『戦後入門』

 『戦後入門』(加藤典洋 ちくま新書1146)読了。

 …まいった…

 超ドレッドノート級の面白さ、ひさかたぶりに読書の喜びを満喫させていただきました。加藤氏に感謝します。
 635ページ、重さ…計測していませんがけっこう重いです。小生の如き蒙昧な徒ではとても要約できませんので、カバー袖裏の紹介文を引用します。
 日本ばかりが、いまだ「戦後」を終わらせられないのはなぜか。この国をなお呪縛する「対米従属」や「ねじれ」の問題は、どこに起源があり、どうすれば解消できるのか-。世界大戦の意味を喝破し、原子爆弾と無条件降伏の関係を明らかにすることで、敗戦国日本がかかえた矛盾の本質が浮き彫りになる。憲法九条の平和原則をさらに強化することにより、戦後問題を一挙に突破する行程を示す決定的論考。どこまでも広く深く考え抜き、平明に語った本書は、これまでの思想の枠組みを破壊する、ことばの爆弾だ!
 おおっ、かなりリーダーズ・ハイ、ライターズ・ハイになっていますね。わかるわかる、おいちゃんもその気持ち、よーくわかります。

 本来ならば、その全貌をきちんとまとめて、小生の意見を述べるべきなのですが、時間も能力もありません。とりあえず、広島を訪れるというオバマ大統領の英断に敬意を表して、原子爆弾に関する叙述をいくつか引用します。

 まずトルーマン大統領は、1945年8月9日午後10時、ラジオを通じて二発の原爆投下について釈明・正当化を、アメリカ国民に向けて発表しました。加藤氏の要約によると、日本人は、予告なしにパールハーバーでわれわれを攻撃し、米国人捕虜を餓死させ、殴打し、処刑し、戦争に関する国際法規に従うふりをする態度すらもかなぐりすてた者たちであるからだ、という理由です。そして戦争を早く終わらせ、何千何万もの米国青年の生命を救うためだ、と。(p.215~6) 以下はすべて引用です。たくさんひっぱってしまったのですが是非ご海容ください。「ことばの爆弾」の破壊力を体感していただきたく思います。
 このような「声明」だけで、投下した側の、戦後の国際秩序構築に必須の道義的威厳、威光、さらに原爆保持・新たな使用の合法性が保証されないことは、明らかです。
 こうして、この道義的な「空白」を補填し、埋めるべく、彼らの戦後政策ともいうべきものが用意される道筋が見えてきます。その主要なものが、日本についていえば、無条件降伏政策に基づく言論統制、あるいは国際軍事裁判です。(p.218~9)

 そして…(※1945年)9月6日には、着任一週間後のマッカーサーに、その趣旨にそって無条件降伏政策への転換を指示するトルーマン名の大統領指令が、届いています。
 …この大統領指令には、ポツダム宣言を否定する内容、つまり、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである」旨が、記されていました。
 要は、今後は、ポツダム宣言の「契約的」な基礎は顧慮せず、対等な関係を否定することからもさらに一歩踏み出し、「権威の範囲に対する日本人の質問」すら認めない問答無用の関係、「無条件降伏」関係を打ち立てよ、ということが指令の眼目でした。
 これこそ、ルーズヴェルトが南北戦争の寓話などで示した、原爆を投下された側からの批判、非難をすべてシャットアウトする枠組みを、占領の基礎とするという意思の具体化だったのです。(p.260~4)

 米国は、このとき、直接的・個別的にいえば、原爆投下に対する道義的、法的、政治的な批判が、投下された当事国から現れ、それが国際社会に発信され、原爆をオールマイティの切り札として戦後秩序での完全な優位を確立しようとする自国の世界戦略に不利な影響を及ぼすことを警戒していました。(p.278)

 そしてその警戒は、もっと大きくいえば、これまで述べてきた第二次世界大戦の「世界戦争」としての中途半端さ-連合国vs枢軸国、善悪二元論的構図の数々のほころび-を、戦後、新たに隠蔽し、修復し、国際社会と国内社会の双方に対し、米国の道義的優位性を瑕疵のないかたちで示す、切迫した必要に支えられていました。
 バーンズがなぜ日本の物質的武装解除だけでは足りない、精神的武装解除も必要だといったのか。日本から、米国の民主原則、自由と正義の信奉について、批判が出てきうることを知っていたから、もっとはっきりいえば原子爆弾の投下に後ろめたさを抱えていたからにほかなりません。ですから、そんなクレームが出てこないよう、精神的武器も、使い物にならないくらい、叩きのめせ、といっているのです。(p.278~9)

