関東大震災と虐殺 9

 話を戻しましょう。当時は政変の最中で、前首相・加藤友三郎は8月24日に大腸ガンによって死去しており、後継首班の大命が海軍大将・山本権兵衛に降下していました。しかし山本内閣はいまだ成立しておらず、事務引継ぎのため、内田康哉を臨時首相代理とする前任内閣が行政を担当していました。大地震の直後、内閣閣員の頭にまず浮かんだのは、驚愕と恐怖におびえる国民に対する救済策ではなく、宮中の安否でした。臨時首相・内田康哉は皇居にかけつけ、摂政裕仁の無事を確認し、日光に避暑中の大正天皇の安危を確認するためにあらゆる努力を傾注しました。また水野錬太郎内務大臣は、参内に必要なフロックコートをとりいにいかせるために、逃げまどう人々を押し分けて車を高輪の自邸に走らせました。
 警備・救護の直接責任者である警視総監・赤池濃(あつし)も、まず宮中に馳せ参じ、庁舎へと戻る車中から瓦礫の町・燃える市街を見聞しました。彼の脳裡に、彼自身の言葉を借りれば「余は千著万端、此災害は至大至悪、或は不祥の事変を生ずるに至るべきかを憂えた」という思いがよぎります。総監室に戻った赤池は幹部たちを集めて緊急協議を行ない、災害の実態を把握しようとします。その結果、東京市内の警察署の多くは焼失・倒潰、署員の非常呼集も満足にできないなど、警察力が壊滅状態にあることが判明します。さらに火の手は警視庁にも迫ってきました。警視庁編『大正大震火災誌』にこうあります。
 斯ル微弱ナル警察力ヲ以テ非常時ノ警戒ニ任ジ帝都ノ治安ヲ完全ニ保持スル事ノ困難ナルヤ明ナリ況ンヤ窮乏困憊ノ極ニ達シタル民衆ヲ煽動シテ事端ヲ惹起セント企ル者ナキニ非ザルニ於テオヤ (p.20)
 何をしでかすかわからない民衆への不信感、米騒動再発の危惧、彼らを先導する社会主義者への警戒心。さらには韓国併合以後、迫害しつづけてきた朝鮮人が、この無秩序につけこみ、復讐にたちあがる懸念。そういった渾然一体となった強迫観念が、赤池の胸中にあったと考えられます。これが「不祥の事変」の正体でしょう。

 やがて警視庁が炎上したため、午後二時、警戒本部は日比谷公園有楽門前に移りました。そして赤池はこの情勢を奏上するために皇居に参内し、ここで内務大臣・水野錬太郎と警保局長・後藤文夫と会同しています。ここに、水野錬太郎・赤池濃・後藤文夫という、治安対策の最高決定権者が揃い踏みしたわけです。米騒動(1918)の際には、水野は内務大臣で、赤池・後藤も内務省に勤め、治安当局者として民衆弾圧の先頭に立って過剰鎮圧を指揮した人物です。水野・赤池については、前述のように、朝鮮総督府政務総監・警察局長として、三・一独立運動への苛烈な弾圧を行なった当事者です。水野は、斎藤実朝鮮総督投弾事件で負傷をしており、赤池もその現場に居合わせました。(1919.9.2) よって三人とも、日本人群衆の暴動や朝鮮民衆の独立運動の巨大な威力と恐怖を誰よりもよく知っていたわけです。
# by sabasaba13 | 2017-09-15 06:24 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(31):伏見(15.3)

 それでは男…もといっ(あーしつこい)弾痕を拝見しに参りましょう。龍馬通りを歩いていると、龍馬とお龍カップルの顔はめ看板がありました。
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 その先は、酒蔵が建ち並び、なかなか雰囲気のある街並みです。さてこのあたりにあるはずだが…きょろきょろ…あった。「魚三楼」という料理店に解説がありました。後学のために転記しましょう。
鳥羽伏見戦の弾痕

 右側、格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕です。幕末の慶應4年1月3日、4日に此処伏見で薩長土連合の新政府軍と幕府軍とが大激戦をくりひろげました。世に言う鳥羽伏見の戦いです。(明治維新の最初の戦)
 幕府の大政奉還の奏上、朝廷の"王政復古の令"の直後朝廷側が決定した第15代将軍慶喜の辞官、納地(一切の官職と幕府領の返上)は、幕府を怒らせ、京へ攻め上って参りました。新政府軍は、これを鳥羽伏見で迎え撃ち、伏見では一大市街戦が展開され、幕府軍は敗れ、淀、大阪方面へ退却しました。
 この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼野原となりましたが、幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失免れました。
 格子を抉る弾痕を指でなぞりながら、徳川氏の命運を決めたこの戦いに思いを馳せました。なお「魚三楼」は明和元年(1764)創業の老舗料亭で、薩摩藩の炊事方も務めたそうです。
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 なお鎌倉の妙法寺には、鳥羽・伏見の戦いの原因となった薩摩屋敷焼き討ち事件における双方の死者を祀った「薩摩屋敷事件戦没者の墓」があります。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-09-14 06:27 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 8

