虐殺行脚 東京編(6):八広(16.10)

悼む人々 「四ツ木橋」のたもとに建った碑

 1970年代。足立区の小学校で教鞭をとっていた絹田幸恵は、研究熱心な先生だった。近くを流れる荒川放水路が人工の川であることを子どもたちに教えるために、自分の足で放水路の歴史を調べ始めたのである。土木工事について基礎から勉強し、関連部署に通って資料を集め、話を聞く。さらに絹田は、土地の老人たちに開削当時のことを聞いて歩くようになった。
 77年ごろのある日、一人の老人を訪ねた絹田は、その話に衝撃を受ける。関東大震災のとき、荒川にかかっていた旧四ツ木橋周辺で大勢の朝鮮人が殺され、その遺体が河川敷に埋められたというのだ。老人は「お経でも上げてくれれば供養にもなるのだが」とつぶやいた。
 「大変なことを聞いてしまった」。絹田はそう思った。その後も、何人もの老人たちから同様の話を聞いた。絹田は、いまだ埋もれているであろう朝鮮人たちの遺骨を発掘し、老人の言う「供養」を実現したいという思いをふくらませていく。
 どうしたら発掘が実現するのか、どうすれば「供養」になるのか。分からないまま、たった一人で模索を始めた彼女だったが、次第に志を共有する仲間たちが集ってきた。こうして82年、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(後に「慰霊」から「追悼」に改名)が発足する。この年、行政との交渉の結果、ごく短期的な試掘が許され、遺体が埋まっている可能性が高い堤防と河川敷のうち、発掘が可能な河川敷3ヵ所を試掘することができた。
 だが遺体は出てこなかった。その後、1923年11月半ばに、警察が2度にわたってこの一帯を掘り返して遺体を持ち去っていたことが、当時の新聞資料でわかった。「追悼する会」は、その後も地域での聞き取りを続けた。証言者の数は10年間で100人を超える。1923年9月の旧四ツ木橋の惨劇は、こうした努力によって明らかにされてきたのである。
 遺骨の収集が果たせなかった「追悼する会」は、「供養」を追悼碑の建立によって行うことを決める。絹田と仲間たちの、新しい目標だった。
 「朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし」
 震災の1年後、「民衆の弁護士」と呼ばれた山崎今朝弥が書いた一文である。植民地支配を美化するスローガンとして当時、「内鮮融和」という言葉が使われており、山崎の「日鮮融和」もそれを連想させる表現だが、彼の思想性を考えれば、ここでは「日朝両民族の和解」といった意味で使っているのだろう。
 震災後、朝鮮人虐殺の事実が広く明らかになったにもかかわらず、政府や行政はその責任をまったく認めず、もちろん政府としての謝罪もなされなかった。わずかな数の自警団員が、非常に軽い刑に服しただけであった。
 追悼の動きはないわけではなかったが、やはり不十分なものだった。山崎の言うような「塚」は、埼玉、群馬、千葉など、ひどい虐殺があった場所で民間の手によって確かに建てられたが、その碑文には朝鮮人たちが虐殺によって命を落としたという事実を明記したものはひとつもなかった。約100人が殺されたと見られる埼玉県本庄市でも、震災の翌年、慰霊碑が建立されたが、そこにはただ「鮮人之碑」とだけ彫られていたのである。朝鮮人の理不尽な死を悼む思いがあるからこそ、彼らは慰霊碑を建てたのだろうが、その一方で、地域の人々こそが彼らを殺したのだという重い現実を直視できなかったのであろう。
 もちろん、当局がそれを望まなかったことも大きい。朝鮮人団体や労働組合、キリスト教徒などは震災直後から抗議集会、あるいは追悼集会を開いたが、それらは警察の強硬な取締りを受けた。集会で朝鮮人が抗議の声をあげると、たちまち集会への解散命令が下り、警官隊がなだれ込んでくるのが常であった。政府は、虐殺の事実を忘れさせたかったのである。