 さらに一歩進めて、たとえどのように日本から原爆投下に対する批判が出てきても、それが国際社会にはほとんど有効性をもたず、米国の威信を揺るがさないようにすること、つまり、日本を国際秩序の価値観のメンバーから排除すること、いわば、日本を一種の一時的な禁治産国とし、彼らから国際社会における倫理的なメンバーシップを一時的に奪うことが、ルーズヴェルトの念頭にある無条件降伏の最終的な狙い、本質でした。(p.280)

 (※ラダビノード・パール判事) 広島、長崎に原爆を投下したときどのような口実がなされたか。日本として投下されるなんの理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の用意をしていた。連合軍は日本の敗北を知っていた。それにもかかわらず、この残虐な兵器を日本に投下した。しかも実験として広島と長崎に投下したのである。この惨劇についていろいろ考えられねばならないが、しかし彼らの口からザンゲのことばを聞いたことはない。彼らは口実として、もし広島に原爆を投下せねば多数の連合軍の兵隊が死ぬことを強調した。原爆投下は日本の男女の別、戦闘員、非戦闘員の区別なく無差別に殺すことである。いったい、白人の兵隊の生命を助けるために幾十万の非戦闘員が虐殺されることはどういうことなのか、彼らがもっともらしい口実をつくるのは、このような説明で満足する人々がいるからである。(p.290~1)

 この原爆慰霊碑が生まれるには、平和公園の建設が先決で、それにはまず焦土の広島の復興が必要でした。しかし、広島の復興は、占領軍当局の顔色をうかがう日本政府から、冷淡に扱われました。こうして、占領下、「原爆憎しとアメリカを非難する」姿勢では無理と考えた広島関係者がたどりついたのが、「過去よりも未来の平和創造に国家的意義を見いだすというアイデア」だったといいます。広島は「過去にこだわらず、平和実現にのみ力を尽すべき」と考えられ、また自らもそこに活路を見出したのです。
 平和公園の建設、原爆慰霊碑の建立、碑文の選定は、この延長上にきます。つまり、完成と建立は講和後でしたが、そのみちすじはすべて占領体制のもとで決められていました。
 米国批判をしない、過去をふり返らない、ということは、GHQの求める完全鉄則でした。しかし、それに屈伏するのでも、迎合するのでもなく、もっぱら自らの体験に立って、「未来の平和創造」という一点で時の政府との合意点(「国家的意義」)を押さえ、「平和実現にのみ力を尽くす」ことに踏み出していこう-。
 ここには、先に「朝日新聞」に見た転進の論理と同じ重合性が指摘できます。つまり、原爆慰霊碑の論理に消えているのは、あるいは隠されているのは、「けっしてうらまない」という言葉の陰に隠れた「米国を批判できない」という無力感、あるいは「米国を批判するべきだ」という抵抗の意思の放棄なのです。(p.292~3)

 パールの批判は、白色人種の人間が人種偏見もあって、このような無差別大量破壊兵器を使った、そのことに抗議すべきだという主張に要約できます。(p.294)

 しかし、「憎しみ」や「うらみ」をもってではなく、自由と民主主義の原理を信じ、平和を希求するがゆえに、自国の犯した犯罪の責任とともに米国の原爆投下の責任を論じる、批判する、という立場がありえます。もしそういう立場に立つなら、この原爆投下の責任を論ずることは、現在にいたるまでその責任を問わない日本政府の責任を問うこと、その延長で現在なお米軍基地の現存を容認する日本政府の責任を問うことに、つながるし、また同時に、中国や韓国からの同様の戦時行為に対する批判にしっかりと向きあわない日本政府の姿勢を弾劾する日本の加害責任論へと、私たちを押しだすでしょう。
 つまり、「原爆投下の責任を論ずる」ことが、日本の「加害責任」を着脱可能なかたちではなく、にっちもさっちもいかない、どうしてもそれから逃れられないあり方でそれを引き受けるための、じつは入り口なのです。そしてそれが、無条件降伏政策への抵抗の完成形でもあるでしょう。
 逆からいえば、そうでない限り、どんなに口で加害責任をいっても、それは、言葉の綾にすぎません。相手の加害責任を問う。その立場は、たしかにさまざまにありえますが、ここで「ことばをもつ」とは、相手に通じることばをもつ、ということです。そしてそれは、価値観を共有していることを宣揚するということでもあります。そこでは、同じ価値観の共有の宣揚として、相手の非を批判することと相手から批判される非に誠実に応え、謝罪することが、等価の行為を意味するのです。(p.294~5)