 こうした前史や状況のなか、1923年9月1日土曜日午前11時58分32秒、運命の時がやってきました。相模湾一帯を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生、いわゆる関東大震災です。被害は主に関東南部から静岡県にかけて広がり、地震の発生がちょうど昼時だったこともあり、東京・横浜では大規模な火災が発生し、各地に甚大な人的・物的被害をもたらしました。

 なおこの激甚なる大災害に対して、僧侶・仏教学者の木村泰賢が、次のように指摘していることを紹介しましょう。
 日本は世界に於ける有力なる地震国であり、殊に関東一帯は昔より屡々大小の地震に襲はれ其都度、相当の被害のあつたことは、記録の吾人に明示する以上、言はゞ自然は常に今回の大事変に対する予告を与へつゝあつたにも関らず、吾等は之に多くの顧慮を費やすことなく漫然とその〔自然の〕和平に信頼して特殊の防備を施すことなくして通過して来た…殊に京浜にありては目前の急に逼られて何等の基礎的計画もなく漫然、雑然と疎末な家屋を併立し遂には抜き差しの出来ない程の状態に到らしめたことゝて、一朝大地震の来るあらば…忽ちにして今回の如き惨事を来たすべきや心ある人ならば容易に気付き得べき筈ではなかつたか (「災害と其道徳的意義」 『太陽』11月号)
 震災前から多くの学者や建築家が都市計画の抜本的改革を訴え、防火建築の政策的推進を呼びかけていたにもかかわらずそれらは無視され、この大惨事を招いたのですね。(⑫p.55~6)
 世界でも有数の天災発生国・日本であるにもかかわらず、政府当局の人命軽視と無定見を痛感させられます。軍事費の何分の一かでも防災につぎこんでいれば、ここまで被害は大きくならなかったでしょう。なお物理学者・寺田寅彦が、この点について後に『天災と国防』(1934.11)という随筆で鋭く批判しています。現在の私たちも耳を傾けるべき重要な指摘ですので、紹介します。
 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。

 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。

 国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇(いとま)がなかったように見える。誠に遺憾なことである。

 人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。

# by sabasaba13 | 2017-09-13 06:26 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(30):寺田屋(15.3)

 そして濠川沿いの遊歩道を散策、見ていて赤面したくなるような「龍馬とお龍、愛の旅路」像があったので撮影。
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 解説を転記します。
 薩長同盟を締結させた直後の慶応2年(1866)寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。この時、危機を察知したお龍により命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていましたが、右手の傷を癒すためここ寺田浜から三十石舟に乗りお龍とともに、九州の霧島へと旅立ったのです。
 そういえば日豊本線の隼人駅を訪れたときに、「龍馬とお龍 日本最初の新婚旅行の地 霧島市」という大きな看板がありました。西郷隆盛と小松帯刀が温泉療養をすすめたのですね。

 そして、その寺田屋に着きました。そう、幕末に起こった二つの事件の現場となった旅館です。ひとつは、1862(文久2)年、薩摩藩主の父・島津久光が、暴走する薩摩藩尊王攘夷派を殺害した事件。もうひとつが前述した、坂本龍馬の遭難です。1866(慶応2)年、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件です。いち早く気付いたお龍が、風呂から裸のまま裏階段を二階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせたというのは、有名なエピソードですね。
 それでは入場料を払って中へ入りましょう。そこかしこに「刀痕」「昔白刃の裏梯子 "お龍さん恋の通路の裏梯子"」「お龍さんが急を知らせた階段です」「裸のお龍さんで有名なお風呂です」といった手書きのビラが貼ってあるのには、ちょっと眉に唾をつけたくなりますね。ほんとなのかな。
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 帰郷後に調べたところ、やはり偽物でした。『ニホンシログ』というサイトによると、寺田屋は鳥羽・伏見の戦いにより焼失し、今の建物はその後に再建されたものです。そしてこの建物を、幕末当時のままの「寺田屋」と偽った張本人が第14代寺田屋伊助という方だそうです。ちなみに「寺田屋」とは血の繋がりのない赤の他人。1962(昭和37)年に司馬遼太郎が新聞に『竜馬がゆく』の連載を始めたころに、この建物を買い取り旅館経営を始めたとのこと。ま、目くじらをたてず、龍馬のテーマ・パークとして楽しめばいいのでしょうが、本物ではない旨は明言してほしいですね。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-09-12 14:16 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 7

