関東大震災と虐殺 39

 10月10日、亀戸事件が初めて公表されましたが、軍隊の行為は戒厳令下の行動として当然のこととされました。自由法曹団の布施辰治、山崎今朝弥両弁護士らは事件の真相を追及して司法権の発動を要求し、南葛労働会や総同盟は糾弾運動を行い、小牧近江、金子洋文らの種蒔き社は、自由法曹団が作成した資料に基づいて殉難記『種蒔き雑記』を発行したが、いずれも黙殺されました。(スーパーニッポニカ[小学館])

 10月初旬から11月下旬にかけて、「在日本関東地方罹災同胞慰問班」が虐殺された朝鮮人犠牲者の調査を行ないました。調査目的を表に出すと警視庁が許可しないので、罹災同胞慰問を名目にしたのですね。しかし日本治安当局の朝鮮人死体隠蔽政策のために調査は困難を極めました。調査に携わった韓目見相氏は、戦後にこう証言されています。
 いかに調査団が綿密に調査したことだったが、震災から既に二箇月を経過していたし、「鮮人騒ぎ」が全く事実無根のデマ(官製の)ために起きた日本の失態であることが明白となり出したので、不幸失脚の同胞の死体を隠ぺいして証拠いん滅を(官の指令で)してしまったことがあるので、なかなかその実数は正確を期することが、できるものではなかった。(④p.86)
 その調査結果によると、朝鮮人犠牲者の数は6,661人でした。(①p.288~9) 参考までに、司法省調査書では233人、内務省警保局の調査では231人となっています。(①p.230)

 10月20日、司法省が朝鮮人の犯罪を発表しました。それに先立ち、『国民新聞』(1923.10.1)でその趣旨をこう説明しています。
 一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実が喧伝せらるゝに至った結果、(中略)往々にして無辜の鮮人、内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加える事犯が生じた。
 ブラーボ。ここまで卑劣で人を愚弄する作文にはなかなかお目にかかれません。眼福眼福。朝鮮人による暴動・放火は事実あった、よって官憲の流布した情報は流言ではなく責任を問う必要はない。自衛のための殺人だったのだから、軍隊・警察・自警団による虐殺の責任を問う必要もない。内地人(日本人)も殺されたのだから、朝鮮人への差別意識によるものではない。そういうわけですね。
 つまり朝鮮人による凶悪な犯罪があったと証明すれば、国家権力・民衆の責任は免れることができます。それでは司法省の発表を見てみましょう。まず強盗・放火・強姦・殺人・毒殺予備などの罪を犯した朝鮮人は約120名で、ほとんどの氏名は不明。氏名がわかっている者4名は、所在不明あるいは逃亡あるいは死亡。強盗、爆発物取締罰則違反などによる容疑者は3名で、取調べ・予審・公判の最中。もちろん判決は確定していないので犯罪者ではありません。窃盗・横領などの容疑者は16名ですべて氏名はわかっていますが、これは軽犯罪です。
 よってここに発表された朝鮮人の「犯罪」は架空のもので、国家や民衆の責任を隠蔽するために捏造したものと言わざるを得ません。(④p.82~4)

 11月7日。中国政府による、王希天および中国人虐殺を調査する特別委員派遣の決定を受けて、山本権兵衛内閣はこの事件を徹底的に隠蔽する方針を決めました。(⑩p.169~73)

 12月26日、帝国議会衆議院本会議で議員永井柳太郎は、内務省警保局長や埼玉県内務部長などの官憲が朝鮮人が暴動を起こしたという流言を発した証拠を挙げて朝鮮人虐殺の国家責任を追及し、政府は遺憾の意を表する意思はないのかと詰問しました。すると山本権兵衛首相は、「政府は起こりました事柄に就いて目下取調べ進行中でござります」と発言して、謝罪を回避しました。
# by sabasaba13 | 2017-11-23 09:38 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(51):彦根城(15.3)