 とはいうものの、首都周辺でこれだけの虐殺があったのに政府として追悼のポーズを見せないわけにはいかず、政府に近い立場の人々が集まり、震災の翌々月、10月28日に芝増上寺で「朝鮮同胞追悼法要」が開かれた。これは、死者を追悼してみせつつ、虐殺への怒りも責任も不問にする性格のものだった。まさに先に書いた「内鮮融和」を狙ったものである。東京府知事や国会議員たちが、神妙な顔つきで列席した。
 このとき、ひとつのトラブルが起きたことが記録されている。法要の発起人にも名を連ねた朝鮮人の作家、鄭然圭(チェン・ヨンギュ)の弔辞朗読を認めずに式を進めようとして、主催者が鄭の抗議を受けたのである。鄭はその数日前、新聞の取材に対して、司法省の発表した朝鮮人被殺者数(233人)は桁がひとつ違っているのではないか、罪は自警団のみで警察や軍の落ち度はなかったのか、とコメントしていた。そのため、主催者は鄭の弔辞を恐れていた。
 予定されていた鄭の弔辞朗読を無視して、司会が焼香に移ろうとしたとき、彼は立ち上がって霊前に進み、列席者に向かってこう叫んだ。
 「諸君は何故に私の弔辞を阻止するのだ。人類同愛の精神によって敢て主催者の一人に加わり今日の美しき法要に加わった私の立場が斯くも虐げられるとは、諸君の或る者が強いて行ったことに相違あるまい。思わざる不幸である。今日の此醜態は一生忘れることが出来ぬ」
 鄭然圭は自らも自警団に襲われ、警察に収監された経験を持つ。また惨劇後の亀戸署を取材し、ゴミ捨て場に投げ捨てられた白骨も目撃している。現実に目を背ける者たちへの怒りと無念が「美しき法要」という反語的表現に表れている。司会はこのとき、弔辞朗読を飛ばして焼香に移ったのは「多忙の際の手落ちである」と言い訳したという。
 彼は霊前に立ったまま、弔辞を読み始めた。
 「1923年10月28日 小弟鄭然圭。血涙に咽び悲嘆にくれ、燃え猛ける焔の胸を抱いて、遥々故国数千里を隔て、風俗水土異り思い冷たく瞑する能はざる異郷の空に、昼は日もすがら哭く。夜は夜な夜な夜もすがら迷い泣き廻る。故なく惨殺されてなほ訴ふるところもなき我同胞が三千の亡き霊に、腹ちぎられる思ひの追悼の辞を、同じ運命が未だ生き残りたるけふ(今日)の命ある半島二千万同胞の一人として、謹み悲しみに涙をのんで捧げまつる。願はくば諸霊よ、あまり働することなく哀しみうけ給へ」
 戦後、行政の妨害を受けずにすむようになると、在日朝鮮人による追悼碑の建立が各地で行なわれた。また日本人が主導する碑の建立もあらためて行われるようになった。それまで碑がひとつも存在しなかった東京でも、震災50年の節日となる1973年、超党派の国会・地方議員にも協力を得て、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が横網町公園内に追悼碑を建立した。
 しかし、朝鮮人虐殺を研究する山田昭次は、戦後に日本人主導で建立された慰霊碑にも依然として問題が残されていたと指摘する。関東大震災時に朝鮮人が「殺された」ことをしっかり書くようになったのは前進としても、では「誰が殺したのか」を明確にしたものがないというのである。
 その状況を変えたのが、旧四ツ木橋で殺された人々の追悼を続けていた「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」だった。2009年8月、彼らはようやく碑の建立を実現する。それは、震災から80数年を経て初めて、「誰が殺したのか」をはっきりと直視する内容だった。

