『共謀罪の何が問題か』

 なりふりかまわずに共謀罪法案を成立させようとしている安倍上等兵内閣。自由と民主主義を守るために抗い声をあげている少数の人びと、そしてこの問題に無知・無関心な、あるいは「他に適当な人がいない」という理由でこの内閣を支持している多数の人びと。状況はいよいよ最終局面に至っています。
 そもそも共謀罪法案とは何か、安倍でんでん内閣が意地になって成立をめざす理由は何か、そして問題点は何か、私たちはしっかりと知り、考えるべきだと思います。そのために導きの糸となってくれる好書『共謀罪の何が問題か』(髙山佳奈子 岩波ブックレット966)をぜひ紹介します。なお髙山氏は、第一線で活躍する刑事法の研究者です。

 まずは表紙にある一文を見て、驚きましょう。
 「テロ対策のため」「オリンピックのため」「国際条約のため」「組織的犯罪集団に限定し、構成要件を厳しくした」… →全部ウソです
 一読して納得しました、はい、ほんとうに、全部、ウソです。このようなウソつき内閣を支持している、あるいは自民党・公明党の候補者に投票する方々、このブックレットを読んでぜひ直視してほしいものです。

 「テロ対策のため」…ウソです。引用します。
 このように、テロを中心とする危険な事態には、国際条約や決議、またそれらに対応する国内立法や独自の国内法によって、すでに対応可能な体制が整っています。そして、法案の内容自体に、テロ対策が規定されていません。(p.40~1)
 "驚き桃の木山椒の木、錻力に狸に蓄音機"なのですが、2017年2月末に、法案の内容が明らかにされたとき、「テロ」という語がまったく含まれていなかったそうです。その後慌てた自民党・公明党は、適用対象についての条文に「テロリズム集団その他」という文言を挿入しましたが、テロ用に設けられた条文がただの一か条も存在しないという事実は変わっていません。(p.39~40)

 「オリンピックのため」…ウソです。引用します。
 …共謀罪立法はオリンピック・パラリンピックの文脈で議論されたことがなく、政府の公式文書でも一貫してそのような扱いになっていることが明らかになりました。(p.34)
 「国際条約のため」…ウソです。引用します。
 まず、条約が何を要求しているのかを見てみましょう。本条約は、シチリア州都パレルモ市で調印されたことに象徴されるとおり、マフィア対策を内容としています。そのターゲットの中心は組織的な経済犯罪です。2000年の国連総会で採択されており、2001年9月の同時多発テロ事件よりも前にできた条約であることがわかります。…テロ対策の一連の条約や国連決議は、マフィア対策とは別の体系をなしていますから、本条約を締結するために「テロ等準備罪」の処罰を導入する、という話は、そもそも眉唾ものです。(p.15)

 条約は共謀罪立法を義務づけていない。(p.20~3)
 「組織的犯罪集団に限定し、構成要件を厳しくした」…ウソです。引用します。
 2017年3月31日に自民党政務調査会が「党所属国会議員各位」に送付した「『テロ等準備罪』に関する資料」は、対象となる人の範囲について、「組織的犯罪集団に入っていない一般の方々が、処罰の対象になることはありません」としています。しかし、ある人が組織的犯罪集団に入っているかどうかは、その都度、捜査機関が判断するのですから、「入っていない一般の方々」が処罰対象にならないと言ってみても、意味をなしません。同じ資料には「一般のメールやSNS上のやり取りで処罰されることもありません」とも書かれています。これも、「一般の」メールやSNSと、「一般のでない」メールやSNSとの区別が法案に書かれているわけではなく、それは捜査機関によって判断されるわけですから、ナンセンスだといえます。(p.52)
 そう、捜査機関にフリーハンドを与えるようなものですね。警察関係諸氏は欣喜雀躍でしょうが。
 なお組織的は経済犯罪を取り締まるというのがパレルモ条約の趣旨ですが、この法案では、公権力を私物化する罪や、民間の汚職などの経済犯罪が、法定刑の重さにもかかわらず、対象犯罪から除外されています。(p.28) 本書にしたがって列挙して見ましょうか、これも"驚き桃の木(以下略)"です。業務上横領罪、特別背任罪、公職選挙法違反、政治資金規正法違反、政党助成法違反、警察などによる職権濫用・暴行凌辱罪、新聞・雑誌の不法利用罪、株式会社の役員・従業員による収賄罪、金融商品取引法違反、商品先物取引法違反、投資信託・投資法人法違反、医薬品・医療機器法違反、労働安全衛生法違反、貸金業違反、資産流動化法違反、仲裁法違反、一般社団・財団法人法における収賄罪、たばこ税法違反、石油石炭税法違反、石油ガス税法違反、航空機燃料税法違反、揮発油税法違反、相続税法違反、独占禁止法違反などなど。これらはすべて、共謀罪の対象犯罪から除外されています。私の理解を超えている犯罪も多々ありますが、政治家・大企業・警察にきわめて有利な法案であることは素人でもわかります。政治家・大企業・警察にとっては"ザル法"なのですね。

