虐殺行脚 神奈川編(5):宝生寺(16.9)

 堀割川にかかる八幡橋を渡ったところでバス停を発見。潔くバスに乗ることにして、天神橋で下車しました。路地に入って十分ほど歩くと、宝生寺に着きました。かなりわかりづらいところにあるので、詳細な地図は必携です。木々に埋もれるような石段をのぼって門をくぐると、そこは鬱蒼とした緑にあふれる境内です。
c0051620_8475052.jpg

 門のすぐ左手に「関東大震災 韓國人慰霊碑」がありました。

合掌

 関東大震災後、横浜で社会活動をしていた李誠七氏が、三ツ沢墓地・久保山墓地などから同胞の遺骨を集めて港北区篠原の東林寺、同菊名の蓮勝寺に埋葬、1924年からここ宝生寺で追悼法要を行なったそうです。1961年に東林寺に納骨堂が建てられ、1971年には李誠七氏の遺志をついだ鄭東仁氏が、在日本大韓民国民団県本部の協力を得てこの碑を建立されたとのことです。碑文を転記します。

 労働市場を求めて来日関東一円に在住した韓國人が大正拾貮年九月壹日正午襲った関東大震災に因る直接又は間接の被害を受けて空しく異國の露と消えたこれらの怨霊は永いこと忘れ去られていたが第二次世界大戦の終結後社会事業家で横浜在住の故李誠七氏の努力と当時の住職故佐伯妙智先生の好意によりこの地に鎭魂以来毎年九月壹日を期して民團神奈川縣地方本部主催で慰霊祭を挙行して来た紀元一九七十年九月壹日例祭の折孫張翼田炳武鄭東仁氏が中心に発起人一同の賛同を得て本県在住同胞有志の浄財の寄付と現住職佐伯眞光先生の土地提供の好意を得て幸い茲に建立永遠に関東大震災による韓國人怨霊の冥福を祈るものである

 一読して棘のように突き刺さってきたのが、虐殺されたことや「怨」の原因については一切記されていないことです。日韓和解のためにあえて記さなかったのか、あるいは日本人によるいやがらせを危惧する故か、それは分かりません。ただ、もし私の家族が虐殺されたとしたら、せめてその事実を石に刻んで永遠に残してほしいと願います。無辜の人びとが日本の警察・軍隊・民衆に殺害され、加害者はほとんど処罰されず、彼らの反省と悔悟の弁もなく、そして政府がまともな調査もせずに事件が忘却の淵に消えるのを待っているという事実を。
 なお1995年、神奈川県関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立推進委員会は神奈川県に対して、県による事実調査、県による追悼碑の建立、県下の教育現場での歴史教育の実行などをもとめる要請を行なったとのことです。結果については…だいたい想像がつきます。南京虐殺、従軍慰安婦、強制連行、沖縄戦における日本軍の蛮行、福島原発事故など、自分に不都合な事実はなかったことにしたいお国柄ですから。恥ずかしい。でもこの恥ずかしさを怒りに変えて、政府や自治体を動かしていくのが市民の務めなのですよね。

 本日の一枚です。
c0051620_8483648.jpg

 付記。最近読んだ『世界史としての関東大震災』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)に、下記の一文がありました。

 これら以外にも朝鮮人・韓国人が建てた碑がありますが、その後になると、彼らは日本人に遠慮してしまうのです。横浜の宝生寺に韓国居留民団神奈川県本部が1970年につくった碑がありますが、この碑の碑文には、日本にやってきた韓国人が「関東大震災に因る直接又は間接の被害を受けて空しく異国の露と消えた」と書かれています。「直接又は間接」というのは何なのでしょうね。「直接」は地震でしょう。「間接」とは人災=人間による虐殺のことでしょう。こんなまわりくどい、わかりにくい文章を、なぜ書かなければならなかったのか。在日韓国人は日本人の神経を逆なでしたくないと思って、曖昧な文章を書いたのでしょう。そこを日本人が考えてほしい。日本人の無言の圧力がこれだけ韓国人に遠慮させているんだということを察してほしいというのが私の願いです。(p.15)

