吉田博展

c0051620_6201255.jpg 先日、山ノ神から「吉田博の展覧会を見に行かない」と誘われました。よしだひろし? 日本全国で、20,998人ほどいそうな凡百な名前ですね。山ノ神の知人でしょうか。さにあらず、NHKの「日曜美術館」で知った彼女が言うには、素晴らしい版画家だそうです。さっそく展覧会が開催されている損保ジャパン日本興亜美術館のホームページを見てみると…おお見事な風景版画の数々。ぜひ見に行きましょう。その前に、美術館HPより彼についての紹介を引用します。
 明治から昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876‐1950)の生誕140年を記念する回顧展です。
 福岡県久留米市に生まれた吉田博は、10代半ばで画才を見込まれ、上京して小山正太郎の洋画塾不同舎に入門します。仲間から「絵の鬼」と呼ばれるほど鍛錬を積み、1899年アメリカに渡り数々の作品展を開催、水彩画の技術と質の高さが絶賛されます。その後も欧米を中心に渡航を重ね、国内はもとより世界各地の風景に取材した油彩画や木版画を発表、太平洋画会と官展を舞台に活動を続けました。
 自然美をうたい多彩な風景を描いた吉田博は、毎年のように日本アルプスの山々に登るなど、とりわけ高山を愛し題材とする山岳画家としても知られています。制作全体を貫く、自然への真摯な眼差しと確かな技量に支えられた叙情豊かな作品は、国内外の多くの人々を魅了し、日本近代絵画史に大きな足跡を残しました。
 本展では、水彩、油彩、木版へと媒体を展開させていった初期から晩年までの作品から200余点を厳選し、吉田博の全貌とその魅力に迫ります。
 山ノ神とは現地で待ち合わせ。老婆心ながら、待ち合わせ場所は42階の美術館入口よりも、1階ロビーがいいですね。ソファもあるし、吉田博の紹介ビデオも放映されていました。
 彼女と合流してエレベーターで42階へ。彼の人生に沿った「不同舎の時代」「外遊の時代」「画壇の頂へ」「木版画という新世界」「新たな画題を求めて」「戦中と戦後」という構成の展示です。風景を描いた水彩画・デッサンも素晴らしいのですが、やはり白眉は木版画でした。確かな描写力と構図、時には雄渾な時には詩情豊かな画風、そして色彩の微妙な陰影、透明感、グラデーションの見事さ。いや、こんな凡百な言葉では表現できません、ただ口を開けて「美しい…」と感じ入りながら佇むのみ。グランドキャニオンやマッターホルンヴェネチア、エジプトを画題とした「欧州シリーズ」も良いのですが、やはり「日本アルプス十二題」が傑作でした。神々しいフォルムの山塊、精緻な色彩で表現される山肌と空と雲。溜息が出るような作品群です。図録に、彼の言葉が紹介されていました。
 吾等がかゝる天景に接すると、自分等は人間の境を脱して神になった様な考ひに充たされた。而して人間が賞めたゝいる名勝等いふものは、全く凡景俗景である。人境を去ったこの間の風物は、たしかに山霊が吾等に画題を恵与してくれたのと信じ、都にありて、隅田川や綾瀬又は三河島島の風景を描て、満足し居る画家を気の毒の様に思ひ、又かゝる画家を凡画家として、語るに足らぬ等友と語った。
 この当時に於ては、画題を選むに人間の跋渉した所を選まず、探検的未開の境を探り、人間の未だ踏破せざる深山幽谷、又は四辺の寂寥を破る大瀑布、又は草樹鬱蒼として盛観を極むる無人の森林、とかいふ境地にあらざれば、真の美趣は無きものと信じ、こんな念慮より、吾等はかゝる境土のみ跋渉して居ったから、益々仙骨の観念は向上して、人間といふ念を脱して居ったのであった。(p.15)
 海と帆船と島を画題とした「瀬戸内海集」も素晴らしい。特に「光る海」の、陽光を反射する海の煌きは圧巻です。
 もう一枚、惚れた作品をあげるとすれば、「印度と東南アジア」の中の「フワテプールシクリ」です。建物の内部で座る二人の男、そしてアラベスク模様の透かし彫りを通して室内を照らす穏やかな光。その光の柔らかさと暖かさを、絶妙に、ほんとうに絶妙に表現しています。図録によると、47度摺りで仕上げたとのことです。絶句。