「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」
 (碑文)
 1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、殖民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
 2009年9月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか

 この「追悼之碑」は、虐殺現場となった旧四ツ木橋(今は存在しない)のたもと付近にあたる土手下に置かれた。会では当初、河川敷への建立を目指していたが行政の協力を得られなかった。そのとき、この場所をゆずりたいという人が現れたのである。追悼碑の周りには、朝鮮の故郷を象徴する鳳仙花が植えられている。毎日のように掃除に来てくれる地元の人もいて、碑は常に美しく保たれている。追悼碑に手を合わせた後で、追悼する会のメンバーに「私の父は当時、朝鮮人を殺しました」と打ち明けた人もいたという。
 旧四ツ木橋の虐殺の事実を知って衝撃を受け、「供養」をしたいと願い続けた絹田幸恵は、08年2月、追悼碑の完成を見ることなく、肺炎のためこの世を去った。77歳だった。もうひとつのライフワークとなった荒川放水路の研究は、小学校教員を退職した2年後に「荒川放水路物語」にまとめられた。彼女のただ1冊の著書である同書は、91年に土木学会・出版文化賞を受賞している。
 「追悼する会」は、試掘を行った82年以来、毎年9月に「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」を旧四ツ木橋に近い木の根橋付近の河川敷で今も続けている。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。
 2013年9月8日には、中国人犠牲者の追悼集会も行われた。「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」と題されたこの会には、大島で虐殺された人々の遺族が来日して参加。そのなかには、逆井橋で軍人に殺された活動家、王希天の孫の姿もあった。(p.175~81)

 本日の一枚です。
c0051620_6552666.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-13 06:56 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(5):八広(16.10)

兵隊の機関銃で殺された 1923年9月 旧四ツ木橋

 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団など一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言もいくつも掲載されている。
 一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、自警団が朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろん、それは誤りではない。しかし、それだけでは行政が果たした役割が抜け落ちてしまう。正力松太郎などの警視庁幹部、そして内務省警保局などが、流言を事実ととらえて誤った情報を拡散していたことについてはすでに触れた。正力は、2日の時点では軍も朝鮮人暴動を信じていたと語っている。
 実際、軍の記録を見ると「目黒、世田ヶ谷、丸子方面に出動して鮮人を鎮圧」「暴動鮮人沈(鎮)圧の為、一中隊を行徳に派遣す」などの文字が出てくる。
 近衛師団とともに戒厳の主力を担った第1師団の司令部は、3日には「徒党せる鮮人の暴行は之を認めざる」という判断に落ち着いたものの、各地に進撃した部隊は、多くの朝鮮人を殺害していた。
 前掲書によれば、旧四ツ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。ここでは日付は区切らず、旧四ツ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

 「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

 「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉) (p.76~8)

 本日の一枚です。
c0051620_6281634.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-12 06:29 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(4):八広(16.10)

体に残った無数の傷 1923年9月4日 火曜日 午前2時 京成線・荒川鉄橋上

 一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で叫び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張り上げました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が降り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。(慎昌範)

 慎昌範(シン・チャンボム)が日本に来たのは震災直前の8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのだという。関西を回り、30日に東京に着いた。
 9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。
 「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」
 その後、燃えさかる街を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。東京で暮らす同胞も合流していた。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。この鉄橋は今も同じ位置にある。当時の荒川駅、今の八広駅の目の前だ。当時はすぐ横に平行して旧四ツ木橋がかかっていた。
 深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうか確かめているようだった。そして、鉄橋に上がってきた彼らが、冒頭の惨劇を引き起こしたのである。
 林善一(イム・ソンイル)が日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎は、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだ。
 だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられ、よけようとして小指を切断される。
 慎は飛びかかって抵抗するが、次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神した。慎にその後の記憶はない。気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめたのだ。
 10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移される際、彼は朝鮮総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でもまともな治療は受けられず、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
 慎の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指に加えて、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足の内側にある傷は、死んだと思われた慎を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。(p.69~71)

 本日の一枚です。
c0051620_628796.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-11 06:28 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(3):八広(16.10)

「何もしていない」と泣いていた 1923年9月 荒川・旧四ツ木橋付近

 曺仁承(チョ・インスン)は、1923年9月2日午前5時、旧四ツ木橋の周辺で薪の山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間に、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。調査の時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
 ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言をすることに二の足を踏む人は、仮名の証言になっている。同書から、9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして貴重な証言をいくつか紹介する。

 「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略) 雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」 (永井仁三郎)

 「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうへ行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」 (井伊〈仮名〉)

 「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」 (青木〈仮名〉)

 「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」 (池田〈仮名〉)

 「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んでいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成したものだ。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で殺されたのである。(p.52~4)

 本日の一枚です。
c0051620_6295978.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-10 06:30 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(2):八広(16.10)