 それでは、なぜこのような嘘にまみれた胡散臭い法律を、安倍内閣および自民党・公明党は躍起になって成立させようとしているのか。髙山氏は、その理由を二点指摘されています。
 まずひとつめ。警察の権益を守り、さらに拡充するための共謀罪法と言えそうです。
 こんな奇怪な法案を、なぜ、与党は、虚偽の看板を掲げて国民をだましてまで強行しようとするのでしょうか。…ここでは、「犯罪が減って仕事のなくなった警察が権限を保持するため」という理由を書いておきましょう。(p.40~1)
 実は、近年、犯罪が激減しているのですね。政府の『犯罪白書』の統計によれば、刑法犯の2012年の認知件数は203万6392件であったのに対し、2015年は161万6442件で、わずか三年間に二割以上も減っています。(p.30) 犯罪の認知件数は、戦後最低新記録を更新中です。警察の仕事は減った、しかし警察職員の数は増えている。そこで本来必要のない処罰規定をわざわざ作ることにより、犯罪ではなかったものを犯罪と呼び、警察の実績を上げようとしている。最近、今まで摘発の対象になっていなかった行為の摘発を始めているのも、その傍証だとされています。例えば、沖縄の基地反対運動への弾圧、ダンス営業規制によるクラブの一斉摘発、女性タレントの線路立入り、右翼団体メンバーによる道路交通法上の共同危険行為など。

 ふたつめ、アメリカ政府の要請に応じた可能性です。『スノーデンの警告 「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」』の中で、エドワード・スノーデン氏は、特定秘密保護法をデザインしたのは米国であり、「テロ」は口実であって、米国の監視体制は米国への協力者や無関係な人々まで対象にしていると証言されています。
 実際に日本で情報活動にあたっていた人がこのように述べている過去の経緯からしますと、共謀罪立法についても、特定秘密保護法や安保法制の場合と同じく、米国の求めに応じているものである可能性が否定できません。確かに、米国の諜報機関には日本語の使える職員が足りませんので、日本の警察に集めさせた情報を入手するのが効果的です。(p.66)
 みっつめ。髙山氏は直接には指摘されてはいませんが、文脈からは見えてきます。
 刑事法研究者の声明でも「大分県警別府署違法盗撮事件」が例として挙げられていますように、現行法の下でも、一定の範囲で捜査権限の濫用が発生していることは事実です。鹿児島の志布志事件のような大規模な冤罪事件も起きています。最近では、福島の被災地への反原発ツァーで、レンタカー代を割り勘にした埼玉県加須市の職員らが、白タクの無許可経営罪の疑いで逮捕されたという事件がありました。また、沖縄では、極めて軽微な違法行為の疑いで、強制捜査によって大幅な人権の制約が行われる事案が相次いでいることも報告されています。(p.59)
 そう、反原発運動や反米軍基地運動など、政府の政策を批判し、それに抗議して反対運動を起こしている方々、日本政府とアメリカ政府に抗う方々への弾圧と威嚇です。辺野古での基地反対運動のリーダーである山城博治氏が検挙され、その取調べの模様を次のように証言されています。
 検察の取り調べでは、「共犯」「共謀」という言葉が頻繁に使われた。

 (山城) 共犯者は誰だ、カメラに映っているこの人物は誰だ、名前は? どこから来た人物だ?と。あぁ彼らは、私に、"共謀"したということでたくさんの逮捕者を出すつもりだなと思った。運動をしてきた人がみんな犯罪者にされてしまう。だから黙秘した。…警察や検察の主張では、常時私と行動を共にしていた者のみならず、たまたまゲート前の座り込み行動に参加して私の話を聞き、拍手を送った者まで、"共謀"したとされています。
 そして問題点です。これまで基本的に許されないと解されてきた、犯罪の実行に着手する前の逮捕・拘留、捜査・差押えなどの強制捜査が可能になるということです。しかも、対象となる犯罪が確実に実現するだろうという見込みをもってなされたことを必要とせず、「実現するかもしれないし、しないかもしれない」という程度の認識(「未必の故意」)があれば、共謀罪とされてしまいます。しかし、何も危険な物や手段が登場していない事前の計画の段階で、共謀罪を摘発するとしたら、どうすればよいのでしょうか。髙山氏は、二つの方向性を指摘されています。一つは、犯罪の計画を立てそうであると判断した人物を監視すること。もう一つは、十分な証拠がなくても摘発してしまうことです。(p.56) 前者は、本格的な監視社会の到来ですね。共謀罪の摘発の必要性を名目とする電子メールの盗聴や身分秘匿捜査官の投入といった、歯止めのない捜査権限の拡大につながるおそれもあります。後者は冤罪の横行ですね。