 川瀬巴水の版画も素晴らしかったのですが、色彩表現の絶妙さと画題の雄渾さで吉田博が一枚上かな。誰かが、美術作品の評価は、購入するためにいくら身銭を切るかだ、と言っていました。うーん、うん十万円だったら購入して部屋に飾り、朝昼晩夜、春夏秋冬、眺めて暮らしたいものです。念のためインターネットで調べてみると、20~50万円ほどで購入できそうですが、私の好きな作品はすべてsold outでした。まんざら実現不可能な夢ではなさそうです。

 というわけで、ほんとうに素晴らしい展覧会です。
 オペラ「ばらの騎士」、祇園祭、そして吉田博の木版画と、最近たてつづけに感興の時を楽しむことができました。あらためて、生きるってそう悪いことでもないし、人間もそう捨てたものではないと思います。「利」よりも「美」を求める人が増えれば、日本も世界ももう少し住みやすくなるのに。
# by sabasaba13 | 2017-08-03 06:20 | 美術 | Comments(0)

祇園祭

 先日、はじめて祇園祭の前祭を見てきました。うーん、素晴らしかった。いつのことになるかわかりませんが、後日に旅日記は掲載するつもりですが、とりあえず数葉の写真で報告します。

放下鉾
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伯牙山
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太子山
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放下鉾
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放下鉾
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函谷鉾
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放下鉾
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放下鉾
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岩戸山
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# by sabasaba13 | 2017-08-02 06:27 | 鶏肋 | Comments(0)

ばらの騎士

c0051620_6231720.jpg 以前から見たい聴きたいと念願していたリヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』を、ようやく鑑賞することができました。東京二期会による公演で、セバスティアン・ヴァイグレが指揮する読売日本交響楽団、そして演出はリチャード・ジョーンズです。
 会場は上野にある東京文化会館。山ノ神と二人で早めに家を出て、上野駅構内にある「たいめいけん」でオムライス+ハンバーグ+ボルシチ+コールスローを食して腹の虫を黙らせ、「シーズカフェ」で珈琲を飲んで睡魔を手懐け、準備万端調いました。
 座席は三階正面の最前列、舞台全体を一望できるし、オーケストラ・ピットも覗けるし、足も悠々と伸ばせるし、なかなか良い席でした。さあはじまりはじまり、どきどきわくわく。
 まずは簡単にあらすじを紹介します。舞台は1740 年、マリア・テレジア治世下のウィーン。オックス男爵の結婚に際し、貴族の結婚の印として贈られる銀のばらを運ぶ使者として、元帥夫人は自分の不倫相手オクタヴィアンを選びます。オックス男爵の花嫁となるゾフィーのもとへ銀のばらを運んだオクタヴィアンでしたが、若い二人は一目ぼれ。粗野なオックス男爵からゾフィーを守るため、オクタヴィアンは女装して仲間とともにオックス男爵に一泡ふかせ、婚約を破談させました。そして伯爵夫人が現れてオクタヴィアンとゾフィーの仲を認め、二人を祝福して自らは身を引きます。おしまい。
 という、何とも他愛のないお話です。しかし華やかな序曲がはじまると、もう夢のような世界に惹き込まれました。リヒャルト・シュトラウスが紡ぎだす音楽の何と素晴らしいことよ。時には勇壮に、時には不安気に、時には面白可笑しく、そして時には底なし沼のように甘美に… 華麗で優美なウィンナ・ワルツの数々にも蠱惑されました。中でも身も心もとろけてしまったのは、第三幕最後の場面、伯爵夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重唱です。裏切りに苛まれるオクタヴィアン、未来に不安を抱くゾフィー、そして二人を気遣い祝福して身を引く伯爵夫人。三者三様の想いを乗せながら三つのメロディが甘美に絡みあう、その素晴らしさ。作曲者シュトラウスが、この曲を自分の葬儀で演奏してほしいと望んだのも頷けます。その後に歌われたオクタヴィアンとゾフィーの二重唱では、愛の喜びに包まれながらも、茶々をいれるような木管のオブリガードがからみ、二人の将来への不安を感じさせるなど、芸の細かさにも脱帽。
 歌手陣も申し分なく、中でも出色がオックス男爵を演じた妻屋秀和氏です。豊かな声量や卓抜した表現力もさることながら、男爵を単なる悪役とせず、男の業を漂わせながらコミカルに演じた演技力にブラーボ! 読売日本交響楽団も熱演でした。演出・振付・舞台装置もお見事でした。スラップスティックのようなドタバタの場面での、集団のコミカルなダンスや動きなども秀逸。第三幕ではあえて三角形の部屋として三重唱での三人の想いを際立たせたり、ライトによって壁紙の色を千変万化させたりするなど、舞台装置や照明にも拍手を贈りたいと思います。ブラービ。