 なおこの事件については、『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)に詳細な叙述があります。長文なのですが、とても大事なことですので引用します。
薪の山のように 1923年9月2日 日曜日 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近

 (9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14人でかたまっておった。女の人も2人いた。
 そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
 翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
 橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。

 曺仁承(チョ・インスン)は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪などを経て東京に来てから一カ月も経っていなかった。
 9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。闇の中でも、都心方向の空は不気味な赤い炎に照らされていた。
 曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされていた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。
 同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり付くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。
 証言のなかで四ツ木橋とあるのは、現在の四ツ木橋や新四ツ木橋ではなく、京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にあった旧四ツ木橋のことである。…この橋は、震災直後の被災地域と外とを結ぶ重要なルートとなった。
 曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
 そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や木刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。(p.30~2)

 本日の一枚です。
c0051620_6265039.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-09 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(1):八広(16.10)

 関東大震災虐殺行脚の旅、いよいよ地元の東京で大団円をむかえます。『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三 新潮文庫)をバッグに入れて、いざ出発。

 練馬駅から都営地下鉄十二号線に乗って新宿へ、都営新宿線に乗り換えて馬喰横山へ、そして都営浅草線に乗り換えて八広駅で下車。墨田区八広6-31-8にある追悼碑を訪れました。印刷して持参した地図を片手に、かつて惨劇が起きたことなど想像もできない静謐な町のなかをすこし歩くと、すぐに見つかりました。家と家に挟まれた小空間に、無骨ながらも力強く「悼」と刻まれた小さな碑でした。

 合掌

 裏に刻まれていた碑文を転記します。
 一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。
 東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。
 この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか
 またそのとなりには、建立した由来についての説明がありました。
 関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難追悼碑 建立にあたって

 一九一〇年、日本は朝鮮(大韓民国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
 一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
 六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
 韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。

二〇〇九年九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会
グループ ほうせんか

 本日の一枚です。
c0051620_6281433.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-08 06:29 | 東京 | Comments(0)

少女像5

 さて、私たちはこの問題に対して、どう向き合えばよいのでしょうか。もちろん一朝一夕に解決できる容易な問題ではないことは、重々承知しています。私も意見もまとまりません。ただ、逃げるのを、隠すのを、忘れるのをやめて、知り、考え、議論をすべきだとは思います。

 最期に、その際に導きの糸になる文章をふたつ紹介して、筆を置きます。

 まずは『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されていた、戦争責任問題に関する研究と政治的運動実践に長年従事してきた大沼保昭氏の言葉です。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 もうひとつは、加藤周一氏の随筆「春秋無義戦」の最後の部分です。(『夕日妄語2』 ちくま文庫)
 問題は、いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観-もしそれを文化とよぶとすれば、いくさや犯罪と密接に係りあった文化の一面との断絶がどの程度か、ということである。文化のそういう面が今日まで連続して生きているとすれば、-今日の日本においてそれは著しいと私は考えるが、-そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない今日の問題である。
 過去の犯罪の現存する条件を容認して、犯罪との無関係を主張することはできない。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決をしないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうとしないかぎり。
 たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別-そういうことと無関係に日本帝国主義は成立したのではなかった。また過去の日本帝国主義に対する今日の日本国の態度と無関係に、自衛隊員の海外活動に対するアジア諸国民の反撥と不信感があるのではない。
 自衛隊の海外活動第一年、一九九二年の暮に私の妄想はこの国の来し方行く末に及ぶのである。(92.12.17) (p.68)