 内堀に沿って走り大手門橋を渡って自転車を置き、ゆるやかな坂道をのぼっていくと、廊下橋(非常時には落とし橋)と天秤櫓が見えてきました。
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 解説板を転記します。
 この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つといわれている。嘉永7年(1854年)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ西半分は落とし積みになっている。
 廊下橋を渡って天秤櫓を抜け、ふたたびゆるやかな坂道をのぼっていくと、時報鐘がありました。鐘の音が城下にとどくようこちらに移設したそうです。その先にあるのが、本丸の表口を固める太鼓門櫓です。
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 ここをくぐり抜けると、彦根城天守に到着です。江戸時代初期、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城で、譜代大名・井伊氏14代の居城。現存十二天守のひとつでもあります。高校の修学旅行で訪れて以来の再会です。
 まずは外観をじっくりと拝見。リズミカルに並ぶ千鳥破風とアクセントとなる唐破風、花頭窓に高欄付きの廻縁、城らしからぬ瀟洒な意匠です。それでは中に入りましょう。装飾のない武骨な空間ですが、戦国時代の息吹を感じます。博物館・資料館のように展示で埋め尽くされる天守もあるのですが、この方が往時の雰囲気が感じられて好感が持てます。
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 急な階段をのぼって最上階へ行くと、琵琶湖や彦根市街を一望できました。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-11-22 06:20 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 38

 よって裁判も杜撰かつ醜悪な様相を呈しました。例えば、当時の船橋警察の警官だった渡辺良雄氏は、裁判について次のように記しています。
 九月二十日頃から、自警団、その他の殺人犯人の検挙が開始された。私達は、重大問題が起ると心配しながら、浦安町や行徳町方面に早朝出張して、犯人多数を連行してきた。その時、船橋町の稲荷屋という料理屋に、千葉から裁判官と検事や書記が来て、二階に陣取っていた。彼等は、連行して来た犯人を次々と呼び出し、検事から最初は「君は執行猶予にする」と予言して、取調べを始めた。すると犯人は、素直に犯行を認める。そこで隣りに控えている判事の手に渡すと、判事は、「お前は二人殺したか。それでは懲役二年、執行猶予三年に処する。わかったか。」 「控訴するか」 判事が犯人に尋ね、「控訴しません」と答えが返ると「それでは帰って宜しい」というような処置が行われたので、私達はこれを一日裁判と呼んだ」(①p.257)
 元本庄署巡査・新井賢次郎氏の証言です。
 裁判もいいかげんだった、殺人罪でなくて騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたがほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれたが検事は虐殺の様子などつとめてさけていたようで最初から最後まで事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして安藤刑事課長など私に本当のことを言うなと差し止め、実際は鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上の本当のことは絶対に言うなと私に強要した。私も言われた通り証言した。(①p.255)
 こうした裁判の名に値しない裁判の結果はどうであったのか。1923年10月1日より翌年2月末日までの『法律新聞』を調査した研究者・松尾尊允氏によると、12件、125名の被告のうち無罪2名、執行猶予91名、実刑32名、そのうち最高刑は4年(2名)でした。そして、警察を襲撃して朝鮮人を虐殺した被告や、日本人を虐殺した被告に比べて、朝鮮人を虐殺した被告が執行猶予となるケースが多くありました。その上、これらの実刑被告の多くは翌年1月26日、皇太子の結婚の際の恩赦を受けて、実質収監は三ヵ月余にすぎませんでした。そればかりか、事件の余燼の収まった1926年にはこの立役者たちの功績に叙勲が行なわれ、恩賞が与えられました。(①p.257、④p.85)

 なお姜徳相氏の以下の指摘はとても重要だと思いますので、引用します。
 各地で裁判を受けた人たちの職業別統計を検討すると、鳶職、桶屋、馭者、土工、職工、大工、製管工、日雇など、ほとんどがいわゆる「下層細民」に属する人びとであることがわかる。
 米騒動のとき政府批判の先頭に立った立役者たちが、朝鮮人虐殺の下手人になっているのである。おのれ自身搾取され、収奪され、日本の歴史に米騒動を刻印した人びとが、自分たちの受けた差別へのうっせきした怒りの刃をもっと弱いよそものにむけたことで解消したのである。これは日本帝国主義が植民地を獲得したことの盲点であり、植民地制度によってさずけられた特権であった。特権の上にたって、自分たちよりもう少し貧弱で、圧殺されている存在を見下して安心したのである。朝鮮人は軽蔑し圧迫するに適当な集団とみられたのである。(①p.252)