 原爆投下に関しては、日本では、長い間、「うらみ」でも「赦し」でもなく「批判」を示すことが投下した者に対する積極的なコミット(関与)を意味するという観点が、示されませんでした。示されても、それは孤立しました。そのよい例が、1955年に開始された原爆訴訟、別名下田判決だったでしょう。
 これは、広島と長崎の被爆者55名が国を相手に損害賠償(原爆投下による精神的損害に対する慰謝料)と米国の原爆投下を国際法違反と認定することを求めて訴えでたもので、1963年に東京地裁で結審しました。判決は、原告の請求は棄却、しかし、「米軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」とし、「被爆者個人は損害賠償請求権を持たない」が、原爆被害における国の責任は大きいことを認定するものでした。(p.296~7)

 ほんとうは、日本政府がやるべきことを、誰も政府に求めず、政府もこれを行わないというなかで、被爆者自身が自ら立ち上がって国際社会に向けて提起した画期的なコミット、訴えでした。
 原告側の論理は、米軍の原爆投下は、国際法に違反する不法行為であり、原爆の被害者は米国に対して損害賠償請求権をもつが、それを日本政府がサンフランシスコ講和条約によって放棄している。よって、日本政府は米国政府に代わり、原爆被害者に補償・賠償を行え、というものです。これに対し、東京地裁は、賠償請求は棄却したものの、戦時国際法・国際人道法からなる国際法が原則として、非戦闘員や非軍事施設への攻撃を禁止していること、不必要な苦痛を与える兵器の使用を禁止していることを理由に、原爆投下は国際法に違反していると判決したのです。
 これに対し、日本政府は、米国政府の立場を擁護し、代弁することに終始しました。原告の国際法違反の訴えに対し、「必ずしも国際法違反であるとは断定し難い」と、こう主張したのです。
 一、当時、「新兵器についての国際慣習法は全くなかった」、よって「原子兵器に関する実定国際法は存在しなかった」、
 二、「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした」、
 三、日本政府が先に1945年8月10日「スイス政府を通じて米国政府に対して」行った国際法違反との抗議は、「当時交戦国として」これを「主張したのであって、交戦国という立場を離れて客観的にみるならば、必ずしもそう断定することはできない」。
 この判決もいうように、国際法違反の訴えを起こすことができる法主体は、個人ではありません。もし、米国の原爆投下が国際法に違反するという訴えを起こすことができる主体があるとすれば、それは日本政府しかありません。
 そういうなか、個人が米国の原爆投下に国際法違反判決を求めたこの企ては、これまで世界で唯一の国際法違反の判決例となりながら、国内でも、国際社会でも、孤立しています。(p.297~8)
 なお「あとがき」の一文にもいたく感銘しました。そうですよね、まったくそのとおりです。“人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。子どもを救え…” 『魯迅選集』(岩波書店)第一巻所収「狂人日記」 p.27
 この本を、高校生くらいの若い人にも、読んでもらいたい。
 大学生にも読んでほしい。
 そういうチャレンジの気持ちを、書き手として抑えられない。
 そういう人を説得できなければ、日本の平和主義に、末来などないに決まっているからである。(p.632)
 それではオバマ大統領、心よりお待ちしています。
# by sabasaba13 | 2016-05-25 06:38 | | Comments(0)

