関東大震災と虐殺 34

 9月7日、金曜日。この日から9日にかけて、習志野に駐屯する騎兵隊は、習志野収容所に収容されている朝鮮人を周辺の村の農民に渡して殺させました。これは大竹米子先生と習志野市立第四中学校郷土史研究会の生徒たちによる聞き取り調査と、地域住民から提供された日記史料によって明らかとなりました。7日の午後4時頃、高津廠舎より「鮮人を呉れるから取りにこい」との知らせがあって、7日夜から9日夜にかけて二度にわけて18人をもらってきました。高津地区では新木戸地区と共同で6人を切りました。5人は入会地の山番小屋付近の寺の境内で、残る1人は大きなイチョウの木にしばりつけて殺したということでした。提供された『震災日記』から引用します。(①p.211~2)
 七日 …午后四時頃バラック(※習志野収容所高津廠舎)から鮮人を呉れるから取りに来いと知せが有ったとて急に集合させ主望者に受取り行って貰ふことにした。東京へ送るべく米二俵本家の牛で桝次に搗きにやらせる事にして牛を借りにやると大和田からとりに来ると云ふので荷車で付けてやる。夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し高津は新木戸と共同して三人引受お寺の庭に置き番をして居る。

 八日 太左ヱ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする小石川に二斗本郷に二斗麻布に二斗朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番 吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ皆労れたらしく皆其處此處に寝て居る夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

 九日 今日から日中は十八人で警戒し夜は全部出動する事になり皆非常に労れて何處でもゴロゴロ寝て居る。昨日行った富治が帰って来るかと待って居ると中々帰って来ない。夕方漸く帰る釜壊し仕舞った為買って来て呉れた金四円五十銭富治立替へて呉れる。夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人貰って来たと知らせ有る之は直に前側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りて梅松切る皮が少し残る是で首を切るには刀の善悪により刀が良ければ誰でも切れる事に決定した随分刀も害ったが新木戸中嶋光雄君の刀以外スパリと切れる刀はない。
 聞き取り調査による証言も紹介します。まず萱田地区の君塚国治さんの証言です。(①p.213~4)
 暴れて困る質の悪いのをつれてきたんだから、生かして置くわけにいかん。部落部落にもらってきた部落のものが処分しなければいかん…朝鮮の奴は何としても鉄砲でうってくれという、そうか、他では夜のうちに三本立てやってつるして下から火を燃やしたところもあるらしいね。そんなまねはできない。本人のいう通りにしてやろう、今のあのもみお墓地に穴ほって、当人のいう通りに鉄砲でうってやれ、うつまでが大変だ、話すれば簡単に言うけれど、同じ人間をひどい目にするんだからね、中にゃこいつ悪いことしただからよ、めんどうくさいから刀でぶっさすべ、いうのもあるしね、みんな刀もってんだからね、そんなこと言わずにまぁ穴ほって倒れれば落ちるようにしておいたのです。最後に撃つ者もあまり気持ちよくないというわけです、なかなかやってくれないんだよね、おめえやれとか、そっちやれとか、カリウドやった人に頼んだけど人をやったらこの鉄砲は使いもんにならないちゅうわね…とうとう鑑札をうけた鉄砲もっている人にやってもらったけどね…葬るまでの間が大変でしたよ…もうそれは地震があってから一か月から、そのくらいたってからだね、涼しくなってたからね。(1977.10)
 同萱田地区、本郷氏と阿部こう氏の証言です。(①p.214)
 それこそ伝家の宝刀持ち出してさ、猟銃で撃ったりね、手も足もしばっちゃったんだからかわいそうだったね、船橋のマツシマという所に土木工事にきてたんだって、何度も言ってたがもう殺気立ってて聞き入れなかった。(結局、みんなで何とはなしに殺しちゃったが、阿部) 一人やるとき一人見せて、哀号、哀号ってないてたぞって、(二人殺すのを一人は目をあけて見せておいたって言うから、ずい分残酷なことをしたもんだね、阿部)、こっちは二人、二人だもん(そういうことはずっとみんなの中で言わないでこられたでしょう)、だってもう、あたりさわりのない方がいいからね、まして敗戦後、朝鮮そのものがねぇ、下手にしゃべっておかしなことになってもつまらないしさ。(1976.7.29)
 一読、慄然とします。「牛を借りる」「釜を買ってもらう」「代金を立て替えてもらう」といった何気ない日々の営みに、殺人の様子や刀の切れ味といった非人間的な行為が違和感なく同居しています。そして言うまでもなく、国家権力にとって目障りな朝鮮人を選別し、住民に殺害させて責任を転嫁する、その底無しの卑劣さ。民衆の責任と国家の責任、ともに免れることはできないと思います。

 なおこの事件に関するさまざまな慰霊碑を訪ね歩きました。高津観音寺なぎの原、大和田新田の「無縁之墓」、萱田長福寺の「震災異国人犠牲者 至心供養塔」、村上橋近くの角塔婆、中台墓地の「無縁供養塔」などですが、よろしければご一読を。

 この9月7日には、緊急勅令として治安維持令(治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件)が公布・施行されたことも重要です。関東大震災下の混乱を収めることを名目とした緊急勅令で、「出版通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス暴行騒擾其ノ他生命身体若ハ財産ニ危害ヲ及ホスヘキ犯罪ヲ煽動シ安寧秩序ヲ紊乱スル目的ヲ以テ治安ヲ害スル事項ヲ流布シ又ハ人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者ハ十年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス」という内容です。表面上は震災後に発生した諸事件に対する対応を目的としていましたが、実際にはこれに乗じて社会主義者を弾圧することを意図しており、二年後の1925年に成立する治安維持法の先駆となりました。
# by sabasaba13 | 2017-11-12 07:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