 というわけで、警察の権限と利益を拡充し、監視の目を社会のすみずみまで張り巡らし、日米政府に抗う人々を弾圧・威嚇し、政治家・財界・警察の共謀は見逃す。これが共謀罪法案の本質であることがよくわかりました。あらためて反対したいと思います。
 それにしても、580円の身銭を切ってブックレットを二時間ほど読めばこれくらいのことは分かるのに。なぜ真実を知らない人が、知ろうとしない人が、そして知ることに興味がない人が、多いのでしょう。イグノランスの深淵は計りがたい。(『暗黒日記』 清沢洌)

 付言その一。心に残った一文です。ほんとにそうですよね。
 テロの危険が高まったとすれば、それは、安保法制が強行されたことにより、日本が「アメリカと一緒に武力を行使する国」と見られて、イスラム過激派から敵視されるようになったからではないでしょうか。そうであれば、原因となった安保法制をやめればよいことになります。東アジア情勢の緊迫は、北朝鮮が米国の脅威に対抗するために生じるものなのですから、本来外交によって対処すべき事態です。(p.31)
 付言その二。この一文も心に残りました。
 真の国益とは、国に住む人々が安全で幸福に暮らせることにほかなりません。安全に貢献せず、権利や自由を制限するだけの立法はこれに反します。私たちは市民として何をすべきなのか、つねに自らに問いかけ、社会的責任を自覚することが必要だと思います。(p.71)
 私たちが、安全で幸福に暮らせることが"国益"、その暮らしを保障するのが"安全保障"。この視点を銘肝しましょう。私たちの暮らしを、自由を、権利を踏みにじりながら、"国益"や"安全保障"を怒号する候補者には一票を投じない。またそうした政党を支持しない。そこから始めましょう。

 付言その三。こういう一文もありました。
 マフィアや暴力団などの組織的犯罪集団は、組織として時間的に継続することを想定しており、その中で、さまざまな利益の獲得や、そのための公権力に対する不当な影響力の行使を目的としています。これに対し、テロリズムは、宗教的動機や政治的動機に基づいており、組織性や継続性を要件としません。単独の犯人が行う自爆テロも、典型的なテロリズムの一つです。両者は、目的も態様も異なるのです。(p.35)
 「さまざまな利益を獲得するために公権力に対する不当な影響力を行使する、時間的に継続する組織」が、組織的犯罪集団の定義です。…ん?…あれっ…これは自由民主党も該当しませんか。そうか、自民党は組織的犯罪集団だったんだ。組織的犯罪集団がつくった組織的犯罪集団を取り締まるためにつくった法律。まともなものになるわけがありません。
# by sabasaba13 | 2017-06-12 08:26 | | Comments(0)

辺野古埋立て・共謀罪法案反対集会

 昨日、国会前に行き、「止めよう! 辺野古埋立て 共謀罪法案は廃案に! 国会大包囲」に参加しました。安倍内閣のおぞましさについては、拙ブログの書評、『街場の憂国論』(内田樹 晶文社)と『安倍改憲政権の正体』(斎藤貴男 岩波ブックレット871)をご一読ください。
 アメリカへの隷従、大企業の利益の優先、民意と国会の軽視、国家権力の強化、メディアの統制、その基本姿勢は私たちの人権を石臼のようにゴリゴリと轢き潰す危険なしろもの、居ても立ってもいられなくなり駆けつけた次第です。民意を無視する辺野古埋立てと、国家権力を強化し抗う者たちを踏み潰し黙らせる共謀罪法案に抗議しなければ。
 持参した『自発的隷従論』(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ ちくま学芸文庫)を地下鉄の中で読んでいると、次のような一節がありました。
 それにしても、おお神よ、これはいったいどういうわけなのだろうか。これをはたしてなんと呼ぶべきか。なんたる不幸、なんたる悪徳、いやむしろ、なんたる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧政のもとに置かれているのを、目にするとは! しかも彼らは、善も両親も、妻も子どもも、自分の意のままにある生命すらもたず、略奪、凌辱、虐待にあえいでいる。それも軍隊の手になるものでもなく、蛮族の一群の手になるものでもない(そんなものが相手なら、血や生命を犠牲にするのもやむをえまい)、たったひとりの者の所業なのである。しかもそいつは、ヘラクレスでもサムソンでもなく、たったひとりの小男、それもたいていの場合、国じゅうでもっとも臆病で、もっとも女々しいやつだ。そいつは戦場の火薬どころか、槍試合の砂にさえ親しんだことがあるかどうかも怪しいし、男たちに力ずくで命令を下すことはおろか、まったく弱々しい小娘に卑屈に仕えることすらかなわないやつなのだ! このようなありさまを、臆病によるものと言えるだろうか。隷従する者たちが腰抜けで、憔悴しきっているからだと言えるだろうか。(p.13~4)
 16世紀フランスの若き法官が嘆いた状況が、いま21世紀の日本で現出しているとは。きっと彼も草葉の陰で驚いているでしょうね。私も驚いています。さあ、隷従を潔しとせず、"小男"に抗議の声をあげる人びとがどれくらい集まっているのか楽しみです。

