虐殺行脚 千葉編2(3):習志野(16.12)

 商店街のゲートには、チェスの駒でしょうか、ナイトとポーン(ビショップ?)の絵が描かれていました。騎兵旅団との結びつきの強い町だったのですね。そういえば、『地域に学ぶ関東大震災』の中で、実行委員会の平形千恵子氏がこう語っておられました。
 軍隊の町で、軍隊関係の商店が連なっています。軍人にものを売るとか写真を撮るとか。なかにはね、飯ごうの蓋一つ無くなると、点検されると困るので、だいたい他人の蓋を取るんだそうです。それでまた次の人から取る。最後に一番気の弱い人が塀を乗り越えてここに買いに来る。金物屋さんに飯ごうの蓋一つ買いにいった話があります。
 写真屋さんも多いし、食料品を売る店、薪炭屋、それからおの裏の方の農家は馬の飼料を納入して軍の残飯を払い下げて豚の餌にしていたとか。(p.89~90)
 「大久保ゆうろーど」のつきあたりがT字路になっており、日本大学生産工学部がありますが、かつての第十四連隊跡地です。左に行くと東邦大学でこちらは第十三連隊跡地。その先に済生会習志野病院がありますが、かつては衛戍病院(陸軍習志野病院)でした。
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 T字路に戻って今度は右へすこし走り、南方向へ曲ると八幡公園がありますが、ここがかつての騎兵旅団司令部跡です。煉瓦造りの門柱は当時のものですね。解説板があったので転記しておきます。
騎兵連隊・旅団司令部跡
 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同六年(一八七三年)明治天皇行幸の際に、「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。
 明治三十二年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野に創設され、同三十四年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第十三・十四連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校付近に第十五・十六連隊からなる第二旅団がおかれました。さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治三十七~三十八年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和六年)・支那事変(同十二年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に再編制されていきました。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-19 06:26 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(2):習志野(16.12)

 そして踏切を渡り、京成大久保駅の北側へ向かうと、「大久保ゆうろーど」という商店街となっていました。途中にあったのが、習志野第一騎兵旅団長・秋山好古の記念碑です。後学のために転記します。
秋山好古と習志野
 日本とロシアの間に緊張が高まった明治三十六年(一九〇三年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌三十七年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自らしんがりをつとめた好古の勇姿は、敵・見方をこえて評判となり、明治三十八年九月、日本とロシアとの間に講和条約が締結されると明けて明治三十九年早春、好古は歴戦の痕跡を残す連隊旗と共に堂々と大久保の地に凱旋しました。この戦功により、後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫々たる戦果を上げた連合艦隊の首席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
 当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に負うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったことは後の歴史が物語っています。
 秋山兄弟の功績を認めることには吝かではありませんが、過大評価のように思えます。また日露戦争の歴史的意義については、自衛戦争より帝国主義戦争、朝鮮と満州の奪い合いという点のほうが大きかったと考えます。
 私が知りたいのは、勇将・秋山好古が(たぶん)心血を注いで鍛え上げた騎兵旅団が、日露戦争から約20年後に次のような事件を引き起こしたのかです。騎兵第十五連隊(習志野)所属の越中谷利一氏の証言を、『震災・戒厳令・虐殺』 (関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編 三一書房)から引用します。
 ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは九月二日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて營門に整列するまでの所要時間、僅に三十分しか与えられなかった。二日分の糧食および馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は六十発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるから、さながら戦争気分! そして何が何やら分らぬままに疾風のように兵營を後にして千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先づ列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ廻った。どの列車も超満員で、機関車につまれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣の下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起る万才歓呼の声! 國賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした。(p.46)
 やれやれ、好古さんは草葉の陰でどう思っているでしょうね。それにしても、陸軍のなかでも騎兵連隊がなぜ虐殺に関わったのでしょう。『関東大震災と戒厳令』(吉川弘文館)の中で、松尾章一氏が次のように分析されています。
 『騎兵操典』に「騎兵ハ剛胆慧敏ニシテ忍耐ニ富ミ、躰力強健ニシテ武器殊ニ馬術ニ熟達シ、襲撃ノ令一タビ下ルトキハ敵ノ多寡ヲ問ハズ勇躍奮進シテ敵ヲ圧倒スルノ勇気アルヲ要ス」とあるように、「騎兵精神」は「慧敏果敢」「軽捷機敏」を特性とした。大正7年(1918)12月から同9年12月にかけて、騎兵旅団内の奇数番号の聯隊に機関銃隊を設置した。したがって習志野の第13と第15聯隊は機関銃を所持していた。また同11年から鳩通信を騎兵通信に採用した。シベリア干渉戦争時に騎兵隊は大いに活躍し勇名をとどろかしたが、同11年の軍備整理で、師団内騎兵聯隊は二中隊に削減され、同年『騎兵操典』の改正により、乗馬戦・徒歩戦両様主義が採用され、徒歩戦の比重が高まり、乗馬行動が軽視される傾向となり、騎兵の陸軍のなかでの役割が低くなっていた(第一次世界大戦以後、騎兵不要論が台頭したことに抗議して、同9年8月に騎兵第四旅団長の吉橋徳三郎少将が自刃した事件があった)。このような時に、震災当時の近衛師団長・東京衛戌司令官であった森岡守成騎兵中将(大正12年3月に騎兵監に就任。シベリア出兵の殊勲者)の指揮下で、騎兵といえば習志野、習志野といえば騎兵といわれていた習志野騎兵聯隊にとっては、名誉挽回の好機であり、「騎兵精神」を大いに発揮し、戒厳令下で敵と見做した「不逞鮮人」や「主義者」の虐殺に積極的にかかわったのではないか、と私は考えている(佐久間亮三編『日本騎兵史』参照)。(p.84~5)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-18 06:27 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(1):習志野(16.12)

