関東大震災と虐殺 44

 徳富蘇峰が『国民新聞』(1923.9.29)に掲載した「流言飛語」です。
 流言飛語は、専制政治の遺物。支那、朝鮮に従来有り触れたる事也。蝙蝠は暗黒界に縦横す。吾人は青天白日に、蝙蝠の飛翔するを見ず。
 公明正大なる政治の下には所謂る処士横議はあり、所謂る街頭の輿論はあり。然も決して流言飛語を逞ふせんとするも、四囲の情態が、之を相手とする者なければ也。
 今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた。天災は如何ともす可らず。然も流言飛語は、決して天災と云ふ可らず。吾人は如上の二災に、更らに後の一災を加へ来りたるを、我が帝国の為めに遺憾とす。
 吾人は震災火災の最中に出て来りたる山本内閣に向て、直接に流言飛語の責任を問はんとする者でない。併し斯る流言飛語―即ち朝鮮人大陰謀―の社会の人心をかく乱したる結果の激甚なるを見れば残念ながら我が政治の公明正大と云ふ点に於て、未だ不完全であるを立証したるものとして、また赤面せざらんとするも能はず。
 既往は咎めても詮なし。せめて今後は我が政治の一切を硝子板の中に措く如く、明々白々たらしめよ。陰謀や、秘策にて、仕事をするは、旧式の政治たるを知らずや。
 蘇峰の弟・徳冨蘆花は、烏山での虐殺を聞き、随筆のなかでこう語っています。
 鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(『みみずのたはこと(下)』  岩波文庫 p.143)
 フランス駐日大使にして詩人でもあったポール・クローデルは、こう述べています。ちなみに彼は、彫刻家カミーユ・クローデルの弟ですね。
 災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。宇都宮では16人が殺されました。日本政府はこの暴力をやめさせました。しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。(『孤独な帝国 日本の1920年代』 草思社)
 神楽坂における虐殺を目撃して衝撃を受けた中島健蔵(文芸評論家)は、『昭和時代』(岩波新書275)の中でこう述べています。
 現に知れわたっている関東大震災の悲劇は、大正、昭和にかけての日本残虐史の絵巻の中でも、ひときわ目立つ。わたくしは、ここに、もっとも大きな悲劇の出発点があったと認めるのである。法秩序を無視する残虐が公然とおこなわれ、甘粕一人をのぞいて、たれ一人直接の責任を問われなかったというような事態は、まさに、現代では大震災のときにはじまったと考えているからだ。
 わたくしは、警察署の板塀に張り出された布告を自分の目で見た。あんな布告が国家権力の末端の名において張り出されさえしなかったら、そしてむしろ逆に彼らがはじめから流言をおさえる方にまわっていたら、明らかに事態はちがったものになっていたはずである。(p.21)

 ここに、あのときの雰囲気の基盤があった。そして、その基盤は、さらに、国民大衆の中にあった雰囲気によって支えられていた。国家権力に対する盲従、新しいものに対する嫌悪、そして、「邪魔者は殺せ」という感情。これはもちろん、日本特有のものではない。しかし、もしも、もう少し大きな声で、もう少し大勢の人数で、この雰囲気をつぶすことができたら、日本の現代史は別のものになっていたはずである。(p.24)

# by sabasaba13 | 2017-12-04 06:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(52):彦根(15.3)

 天守の外へ出ると、着ぐるみの「ひこにゃん」が現われ、遠足できていた子どもたちに囲まれていました。それでは彦根駅へと戻りましょう。自転車にまたがり少し走ると、彦根城を頂いたご当地ポストを発見。
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 その先には大老・井伊直弼の歌碑がありました。
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 後学のために解説を転記します。
井伊大老(直弼)歌碑

あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

 安政7年(1860年)正月、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺に納めたと伝えられる。
 この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この二ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。
 井伊直弼に関しては、毀誉褒貶、いろいろな評価があります。しかしここは、マルク・ブロックの"ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ"という言を借りて、彼が何者であったのかを確認したいと思います。幕末維新研究の泰斗、田中彰は『日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社)の中で、以下のように述べています。
 1857年(安政4)6月の老中阿部正弘の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰(江戸城内黒書院の溜間で、登城してここに詰める大名を溜間詰、略して溜詰ともいう)の家門・譜代大名がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。これと対立したのが1853年(嘉永6)のペリー来航以来、攘夷主義の立場をとっていた徳川斉昭以下松平慶永、島津斉彬らに代表される大廊下詰家門大名、大広間詰外様大名の一派であった。
 当時、廃人同様といわれた第十三代将軍家定の継嗣問題をめぐってもこの二派は対立し、外交問題と内政問題とが結びつくことによって、この二派の対立はいっそう先鋭化した。
 つまり幕閣の独裁をおさえ、諸雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は、一橋慶喜(斉昭の第七子)を将軍のあとつぎにしようとし(一橋派)、井伊ら幕閣独裁をとろうとした家門・譜代大名の一派は、紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作をすすめ、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏したのである。井伊が大老に就任し、独断専行、慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫る初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに対しては、勅許をえないままに日米通商条約を調印した(1858年、安政5年6月)。
 継嗣問題で敗れた一橋派は、井伊の違勅調印を理由に、いっせいに井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」には「尊王」を、「開国」には「攘夷」を対置した。「攘夷」は反幕閣・反井伊のスローガンになったのである。
 斉昭・慶喜親子や徳川慶恕、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学らの志士たちは京都に参集して反幕的気運を盛り上げた。孝明天皇も激怒して譲位の意向を示し、1858年(安政5)8月には、条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密勅)を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿と下級攘夷派公卿とが対立し、後者は「列参」(集団行動)という示威行動をとるにいたった。
 この事態に幕府の危機をみた井伊は徹底的な弾圧策をとったのである。井伊の論理は、政治は朝廷から幕府に委任されているのであり、外圧の危機に「臨機の権道」をとるのは当然だとし、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うというものだった。それだけに反対陣営に対しては、大老職に政治生命を賭けて対応したのである。だから、その政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現たる強圧的な弾圧策として断行された。
 しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的な伝統の維持として貫かれようとする限り、客観的にはかえって矛盾を深化・拡大させる結果となった。(p.114~7)
 外圧という非常時的な危機と「攘夷」の不可能性へのリアルな認識、それを回避して国家を守るためにはあらゆる手段を取るという情熱、その結果に対する真摯な責任感。井伊直弼が一流の政治家であったことは間違いないと思います。ただ彼が守ろうとしたものは、譜代大名による権力独占の現状維持(ステータス・クオ)でした。よってその権力独占を打破しようとする反対勢力との間に、権力の配分をめぐるきわめて政治的な闘争が発生しました。ただこの両勢力には、権力を奪取したうえで何を目指すのかという視点が決定的に欠落していたと思います。たとえば民衆の安寧をも含んだ日本の独立維持という、より高次の目標がなかったのではないか。幕府の権力と暴力装置を過信した井伊は、反対勢力に凄惨な弾圧を加え、最後はその報復として凶刃に倒れます。
 己の力への過信、反対勢力の力量への過小評価、そして権力を使って何を実現するのかという目標の不在、これらが井伊の失敗の原因ではないでしょうか。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(岩波文庫)の中でこう述べています。
 情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力-これは政治家の決定的な心理的資質である-が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。(p.78)
 "状況に対する距離感の喪失"、他山の石としましょう。
# by sabasaba13 | 2017-12-03 08:42 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 43

 この虐殺について、同時代人はどう見てどう考えたのでしょう。管見の限りですが、いくつか紹介したいと思います。

 まず内村鑑三です。9月22日の日記に、「民に平安を与ふる為の軍隊であると思へば、敬せざるべからず、愛せざるべからず」とあります。戒厳令と軍隊出動に感謝するとともに、自身も自警団に入って夜警を勤めています。(④p.113)

 田山花袋は、朝鮮人が追われて、花袋家の縁の下に逃げ込んだのを「引きずり出してなぐってやった」と語ったのを『中央公論』の編集者・木佐木勝氏が日記に記録しています。(④p.117)

 微妙なのが宮沢賢治です。当時賢治は、日蓮宗の立場から様々な改革を唱える田中智学に傾倒し、智学が主宰する国柱会の会員でした。ちなみに石原莞爾も会員でしたね。田中智学は、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を発行していますが、賢治はそれを町の辻々に張りまわっています。彼自身が朝鮮人への排撃を主張した文章は発見されていませんが、不可解なことがあります。筑摩書房の全集(1995年)書簡の部で、1922(大正11)年から丸三年間の分が、そっくり抜けているそうです。この書簡の中に、謎を解く鍵があるのかもしれません。(④p.120~2)

 作家の志賀直哉は、「震災見舞」の中でこう書いています。
 軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
 高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
 ………………………
 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
 「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
 ………………………
 鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(※宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
 反骨のジャーナリスト・宮武外骨が書いた「日鮮不融和の結果」です。(『震災画報』より ちくま学芸文庫)
 今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
 要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
 根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
 北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。

# by sabasaba13 | 2017-12-02 06:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

言葉の花綵169

 暴君の臣民は、ひたすら暴政が他人の頭上に振るわれることを願い、自らはそれを見物してよろこび、"残酷"を娯楽とし、"他人の苦しみ"を賞玩物とし、慰安する。(魯迅 『随感録』)

 いったい、軍隊は不吉なもので、誰でも嫌うからこそ、道を体得した人は籍をおかないのだ。軍事を称えることは、人を殺すことを楽しむものである。人を殺すことを楽しむようでは志を天下に得ることはできない。(老子)

 戦争が 廊下の奥に 立つてゐた (渡辺白泉)

 人をば殺すとも人には殺サれなんどと思ふ時こそ、身もくるしく、用心もせらるれ。人は我レを殺すとも我レは報を加へじと思ヒ定めつれば、先づ用心もせられず、盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ナラずと云ふ事無シ。(道元 『正法眼蔵随聞記』)

 敗戦は、私が十八歳の昭和二十年八月十五日。思いもかけぬことで呆然としたが、最も驚いたのは、それまで戦争遂行と戦意高揚を唱えつづけていた新聞、ラジオ放送の論調が一変したことであった。日本の推し進めてきた戦争は罪悪そのものであり、日本国民を戦争に狩り立てた軍部の罪は断じて許し難い、と。(吉村昭 『東京の戦争』)