 地下鉄国会議事堂駅でおりて地上にのぼる階段をのぼっていると…2015年の「10万人集会」ではこのあたりですでに、スピーカーから流れるスピーチが聞こえ、声なき声のうねりとどよめき熱気が感じられたのに、今日はいやに静かです。地上に出ると、やはり国会を包囲するという規模の参加者ではありません。後の主催者発表によると、参加者は約1万8千人。辺野古埋立てと共謀罪法案に怒らず、危機感を持っていない方が多いということなのでしょう。そして「他に適当な人がいない」という理由で安倍内閣を支持する人も。

 最後まで集会に参加し、帰途に乗った地下鉄内で前掲書をふたたび読んでいると、下記の一文に出会いました。
 あなたがたが衰弱すれば、敵はますます強く頑固になり、あなたがたをつなぎ止める手綱をもっと引きしめるようになる。
 かくも卑劣な行いを少しでも感じたならば、獣たちでさえ耐えられないだろう。あなたがたは、わざわざそれから逃れようと努めずとも、ただ逃れたいと望むだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。(p.23~4)
 隷従しないぞ。
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# by sabasaba13 | 2017-06-11 16:04 | 鶏肋 | Comments(0)

若草山山焼き編(24):大和郡山(15.1)

 この事件に関する史蹟は、これまでに津和野を訪れました。よろしければ訪問記をご一読ください。
 なお棄教を迫られた浦上キリシタンたちが、国家権力の強圧と暴力に対して抵抗し、毅然として信仰を守り抜こうとした史実は、大佛次郎氏が『天皇の世紀』(文春文庫)の中で詳細に述べておられます。一部ですが紹介しましょう。
 …政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない「ええじゃないか踊り」や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈服しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の「我」の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。
 文字のない浦上村本原郷の仙右衛門などは自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個と成った。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を賭けた者だったとも言えるのである。元勲たちは実は時代の波に乗せられて自己の意思なく漂流していたものである。(⑪p.105)

 浦上切支丹の「旅の話」は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められて卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しい抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。(⑪p.230)
 人間としての権威と権利を守るために、強権に対して妥協も譲歩も示さず、抵抗を貫く。私たちが学ぶべき点だと思います。

 それではそろそろ大和郡山とお別れです。実は、今調べていて分かったのですが、付近には、室町時代に出来た環濠が原型に近い形で残されており、その規模も全国最大級という稗田環濠集落や、番条環濠集落があるとのことです。探訪を断念した東岡町の遊郭物件と合わせて、再訪を期しましょう。レンタサイクルもあるようですし。
 近鉄郡山駅には、金魚をデザインしたトイレ男女表示がありました。
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 大和西大寺駅で近鉄京都線の急行に乗り換えて京都へ。近鉄京都駅では「日本最古の神社 三輪明神」という大きな看板を発見。そして京都駅の地下街にあった「いろはかるた」で、とんぺい焼きと牡蠣入りねぎ焼きをたいらげました。
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 「いのだコーヒ」で食後の珈琲を所望し、京都20:02発の新幹線に乗り込みました。
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 車内誌「ひととき」では高野山を紹介する記事がありましたが、たしか重森三玲がつくったお庭があることを思い出しました。こちらも再訪してみたいものです。とりあえずマスコット・キャラクターの「こうやくん」を撮影。
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 若草山焼き編、これにて一巻の終わりです。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-10 06:37 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(23):カトリック大和郡山教会(15.1)