 いま思い返してみると、作品全体の半分くらいしか登場しないのですが、伯爵夫人の存在感が強く印象に残ります。特に、第一幕最後の場面で、自らの老いを嘆く静謐な独唱に心打たれました。オクタヴィアンへの愛を諦め、若い二人の前途を祝するのも、この老いの故なのでしょう。
 おばあさん、老マルシャリン(※伯爵夫人の名前)! どうしてそんなことが起こり得ようか。どうして神様がそんなことをなさるのだろう。私自身はいつも同じ人間なのに。神様がそうなさらなければならないのなら、何故私にそれを見せようとなさるのだろう。
 しかもこんなにはっきりと、何故それを私の目から隠そうとなさらぬのか。すべてのことが不可解だ。そして人間はそれに堪えしのぶために生きているのだ。そしてこの「どうして」の中にすべてのちがいがある。
 このオペラの初演は1911年、時は第一次世界大戦が始まる三年前、シュトラウスと台本作者のホフマンスタールは、ハプスブルク帝国の凋落と崩壊を予感し、その墓碑銘として伯爵夫人に歌わせたのかもしれません。

 これまでに見た中でもっとも素敵なオペラであったと、山ノ神と意気投合。こんな素晴らしい人と気を贈ってくれた二期会と読響に感謝するとともに、日本オペラ界の実力もなかなかのものだと実感。これからもお金と時間の許す限り日本のオペラに足繁く通って、応援していきたいと思います。
# by sabasaba13 | 2017-08-01 06:24 | 音楽 | Comments(0)

近江編(20):京都(15.3)

 そして自転車を返却して近江八幡駅へ。明日は桂離宮と修学院離宮を訪れるので、今夜は京都に泊まります。琵琶湖線快速列車に乗って三十分ほどで京都駅に到着。八条口から歩いて十分ほどのところにある京都プラザホテルにチェックインをして部屋に荷物を置き、夕食をとるために駅方面へと行くと、途中に巨大な「イオンモール」がありました。最近よく見かけますがどうも好きになれずに、忌避してしまいます。インターネットで調べると、基本理念は「お客さま第一」、経営理念は「イオンモールは、地域とともに「暮らしの未来」をつくるLife Design Developerです。(※Life Designとは商業施設の枠組みを越えて、一人ひとりのライフステージを見据えたさまざまな機能拡充を行い、ショッピングだけでなく、人との出逢いや文化育成なども含めた"暮らしの未来"をデザインすること)」だそうです。「お客さま第一」か… トランプ大統領も小池百合子都知事もよく使う表現ですが、少々違和感を持っております。アメリカや都民やお客様を第一に考えるということは、他の者は犠牲になってもよいということを含意しているのではないでしょうか。社会や人間ってそんなに単純なものではないと思うのですが。その違和感に言葉を与えてくれたのが、橋本治氏です。『たとえ世界が終わっても』(集英社新書0870)から引用します。
 だから、「この先どうするの?」って話だけど、「大きくならない金儲けの方法」って、実はすごく簡単なんです。「今、本当になにが必要なのか?」っていう実体経済に根差した需要をきちんと見極めて、自分たちの出来る限りのものを作って供給するっていうことだけやってりゃいいわけよ。そういうことやったって「大きく儲かる」ということは起こりませんけどね。でも、そういう「小さな産業」とはいわないけれども、個人商店のようなものがいくつもあれば、自ずとリスクも分散されることになる。それって、ビジネスとして考えても、危機管理の鉄則にかなっているいいやり方なんですよ。シャッター通りもなくなるしね。
 ところが、大国幻想を持っている人たちは、そういうめんどくさいことを考えないわけです。日本は中小や零細企業が多くて、昭和の30年代くらいまでの日本政府は、そういう企業をなくして大きくしなきゃだめなんだと思ってた。そういう流れは潜在的にその後もあるから、「小さな商店はもう成り立たないから、全部でっかく統合して、なんでもかんでもイオンみたいな巨大なショッピングモールにしよう」っていうことになる。でも、そのショッピングモールの業績が傾いたら、「ここの支店は採算割れだから閉店します」になる。そうなると、今度は、その地域の人たちがなんにも買えなくなるわけでしょ? そういう事態は、地域の過疎化によって、もう実際に起こってる。(p.124~5)
 そう、採算割れをしたら閉店するはずです。つまり「お客さま(の持っているお金)第一」ということですね。街のためにイオンモールがあるのではなく、イオンモールのために街がある。イオンモールのために地元資本の小商いが壊滅してもしったこっちゃない。そう、「経済」の申し子です。足早にその付近から立ち去り、京都駅の「京とんちん亭」に入って、ねぎ焼きとしめをいただきました。
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 売店で地酒を購入してホテルへ戻り、明日の旅程に思いを馳せながら就寝。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-07-31 06:22 | 近畿 | Comments(0)