『エルネスト』

c0051620_627195.jpg 先日、山ノ神と「ユナイテッドシネマとしまえん」で、映画『エルネスト』を見てきました。『週刊金曜日』の映画評で知ったもので、チェ・ゲバラのもとで戦った日系人を主人公とした映画だそうです。ゲバラを描いた映画、『チェ 28歳の革命』と『チェ 39歳別れの手紙』を見て、"人が人を搾取することは許せない"という彼の志にいたく感銘を受けました。その彼とともに戦った日系人がいたとは初耳です。これは楽しみですね。監督は阪本順治、主演はオダギリジョーです。

 公式サイトをもとに、私の文責でストーリーを紹介します。1959年7月24日、日本を訪問していたエルネスト・チェ・ゲバラ(ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)らが急遽、広島へ向かいます。唯一。中国新聞社・森記者(永山絢斗)だけが取材に同行。ゲバラは、原爆ドームや原爆資料館などを訪れ、こう感想を述べるのでした。「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」と。
 それから数年後の1962年4月、ひとりの日系人青年、フレディ前村(オダギリジョー)が、祖国ボリビアのために医者になることを決意し、ハバナ大学の医学部にやってきました。1963年の元旦に憧れのゲバラが学校にやってきて、フレディと話します。「あなたの絶対的自信はどこから?」と訊くフレディに対してゲバラはこう答えました。「自信とかではなく怒っているんだ、いつも。怒りは、憎しみとは違う。憎しみから始まる戦いは勝てない」。そんな矢先、母国ボリビアで軍事クーデターが起こり、フレディは『革命支援隊』に加わることを決意します。ある日、司令官室に呼ばれたフレディは、ゲバラから戦地での戦士ネームである"エルネスト・メディコ(医者)"という名を授けられ、ボリビアでの戦いへと向かうのでした。

 ほんとうに真面目でまっすぐな映画でした。貧しい人びとのために医学への道を志し、さらには搾取や暴力や貧困をなくすために革命への道を突き進む、愚直なまでに一途なフレディ前村を、オダギリジョーが熱演しています。なかでも心に残ったのが、「見果てぬ夢を見て何が悪い」というセリフです。そういえば、夢を見ること、夢を語ることが、私たちの社会では縁遠くなったような気がします。話題といえば"今だけ、金だけ、自分だけ"、スマホとコンビニとユニクロがあればとりあえず満足といった風潮をそこはかとなく感じます。こういう時代であればこそ、フレディのように、より真っ当な社会をつくろうという夢を臆せずに見たいものです。夢は見ていいんだという勇気を分けてくれた映画でした。そういえば、ゲバラもこう言っていましたっけ。
 もしわれわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、そのとおりだ、と。
 もうひとつ印象的だったのが、広島の平和記念公園と原爆病院を訪れたゲバラの真摯な表情です。映画が進行するにつれ、当時のキューバではアメリカによる核攻撃の可能性を視野に入れていたことがわかりました。核兵器の威力と後遺症を医者の目で冷徹に分析するとともに、この非人道的な兵器と、それを利用してエゴイスティックに権益を追及する超大国への怒りを覚えたことと思います。怒りから始まる戦いは勝てる。核兵器禁止条約に反対する日本政府に怒りましょう。
# by sabasaba13 | 2017-11-11 06:28 | 映画 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 33

 こうして軍・警察による厳重な警戒のもと、朝鮮人たちは徒歩で、水・食糧は与えられず、傷病者への手当てもなく、炎天下のなか疲労困憊して習志野への移送されたのでした。しかも道中には移送の噂を聞いたその地の自警団が大勢たむろしていました。心身ともに疲労して歩けなくなった落伍者は放置され、群狼の如き自警団の手中に落ちて落命した朝鮮人も、また些細なことで兵士に射殺された朝鮮人もいました。(①p.202~3)

 習志野収容所に、9月5日から千葉県内および東京方面からおくりこまれた朝鮮人は約3200人、中国人は約600人でした。(⑮p.117) しかしこれで、彼らの生命が保障されたわけではありません。その処遇は避難民というよりは「戦時捕虜」に近いものでした。機関銃さえ用意した物々しい警戒は、自警団による攻撃はありえないので、朝鮮人監視のためでしょう。面会・通信・帰国の自由はいっさいありません。貸与された毛布や食事も貧弱なものでした。

