焼津編(4):小川港魚河岸食堂(17.3)

 それでは出発。商店街を走っていると、「紺豊の大漁旗」という看板がありましたがさすがは漁師町。焼津港からオーシャンロードをしばらく南下すると、十五分ほどで小川港に着きました。まことに残念ながら靄でかすんでしまいましたが、漁港から見る富士もなかなかいいものです。これは再訪を期したいですね。
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 そしてすこし戻って、小川港魚河岸食堂に到着。パンフレットに載っていた一文を転記します。
 小川港魚河岸食堂は、日頃魚市場で働いている仲買人さんに利用されている食堂です。もちろん、そうでない一般の方々も大歓迎です。地元魚仲買人組合が直営する食堂だから魚が自慢。まぐろ・かつおのお刺身定食や焼き魚、どんぶり、天ぷら、かき揚げ等、地元に水揚げされる新鮮な素材を使ったメニューをお値打ち価格で沢山ご用意しています。ぜひご賞味ください。
 逸る心を抑えて中に入ると…なんて豊富なメニューなんだ。オーソレミオ! 思わず生唾を飲んだ品を列挙すると、生桜えびしらす定食、まぐろハラモステーキ、まぐろホホ肉焼定食、桜えびかき揚丼、かつおカツ丼、お子様ランチ…えっ…ごしごし…目を疑いましたがさば照焼丼とさば天丼があるではありませんか。フロイデシェーネルゲッテルフンケン! 自他共に認める稀代の好きの小生としては食べないわけにはいきません。
 なお帰宅後にインターネットで調べて分かったのですが、焼津漁港は、焼津港と小川(こがわ)港の二つからなっているのですね。焼津港は全国トップの遠洋漁業(冷凍カツオ・冷凍マグロ)水揚げ地で、小川港は沿岸・沖合漁業(さば・いわし・あじ等の多獲性魚)の水揚げ地です。もう一つの大井川魚港は、駿河湾名物の桜エビやシラスの水揚げ地です。よって小川魚河岸食堂でサバを食べるというのは最良の選択だったのですね。
 ま、それはさておき、さば照焼丼とさば天丼のどちらにしましょうか。ここで瞼の裏にアリアドネの糸の如く山ノ神の面影が浮かび、カロリーを考えて照焼丼を選択しました。でもマグロの刺身も食べたいしなあ、ああどうしよう迷った、ビュリダンの驢馬のような気持ちでした。はた。そうか、両方食べればいいんだ、ゴルディアスの結び目でした。というわけで、さば照焼丼と単品で南まぐろの刺身を食べることにしました。自動販売機で食券二枚を購入して食堂の中に入るとほぼ満席で、観光客や地元の方たちで一杯でした。配膳口に行って食券を渡すと、番号札をくれます。ちらと調理場をのぞくと、(たぶん)地元のおかみさんたちが元気よく働いておられます。地元魚仲買人組合が直営する食堂だし、ここで使ったお金が中央の資本に吸い上げられるのではなく地元に落ちるということですね。味も良くなろうというものです。そして場内放送で番号が呼ばれると配膳口まで取りに行く、つまりセルフサービスです。
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 おお待ちかねたぞ、ちこう寄れ。南マグロの刺身とサバ照焼丼の乱れ食い、舌鼓がエルヴィン・ジョーンズのようなポリリズムを叩き出します。こいつは美味い! ラリホーラリホーラリルレロ! 掛け値なくお薦めのお店です。食器を洗い場へ返して外へ出ると、自動販売機の前には長い長い行列ができていました。さもありなん。なおさきほどインターネットで調べたところ、10月には「さば祭り」が開かれるとのこと、また来ちゃおうかな。

 本日の四枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-10 06:27 | 中部 | Comments(0)

焼津編(3):焼津(17.3)

 東海道本線の列車に乗り、三十分ほどで焼津に到着です。駅構内ではさっそくマグロとカツオの広告が出迎えてくれました。駅前には、小泉八雲の記念碑がありました。
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 後ほど触れますが、彼は焼津の海が気に入って、夏にはよく避暑に来ていたのですね。碑文を転記します。
焼津にて 小泉八雲