 そしてカトリック大和郡山教会に着きました。こちらには「切支丹流配碑」があるのですが、門扉が閉ざされていたため近くまで行けず、ズームで撮影しました。観光ナビから引用します。
浦上キリシタン配流記念碑
 大政奉還後、明治政府は幕府のキリシタン迫害をゆるめるどころか、むしろ強化し、慶応4年=明治元年(1868)長崎浦上キリシタン約2,800人たちを名古屋以西の10万石以上の19藩に配流した。郡山藩にも明治2年の暮、14家族86人が送られてきた。彼らはまず北茶町の雲幻寺(現在の良幻寺)に収容され間もなく町内各所に移されたが、初めは藩主柳澤保申の意志により待遇は他藩に比べひじょうによかった。
 しかし、明治4年、太政官の巡察使が来てから郡山藩の待遇が良すぎると注意を受け、以来、待遇は一転した。
 明治5年、津藩から送られて来た23人のキリシタンとともに、郡山城三の丸に移されてからは少しし待遇は良くなったが、同年暮に幼少年は奈良に移され軽労働を、他の者は天ノ川銀山に送られ労役を強いられた。
 やがて明治政府は、カトリック教諸外国の非難により明治6年3月、キリシタンを放還することになり、郡山藩預かりの114人は帰国を許された。しかし配流の5年間に9人が病死している。
 大正15年殉教者6人の名を刻んだ墓碑が雲幻寺境内に建てられたが、昭和44年、大和郡山カトリック教会(城南町)へ移され、浦上キリシタン配流記念碑となり、毎年11月3日に遺族も参加してミサが行われている。
 合掌。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-09 06:30 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(22):大和郡山(15.1)

 それでは最後に、キリシタン殉難碑のある大和郡山カトリック教会へと向かいましょう。途中で見かけた古い町屋にはばったん床机が設置されていました。
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 古い電話ボックスは水槽となっており、なんと金魚が遊弋していました。さすがは大和郡山。
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 もう営業されていないのでしょうか、古い旅館「花内屋」は品格のあるいい風情ですね。起り屋根、前面を飾る繊細な格子、虫籠窓、木彫の看板、いずれも見惚れてしまいました。その先には「紀元二千六百年記念」と刻まれた石柱がありました。
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 近鉄の線路を越えて西へ歩いていくと、スポーツ用品店の店頭に巨大なグラブが飾ってあり、「グラブ神社」という解説板がありました。
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 後学のために転記しておきます。
グラブ神社
 神宿る巨大グラブの絵馬を大和郡山八幡神社様に奉納1.6m×1.2mの吉野檜製ショーケースに野球発祥アメリカのクラシックグラブと日本のグラブ十体、そして平城京で子ども達が行っていたという打毬のバットも納めました。ぜひご参拝下さい。
場所 柳四丁目二十五番
 余談ですが、「野球」は俳人・歌人の正岡子規が命名したものですね。野球が大好きだった彼は、幼名の升(のぼる)をもじって「のボール」と読ませる号を用いていたそうです。今読んでいる『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(小森陽一 集英社新書)から引用します。
 この1898(明治31)年の五月、子規は新聞『日本』に『ベースボールの歌』を発表する。長谷川櫂氏は、この九首を「子規が訣別した青春時代をかなしみ、たたえる歌」(『子規の宇宙』 角川選書、2010)と位置づけている。

 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
 国人ととつ国人とうちきそふベースボールを見ればゆゝしも
 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
 うちはづす球キャツチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ
 うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に
 なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに

 子規が実践しようとした短歌革新が、どのような表現世界を目指していたのかが、明確に伝わってくる九首である。「ベースボール」というカタカナ語と関係を結ぶことによって、使い古されたはずの歌語にまったく新しい命が吹き込まれ、「明治」という時代の精神の一つの在り方が、はじけるような力強さで伝わってくる。坪内稔典氏は、「チームによるゲーム」としての「ベースボール」に、子規が「共同の楽しみを見出していた」として、「そのチームに句会や歌会などと同じような共同性を見出していたにちがいない」(『正岡子規-創造の共同性』 リブロポート、1991)と指摘している。(p.114~5)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-08 06:29 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(21):洞泉寺町(15.1)