『暗闘』

 『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(長谷川毅 中公文庫)読了。F・D・ローズヴェルトの死とトルーマンの登場、ポツダム会談、原子爆弾の実験成功、広島への原爆投下、ソ連の参戦、長崎への原爆投下、ポツダム宣言受諾、ソ連による千島(クリル)列島への侵攻、息が詰まるような太平洋戦争の最終局面を、豊富な史料を駆使しながら、スターリンという重要なアクターに目を配りつつ叙述した力作です。
 著者の長谷川氏は、アメリカ市民権を取得し、カリフォルニア大学でロシア史を研究されている方です。よってこれまでの研究では不十分であったスターリン=ソ連の政策や意図について、かなり詳細に考察されているのが印象的でした。知力・気力の限りを尽くし、相手の出方を窺いながら、時にはしたたかに時には真摯に時には威圧的に時には慎重に、それぞれの「国益」をめぐって暗闘をくりひろげるスターリンとトルーマン。外交とはこういうものかと痛感しました。大粛清を行い全体主義体制を築いたスターリンではありますが、外交家としての力量はやはり卓絶したものです。もう一つの軸となるのが、降伏をめぐる日本の支配層の動きです。ドイツ降伏、沖縄での敗戦、ポツダム宣言発表など、戦争を終結させる機会が幾度となく存在したにもかかわらず、意見が分かれてその決定ができなかった為政者たち。そのためにいかに多くの人命が失われたことか。長谷川氏はそれを舌鋒鋭く批判します。
 しかし日本では、ソ連の「火事場泥棒」のような振る舞いやアメリカの原爆投下を非難する声はあっても、戦争の終結を遅らせた日本の指導者の責任にたいする批判はあまり聞こえてこない。もし、日本政府がもっと早い段階でポツダム宣言を受諾して戦争終結の決断をしていれば、原爆もなかったし、ソ連参戦もなかったであろう。これは、必ずしも、ないものねだりではない。実際に、佐藤尚武大使、加瀬俊一スイス公使、松本俊一外務次官などは、これを主張していた。
 日本国内の政治決定過程ではこのような政策をとることが不可能であったというのは、指導者の主体的な責任を政治機構の不備にすりかえる議論である。そもそも政治指導者の指導力とは、機構の制約を超えて発揮されるものである。とりわけ緊急事態においてはそのような指導力が要求される。鈴木、東郷、木戸、米内、そして天皇自身を含めて、原爆とソ連参戦という二つの外圧があるまで、決定的な行動をとらなかった日本の指導者の指導力の欠如こそが、トルーマンの原爆投下とスターリンの参戦以上に、回避できたかもしれない戦争の大きな惨禍をもたらした最大の理由であった。(p.274~5)
 なぜ決定ができなかったのか。要するに、国民の生命よりも、組織防衛と自己の権勢の維持、および責任逃れを重視したためですね。その際のキーワードが「国体」です。私考えるに、「天皇の名を使えば、責任を問われずに好き勝手に、野放図に権力を使える体制」です。その体制を死守しようとする軍部、その体制が多少こわれても皇室の安泰さえ確保できればよしとする宮中グループ。そこには、国民を守るという視点は全くありません。やれやれ。こういう方々にきっちりと落し前をつけさせ、かつそれを歴史的記憶として共有するという作業を怠ったのが、現在につながっていると思います。あいもかわらず、組織防衛と自己の権勢の維持、および責任逃れを最重要視する管理エリート(官僚・政治家・財界)がいかに多いことか。

 もうひとつの読みどころは、原爆投下に関する分析です。とくに新しい視点はありませんが、豊富な史料を使って、その経過を手際よくまとめられています。
 アメリカで広く信じられている原爆投下正当論は、二つの仮定の上に成り立っています。第一の仮定は、トルーマン大統領は日本を降伏させる手段として、原爆投下か、アメリカ兵の大きな犠牲を伴う日本本土侵攻の二者択一を迫られたこと。第二の仮定は、まさに原爆投下こそが日本政府が降伏を受け入れた決定的な要因であること。以上二つの仮定から、原爆投下は、日本本土侵攻の際に予測される百万以上のアメリカ兵の命を救うためには必要であり、正当化されると論じられます。
 しかしながら、トルーマンには、上記の二つ以外にも、(1)ポツダム宣言にある無条件降伏の条項を修正して、日本が君主制を維持することを許容する条件を盛り込む、(2)予定されているソ連参戦が日本政府にいかにインパクトを与えるかを待つ、(3)スターリンがポツダム宣言への署名の要求をしてきたときこれを排除せずに受けいれる、の少なくとも三つの選択肢がありました。ところが、…政治的理由からトルーマンはこの三つの選択肢を斥け、原爆投下を急ぐことによって、ソ連参戦以前に日本に無条件降伏を突きつけて戦争終結の果実をソ連抜きで勝ち取ろうとしました。すなわち、私は、トルーマンには二つの選択肢以上の選択があり、これらの選択を排除して原爆投下を行ったと論じ、第一の仮定を否定しました。(下p.284~5)

 8月10日に日本の政府は、スイス政府を通じてアメリカ政府の原爆投下に抗議する一声明文を送った。この抗議文にはこう書かれている。アメリカ政府による原爆の使用は不必要な苦痛を与える兵器、投射物その他の物質を使用することを禁じた「ハーグ会議の陸戦の法規慣例」に関する第22条に違反しており、

「米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別性かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止されをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり…。いまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化にたいする新たな罪悪なり。帝国政府はここに自らの名において、且つ又全人類及び文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」