 もう一つ、どうしても付言しておかなければならないのは、当時の日本の民衆が置かれていた状況です。第一次世界大戦による大戦景気の後に起こった1920年恐慌は、企業の倒産・整理による多数の失業者を生み出しました。その結果、数多の労働争議やストライキが発生することになります。その一方で、1921(大正10)年の東京府の自殺者・自殺未遂者は1,286人(『読売新聞』 1922.7.22)。また中産階級や会社員・帝大卒業生にもこの不景気はおそいかかり、「サラリアート」(サラリーマンとプロレタリアートを結合した造語)という熟語ができるほどの社会問題となります。また「監獄部屋」「タコ部屋」に入って、虐待されながら土木工事・鉱山労働に従事する人も増加します。これに対して政府は、内務省社会課長田子一民が『東京日日新聞』(1920.8.18)で、「実に気の毒だとは思つてゐるが、私はまだこれに就て政府と何も相談してゐない」「最初から政府が救済する事は宜しくない。原則としては飽迄も個人の独立自営心に任すと言ふ事にしたい」と語っているように、原則的には救済を行わない考えでした。猫いらずと監獄部屋が、他人事ではない過酷な社会状況だったのですね。

 そしてこの時期の東京市民を、「日本宗教学の祖」と呼ばれる姉崎正治は、次のように観察していました。
 突撃衝動の極めて原始的の現れは、今日東京市中には到る所に見られる事実であつて、あの混雑した電車の乗降や車中で、他人につきのけられると、こちらもつつかつゝて、人々が互に突撃性を、断片的ながら、赤裸々に発露して居る。此の如き人間の突撃性発表は、たしかに本能的で天性に違ひないが、而かもそれを多くの人が赤裸々に発表するのは、無能な行政の結果、電車では人間が文明とか礼儀とかいふ天性の琢磨を維持することが出来ず、殆ど動物的状態に還元せられるから生ずる現象に外ならぬ。此の如きは人間の進化ではなく、動物への還元であり、電車を競ふ人々のぎとぎとした眼つきや身体の態度(特に頭部を先に立てて、脚が後になつて居る)は、人間の祖先が狐又はいたちと同じ状態の生活をして居た時の残留遺伝が、悪行政といふ境遇事情の下に再現して居るのである (「本能性の爆発とその整理」 『中央公論』 1921.5) (p.73~4)
 経済的苦境に加えて、当時の民衆に「突撃性」「動物的状態」といった心性が蔓延していたことがわかります。また震災が発生した1923年の前半、「暴力」あるいは「暴力団体」という言葉が世相をあらわすキーワードの一つでした。一つ例をあげると、1919年に内相床次竹二郎の肝煎で結成された任侠右翼団体の大日本国粋会が、この年の三月、水平社と奈良県磯城郡で大規模な衝突事件を引き起こしました(水国争闘事件)。差別事件に端を発するこの衝突には、日本刀や竹槍、鳶口、拳銃などで武装した両陣営の約千人が参加したと報じられています(『大阪朝日新聞』 3.19)。経済学者の林癸未夫は、「暴力の行使」によって「敵視する個人或は集団を膺懲し脅迫する」団体が、二、三年の間に急増し、世間の耳目を集める事件を起こし始めたことを指摘しています。
 「突撃性」や「暴力」が渦巻く社会状況の中で、なんらかのかたちで引火すれば、もっと激しい大爆発が起きる危険性が常にあったわけです。(⑫p.69~75)
# by sabasaba13 | 2017-09-10 06:27 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(29):伏見(15.3)