近江編(19):近江八幡(15.3)

 それでは、市街地へと戻りましょう。途中に「元祖 近江八幡水郷めぐり 船のりば」という看板があり、「日本で一番おそい乗り物 元祖手こぎの舟」と記されていました。残念ながら営業はもう終わり、機会があったら乗ってみたいものです。
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 ユニークな透かしブロックを撮影して、旧ヴォーリズ住宅に到着。下見板張りの壁と大きな窓と煙突が印象的な、洒落た住宅です。
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 解説板を転記します。
 この建物は、「近江兄弟社」を創設し、県内を始め(ママ)関西地方を中心に、教会や学校、病院、住宅、商業建築など一千棟を超える建物を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの後半生の自邸である。
 この住宅は昭和六年に幼稚園の教員寄宿舎として建築されたが、建築途中に自宅に変更され、引続いて和室部が増築されている。
 外観は質素であるが下見板張り、両開きの窓、暖炉の煙突などに洋風を感じさせる。
 内部は独立した洋室の間取りや数多く設けられた収納空間、さらに夫人のために日本の生活様式に合わせて和室を取り入れるなど生活面での配慮と機能性を重視したヴォーリズの設計態度がよく表れている。
 なおヴォーリズ記念館として公開されていますが、内部の見学は要予約とのことでした。こちらもぜひ再訪したいものです。

 そして旧八幡郵便局へ、表現のしようがないのですが、ユニークな意匠のひと目見たら忘れられない建築です。解説パンフレットから引用します。
 特定郵便局として1909年に活動を始めて1921年にヴォーリズ氏によって増築設計された建築物である。スパニッシュスタイルの和洋折衷の寄棟屋根のヴォーリズ初期の貴重な建物である。朽ち果てて原型を失った建物を、現在は「NPO法人 ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会」の1人1人の熱意により再生中で、コミュニティー施設として一般に開放されている。
 中に入ると、ヴォーリズ関係の本や資料を販売していました。資料を二点購入し、係の方としばし談笑。私がヴォーリズ建築を探訪していると話したら、破顔一笑、二階に案内してくれました。ぼこぼこの床を示しながら話してくれた再生の苦心談などを、興味深く拝聴。どうもありがとうございました。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-07-30 06:28 | 近畿 | Comments(0)

近江編(18):近江八幡(15.3)

 ひるがえって同じような状況が、いま、再現されていることに憂慮します。格差社会の再現に対して、その原因や責任を究明・批判しようとしない知的怠惰、あるいは怯懦・諦観。格差社会をつくりあげた自民党・公明党、官僚、財界に牙を剥かず、弱者・少数者・他国に対して牙を剥く人びと。戦前の支配者たちは、格差社会を維持するために戦争による植民地拡大という道を選びましたが、現在の支配者たちはどういう道を選ぼうとしているのでしょうか。アメリカの世界戦略に加担してアメリカ隷下の軍隊として戦争をするのか、あるいは共謀罪によって"日本の敵"を大量につくりだし、国民の不安とストレスをぶつけさせてガス抜きをするのか。はたまた中国・韓国・北朝鮮への敵意と憎悪をさらにかきたてるのか。優秀なアスリートを大金かけて育成し、オリンピックなど国際的スポーツショーで活躍させて、ストレスを解消させるのか。
 おそらくその組み合わせでしょうね。いずれにせよ、「他に適当な人がいない」という理由で安倍上等兵内閣を支持する方が多いのですから、また過半数の議席を得た政党は白紙委任状を持っていると考える方、政治や未来や他者に関心をもたず「今だけ金だけ自分だけ」と考えている方も多いのですから、自民党・公明党+官僚+財界は楽なものです。