# by sabasaba13 | 2017-01-12 06:34 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(4):根岸(16.9)

 そして保土ヶ谷駅へと歩いて戻り、JR横須賀線で横浜へ。根岸線に乗り換えて十分ほどで根岸駅に到着です。昼食は、根岸駅近くにあったビル内の「ひょうたん」で、ぶた丼をいただきました。
c0051620_6335397.jpg

 そして地図を片手に横浜市南区堀ノ内1-68にある宝生寺をめざして、中通りを西へと歩いていきましたが、けっこう距離がありました。途中で「経済で、結果を出す。」と宣う安倍伍長のポスターを見かけたので、疲労も倍加しました。"銭さえ握れば文句ねえだろ"と言いつつも国民を見殺しにして国威発揚と軍事力増強に邁進する伍長と自民党、彼らを何となく支持する多くの方々。過去を記憶し歴史から学べば、いつか来た道であるのが判りそうなものですけれどね。おまけに「一億総活躍社会へ。自民党」ときたもんだ。"退却"を"転進"に、"自爆攻撃"を"玉砕"に、"敗戦"を"終戦"に、"占領"を"進駐"に、"共同的武力行使"を"駆けつけ警護"と言いかえてきた歴史をもつお国柄ですから、この"活躍"という言葉もお里が知れるというものです。さしずめ、"酷使"か"使い捨て"か"死に至るまでの滅私奉公"といったところでしょう。ここまでなめられる国民には、愚劣さを通り越してある種の清々しささえ感じます。

 本日の一枚です。
c0051620_6342713.jpg

# by sabasaba13 | 2017-01-10 06:35 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(3):久保山墓地(16.9)

 さて肝心の慰霊碑ですが、広大な墓地ゆえに見つけるのに苦労するだろうと覚悟はしていました。しかし、管理事務所の左にある合祀霊場に行くと、すぐに見つかりました。正面には関東大震災により死亡した無縁者3,300人を合葬した「横浜市大震火災横死者合葬之墓」。
c0051620_825432.jpg

 その左手に「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」が建っていました。

合掌

 この慰霊碑は、1974年に横浜市民の石橋大司さんが建てられたものです。小学校2年生の時に、石橋さんは、朝鮮人の遺体が電柱に後ろ手にしばられているのを目撃しました。1970年代に、石橋さんは当時の飛鳥田市長に対して、『市民への手紙』という制度を利用して、久保山墓地の合葬墓の修復と虐殺された朝鮮人の慰霊碑の建立を求める提案を数度にわたって行ったそうです。しかし合葬墓の修復は実行されましたが、朝鮮人の慰霊碑建立はされませんでした。その後、石橋さんは私財をなげうって、この碑を建てました。なおこの碑の裏には、『少年の日に目撃した一市民これを建てる』と記されていました。
 石橋さんの見識と行動に、心から敬意を表します。日本の民衆が、無辜の朝鮮人を数多虐殺したというこの歴史的事実を記憶にしっかりととどめて反省しないかぎり、また私たちは同じ行為を繰り返しかねません。ジョージ・サンタヤーナ曰く、"過去を記憶しない者は、過去をふたたび生きねばならぬ"。ヨハン・ガルトゥング曰く、"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"。過去を記憶し、歴史から学ぶためにも、意義深い建碑だと思います。そういえば『地震・憲兵・火事・巡査』(岩波文庫)で、この虐殺事件を痛烈に批判した弁護士の山崎今朝弥もこう述べていました。
 朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし。(p.278)
 個人の善意に頼るのではなく、国がきちんと調査をして責任の所在を明らかにし、悔悟と謝罪の意を表するためのモニュメントをつくるべきだと思います。