 祇園四条駅から京阪本線に乗って中書島駅で京阪宇治線に乗り換えて観月橋駅で下車。宇治川に沿って東へすこし歩くと、月見館本館に到着です。木造三階の威風堂々とした旅館で、昭和初頭に建てられた老舗旅館です。三角をなす千鳥破風がいい味付けになっています。
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 Uターンして西へ歩いていくと、煉瓦造りの平戸樋門がありました。近世から明治初期にかけて京大坂を結ぶ淀川舟運で賑わった運河・濠川がこの樋門通じて宇治川に注いでいるのですね。
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 そして近鉄澱(よど)川橋梁が見えてきました。野武士のような風格のある鉄製トラス橋で、竣工は1928(昭和3)年。陸軍演習に支障がないよう無橋脚橋梁として建設され、日本の単純トラス橋で最大の径間長165mを誇るそうです。
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 ぶらぶらと中書島駅方面に歩いていくと、「水でつながる文化とくらし 酒と歴史が薫るまち」という観光案内地図が路傍にありました。歴史上重要な町・伏見だけあって史跡がてんこ盛り、そしてなにより正確で見やすい地図が素晴らしい、逸品です。さっそくカメラで撮影し、舐めるように見ていると…「鳥羽伏見の戦い弾痕跡」がありました。そうか、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦いはここで起きたんだ。その銃弾の跡が見られるとは、男…もといっ弾痕マニアとしてははずせません、ぜひ訪れましょう。風情にあふれる月桂冠大倉記念館を濠川越しに撮影。
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 そして中書島駅近くにある銭湯「新地湯」と再会しました。いやあ何度見てもいいですね、昭和初期の雰囲気を濃厚に醸す、わけのわからない装飾にあふれたキッチュな外観に見惚れてしまいます。中も往時のレトロな雰囲気が充満しているとのこと、お風呂マニアの方は「チャリで巡るお風呂屋さん!風呂敷日記」というサイトが必見です。
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 そして史跡「織田信長公塚石(墓石)」を発見。解説板によると、豊臣秀吉が伏見城にいた時、主君追慕のために設けた墓石だそうです。中書島駅から15分ほど歩くと、三栖閘門(みすこうもん)の、水門を上下させるための二本の巨塔が見えてきました。
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 近くまで接近して写真撮影、そのシャープな造形や装飾が印象的です。解説板があったので転記します。
 三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として昭和4年(1929)に造られました。2つのゲートで閘室内の水位を調節し、水位の違う濠川と宇治川を連続させて、船を通す施設です。
 昔は、たくさんの船が閘門を通って伏見と大阪の間を行き来していました。
 現在、道路や鉄道の発達にともない、交通路としては利用されていませんが、地域との関わりが深く、歴史的にも大変貴重な施設です。

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# by sabasaba13 | 2017-09-09 06:33 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 6

 1922年7月、信濃川下流に朝鮮人の死体が多数流れつくという事件が起きました。上流の電力会社の工事現場で、監督者や日本人労働者からのリンチによる死体であると考えられます。この事件を契機にして、朴烈は9月7日東京神田で日本人500人、朝鮮人500人を集めた「信濃川虐殺問題大演説会」を開いています。当時の日本共産党の機関紙である『前衛』はこの問題を取り上げ、日本人労働者は朝鮮人労働者と提携して、朝鮮人に対する一切の差別待遇の廃止、同一労働同一賃金を組合のスローガンとすることを提起しました。また、東京朝鮮労働同盟会(1922.12)が組織されるなど、朝鮮人労働者も労働運動に参加して団体行動を取るようになります。このように、それまでは関係が密とは言えなかった日本の階級問題たる労働問題と、民族問題たる朝鮮人問題とが結びつきつつありました。朝鮮人たちの抱いている「恨」が日本人の労働運動・社会主義運動と結びついたら非常なエネルギーとなる、そのために官憲はそれらの動きを極度に警戒するようになったことも銘肝しておきましょう。
 そして1923年の第四回メーデー準備協議会は、そのスローガンの一つとして「植民地の解放」を採択します。在日朝鮮人社会主義者・労働者と日本人社会主義者・労働者との間に、民族差別賃金廃止と植民地解放に向けての連帯が始まったのですね。この連帯の萌芽を徹底的に潰すために、この第四回メーデーに対して警察はかつてない大弾圧を行ないました。演壇に登った孫某は「演壇下の私服から忽ち突き落とされ…、四、五名の警官が滅茶苦茶に蹴る、踏む、なぐるで…、更に手をねじあげ、なお靴でけりながら検束した」(『東京日日新聞』 1923.5.2)。また刑事がデモ隊の中の朝鮮人三十余名に飛びかかって引きずり倒し、蹴飛ばして交番に投げ込み、さらに長い頭髪をつかんで引きずり、自動車で運ばれた頃には朝鮮人たちの顔面、手足がはれ上がっていました。(『報知新聞』 1923.5.2) なおこの半年後に虎の門で摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃した難波大助は、この現場にいて警官による朝鮮人への弾圧を目撃し、詩をつくっています。
 そして1923年8月29日は、朝鮮人にとっては国を失った国恥日であり、彼らが居る所では世界のあらゆる所で国恥日の行事が催されました。また、9月2日は国際青年の日で、青年と大学生たちが記念集会とデモを行なうという情報に、警察は要視察人の予備調査をするなど緊張した状態に置かれていました。
# by sabasaba13 | 2017-09-08 06:20 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(28):東華菜館(15.3)

