伊勢・美濃編(60):明治村(14.9)

 尾西鉄道蒸気機関車1号は、尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車です。
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 六郷川鉄橋は、新橋‐横浜間の鉄道を複線化するにあたり、日本ではじめてつくられた鉄橋です。なお日本に現存する鉄造人道橋の最古のものは、東京にある弾生橋です。
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 鉄道寮新橋工場は、新橋ステンショ(停車場)に併設された機関車修復所です。鋳鉄柱をはじめ外壁の鉄板、サッシ等、全ての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建設された鉄造プレハブ建築物です。なお、広い工場の内部は明治の機械類の展示場(機械館)として活用されており、日本の産業革命を支えたリング精紡機などが展示されていました。
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 その近くに野外展示されていたのが明治の水道管、1911(明治44)年に釜石鉄工所でつくられたものです。
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 工部省品川硝子製造所は、工部省がガラス製造のためにつくった工場です。工部省は、日本に近代工業を早急に根付かせるため、設備、技術者など必要なもの一切を導入する方針をとり、多数のお雇い外人が来日指導に当たりました。この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン、スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設備をもって、食器など日用ガラス器の製作をしました。なお1885(明治18)年にこの工場は民間に払い下げになり、明治末に三共合資会社製薬場となって、有名な高峰譲吉や鈴木梅太郎の創製により薬品も製造されたそうです。
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 そして私の大好きな宇治山田郵便局との再会です。正面中央のドーム屋根、その両脇に屹立する角塔、ハーフティンバー様式の外装、漆喰塗と下見板張の壁、なんとも魅力的な物件です。入口を入ると円形の「公衆溜」と呼ばれたホールがあり、その周囲にはカウンターが廻らされています。天井の高窓から光が入り、たいへん明るいホールとなっています。
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# by sabasaba13 | 2016-05-20 07:03 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(59):明治村(14.9)

 シアトル日系福音教会は、もともとアメリカ人の住まいでしたが、その後日系移民の住居となり、第二次大戦後には日系一世が礼拝や移住当時の苦難を語り合う福音教会として使われました。そういえば家具職人のジョージ・ナカシマは、シアトル出身の日系二世でしたっけ。彼もここを訪れたことがあるのかな。
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 次はブラジル移民住宅。1908(明治41)年の日米紳士協約により、アメリカへの新規移民が大きな制約を受けるようになると、代わって南米への移民が開始され、同年には781名の日本人が契約労働者として笠戸丸ではじめてブラジルへと渡航、サンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事しました。その後、ブラジルへの移民は年々増加し、昭和初年の最盛期にはその数は年間二万数千人にも及びましだ。この建物は、ある日本人移民が、慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら、密林を拓いて造った家の一つです。
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 ハワイ移民集会所は、ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会でした。その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われました。床が高いのは、未だ開発の進まない土地で治水も不完全で、出水や湿気の心配があったと考えられます。入口に取り付けられた太鼓橋もそのためでしょう。
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 建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘です。
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 なおハワイ移民は明治元年、新政府に無許可のまま在日ハワイ総領事ヴァン・リードによって送り出された「元年者」にはじまります。彼らは労働者不足の砂糖工業に就いたが、炎天下での長時間の作業のため苦労を重ねました。明治4年日布修好条約締結、明治14年ハワイ王朝カラカウア王来日などさらに移民交渉が進められ、明治18年からは26回にわたり官約移民が送られました。しかし不遇のなか契約期間の3年を迎えても貯蓄ができず残留するものがほとんどでした。

 以上三軒、日本人移民の歴史を語る、物言わぬ貴重な証言者です。こうした物件まで保存してあるのが明治村の懐の深さ、その見識に敬意を表します。
# by sabasaba13 | 2016-05-19 06:35 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(58):明治村(14.9)

 歩兵第六聯隊兵舎は、名古屋に置かれたものです。明治政府は軍隊に関してはフランスに教えを受けたので、こうした軍用建造物も、フランスの建築書を基に造られました。
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 なおこの後、政府はドイツを手本とするようになりますが、最近読み終えた『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(片山杜秀 新潮選書)に興味深い記述があったので紹介します。
 明治維新によって誕生した日本陸軍は、旧幕府陸軍が万事フランス式に訓練されていた電燈を継承し、かの国を模範とします。当時のフランス陸軍も防御一辺倒。したがって創成期の日本陸軍も攻めより守りを重視したのです。よく防ぐ側が勝つ。それが明治初期の日本陸軍の中心的哲学でした。
 ところが、この1860年代的常識を1870(明治3)年から翌71年にかけての普仏戦争が揺り動かします。防戦を旨とするフランス陸軍に、旧式とも言える正面突破を第一義に掲げて吶喊攻撃をくりかえすプロイセン陸軍が勝ってしまった。フランス陸軍も攻撃の意義を見直しはじめ、新教義が日本にも伝来します。防御より攻撃が重要なら、後追いのフランスよりも本家のドイツに習った方が手っ取り早いだろう。普仏戦争以来、ドイツ贔屓となっていった山県有朋、大山巌、桂太郎、川上操六らによって、1880年代のうちに陸軍の準拠国はフランスからドイツに切り替わってゆき、1890年頃には軍楽隊教育などの限られた領分を除いてフランス色はついに一掃されます。よく攻める側が勝つ。哲学は改まったのです。(p.112)
 へえーなるほど、普仏戦争が転機となって日本の戦争哲学が変わったんだ。この後、第一次世界大戦を経てさらにどのように変化をし、それが十五年戦争という結果にいたるか、たいへん鋭い分析がなされている好著です。お薦め。