 そして「まちなかサロンカフェー 佳香」で珈琲をいただいて一休み。
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 それではかつての遊郭町、洞泉寺町へと行きましょう。この町の存在は、『赤線跡を歩く』(木村聡 ちくま文庫)に教示していただきました。「ニュース 奈良の声」から引用します。
 市史によると、洞泉寺町の遊郭の歴史は、近世郡山藩が成立した江戸初期にさかのぼる。元和3、4(1617、18)年ごろ、同じ城下町内の雑穀町から移された。同7(1621)年、士風に悪影響があるとして取り払われたが、その後、再び遊女町に戻り、幕末には6軒が店を並べた。
 1995年県発行の「ならの女性生活史 花ひらく」によると、明治の本県には、奈良町と郡山町に合わせて4カ所の公認された遊郭があり、洞泉寺町はその一つ。同書に収められた、洞泉寺町の遊郭経営者の家に生まれた人の証言によると、昭和32(1957)年の売春防止法施行に伴い、遊郭が閉鎖された当時は14、15軒が営業をしていた。閉鎖後は、貸し座敷や麻雀店にしたり、大学生に間貸しするなどの転業をしたという。
 県建築士会郡山支部によると、遊郭だったとみられる建物は現在5軒。建物は軒を連ねるか、近接するかしており、同町の歴史的町並みを形成する要素になっている。
 このうち、旧川本家住宅は市ホームページによると、大正13(1924)年の建築で木造3階建て。格式の高い豪壮な造りで、近代遊郭の屋敷構えを知ることができる貴重な近代和風建築という。市が保存を目的に買収し、平成26(2014)年、国の登録有形文化財に登録された。まちづくり、観光、人権教育などの拠点としても活用されているという。公開に向け、現在、耐震工事が行われている。
 それでは徘徊いたしましょう。ひと目でそれと分かる遊郭建築が数軒、軒を並べています。豪壮な三階建て、繊細な格子窓、洒落た玄関、意を尽くした意匠、これは見事です。
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 中にはハート型の窓が三つ並ぶという建物もあり、おもわず緩頬してしまいました。ただ前出の「ニュース 奈良の声」によると、いずれも空き家か人が住んでいない状態になっており、関係者諸氏は取り壊しを考えているそうです。費用がかかるのは理解できますが、なんとか保存ができないものでしょうか。貴重な建築であると同時に、時代の暗黒面も物語る証人だと思うのですが。
 実は、東岡町あたりも遊郭跡であるということで、さがしたのですが見つけることができませんでした。事前調査の不足、および新幹線の乗車時刻の関係で、捜索を断念。再訪を期したいと思います。

 本日の五枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-07 06:31 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(20):大和郡山(15.1)

 その近くには古い意匠の火の見櫓がありましたが、おそらく江戸時代のそれを復元したのでしょう。交通安全足型を撮影して本町へ。
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 このあたりは古い商家が櫛比する落ち着いた雰囲気の街並みです。厨子二階塗籠造り、格子窓、起り屋根、うだつなど、見ていて飽きません。
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 郡山城の外堀を利用し整備した公園、外堀緑地を通り抜けて紺屋町へ。
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 このあたりはかつて染物屋さんが集まっていた町で、道筋の中央には水路が通っています。この水はお城の堀から流れ出ており、染めた布や糸を晒していたそうです。こちらにある箱本館「紺屋」は、明和年間(1764~1771)に建てられた市内最古の町屋です。奥野氏が代々染物屋を営んでいましたが1998年に廃業したため、藍染の体験もできる資料館として再生しました。
 洞泉寺町の方へ歩いていくと、「美しく、強く、成長する国へ。」という訳の分からないスローガンを掲げる高市早苗氏(自民党)のポスターが貼ってありました。
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 そう、2016年2月8日、衆議院予算委員会において、放送局が「政治的に公平であること」と定めた放送法の違反を繰り返した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性について、「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない。将来にわたり可能性が全くないとは言えない」と述べた御仁ですね。自民党の尻の穴を舐めろ、さもないと痛い目にあわせるぞ、というメディアへの恫喝も問題ですが、「政治的に公平」の趣旨を「政権与党への批判を禁ずる」と捉えることにも疑問を感じます。このお方だけではなく自民党のみなさまには、ぜひ『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマー新書)を熟読して斎藤美奈子氏の言をかみしめていただきたいものです。
 政治参加の第一歩は、あなたの「政治的なポジション(立場)」について考えることです。政治的なポジションは、結局のところ、二つしかありません。
 「体制派」か「反体制派」か、です。
 「体制」とは、その時代時代の社会を支配する政治のこと。したがって「体制派」とはいまの政治を支持し「このままのやり方でいい」と思っている人たち、「反体制派」はいまの政治に不満があって「別のやり方に変えたい」と考えている人たちです。
 さて、あなたはどちらでしょう。
 どっちでもない? あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、特にこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。
 先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。
 世の人々はとかく「自分こそが中立で、まわりが偏っているのだ」といいたがります。あるいは「自分こそが正義で、まわりがまちがっているのだ」と考えたがります。とんだ誤解というべきでしょう。民主主義とは多種多様な意見を調整し、よりよい結論を導くためのしくみです。人の意見は多様なものである、という前提に立てば、どんな意見も少しずつ「偏っている」のが当たり前なのです。(p.19)
 そうそう、奈良二区有権者のみなさまも是非読んでください。そしてこのような御仁が衆議院議員としてふさわしいのかどうか熟考していただきたいものです。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-06 06:27 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(19):大和郡山(15.1)

