「日本帝国の申し子」

 「日本帝国の申し子」(カーター・J・エッカート 草思社)読了。
 人間は、すべての財を背に負う放浪者のように、あらゆる経験を背負ってゆくのである。…ようするに、人間は本性を持たない。人間が持つものは…歴史である。
 というホセ・オルテガ・イ・ガセットの印象的な引用句からはじまります。日本による植民地統治が朝鮮の工業化にどのような影響を与えたのか、そして戦後韓国の奇跡的な経済発展とどうつながるのか。この問題について、史上初の朝鮮資本による大規模企業「京城紡織株式会社」とその経営者である金一族の分析を軸に、豊富な史料を駆使して追求した労作です。日本帝国による植民地支配の歴史については、どうしても断罪や擁護という感情的なフィルターがかけられ、冷静に研究をするのは難しいと思います。著者は、アメリカ人という日韓双方から距離を取れる立場を意識して、できるだけ客観的に植民地化の「光」の部分を取り上げています。声高にならない、落ち着いた論理的な語り口には共感を覚えました。
 1910年に韓国を併合し総督府が統治をすることになりましたが、その基本方針は、安価な農産物(特に米)を日本に供給させるというものでした。しかし第一次世界大戦によるバブル景気で、朝鮮の工業(特に綿産業)を発展させるという方針へと変更します。市場拡大による需要の急増、国内における余剰産業資本のはけ口、そして朝鮮における階級闘争を促進し民族運動の団結を粉砕するためですね。そして独立に期待をもてなくなった朝鮮の資本家は、現実的判断としてこの政策に協力し、利益を得ていった。「朝鮮史の悲劇の一つは、のちに日本人が朝鮮人特権階級に対して階級の利益か愛国心かの二者択一を迫ったとき、彼らの多くが階級の利益を選んだことにある」と著者は述べています。
 もちろんこれは朝鮮の利益を考えた上での政策ではありません。「日本は自分自身の利益のために、きわめて意図的かつ計画的に朝鮮の資本家階級の成長に手を貸した。こうして、朝鮮の資本主義は日本の支配下で、日本政府のお墨付きを得て花開くことになったのである。」 こうした工業化の基盤があったからこそ、戦後の経済発展が可能となったというのが、著者の主張です。
 緻密な論証は説得力があります。こうした地道な研究を積み重ねて、大部分を占める「影」の部分と、数少ない「光」の部分をきちんとつかみ、植民地支配の歴史と実態を明らかにすることは大事だと思います。その上で、了解できた部分を共有し、了解できない部分について対話を続けてそれを減らそうと互いに努力していくこと、それが大事ではないのでしょうか。こうした基礎作業をしないといつまでも感情のしこりが残ってしまうような気がします。ま、そうなった方が利益を得られると考える人々・組織等があるのは重々承知していますけれど。
 なお先日、2001年の歴史教科書問題をきっかけに設けられた日韓歴史共同研究委員会の報告書が、インターネットで公表されました。韓国側総幹事の趙珖氏の談話では、最も鋭く対立したのが植民地支配の評価、つまり日本側の「開発論」と韓国側の「収奪論」だったそうです。(朝日新聞朝刊05.6.11)。まずは日韓の研究者が価値の共有へと歩み寄る一助として、この著書は有効なのではないかと考えます。

 ●日韓歴史共同研究報告書 http://www.jkcf.or.jp/history/
# by sabasaba13 | 2005-06-12 08:59 | | Comments(0)

沖縄編(17):石垣島(03.8)