 あらゆる君主制の歴史は、人間の悲惨を描き出した胸が悪くような一枚の絵と、数年にわたる休息という、偶然による戦争の一時的中止とでなくて何であろうか。その種の政府は戦争に疲れ、人間の殺戮に飽きたところから、腰を下ろして一休みし、それを平和と呼んだ。(トマス・ペイン 『人間の権利』)

 美辞麗句でその道義的性格をほこっていた「大東亜戦争」が、実質的にはいかに残虐な非人間的行為にみたされた「きたない戦争」であったか。(家永三郎)

 反対です。女性として、戦争に行くことはできません。ほかのだれであろうと、送り出すことも拒否します。(ジャンット・ランキン)

 今の世の中じゃ、1%の金持ちをマジョリティーと呼ぶんだ。(「反格差デモ」参加者)

 みんなふたことめには醜い戦争、醜い戦争っていいたがるが、醜くない戦争があったらお目にかかりたいな。(開高健 『岸辺の祭り』)

 欺された欺されたと国民はいう。もしそれが単なる口頭禅ではなく、骨身にしみて感じているならば、たとえいかに困難があろうとも、二度と再び偽英雄や偽指導者に欺されないために、われわれ自身の力で民主主義を正しくするのが真の英雄的な責務であろう。(中野好夫 『われわれの民主主義』)

どんなに忌まわしい過去であっても、歴史の真実を直視し、そこから教訓を学んで、二度と過ちをくりかえさないようにしなければならないのである。(藤原彰)
# by sabasaba13 | 2017-12-01 06:28 | 言葉の花綵 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 42

 そして周知のヘイトスピーチ。「ヘイトスピーチ 言葉の凶器」(朝日新聞 2014.12.14)という記事を紹介します。
 各地で繰り返されるヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)で、中傷の対象にされている在日コリアンはどう感じているのだろう。東京のNPO法人が関西在住の16人から聞き取り調査したところ、在日の人々が心の傷を受けている実態が浮かび上がった。「日本社会が変わってしまった」と戸惑う人も少なくない。
 調査したのは弁護士や研究者ら700人超でつくるNPO「ヒューマンライツ・ナウ」。メンバー7人が4~7月、個別に面談して体験を聞き、11月にまとめた。
 10代の女性は、ネットでヘイトスピーチの動画を見ても「別世界のこと」と感じていた。街頭で初めて目にした時、衝撃を受けた。話し合おうと参加者に声をかけると、「あなたはこの国に必要ない。帰ってください」と言われた。
 50代の男性は、大阪・鶴橋で昨年2月にあった街頭宣伝を動画サイトで見た。中学生くらいの少女が拡声機で「鶴橋大虐殺を実行しますよ」「いい加減帰れー」と叫んでいた。「吐き気がした」。この街宣を現場で見た別の50代男性は「存在が否定されたと思い、心臓がドキドキした」「(朝鮮人虐殺が起きた)関東大震災が頭をよぎった」と振り返った。社会の空気の変化を感じ取る人もいた。30代女性は、飲食店で隣のテーブルから「ヘイト的言動」が聞こえてきて、ビクッとすることがある、と語った。「目撃しているのに(市議会)議員は何も言わず、笑っていた」(別の30代女性)など、社会が黙認していると不信感を抱く人もいた。
 子どもへの影響を心配する声も目立った。50代女性は、帰宅した中学生の息子が「早く大人になって帰化する」と話した体験を明かした。コンビニ店に買い物に出かけた際、デモを目にして衝撃を受けた様子だったという。調査に協力したNPO「コリアNGOセンター」(大阪市生野区)にも「小学生の子どもから『朝鮮人ってあかんことなん』と聞かれた」という母親からの相談などが寄せられている。在日3世の金光敏事務局長(43)は「世情が変わったと感じている人は多い。特に子どもを持つ親は『社会は助けてくれず、自分たちで守るしかない』と悲壮な覚悟を迫られている」と話す。
 街宣によるヘイトスピーチは関西にとどまらない。横浜市在住の在日3世の徐史晃さん(34)は5年前、東京・銀座で永住外国人の地方参政権を求めるデモ行進をしていた時、200人ほどの集団からヘイトスピーチを浴びせられた。顔のすぐそばで「朝鮮人は帰れ」「死ね、殺せ」と繰り返された。「ここまで言われるものか。もうやめてくれ」と思ったが、目をそむけて反論できなかった。「日本社会でどうやって生きていけばいいか、深い絶望感にとらわれた」
 また朝日新聞デジタル(2016.9.9)に、下記のような記事がありました。
 横浜市教育委員会が、独自に発行する中学生向けの副読本から、関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺についての記述をなくす方向で検討していることがわかった。研究者らは「史実をないがしろにしている」などとして9日、市教委に内容の変更を申し入れた。
 市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」が、今年度中に発行予定の副読本の原稿案を情報公開請求したところ、関東大震災の説明のうち、朝鮮人虐殺に関する記述がなかったという。
 横浜市の副読本をめぐっては、2012年度版の「わかるヨコハマ」で、関東大震災時に自警団以外に軍隊や警察も「朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い」と盛り込まれたことについて、一部の市議が反発。市教委は「表現などに誤解を招く部分があった」として12年度版を回収した。13年度版からは「虐殺」の表現が「殺害」に変更され、軍隊や警察の関与についての記述も削除された。
 朝鮮人虐殺を研究する山田昭次・立教大名誉教授ら約70人の研究者は9日、連名で要望書を市教委に提出した。山田名誉教授は「虐殺は学問的にも証明されている。子どもたちに歴史からの教訓をきちんと伝えるべきだ」と話した。
 市教委は朝日新聞の取材に対し、「副読本の内容については編集中であり、答えられない」としている。
 現在にいたるまで、歴史的事実を隠蔽しようという動きがあるのですね。とくに、"自警団以外に軍隊や警察も「朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い」と盛り込まれたことについて、一部の市議が反発"という点が興味深いところです。国家権力の犯罪や卑劣さを隠蔽し、その権威を擁護しようということでしょうか。その市議たちにしてみれば、自分たちの権威の支えとなる「国家」のオーラに瑕疵がついてはまずいという意識があるのだと思います。