 トルーマンはもちろんこの抗議文に回答しなかった。日本政府もアメリカの占領を受け入れた後、アメリカの安全保障体制の庇護の下に入り、また冷戦が到来してからは、原爆投下の件でアメリカを非難するのは都合が悪くなり、この抗議文はいわば歴史の芥箱の中にほうり捨てられてしまった。この抗議文以降、日本政府が原爆投下に関してアメリカ政府に抗議をしたことはない。
 このように抗議した日本政府自身が、戦争の法規に違反する非人道的行為を行ったことはもちろん事実である。1937年の南京虐殺、悪名高い731部隊による細菌戦争の人体実験、バターンでの死の行進、連合国捕虜の処刑・虐待など、日本軍の残虐行為の例は枚挙にいとまがない。しかし、こうした行為にたいして日本人が負わねばならない道徳的責任をもって、日本政府が原爆投下に抗議することはもってのほかであるとする議論は成り立たない。倫理的責任は相対的なものではなく、絶対的な価値だからである。すでにまったく忘却されたこの日本政府の抗議が再考されなければならない。
 アメリカ人は、広島・長崎への原爆の投下は日本を降伏させるために必要であり、正当化されるという神話にしがみついて自己の倫理的責任を回避することはもはやできない。…
 アメリカの名誉のために、アメリカ人は原爆投下はアメリカの歴史の負の遺産であることを直視しなければならない。ここにこそアメリカ人の尊厳がかかっている。(下p.269~71)
 私もはじめて知ったのですが、2005年にドイツでドレスデン爆撃の60周年追悼式が開かれた際に、米国、英国、フランス、ロシア代表を前にして、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相は「われわれは本日ドイツのドレスデンとヨーロッパにおいて戦争とナチスのテロの支配の犠牲になった人々に追悼の意を表すものである」と宣言したそうです。一方、広島の平和記念式典での菅直人首相の演説では、「日本が今後核のない世界を建設する運動の先頭に立つ決意」を表明しながら、原爆投下の背景にあった戦争における日本の責任についてはいかなる言及もなかったそうです。

 己の戦争犯罪を認めてきちんとした形で謝罪・補償をおこない、そしてアメリカ合州国の名誉と尊厳のため、原爆投下に対する謝罪を求める。安倍伍長にはかなり荷が重い仕事かな。でもぜひ行なっていただきたいものです。
 そして広島を訪れるオバマ大統領には、未来だけではなく、過去にも眼を向けていただきたい。ある政治的目的のために無差別に人間を殺傷することを"テロ"と定義するならば、原爆投下という最悪・最凶・最低の国家テロを行なった国は、今のところアメリカ合州国だけなのです。(ちなみに"テロ"を実行した人間を"テロリスト"と呼びます。だとすると原爆を投下したアメリカ大統領は史上最悪の"テロリスト"ですね) それについて謝罪せず正当化するということは、ふたたび繰返す意思を持っているのでしょうか。

 オバマ大統領のスピーチに注目したいと思います。
# by sabasaba13 | 2016-05-24 06:32 | | Comments(0)

『日本の百年7 アジア解放の夢』

 ひたひたと迫り来る戦争の足音、5兆541億円の軍事費、政治家・官僚の頽落、萎縮し権力に迎合するメディア、炎上するナショナリズムとレイシズム、果てしなくひろがる貧富の差。その荒涼たる光景に慄然とし立ち竦んでしまいます。1920~30年代の日本にも、きっとこのような光景がひろがっていたのかなと想像します。だとしたら、同じ失敗を繰り返さないためにも歴史を学ぶことは私たちにとって喫緊の課題です。
そこでみなさまに紹介したいのが、ちくま学芸文庫におさめられている『日本の百年』全十巻です。そんじょそこらの凡百な通史、教科書・参考書のような事なかれ主義の平板な通史とは、雲泥、月と鼈、提灯と釣り鐘。開国以来日本の歩んできた百年、そこに生きた人々、当時の雰囲気、世相風俗を浮き彫りにしたドキュメントです。公式記録、史料、体験談、新聞、雑誌、回想録、流行歌を駆使して、その時代の息吹や人々の息遣いを再現しています。その博覧強記たるや、もう脱帽です。それもそのはず、編著者は鶴見俊輔、松本三之介、橋川文三、今井清一といった錚々たる手練。ドキュメントを貫き支える骨太の歴史観にも、学ぶところ大でした。ただ残念ながらほとんどの巻が絶版、でもインターネットの古本屋で手に入るかと思います。
 いずれ劣らぬ面白さですが、出色なのはやはり『日本の百年7 アジア解放の夢』(橋川文三編著)です。1931年の満州事変から1937年の南京攻略の時代、内に東北農村の凶作、権力による苛烈な弾圧、昭和維新の嵐、外に満州国の建設、抗日の激流、そして社会が不安と退廃に澱んでいた時代です。前述のように、今現在を彷彿とさせる時代であるだけに、ぜひとも知っておきたい、いや知らなければいけない歴史だと思います。

 この時代の躓きのひとつに対中国関係がありますが、それに関する孫文の言葉と橋本氏の分析を引用します。
 1924年11月、日本を訪れた孫文は、長崎においてつぎのような談話をおこなった。
  「日本の維新は中国革命の第一歩であった。中国革命は日本維新の第二歩である。中国の革命と日本の維新とは、実際同一の意味のものである。おしいかな、日本人は維新後富強を致し得て、かえって中国革命の失敗を忘失してしまった。ゆえに中国の感情は日に日に疎遠となった。」
 この短かいことばの中に、五十年にわたる日中両国の関係の明るい面と暗い面とが、簡潔にものがたられている。(p.15)