 そして選別と抹殺がはじまります。当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんは以下のように回顧しています。
 わたしは統計(収容者数の)をやってから、毎日、何時現在で朝鮮人何名という日報を出した。現地の駐在巡査が現場に行って、収容所の人が数えたのをわたしに報告してくる。それをわたしが県庁へ報告する。すると、一日に二人か三人くらいずつ足りなくなる。昨日現在いくら、今日出たのがいくら、残りいくらとくるわけだから、すると出入りの関係で数が合わない。
 収容所のなかには、震災で負傷した人、避難の最中で軍隊や自警団に殺されかけて、傷を負いながら収容所にたどり着いた人もいたでしょう。収容所に入る以前の傷がもとで亡くなった人もいたでしょう。しかし、収容者数の減少の原因は、それだけではありませんでした。習志野収容所に収容された18歳の学生・申鴻湜(シンホンシク)さんの証言です。
 習志野へ行くと、身体検査をされ、持ち物全部検査されました。(中略) 兵営が二つ、ドイツ兵捕虜(第一次世界大戦時)を収容していた収容所だと思うのですが、大きいのがいく棟もあって、朝鮮人が二棟つかっていて、むこうにもう一棟中国人がいたんです。(中略)
 ところが、やっぱり人間が大勢いるといろんな事件がおこってくるんです。中国人の収容所の方で、逃げようとして打ち殺されたのがいましたよ。「ここにいたら殺される」と思っていたんでしょうね。それから、食事の時に我先にというと打ち殺すんですからひどいですよ。
 私などは、千葉陸軍歩兵教導連隊の兵営につれて行かれました。(中略)
 私のことを特務曹長は、「お前は運のいいやつだ」といっていましたよ。拡声器かなにかでよばれて、いったら帰ってこないのがいましたからね。それで「だれそれはどうしたのだ」ときくと、いろんなことを言っていましたよ。たいてい、昔の知りあいが訪ねてきたとか、雇主がここにいやせんかと訪ねてきたとか、親戚が来たとか。
 それならば、帰るときにここへきて、「オレはこういうわけで、親戚が来たから帰る」とか、言うわけだけれども、何のあいさつもなしにすっと帰るのはおかしいなと思うわけです。呼び出されたのは、必ずしもそこで委員(自治委員)をやっていた人とは限らないですが、委員をやっていた人の中で呼び出されて帰ってこないのが、私の知っている限りで、一人か二人いましたよ。
 申さんの「運のいい」こととは、教導連隊の特務曹長と申さんの間に偶然にも共通の知人がいたことです。次に会沢泰さん(当時騎兵第十四連隊本部書記)の証言です。
 救護する目的でつれて来たんですけれども、朝鮮人が暴動を起こしそうだっちゅうんで、朝鮮人をひっぱり出せという事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが四個連隊あるんですから。おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。
 ねえ、軍隊の中で…そしておかしいようなものを…ホラ、よくいうでしょう…切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居たわけですね。切ったところは、大久保公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていってそこで切ったんです。…私は切りません…30人ぐらいいたでしょうね。
 ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナニしとったんだか、どこに居たんだかを。
 会沢さんの証言では、連隊が収容所にいる朝鮮人を「ある程度調べて」殺害したとあります。これを裏付けるのが2003年8月に新聞で報じられた「関東大震災ト救護警戒活動東京憲兵隊(推定)」という資料です。同資料は震災直後の憲兵隊の活動を記録したものとして、次のように記されています。
 習志野鮮人収容所警戒に就ては習志野憲兵分隊を以て之に充当せしむるの外、鮮語に通暁せる上等兵三名を私服にて収容所内に派遣し、鮮人の動静知悉に努めしめ、有力な資料を得たり。
 憲兵が収容所内でスパイとして朝鮮人と接し、監視していたことがわかります。そして、会沢さんの証言にあるように、朝鮮人の中から「おかしいようなもの=民族主義者・社会主義者」を峻別し、そのレッテルを貼られたものは呼び出しをくらい秘密裏に殺されました。(⑭p.69~72)
# by sabasaba13 | 2017-11-10 06:28 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

ビル・エヴァンス 『アナザー・タイム』

c0051620_628482.jpg 購読を始めた『週刊金曜日』の書評・音楽評・映画評がなかなか充実していると拙ブログで報告しましたが、今日はそこからビル・エヴァンスのCDを紹介します。

 ふだん家で聴く音楽は、クラシック:ジャズ:ロック:その他が、5:3:1:1ぐらいの割合ですね。ジャズは50~60年代のハード・バップが中心ですが、愛聴しているのはマイルス・デイヴィス、ウィントン・ケリー、ウェス・モンゴメリー、そしてビル・エヴァンスです。一日の仕事を終えて帰宅し、缶ビールを飲みながらビル・エヴァンスのピアノに耳を傾けるのが至福のひと時。類まれなる歌心と心地よいスイング感が、身に積もった俗塵をきれいに洗い流してくれます。主に聴くアルバムは、スコット・ラファロ(b)+ポール・モチアン(ds)によるリバーサイド四部作。ピアノが主役、ベースとドラムスが脇役というこれまでの常識をくつがえし、三者が対等に語り合うと"インター・プレイ"を完成させた黄金トリオです。中でもスコット・ラファロ奏でるベースの素晴らしいこと。重厚な音色、高音をものともしない超絶技巧、そして魅力的なメロディ・ライン、過去最高のベーシストだと思います。
 そしてエディ・ゴメス(b)+ジャック・ディジョネット(ds)による『ビル・エヴァンス・アット・ザ・モントルー・ジャズ・フェスティバル』も捨てがたい愛聴盤です。黄金トリオに匹敵するような素晴らしいインター・プレイですが、残念ながらジャック・ディジョネットがマイルス・デイヴィスに引き抜かれたため、このトリオはわずか六ヵ月しか存続しませんでした。よってアルバムも前記の一枚のみ。ま、一枚だけでも録音が残されたことは僥倖でしょう。
 ところが、ジャズ・プレイヤーの貴重な未発表音源を精力的に発掘しつづけているレゾナンス・レコードのプロデューサー、ゼヴ・フェルドマンがこのトリオのスタジオ録音を発見したのです。それが『アナザー・タイム』、1968年6月22日、オランダ中部のヒルフェルスムにあるネーデルラント・ラジオ・ユニオンのスタジオで行なわれたコンサートを録音したものです。
 さっそく購入して聴きました。うーん、いいですね。歌心に力強さも加わったエヴァンスのピアノ、それを支えつつも雄弁にメロディをつむぎだすゴメスのベース、そして二人を刺戟するようなディジョネットのドラムス、三者のインター・プレイに聴き惚れました。これは黄金のトリオを凌駕するのでは。秋の夜長、ウィスキーの「ストレート・ノー・チェイサー」を味わいながら、ビル・エヴァンス・トリオの奏でる音楽に身と心を浸す。人生はそれほど悪いものではないなと思うひと時です。