 焼津というこの古い漁師町は、日がカッとさすと、妙に中間色のおもしろ味が出てくる町だ。この町が臨んでいる小さな入江、その入江に沿う白茶けた荒磯の色が、まるでトカゲのような色をおびてくるから妙だ。町は、丸いゴロタ石を積み上げた異様な石垣で、荒い海から守られている。この石垣のてっぺんから陸の方を眺めると、小さな町の全景がひと目で見渡される。灰色の瓦屋根の広いひろがり、風雨にさらされて白茶けかえった家並。そのあいだに、ところどころ松の木の茂っているのは、寺のある場所を示している。目を転じて、海の方を眺めると、これはまた紺波碧濤数マイル、いかにも雄大な眺めである。
 はるかかなたの水平線とくっきりと劃っている、峨々たる青い連峰はさながら紫水晶を置いたようで、そのむこうには、左の方に高く、四囲の山々を圧して、富士の麗容が嶄然とそびえ立っている。
 まずは駅前にある焼津市観光協会に寄りました。電動式の自転車を借り、観光地図と資料を所望。また「探しにいこう!浜通り」という、八雲が滞在した山口乙吉宅があった界隈の観光地図もいただきましたが、これはあとで重宝しました。はい、ここで質問が二つあります。一つ目、富士山をよく眺めることができる場所はどこでしょう。すると「YAIZU富士山ビュー」という資料を出して、ディスカバリーパーク焼津屋上からの眺望がよいとのお答えでした。しかし気温が上昇したためか、今では靄がかかってあまりよく見えない模様です。係りの方曰く、小川(こがわ)港から漁船ごしに富士山を眺めるのもおつなもの。よろしい、そちらに行きましょう。二つ目、安くて美味しいマグロが食べられるお店を教えてください。すると彼女は「小川港魚河岸食堂」と即答、なんでも仲買人向けの食堂ですが一般客もOK、メニューが豊富で安くて美味しいそうです。ん? 小川港、渡りに船、一挙両得、一石二鳥、富士山とマグロの両方が堪能できそうです。なおいただいた観光地図には焼津市マスコットキャラクターの「やいちゃん」が載っていました。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-09 09:04 | 中部 | Comments(0)

焼津編(2):薩た峠(17.3)

 熱海駅から列車に乗り、さらに西をめざします。三島のあたりから、富士山がくっきりクリアに見えました。ここでふと思いついたのが薩た(「た」は土へんに垂という難字)峠です。JR由比駅から歩いて一時間ほどのところにある、切り立った断崖と海の向こうに富士山を眺望できる格好のビュー・ポイント。以前に訪れたときは、あいにく霞がかかっていて、富士も雪をかぶっていませんでした。今日でしたらおそらく素晴らしい眺めでしょう、よろしい、由比で途中下車をして寄ってみましょう。これからの旅程を考えて、泣いて馬謖を斬る、タクシーを利用することにしました。幸い由比駅前で客待ちをしているタクシーが一台あったので、こちらに乗り込み薩た峠へと連れていってもらいました。余談ですが、もし時間の余裕があれば歩いていくことをお薦めします。以前に訪れた時には歩いたのですが、旧東海道の宿場町の面影を堪能できました。おまけに「あかりの博物館」や、昭和五年につくられたけったいなコンクリート製の掲示板+時計台や、玄関にかけられた蜂の巣や、「殉国の家」のプレートなど、見所満載です。
 十分ほどで薩た峠に到着、タクシーには駐車場で待っていてもらうことにしました。みかんの無人販売を横目に、階段をおりて遊歩道をすこし歩くと展望所に到着です。
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 …絶景。…素晴らしい。…眼福。海越しに、雪を戴く富士山をくっきりと見ることができました。これは英断でしたね、誰も褒めてくれませんが。展望所にあった解説板を転記します。
 この地は、富士山が望める景勝地として昔から知られており、歌川広重は、浮世絵「東海道五十三次」の作品の中で、当時と同じ景色が望める唯一残された場所とも言われています。
 しかし、見事な景色とは裏腹に、急斜面と海に挟まれた地形から道を造ることが困難で、交通の難所として知られていました。
 現在は、日本の大動脈である、国道1号・東名高速道路・JR東海道本線といった重要な交通網が集中しており、大規模な地すべりが発生した場合、東西の重要交通網が寸断されることによって生じる経済被害・人的被害は計り知れないものがあります。このため、平成17年度より国土交通省富士砂防事務所が、地すべり対策事業を行っています。
 タクシーに戻り、由比駅に戻ってもらいました。そうそう、富士山をバックに赤い桜えびを干している風景を写真で見たことがありますが、運転手さんに尋ねると富士川の河口とのことでした。これもいつか訪れてみたいですね。