# by sabasaba13 | 2017-11-21 06:34 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(50):彦根(15.3)

 それでは滋賀大学へと向かいましょう。途中にあったのがスミス記念堂(旧須美壽記念禮拜堂)。解説板によると、彦根の風土と人々をこよなく愛した米国人牧師で、彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミスが、1931(昭和6)年に私財を投じて建てた礼拝堂です。扉・唐破風・千鳥破風を飾るブドウや十字架の彫り物も見事な和風教会堂です。
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 そして滋賀大学経済学部講堂(旧彦根高等商業学校講堂)に到着。屋根にちょこんと乗っかった小さな塔がキュートな建築です。解説板から引用します。
 建物は、大正時代における旧専門学校の講堂の典型的な建築様式として代表的なもので、屋根上にドーム型の換気塔や、ドーマー窓型換気口を六ヶ所設けるなど、現存する学校建築としては数少ない貴重なものとして、往時の瀟洒な佇まいを今に見せている。
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 すぐ近くにあった陵水会館も素敵な建物ですが、ヴォーリズの設計でした。水平線を強調したフォルム、リズミカルに配置された様々な形・大きさの窓、アクセントとなるベランダ、洒落てますね。こちらも解説板を転記します。
 この会館は、経済学部の前身である旧彦根高等商業学校の同窓会(陵水会)館として昭和13年11月に建築された。
 建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏(日本名一柳米来留)の設計によるスペイン風のゴシック様式木造モルタル造りで、構造の巧妙さと風格の高さで、建築界でも著名な建物である。
 昭和53年に陵水会から国に寄付されその後昭和58年に大改装が行われたが、外観はまったく建築当時の原形そのままに洗練された姿を残している。
 平成9年5月文化財保護法の規定に基づく「文化財建造物」に、国立大学では東京大学安田講堂に次いで二件目の登録となった。
 ちなみに、敷地は旧彦根藩役宅のあった中島と藩米倉のあった内船町に通じる水濠を、学生の集団勤行により埋め立て造成したものである。
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 なお近くにあった洋館も、ヴォーリズの設計によるものでした。1924(大正13)年に建てられた旧彦根高等商業学校の外国人教員住宅で、今は「ひこね市民活動センター」として利用されているそうです。珍しい意匠の透かしブロックを撮影して、それでは彦根城へと参りましょう。
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# by sabasaba13 | 2017-11-19 05:56 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 37

 9月16日、いわゆる甘粕事件が起こります。スーパーニッポニカ(小学館)と国史大辞典1(吉川弘文館)を参考にして、概要を紹介します。

 無政府主義者の大杉栄はこのころ柏木に住み、みずから夜警にも参加していました。16日、妻の伊藤野枝とともに鶴見に住む妹を見舞い、その子橘宗一を同行しての帰り、東京憲兵隊麹町分隊長甘粕正彦大尉らに連行され、憲兵隊本部において3人とも絞殺され、遺体は古井戸に投げ込まれました。大杉が行方不明になると、友人安成二郎らが探索を始め、9月20日の『時事新報』『読売新聞』も号外で大杉殺害を報じたので、軍も隠しきれず、また軍と警察の対立もあって、同日付けで甘粕を軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、小泉六一憲兵司令官、小山介蔵東京憲兵隊長を停職処分とし、24日に事件の概要を発表しました。軍法会議は12月4日、甘粕に懲役10年、憲兵隊の森慶次郎曹長に同3年、部下3名に無罪の判決を下しました。犯人は麻布歩兵第三連隊といわれますが、そこには秩父宮がいるため甘粕らが身代りになったといわれます。1923年12月26日の大杉の葬儀の際、遺骨が右翼団体大化会の岩田富美夫らに奪われました。その報復のため無政府主義者古田大次郎らは翌年9月1日、福田雅太郎大将狙撃事件を起こします。この大杉の死によりアナキズム運動は大打撃を受けることになりました。
 なお甘粕雅彦のその後ですが、1926年10月に釈放され、陸軍の費用で渡仏しました。そして1929年には満洲に渡って諜報謀略活動に従事し、協和会総務部長、満洲映画協会理事長を歴任し、大いに権勢を振るったのは、この事件の代償といわれます。1945年8月20日、ソ連軍による侵攻のなか自殺、辞世は「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」でした。
 既述の王希天事件は、功名心に駆られた現場の暴走という面が強いように思いますが、この甘粕事件は感触が違います。混乱が収まり、社会主義者による蜂起はないとほぼ判明した状況の中で起きた事件です。国家権力にとってこの先も有害な大杉栄を、軍あるいは政府の中枢が命令して殺させた計画的事件ではないでしょうか。戒厳令が解除されないうちに、"処理"してしまおうとしたのかもしれません。

