伊豆編(2):寝姿山(05.3)

 さてさて寝姿山山頂には、下田出身の下岡蓮杖(れんじょう)写真記念館もあります。長崎の上野彦馬とならび写真術の草分け的存在です。そういえば横浜に、彼の写真店の記念碑がありますね。蓮杖自身に関する展示は貧弱ですが、写真の歴史については充実しています。フェルメールも利用したという「カメラ・オブスクーラ」(暗い部屋のピンホールを通して差し込んでくる光によって、外の景色を投影させる器械、カメラの原型)をはじめて見ることができました。なお山ノ神がはじめて買ってもらったというカメラ「フジペット」の写真が展示されていました。感極まった彼女を見ながら、子ども時代の思い出とカメラって強い結びつきがあるのだなあと思いました。今のカメラ付き携帯電話には、思い出を喚起する力はあるのでしょうか。ないような気がするなあ。
 山頂一帯は花々が咲き乱れ、私の大好きな菜の花が満開です。菜の花越しに見下ろす下田の港はなかなかの絶景でした。また東急の創始者五島慶太の記念碑もあり、「五島慶太は伊豆とともに生きている」と刻まれています。かつて"強盗慶太"と異名をとり、"ピストル堤(堤康次郎)"と箱根の観光開発を競い合った男です(箱根山戦争)。なお堤の渾名は、実弾(現金)をうちまくったところからつけられたそうです。ライバルの息子の醜態をどんな気持ちで見ているのかな。
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 ロープウェーで下山し、時間があるので駅近くの蕎麦屋「藪」で昼食。偶然見かけて立ち寄った店なのですが、大正解。真っ当な味の手打ち蕎麦とサクサクした歯ごたえの穴子やあしたばの天麩羅、腹福腹福。宣伝しちゃいましょう、下田駅から徒歩三分、電話番号は0558-23-5706です。「散歩の変人」の紹介だと言っても、割引はありませぬ。悪しからず。ふと気がつくとそこここの電柱に「津波注意」の看板があります。海沿いの地域は、津波という自然災害と日常的に向き合って暮らしているのだと痛感。
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 本日の一枚は、菜の花越しに見下ろした下田の港です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-14 06:18 | 中部 | Comments(0)

伊豆編(1):寝姿山(05.3)

 日ごろお疲れの山ノ神を慰撫するために、二泊三日の伊豆温泉旅行に行ってまいりました。知人の情報では大沢温泉ホテルがすんばらしいということでしたが、残念ながら満員で予約できず。インターネットで調べまくり、下田にある大和館が良さそうなのでここを押さえました。山ノ神もご満悦で、レンタカーの運転を頼んだら「よかろう」という色よい返事。ただ中日が雨になるのは確実な模様です。この日は読書と温泉三昧かなと思い、本を二冊持って行くことにしました。旅行に行って、どこにも行かず一日中宿で本を読んでいるって結構気持ちいいのですね、これが。ちなみに持参したのは「台湾」(伊藤潔 中公新書)と「教養の再生のために」(加藤周一+ノーマ・フィールド+徐京植 影書房)。
 第一日目は快晴。スーパービュー踊り子号グリーン車で下田へ。とはいっても窓の上部が少し屋根にかかるだけ。「どこがスーパービューだ、責任者を呼べ!」と食って掛かろうとしましたが、アテンダントが差し出す珈琲一杯で懐柔されてしまう健気な、わ、た、し。約3時間で到着です。伊豆半島東海岸を南下する時の眺望は素晴らしいですね。レンタカーの準備ができていないということなので、とりあえずロープウェーで寝姿山山頂へ。女性が仰向けに寝ている姿に似ているとのこと、山頂駅は胸の辺りです。
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 ここからの眺望はお勧め。下田が天然の良港であることが人目でわかります。伊豆七島も空気が澄んでいれば三宅島まで見えるとか。残念ながら春霞のためそこまでは無理でした。そしてふと眼をやれば、おおっ、灯台フリーク垂涎の的、神子元島(みこもとじま)の灯台が彼方に見えるではありませんか。1870(明治3)年につくられたもっとも古い洋式灯台の一つです。開国後、欧米諸国は江戸幕府に対して、貿易船等の安全な航行のために灯台の建設を要求します。この協定を明治政府も引き継ぎ、イギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが招かれて約9年間にわたって日本各地に近代灯台を建設しました。そのうちの最も初期のもの、かつ最も難工事であったのがこの灯台です。写真のとおり沖合にある島というより小さな岩礁に、選定した石材を運搬し建設するまですべて自力で行ったわけですから、イギリス人技師たちの苦労やストレスは凄まじいものだったでしょう。この島への定期航路はなく、釣り船に便乗させてもらうしか渡航する方法はないのですが、是非行ってみたい。
 小さな池に「お金を投げ入れると鉱毒が発生し…」という立て札がありました。成る程、そうかもしれない。でも水中にお金を投げ入れるという行為には、どんな文化的な意味があるのか気になりますね。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-13 06:12 | 中部 | Comments(0)