 日本のエリートも国民も、革命中国の中に明治維新の精神を見る能力をしだいに失っていった。日本はかつてその味わった植民地化の危機意識をおき忘れ、しだいに先進帝国主義国に追随する「優等生」として、後進中国を「劣等生」と見る習慣を身につけるようになった。
 1915年、日本によって中国に強制された二十一カ条要求は、早熟な優等生のおかした致命的な失敗であった。それは中国民族にとって「国恥」の意識をきざみつけることになった。さらにまた中国革命の波が北伐によって新たな昂揚を示したとき、日本は露骨な干渉出兵(山東出兵)を三たびくり返して、中国の民心を刺激した。
「なんといっても山東出兵はわが国の大失敗だった。あらゆる方面よりみて失敗だった。この暗愚な一事件のため、日支の関係は根柢より攪乱された。実に不用意な出来事にして、かつとり返しのつかぬ失敗である。」(長島隆二 『政界秘話』 1918)
 日本は中国の現実とその未来をとらえる能力を見失った。そこには悲劇的な無能さがあった。孫文はその死の前年、「西洋帝国主義の番犬となるか、あるいは東洋王道の前衛となるか」という選択を日本国民の前に呈示した。しかし、維新後五十年をへた日本国民の意識からは、中国ナショナリズムへのリアルな感覚は失われ、中国の個々の行動への軽べつと憎しみのみが国民心理をとらえていた。のち1933年、日本は国際連盟において「中国は国家にあらず」と宣言してはばからなかったが、その心理は大正年間を通じて久しくやしなわれたものであった。(p.17~9)
 なるほど、中国革命やナショナリズムを「第二の明治維新」ととらえるのは炯眼ですね。不平等条約を強要されて苦しんだ近代日本なればこそ、すぐ気づきそうなものですが。たとえば、ソ連が北海道を武力占領して領有し、同国にとっての「生命線」であるとして傀儡国家として独立させたら、当時の日本人はどう考えるか。「中国の現実とその末来をとらえる能力を見失った悲劇的な無能さ」という言葉が胸に突き刺さります。もしかするとわれわれはその能力をいまだに見失っているのかもしれません。

 またこの時代に、国家権力に抗いながら生き抜いた人びとがいたことにも勇気づけられます。岩倉靖子、魯迅、小林多喜二、多喜二の母セキ、武谷三男、ねづまさし、野上弥生子、いずれも忘れ難い方々です。
 華族制度の生みの親ともいうべき岩倉具視の家系に、靖子のような共産主義者が現われ、華族制度を批判したのは、まったく皮肉というほかない。
 1932年秋検挙されて、一年間拘留された岩倉靖子は、この間、頑強な女党員として警察や岩倉家を手こずらせた。だが、彼女につねに同情的だった兄具栄の宮内省退職は彼女の心を動かした。ついに獄中で転向した靖子は、保釈で出所した。そして母のもとに帰って十日、明日は予審終結という早朝、彼女は自殺したのである。日本の思想史全体を通じて、転向の責任をとるために自殺した例は非常に少ないが、この22歳の貴族の娘には、恥の倫理が生きていたのだろうか。(p.101)

 中国の文学者魯迅は、小林の死を悼み、暴虐な権力に抗議して日本文でつぎのような弔電をよこした。
「同志小林の死を聞いて
 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその血で界をえがいた、またえがきつつある。
 しかし、無産階級とその先駆たちは血でそれを洗っている。
 同志小林の死はその実証の一だ。
 われわれは知っている。われわれは忘れない。
 われわれは堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。」(『プロレタリア文学』 1933年4・5合併号)
 多喜二の母セキは、1961年5月小樽で死んだ。多喜二が「蟹工船」で不敬罪に問われ、獄中にいたころ、彼女は息子との文通のために字を書くことをおぼえた。彼女の死後つぎのようなことばをしるした紙片が見出された。
「あーまたこの二月の月がきた ほんとうにこの月とゆ(いう)月か(が)いやな月 こい(声)をいぱいになきたい どこにいてもなかれない あーて(で)もラチオ(ラジオ)て(で)しこす(少し)たすかる あーなみたかてる(涙が出る) めか(が)くもる」 (p.260~1)