 しばらく小動物に遊ばれた後、石垣最北端にある平久保崎へ。絶景と灯台を堪能して東海岸を南下。途中にある、日本唯一の海へつながる鍾乳洞サビチ洞に立ち寄って見物。ここの駐車場のトイレに寄り山ノ神を待っていると、彼女が口をパクパクさせながら飛び出してきました。用を済ませてふと上を見ると、天井一面に上腕部ほどの大きさのヤモリがびっしりとへばりついていたとのことです。今でも後悔しているのですが、写真を撮っておくべきであった… そして沖縄編(13)で紹介しました久松五勇士上陸の碑を見学。バルチック艦隊の接近を知らせるために、久米島からここまでサバニ(小船)で来たのか! この時代にすでに久米島にまでナショナリズムが浸透していたのは驚きです。また碑の書が、皇道派の雄、荒木貞夫によるものだということも興味があります。えーと、何年に書かれたかというと、ん? 1966年? 後で調べたところ、彼は極東国際軍事裁判においてA級戦犯として終身刑を宣告されましたが、1954(昭和29)年に病気療養のため仮出所、その後釈放され講演活動などで余生を送り、1966(昭和41)年に死亡しています。自決をせず敗戦後の日本で生き延びた彼と、沖縄との関係、これも機会があったら調べてみたい。そして玉取崎展望台へ。石垣島北端部が一望できる絶好のビューポイントです。
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 さらに南下して、漆喰と赤瓦、フィンプン(魔除けのため玄関前につくる壁)、アカギの屋敷林がよくのこる白保集落を徘徊。時間が止まったような路上の真ん中に佇む猫が印象的でした。夕食は、石垣牛のすてきなすてええき! サシが少なく身の引き締まった良いお肉でした。牛肉行脚もそろそろ道半ばを迎えたかな。これまで神戸、松阪、近江、但馬、米沢、淡路、平戸、豊後、伊賀と食べ歩いてきました。一番美味しかったのは平戸牛ですね。
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 本日の二枚は、平久保崎灯台と白保の民家です。
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# by sabasaba13 | 2005-06-11 08:01 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄編(16):石垣島(03.8)

 本日はレンタカーで島内を一周します。まずは唐人墓へ。1852年、イギリス船で虐待された約400人の苦力が反乱を起こし船長を撲殺して石垣に上陸、そしてイギリス軍に銃殺された方々の鎮魂碑です。「人間が人間を差別し憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会の平和を希い、この地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる 琉球政府行政主席屋良朝苗」という碑文に、彼の闘いの軌跡がオーバーラップして胸を打たれます。すぐわきには、太平洋戦争時に石垣島住民に虐殺されたアメリカ軍パイロットの墓、琉球学の学者喜舎場永珣の碑がありました。合掌。観音崎灯台を見て、島を時計回りに一周します。シーラ浜にこのような看板がありましたが、そのこころは???
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 島の西端にある御神崎(うがんざき)のみごとな景観と灯台を拝んで、川平(かびら)へ。グラスボートで珊瑚礁を満喫いたしました。ここのボート待合所の椅子で昼寝をしていた猫数匹の愛らしいこと愛らしいこと。無防備に安眠を貪るその無垢な姿には感動しました。そして米原のヤエヤマヤシ群生地を彷徨い、吹通川のヒルギ(マングローブ)林へ。
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 川岸におりて、ヒルギの密生する干潟を散策したのですが、驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音機。しばらく静かに佇んでいると、そこいら中の小穴から小さなシオマネキがわさっわさっわさっとドリップコーヒーの泡のように湧いてでてきました。で、少しでも動くとさーっと穴に隠れてしまふ。岸辺に目をやると、目が飛び出た愛くるしいドロハゼ(トントンミー)が泥の上で日向ぼっこをしています。近づくと、トーントーンと胸鰭を使って飛び跳ねて逃げ出すのが可憐。
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 本日の一枚は、もちろん川平の猫です。05.2.28の「眠る猫」で紹介した写真もこの時に撮影したものです。
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# by sabasaba13 | 2005-06-10 06:15 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄編(15):石垣島(03.8)