 これが日本だ、わたしの国だ… 絶望から始めるしかありませんね。

 追記。しかし幸いなことに、同年10月7日に、虐殺の史実を記載する方針が決定されました。『神奈川新聞』(2016.10.7)から引用します。
 横浜市教育委員会が作成中の中学生向け副読本の原案で関東大震災時の朝鮮人虐殺の記載がなかった問題で、同市教委は7日、虐殺の史実を記載する方針を明らかにした。同日の市教委定例会で報告した。
 新副読本作成を担当している指導企画課の三宅一彦課長は「横浜で起きた痛ましい出来事を学ぶことで歴史の理解を深め、防災教育の面からも多面的・多角的に考えることのできる記載になるよう検討している」とし、記載を前提に編集作業を行っていると説明した。
 教育委員からは「人間は過去を正当化したがるものだが、(虐殺という)悲惨な事件を起こす可能性があるということを教訓として刻まなければいけない」と積極的に理解を示す意見も出された。
 新副読本を巡っては市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」(北宏一朗代表)が原案を情報公開制度で入手したところ、従来の副読本にあった朝鮮人虐殺の記述がないことが判明。歴史研究者や市民団体から虐殺の史実と背景を記載するよう求める要望書が市教委に寄せられていた。

# by sabasaba13 | 2017-11-30 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

トスカ

c0051620_6261055.jpg 人並はずれた知識や情熱や気合はありませんが、オペラは大好きです。音楽、文学、演劇、美術をまじえた総合芸術に身も心もどっぷりと浸れるひと時をこよなく愛します。これまでもリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』、プッチーニの『蝶々夫人』、モーツァルトの『魔笛』と『フィガロの結婚』、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、ヴェルディの『椿姫』などを聴いてきましたが、これからも機会を見つけて足繁くホールに通うつもりです。

 今回は、私の大好きな広上淳一氏が、プッチーニの『トスカ』を振るということで、山ノ神を誘って池袋の東京芸術劇場に行ってきました。座席は正面二階、舞台全体を見渡せ、指揮者とオーケストラの演奏も一望できる良い場所です。
 さてオペラのあらすじですが、ところはローマ市、時は1800年6月、ナポレオン率いるフランス軍が欧州を席巻していた頃です。ナポレオンを支持する共和派の画家カヴァラドッシは、脱獄した友人の政治囚アンジェロッティの逃亡を助けたために、反共和派の警視総監スカルピアに死刑を宣告されます。彼の恋人で有名歌手トスカは、彼を救おうと警視総監スカルピアを殺しますが、スカルピアの計略でカヴァラドッシは処刑され、そしてトスカも彼の後を追って自殺するという悲劇です。なんと主役級の人物がすべて死んでしまうのですね。
 注目は、カンヌ国際映画祭審査員特別大賞グランプリを受賞した映画監督の河瀨直美氏が、自身初となるオペラ演出に取り組んだことです。舞台を古代日本のような世界におきかえ、"ローマ"を"牢魔"に、"トスカ"を"トス香"に、"カヴァラドッシ"を"カバラ導師"、"スカルピア"を"須賀ルピオ"に読み替えています。正直言ってあまり意味はなかったと思いますが、大スクリーンに映した映像を多用した演出は見ごたえがありました。水の泡、炸裂する花火、子どもなど、劇的な効果をよくあげていたと思います。
 肝心のオペラですが、緊迫感にあふれるストーリー展開に加えて、「妙なる調和」や「歌に生き、愛に生き」や「星は光りぬ」といった素晴らしいアリアがちりばめられた、見事な作品です。トス香を演じたルイザ・アルブレヒトヴァ(ソプラノ)とカバラ導師を演じたアレクサンドル・バディア(テノール)は、みごとな歌唱力と表現力でした。しかし特筆すべきは、須賀ルピオを演じた三戸大久(バリトン)をはじめ、他の歌手はすべて日本人でしかも主役の二人に劣らない好演でした。いやあ、日本の歌手も上手くなりましたねえ、安心して聴くことができました。
 指揮者の広上淳一氏も、東京フィルハーモニー交響楽団も大熱演。感極まって、ぴょんぴょんと飛び上がる広上氏の姿を何度も見ることができました。