 ホテルに自転車を返却して預けておいた荷物を受け取り、小腹がへったのでティーラウンジでサンドウィッチをいただきました、高かったけれど背に腹は代えられません。
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 それでは出発、さらば奈良ホテルよ。さらば荒池よ、五重塔よ。
 近くにあった老舗旅館の「菊水楼」を撮影してふたたび奈良公園へ。そうです、やはり鹿のみなさんに鹿せんべいをあげなければ。「このせんべい代は可愛いい(ママ)鹿の保護にあてます」という証紙でくるまれた鹿せんべいを150円で購入し、山ノ神にわたしました。できるだけ公平に食べさせようとする御仏のような彼女は、一匹に一枚と決めていたようですが、食べさせたのに煩くつきまとう鹿がいます。とうとう彼女の臀部に頭突きをくらわす始末、思わず写真に撮って見せたら、「なんで助けてくれなかったの」と仏頂面の山ノ神、「ヒグマだったら身を呈して助けていた」と、白々しい嘘をつく私。
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 そして県庁の屋上へとのぼりました。おおっ素晴らしいパノラマ、三笠山や大仏殿、興福寺五重塔を手に取るように一望できました。いつか山焼きをここから見てみたいものです。
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 近鉄奈良駅へ行き、忘れちゃいけない、駅近くの「たなか」に寄ってさきほどいただいたクーポン券で柿の葉寿司を貰い受けました。駅構内には「日本一高いビルの展望台でひとやすみ あべのハルカス300」と記された、マスコット・キャラクター「あべのべあ」のポスターがありました。いつか上ってみたいものです。そして近鉄奈良線に乗って大和西大寺駅へ、さらば朱雀門よ。
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 近鉄橿原線に乗り換えて近鉄郡山駅に到着です。所要時間は約20分、この間に柿の葉寿司を半分こして食べてしまいました。それでは大和郡山の街歩きをはじめましょう。いきなりマンホールの蓋に、名物の金魚を発見。
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 そう、ここ大和郡山は金魚の養殖で有名なのですね。観光協会の公式サイトによると、大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに始まると伝えられています。幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。また、これら歴史的背景に加え、自然条件としては水質、水利に恵まれた農業用溜池が数多くあり、溜池に発生する浮遊生物(ミジンコ類)が金魚の稚魚の餌に適していたことなど、有利な条件が備わっていました。近年は都市化に伴う水質汚濁等の環境悪化などで生産量は減少したものの、 養殖農家約50戸、養殖面積約60ヘクタールで、年間金魚約6,000万匹が販売されています。おしまい。

 正体不明の飛び出し小僧と、酒蔵らしき大きな建物を撮影し、しばらく歩くと豊臣秀長の菩提寺である春岳院がありました。
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 そしてお目当ての一つ、杉山小児科医院に到着。様々な装飾がほどこされたハーフティンバー様式で、ドイツ民家のような洒落た物件です。これなら子供たちも泣き叫ばないだろうなあ…たぶん。

 本日の四枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-05 08:04 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(18):高畑町(15.1)