 二十分ほど歩いて阪急桂駅まで戻り、駅前にあった「ポデスタコーヒー」でロイヤル・ディッシュをいただきました。嬉しいことに全席で喫煙が可能、愛煙家の小生としては助かります。
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 最近、煙草を吸っていると白眼視される傾向がより強くなり、身の置き場がありません。もちろん、煙に害があることは十二分にわかっておりますし、できる限りの配慮もしています。自己弁護の余地はないことを承知のうえで言いたいのは、人体に害をもたらすものは煙草の煙だけではないということです。『同調圧力メディア』(森達也 創出版)から引用します。
 あるいはさまざまな健康被害をもたらすとして「狂った油」と呼ばれるトランス脂肪酸は、アメリカのマクドナルドでは使用中止を発表したが、日本マクドナルドは今もポテトフライに使っている。だからマクドナルドのポテトフライはなかなか腐らないらしい(試したことはないけれど)。
 問題は店のレベルだけではない。モンサントの遺伝子組み換え作物やミツバチが大量死するネオニコチノイド系農薬フィプロニルは、ほぼヨーロッパからは締め出されているが、日本では規制されていない。(p.176~7)
 なぜこうした油や農薬を規制しないのか。あるいは自動車の排気ガスや工場などから排出される物質などは、煙草の煙よりも害が少ないのか。そして何よりも、福島原発事故で排出された放射性物質、原発稼働によって日常的に排出される放射性物質の危険性はどうなのか。これを明らかにせず、喫煙者のみを攻撃するのは片手落ちだと思います。

 閑話休題。紫煙をくゆらしながら珈琲を味わい、これからの行程を確認しました。修学院離宮の参観集合時間は午後三時、あと四時間ちょっとあります。当初の予定通り、伏見に行って、近代化遺産である月見館本館、平戸樋門、近鉄澱川橋梁、三栖閘門、そして寺田屋を見物することにしました。桂駅から阪急京都線に乗って河原町駅へ、ここで地上に出て徒歩で京阪本線祇園四条駅に向かいます。鴨川のほとりにある、スパニッシュスタイルで様々な装飾が魅力の東華菜館はヴォーリズ設計だったのですね。昨日知りました。四条大橋を渡って出雲阿国像を撮影、向かいにあるレストラン「菊水」はかねがね気になっていた料理店です。いつかここで食べてみたいな。
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 本日の一枚は、東華菜館です。
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# by sabasaba13 | 2017-09-07 06:24 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 5

 さて、日本は三・一独立運動を鎮圧したのち、従来の「武断政治」を改めて「文化政治」を採用し、朝鮮人に多少の発言権を認め、その懐柔を図りました。と同時に、親日的な朝鮮人の育成にも力を入れ、民族の分断を策しました。さらに日本は食糧難を打開して米騒動の再発を防ぐために、朝鮮米の増産と日本への移出を強行しました。1920年から開始された「朝鮮産米増殖十五か年計画」です。姜徳相氏いうところの「米よこせ」の段階ですね。同時に、米の増産により朝鮮の民心を平穏化する、朝鮮人地主の利益を図り彼らを植民地支配の支柱にする、という一石三鳥をねらった政策でした。なおこの計画策定の中心となったのが、朝鮮総督府政務総監・水野錬太郎です。
 しかしこの計画実施のための低利資金や朝鮮殖産銀行の金融は地主層のみを対象としていたので、一般農民は水利組合費や土地改良工事の負担金の調達を地主からの借金に依存せざるをえず、小作農に転落する者も増えました。また地主は土地改良工事の費用を小作料で捻出しようとして小作料を引き上げたため、小作農はますます貧窮化していきました。こうして、離農して日本や満州への出稼ぎに行かざるを得ない朝鮮人が増えていくことになります。(⑥p.20~4) なお付言しておきますと、この安価な朝鮮米の流入は内地の、特に東北地方の農民を圧迫することになります。そして農業労働力を重工業に振り向けて産業構造を転換しようというのが、後にテロで倒される浜口雄幸や井上準之助らの深謀だったようです。農村は崩壊するに任せ、産業合理化を図り国際競争力を上げるという政策ですね。その農民の絶望と憤懣に共感し代弁するというかたちで、軍部や右翼が台頭することになりますが、それはもう少し後の話です。