 本日の二枚です。
c0051620_83189.jpg

c0051620_813314.jpg

 追記。最近読んだ『関東大震災・虐殺の記憶』(姜徳相 青丘文化社)の次の一文がありました。
 交通要所での検問、誰何の過程を反映したのか、十字路や橋のたもとでの殺害の例が多くみられた。増田節太郎(当時『東京日日新聞』記者、1891年生)は「日本橋、柳橋の焼野ヶ原の交差点には電信柱に針金でくくって朝鮮人が殺されていたし、大きな橋のたもとで小塚の原さらし首のように朝鮮人の生首が五つも六つもおいてあった」(三原令 『聞き書き』)と述べている。このように朝鮮人を電柱などに針金で縛り、「不逞鮮人なり、なぐるなり、けるなりどうぞ」と書いた立札を貼り、棍棒をおいて通行人の殴殺にまかせたのを目撃した人は非常に多い。(p.159~60)

# by sabasaba13 | 2017-01-09 08:04 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(2):保土ヶ谷(16.9)

 横須賀中央駅から京浜急行で横浜へ、JR横須賀線に乗り換えて三分で保土ヶ谷駅に着きました。横浜市西区元久保町3-24にある久保山墓地までは、徒歩約20分です。わかりづらいので地図は必須ですね、それでは歩いて行きましょう。駅東口からお寺さんの脇にあるゆるやかな坂道をのぼっていくと、トンネルがありました。煉瓦積みの坑門にはピラスター(付け柱)やデンティル(歯状装飾)が付設されており、一目でただものではないとわかる物件です。「横浜市認定歴史的構造物 東隧道」「土木學會選奨土木遺産 横浜水道に関わる隧道-東隧道」という二つのプレートが掲げられていました。今、インターネットで調べてみると、関東大震災後に復旧事業の一環として開削されたもので、このトンネルの地下に水道管が埋まっているそうです。トンネルは、水道管埋設工事と管理用のために開削されたもので、公道と兼用になっているのは全国的にも珍しいとのことです。なるほど、でも現地に解説板がぜひ欲しいですね。横浜市に善処を希望します。
 歩道がないトンネルを自動車に気を付けながら抜けて、地図を片手に十数分歩くと久保山墓地に到着です。「はまれぽ.com」によると、明治政府の意向で三つのお寺の墓地を移設して造られたのが始まりで、市営墓地と民間墓地が入り混じっており、民間墓地には三溪園で知られる原三溪(富太郎)のお墓もあるそうです。またウィキペディアによると、ほかにも村岡花子(翻訳家・児童文学者)、山城屋和助(割腹自殺した陸軍省御用商人)、吉田茂(政治家)、吉田健一(英文学者、吉田茂の長男)のお墓もありました。また、戊辰戦争で戦死した兵士の"官修墓地"が、市営墓地の一角にあるそうです。当時の日本では銃創治療の技術が未熟だったため、撃たれた官軍兵士は野毛にあった横浜軍陣病院に運ばれてイギリス人のウィリアム・ウィリス医師の治療を受け、治療の甲斐なく亡くなった人がここに埋葬されているとのことです。本日は時間の関係で見られませんでしたが、いつか掃苔のため再訪したいものです。