 なおフェルドマンは、このトリオが1968年6月20日にドイツのスタジオで録音した音源を見つけ、こちらは『サム・アザー・タイム』として発売されているとのこと。さっそく購入することにしました。
# by sabasaba13 | 2017-11-09 06:28 | 音楽 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 32

 さて、この9月6日に、やっとのことで戒厳司令部は朝鮮人の虐殺や彼ら/彼女らへの暴行をやめさせるための「注意」を発表しました。「朝鮮人に対し其の性質の善悪に拘らず、無法の待遇をなすことは絶対に慎め、等しく我同胞であることを忘れるな」「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」という強い調子のものです。とはいえ、"其の性質の善悪"、つまり暴動・放火を行なった悪い朝鮮人もいたのだという表現をしのびこませて、軍隊・官憲の責任を免れようとしているのは見逃せません。ほんとうに姑息で下劣ですね。さらに、「有りもせぬことを言触らすと処罰されます」というビラ10万枚を各地で配布するなど、政府・軍の流言に対する態度は、はっきりと否定的になりました。こうしてようやく、9月1日から続いてきた流言と虐殺は収束にむかましたが、惨劇の余波は、まだしばらくは続くことになります。(⑨p.102)

 既述のように、9月5日より開始された習志野収容所への朝鮮人移送が、6日以降、本格化します。くりかえしますと、まずは独立運動・労働運動・社会主義運動に深く関わっている、あるいは軍・警察が犯した"不都合な真実"を知り過ぎた要注意の朝鮮人を優先して移送します。そしてそれに該当するかどうかはっきりしない多数の朝鮮人を移送して捜査・尋問を行ない、「順良」な朝鮮人と、前記のような「不逞」(日本の国家権力にとって目障りな)朝鮮人を分ける。そして前者は「保護」し、後者は…

 その移送の状況を生々しく伝えてくれる証言があるので紹介します。9月5日夕刻、亀戸署から習志野への移送で、証言者は歌人の浦辺政雄氏です。
 習志野に送られる朝鮮人の列を見た。…亀戸の南側には竪川にそって、千葉街道が小松川橋につづいている。そこまで来たときのことだ。千葉街道に出ると朝鮮人が一〇〇〇人に近いなと思うほど四列に並ばせられていました。亀戸警察に一時収容されていた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。それほどけがをしているようすはなかったです。包帯なんてしていないですよ。手当てなんかしてくれない。僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。羅漢寺は当時はいまの江東総合区民センター(地下鉄西大島駅の上)のところにありました。いまも『五百羅漢跡』という石塔が立っています。道ももっと細かったし、二〇メートルぐらい引っ込んでいました。いまの羅漢寺より小さくて、右隣はちょっと離れて銭湯でした。そして両方の裏手が羅漢寺の墓地になってたんです。ここまできたら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が、八人ずつ十六人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵がたしか二人。兵隊と巡査が四、五人ついているのですが、そのあとを民衆がゾロゾロついてきて『渡せ、渡せ』『俺たちのかたきを渡せ』って、いきり立っているのです。銭湯に朝鮮人を入れたんです。民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野へ送るんだなあと。よかったーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに『裏から出たぞー』って騒ぐわけなんです。何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおられませんでした。十六人完全にね。殺したんです。五、六〇がかたまって、半狂乱で。
 "抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす鳶口の血に夕陽照りにき"
 これはこのとき詠んだものです。ちょうど夕方四時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに六十何年たっても目の前に浮かびます。自警団ばかりじゃなくて、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も『こいつらがやったんだ』って夢中になってやったんです。(①p.199~201)
 前出の南葛労働組合活動家・全虎巌(チョン・ホオム)氏は、その背景についてこう証言されています。(①p.197~9)
 巡査の立話から聞いたことですが『国際赤十字』その他から調査団が来るという事が虐殺をやめた理由だったのです。六日の夕方からすぐ隣りの消防署の車二台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四ツ木橋のたもとに運びました…死体を運び去ったあと警察の中はきれいに掃除され死体から流れ出した血は水で洗い流し何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは七日の午前中でした。虐殺を免れた同胞は七日の午後、警察の庭に集合させられました。そして何の説明もうけず亀戸の駅に行き、線路づたいに歩かされました。私達の周りは武装した騎兵が取囲み、重々しい空気が流れていました。私は一人一人殺すのが面倒くさくて機関銃などで一度に殺す目的でどこかに連れていくのだとしか考えられず足が地につきませんでした。
 国際機関の来訪を前に、虐殺の痕跡を隠蔽し、その犯行を告発する恐れのある者を急遽隔離したことが分かります。また浦辺氏の証言に出てくる、軍・警察が故意に自警団に引き渡して殺させた十六人は、外国調査団の来訪で処刑できなくなった死刑予定者であった可能性があります。知り過ぎていた者、あるいは民族主義者・社会主義者ですね。しかも、自らの手ではなく、民衆によって"死刑"を執行させる。狡猾かつ卑劣な手段です。
# by sabasaba13 | 2017-11-08 06:31 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