 関東大震災時における虐殺行脚、まだ続けています。千葉県はすでにまわったのですが、その後、『地域に学ぶ関東大震災 千葉県における朝鮮人虐殺 その解明・追悼はいかになされたか』(田中正敬・専修大学関東大震災史研究会編 日本経済評論社)という好著を読む機会がありました。専修大学関東大震災史研究会が、「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の方々に案内してもらったフィールドワークの記録です。史跡や事件の現場が、地図とともに紹介されており、これを片手にふたたび千葉県を訪れることにしました。今回は、最高の伴侶を同行します。あっ、いやいや、山ノ神ではなくて、ブロンプトンです。そう、知る人ぞ知る、知らない人は知らない、世界最高の折りたたみ自転車、分解・組み立てが約一分にしてコンパクト・サイズという優れもの。結果から言えば、たいへん重宝いたしました。持参した本は、同書と『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』(田中宏 岩波新書1429)です。

 「第2章 八千代市高津・大和田新田・萱田を歩く」で紹介されている史跡をメインにまわろうと、東西線に乗って八千代中央駅をめざしますが、車内で同書の「第3章 「軍郷」習志野を歩く」を読んでいるうちに、気が変わりました。まず習志野を訪れましょう。習志野には騎兵第十三・第十四・第十五・第十六連隊が駐屯し、震災直後直ちに東京方面などに出動し、朝鮮人を大量に虐殺しました。その駐屯地の近くには、9月5日、朝鮮人「保護」のため収容所が開設され、朝鮮人が護送されてきましたが、収容所では憲兵が思想調査を行ない、あやしいと判断した朝鮮人を殺し、また近隣の住民に殺させたのも、この騎兵連隊です。
 東西線で西船橋まで行き、総武線に乗り換えて船橋へ。京成船橋から京成本線に乗って京成大久保駅に到着です。ブロンプトンを組み立てて、まずは駅の南側に向かいました。すぐに大久保公民館に着きましたが、このあたりも騎兵連隊による朝鮮人虐殺の現場です。