# by sabasaba13 | 2017-03-07 14:11 | 鶏肋 | Comments(0)

少女像4

 そして意外と言及されていないのが、「少女像」とは、誰が何のために制作したのかということです。全体像を見たことがない人もいるのでは。幸い、「神奈川新聞」(2015.1.28)にそれに関する記事が掲載されましたので、転記します。
 いすに腰掛けた等身大の少女像は静かに前を見据える。穏やかな表情は見る者を鋭く射すくめるようにも映る。2011年、韓国・ソウルの日本大使館前に建てられた「平和の碑(少女像)」。旧日本軍の従軍慰安婦を模したもので、日本では「反日の象徴」と反発する向きもある。「悲劇が再び起きないよう平和を願って作った」。韓国人彫刻家、キム・ウンソンさん(50)、キム・ソギョンさん(49)夫妻は込めた思いをやはり静かに語った。間近で見ると、はだしの少女はかかとをわずかに浮かせていることに気付く。膝の上の両の拳はぎゅっと握られ、左肩には黄色い小鳥が乗る。(中略) 一見しただけでは分からないが、かかとはすり切れているのだという。「大変だった人生を象徴している。遠くに連れて行かれ、故国に戻ってきても居場所がない人もいたから」 ソギョンさんが説明を始めた。
 切りそろえられていない髪の毛も、家族や故郷とのつながりを断ち切られてしまったことを表している。肩の小鳥は平和と自由の象徴。「平和を守る守護神として作った像なのだから」
 そしてソギョンさんが繰り返し口にするのが「共感」の2文字。像の隣に置かれたいすも作品の一部になっていて、「隣に座って慰安婦の心を想像してほしい」。少女と目線の高さを合わせ、動かぬ像のぬくもりを感じ、その時、心はどう動くのか。「元慰安婦は抱えた心の痛みを払拭できない人がたくさんいる。自分が慰安婦だったら、どう思い、何を感じるか。少女の気持ちになって考えるきっかけにしてほしい」
 日本大使館前の像は元慰安婦のハルモニ(おばあさん)を支援する韓国の市民団体が寄付金を集め、設置を企画した。毎週水曜日に大使館前で行っていたデモ活動の千回目を記念するものだった。市民団体は社会問題をテーマに彫刻作品を手掛けてきた夫妻に制作を依頼した。当初は字が刻まれた石碑を建てる計画だったが、夫妻は「元慰安婦を癒す彫刻を作りたい」と少女像を提案した。周囲の受け止めは思わぬものだった。「除幕式当日、日本のメディアの記者が大勢集まり、私たちの一挙手一投足にフラッシュがたかれた。日本政府は「外交公館の尊厳を損なう」として韓国政府に像設置を認めないよう要求。日本の一部保守系メディアでは像を「反日の象徴」とみなす論調が続く。
 学生時代から2人は韓国の民主化闘争に加わってきた。朝鮮半島の統一を願う作品や米軍の装甲車にひかれて亡くなった中学生を追悼する作品を手掛けてきた。「なぜ芸術に政治を持ち込むのか」という批判が寄せられたことがある。ソギョンさんの夫で共作者のウンソンさんは語気を強める。「政治や社会を抜きに、芸術家はどんな活動ができるだろうか」 作品の政治性は日本でも問題になったことがある。2012年8月、東京都美術館で開かれた国際交流展に少女像の縮小模型を出展した。だが、政治的表現物を規制する同館の「運営綱領に抵触する」として会場から撤去された。
 像に込めたメッセージは日本にだけ向けられているわけではない。それは、かかとを上げているもう一つの理由からもうかがえる。地面を踏みしめられずにいるのは、慰安婦として体験しなければならなかった苦難と、韓国社会の偏見や政府の無責任さの結果、罪人であるかのように生きなければならなかったことを表している。ウンソンさんが自身の幼いころを振り返る。「元慰安婦の人たちのことを話すとき、大人たちは声をひそめて話していた。その様子が、ずっと心に引っかかっていた」 やはり共感とは程遠い、さげすみの視線。その後、多くの元慰安婦の当事者たちが声を上げ、問題は広く知られるようになった。日本大使館前に置かれた少女像宛てに手紙が届き、雨の日には少女像に傘を差す人がいる。寒い日には首にマフラーが巻かれる。夫妻は韓国の人たちが少女像に抱く感情を想像する。「それは反日ではなく、共感だ」
 ウンソンさんは、日本で憲法9条を変えようとする動きや米国に置かれた少女像を撤去しようとする動きがあることも知っている。去年、韓国・巨済市に設置された少女像は、いすから立ち上がったものにした。「これ以上、座っているわけにはいかないという意味を込めた」 それでも、少女像が日本で反日の象徴とされていることをどう思うか問われれば、ウンソンさんは努めて穏やかにこう答える。「少女像は歴史を記録し、人々の気持ちを癒すためにある」
 なぜ日本の政治家諸氏が、「少女像」に対して過剰な感情的反応を起こすのか、この話を聞いて、この像を謙虚に見つめているとわかるような気がします。言葉にできないような下劣な犯罪的行為をこの静謐な少女像に糾弾されているようで、心底から怯えているのでしょう。だから、10億円払うからはやく撤去しろと主張しているのではないでしょうか。