「武満徹 その音楽地図」

 「武満徹 その音楽地図」(小沼純一 PHP新書339)読了。オペラシティで武満徹の記念プレートを見て以来、彼のことが気になっていたのですが、何たる僥倖、渡りに舟、彼の音楽を概観する新書が本屋の店頭にありました。さっそく購入。うーん、音楽を言葉で表現するのがいかに難しいことか、あらためて認識しました。筆者は該博な知識を駆使し申し分のない愛情を込めて武満の音楽について語っているのですが、いかんせん風を捕虫網でつかまえようとしているかのようです。やはり音楽は音楽でしか語れないものなのか。ただ彼の音楽を聴くための道標としては、大変貴重な本です。一番印象に残ったのは、筆者の友人で、児童自立支援施設で音楽を教えている方からのメールです。どうして歌なんか歌うんだ、といつもは言うことをきかない子どもたちが、彼女が歌った武満徹の「小さな空」をしんとして聴き、一斉に涙を浮かべている。以下引用です。
 子どもにとって「どんな親」でも、「自分にとって愛情を示してくれた一瞬」があり、後生大事にその一瞬だけを「記憶」としてたずさえている子が多いです。武満さんの「小さな空」には、そういう「一瞬の幸福」(小沼さん、わかりますか? 彼らは、生きてきた人生の95%以上が、地獄だった子が多い。虐待に虐待を重ねる親でも運動会の時、最初で最後、子どもに弁当を作ったとか、そういうこと)を大事にする心がある、ともいえるでしょう。だから涙が溢れるんですね。
 こういう話を知ったら、聴かないわけにはいかないじゃないですか。さっそくこの曲を収録してあるアルバムを探しましょう。また友人であるイサム・ノグチを追悼して作曲した「巡り」という曲があるとのこと。こちらの是非聴いてみたい。ノグチとタケミツ、きっとスリリングな友情を育んだのでしょうね。
# by sabasaba13 | 2005-04-12 06:14 | | Comments(0)

上信編(7):五郎兵衛新田(04.7)

 翌日は浅科村へ。江戸時代初期の新田開発によって開かれた五郎兵衛新田の見物です。小諸市内で自転車を借りて南下すること約一時間、村役場に到着しました。観光案内図をもらい、まずは五郎兵衛新田資料館へ。差別戒名など被差別部落関係の資料が充実しており、勉強になりました。でも、筬(おさ:機織り機の部品)が被差別部落で製造されたということは、何故なのだろう。これは宿題。
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 新田開発の大略を把握した後、フラフラと近辺を散策。浅間山を背景に稲穂が波打ち、陽光に輝く様は絶景でした。鹿曲川上流で揚水し、川沿いの岩を切り開き、数ヶ所の掘貫(トンネル)をつくり、全長22kmの用水路を開削して新田を開いたわけです。大変な難事業だったと思いますね。これまた先人の労苦に脱帽。途中でちょっと変わった風情の石仏(大日如来)を見つけました。
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 自転車で走りながらふと気がつくと、異なものを見つけました。私は「交通安全顔」と勝手に命名しているのですが、眉毛・涙つきの珍しい物件です。この顔って誰が描いているのでしょうね。で、また異なものを発見し急ブレーキをかけ戻ってみると、珍しい「交通安全足型」をget。子供連れというのも珍品ですが、それに加えて犬つきです。おまけに足の指が三本という珍種。犬の足の指の数は前足に5本、後ろ足に4本なので、これは珍しい。ダイエットをしている犬という可能性も否定できませんけど。しかし、小生のような物好きな人間が、見かけるたびに注意を引かれるような物件は、かえって危険だと思いますね。でも面白い逸品との出会いを期待しています。えっさえっさと小諸まで戻り、帰郷。駅では、しな子さん・しなてつ君が「また来てね」と微笑みながら見送ってくれました。顔が戯画的な中国人風なので、しな=支那とひっかけたのか? 支那と呼ばれることも、つり上がった細目で表現されることも、中国の人は快く思わないのじゃないかな。出っ歯と眼鏡で日本人をイメージされたら、私は製作者の知性を疑いますね。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-11 06:11 | 中部 | Comments(0)