 合掌

 会沢泰さん(当時騎兵第十四連隊本部書記)の証言を『地域に学ぶ関東大震災』から引用します。
 救護する目的でつれて来たんですけれども、朝鮮人が暴動を起こしそうだっちゅうんで、朝鮮人をひっぱり出せという事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが四個連隊あるんですから。おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。
 ねえ、軍隊の中で…そしておかしいようなものを…ホラ、よくいうでしょう…切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居たわけですね。切ったところは、大久保公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていってそこで切ったんです。…私は切りません…30人ぐらいいたでしょうね。
 ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナニしとったんだか、どこに居たんだかを。(p.69~72)
 現在は中央公園ですが、当時は人気のない墓地だったのでしょうか。習志野収容所で取調べや調査などをして、民族主義者・労働運動家・社会主義者などをあぶり出してこのあたりで殺害したのでしょう。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-17 08:07 | 関東 | Comments(0)

猫 (2)

伊東(静岡県)
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練馬(東京都)
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吉備津神社(岡山県)
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真鍋島(岡山県)
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片鉄ロマン街道(岡山県)
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練馬(東京都)
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高麗(埼玉県)
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田代島(宮城県)
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田代島(宮城県)
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高岡(富山県)
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円覚寺(神奈川県鎌倉)
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練馬(東京都)
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伊東(静岡県)
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練馬(東京都)
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吉備津神社(岡山県)
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真鍋島(岡山県)
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片鉄ロマン街道(岡山県)
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練馬(東京都)
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高麗(埼玉県)
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田代島(宮城県)
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田代島(宮城県)
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高岡(富山県)
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円覚寺(神奈川県鎌倉)
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練馬(東京都)
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# by sabasaba13 | 2017-04-16 06:34 | 写真館 | Comments(0)

焼津編(10):伊東(17.3)

 それでは伊東へと参りましょう。焼津市観光協会に自転車を返却して、焼津駅から東海道本線に乗って熱海駅へ。伊東線の列車が発車するまですこし時間があるので、コンビニエンス・ストアで珈琲を買って駅前で飲んでいると、小さな機関車が野外展示されていました。
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 後学のために解説文を転記します。
熱海軽便鉄道7機関車
 この機関車は明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。
 この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍したのち神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷へ貴重な交通記念物としてかえってきたものです。
 なお芥川龍之介の小説「トロッコ」に、人車鉄道から軽便鉄道への転換のための道路改修工事の風景が描かれています。そして湯河原を通過するのですから、幸徳秋水が乗った客車を牽引していたかもしれません。1910(明治43)年、湯河原温泉の天野屋旅館に逗留して『基督抹殺論』を執筆していた秋水は、6月1日、東京の検事に拘引されました。大逆事件については何度か触れてきましたので、よろしければご一読ください。

 そして伊東線に乗って伊東駅に到着。以前に触れましたように、猪戸町のあたりが赤線跡でその名残りの物件がかなり残っているとのことです。駅前の観光案内所で地図をもらい、そうした建物がどのあたりにあるかとお訊ねしたところ、心当たりはないとのことでした。致し方ない、地図を頼りに彷徨しましょう。結論から言えば、取り壊しが進んだためか、はたまた私の目が節穴なのか、往時を彷彿とさせる物件はそれほどありませんでした。一つ目は、朽ち果てた鉄製のゲート。二つ目はタイルの貼ってある円柱。これは「一目でわかるよう、赤線の建物は壁や柱にタイルを張れ」という警察からのお達しがあったためだそうです。三つ目は、千鳥破風が取り付けられている三階建てのユニークな建物。ふらふら徘徊していると、夕空を物憂く見上げるに出会えました。

 それでは引き上げることにしましょう。伊東線で熱海駅に戻り、湯河原で途中下車。駅前にある「さかなや道場」で、ご当地B級グルメの担々焼きそばと、しめ鯖をいただいて帰郷しました。
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 本日の六枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-16 06:26 | 中部 | Comments(0)

焼津編(9):焼津(17.3)

 こちらでは、故久保山愛吉氏の家族への手紙、当時の写真や行政文書、新聞記事、実際に使用されたガイガーカウンターなどが展示されていました。目にとまったのが、マグロの売れ行き不振に悩んだ関係者が配布したビラです。後学のために転記します。
あなたにも放射能がある!!