 この後ろめたさから逃れるために、この犯罪的行為をなかったことにするため、慰安婦問題に関して攻撃的に振る舞う方々がいるのだと考えます。ブレヒトの『第三帝国の恐怖と貧困』に出演した、東京演劇アンサンブルの俳優・洪美玉氏が、劇のパンフレットに「危機感」という一文を書かれています。一部ですが引用します。
 2012年、中国に残された朝鮮人『従軍慰安婦』の写真展が、ニコンから突然、中止の通告を受けた。写真家の安世鴻(アン・セホン)さんは異議申し立てをして、東京地裁は会場を使わせることをニコン側に命令した。あまり広くないニコンサロンに警備員が三人、入り口には金属探知機ゲートが設置され物々しい雰囲気だった。私は、在特会と呼ばれる人たちと至近距離で出会った。彼(女)らは何時間かおきに会場に乗り込んできて、ハルモニの背景に写っている小さなテレビを指さして「金持ってるんじゃねぇか」とか、写真の中の彼女たちをおとしめることをまくしたてていく。受付だった私は我慢できず「後ろのお客様もいますので、先に進んで下さい」と声を荒げた。すると「お前もどうせ在日だろう」「じゃあ、どうせ色んな男に股開いてんだろう」 怒りで体が震えた。「全部録音していますから」というスタッフの言葉がなかったら、殴りかかっていたかも知れない。その経験はショックであり、恐怖だった。(p.34~5)


 本日の一枚です。
c0051620_6305522.jpg

# by sabasaba13 | 2017-03-04 06:31 | 鶏肋 | Comments(0)

少女像3

 こうした状況の中で、韓国南部・釜山の日本総領事館前に慰安婦問題を象徴する「少女像」が設置されたのですね。
 オリバー・ストーン監督が言うように、"原始的な反応"はやめて想像力を働かせましょう。まずは相手側の主張に真摯に耳を傾けるのが基本です。「ハンギョレ新聞」(2017.1.7)はこう述べています。
 日本の今回の措置は不適切であることを越えて、居直りに近い。釜山に設置された少女像はろうそく集会の市民たちが一昨年末の慰安婦問題合意1周年を迎えて自発的に立てたものだ。民間次元で行われたことに反発して大使を本国に召還し、経済協力活動を中断する措置までしたことは理解し難い。日本のこうした強硬措置は、韓国で早期大統領選挙の可能性が高まるにつれ次の政権で合意の再協議の動きが起きることに備えてあらかじめ釘を刺そうとする計算に基づいていると見られる。
 しかし日本政府は問題の根本原因が合意自体にあることを直視しなければならない。合意当時、日本政府は元慰安婦被害者に対する法的責任認定をはじめとして絶対的に必要な措置をほとんど取らなかった。そのうえ元慰安婦支援として10億円を出すことでこの問題が不可逆的・最終的に解決されたと宣言した。少女像の設置が日本の責任回避と歴史無視に対する韓国市民の抗議であることを日本政府が分からないはずはないだろう。それなのに根本問題には目を瞑り少女像を撤去しろと言って超強硬報復行為をするのは懺悔と正義を求める声を力で押さえ付けようとすることに他ならない。
 日本に強硬措置の糸口を与えてしまった韓国政府の無責任かつ外交力欠落も指摘せざるをえない。当初、韓国政府が10億円の義援金で事実上すべての責任を免除する合意をしたことからして誤りだった。しかも合意直後から韓国政府が10億円を受ける代価として少女像を撤去するという裏取引をしたという議論が起きた。日本政府は今回も少女像の問題に関連して「約束したことは必ず守らねばならない」と求めている。朴槿恵(パク・クネ)政権が自ら招いた外交屈辱である。
 日本政府が報復措置の根拠にしている一昨年末の合意は、正義の原則を損ねたものであるだけに根本的に誤っている。日本は報復措置を直ちに止めるのが当り前である。おりしも韓国の裁判所は合意に関連した交渉文書を公開せよとの判決を下した。政府は今からでも合意内容を全て明らかにし、国民の意思に沿った選択をせねばならない。
 私なりに論点を整理すると、まず「少女像」設置は民間団体によるもので、外交に連動させるべきではない。そして日本政府が慰安婦問題の法的責任をいまだに認めようとしていない。さらに10億円の義援金で、責任を免れようとしている。以上の三点が主張の核心だと思います。
# by sabasaba13 | 2017-03-03 06:26 | 鶏肋 | Comments(0)