 というわけで、喜ばしき一夜でした。たまにはこういう素敵な夜を味わえないと、生きている甲斐がありませんね。そしてモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、ビゼーの『カルメン』、ヴェルディの『アイーダ』などなど、まだ見ぬオペラに思いを馳せました。いまだ聴いていないオペラが山のようにある、なんて私は幸せ者なのでしょう。
# by sabasaba13 | 2017-11-29 06:26 | 音楽 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 41

 そして敗戦後から現在に至るまで、朝鮮人への差別意識は大きな変化がないようです。『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』(田中宏 岩波新書1429)から引用します。
 まずは1949年8月末から9月初旬に書かれたと推定される、吉田茂首相によるマッカーサー宛ての手紙です。
 朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数100万人に近く、その約半数は不法入国であります。私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。その理由は、次の通りであります。
 (1)現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
 (2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。
 (3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七〇〇〇名以上が獄中にいるという状態であります。
 戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次の通りです〔詳細省略。1948年5月末までで、91,235名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている〕
 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
 (1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
 (2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。許可は、日本の経済復興に貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。
 上述のような見解を、原則的に閣下が御承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
敬具
吉田茂
連合国最高司令官
 ダグラス・マッカーサー元帥
 (原文は英文で、アメリカのマッカーサー文書館蔵…)
 1960年10月、日本に国民年金制度が実施された時、在日韓国人の金鉉鈞(キムヒョンジョ)さんは、荒川区役所の国民年金勧奨員から加入を勧められました。「韓国人だから」と断ったのですが、説得されて加入しました。支給される歳となった1976年に、妻の李奉花(イボンファ)さんが請求手続きをとろうとすると、「韓国籍だから資格なし」と断られてしまいます。そして今まで納めた保険料を返されておしまいです。李奉花さんが抗議すると、年金課係長は「他人の国に来ていて、ゴチャゴチャ言わないほうがよい」、「なぜ戦争が終わったとき、すぐ韓国へ帰らなかったのか」と言い放ったそうです。(p.163)

 そして朝鮮高校には、授業料無償化を実施しないと日本政府は決定しました。金明俊(キムミョンジュン)監督は、2011年6月、東京での朝鮮学校支援市民集会に、韓国からかけつけ、挨拶をされましたが、その一節です。
 朝鮮高校無償化を実施しない理由が、朝鮮半島で起きた天安号沈没事件や延坪島砲撃などの政治的事件だとすれば、率直にいってあきれて笑うしかありません。また、地震〔東日本大震災〕の前後に、東京、大阪、千葉、宮城などの自治体が朝鮮学校への教育補助金を凍結した問題に至っては、なぜ、こんなに卑怯になれるのだろうか、と絶望感さえ感じました。そんな失笑と絶望を感じる理由は、これらすべてがほかでもない『子どもたち』を相手におこなわれているからです。(p.214)
 著者の田中宏氏はある日、「子どもの人権を守ろう…日朝首脳会議で、拉致事件問題が伝えられたことなどを契機として、朝鮮学校や在日朝鮮人などに対するいやがらせ、脅迫、暴行などの事案の発生が報じられていますが、これは人権擁護上見過せない行為です」という、法務省人権擁護局の下部機関、東京法務局などが作成したチラシを見かけました。氏は、東京法務局を訪れ、高校無償化除外や補助金カットは、「人権擁護上見過せない行為」では、と問うてみると、差別を受けた当事者ではないとして、人権侵害事件としての申し立てはできないとされました。(p.215~6)
 結局、安倍晋三内閣の誕生によって、2013年2月、朝鮮高校は最終的に高校無償化から除外されて現在に及んでいます。(p.263~4)
# by sabasaba13 | 2017-11-28 06:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

キャスリーン・バトル

c0051620_14254740.jpg 先日、山ノ神と一緒にサントリーホールでリリック・コロラトゥーラ・ソプラノ歌手、キャスリーン・バトルのコンサートを聴いてきました。大学生のころでしたか、ウィスキーのCMで彼女が唄った「オンブラ・マイ・フ」に感銘を受けて以来のファンです。声楽を習っている山ノ神も、彼女の歌を生で聴くのをたいへん楽しみにしていました。
 当日は仕事があるので、山ノ神とはホール近くの店で落ち合ってまず夕食をとることにしました。ホールや映画館に行く楽しみの一つは、その付近の店で美味しいものにありつけることです。渋谷アップリンクと「バイロン」のパン、ポレポレ東中野と「十番」のタンメン、オペラシティと「つな八」のてんぷら、浜離宮朝日ホールと「磯野屋」の寿司、新国立劇場と「はげ天」のてんぷら、東京文化会館と「池之端藪」の蕎麦、東京芸術劇場と「鼎泰豊」の小籠包、津田ホールと「ユーハイム」の洋食、岩波ホールと「揚子江菜館」の上海式肉焼そば・「スヰート・ポーズ」の餃子、新宿と「中村屋」などなど。
 さてサントリーホールの近くで食べるとしたら、どんな店があるのか。インターネットで調べてみると、アーク森ビルの中に「宇和島鯛めし 丸水」というお店を見つけました。鯛めしか、以前に宇和島で食べたことがありますが、鯛の刺身と生卵をだし汁に入れ、ぐちゃぐちゃかき回してご飯にかけるという豪快な料理です。なかなか美味しかった記憶があるので、この店に決定。午後六時に店の中で待ち合わせることにしました。
 ところが好事魔多し、改装中のため閉店中です。無念。仕方がないので同ビル内にある「水内庵(みのちあん)」という蕎麦屋で、私はカツカレー、山ノ神はおかめうどんをいただきました。それにしても蕎麦屋のカツカレーってどうして美味しいのでしょうか。すったもんだがありましたが、午後七時少し前に、席に着くことができました。わくわく。