11.3 国会包囲大行動

 そう、あきらめません。11月3日の金曜日、「国会包囲大行動」に参加するために、国会議事堂に行きました。天気予報では雨模様でしたが、幸いなるかな当時は好天に恵まれました。プレ・コンサートでは、「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」など気合の入ったメッセージ・ソングを歌い続けている中川五郎氏が登場するというので、少し早めに駆けつけました。午後一時すこし過ぎに、地下鉄の駅から地上に出ると、思ったより多くの方々が押し寄せています。公園のベンチに陣取り、スピーカーから流れてくる中川五郎氏の力強い歌声にしばし耳を傾けました。ウディ・ガスリービクトル・ハラの名をまじえながら音楽による抵抗を主張し、原発事故を隠蔽しつつオリンピックを推進する安倍首相をコミカルに批判し、そして最後はボブ・ディランの「風に吹かれて」を日本語で歌ってくれました。いいですね、権力に抗おうというメッセージがびしびしと伝わってきます。忌野清志郎の"僕はね、ロックはメッセージだと思うよ。ロックでメッセージを伝えるのはダサイなんて言ってる奴は、ロックをわかっていないと思うな"という言葉をふと思い出しました。

 そして午後二時、いよいよ集会の始まりです。立憲民主党の枝野幸男代表のほか、野党の党首や国会議員、ノーベル平和賞受賞が決まった「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の川崎哲氏などのスピーチに、万雷の拍手がわいていました。中でも最高裁判事だった弁護士の浜田邦夫氏のメッセージが心に残りました。東京新聞(2017.11.4)に掲載されていたので、引用します。
 いったん戦争が始まれば被害を受けるのは米本土ではなく日本にある米の軍事施設や原発、日本の施設であり国民だ。

 安倍首相の口先にごまかされて、国民は裸の王様になっているのではないか。米国による安全保障とか、国内での安全・安心な暮らしといった立派な着物を着ていますよと言う、仕立屋の『テーラー安倍』に。
 伊丹万作曰く"だまされるということ自体がすでに悪である"、だまされずごまかされないための知恵と知識を持ちたいものですね。
 参加者は主催者発表で約四万人、「あきらめない」「へこたれない」「忘れない」という権力者がもっとも忌み嫌う気持を多くの方々と共有できたひと時でした。ただ気になるのは、若い人びとの姿が少なかったことです。選挙で棄権する若者、安倍内閣を支持する若者が多いという話をよく耳にしますが何故なのでしょう。子どもや若者の存在が、社会にとって唯一の希望なのに。『週刊金曜日』(№1159 17.11.3)の記事「議会制民主主義はもう機能していない」の中で、内田樹氏が以下のように述べられていました。
 立法府が「国権の最高機関」として威信を失えば、行政府が事実上国権の最高機関になり、官邸の発令する政令が法律に代わる(これが自民党改憲草案の「緊急事態条項」のかんどころである)。そうなればすべての社会制度が官邸の意のままに動く、効率的な「株式会社のような統治システム」が完成する。それこそ自民党が改憲を通じて実現しようとしている「夢の政体」である。
 若い有権者たちが自民党に好感を持つのは、自民党が作ろうとしているこの政体が彼らにはなじみ深いlものだからである。
 若い人たちは「株式会社のような制度」しか経験したことがない。トップが方針を決めて、下の者はただそれに従う。経営方針の適否はマーケットが判定するから、従業員はそれについて意見を求められることもなく、そもそも意見を持つ必要もない…というのが彼らが子どものときから経験してきたあらゆる組織の原理である。家庭も、学校も、部活も、バイトも、就職先も、全部「そういう組織」だった。彼らがそれを「自然」で「合理的」なシステムだと信じたとしても、私たちはそれを責めることができない。
 構成員が民主的な討議と対話を通じて合意形成し、組織のトップは成員たちの間から互選され、その言動の適否についてつねに成員たちのきびしい批判にさらされている「民主的組織」などというものを今どきの若い人は生まれてから一度も見たことがないのである。見たことがないのだから、「そんな空想社会をめざすなんて頭がおかしいんじゃないか」と冷笑するのは考えてみたら当然である。(p.11)
 なるほど、それだけではないと思いますが、納得できるひとつの分析ですね。日本は、そんなに簡単によくなる国じゃないということをあらためて痛感します。

 本日の三枚です。
c0051620_6271636.jpg

c0051620_6274085.jpg

c0051620_628247.jpg

# by sabasaba13 | 2017-11-07 06:28 | 鶏肋 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 31

 9月6日、木曜日。午前2時、埼玉県寄居で、朝鮮アメ売りの青年が虐殺されました。朝鮮アメ売りとは、天秤棒につけた箱を担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩く商売です。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終了して仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かったそうです。青年の名前は、具学永(グ・ハギョン)さん、28歳。二年前から寄居に居ついた、小柄でやせ型、おだやかで人のいい若者だったそうです。町の人で、声を張り上げて朝鮮アメを売る彼のことを知らない者はいませんでした。
 9月1日の震災以降、寄居でも例の通達によって自警団が結成されましたが、平穏が保たれ、具さんに危害を加えようという者はいませんでした。しかし不安を感じた具さんは、5日の昼ごろ、寄居警察分署に現れて自ら「保護」を求めます。
 しかし寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていました。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことでした。ついに本物の「不逞鮮人」を捕えた興奮に、100人以上が集まりましたが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかりました。がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始めます。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していきました。村人は警察署に押し寄せ、朝鮮人を引き渡せと叫びます。星柳三署長と署員たち、在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えますが、興奮した彼らは聞く耳をもちません。群衆は署長らを排除して署内になだれ込み、竹槍や日本刀で具さんを斬りつけ、集団で暴行を加えて虐殺してしまいます。
 留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったポスターの上に、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたそうです。「日本人、罪なき者を罰す」という抗議の意思表示だったのかもしれません。
 具学永さんの墓が、寄居の正樹院に残っています。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られています。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいそうです。(⑨p.98~102)