 本日は、空路で石垣島へ移動です。空から見た来間島の美しいこと美しいこと。まるで宝石をちりばめた指輪のようでした。そして無事に空港に到着。そういえば新石垣空港建設については、どうなっているのでしょう。珊瑚礁や動植物への悪影響、赤土流出など、マイナス面か多いような気がするのですが。現在の空港の滑走路を2000mに延長することで解決できないのかな。
 まずはホテルに直行して荷を降ろします。部屋には写真のような注意書きがありました。ようがす、合点承知。我が家にでもフリードリヒというヤモリが時々窓にへばりついており、平和共存しております。ハンスというゴキブリとは交戦状態ですけれど。
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 バスで市街に行き、ブラブラと散策。まずは宮良殿内を見学。ここは、1819年八重山の頭職にあった「宮良親雲上当演」が琉球の貴族屋敷を模して創建したもので、枯山水の日本庭園とともに近世沖縄の八重山における士族階級の住宅様式として貴重な国の重要文化財だそうです。湿気と陰影を感じさせるヤマトンチュの枯山水とは一味違います。青空に映える赤瓦の色が、何ともいいですね。公設市場や街並みを歩いているとこのような護符をよく見かけました。四天王信仰とでもいうのでしょうか、興味深い。ふと脇を見ると、鍛冶屋さんがありました。金物の修理や再利用という習慣が、今でも息づいているのかもしれません。石塀やアカギの屋敷林や赤瓦を堪能。その土地で長年培われた生活様式が窺われるというのは、いいものです。心地よい統一感がありますね。
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 本日の一枚は、宮良殿内の赤瓦です。
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# by sabasaba13 | 2005-06-09 06:14 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄編(14):宮古島(03.8)

 本日はホテルの部屋で読書をしながらのんびり。今回の旅で持ってきた本は「ヨーロッパ覇権以前 もうひとつの世界システム」(ジャネット・L.アブー=ルゴド著 岩波書店)です。近代成立のはるか前、ヨーロッパから中東、中国に至るユーラシアの各地域は、多様な文化・経済システムの共存と協力によってすでにひとつの世界システムをつくりあげており、ユーラシアにかつてない繁栄をもたらしたというのが彼女の主張です。この13世紀世界システムは、なぜ近代世界システムに取って代わられたのか。うーん、私の頭の中を細かく区切っていた枠が突然取り払われて、風が吹き抜けていくような爽快感を味わいました。こうした「全体史」の試みに対しては、これからもフォローしていくつもりです。読み疲れると、ホテル前の前浜ビーチで一泳ぎし、オリオン・ビールを飲み、部屋で昼寝をし、また読書。時間よ止まれ! こうした悦楽の日を、日程中に組み込む習慣ができそう。
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 ホテルのレストランは高くてまずそう、というわけで夕食を食べにバスで街中へ繰り出しました。宮古空港で途中下車し、夕映えの中、離陸・着陸する飛行機をしばし眺めました。許せないのは、デッキに出るのに金100円をとられたこと。そこまで財政難なのか、だとしたら一言説明が欲しいですね。
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 本日の一枚は、前浜ビーチです。
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# by sabasaba13 | 2005-06-08 06:06 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄編(13):宮古島(03.8)

 翌日も晴天。八重瀬クルーズは高波のため本日も中止。なんとしてでも行ってみたいので「んみゃーち」という地元の情報誌で調べて片っ端から各ショップに電話をかけまくりましたが、すべて予約がいっぱい。最後にかけた「マイグレーション」という店でようやくOKがでました。少し出港を遅らせて待っていてくれるというので、車を飛ばし、10:30分頃池間島の港に到着。心優しい海の男、仲間船長のご好意で八重瀬クルーズに参加できました。小さな漁船にちょっと手を加えたような船に乗り込み、出発…したのはいいのですが、台風の余波で波が高い高い。ふと周囲を見渡すと他に船は見当たらず。ザンザバザバザンと波を頭からかぶりながら、振り落とされないよう必死でしがみついていました。「環礁に行けば穏やかになるよ」とニコニコしながら舵を切る仲間船長をひたすら信じながら… 八重瀬につくと、なるほど波は静まり、巨大な珊瑚礁の存在が肉眼でもそれとわかります。さっそく潜ると、絶句。この世に生を受けて○十○年、これまで見た光景の中で十指にはいる美しさ。色とりどりの枝サンゴ・テーブルサンゴが咲き乱れ、可憐な熱帯魚の群れが浮遊する夢のような光景でした。眼福眼福。帰りは波も穏やかとなり、海亀と並走しながら快適なクルージングを満喫。仲間船長、どうもありがとうございました。
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 余韻をかみしめながら、車で西海岸を南下し、バルチック艦隊の接近を軍に知らせるために、通信施設のある石垣島までサバニ(小船)を漕いだ「久松五勇士の碑」を見物、そして橋でつながっている来間島を一周してホテル着。見事な夕映えに息を呑みました。
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 本日の一枚は、八重瀬へ向かう船上です。
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# by sabasaba13 | 2005-06-07 06:09 | 沖縄 | Comments(0)