 本日の一枚です。
c0051620_8123996.jpg

# by sabasaba13 | 2017-01-07 08:13 | 関東 | Comments(0)

写真館

江見写真館(岡山県津山)
c0051620_1741023.jpg

つちや写真館(岡山県津山)
c0051620_173476.jpg

エノモト写真店(神奈川県横須賀)
c0051620_18254143.jpg

菅原写真館(宮城県若柳)
c0051620_199921.jpg

恵美写真館(福井県鯖江)
c0051620_1548254.jpg

大谷好美館(栃木県鹿沼)
c0051620_9385092.jpg

常盤台写真場(江戸東京たてもの園)
c0051620_1954097.jpg

高田小熊写真館(愛知県明治村)
c0051620_16264347.jpg

旧金井写真館本店(新潟県新潟)
c0051620_2149028.jpg

旧三陽写真館(新潟県摂田屋)
c0051620_21483073.jpg

中村写真機店(新潟県新潟)
c0051620_21475774.jpg

白鳥写真館(長野県松本)
c0051620_20225318.jpg

梅沢写真会館(東京都三ノ輪)
c0051620_1831284.jpg

松村写真館(栃木県足利)
c0051620_2084947.jpg

冨重写真所(熊本県熊本)
c0051620_2144695.jpg

寛明堂(山形県鶴岡)
c0051620_9243570.jpg

写真高橋(山形県山形)
c0051620_924593.jpg

千鳥写真館(山梨県塩山)
c0051620_952820.jpg

写真の店「ささき」(岐阜県明智)
c0051620_20194394.jpg

星野写真館(神奈川県江の島)
c0051620_7311551.jpg

旧日の丸写真館(竹原)
c0051620_7313221.jpg

西村写真館(山形県山形)
c0051620_9272154.jpg

山岸写真館(岐阜県飛騨高山)
c0051620_7315832.jpg

小林写真館(北海道函館)
c0051620_7321279.jpg

写場島忠(宮城県気仙沼)
c0051620_7322815.jpg

渡辺写真館(宮城県登米)
c0051620_7324048.jpg

安藤写場(福島県会津若松)
c0051620_7325527.jpg

写真山下(長野県善光寺)
c0051620_733774.jpg

オソノエ写真館(茨城県笠間)
c0051620_7332222.jpg

スミレ写真館(東京都青梅)
c0051620_7333457.jpg

奥多摩写真館(東京都青梅)
c0051620_7335472.jpg

タイキ写真館(福島県白河)
c0051620_734931.jpg

田中写真館(東京都鳩の街)
c0051620_7342417.jpg

鈴木写真スタジオ(富山県高岡)
c0051620_73436100.jpg

# by sabasaba13 | 2017-01-06 19:38 | 写真館 | Comments(0)

虐殺行脚 神奈川編(1):横須賀(16.9)

 すでに上梓しましたが、2014年12月に関東大震災の時に起きた朝鮮人虐殺慰霊碑を訪れる旅をしました。その後も関連する研究や書籍を渉猟し、また今年(2016年)の9月には神奈川県・千葉県・東京都にある慰霊碑を訪れることができました。その報告とともに、この事件に関する自分なりの総括も考えてみたいと思います。まずは神奈川編、持参した本は『わたしの「女工哀史」』(高井としを 岩波文庫)です。
 見残した教会があるので、まず横須賀を訪れました。ヴェルニー公園、戦艦「三笠」、猿島に行ったのが2007年ですからほぼ十年ぶりです。京浜急行の横須賀中央駅で降りて、持参した地図を片手に平坂をのぼっていきます。このあたりの商店街には、けっこう古い物件が残っているのですね。意外でした。アーケードが目障りですが、なかなか破天荒な意匠のファサードを眺めながら十数分歩きます。
c0051620_19323376.jpg

 くねくねした狭い路地に入ると、お目当ての日本基督教団横須賀上町教会に到着です。完成は1930(昭和5)年頃、白い下見板と尖頭アーチ型の窓が瀟洒な雰囲気をただよわせていました。
 横須賀中央駅へ戻る途中で、ユニークな写真館を見つけました。その名は「エノモト写真店」、ファサードの三連窓も素敵なのですが、何といっても入口上部に飾られたのびやかで軽やかな意匠のステンドグラスが素晴らしい。これはめっけもんでした。
c0051620_19325662.jpg