 そしてキャスリーン・バトルと伴奏のジョエル・マーティンが舞台に登場。1948年生まれですから、齢69歳。しかしとてもそうは見えない若々しさ、さらには圧倒的な存在感と大輪の華のようなオーラには目を瞠りました。
 プログラムは、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」、シューベルトの「あらゆる姿をとる恋人」「夜と夢」「ます」「糸を紡ぐグレートヒェン」、メンデルスゾーンの「新しい恋」「歌の翼に」、ラフマニノフの「夜の静けさに」「春の奔流」、リストの「ローレライ」、オブラドルスの「いちばん細い髪の毛で」、トゥリーナの「あなたの青い目」、G.&I.ガーシュウィンの「サマータイム」「バイ・シュトラウス」、R.ロジャース&O.ハマースタインIIの「私のお気に入り」、そして黒人霊歌から「ハッシュ」「私の小さなともし火」「天国という都」「馬車よやさしく」です。
 それにしても、何と美しい声であることよ。艶やかで、なめらかで、張りがあって…いや言葉では表現できません。お年のせいか、最弱音を保つのに少々苦労されているようですが、致し方ないですね。選曲も、歌曲あり、スタンダード・ナンバーあり、黒人霊歌ありとバラエティに富み、楽しむことができました。
 伴奏のジョエル・マーティンもいいですね。ラフマニノフの超絶技巧の伴奏を難なく弾きこなし、ジャズ風の即興演奏も披露してくれました。圧巻はアンコール、なんと黒人霊歌を中心に九曲も歌ってくれました。もちろんサービス精神もあるのでしょうが、それ以上に歌うことが好きで好きでしょうがないという気持をひしひしと感じます。山田耕筰作曲、北原白秋作詞の「この道」も歌ってくれましたが、しみじみとした良い曲ですね。客席から唱和する歌声も聴こえてきました。

 人間の声の素晴らしさ、凄さをあらためて思い知ることができた、至福の一夜でした。
# by sabasaba13 | 2017-11-27 14:26 | 音楽 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 40

 こうして国家権力が主導し、それに民衆が便乗し、「関東大虐殺」の実態を矮小化し、その責任を免れたのでした。その後も、そして現在に至るまで、日本政府はその責任を隠蔽し続け、朝鮮人・中国人虐殺事件についての日本政府による公的な調査、謝罪と補償はまだなされていません。
 1925年に、警視庁編・刊『大正震災誌』と神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』が発行されましたが、流言流布の責任を民衆のみに押し付けあります。敗戦後(!)の1949年に発行された『関東大震災の治安回顧』(吉河光貞 法務府特別審査局)においてすらも、官憲の責任を全く隠蔽してあります。(④p.91)
 軍隊が虐殺に直接かかわったことを示す決定的な史料(「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」)を東京都史料館所蔵の『陸軍震災資料』の中から発見し、『関東大震災政府陸海軍関係史料』(日本経済評論社 1997年)におさめた松尾章一氏によると、その直後からこの史料は一般閲覧できなくなったそうです。(⑦p.5) いやはや、その卑劣さ・下劣さの深淵は測り難いものがあります。

 しかし研究者・弁護士・市民による真相解明の努力が粘り強く続けられていることは、忘れないようにしましょう。例えば、2003年8月25日、日本弁護士連合会は、在日朝鮮人文戊仙さんの人権救済申し立てに応えて同会の人権委員会が作成した「関東大震災救済申立事件調査報告書」を添えて、朝鮮人・中国人被害者とその遺族に対する謝罪、および事件の真相調査の勧告書を小泉純一郎首相に提出しました。しかし小泉首相の応答は全くなかったとのことです。もちろん今でも。