上信編(6):海野宿(04.7)

 そして小諸に戻りしなの鉄道に乗り換えて田中へ。めざすは1879(明治12年)に建てられた、長野県内では中込学校と松本の開智学校に次いで古い和(かのう)学校です。インターネットで調べた地図を頼りに、地元の人に訊ねながら探したのですが、見つかりません。土地勘はいいほうだと自負していたのに、その自信もマジノ線のようにあっさりと崩壊してしまいました。撤退。駅に戻り、タクシーをつかまえて案内してもらいました。重厚な和風建築の細部に洋風の意匠をこらした学校です。残念ながら内部は見学できず。二宮金次郎像も発見。金次郎ウォッチャーとしては嬉しいかぎりですが、出来はいまひとつ。やはり柴を背負い、千字文を読んでいるのが正しい姿です。よくよく見ていると、高嶋政伸にそこはかとなく似ているような…
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 そして、海野宿へ。ここは中山道の宿場町で、昔の風情をよく残してあります。馬篭や奈良井ほど有名ではないので、観光客も少なくのんびりと徘徊ができました。柳の並木と、道路わきの水路と、古い街並みと、信濃の山々がよくマッチしています。山が見える町っていいですね。低い軒先でつばめの巣を至近距離で見ることができたのも初体験。つばめの子ってほんとに喉が赤いのですね。「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいて足乳根の母は死にたまふなり」(斎藤茂吉)
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 なお宿の近くで、ほんとうにほんとうにシンプルな火の見と半鐘を発見。ふたたび田中駅にもどり、ふと見上げると… パンッ(手を打った音) 謎が解けた、なぜ長野は教育に熱心なのか。ここの少年少女諸君は線路上に石を三つも四つも並べて遊ぶほど、よたっかき(悪戯っ子)だったのだ。LES ENFANTS TERRIBLES ! おいおい、品行方正な少年時代を過ごした私だって、線路上に十円玉を置いてペシャンコにさせるのが関の山だったぜい(もう時効でしょう)。これでは教育に力を入れざるを得ないな、納得。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-10 08:44 | 中部 | Comments(0)

上信編(5):中込学校(04.7)

 ふたたび小海線で中込へ。1875(明治8)年につくられた擬洋風建築の小学校である中込学校がお目当てです。猛暑の中、駅からトボトボ喪家の狗のように十分ほど歩くと、学校の塔=太鼓楼(時計をすえつける費用がなく、ここにつるした太鼓で時を告げた)の先端部が見えてきました。歩くにつれ、だんだんと塔が大きく見えてくるのはけっこうドラマチックです。昔の旅人の気持ちを味わいました。まるでシャルトルみたい。そして到着です。「大草原の小さな家」に出てくるような、アメリカ開拓時代の学校そのままです。
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 中央に塔、教会を模した縦長のつくり、下見板張りに白ペンキ塗り、テラスに車寄せ。アメリカで建築を学んだ地元の大工、市川代治郎の設計です。近郷の篤志者の寄付で建設費が賄われたとのことですが、いつもながら当時の人々が教育にかけた情熱には脱帽します。内部には丸くて放射状のステンドグラス、そして圧巻は太鼓楼の天井! 残念ながら危険との事で入れなかったのですが、展示写真によると中込を中心とした日本と世界の地名の方位が描いてあります。東京、札幌、ニューヨーク、ロンドン、チンボラソ山(?)… 信州の鼻たれ小僧に「まんずまんずこれから世界に羽ばたいてくれや、よたっかき」と熱く語る大人たちの光景が眼に浮かびます。ホノルル、シャトル(シアトル)、リオデジャネイロといった海外移民の行き先が多いような気がしますが、穿ちすぎかな。それにしても、長野県に明治期の小学校建築が多く、現在でも教育の盛んな県として高名なのは、何故なんでしょうね。
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 本日の二枚。青雲の志を抱いて、子供達はこの空と塔を眺めたのでしょう。
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# by sabasaba13 | 2005-04-09 07:28 | 中部 | Comments(0)

上信編(4):馬流(04.7)