 そして自警団の検束と検挙が、9月17日から東京で、9月19日から群馬・埼玉で、9月20日から横浜・千葉ではじまりました。しかし当然の如く、流言を流布し殺人を教唆・黙認し、みずからの手も血で染めた官憲の責任を不問にしてよいのかという声があがります。例えば上杉慎吉(法学者)は「警察官憲の明答を求む」とし、「憲兵方面では甘粕大尉が軍法会議に移されたと云うだけで、大杉と野枝と子供と三人ころしたと云う事実はまだ疑わしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも即時罷免其他責任を明にする処置を執らねばならぬであろう」(『国民新聞』1923.10.14)と指摘しています。また菊地義郎(植民政策学者)らも、自警団の幹部、行動右翼、町村長などが自警団員の罪に比べて「人殺しまで逆上させた宣伝役を今なお縛らないのはなぜか」「一段と油をかけて逆上させ後で縛るなんて芸は部下の警察ではやるまいな」「県知事は恥知らずの標本」「内相の責任重大」などと騒ぎ、牽制の詰問状を発し、「死を賭しても汚名を雪ぐ」とすごみ、「私は三田警察署長に質問する。九月二日の夜××襲来の警報を貴下の部下から受けた私どもが御注意によって自警団を組織した時『××と見たらば本署につれてこい、抵抗したら○しても差し仕えない』と親しく貴下からうけたまった、あの一言は寝言であったか、それとも証拠のないのをいいことに覚えがないと否定されるゝのか」(『東京日日新聞』 1923.10.22)と、官憲の責任を鋭く追及しています。(①p.254~5)

 自警団の側からも批判は起きました。例えば関東自警団同盟からは、次のような声があがっています。(①p.251~2)
 災害当時我等に告げて『某々方面より鮮人襲来の虞れあり男子は武装せよ女子は避難せよ鮮人とみれば倒(殺)しても差支へない、主義者と判れば殴っても宜い彼らは凶器を携へて到る処に殺人強盗陵辱放火等あらゆる悪事を働いている』とふれ廻ったのは何者であったか。

 警察と軍隊との欠を補って…一命を賭して防禦の任に当たった幾多の同志は何れも殺人暴行傷害の極悪人として起訴収監せられつゝあるではないか。

 若しそれ防禦のための過失が果して悪いとするならば自警団以外の手によって行われた多くの殺人傷害はこれまた何とする。
 最後の批判は痛烈です。自警団による朝鮮人殺人が犯罪ならば、"自警団以外の手"、つまり軍隊や警察が行なった殺人も犯罪ではないのか、ということですね。もっともです。その上で次の六項目の決議を当局につきつけました。
決議
我等は当局に対して左の事項を訊す
一、流言の出所につき当局がその責を負わずこれを民衆に転移せんとする理由如何
二、当局が目のあたり自警団の暴行を放任し後日に到り其の罪を問はんとする理由如何
三、自警団員の罪悪のみこれを天下にあばき幾多警官の暴行はこれを秘せんとする理由如何
我等は当局に対して左の事項を要求す
四、過失により犯したる自警団の傷害罪は悉くこれを免ずること
五、過失により犯したる自警団の殺人罪は悉く異例の恩典に浴せしめ採決すること
六、自警団員中の功労者を表彰し、とくに警備のために生命を失いたる者の遺族に対しては適当に慰藉の方法をとること (『報知新聞』 1923.10.23)
 自警団による殺人・暴行を免責してくれないのならば、警察による流言の流布と殺人・暴行をあばいて道連れにするぞという恐喝ですね。軍隊による殺人・暴行にまで踏み込んでいないのは、腰が引けたのでしょう。よって何とかして責任を免れ隠蔽したい官憲としては、法治国家という体面上、形だけ裁判にかけるが、できるだけ寛典に処すというスタンスをとることになりました。
# by sabasaba13 | 2017-11-18 06:32 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(49):彦根(15.3)

