-29 06:35 | 関東 | Comments(0)