 以上のような理由に加えて第一次世界大戦による好景気もあり、日本に働きにいく朝鮮人は急増しました。男性の就業先は主に土木、建築、炭鉱でした。日本の炭鉱では、利益を優先する経営者が保安設備を手抜きしたため、落盤やガス爆発などの危険が大きかったのですが、朝鮮人労働者の大部分はその坑内労働に従事させられました。女性の就業先は、大阪近辺の紡績業でした。その経営者は、朝鮮人、沖縄人、被差別部落の女性など、差別を受けて低賃金でも働かざるをえない女性を集めて、過酷な労働条件で働かせていました。この問題については、『朝鮮人女工のうた -1930年・岸和田紡績争議-』(金賛汀 岩波新書200)がたいへん参考になりました。そして三・一運動直後に朝鮮人の出入国を制限するために設定した旅行証明制度が1922年12月に廃止され、在日朝鮮人労働者が急増します。在日朝鮮人人口は、韓国併合の1910年には2,600人、大戦景気の1918年には34,082人、そして旅行証明制度が廃止された翌年の1923年には136,557人と鰻上りに増えていきました。そして1920年頃から戦後恐慌が始まると、企業の経営者は未熟練労働者の雇用を日本人から朝鮮人へと切り替えて、不況を乗り切ろうとします。その結果、日本人下層労働者は、自分より安い賃金で働く朝鮮人労働者を競争相手とみなし、もともと根づいていた差別意識は強い反感にまで高まり、関東大震災時における虐殺の伏線となります。結局、彼らは「本当の敵」に気づかなかったのですね。今の状況と似ています。(⑥p.25~30)
 そして1920年前後より、東京は在日朝鮮人たちの独立運動の中心地となります。当時東京に居た留学生の数は500名から1500名に達していて、東京神田にある在日本東京朝鮮YMCAは、在日韓国留学生の民族運動の温床でした。こうした動きへの対策でしょう、1921年7月28日には、警視庁特高課に内鮮高等係が設けられます。
# by sabasaba13 | 2017-09-06 06:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』

c0051620_625228.jpg 先日、映画『チャルカ』を、新宿の映画館「K's cinema(ケイズシネマ)」で見てきました。何か面白そうな映画はないかと館内のチラシやポスターを物色していると、『米軍が最も恐れた男』というタイトルが目に飛び込んできました。なに? 世界最強・最凶・最低のアメリカ軍が恐れた男がいたのか! それに続くタイトルは『その名は、カメジロー』。カメジロー? 亀次郎? あっ瀬長亀次郎か! 少々沖縄の歴史は勉強したので、その名は記憶に強く残っています。米軍の没義道な占領政策に敢然と立ち向かった政治家ですね。彼が書いた『沖縄からの報告』(岩波新書353)という本も持っています…まだ読んでいませんが。ごめんなさい、カメジローさん。その彼を主人公にして、TBSキャスターの佐古忠彦氏がつくったドキュメンタリー映画のようです。チラシからサマリーを引用します。
 第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人"弾圧"を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー瀬長亀次郎。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。彼を恐れた米軍は、様々な策略を巡らすが、民衆に支えられて那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた政治家、亀次郎。その知られざる実像と、信念を貫いた抵抗の人生を、稲嶺元沖縄県知事や亀次郎の次女など関係者の証言を通して浮き彫りにしていくドキュメンタリー。
 これは見に行かなくては。さっそく山ノ神を誘って、渋谷の「ユーロスペース」に見に行きました。平日の午後二時すこし前に行ったのですが、なんとほぼ満席、最前列の席しか空いていません。これは嬉しい、けれど若者の姿がほとんど見当たらないのは悲しいですね。若者にこそ見て欲しい映画なのに。寺山修司ではありませんが、「スマホを捨てよ、映画館へ行こう」と言いたいところです。
 期待にあふれた熱気のなか、映画が始まりました。実写フィルム、写真、瀬長亀次郎の日記、関係者の証言を巧みに駆使しながら、占領下における米軍の過酷な支配と沖縄人の苦難、それに抗う瀬長亀次郎と人びとの闘いを手際よくまとめてあり、あっという間に107分が過ぎました。知識としては多少知っている占領下の沖縄史ですが、この映画のおかげでその実態をすこしは追体験できたような気がします。