 それでは旧川原町に向かいましょう。五分ほどペダルをこぐと、交差点に屹立する滋賀中央信用金庫銀座支店が眼に飛び込んできました。交差点側を隅切りして腰折れ破風を載せ、左右に切妻破風を並べ、縦長窓を配する印象的なデザインです。ひと目みたら忘れない、街角のアイストップですね。
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 その先にあるのが高﨑家住宅主屋で、かつては旧川原町郵便局でした。タイル貼りの壁面、上部のコーニス、入口のペディメントなど、小粋な物件です。
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 宇水理髪館は、その奇天烈な意匠が圧巻。正面のアーチ頂部には巨大なバリカン、その左右にアカンサスの装飾、アシンメトリーな入口一階部にはタイルが貼られています。もうむちゃくちゃでござりまするがな、と花菱アチャコのように唸ってしまいました。
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 それはそうと、「バリカン」の語源は何かという疑問がふとわきおこりました。こういう時にインターネットは本当に便利、すぐにわかりました。「喜多床」という老舗理髪店のホームページから転記します。
 喜多床は、明治四年(1871年)、断髪令が施行された年に、旗本舩越家の四男喜太郎が、東京の本郷に創業した、日本で一番古い理髪店です。
 喜太郎は、明治維新後に加賀藩前田家の軍隊に入り、前田公の髪結い方を務めました。そこで、フランス人の軍人から、それまでの丁髷とは異なる、断髪を作り上げる西洋理髪の技術を学びました。その後、軍隊を辞め、前田邸の正門前に西洋理髪の店舗を構えました。それが、喜多床です。
 加賀百万石十三代目当主前田斉泰公の断髪は、初代の手で行われました。髷を切り落とされた後、公は一筆、「本日、髪を洋夷にす。涙燦然として、降る」としたためたそうです。喜多床の屋号は、前田公の命名によるものです。
 創業当時の喜多床は、当時としては珍しい三階建ての洋館で、店内の壁にはガラス製の大鏡がかけられ、従業員は揃いの洋装、使う道具はフランスからの舶来品とあって、「東京の新名所」として名が広まったそうです。
 明治十七年に、前田邸が帝国大学になると、喜多床は、学生や教授、文士など知識人が集まるサロンになりました。
 文豪夏目漱石も、得意客の一人で、「吾輩は猫である」「三四郎」に、喜多床の名前が登場します。
 その漱石先生の思い出を、喜多床二代目景輝が、古い理髪雑誌に語っています。
 「先生、良いお天気です」というと、先生は一言、「大きなお世話だ」。頭を刈られながら気持ちよさそうに寝ていたため、終わって起こすのが悪い気がしてそのままにしておいたら、「終わったのか。遅いぞ」と叱られたそうです。
 内田百閒の「ねじり棒」や、徳田秋声の「大東京繁盛記」にも、喜多床のことが取り上げられています。
 二代目景輝は、たいそう勉強熱心な人で、理髪の発達している米国から、専門誌を輸入して、研究に努めました。そして、日本で初めての理髪研究団体を結成し、講習会を開催しました。
 ある日、顧客の一人だった言語学者の金田一京助氏が店に来て、「バリカンと呼ぶ国はないか」とつぶやいたそうです。外来語辞典を編集しているが、この語源だけがわからないということでした。景輝は、「ありませんよ」と答え、バリカンの名称を英語、仏語、独語など各国語で言って金田一氏をびっくりさせました。さらに、景輝は、刃の刻印に「バリカン・アンド・マール」という製造会社の名前を見つけ、金田一氏の三年越しの疑問を解決しました。
 金田一氏は、石川啄木が上京した時のお世話役でした。景輝に、啄木の下宿先を相談し、啄木は一時、喜多床の3階に下宿し、その後、のれんわけした喜乃床に移っていきました。
 その後の歴史はホームページを見ていただくとして、『吾輩は猫である』には"吾輩だって喜多床へ行つて顔さへ剃つて貰やあ、そんなに人間と異なつたところはありやしない"という一文があるそうです。
 というわけで、「バリカン・アンド・マール(Bariquand et Marre)」というフランスの製造会社名が語源だということが、金田一京助の尽力で判明したわけです。余談ですが、今年の夏は北海道旅行を計画しており、いろいろ調べていると、旭川に知里幸恵の文学碑があることがわかりました。アイヌの口承叙事詩"カムイユカラ"を祖母たちから聞き覚え『アイヌ神謡集』(岩波文庫)として出版、しかし19歳で夭逝したアイヌ女性です。いたく興味を抱き、『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』(藤本英夫 草風館)を読み終えたのですが、その出版に金田一京助が深く関わっていたことがよくわかりました。こんなところで彼と出会うとは思ってもみませんでした。読書の快楽ですね。
# by sabasaba13 | 2017-11-17 06:23 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 36

 9月12日、水曜日。この日の未明、9月9日に拘束されていた王希天(ワン・シテイエン)が軍隊によって殺害されます。彼は1917年頃に日本に留学し、周恩来とも知り合いでした。五四運動(1919)を受けて東京で行われたデモのリーダーの一人として警察にマークされるようになります。その後、中華メソジスト教会の牧師、中華YMCAの幹事として活躍。中国人労働者が多く住んでいた東京府南葛飾郡大島町に中国人救済組織、僑日共済会を結成して在日中国人を助ける運動をしていました。また救世軍の山室軍平とも親しく交際しています。
 この王希天に敵意を向けていたのが、まず人夫差配師たちです。彼が僑日共済会を結成したために、中国人労働者に「組織と指導者」がうまれ、甘い汁が吸えなくなったのですね。そして亀戸署の刑事たちです。官憲の目には、仮想敵国・中国の得体の知れないインテリが過激な労働運動・社会主義運動を煽っていると映りました。(⑩p.23~4)