 そして朝鮮人に対する差別・蔑視・敵視意識は、払拭されることはありませんでした。その例は枚挙に暇がないのですが、いくつか紹介します。『昭和時代』(岩波新書275)の中で、文芸評論家の中島健蔵氏は次のように回想されています。
 その年(※1925年)の十月十五日に、小樽高等商業学校の軍事教官が野外演習の想定として大体つぎのような情況を学生たちに与えた。第一に「大地震があって、札幌や小樽が大損害を受けた、」というのはいいとしても、第二項は「無政府主義団は不逞鮮人を煽動し、この時期において札幌および小樽公園において画策しつつあるを知れる小樽在郷軍人団は、たちまち奮起してこれと格闘の後、東方に撃退したるが、…云々」というのである。しかも反抗が強いので、小樽高商の生徒隊に応急準備令が下って、「敵を絶滅」するために出動する、という情況が与えられたのである。
 関東大震災の思い出が、まだなまなましく人々の心に残っていたころだ。ことに学生生徒の演習として、これは、なんともひどい想定だ。これに対して、たちまちはげしい非難が起り、事実上、記録によれば、小樽港の三千の朝鮮人の人夫が関東大震災のときの生々しい記憶を思い出して騒ぎ出した。学校の外の労働組合も学生たちの政治研究会とともに軍事教育を攻撃して一応軍事教官にあやまらせたことになっている。(p.33~4)
 永井荷風は、『断腸亭日乗』に、朝鮮人差別の様相を記録しています。(③p.64)
 昏黒三番丁に往かむとて谷町通にて電車の来るのを待つ。悪戯盛りの子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆~鬼婆~と叫ぶが中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事やと様子を見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを悪童ら押取巻棒にて叩きて叫び合へるなり、余は日頃日本の小童の暴虐なるを憎むこと甚し、この寒き夜に遠国よりさまよひ来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半圓の銀貨一片を与えて立ち去りぬ。(1930.1.8)

 此日の東京日日の夕刊を見るに大阪の或波止場にて児童預所に集まりいたる日本人の小児、朝鮮人の小児が物を盗みたりとてこれを縛り、逆さに吊して打ち叩きし後布団に包み其の上より大勢にて踏殺したる記事あり、小児はいずれも十才に至らざるものなり、然るに彼等は警察署にて刑事が為す如き拷問の方法を知りて、之を実行するは如何なる故にや、又布団に包みて踏殺する事は江戸時代伝馬町の牢屋にて囚徒の間に行われたる事なり、之を今、昭和の小児の知り居るは如何なる故なるや、人間自然の残忍なる性情は古今ともにおのずから符合するものにや、怖るべし、怖るべし、嗚呼怖るべきなり。(1936.4.13)
 アジア・太平洋戦争時、アメリカ軍による本土空襲が開始される前に、内務省はその混乱の中で、関東大震災の惨劇がくりかえされるのではないかと懸念しています。
 「殊に注意を要する傾向は段々空襲の危険性が増大するに連れまして、内鮮人双方共に関東大震災の際に於けるが如き事態を想起しまして善良なる朝鮮人迄内地人の為に危険視せられて迫害を加へられるのではないかとの杞憂を抱き又内地人の方面にありましては空襲等の混乱時にありまして朝鮮人が強窃盗或は婦女子に対し暴行等を加へるのではないかとの危惧の念を抱き双方に可成り不安の空気を醸成し果ては流言飛語となり其れは亦疑心暗鬼を生むという傾向のある事実であります。現に内地人の方面にありましては非常事態発生の場合の自衛処置として日本刀を用意し或は朝鮮人に対する警察取締の強化を要請する向があり就中一部事業主等にありましては杞憂の余り之が取締を警察の手より軍隊に移して貰い度いと公然と要望するに至って居る者もある様な状況であります。一方朝鮮人の側にありましては再び斯かる迫害を受くるに非ずやとの危惧の念より警察に保護を陳情する者がある様な状況にありますので一旦非常事態発生の際には細心の注意を万全の処置を講じて置くことがなければ不祥事件の惹起する危険性が充分にあるのであります」(警察部長会議に於ける保安課長説明要旨[1944.1.14]、内務省警保局保安課[治安状況に就て] 『集成』第五巻、p.15~7) (③p.66)

# by sabasaba13 | 2017-11-25 06:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース

c0051620_6345870.jpg 中川五郎氏の『トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース』、これも『週刊金曜日』の音楽評で教示していただいたCDです。中川氏といえば、『受験生ブルース』を作詞したフォーク・シンガーですね。そして"烏山神社の椎ノ木"といえば…拙ブログでも紹介した、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関係するあの椎ノ木でしょう。くりかえしますと、1923(大正12)年9月2日の午後9時頃に、甲州街道沿いの東京府千歳村烏山で起きた虐殺です。ある土木請負人が、京王電鉄の依頼で朝鮮人労働者18名と共にトラックに乗って、地震で半壊した車庫を修理するために、笹塚方面に向かっていました。しかし、烏山附近まで来た時、竹槍を携えていた7、80名の青年団員に停車を命じられ、全員路上に立たされました。彼らは襲撃してきた朝鮮人集団と解釈し、鳶口、棍棒、竹槍等によって激しい暴行を加えて一人を刺殺し他の者にも重軽傷を負わせました。この事件で12人が起訴された時、千歳村連合議会は、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として彼らにあたたかい援助の手をさしのべます。ある人物曰く、「千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」。なお烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえているそうです。