 驚いてはいけません。あなたの身体にも帽子にも靴にも毎日食べているお米にも野菜にも豚肉にも二〇数/分(カウント・パー・ミニュツ)から一〇〇数/分の放射能があります。魚にだけ放射能があるのではありません。温泉も放射能があるから喜ばれているのです。こんな簡単なことを知らないで日本中がお魚におびえています。有害な放射能は一〇、〇〇〇数/分以上の時だけです。一番怖いのは―放射能よりも無智ではないでしょうか。さあ今日からは安心して毎日マグロで、魚で大いに栄養をとつて下さい。
 やれやれ、怖いのは"無智"よりも"嘘"だと思いますけれどね。もっと怖いのは、現在でも、福島原発事故による放射能の影響を過小評価しようとする専門家がおられることです。『DAYS JAPAN』(17.4)に、「専門家」の発言が収録されていたのでいくつか紹介します。(p.38~41)
山下俊一氏 (長崎県立医科大学副学長・福島県放射線健康リスク管理アドバザー)
「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしている人に来ます」
「福島における健康の影響はない。放射線や放射能を恐れて恐怖症で心配しているということは、復興の大きな妨げになります」

高村昇氏 (長崎大学原爆後障害医療研究所教授・福島県放射線健康リスク管理アドバザー)
「放射能は塵のようなものであり、取り除ける。基準値はあるが洗えばOK」
「(これまでも)この先も、この原子力発電所の事故による健康リスクというのは全く考えられない」

神谷研二氏 (広島大学副学長・福島県放射線健康リスク管理アドバザー)
「人間は、生まれながらにして身体に入った余計なものを外に出そうとする力があるので、身体に入った放射性物質がそのまま身体にとどまることはない」

丹羽太貫氏 (放影研理事長・京都大学名誉教授)
「このレベル(の放射性物質の濃度)で、福島県の人を『被曝者』というとおかしくなる。それをいうなら『日本国民が被曝者』『世界中が被曝者』といわなければならない」

鈴木元氏 (国際医療福祉大学クリニック院長)
「年間5ミリシーベルトの危険を恐れて、子どもたちが外で運動しない、家の中に閉じこもる、野菜も食べないというふうにしていくと、肥満によるリスクが上がってくるわけです」
 うーむ、どう見ても、原子力マフィアの責任を隠蔽し、その権益を守るためには、市民の健康や生命などどうでもいいという姿勢ですね。『DAYS JAPAN』が"専門家"に鍵括弧をつけた理由に得心します。専門家というよりは、ステークホルダーです。専門家あるいは科学者はどうあるべきか、故高木仁三郎氏の言に耳を傾けましょう。『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)からの引用です。
 しかし、科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。(p.261)
 権益のために市民の不安をもみ消そうとする専門家・科学者の方々に、よく噛みしめていただきたい言葉です。

 なお第五福竜丸は1967年に廃船処分となって東京の夢の島に捨てられていたが、粘り強い運動の結果、76年6月同地に都立の第五福竜丸展示館が完成、保存されています。この事件に衝撃を受けたベン・シャーンが描いた連作「ラッキードラゴン・シリーズ」にアーサー・ビナード氏が詩をつけた『ここが家だ』も好著です。この事件をモチーフの一つとした岡本太郎の壁画『明日の神話』も一見の価値あり。また第五福竜丸乗組員の大石又七氏の講演会を聞きに行ったことがあります。よろしければご一読を。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-15 06:29 | 中部 | Comments(0)

焼津編(8):焼津(17.3)