 でも… マーチン・ルーサー・キングの言葉です。
 本当の悲惨は、独裁者の暴虐ではなく、善良な人々の沈黙である。

 結核のことから、だいぶ話が大きくなってしまいました。なお戦後の結核患者について、小熊英二氏がご尊父から戦前・戦中・戦後の日本について聞き取りをした貴重な記録『生きて帰ってきた男』(岩波新書1549)の中で次のように述べられていました。後学のために引用します。
 結核予防法は1919(大正8)年に制定されたが、1951年の改正により、結核患者の従業禁止と療養所入所が基本方針となった。周囲への感染予防のため、都道府県知事は結核患者の就業を禁止し、指定の結核療養所に入所命令を出せることとなったのである。
 入所後は、医師から結核が完治したと認められるまで、療養所から出ることはできない。その代わり、療養所に入った患者の診察や治療の費用は、保護者から申請があれば都道府県が負担することとされた。
 このコンセプトは、患者の隔離収容と扶養を基本原則としており、1953(昭和28)年制定の「らい予防法」とほぼ同じであった。治療費が自己負担だった戦前の結核患者の状況と比べれば、患者の経済状況は改善された。しかし一方で、社会から隔離された患者は、いわば「飼い殺し」の状態となり、何年にもおよぶ長期収容で社会性を喪失しかねない。療養所内での人権状況なども問題になり、「らい予防法」は1996年に、結核予防法は2007年に廃止された。
 また謙二は、療養所内の生活費のために、生活保護を受けていたことは覚えている。1950年に改正された生活保護法は、新たに国籍要件などを設けて日本国籍所持者に保護を限定したが、同時に素行不良者などへの保護欠格要件を廃止し、広範囲な救済に方針転換した。この改正が行なわれた1950年には、厚生省の予算の46パーセントが生活保護に費やされたという。
 しかし、謙二がうけとっていた生活保護による生活費は、当時の規定による月額600円であった。岡山療養所の結核患者だった朝日茂が、この金額は憲法25条の規定である「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を侵害しているとして、1957年に訴訟を起こしたことはよく知られる。
 この訴訟での原告側主張によると、月額600円では補助栄養食である生卵の購入にも事欠き、一年に一枚のパンツや、二年に一枚の肌着も買えなかったという。「朝日訴訟」とよばれたこの裁判は、1960年の一審では被告側勝訴、1963年の二審では請求棄却となった。そして1964年の原告の死亡を経て、1967年に最高裁で訴訟終了となっている。(p.216~8)

# by sabasaba13 | 2017-07-29 07:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(17):近江八幡(15.3)

 そして見逃せないのが、この天皇を頂点とする格差社会が、貧者=民衆に恐怖を与え、抵抗力を奪うという点です。『無意識の植民地主義』(野村浩也 御茶の水書房)から引用します。
 恐怖政治=テロリズムは、「抵抗したら殺されるかもしれない」という「暴力の予感」を被植民者に喚起することによって機能する。重要なのは、暴力や死を予感させることなのだ。その点では、失業もほとんど同じである。職を奪って食えなくさせ、そのまま放置しておけば、そのうち確実に死ぬのだから。それは、直接殺す手間をはぶいた、いわば時間差殺人である。したがって、失業させることもまた暴力であり、死を予感させる暴力なのだ。(p.204~7)
 失業とは、死を予感させる暴力であり、ある種のテロリズムであるという視点は斬新です。失業を含めた貧困の淵に立たせているかぎり、民衆は恐怖に怯え、抵抗力を失い、格差社会というシステムを受忍するしかないのですね。
 しかしその受忍が限界を超え、予感ではなく死に直面したらどうなるのか。世界恐慌(1929)の影響による昭和恐慌(1930~31)が、日本をそのような状況に追いこみます。企業の操業短縮、倒産、産業合理化による賃金引下げ、人員整理、失業者の増大。そして農村では、農産物の価格暴落、生糸輸出の激減、豊作による米価下落(1930)と、翌年の大凶作。都市失業者の帰農による農家の困窮。その結果、『大系 日本の歴史14 二つの大戦』(江口圭一 小学館)によると、下記のような凄惨な事態が現出しました。
 特に夜の分は顔をさだかに見別け難いのを幸い、一残飯商店に二百名乃至三百名が列をなして押かけ、むしろ凄惨の気をみなぎらせている。…なかには相当の服装をしている者が子供を乳母車に乗せて通うなど、その現場は極度に窮乏化した最下級生活者の縮図をここに展げ、残飯商人は時ならぬ好景気に恵まれている。…豊橋の市街地に現れた疲弊困窮の姿は末世の感漸く深きものがある。(『名古屋新聞』 32年6月18日) (p.178)