 本格的な洋式大病院の建設は軍隊によって行われ、名古屋衛戍病院はその初期例です。造りは質素ですが、清潔感にあふれたいかにも病院という雰囲気です。
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# by sabasaba13 | 2016-05-18 06:54 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(57):明治村(14.9)

 宗教大学車寄は、バロック風の大屋根を頂く壮大な本館が解体されるのを惜しみ、その俤を残すこの車寄部分を移築したそうです。
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 「無声堂」は、金沢にあった第四高等学校の武術道場です。古来、武士のたしなみとして剣術、柔術、水術等様々な武道が伝えられてきましたが、明治初年の新しい学校体育では体操が中心で、武道はとりあげられませんでした。1882(明治15)年に嘉納治五郎が柔道を創始して古武道の改革をはかりますが、これが下地となって、日清戦争後、15歳以上の強壮者に対し武道を正課外で習わせることが認められました。明治後期になると、国内全般に尚武的気風が高まり、それまで欧米式体育に対する反省もあって、学校体育に武道が加えられるようになったそうです。この「無声堂」は、柔道、剣道、弓道三つの道場を兼ね備えた大きな洋風建築物です。柔道場では床の弾力を増すため床下にスプリングを入れ、剣道場では音の反響を良くするため床下に共鳴用の溝を掘ってあります。
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 次は、日本赤十字社中央病院病棟。西南戦争の際に、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が、1886(明治19)年のジュネーブ条約に加盟によって、日本赤十字社と改名。その際に皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、この病院が建設されました。設計は、赤坂離宮と同じ片山東熊です。防湿・採光・換気のための大きなガラス窓が印象的ですね。患者の気鬱をはらすためでしょうか、棟上の換気塔など遊び心にあふれた意匠です。
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# by sabasaba13 | 2016-05-17 06:55 | 中部 | Comments(0)

伊勢・美濃編(56):明治村(14.9)

 亦楽(えきらく)庵は、京都の医家、漢学者であった福井恒斎が、1877(明治10)年頃に裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」を模して自宅の庭に建てたものと伝えられています。そういえば、笠間にある北大路魯山人の山荘「春風萬里荘」にも、又隠を模した茶室「春風庵」がありましたっけ。茶人の憧れの的なのかな。
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 品川燈台は現存最古の洋式燈台です。1858(安政5)年に欧米の列強5ヶ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれましたが、その後に結ばれた改税約書で、外国船のために燈台や航路標識を設けることが取り決められました。江戸幕府ついで明治政府は燈台建設のための技術援助をフランス、イギリスに依頼、東京湾沿岸の観音崎野島崎、城ヶ島、品川の4つの洋式燈台がヴェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設されました。レンズや金属部はフランスから輸入したため、風見の"西"はW(WEST)ではなくO(OUEST)になっています。
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 彼の後、灯台建設はイギリス人のブラントンに引き継がれ、彼が建てた菅島燈台の附属官舎が移築保存されています。そうそう、先日訪れたあの菅島です。明治初期の洋式燈台では、燈火の管理も外国人によって行われたため、付属の官舎も煉瓦造の洋式住宅が建てられています。正面にベランダを配置してあるのはコロニアル風ですね。
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 霧砲は、濃霧時には灯台の光が届きにくいため、火薬を爆発させ大きな音で船舶に陸地があることを知らせた大砲です。音達距離は2~3海里しかなく操作も不便だったそうです。
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 台場鼻潮流信号機は、潮流が急な関門海峡で、潮流の方向や速さを予測し船舶に伝えるために、竹子島に設置されたものです。
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 長崎居留地二十五番館は、明治期日本の造船業の発展に寄与したスコットランド出身のコルダーの住宅です。三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築です。
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 神戸山手西洋人住居は、長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違います。平家建でゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を残すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっています。これは、当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと考えられます。この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるため、工夫がこらされています。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せています。
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# by sabasaba13 | 2016-05-16 07:38 | 中部 | Comments(0)