 そして由比駅に到着。駅前には、名物の桜えびを載せたゲートがあり、富士山の山頂も見ることができます。
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 由比も以前に散策したことがありますが、せがい造りに下り懸魚、旧庚午銀行本店、明治時代の洋風郵便局舎、由井正雪の生家といわれる正雪紺屋、東海道広重美術館と御幸亭、おもしろ宿場館、そして何といっても桜えびと、なかなか楽しめる町です。桜えびには思いっきり後ろ髪を引かれましたが、昼食は焼津でマグロを食べようと固く決意していた関係上、すぐに焼津に移動しました。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-08 06:28 | 中部 | Comments(0)

焼津編(1):前口上(17.3)

 先日上梓した富士宮編で、伊東の「猪戸町」および西小学校付近の「新天地」は赤線跡で、往事を偲ばせる建物がたくさん残っているぞなもし、という情報に触れました。詳細は当該の一編を見ていただきたいのですが、掉尾を"本当に再訪を期す"と力拳を握り力瘤をつくってしめました。はい、この前の日曜日に再訪しちゃいました。天気情報によれば午前中は快晴、よろしい、以前から狙っていた焼津と組み合わせましょう。お目当ては、小泉八雲資料館と彼が避暑によく訪れた浜通り(八雲通り)、第五福竜丸展示室のある歴史民俗資料館、そしてマグロです。インターネットで調べると、ディスカバリーパーク屋上から富士山を眺望できるとのことなので、こちらも寄ってみましょう。晴れているうちに焼津を散策し、おそらく曇りとなる午後に伊東を徘徊する計画です。湯河原で「担々焼きそば」というご当地B級グルメを食べて帰郷、また素晴らしき日曜日になるといいなあ。持参した本は『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)です。

 早起きは三文の得、朝六時に家を出発し、池袋から山手線で品川へ、東海道本線に乗り換えてまずは熱海をめざします。空は雲ひとつない快晴、これは期待できそうです。さっそくコンビニエンス・ストアで買ったサンドウィッチを頬張りながら、読書に勤しみました。
 熱海駅で下車して乗り継ぎとなったので、駅のトイレで用をすませると途中に「大人の休日倶楽部」のポスターを見かけました。吉永小百合氏が一面の桜と遥かなる山なみを眺めながら微笑んでおられます。きれいな所だなあ、どこにあるのだろう? 説明文を転記します。
 東日本最古ともいわれる長野県松本市の弘法山古墳。春には前方後円墳の山全体が約四千本の桜でピンク色に染まります。山頂からの景色は北アルプスをバックに桜が溢れる、まさにこの土地、この時期にしか観られない絶景。人気の観光地もいいですが、せっかく旅するなら「この季節を選んでよかった」と思えるのが一番。旅の目的はきっと桜が教えてくれます。

 弘法山古墳/JR篠ノ井線南松本駅より徒歩約25分または松本駅よりタクシー
 弘法山古墳か、はじめて知りました。桜の季節に訪れてみようかな。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-07 06:31 | 中部 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(24):鎌倉橋(16.10)