 9月9日、中国人虐殺(大島事件)の噂を聞き、共済会の様子を見に大島へ行く途中で、王希天は不審人物として憲兵隊拘束されました。その後、中国人を習志野収容所へ護送する業務に協力、そして解放されますが、改めて亀戸署に拘束されました。スネに傷をもつ警察・軍にしてみれば、彼は大島事件をはじめとする数々の不祥事を「知りすぎた男」に見えたのでしょう。またそうした事件を嗅ぎまわっているようにも思えました。『一司法第十九号』に「支那思想団ノ一部亀戸付近ニ潜入シ何等カ画策セル形跡アリ、野重砲第三旅団報告」とあります。(⑩p.56~7)
 野重砲第三旅団第七連隊長・中岡弥高は、この機に彼を殺害しようと決意しました。田原洋氏が再現した、彼の言です。(⑩p.62~5)
 こいつは相当の大物です。表向きは、YMCAの幹事、メソジスト派の代理牧師を名乗り、社会事業家のような顔をしているが、…YMCAもメソジストも、相当、米陸軍のスパイを入れていますから、そいつらと連携しているにちがいない。そろそろ我々の直接警備を引き揚げる時機になっておりますが、こういう過激思想の持主を野放しにしていては、軍の引き揚げたあとは、どうなるか心配です。警察のお粗末な警備では、心もとないです。

 いまさら習志野送りしたら、腰抜けと思われる。支那過激思想団の禍根を一気に断つ好機ではありませんか。

 王は五・四運動いらいの闘士だ。秘密党員かもわからん。ヤソ教の仮面をかぶってアメリカとも連絡がある得体の知れんやつだ。…あいつをやれば手柄だぞ。

 王を殺りたがっているヤツは、はいて捨てるほどいる。金鵄勲章だといえば、みんな喜んでやりたがる。
 そして中岡弥高の意を受けた者にそれとなく話をもちかけられ、亀戸署から引き取った王希天を殺害したのは、剣道の達人・垣内八洲夫中尉でした。彼は震災の際に帰省中で、帰隊すると、同年輩の少尉・中尉や部下の下士官たちが、鮮人や支那人を何人斬ったと自慢しあっていました。とくに、親しくしていた岩波清貞少尉の手柄話には羨望を禁じ得ませんでした。岩波は、既述のように大量虐殺を遂行した軍人で、隊内では「金鵄勲章が出る」と噂されていました。垣内は、「活躍」するチャンスが欲しかったのですね。そして旧中川の逆井橋付近で王希天を斬殺。死体は、身元がわからぬように処理して、中川に投げ込んだという証言があります。(⑩p.65~70)

 支配体制の現状を維持しようとする使命感とプライド、その支配体制の根幹である国家の利益を最優先する思考、その支配体制を批判し動揺させる存在への敵意、中国人・朝鮮人への差別・侮蔑意識、ねじまがった功名心、そして人命・人権の軽視。当時の軍人の思考と行動様式を如実に物語る事件です。

 なおこの事件をもみ消した第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・遠藤三郎大尉は、後にこう語っています。
 あのとき、私が妙な正義感などもたず、犯罪必罰の考えでいたら、どうだったろうかとは思うねえ。親しい同僚や後輩が放っておいては罪に問われる。あるいは、自分の属していた部隊の汚名が喧伝される-それは防がなきゃならん、それを防ぐのが部隊参謀の正義だと思いこんでいたんだなあ。心の底に、中国人や社会主義者を軽視し、蔑む意識があって、同僚を救うほうが正しい選択だと錯覚していた。しかも、それができる最適任者は自分だという自負心もあった。どう転ぶかわからない国際問題でもあり、あえて火中の栗を拾おうとするには、私にしろ、武田さんにしろ、それなりの覚悟は必要としたんだ。だが、非を認めるべきときに認めない、謝罪すべきときにそうしない(とくに中国をはじめとするアジア諸民族とその主権侵害に関して)日本軍国主義の体質は、このころから顕著になったといえるだろう。軍隊の独善の論理に、すっかり染まっていたんだなあ。(⑩p.105)