 それではなぜ彼がこの事件を歌にしたのか。「ハフポスト日本版」の中で、彼がその思いを語っているので紹介します。きっかけは『九月、東京の路上で』(加藤直樹 ころから)を読んだことだそうです。
「僕は1980年代に10年ほど烏山に住んでいて、このあたりもよく通っていながら、事件のことを知らなかったんですよ。それから烏山神社のことも。だから加藤さんの本を読んだときはショックでね。すぐに歌を作って現場を訪れました」

「怖いことです。僕も住んでいたからこそ分かるんですが、千歳の村でかばい合う意味での絆があったんでしょうね。身内の団結というか、例え誤ったことでもそれは地元のためにやったことだからと正当化してしまう。内向きでそれを正義にしてしまう。日本の恐ろしい所、この国が犯して来た過ちです。これを歌わなければと強く思ったわけです」

「でもね。僕が歌っているのは、94年前のことではなく、今の日本のこと。事件は過去のことでも現在と未来のことを歌っているんです」

「自分たちと異なる人たち、出自を外国に持つ人であったり、障害を持つ人たちとこの国で共に生きようとするのではなくて排除しようとしている。そんなひどい社会になっているじゃないですか」
 そして関東大震災の虐殺について、歴代都知事が行って来た朝鮮人犠牲者の追悼式に対する追悼文を、小池百合子都知事は約6000人という犠牲者の数に疑義を呈して今回は見送ると表明しました。
「ああいう歴史修正が恐ろしい。小池知事は東京大空襲や広島、長崎の被害の数字にはこだわりは見せていないじゃないですか。それでいて関東大震災の虐殺については数字から事実ではないのではないかという言いがかり。仮にその数字に信憑性がなかったとしても、例え犠牲者の数が少なかったとしても、デマがあって自分たちと違う人々がそれを理由に殺されたという悲惨な出来事自体はあったわけです」

「都知事の立場ならば、かつて東京でそういう事件が起こったということ、数字の正確さよりもそれを二度と繰り返さないという誓いを言わないといけないと思うんですよ。ところが、数字の問題にすり替えて、あった事実をゼロにしてしまう。知事が追悼の言葉を送らないなんて考えられないですよ。恐ろしい時代になって来ました。そのおかげで僕はこの年になって歌いたいことがどんどん出て来ました」
 うーむ、これはぜひ聴いてみたい。インターネットで調べて、対レイシスト行動集団(Counter-Racist Action Collective、略称C.R.A.C.[クラック])の通信販売サイトで購入しました。この事件をひとつの物語として、生ギター一本で歌い上げた17分49秒の力作です。いや歌というよりは、語り、そして叫びですね。まず軽快なギターの伴奏とともに事件の概要が語られ、最後の短いフレーズが歌となります。やがてこの椎ノ木が、犠牲者を悼むためではなく、加害者を労うために植樹されたことに話が至ると、俄然、中川氏の言葉に熱と力がこもってきます。そしてヘイト・スピーチなど、未だに朝鮮人への差別意識が払拭されていない現状を語るとともに、氏の言葉は怒りのかたまりとなって爆発します。
変わらないこの国 変わらないこの国の人たち
変わろうとしないこの国 変わろうとしないこの国の人たちを
残った椎ノ木は 見つめている
また同じことを 繰り返そうとする
この国を見つめている
「良い朝鮮人も 悪い朝鮮人も みんな殺せ」
そんなことを 街中で大声で叫ぶ人たちがいて
それに 見て見ぬふりをして
何も言おうとしない人たちが あふれるこの国
変わらないこの国 変わらないこの国の人たち
変わろうとしないこの国 変わろうとしないこの国の人たち
今も残った椎ノ木は 同じことを繰り返す
この国を見て 一体何を思うのか
僕は思った 僕は思った
変わろうとしないこの国を 変わろうとしないこの国の人たちを
変わろうとしないこの国を 変わろうとしないこの国の人たちを
まるで まるで まるで まるで
まるで まるで まるで まるで
祝福しているかのような この大きな椎ノ木を
ぶった切ってやりたいと
 ひさしぶりに聞くことができた、素晴らしいメッセージ・ソングです。強烈な差別意識、とそれに対する無関心や傍観、私たちの心に潜む暗部を怒りとともに抉りだす中川氏の志にいたく共感しました。そう、理不尽で没義道なものに対して、きちんと怒ること。『怒れ!憤れ!』(日経BP)の中で、ステファン・エセル氏もこう述べられています。
 いちばんよくないのは、無関心だ。「どうせ自分には何もできない。自分の手には負えない」という態度だ。そのような姿勢でいたら、人間を人間たらしめている大切なものを失う。その一つが怒りであり、怒りの対象に自ら挑む意志である。(p.45)

 現代の社会には、互いの理解と忍耐によって紛争を解決する力があると信じる希望。そこにたどり着くためには、人権を基本としなければならない。人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ。この権利に関する限り、妥協の余地はない。(p.85)
 人間を人間たらしめている大切なもの、怒りを呼び起こしてくれる一枚。お薦めです。

 本日の一枚は、先日撮影してきた烏山神社の椎ノ木です。
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# by sabasaba13 | 2017-11-24 06:36 | 音楽 | Comments(0)