 本日の三枚です。
c0051620_19331553.jpg

c0051620_19333399.jpg

c0051620_19334997.jpg

# by sabasaba13 | 2017-01-06 19:35 | 関東 | Comments(0)

『この世界の片隅に』

c0051620_7164814.jpg 以前に拙ブログで紹介した、こうの史代氏による傑作マンガ『この世界の片隅に』がアニメーション映画化されたということで、山ノ神と一緒に「ユナイテッドシネマとしまえん」で見てきました。
 まずは公式サイトから、ストーリーを引用しましょう。
 18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。
 1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。そして、昭和20年の夏がやってくる―。
 まず目を瞠ったのが、画面の美しさです。まるでパステル画のように柔らかな色調にはすっかり魅せられました。動物、昆虫、植物、そして人間など生きとし生けるものたちも丁寧にかつ生気をもって生き生きと描かれていました。街の精緻な描写も素晴らしいですね。アニメーションとしての質はかなり高いものです。
 前半は、広島県呉に暮らす市井の人びとの生活が、のんびり屋でちょっと間が抜けた主人公・すずを中心に描かれます。普通に笑い、普通に哀しみ、普通に惑う、普通の暮らし。この地の風土に根ざした生活が、さまざまなエピソードやディテール、そして爽やかな笑いとともに淡々と綴られます。明日も今日と同じ、でもそれでいいじゃないか、と言わんばかりに。後半になると戦争の影が日常生活に忍び寄ってきます。物資の不足、配給、出征、防空壕掘り、代用食など、戦争がもたらす影響がリアルに描かれます。印象的なのは、主人公一家をはじめとする呉の人びとが、戦争に熱狂することなく、日々の普通の生活を淡々と送っていることです。そしてクライマックスは、呉への無差別爆撃、広島への原子爆弾投下です。さまざまな視角から描写される戦争シーンは、思わず息を飲み手を握りしめる迫力。そして…
 結末は伏せますが、廃墟と焼跡のなか、心の片隅に小さな灯がともるような気持ちになれました。普通に暮らすことがいかに大事か、そして戦争はその普通の暮らしをどのように壊していくか、あらためて感じ入りました。そして、その普通さを守ることが、いかに困難でいかに大切かということも。
 実は映画館に行く途中、地下鉄の中で『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』(高橋源一郎 朝日新書594)を読んでいたのですが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチを紹介する次の一文がありました。ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家で、ちょうどいま『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)を読んでいるところです。
 アレクシエーヴィチが書くのは小説ではなく、「『大きな歴史』がふつう見逃したり見下したりする側面」「見落とされた歴史」だ。彼女は「跡形もなく時の流れの中に消えていってしまう」無数の声を丹念に一つ一つ、ひろい上げてきた。(中略)
 いま、独裁化の進む母国ベラルーシにあって、アレクシエーヴィチは「萎縮」も「自主規制」することもなく、「大きな歴史」が見逃してきた人びとの声に耳を傾けつづけている。誰かが、その仕事を担わなければならないのだ。
 アレクシエーヴィチはこういう。
「私が関心を持ってきたのは『小さな人』です。『小さな「大きな人」』と言っても構いません。苦しみが人を大きくするからです」
 歴史から忘れられてきた無名の「小さな人」たち。だが、彼女の本の中で、彼らは大きく見える。自分の過去と向き合い、何がおきたかを、勇気をもって自分の言葉で語りはじめているからだ。(p.77~8)
 いやほんとに偶然です。まるでこの映画の本質を抉ったような一文でした。「世界の片隅」とは「小さい歴史」ということなのかもしれません。そしてすずをはじめとする登場人物は普通の暮らしを守ろうとする『小さな「大きな人」』たち、アレクシエーヴィチの役割を果たしたのがこうの史代氏と監督の片渕須直氏でしょうか。大きくなりたい「小さな人」として、勇気をもらえた映画でした。お薦めです。
 なお絶対に忘れてはならないのは、今、パレスチナで、シリアで、南スーダンで、リビアで、イエメンで、日本で、世界のあらゆる片隅で、武力や無差別爆撃やテロや貧困によって普通の暮らしを脅かされ、傷つけられ、殺される人びとが無数にいることです。思いを馳せましょう、世界のすずたちに。そして考えましょう。