 午前四時に起床して日没まで働き、一二石の米収をうるが、六割八分の八石一斗を小作米として地主に納めるので、手もとには三石九斗しか残らず、就眠時間四時間を余儀なくされる養蚕は三〇年の繭価の暴落で一六貫が七三円にしかならなかったため、売却した米一石の代金二五円をあわせ、九八円が全収入であった。ここから養蚕具代・肥料代・税金・電灯代を差引いた一七円二〇銭が四人家族の一年間(一か月ではない)の全生活費であった。入浴は月三回、家は雨もりがする。「俺達の生活のなかに、ただ寝る時間以外に幸福という一瞬の時間もない」(加茂健「此の窒息から免れたい」『中央公論』 30年10月) (p.179)
 まさしく、死に直面した状況です。こうなると弱者・貧者といえども抵抗をせざるをえず、事実、労働争議・小作争議もこの時期に激化しています。天皇を頂点とする格差社会というシステム、「国体」が崩壊の危機に瀕したわけですね。支配者たちにとって、システムを救う選択肢は二つあったと考えます。
 ひとつは、「国体」を部分的に是正して富者の富を貧者に再分配すること。『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(澤地久枝・佐高信 岩波現代文庫)のなかで、澤地氏はこう述べられています。
 五味川(※純平)さんとよく話し合ったのは、では満州事変を起こして満州をとらなかったら日本人は飢えたのか、という点でした。
 「なぜ日本は飢えるか」。五味川さんは、みすず書房の『現代史資料』に集められていた左翼的なビラの一枚を見て、「この視点がなかったんだ」と言った。それは、英文を訳したビラなんだけれど、侵略しなくても分配をちゃんとやっていけば、この島国の中で十分食べていける、という視点のものでした。こういう視点がなかった、落ちている、と五味川さんは言っていました。勝てないから戦争をやらないんじゃなくて、勝てても戦争はやっちゃいけないし、食べられないからよその国へ侵略すると考えがちだけれども、侵略しなくても、富をきちんと分配すれば、十分食べていける。避けようとすれば避けられた戦争だった。しかし、この視点が戦争中も今もない、と。(p.61)
 しかし既得権益に固執し格差社会を部分的にでも是正することを嫌悪した軍部は、もうひとつの選択肢、戦争による植民地拡大の道を選びました。そして官僚・財界・政治家もこれに追随します。その惨たる結果については贅言を要しないでしょう。
 問題は、格差社会の犠牲者である貧者・弱者がこの選択肢を支持したことですね。なぜ格差社会の是正ではなく、侵略戦争を求めたのか。戦争と植民地獲得による好景気への渇望、中国人に対する差別意識、中国におけるナショナリズムの軽視、日本の軍事力への過信といった理由が思い浮かびます。中国を犠牲にして国益をはかろうとする倫理的頽落、天皇を頂点とする格差の構造を究明・批判しようとしない知的怠惰、あるいは怯懦・諦観。高等教育が充分に普及していなかった戦前の社会状況を考慮すれば、そこまで言うのは酷かもしれません。しかしせめて知識人はその責を担うべきだったと思います。
# by sabasaba13 | 2017-07-28 06:25 | 近畿 | Comments(0)

近江編(16):近江八幡(15.3)