 そして十数分歩くと、無粋な首都高速道路の下にうずくまる鎌倉橋に到着です。
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 解説板があったので転記します。
 日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ-ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。
 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。
 へえー、これも関東大震災の復興橋なんだ。復興橋と言えば隅田川にかかる相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、吾妻、言問が有名ですけれど、こんなところで人知れず佇み暮らしを支える復興橋もあるのですね。
 欄干を見ると、多数の弾痕を視認することができました。窪みをなでて、飛来した戦闘機から機銃掃射を受ける恐怖をすこし体感。対抗措置のない、非対称的な戦闘ですね。ただ逃げまどい、殺戮されるのみ。もし自分の大切な人がこうした理不尽な攻撃によって殺され、しかも"付随的被害"として片づけられたとしたら…"やや遠き ものに思ひしテロリストの 悲しき心も 近づく日のあり"です。
 それにしても、景観を粉微塵に破壊する、この無様な首都高速道路は何とかならんものですかねえ。最近読んだ『東京都市計画の遺産 -防災・復興・オリンピック』(越澤明 ちくま新書1094)の中に、次の一文がありました。
 オリンピック開催に間に合うよう、整備されたインフラの一つが首都高速道路である。今日では、景観破壊の代名詞となったのが、日本橋の上を通過する首都高である。しかし、オリンピック組織委員会の会報では、誇らしげに、首都高の完成予想図を表紙に使用している。数十年経過すると価値観が変わるという良い実例が、首都高と日本橋である。
 東京に首都高速道路が必要であったことは疑いの余地がない。しかし、東京オリンピック時に実行された首都高の建設方式は、江戸以来の掘割や河川を無造作に転用し、隅田公園や神宮外苑連絡道路など貴重な緑を潰した。そのやり方があまりに粗雑であり、水や緑を軽視したのは、紛れもない事実である。(p.209~10)
 越澤氏は、無差別爆撃で焼跡となった東京を復興する事業(戦災復興事業)に、当時の都知事・安井誠一郎が不熱心であったと指摘されています。同書によると、道路の拡張などを盛り込んだしっかりとした計画はあったそうです。しかし安井都知事の判断で、計画実現のための財政支出は大幅にカット。もしこの時に計画を実行していれば、交通量の増加に対して充分に対応できたのではないでしょうか。そしてオリンピックに向けて、美しい掘割や公園を台無しにするような、粗雑な高速道路網を手っ取り早くつくってしまう。やるべき時にやらず、やるとなったら手を抜く、そういう都知事でした。広島市の平和通りや仙台市の定禅寺通りは、戦災復興事業として知事の判断でつくられたそうです。東京でも充分に可能だったはずなんですが。
 そして安井誠一郎は公選による初めての都知事ですから、これは都民の意思でもあります。その後も、都民はあの石原慎太郎を三選させてしまうのですね。やれやれ、と溜息をつきながら帰途につきました。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-06 06:26 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(23):日本工業倶楽部(16.10)