 そして白毫(びゃくごう)寺へと向かいますが、途中で珍しい透かしブロックを見かけました。やはり上りの坂道が続きます、電動アシスト付自転車でよかった。すいすいと電気の力を借りて、十分ほどで白毫寺に着きました。
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 天智天皇の皇子、志貴皇子の山荘跡に建てられたと言い伝えられる古刹で、鎌倉時代に叡尊によって再興されました。百段余りの石段を登ると境内から奈良市街を一望することができました、絶景絶景。奈良の街並み、寺門、石段、土塀を写真におさめるとまるで一幅の絵のようです。なお咲いてはいませんでしたが、奈良三名椿の一つとして知られる五色椿や参道の石段を覆う萩も有名です。
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 それでは高畑(たかばたけ)界隈を彷徨しましょう。このあたりは、春日大社の神職が住む町として古くからひらけ、柳生街道の終始点であったことから賑わってきました。また、大正から昭和にかけては多くの文人墨客に愛され、文化の町としても知られるようになりました。白壁・築地塀・奈良の伝統的な町屋・文人墨客が建てた洋館風の民家・石の道標や路傍の石仏などが楽しめる、私の大好きな町です。お寺さんを背景に屹立する火の見櫓と、志賀直哉旧居を撮影。
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 その近くには登録有形文化財に指定されている中村家住宅(旧足立家住宅)主屋・塀がありました。
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 解説文を転記します。
 この住宅は、洋画家足立源一郎(1889-1973)が自邸として大正8(1919)年に建て、昭和3(1928)年に洋画家中村義夫(1889-1957)が譲り受けたものです。
 主屋は、赤瓦を葺き、外壁をモルタルで仕上げた洋風住宅です。フランスから帰国した足立自ら南プロバンス風に設計したと伝わっています。内部には、ステンドグラスで飾った玄関、吹抜けのアトリエ、サンルーム等があります。土塀にも赤瓦を使用し、瀟洒な門柱を構えています。
 なお、この一帯には、明治初期まで春日大社の神官たちが、土塀で囲った屋敷に暮らしていました。当家の土塀も、そうした歴史を受け継ぐものです。
 町の風情を楽しみながら自転車をゆっくりと走らせ、奈良公園へ。三笠山の麓を駆け抜けて山焼きの跡を視認し、東大寺大仏殿や鹿たちを撮影しながらホテルへと向かいました。途中で「天極堂」に立ち寄って、山ノ神はお土産の葛菓子を購入。
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 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-04 08:08 | 近畿 | Comments(0)

若草山山焼き編(17):新薬師寺(15.1)

 そして十数分ほどペダルをこいで新薬師寺へ向かいました。747(天平19)年、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が創建した古刹です。お目当ては、凛とした小振りな本堂(国宝)の中に鎮座する塑像群、本尊の薬師如来を守護する十二神将です。残念ながら写真撮影はできないのですが、その厳しい表情と躍動的な姿態を拝んでいると身心がひきしまる思いです。
 なおこちらにも会津八一の歌碑がありました。
ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ
 『自註鹿鳴集』(岩波文庫)には、こう記されています。
 あふぎみれども 高さ二尺四寸の立像にで、決して高しとはいふべからざるも、薬師堂の正面の壇上に、やや高く台座を据ゑたれば、「仰ぎ見る」とは詠めるなり。この歌の作者自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり。嶋中雄作君の建つるところ。(p.27~8)
 お寺さんでもらったパンフレットによると、これは香薬師、子供の姿をした薬師如来の小像で、昭和時代に寺外へ持ち出されて今も行方不明だそうです。嶋中雄作は中央公論社の社長ですね。
 なお新薬師寺のとなりには「扉があいているときはどうぞご自由にお入り下さい」「熟柿庵」という札がかかった、寺でもなし神社でもなし菜園でもなし、草木やアカンサスが雑然と生い茂る摩訶不思議な空間がありました。今もってよくわからないのですが、木片に金釘流で無造作に書かれていた「緑蔭のブランコに歳なくしけり」という句が妙に心に残っています。
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 そして近くにある、唐招提寺のような大屋根と甍が印象的な「入江泰吉記念 奈良市写真美術館」に参りました。公式サイトから、奈良大和路の写真家として著名な入江泰吉(1905~1992)についての紹介文を引用します。
 1905(明治38)年、奈良市に生まれる。画家を志すが家族の反対で断念するも、長兄からアメリカ・イーストマン社のベストコダック・カメラを譲り受け、写真に打ち込む。1931(昭和6)年、大阪で写真店「光芸社」を開業。文楽人形を撮影した「春の文楽」で世界移動写真展一等賞を受賞、文楽の写真家として活躍する。1945(昭和20)年3月、大阪大空襲に遭い自宅兼店舗が全焼、ふるさと奈良へ引き揚げる。同年11月17日、疎開先から戻される東大寺法華堂四天王像を目撃、そのときアメリカに接収されるとの噂を聞き、写真に記録することを決意。以後、奈良大和路の風景、仏像、行事等の撮影に専念。晩年は「万葉の花」を手掛けるなど約半世紀にわたって撮り続けた。1992(平成4)年1月16日死去。享年86歳。
 しばし彼が撮影した、奈良大和路の仏像や風景をテーマとした珠玉の写真を鑑賞。至福のひと時を過ごせました。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-06-03 06:30 | 近畿 | Comments(0)