「ナマの京都」

 「ナマの京都」(グレゴリ青山 メディアファクトリー)読了。著者は女性で、漫画家・イラストレーター。京都出身で、アジアのあちこちをぶらついて面白い紀行・奇行マンガを出版しています。それを読んだ時からファンなのですが、普通気づかない事に反応する観察眼、大胆な行動の結果生み出される様々なエピソード、それをユーモラスかつ個性的なタッチで描く表現力には魅かれますね。その彼女が自らの経験にもとづいてありのままの京都を描いたのがこの本です。
 京都については、入江敦彦氏の「京都人だけが知っている」「やっぱり京都人だけが知っている」「ほんまに京都人だけが知っている」(洋泉社新書)という三部作もお勧めですが、視線の生々しさとユニークさではこちらに軍配をあげます。京都人における「王将」(餃子チェーン店)についての考察、やかんで煮出した“おぶ”という番茶の思い出、京のまぼろしびとである未来くんと河原町のジュリーのお話、「岩田呉服店」「山田木材経営団地」のもっさいCMなどなど、われわれよそさんが知らないナマの京都が満載です。普通の観光にはほとんど役に立たない本ですが、上下左右をキョロキョロしながら一風変わった物を見つけようとする小生のような変人には格好の一冊。なお本文中にある以下の会話は本当になされたものなのでしょうか。だとしたら恐るべし、京都。
 「あっこの先代はん、応仁の乱の頃ヨソのおなごはんに悪い病気うつされはったことあるんえ」「いやあこわ」

# by sabasaba13 | 2005-06-06 06:11 | | Comments(0)

「人類と建築の歴史」

 「人類と建築の歴史」(藤森照信 ちくまプリマー新書012)読了。著者は、近代建築史の学者であるとともに、路上観察学会を主宰したり、自ら設計をしたり(天竜市の秋野不矩美術館)、種々の随筆を書いたりと、多彩な活動をされています。そのエネルギッシュな行動力と、奇抜な発想・ひらめきと、軽妙洒脱な文章には、常日頃感服しております。その氏が、人類の建築の歴史は「細長いアメ玉を紙で包んで両端をねじったような形」をしていると喝破したのが本書。原始にはほとんど世界共通であった建築が、古代・中世になると多様な形をとり、近代とともにヨーロッパ建築が世界中に浸透して各地の伝統建築が滅び、そして20世紀モダニズム(白い箱型+大きなガラス窓)によってヨーロッパ建築も固有性を失い、世界は再び一つになったという論旨です。なるほど、目からうろこが落ちてコンタクトレンズが入ったように、すっきりと建築の歴史を見通せます。凄い力業ですね。
 大胆な歴史の把握もさることながら、細部の叙述が大変面白く参考になりました。例えば、磨製石器が登場した意味。これまで、農耕・牧畜が始まり、打製石器をきれいに磨き上げる時間的余裕ができたのかな、などと漠然と考えていました。とんでもない! 磨製石器とは要するに石の斧で、これによって人類は巨木を伐り倒し自由自在に加工できるようになったのです。住居・集落の建設や、舟による文化の伝播などを考えると、これは歴史を変える大発明なのですね。さらに長期の狩猟から自分の集落・家に戻った時に、それが変わっていなと感じることから、人間独自の「懐かしい」という感情が生まれたと述べられています。「人間は自分というものの時間的連続性を、建物や集落の光景で無意識のうちに確認しているのではないか。」
 また1893年のシカゴ万博で日本政府が出品した仕切りが少なく開放的な和風建築に、26歳のフランク・ロイド・ライトが大きな刺激を受けます。壁に閉ざされた閉鎖的なヨーロッパ建築とは違う原理に影響を受け、仕切りが少ない間取り、大きな窓、水平に伸びる外観を特徴とする建築の図面集を出版します(1910)。これに衝撃を受けたグロピウスやミースらが、バウハウスを舞台にモダニズム建築を完成させるわけですね。そしてバウハウス校長室を見て刺激を受けた堀口捨巳が日本にモダニズム建築をもたらす… 浮世絵とジャポニズムのような動きが、建築の世界でもあったわけですね。スリリングです。自由学園明日館の見方が変わってきそう。
 