 印象的なシーンはたくさんありました。冒頭でネーネーズが唄う「おしえてよ亀次郎」の一節、♪あなたならどうする 海のむこう おしえてよ亀次郎♪
 立法院議員に当選して米軍の肝いりでつくられた琉球政府創立式典に参加したものの、ただ一人宣誓を拒否して起立しなかった亀次郎。そして宣誓書に捺印しなかった男。これだけでも胸が熱くなるのですが、実はこれには深い背景がありました。「現代ビジネス」の中で、監督の佐古忠彦氏が詳しく説明されているので、私の文責で要約して紹介します。亀次郎は、「立法院議員は、米国民政府と琉球住民に対し厳粛に誓います」という条文の「米国民政府」の部分を削らないと宣誓書に判は押さない、と主張しました。困り果てた職員は、宣誓書をいったん持ち帰りました。そして再度見せられた宣誓書には、亀次郎の要求通り「米国民政府」の文字が消えていましたが、実はこれには見えすいたカラクリがあったのですね。宣誓書には、英語で書かれたものと日本語で書かれたものの二つがあり、英文を確認すると、こちらのほうには「米国民政府」がしっかりと残されていたのです。それを知った亀次郎は宣誓を拒否して起立せず、宣誓書に捺印しなかったのですが、これには法的根拠がありました。ハーグ陸戦条約の「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」という条文です。こう主張されては、さすがの米軍も強制はできません。凄い… 英語文をチェックするという狐の用心深さと、自分の権利を主張するために国際条約を根拠にするという梟の智慧。たしかに「米軍が最も恐れる男」です。安倍上等兵・前原二等兵を筆頭とする現今の政治家・官僚諸氏に、彼の爪の垢を煎じて飲んでいただきたいのですが、彼らは確信犯として喜んで尻尾を振っているので飲むわけはありませんね。贅言でした。あえて注文をつければ、この背景も映画でとりあげてほしかったと思います。そうすれば、瀬長亀次郎の奥深さがもっと伝わるのではないかな。
 なお余談ですが、英文と日本文をうまく利用して権益を確保するという手法は、アメリカの常套手段のようです。例えば、『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 創元社)によると、日米地位協定には日本語の正文がないそうです。前泊氏によると、この日米地位協定を含む、日米で結ばれる安全保障上の重要なとり決めの多くが、英語だけで正文が作られ、日本語の条文は「仮訳」という形になっているのだそうです。そのことの意味は、ふたつ。「正文」を変更して国民をだませば「犯罪」になりますが、ウソの条文を作っても、仮訳なら「誤訳だった」といってごまかすことができる。これがひとつ。もうひとつは、日本語の正文が存在しなければ、条文の「解釈権」が、永遠に外務官僚の手に残されるということです。ここまで私たちは愚弄されているのですね。ま、そうしたことを許し黙認する政党を政権の座につけ続けているのですから、自業自得です。

 まだまだあります。1954年10月、米軍は彼を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕し、たった一人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけ、懲役2年の実刑判決により投獄します。その刑務所で劣悪な待遇に反発した囚人の大規模な暴動が起こると、アメリカの職員は為す術もなく亀次郎に「何とかしてくれ」と頼ります。亀次郎が現われると囚人たちは静かにその話を聞き、彼が提案した「要求を話し合ってまとめ、代表を選んで刑務所側に伝えること」「逃走した囚人を連れ戻すこと」という条件をのんで暴動は鎮まります。
 たくさんの人びとが歓喜とともに出迎える出獄のシーンも感動的でした。出獄後、亀次郎は那覇市長選に出馬し、さまざまな妨害を受けながらも当選を果たします。しかし米軍は執拗な嫌がらせをして、彼を市長の座から追い落とそうとしました。占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結、そして水道の供給停止などです。彼は日記にこう書きます。「面白くなってきた」 またこれは米軍による「テロ」だとも。
 "テロ"の定義がえてして錯綜するのは、自分の行動は"テロ"ではなく、敵対勢力の行動を"テロ"だと決めつけようとするためです。"テロ"とは「恐怖で相手を威圧して様々な目的を達成する」と定義すれば、こうした米軍の行動はまごうことなく"テロ"ですね。米軍による占領統治は、この事件だけではなく、"テロリズム"が基調であったことを銘肝しましょう。『無意識の植民地主義』(野村浩也 御茶の水書房)から引用します。
 沖縄人の土地を暴力で強奪することによって建設が強行された米軍基地。それは、そこで農民として暮らしていた沖縄人から、生きる糧も住いもすべて奪いつくした。どうやって生きていけばよいのか。途方に暮れた沖縄人に米軍があてがったもののひとつ。それは、なんと、奪われた土地を軍事基地に変える仕事に従事させることであった。土地を強奪された者が、強奪した者のために、生命の糧を恵んでくれるはずの自分の土地を、みずからの手で、生命を奪う軍事基地に変えなければならない屈辱。土地を強奪された沖縄人のなかには、生きるために、そうするしかなかったひとも多い。生きるために、基地ではたらくしかなかったひとは多い。そして米軍人は、沖縄人が抵抗しようものなら、「首を切るぞ!」と脅かした。沖縄人は恐怖に震えた。職を奪われたら生きていけない。生命の糧を恵んでくれる自分の土地はもうないのだから。職を奪われることは、殺されるのも同然なのだ。よって、生きるためには、米軍という植民者に従うほかなかった。土地どろぼうに従うほかなかったのだ。
 これは、恐怖政治である。テロリズムである。土地を奪われた沖縄人の抵抗を抑え、軍事基地を安定的に維持するためには、沖縄人を恐怖させなければならない。そして、恐怖させるためには基地に依存させなければならない。依存させるためには沖縄人を自立させてはならない。(p.204)
 というわけで米軍の嫌がらせによって、市政運営の危機に見舞われますが、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとします。なんと、最高で97%! その様子を撮影したフィルムが流されますが、嬉々として税金を払うために長蛇の列をなす市民の姿にじーんときました。米軍首脳の、苦虫を?み潰したような顔が思い浮かびますね。
 しびれを切らした占領軍は、米民政府高等弁務官布令を改定し、投獄を理由に亀次郎を市長の座から追放し被選挙権を剥奪してしまいます。しかし市民は、亀次郎が応援する候補者を当選させ、米軍に一矢を報いました。
 そして1972年の沖縄返還、「核抜き・本土並み」という県民の願いは叶えられずに米軍基地は居座り続けます。亀次郎は衆議院議員として7期連続当選を果たし、国政の場において闘いを続けました。衆議院における佐藤栄作首相とのやりとりを映したフィルムが印象的ですね。沖縄県民への不平等・不公正を舌鋒鋭く問い詰める亀次郎、それを曖昧模糊に受け流す佐藤首相。ただ安倍上等兵のように相手を小馬鹿にしたような感じはなく、多少の品性は感じました。
 2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。合掌。