 そして麻布十番駅から都営地下鉄12号線に乗って大門へ、山手線の浜松町駅へと歩き山手線に乗り換えて東京駅へ。東京駅から北に向かって歩きます。ここに来るとついつい足が向いてしまう日本工業倶楽部へ行き、上部に設置されている工夫と女工に最敬礼。
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 『日本の歴史28 ブルジョワジーの群像』(安藤良雄 小学館)から引用します。
 明治30年代以降、工業の発展にともなって工業経営者、とくに大工業の経営者の団結の必要が説かれ、33年に「工業倶楽部」(のちに日本工業協会)が設立されたが、この段階ではまだ政府にたいする民間の連絡機関的性格が強かった。しかしながら大正6年、三井・三菱等の大財閥のバックアップのもとに、大橋新太郎(出版社博文館・共同印刷の前身であった博文館印刷所を創設)、和田豊治(富士瓦斯紡社長)、植村澄三郎(札幌麦酒の創設者)、諸井恒平(秩父セメントの創設者)、藤原銀次郎(三井の重鎮で王子製紙社長・のち商工大臣)らによって「日本工業倶楽部」が設立され、その初代理事長には三井財閥の最高指導者(合名理事長)団琢磨が就任した。なおこの日本工業?楽部は「製鉄業保護意見書」の提出ほか、税制・労働問題について活発な行動をおこなった。いまも東京丸の内にある日本工業?楽部の建物にかかげられている炭鉱夫と紡績女工の像は、日本工業倶楽部の象徴として有名であるが、これは石炭業と紡績業が日本の工業を代表していた時期のなごりである。(p.232)
 途中で、竹中工務店が工事をしているビルがありました。「想いをかたちに 未来へつなぐ」というスローガンがかかげられていましたが、たしか竹中工務店は朝鮮人強制労働に関係していたような気がします。今、インターネットで調べると、歴史研究家の竹内康人氏が作成された「朝鮮人強制労働現場一覧」がありました。どれどれ、検索をかけてみたら四つの事例がわかりました。
鏡石飛行場建設 竹中工務店 飛行場建設 福島 鏡石町
日本光学南工場(竹中工務店) 土木建設 神奈川 横浜市戸塚
三菱重工静岡工場・竹中工務店 土木建設 静岡 静岡市
竹中工務店大村 軍工事 長崎 大村市
 朝鮮人・中国人強制連行によって、日本企業がどれくらいの利益を得たのか。またこの問題に対する綿密な調査、被害者への謝罪や補償はどうなされたのか、あるいはどうなされなかったのか。関東大震災時における虐殺と同様、これも"語られなかった歴史"です。私も勉強しなければと一念発起、てはじめに『日本企業の戦争犯罪』(古庄正・田中宏・佐藤健生他著 創史社)を購入しました。その近くにあった、立派な時計塔のあるビルを撮影。今インターネットで調べてみたら、大手町野村ビルでした。
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 佐藤功一設計によって1932年に竣工されたビルのファサードと時計塔を保存しつつ、1994年に高層ビルが建設されたそうです。佐藤功一といえば、早稲田大学に建築科を創設した建築家ですね。代表作は、大隈記念講堂、鶴舞公園普選壇群馬県庁舎日比谷公会堂群馬会館などです。
# by sabasaba13 | 2017-04-05 06:27 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(22):安藤記念教会会堂(16.10)

 そして韓国大使館のある坂をすこしのぼると、日本基督教団安藤記念教会会堂に着きました。竣工は1917(大正6)年、設計は吉武長一、蔦のからまる塔屋とステンドグラスが印象的です。解説板を転記します。
 この教会堂は、関東大震災前に竣工してその姿を留めている貴重な教会建築である。大谷石(一部小松石)の組積造で、南西の角に出入口の塔屋を設けている。建物の北と南の壁画には小川三知が製作したステンドグラスが嵌め込まれている。この教会の創立者安藤太郎がハワイ総領事であったことから、南面のアーチ窓のステンドグラスには、布哇(ハワイ)初回受洗者を記念する文字が日本語と英語で表わされている。
 へー、小川三知が製作したステンドグラスがあるのか。これも偶然の出会いです。しかし残念なことに礼拝のため入ることができませんでした。無念、再訪を期しましょう。

 そして麻布十番駅へと戻りますが、途中に老舗の和菓子屋が点在していました。山ノ神へのお土産に、「豆源」で「豆好み」を購入。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-04 07:56 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(21):善福寺(16.10)