 9月6日午前10時ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀において、香川県の売薬行商人の一行15名が朝鮮人とされ、女、子どもを含む9名が、福田、田中村(現・柏市)の自警団によって殺害されるという事件が起こります。いわゆる福田・田中村事件です。生存者・太田文義氏の証言によると、三ツ堀近くの香取神社で、船賃のことで交渉していると渡し場の船頭が騒ぎだし、福田村・田中村の自警団が押し寄せてきて、「君が代を歌え」「教育勅語」「『一五円五〇銭』をいってみろ」等のやりとりがあった後、「怪しい者はやってしまえ」ということで虐殺しました。言葉づかい(讃岐弁)や、めずらしい黒い羽の扇子を持っていたことも疑惑のもとだったそうです。
 事件後間もなく、千葉地方裁判所で裁判が行なわれますが、被告たちは、例外なく「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と陳述しています。驚くべきことに、予審判事は裁判の始まる前から「量刑は考慮する」と新聞紙上で語っています。さらに大正天皇の死去による恩赦で、一番長く刑務所にいた者でも、拘留期間を除くと一年半ぐらいの服役にしかなりませんでした。
 懲役三年の実刑判決を受け服役した田中村のT氏は、その後村長選挙に当選して村長に就任しています。また、検挙が始まった10月2日、田中村の会議で四人の被告に対し、見舞い金の名目で一人90円の弁護費用を出すことを決め、それを村の各戸から均等に徴収しています。(⑬p.76~8)
 なお石井雍大氏は、行商団の人たちが日本人であると分かっていて虐殺したのではないかと指摘されています。そのうえでの氏の論考を引用します。たいへん重要な論点だと思いますので。
 それでは、福田・田中村事件の場合、行商団の人たちが「朝鮮人ではないのでは」と、少なからずわかっていたにもかかわらず、殺害に及んだのはどうしてか。そこにもまた同じ日本人であっても貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造があったと考えられるのである。
 事件に巻き込まれた香川県の行商団の人たちは、被差別部落の人たちであった。香川県の場合、所有農地が少ない農家(平均五反)が多く、小作率も全国一である。したがって、被差別部落の人たちが、たとえ土地を買いたくてもなかなか売ってもらえない、また小作をしたくてもさせてもらえない状況があった。そのような理由から、少なからぬ被差別部落の人たちは行商に出ざるをえなかったのである。
 部落差別を受け、行商を生業とせざるをえなかったため、大方は貧しい境遇であった。このことも行商人一行に対する目に見えるかたちでの蔑視、偏見、差別の要因になった。「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」こんな意識が働いたことは十分考えられる。
 事件が「朝鮮人と誤認され」といわれているが、単に日本人の民族排外心理一般の中での誤認事件ということだけではカバーしきれぬ問題があると考えざるをえない。(⑬p.79~80)

 なお円福寺大利根霊園に、この事件の慰霊碑が建立されました。
# by sabasaba13 | 2017-11-06 06:41 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(46):豊郷小学校旧校舎群(15.3)

 途中に「中山道 一里塚の郷石畑 ごんろく通り」という気になる案内板もありましたが、時間の都合で探訪は省略。このあたりにも「飛び出し小僧」が出没していました。
c0051620_6153597.jpg

 豊郷駅から十分すこし歩くと、「豊郷小学校旧校舎群」にとうちゃこ。1937(昭和12)年に近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎によって寄贈され、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって建てられました小学校です。当時は「白亜の殿堂」「東洋一の小学校」と言われたそうですが、これは素晴らしい。切れ味鋭いシャープな造形、リズミカルに並ぶ大きな縦窓、さすがはヴォーリズです。内部も見学ができるのでさっそく中に入ると、大きな窓から陽光が燦々とふりそそぐ明るい廊下が印象的。階段手摺の洒落た意匠、そしてイソップ寓話から着想を得たのでしょう、競争をする兎と亀の小さなブロンズ像が手摺の上に設置されています。歩みが遅くとも着実に進めば、努力は必ず実を結ぶ、という子供たちへのメッセージでしょうか。この学び舎で幼時を過ごした子供たちは、大人になってもきっとこの像を思い出すでしょうね。また、子供たちのために階段や手すりを低くし、ぶつかっても大怪我にならないように丸みを帯びた作りにしています。暖房設備などにも当時最先端の技術を惜しみなく使用し、その総工費は365,000円に上ったそうです。(当時の豊郷町予算の10倍!)
c0051620_616820.jpg