 滝川事件で、政府の思想統制に反対する運動の中心となった京都に、もう一度、軍国主義にたいする反対の運動がうまれた。
 満州事変の前年、1930年9月に、美学者の中井正一、美術史家でオーケストラの指揮者でもある長広敏雄を中心として、『美批評』という同人誌が発刊された。これは近代美および新しく解釈された日本古典美術の紹介研究を目的とする、純粋の学術雑誌だった。発刊後三年目に起こった滝川事件は、このグループの性格を変えた。このころ、雑誌は一時休刊となったが、美批評研究会という名前で、大阪朝日社長上野精一から月二十円の援助をうけて会合をつづけた。新しいメンバーには哲学者の真下信一、久野収、梯(かけはし)明秀、数学者近藤洋逸、物理学者武谷三男、フランス文学者新村猛、ドイツ文学者和田洋一、歴史家禰津正志、北山茂夫、ロシア文学者熊沢復六、政治学者大岩誠、滝川事件のときに京大をやめた法律学者加古祐二郎、弁護士の能瀬克男らが加わった。
 1935年2月、このグループは『世界文化』という月刊雑誌を出しはじめた。(p.355)

 1937年1月、作家野上弥生子は、年頭の新聞につぎのような願いを書いた。
「…神聖な年神様にたったひとつお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、大火事があっても、暴風雨があっても、大噴火があっても、コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように…」 (p.511~2)
 また、こうした暗い時代が、今まさに再び現前しつつあるように思われるのは、国家権力の中となった「管理エリート」たちが、責任を問われずに戦後も活躍したということにあると考えます。例えば、ファシズム体制構築に欠かせない強制的同質化(グライヒシャルトゥング)の主役となった内務官僚・警察官僚・司法官僚たちです。最近読んだ『ファシズム』(山口定 有斐閣選書)の中に、"近年の研究が一致して指摘しているところによれば、内務官僚、とりわけ警察官僚の優位は極めて顕著であり、そのことが、日本ファシズムの場合、「下から」の自発性に支えられた大衆動員を困難にしたといわれる"(p.223)という指摘がありましたが、「上からの」ファッショ化を推進した方々です。統治行為論を挙げるまでもなく、法治国家・立憲主義が平然と踏みにじられるケースが多いのも、これに関係していそうです。
 このエピソードの中に、ナチスと日本の国家主義のちがいが現われている。侵略戦争のための思想統制を担当しながら、ドイツにおいては、ヒムラーは敗戦とともに自殺し、日本においては、思想統制の直接担当者である山崎巌元内務省警保局長・警視総監・内務次官は、戦後内務大臣・衆議院議員となり、転向対策を立案した大審院検事池田克は、戦後の最高裁判所判事、おなじく立案者の名古屋区裁判所検事長部謹吾は、戦後の検事次長である。彼らの努力は、ヒムラーのように鞭だけを持ってするのではなく、片手に鞭を持ちつつ温情をもって接することで、国体観念を共産主義者の心の中にしぜんに湧きあがらせるという形をとった。(p.301~3)
 そして中国外交部長・張群が、当時の日本における政治を「おみこし」に譬えて鋭く分析した一文には、脱帽しました。
 日本の政治、思想がしだいに異常なゆがみをあらわしはじめたころ、中国の外交部長張群は日本の行動をおみこしにたとえて、つぎのように語った。
「(日本のゆき方は)自分が日本に留学していた時代に、お祭に出てくるおみこしを見たことがあるが、ちょうどあのおみこしのかつぎ方に似ている。おみこしのお通りになった跡をよくみると結局は目的地に到着してはいるが、その途中では、あるときはあっちの電信柱にぶつかりそうになったり、あるときはこっちの店先にとび込みそこなったり、これを側で見ているものからはハラハラすることばかりだ。しかし、これは誰かがことさらにそんなかつぎ方をさしているのかといえば、結局そうではない。おみこしはほとんど不可抗力的に電信柱にぶっつかり、または店先にとび込もうとしている。(略)
 支那のほうでは日本のおみこしさんを誘導しているのが、日本の軍部の力だと、こんな具合に観察している者が多い。しかし、これもまたおみこしさんというものの実情をみた経験のある自分からいわせれば、日本のおみこしさまも、決して軍部の思う通り動くものではない。」(根本博 「南北支那飛脚記」、『文藝春秋』 1936.3)
 この見方は日本ファシズムのエネルギーのあり方をよく示している。「みこし」とは、神聖な権威を象徴しており、それをかつぐ人びとは権力の地位にある軍人や官僚や狂信的な学者・思想家、もしくは右翼の無法者たちであった。彼らはみこしを振りまわすことによって、無責任にすべての異端者におそいかかり、それをおしつぶした。
 日本社会におけるもっとも正統的な権威はいうまでもなく国体であり、それを肉体化した天皇であった。しかし国体が何であるかは日本の国体論者にも明確に定義することはできなかった。それは気体のようにとらえどころのないある普遍的なものとして偏在した。それは限定されえないあるものとしてかえって人間の根源的エネルギーの源泉となることができた。みこしに意志はない。しかしかえってあらゆる人間集団の欲望をみたす象徴となることができた。(p.374~7)
 なるほど、絶対的権威のもと匿名で、leadershipなきまま権力を行使するエリートたち。絶対的権威を畏怖して、批判もせずに道を空けてしまう民衆。「おみこし」とは言い得て妙、卓抜な比喩です。その「おみこし」は、戦前は天皇、今はアメリカ合州国なのでしょう。