# by sabasaba13 | 2017-11-16 06:28 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(48):彦根(15.3)

 食事をしながら、さきほど観光案内所でいただいた資料を読んでいると、滋賀県民のソウルフード、「近江ちゃんぽん」というご当地B級グルメがあることを知りました。遅かりし由良之助、無念です。せめて「ちゃんぽん亭」のホームページから、「近江ちゃんぽん」の歴史についてご教示していただきましょう。
 ちゃんぽんと言えば、長崎ちゃんぽん。皆さんはそう思っていませんか?しかし実は、日本各地には長崎ちゃんぽんをルーツにしながらも、独自の進化を遂げた「ご当地ちゃんぽん」が数多く存在します。「近江ちゃんぽん」もその中のひとつです。近江ちゃんぽんは当店で半世紀以上前に誕生して以来、彦根を中心に滋賀県全域に定着し、「滋賀県民のソウルフード」と呼ばれるほどの存在感を放っています。
 ちゃんぽんのルーツは古く、明治32年長崎創業の中華料理店「四海楼」で誕生しました。中国からの留学生達のために、福建料理の「湯肉絲麺」を日本流にアレンジして、中華鍋で具材を炒め豚骨と鶏ガラでとったスープと麺を一緒に入れて煮込んだ麺を店主の陳さんが作ったことが始まりとされています。
 その後、その麺は「長崎ちゃんぽん」と名付けられ、長崎市内の中華料理店を経由して全国に広まりました。このような流れから、今でも全国的にはちゃんぽん=長崎ちゃんぽんとして認識されており、また中華料理店の麺メニューのひとつとして置かれることが多い理由でもあります。
 しかし、実は日本各地には長崎ちゃんぽんをルーツにしながらも、独自の進化を遂げたご当地ちゃんぽんが数多く存在します。代表的なものとして、長崎県雲仙市小浜町には「小浜ちゃんぽん」と呼ばれるご当地ちゃんぽんがあり、特徴は小浜町の近海でとれたキジエビを殻付きのまま入れる点です。小浜町内の多くの飲食店で提供しており、寿司屋や居酒屋でも食べることができます。また、熊本県天草市では大きな海老の乗った「天草ちゃんぽん」が有名です。その他にも、水俣ちゃんぽん、武雄ちゃんぽん、唐津上場ちゃんぽん、八幡浜ちゃんぽんなど、全国にご当地ちゃんぽんは15種類以上あると言われています。
 近江ちゃんぽんも彦根で独自に進化したご当地ちゃんぽんのひとつです。近江ちゃんぽんは当店の前身である「麺類をかべ」で誕生しました。当時の麺類をかべはうどん・そばを主体とする麺類食堂で、彦根という土地柄、だし汁は削り節と昆布からとった「京風だし」でした。あるとき、お客様へ「おいしく健康的な一杯を届けたい」との想いで、京風だしをアレンジしたスープに、野菜や豚肉などの具をたっぷり入れて手鍋を使って煮込み、中華麺と一緒に盛り付けてお客様へ提供したところ、「これは旨い!」と評判になりました。そしてたちまち看板商品になったのです。
 さまざまなご当地ちゃんぽんの中でも、特に異彩を放つのが他でもなく当店の近江ちゃんぽんと言えます。なぜならば、ほとんどのご当地ちゃんぽんはルーツである長崎ちゃんぽんとの共通項を持っていますが、近江ちゃんぽんだけはほとんど共通項がないからです。
 スープは白濁したとんこつでも鶏ガラではなく、京風だしをアレンジした和風醤油味です。具は海老や烏賊など定番の海鮮は一切入らず、豚肉と野菜だけです。麺は唐灰汁を使ったちゃんぽん麺ではなく、かんすいを使った中華麺を使います。調理方法も中華鍋で炒めるのではなく手鍋で煮込みます。あえて唯一の共通点を挙げると「具がたくさん乗った麺料理」という点です。
 近江ちゃんぽんがこのような特徴を持つことになったのは、それが麺類をかべで生まれたからに他なりません。長崎ちゃんぽんは中華料理店で生まれた中華料理のひとつです。しかし、近江ちゃんぽんは麺類食堂で生まれた和食のひとつなのです。
 ちゃんぽんに歴史あり、ですね。これはぜひ試してみたいものです。
# by sabasaba13 | 2017-11-15 06:27 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 35

 9月11日、火曜日。大江志乃夫氏によると前日の9月10日までに関東戒厳司令官の指揮下に入り戒厳服務についた軍隊は、歩兵57大隊、騎兵22中隊、砲兵34中隊、工兵47中隊、鉄道14中隊、電信13中隊など兵員約5万人に達していました。この大兵力が、恣意的な無制限の人権抑圧権限を与えられ、「広ク兵力ヲ分散配置シテ、昼夜連続劇務ニ従事シ」、権限行使に関する判断が血気の初級士官や下士官に委ねられたのですから、至る処での朝鮮人の大量虐殺をはじめ、中国人、社会主義者の虐殺事件をひき起こしたことは、必然であったと、氏は指摘されています。やはりこうした事件が発生した要因は、戒厳宣告それ自体のなかに準備されていたのですね。(②p.137~8)