# by sabasaba13 | 2005-06-05 07:50 | | Comments(0)

沖縄編(12):宮古島(03.8)

 翌日はピーカン。実は、八重瀬(やびじ)という宮古島北部近海に広がる巨大な珊瑚礁へ行くクルーズを申し込んでいたのですが、台風の余波で波が高く中止となりました。そこでレンタカーを借りて島内一周としゃれこみました。ほとんど車が走っていない道路を快調に飛ばしていると、道を何やら小さな生き物がノテノテと横断していきます。クイナ! ああ轢かなくてよかった… まずは島の南東にある東平安名崎へ。ここは細長い岬で、突端にある灯台に上ると340度のパノラマがひろがります。えもいわれぬ海の青と環礁の緑に呆然。絶景を満喫しました。ここから少し北にあるのが、シュノーケリングの穴場、新城(あらぐすく)海岸です。さっそくシュノーケルをつけて餌のパンをもって海に飛び込むと、いるわいるわ、飢えた魚たちがピラニアのように集まってきました。ここはお勧めのポイントです。しばらく魚に遊ばれた後、島の北にあり、最近橋がかけられた池間島へ。十分ほどで一周できる小さな島ですが、白い砂浜が美しいビーチを発見。西平安名崎と風力発電を見て、島の西側海岸を南下。砂山ビーチで泳いでシュノーケリングをした後、さらに南下して「人頭税石」を見物。昔、高さ150cmぐらいのこの石より身長が高くなると、過酷な人頭税の対象となったといわれる物件です。「陽石」「屋敷神」という説もあるようです。そしてホテルに到着。
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 本日の一枚は、東平安名崎の灯台と海。何に例えたらいいのでしょう、この色は。
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# by sabasaba13 | 2005-06-04 07:48 | 沖縄 | Comments(0)

沖縄編(11):宮古島(03.8)

 本日は宮古島へ移動します。その前に空港近くにある旧海軍司令部壕を見学しました。沖縄戦において、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部(約4000名)のあった所で、大田実司令官ほか多数の将兵が、この壕で1945(昭和20)年6月13日自決をしました。「沖縄県民斯ク戦エリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電したのが彼です。迷路のような壕内には、司令官室、作戦室、発電室などが当時のまま残され、将兵がクワやツルハシで壕を掘った跡が生々しく保存されています。「醜米覆滅」と墨で書かれた字が鮮やかに残る司令室、自決の際の手榴弾の弾痕なども見ることができました。それにしても4000人が、この蟻の巣のような狭い地下壕にいたのですから、大変な状況だったでしょう。立ったまま寝るとこもあったようです。
 つくづく考えるのですが、この司令部は何を守るために、ここに存在したのでしょうか。艱難辛苦や自決という行為をつい美化してしまいますが、問題はその目的です。倉田稔氏が『グローバル資本主義の物語』の中で、こう語っています。
 軍隊はまず自分を守る。次に、軍隊は給料を出す所を守る。すなわちその国の政権を守る。…軍隊は内敵と外敵から政権を守る。内敵とは、その国の政権に反対する国内の民衆である。
 少なくとも沖縄県民の生命と財産を守るために戦ったのではないことは、史実から見ても明白です。それでは何を守るために… 壕入口にある、彼らを褒め称える美辞麗句を見ながら、考え込んでしまいました。海軍司令部壕を見学した後、空路宮古島へ。この日だけが唯一の曇天で、ホテル前の前浜ビーチで軽く泳いだ後、読書三昧。至福。夜はホテル屋上で満点の星と天の川と流れ星と火星を堪能いたしました。
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# by sabasaba13 | 2005-06-03 06:05 | 沖縄 | Comments(0)