 さてその「おみこし」がそろそろ来日します。広島でどのようなスピーチをするのか注視したいと思います。
# by sabasaba13 | 2016-05-23 06:34 | | Comments(0)

厚揚げ油淋鶏

 山ノ神とNHK『きょうの料理』を見ていたら、「"ボルシー"おかず」という特集をしていました。なんじゃそらあ、と声を合わせた二人。なんてことはない、ボリュームがあってヘルシーな料理という意味でした。その中で紹介された一皿が、「厚揚げ油淋鶏(ユーリンチー)」でした。鶏肉のかわりに厚揚げを使った、ボルシーな料理。手間もいらないし、私の大好きな厚揚げとゴマも楽しめるし、さっそくつくってみました。そういえば、拙ブログでこれまでいろいろと紹介してきました。列挙いたしますと、極上ハンバーグしらすふりかけ雪虎菜の花スパゲティーたまねぎ納豆麻婆豆腐鳥団子なべカツオの刺身とマヨネーズたまご丼ほうれんそうカレーなどなど。しかしここしばらくレパートリーが増えておりません。気持ちのゆとりを失っているということなのでしょうか、自戒。

 それではレシピを紹介しましょう。まずタレは、醤油:酢:ごま油を4:4:1の割合であわせ、みじん切りの葱と生姜、そして白胡麻を適量加えます。なお番組では砂糖を加えていましたが、これは好みによりますね。私はいれません。そして3cm角に切った厚揚げに醤油をまぶし、ごま油で焼き色がつくまで炒めます。これを皿に盛ってさきほどのタレをかければフィニート。
 焼きめが香ばしい厚揚げ、胡麻と葱の風味、すっぱいタレが絶妙のマッチングです。私はシーザー・サラダ用のカット野菜をスーパー・マーケットで購入して、その上に盛りつけたのですが、このタレで野菜も美味しくいただけました。山ノ神も「美味しい美味しい」と連呼しながらたいらげてくれました。手料理を伴侶に誉めてもらうのは嬉しいもの、小さいけれど確固たる幸せ(小確幸)です。ほんとうに簡単につくれておいしいのでお試しあれ。
厚揚げ油淋鶏_c0051620_6295024.jpg

# by sabasaba13 | 2016-05-22 06:30 | 料理 | Comments(0)

言葉の花綵141

 ノー・パサラン! (奴らを通すな) (ドロレス・イバルリ)

 孤立、我等を殺す。(荒畑寒村)

 人間というものは、せんじつめれば、消化器と生殖器からなりたっている。(グールモン)

 ずるい者でも、あんまりずるく考えすぎると、ばかよりもばかになる。(平塚武二)

 東は東、西は西、両者はとわに逢うまじき。(キップリング)

 絵を描くより、ほかのことをしているほうがたのしいです。欲なし、計画なし、夢なし、退屈なし、それでいていつまでも生きていたいのです。石ころ一つそばにあれば、それをいじって何日でも過せます。(熊谷守一)

 親のスネはかじれるだけかじれ。(小林太市郎)

 人の話をまず聞き、こちらの意見はそれから述べ、怒るのは最も後にせよ。(寺田スガキ)

 しかるときはこっそり、誉めるときは人前で。(寺田スガキ)

 自分につましいのが倹約、人にやらないのがけち。(寺田スガキ)

 価値観なんてバラバラのほうがいい。みんながそれぞれ「ひとりよがりのものさし」を持ってくれれば嬉しいな。(坂田和實)

 一方で従属国を責め立て、残忍さを撒きちらし、それを日常化し、公然と煽り立て、他方で大衆や個々人を無価値物のごとくに操りうる権力に対しては卑屈になり、黙従する。こうした特徴はすべて、近代の全体主義的独裁を何よりもはっきりと思いおこさせる。(シモーヌ・ヴェーユ)

 人間が想像できることは、必ず人間が実現できる。(ジュール・ヴェルヌ)

 日本人はアラシの中の竹の姿を愛する。竹は強風が来れば首を下げ、嵐が去るとまた元に戻る。西洋人なら、強風に対して鉄の壁で防ごうとするだろう。このわれわれと根本的に物の考え方の違う日本人と抽象的な話し合いをしてもムダである。(マイロ・ラウエル)
# by sabasaba13 | 2016-05-21 08:11 | 言葉の花綵 | Comments(0)