 こんな校舎で勉強をしたかったなと思いつつ、中を徘徊しているとふと疑問が脳裡をよぎりました。なぜ、現役校舎として使用していないのか? 今、「ウィキペディア」で調べてみると、興味深いことがわかりました。1999(平成11)年、大野和三郎町長が、老朽化と耐震性を理由としてこの校舎の解体と新校舎の建設を提案、町議会もこれを賛成多数で承認しました。しかし、地元町民からは歴史のある校舎を取り壊すことに反対する意見が出され、裁判所への提訴、解体工事の強行、作業員による反対住民への暴行など、すったもんだの挙句、大野町長は突然方針を撤回。新校舎を建設しながらも旧校舎を保存することになりました。なぜ町長は、こんな素敵な校舎を解体して、新校舎の建設に固執したのか。公共事業による地域活性化や、建設業者の桑原組と大野町長との癒着などを指摘する声がありますが、真相は藪の中。
 解体されなかったのは僥倖でしたが、改修・補修により十分に利用可能との専門家の意見もあるのですから、豊郷の子供たちにここで学ばせてあげたかったですね。利権の匂いがぷんぷんする事件ですが、なんたる偶然、内田樹氏が同じヴォーリズ建築に関して似たような経験をされたそうです。『日本の覚醒のために 内田樹講演集』(晶文社)から引用します。
 これまで何度もした話ですけれど、いまから20年以上前、僕が神戸女学院大学に勤め始めて4年目の時、ある銀行系のシンクタンクが入ってきて、大学内の財務内容についてコンサルティングをしたことがありました。その時に、神戸女学院の建物を見て「この建物は無価値です」とゼロ査定した。「築60年の建物なんか、これから先、修理や耐震工事とかで金がかかるばかりだ。こんな建物を維持してゆくのはドブに金を捨てるようなものです」と言い切った。
 神戸女学院の学舎は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した建物の中でも屈指の傑作です。外形的に美しい建物であるというだけでなく、中にいると心が鎮まります。声の通りもすばらしい。その建物で日々を過ごしている人間たちの実感をコンサルタントはみごとに無視した。彼らがカウントしたのは、坪単価とか築年数というような数字だけでした。そして「無駄だから壊せ」と言った。もちろん、教授会はその提案を一蹴しました。
 コンサルタントたちがその価値をゼロ査定したヴォーリズの校舎は2014年、国の重要文化財に指定されました。現役の校舎としての指定は珍しいものです。今もその校舎の中で研究教育が行われて、礼拝が行われ、クラブ活動が行われている。そういう環境の中でキャンパスライフが送れるということは、生徒学生たちにとってはほんとうに得がたい幸運だと思います。でも、いずれ重要文化財に指定されるような建物の価値がこのコンサルタントたちには感知できなかった。それが僕には信じられないのです。だって、この建物が他と違う、特別なものだということは、建物の中に一歩足を踏み入れれば誰だってわかるはずのことだからです。空気が清浄で、粒子の肌理が細かくて、そこにいるだけで心身が調うことが実感される。にもかかわらず、このビジネスマンたちにはそれがわからなかった。世の中に彼らの手持ちの金勘定の道具だけでは価値が考量できないものがあるということがわからなかった。
 でも、そういう愚かな人間たちがいまの日本社会を支配しています。いまの日本人に一番欠如しているものはそれです。霊的感受性が鈍麻している。霊的に浄化された空間に踏み込んだときに、ここは世俗とは別の場だということさえ感知できない。(p.92~3)
 金勘定でしか物事を判断できない愚かな人間たちがいかに多いことか。そして金銭価値が最高の判断基準となってしまった日本社会。自分も含めて、猛省すべき時だと思います。

 なおバンドを組む女子高生たちが主人公の『けいおん』というアニメに登場する高校の校舎・音楽室が旧豊郷小学校とそっくりだということから、アニメファンの聖地となっているそうです。アニメにはまったく食指が動かない私、どうでもいいことですが。

 追記。階段手摺にある兎と亀の像を山ノ神に見せたら、彼女曰く「これって、子どもたちが、手摺をまたいで滑らないようにするためじゃない」。…鋭い!

 本日の四枚です。
c0051620_6163973.jpg

c0051620_617199.jpg

c0051620_6172412.jpg

c0051620_6174777.jpg

# by sabasaba13 | 2017-11-04 06:19 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 30

 そしてこの9月5日より、習志野の収容所への朝鮮人移送が始まりました。前述のように、まずは独立運動・労働運動・社会主義運動に深く関わっている、あるいは軍・警察が犯した"不都合な真実"を知り過ぎた要注意の朝鮮人を優先して移送します。そしてそれに該当するかどうかはっきりしない多数の朝鮮人を移送して捜査・尋問を行ない、「順良」な朝鮮人と、前記のような「不逞」(日本の国家権力にとって目障りな)朝鮮人を分ける。そして前者は「保護」し、後者は… 習志野で何が起きたのかは、後ほど見ていきたいと思います。