 浜通りは、堀川にかかる新川橋のところで終わりますが、ここには「小泉八雲風詠之碑」がありました。朽ち果てた姿で屹立する商店街のゲートに、哀感をもよおします。
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 橋のたもとにあった「松永帆屋」を撮影して二十分ほどペダルをこぐと、焼津文化センターに到着です。まずは「焼津小泉八雲記念館」を見学しましょう。
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 こちらでは、煙管・望遠鏡・コップなど八雲の遺品や、セツ夫人に宛てたカタカナ書きの書簡や作品の原稿などが展示されていました。また彼を紹介する映像を二本見ましたが、なかなか要領よくまとめてあって一見の価値はあります。
 そして隣にある焼津市歴史民俗資料館へ行き、「第五福竜丸コーナー」をじっくりと見学しました。
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 第五福竜丸事件について、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 1954年(昭和29)3月1日、南太平洋ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、同環礁東方160キロの海上で操業中の日本のマグロ漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴びた事件。同船は3月14日静岡県焼津に帰港したが、乗組員23名が「急性放射能症」と診断され、東大病院と国立第一病院に入院、治療を受けた(9月23日には無線長久保山愛吉が死亡)。同船が積んできたマグロからは強い放射能が検出され、5月には日本各地に放射能雨が降り始めた。この事件は国民に強い衝撃を与え、核兵器禁止の世論が急速に盛り上がり、翌55年8月、広島での第1回原水爆禁止世界大会開催へとつながっていく。
 実は、この事件の背後には、アメリカ政府および日本政府の、非人間的かつ悪魔的かつ犯罪的な数々の行為が隠れされています。よろしければ、『放射能を浴びたX年後』の映画評と、『核の海の証言』の書評をご覧ください。
# by sabasaba13 | 2017-04-14 06:29 | 中部 | Comments(0)

焼津編(7):浜通り(17.3)

 再び浜通りに戻ると、「小泉八雲滞在の家跡」という記念碑がありました。焼津小泉八雲記念館のHPに、彼が焼津に滞在した経緯や、その様子についての一文があったので引用します。
 小泉八雲とその家族が焼津を最初に訪れたのは1897(明治30)年8月4日のことです。
 水泳が得意だった八雲は、夏休みを海で過ごそうと、家族を連れてよい海岸を探していたのです。
 まず八雲一行は舞阪の海を訪れたのですが、海が遠浅で海水浴には適しているが水泳には適さないと気に入りませんでした。
 その後、海の見える駅で降り、順番に見て行こうということになり、降りた最初の駅が焼津だったのです。焼津の深くて荒い海が気に入った八雲は、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借り、以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。

 八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、八雲が夏の間滞在していた家の魚商人、山口乙吉との出会いがあったことも大きな理由でありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は"神様のような人"と語っていました。
 乙吉は八雲を"先生様"と呼び、八雲は乙吉を"乙吉サーマ"と心から親しく呼んでいました。