 そしてヴォーリズが結核療養所にかけた思いを理解するためには、結核患者がおかれていた状況を知らなければならないでしょう。私も、正岡子規の『病牀六尺』や『仰臥漫録』、徳富蘆花の『不如帰』、堀辰雄の『風立ちぬ』、梶井基次郎の『冬の日』を読んで多少の知識はあったのですが、『ドキュメント 恐慌』(内橋克人 社会思想社)によって患者と家族の凄絶な苦境を知り、呆然としました。
 庶民にとって、病気はすべての「終末」を意味していたのだ。なかで恐れられたのが結核である。ひとたび不治の病"肺病"にかかると、本人はいうまでもなく家族もろとも泥沼の中にひき込まれてしまった。
 「あのころ、日赤病院の二人部屋で入院料は一日七、八円でした。治療費はむろん別ですよ。三食の食事代とベッドだけで、それだけかかったんです。一カ月入院しますと、もう大変なもので、まず二〇〇円はかかったでしょうね。普通のサラリーマン家庭ではとてもとても…」
 結核は入院一カ月ですむはずがない。毎月毎月、二〇〇円ずつ病院に支払っているうちに借金がかさむ。せっかく入院しても費用がつづくはずがないから、死ぬのを覚悟で退院していく人が患者全体の七、八割はいた-東京・信濃町の慶応病院で恐慌のころ、ずっと看護婦をしていたという山田りつさんが、暗い表情で回想するのだ。
 思いつめた顔つきの家族が、廊下の片隅で医師にヒソヒソ何か頼み込んでいる。(略)後で聞いてみると、医師は「早く死なせてやってくれ、と哀願するんだ」と、さもうんざりしたといった表情で教えてくれたそうだ。同じ安楽死を望む、といっても本人を苦しみから解放してやりたい、というのではない。これ以上"ぜいたく病"の肺病で患者に入院生活を続けられたのでは、家族は「一家心中」しなければならないから…という訴えだった。
 山田さんにとって、いまでも忘れられないのは、ある近郊農家でのケースである。都会に働きに出ていた娘が過労で倒れた。どうやら胸(結核のこと)らしいという。そのうちゴホンゴホンとやり出し、いつか血痰もまじり始めた。本人は家に帰りたいという。だが当時、結核は伝染病とあって、閉鎖的な農村では患者の出た家は村八分にされかねないほどのきらわれよう。一人残らず家族は患者の希望に猛反対だった。が、そうもいっておれず、望みを入れて患者を帰郷させることにしたのだが…
 (略)私が奉仕の気持ちで出かけてみますと…患者は牛小屋に隔離され、食事も特別の食器、用便も小屋の中ですませていたそうだ。家族はただひたすら、本人の死ぬのを待っている。
 そのうち、とうとう娘は亡くなった。
 「お葬式が終わってから、家族は牛小屋に火をつけました。病菌もろとも焼きつくそうと考えたのでしょう。飼っていた牛にも、肺病がうつったと思ったのでしょうか、牛もろとも焼いてしまったんです…」
 ぼうぼうと火の手をあげる牛小屋。その中でただ命の絶えるのを待つだけだった患者の恨み-山田さんの目には、いまでもそれが見えている。(p.65~7)
 一読、肌に粟が生じました。もちろん治療法の遅れなど時代の制約があったのは重々承知していますが、それにしても…それにしても、です。巨額の軍事費を削減して、入院費や治療費の安い結核療養所を数多くつくることはできなかったのか。おそらく物理的には可能だったと思いますが、近代日本はその選択肢をとらなかった。なぜか? おそらく、富者を優遇し貧者を放置する、激烈なる格差社会こそが、近代日本の本質だったからだと考えます。『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)のなかで、河原宏氏がこう述べられています。
 富める者がますます富み、貧しい者はますます貧しくなる趨勢を放置する国、粗暴な軍人と貪欲な資本家、汚職まみれの政治家と奸佞な官僚が「神」なる天皇を頂いて支配する国だった。(p.31)
 そう、天皇の権威を隠れ蓑にして官僚・政治家・軍人・資本家が、民衆を搾取する格差社会です。そして、このシステムのことを「国体」と言い表していたのだと思います。このシステムの維持こそが、彼らにとっての至上課題であり、それに一指も触れさせないための法律・規制・メディア統制・教育などを網の目のように張り巡らせたのでしょう。かの治安維持法(1925)が「国体ヲ変革」しようとする組織を処罰対象にしたのも宜なるかなです。
# by sabasaba13 | 2017-07-27 06:26 | 近畿 | Comments(0)

近江編(15):近江八幡(15.3)

 すぐ近くには近江兄弟社のオフィス・ビル、そして丁稚すがたの「飛び出し人形」がありました。
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 ヴォーリズと、彼に花を捧げる少女の像も印象的ですね。彼に対する近江八幡市民の感謝の意を表しているのでしょうか。
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 それではヴォーリズ記念病院へと向かいましょう。西ノ湖にそって十数分ほどペダルをこぐと、ヴォーリズ記念病院に到着です。ヴォーリズ建築事務所で働いていた遠藤観隆(かんりゅう)が、設計の才能を発揮しはじめながらも肺結核で死亡してヴォーリズを大いに悲しませ、彼は療養院建築を決意しました。それに多大なる協力をしたのが、米国ニュージャージー州の菓子商を営む裕福な家庭の婦人であったメアリー・ツッカーです。京都YMCAのフェルプスの紹介で来幡した彼女は、ヴォーリズを訪れてその事業に深く共鳴し、巨額の寄付をしました。これによって1918(大正7)年に肺結核の療養所として「近江療養院」が開設され、現在のヴォーリズ記念病院へといたります。
 ツッカーハウスは、その近江療養院の旧本館です。
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 旧五葉館(希望館)は、結核患者の病棟として建てられました。五つの病室が楓の葉のように五方向に突き出ていることで、太陽の光をいっぱいに受けられる構造になっています。
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 礼拝堂は、結核などで亡くなった方々の霊を慰め、患者さんの心のケアをするための施設です。
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 いずれも、使う人に寄り添い、使う人のことをとことん思いやったヴォーリズの姿勢がひしひしと伝わってくる好建築でした。

 なお守衛所も愛らしい好建築でした。
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# by sabasaba13 | 2017-07-26 06:24 | 近畿 | Comments(0)

近江編(14):近江八幡(15.3)

 その近くに「近江商人とは」という解説板がありましたが、なかなか興味深く示唆に富む内容ですので、その一部を紹介します。
近江商人語録

商人の本務
 商人に必要なのは才覚と算用と言われます。しかし、近江商人は巧妙な計算や企てを良しとせず、世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することを本務としています。