 追記。本作の中で、時限爆弾、投下され地面にめりこみしばらくたって爆発する爆弾が重要な意味をもっています。これに関して、『空爆の歴史』(荒井信一 岩波新書1144)の中に、下記の指摘があります。
 しかしハリス(※イギリス爆撃機集団司令官アーサー・ハリス元帥 「ブッチャー・ハリス」)は、もっと野心的な空爆を計画していた。単一の都市に一時間半にわたり1000機もの爆撃機をなだれこませ、都市防衛-対空砲火だけでなく消防や救護活動をも無力化し、爆弾と焼夷弾を集中して焼き払うというアイデアである。飛行機には容量の許す最大限の焼夷弾を積み、2400メートルの高度から落とす。発生する火災現場に後から駆けつける消防夫をその時点で殺傷するために遅発性の信管をつけた2キロ 爆弾を混ぜておくなど、かつてのゲルニカやのちの東京に対する空爆手法に通じる発想が試みられた。(p.89)
 助ける人を殺すための爆弾か…やれやれ。「それでも人間か」と言いたいですね。落とした輩は「それが人間だ」と答えるでしょうが。
# by sabasaba13 | 2017-01-02 07:17 | 映画 | Comments(0)

言葉の花綵151

 ♪つんつくつくつくつん つんつくつくつくつ ひゃらー♪

 迎春

 ふつつかで粗忽なブログですが、今年もよろしくお願いします。


 喜びを与える喜び、それもまた友情の意味ではないですか。(エリック・ホッファー)

 われわれはほぼすべてを失った。国家、経済、われわれの物理的存在のための確かな条件を。そしてさらに悪いことには、われわれみなを結びつける有効な規範、道徳的品位、国民としての統一的な自己意識を。だがわれわれが生きているということは、何か意味をもつはずだ。われわれは無から立ち上がるのだ。(カール・ヤスパース)

 私は原子爆弾の爆発このかた、これまでよりいっそう不気味で恐ろしい気持がします。なんという危険なおもちゃを、世界を支配するこの愚者どもが手にしていることか。(ハンナ・アーレント)

 戦争だ。ウソが始まる。(ヘティ・バウアーの父)

 死んだ人たちの分まで、私たちは生きなければ、いけないのです。過去は変えることができません。でも、末来を変えることはできます。(某高校生)

 人間にとってもっとも得意とするのは忘却で、不得意なのは想像力だ。(unknown)

 理想的兵士はいやしくも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。すなわち、理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。(『侏儒の言葉』 芥川龍之介)

 思うてもみて下さい。あるヤクザ集団が50丁のピストルを用意したとか、百ふりの日本刀を掻き集めたとか聞きつけると、治安当局は"凶器準備集合罪"として、時をおかずパクリに行きます。なのに同じことが"国家"の名でやられると、軍備として容認されるどころか、ホメラレたり、ウラヤマシがられたり、また、ジマンだったり。このペテン、私にはがまんなりません。(住井すゑ)

 戦争は人と人との関係ではなくて、国家と国家の関係なのであり、そこにおいて個人は、人間としてではなく、市民としてでさえなく、ただ兵士として偶然にも敵となるのだ。祖国を構成するものとしてでなく祖国を守るものとして。要するに、それぞれの国家が敵とすることができるのは、ほかの諸国家だけであって、人々を敵とすることはできない。(『社会契約論』 ジャン・ジャック・ルソー)
# by sabasaba13 | 2017-01-01 07:14 | 言葉の花綵 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(36):結語(14.12)