少女像2

 しかしこうした日本政府の態度の虚妄さを暴く、従軍慰安婦に関する六点の資料が発見されます。敗戦直前に空襲を避けるために八王子の地下倉庫に避難させておいた書類が連合国軍に接収され、後に返還されて防衛庁防衛研究所図書館に保存されていたのですが、その中から吉見義明氏ら研究者が確認しました。1992年1月12日に加藤紘一官房長官は日本軍の関与を認め、同月17日に日韓首脳会談において宮沢喜一首相は公式に謝罪しました。その後、政府はある程度の資料調査と、韓国人元慰安婦の一部からのヒアリングを行ない、同年8月4日、調査結果を公表しました。その中で日本政府は、つぎのような点を認めました。
一、慰安所の設置・管理、慰安婦の移送については、日本軍が「直接あるいは間接にこれに関与」した。
二、慰安婦の「募集」は、「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」、「官憲等が直接これに加担したこともあっ」た。
三、慰安所における生活は「強制的な状況の下での痛ましいもの」であった
四、朝鮮半島出身の慰安婦の「募集」・移送・管理なども「「甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して」おこなわれた。
五、従軍慰安婦問題は「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」であった。
六、元慰安婦の方々には「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」。(同書p.6~7)
 このように日本政府は、軍や官憲の関与と慰安婦の募集・使役での強制を認め、問題の本質が重大な人権侵害であったことを承認したわけです。このことがすべての議論の出発点になると思います。

 そして今回の問題の出発点となった「日韓合意」とはいかなるものか。「コトバンク」の「知恵蔵2015」をもとに、私の文責でまとめてみます。国交正常化(日韓基本条約締結)50周年に当たる2015年の12月末、日韓両国政府は慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決させること」で合意しました。公式な合意文書は交わされていませんが、日韓の両外務大臣が共同記者会見で次の事項を発表しました。日本の岸田文雄外務大臣は、慰安婦問題を「当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と位置付け、日本軍の関与があったことを認めました。これに「日本政府は責任を痛感している」と続け、「安倍晋三首相が日本国首相として心からおわびと反省の気持ちを表明する」と述べました。元慰安婦への具体的な支援については、韓国政府が設立する財団に日本政府の予算で10億円を一括供出することを表明し、「名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う」と約束しました。
 韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外務大臣はこうした日本政府の措置を評価した上、日本が撤去を求めている在韓国日本大使館前の慰安婦少女像についても、「関連団体との協議等を通じて解決に努力する」と表明しました。また両外務大臣それぞれ、今後、国連など国際社会で、本問題について互いに非難、批判することを自制すると述べました。
 ただし、韓国側が求めていた日本政府の「法的責任」を明らかにした文言はなく、会見後の国会(16年1月)でも、安倍晋三首相が従来の「法的には解決済み」という政府見解に変更はないと強調しています。こうした点に韓国メディアからの批判はあるものの、両国の主要紙や経済界からはおおむね評価する声が多く、欧米メディアも米国の意向が反映された結果として歓迎しています。しかし、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)など元慰安婦の支援団体からは「被害者無視の屈辱外交」という厳しい批判の声が上がり、また慰安婦少女像の撤去にも韓国国民の6~7割が反対しています(合意直後の各種世論調査)。
# by sabasaba13 | 2017-03-02 06:25 | 鶏肋 | Comments(0)