三方よし
 「売り手よし、買い手よし、世間よし」を表します。売り手と買い手の双方だけの合意ではなく、社会的に正当な商いや行商先での経済的貢献を求めています。古くから、企業の社会的責任を果たしてきた近江商人を象徴する言葉です。

武士は敬して遠ざけよ
 地域経済を左右するほどの実力者となると、大名との付き合いも多くなります。しかし、近江商人は権力に依存して利益を得ることを良しとはしませんでした。

お助け普請
 近江商人は地場産業の育成や地域の活性化があってこそ商いが行えました。よて、お互い様という観念や地域への貢献を疎かにすることはありませんでした。凶作や不況がある時には、進んで自宅や神社仏閣への改築等の造作と行っていました。今で言う公共事業的なものを率先して実施しています。

薄利多売
 一度で大きな利益を得るような商いは良しとせず、長期的な商いを行うことを求めています。そのため、日々の努力と始末が欠かせませんでした。
 うーむ、こうしてみると、私たちの考える「経済」と、近江商人の考える「商い」ってまったくの別物であるように思えてきました。近江商人が考える「商い」とは、需要と供給を調整すること、社会的責任を果たすこと、権力に頼らずに行なうこと、地場産業を育成すること、地域を活性化して貢献すること、そして利益が薄くとも息の長い商売をすることのようです。
 いまの「経済」とは、この真逆を考えるとその輪郭が見えてきます。需要をむりやりつくりだし、社会的責任など糞くらえ、権力を買収して頤使し、地場産業を潰し、地域を犠牲にし、ひたすら眼前の利益だけを追い求める。最近読んだ『たとえ世界が終わっても』(集英社新書0870)の中で、橋本治氏がこう述べられていました。
 「繁栄するかどうか」だけを考えていると、「繁栄か、破綻か」の二択になるけど、「繁栄」じゃなくなっても、経済は存在するの。だから、経済はその「必要とされている」範囲で回っときゃいいんだけど、そこで「欲望」を野放しにしてしまうから、みんな「利幅が薄いと嫌だ」と言い出すんですね。
 それで、世界経済を「儲かるもの」にしようと、どんどん大きくしていって、ついには実体経済が飽和しかけると、「実体経済と離して、金融中心で経済をもっとデカくすれば、まだまだ投資する先はある」って言って、余分な金をあちこちにつぎ込んでいる。あちこちに金をつぎ込んだやつが儲けられるように設定することを、グローバリズムっていうの。
 でも、そんなことやったって、実際はもう飽和状態なんだから、それに対して実体経済は応えられない。だから、どんどんと綻びが出始めて、そのしわ寄せが、実体経済で生きている弱い立場の人間に向かうの。それが失業率の増加や、非正規雇用の増加ですよね。
 だったら損得考えないで、「世界経済は回せていける範囲のぎりぎりで回ってりゃいい」っていうようなことを、金融をやってる人がホントは考えりゃいいのよ。…彼らにとって、それを考えるっていうことは、実は大損することなわけです。でも、「自分たちが大損すれば、世界経済は救えるかもしれない」ぐらいの考え方しないと、もうだめなんですよね。正義というものは、いつも自己犠牲を要求するものなんだよ。(p.221~2)
 そうですよね。弱者を犠牲にして大儲けしようとするのが「経済」であり、それがテロリズム、地域紛争、難民を生み出しているのだと思います。これまた最近読んだ『経済的徴兵制』(布施祐仁 集英社新書0811)で知ったのですが、その張本人であるアメリカの陸軍作戦教範がそれを認めているのですね。引用します。
 グローバル化は、今後も世界的な繁栄をもたらし続けるが、同時に世界中にテロ広げるだろう。相互依存経済は巨大な富の獲得を可能にした。失敗のリスクが大多数の者に持たされている間に、この富の恩恵が少数の者の手に集約され続ける。この富の不平等な配分は、「持つ者」と「持たざる者」の関係を生み出し、しばしば紛争の種となる。(中略) 専門家は、2015年までに最大で28億人が(その大多数は発展途上国の「持たざる」地域の人々だろう)貧困レベル以下の生活となっていると予測している。これらの人々は、過激派グループの勧誘に弱い。(中略) グローバル化はすでにいくつかの国を置き去りにしており、これからさらに多くの国が加速するテンポについてこれなくなるだろう。その結果、これらの国の住民は苦しみ、そのフラストレーションから急進的なイデオロギーを受け入れやすくなる。(米陸軍省「FM3-0 Operations」 2008年2月) (p.218~20)
 今こそ近江商人の「商い」に学ぶときだと思います。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-07-25 06:21 | 近畿 | Comments(0)