 9月5日午後3時頃、埼玉県大里郡妻沼町で、日本人と分かっていながら無辜の人を自警団が殺害するという事件が起こりました。『関東大震災』(吉村昭 文春文庫)から引用します。
 九月五日午後三時頃、一人の男が妻沼町に隣接した長井村にあらわれた。かれは、戸差友治郎という秋田県出身の労働者で、栃木県足尾銅山から東京へ向かう途中であった。かれは、銅山から歩きつづけてきたので疲労も激しく、夜を過す場所もないので農家の小林某方におもむき、泊らせて欲しいと頼みこんだ。小林は、夜ならば不思議はないが昼間から一夜の宿を乞う戸差に疑惑をいだいた。そして、戸差を観察すると、その言葉に妙な訛りがあってよく理解できない。小林は、即座にかれを朝鮮人だと思った。そして、理由をつけてかれの懇願をことわり、かれが家の戸口から去ると、近隣の者に朝鮮人があらわれたと告げて廻った。その報告を受けた村の自警団では、ただちに警鐘を打ち鳴らした。そのため、村の男たちが、日本刀、竹槍、鳶口、棍棒等を手に集り、戸差友治郎を追った。戸差は驚いて逃げ廻ったが、小林某方から約六百メートルはなれた県道で村民たちに包囲され、暴行を受けた。かれは、傷つきながらも朝鮮人ではないと必死に弁解した。そのため村人たちは、妻沼町の巡査部長派出所に連行した。騒ぎをききつけた群衆の数が増し、同派出所の廻りに集った。巡査部長は戸差を訊問したが、かれが秋田県人であることを知ったので、派出所の机の上に立つと、数百名の群衆に向かって戸差がまちがいなく秋田県人であると説明した。死の恐怖に襲われていた戸差友治郎は、巡査部長の言葉に喜んで、思わず両手をあげて、「バンザイ」と叫んだ。殺気立っていた群衆は、この戸差の態度に反感をいだいた。そして、「バンザイとは何事だ。生意気だ、殺してしまえ」と怒声をあげた。かれらは、戸差を派出所から引きずり出すと、凶器をたたきつけて殺害してしまった。そして、その遺体を空俵に包み利根川の畔に運ぶと川の中に投げこんだ。(「関東大震災の治安回顧」より) 日本人と承知していながら殺害してしまったのである。(⑧p.186~7)
 9月5日の夜には、群馬県藤岡で朝鮮人虐殺事件が起きています。藤岡警察署は近隣に住む朝鮮人17名を保護するという名目で留置場に拘留しました。このことを知った周辺の民衆約2000名が、夕刻「朝鮮人を出せ」「朝鮮人を殺せ」と叫びながら、警察署を襲い、無抵抗で助けを求める朝鮮人にたいして竹槍、棍棒、日本刀、猟銃などで16名を警察署内で惨殺しました。翌6日には、新たに拘留された一人が、集まった約1000名の暴徒によって殺されました。遺体は成道寺に埋葬され、後に慰霊碑が建立されました。

 また5日に、埼玉県寄居の群衆によって虐殺された朝鮮人犠牲者一名(一説に二名)の墓碑が、児玉警察署一同によって浄眼寺に建立されました。墓碑正面には「鮮覚悟道信士」と戒名が刻まれていますが、被葬者が朝鮮人であることは示されていません。(⑥p.209)

 地方の新聞による流言蜚語の流布はいまだ続いています。
 不逞鮮人狂暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり (北海タイムズ)

# by sabasaba13 | 2017-11-03 07:34 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(45):豊郷(15.3)

 閑話休題。そういえば時事通信ニュース(17.7.10)に、下記のような記事がありました。
 パチンコ出玉規制強化へ 客のもうけ5万円以下に―ギャンブル依存症対策・警察庁

 警察庁は、パチンコの標準的な遊技時間(4時間)に客が得られるもうけの上限について、現行の十数万円から5万円を下回るよう出玉規制を強化する方針を固めた。
 スロットなどについても同水準に規制を強化する。もうけの上限を引き下げることで、負けた分を一度に取り戻そうとのめり込むリスクを減らすのが狙い。11日に風営法施行規則などの一部改正案を公表し、一般から意見を募る。
 カジノ解禁を柱とする統合型リゾート(IR)推進法が昨年12月に成立したのを受け、政府のギャンブル依存症対策の一環として実施する。
 警察庁によると、パチンコ依存問題の相談機関「リカバリーサポート・ネットワーク」に相談した人の約7割が、1カ月当たり5万円以上の損失を出していた。
 改正案では、遊技時間4時間でパチンコ玉の獲得総数が発射総数の1.5倍に満たないものとする新基準を設けた。現行の3分の2程度に規制を強化し、大当たりの出玉の上限も現行の2400個(9600円相当)から1500個(6000円相当)に引き下げる。
 いっそのこと、韓国のようにパチンコを全廃すればいいのに。でもそれをせずに微温的な対処療法をとるのは、やはりパチンコ業界と警察との癒着があるからでしょう。『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健 祥伝社新書226)によると、警察庁の外郭団体である保通協(財団法人保安電子通信技術協会)という組織が警察幹部の天下り先となっており、パチンコ機の試験・検査を通して業界を牛耳っているそうです。また各パチンコ店も警察官の天下り先になっているそうです。さらにパチンコ店を管轄する各警察署の生活安全課にも、飲み食いや海外旅行の接待など大きな利得があるとのこと。やれやれ、警察の現状については、きっちりと監視する必要がありますね。

 近江鉄道の「パトカー電車」に35分ほど乗って八日市駅へ、高宮行きに乗り換えて16分ほどで豊郷駅に着きました。お目当ては、ヴォーリズが設計した豊郷小学校です。改札口を出て小学校の方へ歩いていくと、おおっ、「飛び出し少年少女」のオンパレード。金髪の少女、ギター(?)を背負ってパンを咥えながら走る少女、野球帽の少年、ご近所の方のご子息を模したものかなと想像するだけでも楽しいですね。
c0051620_6283518.jpg

# by sabasaba13 | 2017-11-02 06:29 | 近畿 | Comments(0)