 そしてこの9月11日、臨時震災救護事務局警備部司法委員会は、朝鮮人を虐殺した自警団の処理方針を次のように定めました。
一、今回ノ変災ニ際シ行ワレタル傷害事件ハ司法上之ヲ放任スルヲ許サズ、之ヲ糾弾スルノ必要ナルハ閣議ニ於テ決定セル処ナリ然レドモ情状酌量スベキ点少カラザルヲ以テ騒擾ニ加ワリタル全員ヲ検挙スルコトナク検挙ノ範囲ヲ顕著ナルモノノミニ限定スルコト
二、警察権ニ犯行ノ実アルモノノ検挙ハ厳正ナルベキコト
三、検挙ノ時機ニ就テハ慎重ニ定ムルヲ要シ現今ハ人心安定セザルヲ以テ直ニ着手スルコトナク唯証拠ノ保全ニ力メ検挙ノ開始ニ就テハ検事ハ司法省ノ指揮ヲ待チ行ウコト
四、検挙ノ時機ハ各地方ノ情況ニヨリ異ナルベキモ東京及横浜ヲ除キ其他ノ地方ハ同時一斉ニ始ルコト
五、検挙ニ対スル準備トシテ警察力ノ恢復ノ為警察ニ保護中ノ鮮人ヲ其他ニ取纏メ保護スル方法ヲ取ルコト
六、鮮人等ノ不逞行為ニ就テモ厳正ナル捜査検察ヲ行ウコト (『東京震災録』)
 官憲が朝鮮人暴動の誤認情報を流したのですから、自警団全員を検挙すれば、彼らから強い反発が起こることは必定です。そこで「顕著な者」のみを検挙することにしたのである。しかし警察に収容されている朝鮮人を虐殺するために、警察署や警察官を襲撃した者は厳しく処罰するということです。朝鮮人殺害は大目に見るが、警察への反抗は許さないという姿勢ですね。また、検挙の時期は、司法省の指揮を待て、あるいは一斉に始めろ、ということはそれまでに証拠を湮滅しておけ、あるいは口裏を合わせておけ、ということでしょうか。さらに朝鮮人の「不逞行為」についても厳正に捜査しろということは、官憲の責任を免れるために、朝鮮人による暴動や放火が事実であってほしいという願望ですね。
 この方針のもと、9月中旬ごろより自警団の検挙が始まりました。
# by sabasaba13 | 2017-11-14 06:31 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(47):彦根(15.3)

 それでは彦根へと移動しましょう。ふたたび近江鉄道に乗って高宮へ、米原行に乗り換えて彦根に着きました。なお彦根のひとつ先の鳥居本に古い駅舎があるという情報を入手していたのですが、いかんせん列車の本数が少なく訪問は断念しました。
 言うまでもありませんが、江戸時代は井伊氏35万石の城下町、現存十二天守のひとつ彦根城が残されています。お目当てはもちろん彦根城と、旧川原町に点在する戦前の建物、そして滋賀大学の古い校舎です。
 彦根駅の構内には「彦根屏風」のレプリカが展示されていました。後学のため、日本大百科全書(小学館)から引用します。
 江戸初期の風俗画の名作。国宝。彦根藩主の井伊家に伝来したゆえの愛称で、正式名称は『風俗図』。遊里の一室にくつろぎ遊ぶ男女15人の姿を、全面金箔地の画面に描いた遊楽風俗画で、寛永年間(1624~44)前半の町絵師の作と推定される。漢画の伝統的な画題である「琴棋書画」が意識されて、本来は士大夫がたしなむべき四つの芸を、琉球渡来の新しい楽器である三味線、中国から伝わって当時流行の双六、遊女が書き遊客が読む手紙、人物の背後に飾られる室内調度の屏風絵に、それぞれあてている。華やかな色彩による細密描写と理知的な画面構成を特色とする。
 なお現在は彦根城博物館に収蔵されているとのことです。

 駅前にある観光案内所で資料をもらい、自転車を借りていざ出発。まずは腹ごしらえをしたいのですが、事前に調べたところでは彦根のご当地B級グルメはないようです。せんかたなし、夢京橋キャッスルロードという目抜き通りに行って、「ほっこりや」で比内地鶏親子丼をいただきました。彦根でなぜ比内地鶏?という疑問はさておき、まあまあ美味しうございました。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-11-13 06:52 | 近畿 | Comments(0)