 そして竹橋駅へと戻り、地下鉄東西線に乗って飯田橋へ、地下鉄南北線に乗り換えて麻布十番駅に到着です。めざすは港区元麻布2-14-16にある日本基督教団安藤記念教会会堂。印刷して持参した地図を片手にてくてくと歩いていると善福寺の門前に着きましたが、こちらに「柳の井戸」がありました。解説板によると、東京の市街地では珍しい地下から湧き出る清水で、関東大震災や東京空襲の時に区民の困苦を救ったということです。境内に行くと、「東京都指定旧跡 最初のアメリカ公使館宿館跡」という解説板がありました。
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 後学のために転記します。
 安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政6年(1859)善福寺をアメリカ公使館として8月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久3年(1863)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを消失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治8年(1875)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
 寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。
 そのそばには、タウンゼント・ハリスのモニュメントが置かれています。こういう予想外の物件に偶然出会えるのが散歩の楽しみのひとつですね。また樹齢750年以上と推定されるイチョウの巨樹もありました。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-03 06:31 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(20):北の丸公園(16.10)

 この銅像のとなりにあるのが国立近代美術館工芸館、かつての近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。なお関東大震災が発生した直後の午後1時10分、軍事当局は独自の判断から非常警戒令を発し、衛戌常例衛戌勤務令により、東京衛戌司令官がすでに東京地域の警備についていました。東京をおおむね南北に二分して、北を近衛師団、南を第一師団の担当区域として軍事力を展開し、秩序維持に介入していたそうです。
 ここからすこし歩くと、堀に沿ったすこし小高い土手がありますが、こちらには帝都防衛のために1944(昭和19)年に設置された高射砲の台座が七つ残っています。貴重な戦争遺跡ですね。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-01 05:51 | 東京 | Comments(0)

虐殺行脚 東京編(19):竹橋(16.10)

 そして両国駅から都営地下鉄12号線に乗って門前仲町へ、地下鉄東西線に乗り換えて竹橋駅に着きました。地上に出ると、すぐ目の前にあるのが毎日新聞社、そして竹橋です。1878(明治11)年8月23日、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起、いわゆる「竹橋事件」の舞台となったところです。
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 国立近代美術館・国立公文書館を通り過ぎてすこし歩くと、北白川宮能久親王の銅像がありました。
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 たまたま最近読み終えた『日本を問い直す -人類学者の視座』(川田順造 青土社)の中に、この人物に関する一文がありましたので紹介します。
 彰義隊の側で戦った人の子孫で、谷中と桜木に住む、今は故人となられた二人から、私はお話を聞く機会があった。その一人、上野桜木の代々の鳶の頭「れ組」総代の方のお祖父さんは、"上野の戦い"のとき北門を固めた。戦い破れ、折からの五月雨の中を、寛永寺の法親王住職だった公現入道親王、輪王寺の宮を、三河島から田舟に乗せ、品川経由で仙台に逃がす案内を務めたという。
 公現入道親王は、その後仙台藩の伊達家のものに身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された(東武天皇として践祚したという説もある)が、明治元年九月、仙台藩は新政府軍に降伏。親王は京都に蟄居を申しつけられたが、翌年処分を解かれて伏見宮家に復帰。明治天皇の命により還俗して伏見満宮となったが、後に北白川家を相続した。
 明治三年から陸軍軍人としてプロイセンに留学中、ドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約し、現地の新聞に発表したため、日本で大問題となる。明治一〇年に帰国し、岩倉具視の説得で、ドイツでの婚約を破棄させられ、またもや京都で謹慎。
 日本で最初の妻とは離婚、伊達宗徳(むねえ)の娘と再婚して、後に張家口で軍務中事故死を遂げた北白川宮永久親王の父となる三男成久王など、多くの子に恵まれる。その後軍務に励んで中将に昇進し、日清戦争後日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征して台湾南部で死。死因はマラリヤとされているが、台南では、台湾人による暗殺説も流布されている。大将に昇進して国葬。台北に台湾神社、終焉の地には台南神社が創建され、その他台湾各地に創建された神社のほとんどで、主祭神とされた。
 戦後、これら台湾の神社がすべて破却されたため、昭和三二年東京の靖国神社に合祀された。靖国神社に祀られた最初の皇族として、やはり靖国に祀られている孫の北白川宮永久王とともに、遊就館の展示でも重視されている。(p.255~6)
 なかなか波瀾万丈の人生を送った方なのですね。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-03-31 08:25 | 東京 | Comments(0)