 普段はひたすら机に向って物書きに専念していた八雲は、焼津では一緒に来ていた長男・一雄に水泳を教えたり、乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、お祭りを眺めて大喜びしたりとのんびりと楽しい一時を過ごしました。作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての小泉八雲が焼津にはいたのです。
 なおこの山口乙吉宅は、現在は明治村に移築・保存されています。そちらには八雲顕彰会会長・北山宏明氏が書かれた「小泉八雲と焼津」という解説がありましたのでこれも引用します。
 焼津滞在中の八雲の服装は(これは私の母が語ってくれたのであるが、印象はあまりいい恰好ではなかったようだ)、木綿でできた縞模様の浴衣に、三尺の兵児帯を締めた、ごくさっぱりした姿であった。ところが帯の締め方が、腰より上の胴廻りに締めていたので、乙吉が腰廻りに締めるよう教えても、「この方が前割れしないから」と直そうとしなかった。散歩の時は、焼津独特の菅笠をかむり、藁草履で、緒には赤い布が巻いてあった。これは散歩好きの八雲のため、足指を傷めないよう乙吉の手製である。八雲は乙吉の心根に感じ、好んで履いて歩いた。散歩するには必ず乙吉が付添い、土地の伝説やら、由来やらを途々歩きながら話して聞かせた。「乙吉だるま」「漂流」「焼津にて」などの作品になっている。
 散歩のお伴には、乙吉の外に小学一年の乙吉の末娘さき(後小泉邸へ女中として行く)や、近所の腕白共が付いて歩いた。片方の目がなく、もう片方の目の大きい、どんぐり目の八雲の風体は決して優しい印象は与えなかったのに、子供達からは妙に慕われて、海水浴には毎日のように一緒に泳いだ。海に入る時は、浜の漁師達と同様、八雲もフリチンで泳いだ。勿論子供達も男女を問わず同様である。当時小学校高学年であった長男一雄さんが、恥かしいといって海に入らなかったところ、ひどく叱られたと思い出に記している。何の虚飾もない焼津の人々の人情が、若い時代から苦労して来た八雲にとっては、此の上ない好もしいものであったようである。
 八雲と焼津の人びととの心温まる交流に頬が緩みます。最近読み終えた『言葉と戦車を見すえて』(ちくま学芸文庫)の中で、加藤周一氏はロベール・ギラン氏から"日本の民衆の中には、幸福に暮らすことの一種のすばらしい技術がある"と言われたそうです。(p.152) 焼津の人びとにはそうした技術が脈々と受け継がれていたのでしょう。なお幸福に暮らす技術が、焼津だけではなく日本の津々浦々に満ちていたことが、名著『逝きし世の面影』(渡辺京二 平凡社ライブラリー)を読むとよくわかります。というよりも、近代化が始まる前は、世界のどこの地域でも人びとはそうした技術を持っていたのではないかと思います。近代とは、他人を蹴落として自分だけが幸福になるべく競い合う時代と定義できるのではないかな。

 なお気がついたら、小泉八雲関連の史跡をけっこう訪れてきますた。ダブリン熊本新宿松江などですが、よろしければご笑覧ください。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-13 06:26 | 中部 | Comments(0)

焼津編(6):浜通り(17.3)

 くるくる回るレトロな換気扇を屋根に乗せた町屋がありましたが、おそらく燻製関係の作業場でしょうか。近づいてみると正解、「なまり節 天野商店」さんでした。
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 ふと左手からそこはかとなく華やいだ雰囲気が漂ってくるので行ってみると、堀川沿いに満開の桜が何本かありました。河津桜でしょうか。また浜通りに戻ると、「一平」というお店に「焼津の塩鯖」というポスターが貼ってありました。後学のために転記します。
 塩さばの主な用途といえば、なによりも関西地方の押し寿司が有名です。焼津加工の塩さばは、国内産の鯖を選りすぐり伝統の技でとりわけ品質に厳しい関西地区の老舗料理店で高い評価を得ています。
 好きのパラダイスですね、ここ焼津は。
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 その先にあった、あたりを睥睨する仙人のような異形の像は庚申さま。解説板によると、道教の庚申信仰と、神道の猿田彦命信仰が、同じ猿ということで結びついたそうです。よってこれは猿田彦命の像でもあります。作者は下村声峰で、伊豆の長八の弟子であるとのことでした。
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 あるお宅の入口には、溝のついた石柱がありましたが、これは波除け堰です。解説文を転記します。
 昭和60年代までの浜通りは東側が駿河湾に接していたため、暴風雨による荒波が堤防を越えて家々に襲いかかることがしばしばありました。高潮・高波を避けるための波除け堰、東から押し寄せた高潮を海岸や西の堀川に逃がすための小路など、他地区には見られない独特の建築様式と様々な工夫が見られます。この家の入口両側にある溝のついた石柱は堤防を越えた海水の侵入を防ぐ波除け堰の名残りです。写真のように波除け板をはめこんで堰をつくり家に波が流入するのを防ぎました。
 恵みや幸をもたらしてくれるとともに、時には禍をおよぼす海と共存するための智慧なのですね。
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 左に曲がってふたたび堀川に出ると、浜通りの蔵群が対岸に見えます。石蔵・土蔵・レンガ蔵などが点在しています。浜通りに戻ってオーシャンロードに行くと、小泉八雲の逸話が伝わる波除地蔵がありました。解説板を転記します。
 明治初頭漁村城之腰村の磯浜に延々と連なる土堤上南中北の三個所に浪除けの願いを込めて安置された夫々のお地蔵さんも激しい風雪と嵐に耐えた百年近い歳月にいつのまにかこの一体だけとなり、或る時は大浪にさらわれて損傷し詩人小泉八雲によって補修されたとか。
 別に咳止め地蔵とも呼ばれいまだに病気平癒の祈願を果された方々も見られる等数々の語り草に人々に慕われ親しまれて参りましたが、あまりに守り疲れたお姿を見るにつけここに町内一同相計り相協力して初代は小川光心寺に動座し新たに地蔵尊を建立以て先祖の遺風を次代に伝え永劫変らぬ御守護を祈念致します。