 翌日は小海線に乗って、小海・馬流方面へ。実はこのあたりは、秩父事件の最後の激戦地です。秩父事件とは、1884(明治17)年、秩父地方やその周辺の負債農民と地元の自由党員らが結成した秩父困民党による武装蜂起です。約三千人が参加し、一時は秩父市内を占拠して官権力を一掃したのですが、軍・憲兵・警察によって数日で壊滅。十石峠を越え信州で態勢を立て直そうとした困民党が、警察・軍隊と戦い壊滅したのがここ馬流です。
 まず小海駅からタクシーで北相木村へ。困民党への参加者も多く、参謀の一人菊池寛平もこの村の出身です。約二十分で到着、まずは諏訪神社にある「自由民権雄叫び」の記念碑を拝見。秩父事件を顕彰した内容の碑文ですが、「反動政治の犠牲」という一文が印象的ですね。となりには「日露戦争・大東亜戦争戦没者名碑」「満蒙開拓団慰霊碑」「忠魂碑」がありました。この小さな村の近代の歴史がギュッと濃縮されたような空間です。自由・権利・貧困・戦争…
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 近くに菊池寛平の墓があるとの情報を得ていたので、運転手さんと一緒に探しました。それらしい墓石の一群があったので、農作業をしていた年配の女性に尋ねたところすぐに教えてくれました。合掌。彼女曰く「やくざな男でのお、嫁さんはえらい苦労したそうじゃ」 歴史はこうやって語り継がれていくのですね。そしてタクシーで馬流へ。ここには、困民党の戦死者十三名を村人が葬った墓があります。
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 その近くには、東日本旅客鉄道労働組合が立てた「秩父事件百十周年顕彰碑」も。さらに北へ十五分ほど歩くと、最後の激戦地のあたりに「秩父困民党散華之地」という記念碑と、菊池寛平ともう一人誰かの小学生の夏休みの宿題のような石像があります。
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 馬流駅の近くには、困民党が接収して本部として利用した旧本陣の建物、千曲川の岸辺には「秩父事件古戦場跡」という看板もありました。
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 ふうっ、というわけで秩父事件を題材にした「草の乱」という映画も上映されましたし、ちょっと注目すべきエリアです。

 本日の一枚は、千曲川秩父事件古戦場跡です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-08 06:16 | 中部 | Comments(1)

上信編(3):小諸(04.7)

 引き返す途中で、坂本北裏遺跡環状列石に遭遇。そして中山道の宿場町であった坂本宿に寄り道。往時の面影は全くありませんが、昔の屋号を家々が掲示してあります。中には、小林一茶の定宿や、若山牧水の泊まった宿もありました。「秋風や碓氷のふもと荒れ寂し坂本の宿の糸繰りの唄」(牧水)
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 さて、横川からバスに乗り軽井沢へ。ま、新幹線の便利さは認めますがそれにしても、地元の方々の反対を押し切り、先人の労苦を蔑ろにして、碓氷線を廃線にしたことは納得できません。新幹線建設という甘い蜜に群がった魑魅魍魎どもにいつか鉄槌をくらわせましょう。橋本治氏曰く「作っては壊す、壊して作る―そうすれば繁栄は訪れる」という信仰が日本経済を支えてきたわけですが、いいかげん素面に戻るべきですね。手痛いしっぺ返しはもう始まっています。 軽井沢から、しなの鉄道で宿泊地の小諸へ。丁子庵で辛味大根そばを平らげ、さっそく街並みを徘徊。島崎藤村の旧居跡やゆかりの井戸などを見物しながらぶらぶら歩きました。
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 ん? 小生の霊界アンテナにピンときましたね。この町は変だ。時代のついた土蔵、煉瓦づくりの事務所、戦前の看板建築(のっぺりとした板状の前面部=ファサードにモルタルや銅板製の装飾が施されている商店建築)、昭和三十年代の懐かしい木造建築、そして現代の建物が、渾然一体、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃと絡み合ってモザイクのように建ち並んでいる様は圧巻です。思わずカメラを向けたくなる摩訶不思議な物件も目白押し。上の写真は「美容室ゆーとぴあ」と「芦田川印舗」と「ブティックべら」が、アマルガムのように融合した店です。ええなあ。そして天使を微笑ませるような張り紙の数々。いやあ大変謙虚な店主さんですね、「謙譲の美徳」という死語を思い出します。右から書いて欲しかったけど。「憤慨・糞害」という駄洒落も及第点。
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 とどめは、異様に広い火の見櫓。私、火の見櫓が大好きで、見かけたら写真に撮ってコレクションをしているのですが、文句なく敷地面積は過去最大のものです。宴会をしながら火災を見張っているのだろうか… 謎が謎を呼ぶ街ですね。しかし、路上いっぱいにローセキでいたずら書きした跡を見ると、子供たちは元気に遊んでいるようです。こうした光景を最近全く見かけなかったので、嬉しいです。遊びをせんとや生まれけむ、戲れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の聲聞けば、我が身さへこそ動がるれ [梁塵秘抄三五九] 子供と老人が元気な街は大好きです。
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 本日の一枚は、小諸の街並みです。
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# by sabasaba13 | 2005-04-07 06:20 | 中部 | Comments(0)