 この映画を貫くものは、平和と人権のために米軍に抗った亀次郎の足跡にありますが、もうひとつ見逃せないのは彼が発した言葉の数々です。生前、好んで揮毫した「不屈」という言葉。「一握りの砂も、一坪の土地も、アメリカのものではない」、「民衆のにくしみに包囲された軍事基地の価値は0にひとしい」といった言葉。また彼はガジュマルを愛し、「どんな嵐にも倒れない。沖縄の生き方そのものだ」と語ったそうです。収容所で亡くなった母がよく言っていた「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー(ムシロの綾のように、まっすぐ、正直に生きるんだよ)」という言葉も忘れられません。

 というわけで、心に残る素晴らしい映画でした。ただ沖縄にこうした苦難を押しつけた日本政府と、それを支持した、あるいは無知・無関心であった有権者の責任についてあまり言及がなかったことが残念でした。これは、自分で調べて考えろ、ということでしょう。はい、そうします。もっと亀次郎の演説シーンが見たかったのですが、これはないものねだりですね。実写フィルムがあまり残っていないものと思います。
 これからも沖縄について学び、沖縄から学んでいきたいと思います。亀次郎の発した「不屈」という言葉を胸に、沖縄から、そして日本から軍事基地がなくなる日が来ることを夢見て。

 なおこの「不屈」の重要性に論及した文章を紹介します。まずは『戦後史の正体 1945‐2012』(孫崎享 創元社)です。
 ではそうした国際政治の現実のなかで、日本はどう生きていけばよいのか。
 本書で紹介した石橋湛山の言葉に大きなヒントがあります。終戦直後、ふくれあがるGHQの駐留経費を削減しようとした石橋大蔵大臣は、すぐに公職追放されてしまいます。そのとき彼はこういっているのです。
 「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」
 そうです。先にのべたとおり、米国は本気になればいつでも日本の政権をつぶすことができます。しかしその次に成立するのも、基本的には日本の民意を反映した政権です。ですからその次の政権と首相が、そこであきらめたり、おじけづいたり、みずからの権力欲や功名心を優先させたりせず、またがんばればいいのです。自分を選んでくれた国民のために。(p.171)
 もうひとつは『イェサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(ハンナ・アーレント みすず書房)です。
 はるかに強大な暴力手段を所有する敵に対する場合、非暴力的行動と抵抗にどれほどの巨大な潜在的な力が含まれているかを多少とも知ろうとするすべての学生に、政治学の必須文献としてこの物語を推奨したいという気持になる。(p.134)

 このような話に含まれる教訓は簡単であり、誰もが理解できるからである。政治的に言えばその教訓とは、恐怖の条件下では大抵の人間は屈従するだろうが、或る人々は屈従しないだろうということである-ちょうど最終的解決の申出を受けた国々の与える教訓が、大抵の国では〈それは起り得た〉が、しかしどこでも起ったわけではなかったということだったのと同様に。また人間的に言えば、この地球が人間の住むにふさわしい場所でありつづけるためには、このような教訓はこれ以上必要ではないし、またこれ以上求めることは理性的ではあり得ないということだ。(p.180)
 なお瀬長亀次郎が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の戦いを後世に伝えようと設立された資料館「不屈館」が那覇にあるそうです。是非訪れましょう。
 また拙ブログに掲載した、沖縄に関する映画として『標的の島』、『戦場ぬ止み』があります。映画評は書いていないのですが、『沖縄 うりずんの雨』も素晴らしい映画でした。
 沖縄に関する書評として『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』[その一その二](前泊博盛 創元社)、『沖縄密約』もあります。よろしければご照覧ください。

 最後に、瀬長亀次郎の言葉をもうひとつ。
弾圧は闘いを生み、闘いは友を呼ぶ。

# by sabasaba13 | 2017-09-05 06:26 | 映画 | Comments(0)