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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-12 06:34 | 中部 | Comments(0)

焼津編(5):浜通り(17.3)

 それでは自転車にまたがって、浜通りを徘徊しますか。観光案内所でいただいたパンフレットから転記します。
 「浜通り」は駿河湾沿岸に沿って南北に伸びるほぼまっすぐな街道と、その街道を中心に形成された南北約1.5km、東西約0.6kmの細長い集落を指す名称です。浜通りは、北から北浜通、城之腰、鰯ケ島の3地区に分かれています。集落内には、江戸時代かに掘られ、かつては運河としても機能した堀川(黒石川)が北へ流れています。
 焼津漁港築港前は浜通りの砂利浜が河岸(湊)で、古くは廻船業でにぎわいました。徳川家康から船足の早い八丁櫓を許されて以降、カツオ漁業が大きく発展したと伝わります。交通の要所でもあり、江戸時代の地誌には、「漁家商家相交りて繁華なる土地なり、焼津湊云々」(『駿河記』)と当時の繁栄ぶりが記されています。
 その後、明治時代の東海道線焼津駅の開業、静岡での全国初の石油発動機付漁船の開発、漁船建造に必要な有力資本が焼津に成立したことなどにより、浜通りを中核として、焼津は遠洋カツオ漁業の先進地になりました。また、漁業の発展に伴って、鰹節に代表される水産加工業も一大飛躍を遂げました。焼津の名が全国に知られるようになったのは、浜通りで焼津漁業を盛り上げた先人たちの努力によるものといえます。
 明治時代の文豪、小泉八雲はこの地を愛し、夏になると浜通りの山口乙吉宅に泊まり、焼津にまつわる作品を残しました。浜通りが「八雲通り」とも呼ばれる由縁です。
 浜通りには沿岸部特有の伝統的家屋や小路、信仰の場所などが今も残っており、焼津の歴史と文化が息づいています。
 小川港魚河岸食堂からペダルをこぐこと数分で浜通りに着きました。まず目に入ったのが「波除堤防モニュメント」で、高波の害から町を守るために、明治30年代から築造された総延長1,320mの石積み防潮堤の一部を模造したものです。
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 すぐ近くには昭和天皇の巡幸記念碑がありました。昭和5年5月30日ということは、そろそろ昭和恐慌が始まった頃ですね。彼はいったいどんな気持ちでこの地に立っていたのでしょうか。それでは浜通りをゆっくりと走りましょう。残念ながら古い建物はほとんど残っていませんが、正面に山を眺められる気持ちの良い路地です。両側に小路がたくさんありますが、高潮の際に、西の堀川へ水を逃がすための工夫だそうです。土地自体も海側から陸側へと傾斜しているとのこと。それぞれ関係した名前が付けられていて、この写真は御休小路です。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-11 06:28 | 中部 | Comments(0)