 というわけで、朝鮮人虐殺行脚、埼玉・群馬編、一巻の終わりです。この旅をしたのは2014年12月のことです。なぜ普通の人びとが、大震災によるパニック、警察・軍隊・行政によるある種の煽動があったにせよ、罪なき朝鮮や中国の人びと、社会主義や労働運動家、場合によっては一般の日本人さえをも虐殺したのか。その全容を解明する努力を国家権力はしたのか、その責任をだれがとったのか、そしてその原因を究明し臓腑を抉るような反省とともに再発を防ぐ努力を私たちはしてきたのか。若者たちにこの歴史的事実をきちんと伝え、考えてもらおうとしてきたのか。私から見れば、いずれの場合においても不十分な姿勢だと思います。一例を挙げましょう。受験生御用達の『詳説 日本史B』(笹山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦 山川出版社)における、当該の記述は下記のものです。
 関東大震災後におきた朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に類をみないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識がったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者10人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。(p.331)
 何ともはや、歯に衣を着せてオブラートに包んで釉薬をかけて焼き上げたようなもどかしい説明です。"例外的とは言い切れない規模"? 何を、誰を恐れて、山川出版社はこのような腰の引けた表現を使っているのでしょう。そしてここには流言蜚語のきっかけとなった警察・軍・行政の行為や、殺人に対する反省のない犯人たち、それを庇いだてする地域共同体、そして刑事責任を有耶無耶にする司法当局などについても一切ふれられていません。二度と繰り返さないためにも、そこが重要なのにもかかわらず。過去を記憶しない者は、過去をふたたび生きねばならぬ(ジョージ・サンタヤーナ)、私たちはこの忌まわしい過去をふたたび生きねばならないのでしょうか。嫌だ。
 というわけで、この問題については、旅が終わった後も関連の書籍を読み続けてきました。また朝鮮人虐殺の慰霊碑などが、神奈川県・千葉県・東京都にもいくつかあるので、それも訪れたいと考えてきました。後者に関しては、今年の九月にほぼ実現することができました。この後、神奈川編・千葉編・東京編を上梓して、最後にまとめ、関連の資料と自分なりの意見を開陳したいと思います。もうしばらくお付き合いください。
# by sabasaba13 | 2016-12-31 06:41 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 埼玉・群馬編(35):本庄(14.12)

 それでは帰郷しましょう。駅へ向かう途中にあった恰幅のよい重厚な倉庫が、旧本庄商業銀行倉庫(現ローヤル洋菓子店)です。解説板を転記します。
 この建物は、明治二十九年に建設された旧本庄商業銀行の寄棟瓦葺二階建の煉瓦造の倉庫です。かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。
 この建物は、明治二十七年に開業した本庄商業銀行で、融資の担保となった大量の繭を補完するために建てられました。絹産業が盛んであった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。
 この建物は、屋根をキングポストトラスで支え、鉄扉を備えた窓には、繭を保管するために通気性を配慮して漆喰板戸を網戸が併置され、床下にも鋳鉄製の枠を備えた通気口を設けています。壁面には、深谷の日本煉瓦製造の煉瓦が用いられ、当時一流の技師の設計による明治期を代表する近代的な建造物です。
c0051620_1325037.jpg


 ある靴屋さんの店頭には「東中学指定靴」「南中学指定靴」「西中学指定靴」という貼り紙がありましたが、万人が抱く疑問として北中学校はなぜないのでしょう? 本庄駅の近くには、大きな通気口が二つ屋根にある蚕室らしき物件や、立派な煉瓦造りのお宅がありました。なお本庄には「つみっこ」というご当地B級グルメがあるそうです。養蚕・機織りが盛んだった本庄市で、仕事の合間に食べられた地粉と地元野菜を使った「すいとん」です。「つみっこ」の呼び名は、養蚕の仕事である桑の葉を摘み取る様子と、小麦粉を練ったものを手で「つみとる」ようにちぎって鍋に入れたことを言い表した本庄地方の方言とのこと。残念ながら、食べさせてくれそうなおお店は見当たりませんでした。駅前の「カフェOB」で珈琲をいただいて、高崎線に乗って帰郷しました。
c0051620_13251230.jpg

# by sabasaba13 | 2016-12-30 07:36 | 関東 | Comments(0)