上信編(2):アプトの道(04.7)

 列車に乗り、終着駅の横川駅で下車。まずは碓氷峠鉄道文化むらを見物しました。平成9年に廃止された碓氷線(信越本線の横川―軽井沢間)で使用されていた機関車や客車を展示してあるテーマパークです。明治25年に開業して、平成9年に廃止だから、えーと、あーだから元号ってやなんだ。西暦だと1892年→1997年=105年だとすぐわかるのにね。ま、それはともかくそれだけの歳月、急峻な勾配を昇り降りしたみなさん、ご苦労さまでした。そしてこの急勾配を克服するために採用されたのが、ドイツのハルツ山岳鉄道と同じ、歯車を利用したアプト式という線路です。鉄道唱歌北陸編第19番に「これより音にききいたる碓氷峠のアプト式歯車つけておりのぼり仕掛は他にたぐいなし」とあるとおりです。で、この廃線跡をそのまんま散策路にしたのが「アプトの道」というわけです。Here we go !
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 出発点は鉄道文化むらのすぐ脇。そこにある麻苧茶屋で豚丼をいただきました。店の方の話す「そうだぃね」という群馬弁に涙腺が緩みます、何せ亡母の出身地なもので… 私にとって、群馬は妣の国です。少し歩くと、箱根・栗橋とならぶ重要な関所、碓氷関跡がありました。通行人が手をついて手形をさしだしという「おじき石」が残っています。
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 さてここからいよいよ上り坂です。このあたりはまだ複線で、片方には当時のままの線路、もう片方の線路を舗装して遊歩道にしてありました。上信越自動車道のグロテスクな吊り橋の下をくぐると、見事な煉瓦造りの丸山変電所跡が出迎えてくれます。何気ない細部の装飾が光ります。このあたりから単線となり、線路も見えない完全な遊歩道となりました。そして五つの石造り・煉瓦造りのトンネルが続きます。その積み方たるや、これはもう職人の仕事ですね。寸分の狂いないビシッとした仕事に、匠の心意気さえ感じます。
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 左手に碓氷湖を見やりながら、しばらく歩くと六号トンネルの手前が終着点。ここにかかる橋が第三橋梁、通称めがね橋です。1892(明治25)年に完成した、日本最大の煉瓦造りの4連アーチ橋。まずは橋の上を歩き、下に降りて見上げ、橋桁に近づいてまじまじと見つめ… 言葉もなくなりましたね、これはすごい。一見の価値あり。約200万個の煉瓦が使用されているとのことですが、よくぞまあこんな難しい地形で積み上げたもんだ。渓谷を貫く美しい四つのアーチ、そして周囲の自然とマッチしたくすんだ色合い。蒸気機関車がガッシュガッシュとこの橋を走り抜ける光景を想像すると、血沸き肉踊りますね。

 本日の一枚は、第三橋梁めがね橋です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-06 06:40 | 関東 | Comments(0)

上信編(1):安中(04.7)

 長野県中込にある明治初期の小学校を見に行きたいと虎視眈々と狙っていたところ、近くに秩父事件関連の物件が多々ありとの情報をgetし、廃線となった旧信越本線が遊歩道(アプトの道)として整備されているという話も耳に入ってきました。巨大な連環が、今、音をたててつながった! ガシャン というわけで、昨年の7月に碓氷~小諸を彷徨う一人散歩に行ってまいりました。
 まずはJR高崎線で高崎まで行き、信越本線に乗り換えて安中で下車。なかなか風情のある街並みとの噂なのですが、時間の関係上泣いて馬謖を斬り、タクシーにて移動しました。新島襄の旧宅を拝見した後、旧碓氷社事務所へ。ここは明治12年、官営富岡製糸場に対抗するために碓氷郡の有力者がつくった座繰製糸組合「碓氷社」の事務所でした。和風に窓ガラスを折衷させた近代和風の建築です。官に対して「あってこともねえ!(群馬弁)」と立ち向かうその意気やよし、かつての熱気を感じる重厚な建物でした。世に名高い上州の嬶天下は、小規模な製糸業を支えた女性たちから生まれたのでしょう。そして海老名弾正・新島襄らによって設立された安中教会へ。残念ながら敷地内への立入は禁止で、塀越しに外観を見るだけでした。隣りにある旧碓氷郡役所を見物して、安中駅へ直行。眼前には、カドミウム公害で著名な東邦亜鉛安中精錬所が…
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 本日の一枚は、旧碓氷社事務所です。
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# by sabasaba13 | 2005-04-05 06:27 | 関東 | Comments(0)