関東大震災と虐殺 4

 併合後、総督府(←統監府)は軍人総督のもとで、憲兵警察を全土に配置して朝鮮人を徹底的に弾圧しました。いわゆる「武断政治」です。これ以降の、日本による朝鮮支配の特徴を、姜徳相氏は次のように指摘されています。
 日本の朝鮮支配の特徴をわかりやすくいうと、1910年代は土地よこせ、20年代は米よこせ、30年代後半から45年までは人よこせ、命よこせ、と区分できる。(『朝鮮人学徒出陣』 岩波書店 p.ⅴ)
 「土地よこせ」は土地調査事業、「米よこせ」は朝鮮産米増殖計画、「人よこせ」は強制連行と慰安婦、「命よこせ」は徴兵ですね。まずは土地の奪取です。総督府は大規模な「土地調査事業」を強行し、証拠の不備な土地をどんどん国有地に編入し、土地を申告する書類を書く能力のない農民から土地を奪っていきました。その結果、多くの農民が日本へ出稼ぎに行かざるを得なくなります。こうした亡国の前後において、独立の回復を求める広範な義兵闘争が起こります。日本軍は総力をあげて攻撃しましたが、義兵は満州との国境地帯・間島を中心に活動を続けました。なおこの 義兵戦争(1906~11)における義兵の戦死者は17,779人、これは宣戦布告なき戦争であり、また一般民衆までまきこんだ大虐殺と言っていいでしょう。なお日本軍の戦死者は136人、もちろん靖国神社において神として祀られています。(④p.39) また満州、上海、アメリカなど国外でも独立運動が活発に行われていました。

 そして第一次世界大戦の勃発(1914~18)、そしてその最中にロシア革命(1917)が起こります。植民地の争奪が世界戦争につながったとする見地から、レーニンによる「平和に関する布告」、それに対抗するアメリカ大統領ウィルソンによる「十四カ条原則」が提唱されました。その結果、民族自決・植民地からの独立を求める動きが、燎原の火のように世界に広がります。朝鮮においても、日本にいた朝鮮人留学生が独立宣言(二・八宣言)を発表しました(1919)。場所は、在日本東京朝鮮YMCAの講堂で、現在は在日本韓国YMCAとなっており、記念碑と資料室http://www.ymcajapan.org/ayc/2_8/JP/index.htmlがあるとのこと。いつか訪れてみたいと思います。続いて同年3月1日、民族代表がソウルで独立宣言書を発表し、独立万歳を叫ぶ示威運動がたちまち全国に波及しました。三・一独立運動です。参加者は200万人、日本軍は独立万歳を叫ぶ素手の民衆に襲いかかり、戦場の論理で無差別虐殺を敢行しました。死者は7,500余名、この数字は騒擾鎮圧というよりも戦争ですね。例えば、3月10日に平南孟山では、100名のデモに76発の弾丸が使われ、総計で67名死んでいます。これは皆殺しを意図したものと言わざるをえません。逮捕者は約5万人、死刑判決はなかったのですが、裁判以前の無数の即決の死刑があったのですね。(③p.54~7) なおこの苛烈な弾圧を行なった当事者が朝鮮総督府政務総監・水野錬太郎、警察局長・赤池濃でした。水野は、姜宇奎(カン・ウギュ)による斎藤実朝鮮総督投弾事件を経験しています。(1919.9.2) 京城南大門駅から馬車が動きはじめた時に爆弾が投ぜられ、斎藤は負傷をまぬかれたものの、水野をはじめ出迎えの高官・警官をふくむ29名の重軽傷者を出した事件です。独立運動の強靭なエネルギーを体験したこの二人が、関東大震災時にそれぞれ内務大臣、警視総監であったことは銘肝しましょう。

 そしてこの三・一独立運動が国境を越え一衣帯水の中国領間島に波及、これに対して日本軍は独立軍の根拠地覆滅のため1920年10月に間島侵攻を敢行しました。死者3,103人、被強姦数76人、被焼戸数2,507戸。また日本はロシア革命干渉戦争としてシベリア出兵を行ないますが(1918~22)、シベリアの地でも日本軍と朝鮮独立軍は激しい戦闘をくりかえしました。こうした激しい独立運動を報道する日本の新聞は、「朝鮮独立運動の陰謀」(『読売新聞』 1919.11.28)、「不逞鮮人が独立陰謀の?末、暗殺放火強盗を恣にす」(『読売新聞』 1920.8.18)というように、これに不逞・陰謀・暗殺・放火・強盗といったレッテルを貼りました。日本の民衆が「不逞鮮人」というイメージを信憑するにいたった一つの原因ですね。関東大震災時の虐殺や暴行の際に、日本人によって多用された「不逞鮮人」という言葉の淵源はここにありそうです。

 もう一つ、忘れてはならない重要な事件がこの頃に起きています。都市人口の増大、米生産の停滞、シベリア出兵を契機とする米の買占めが原因となって米価の高騰が起こり、米騒動が勃発したことです。非組織的・自然発生的な暴動でしたが、参加人員は数百万人、支配者の心胆を寒からしめました。これを機に、民衆の暴動が社会主義革命につながることを、官憲は極度に恐れ警戒することになります。なおこの時の内務大臣が水野錬太郎であったことは、記憶にとどめましょう。この米騒動の時に内務省は暴動対策として、被差別部落民などを仮想敵とし、各市町村に、在郷軍人分会と青年会を中核とする自警組織をつくるよう行政指導を行なっています。大震災時の自警団は、その大規模な再版だったのですね。
# by sabasaba13 | 2017-09-04 09:12 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

前原誠司という男

 民進党の新代表として前原誠司氏が進出されました。やれやれ。

 この方がどんな御仁なのか? 一見さわやかで誠実そうな外観ですが、どうしてどうして。私たちの利益よりもアメリカの国益を優先する、まるでアメリカの飼い犬のような、たいしたお方です。『沖縄の〈怒〉 日米への抵抗』(ガバン・マコーマック+乗松聡子 法律文化社)から引用します。
 鳩山政権下の高官たちは政治家も官僚も、半世紀以上にわたる自民党政権時代の前任者たちと同様、首相や日本の有権者にではなく、米国に忠実であった。前原誠司は典型的である。2010年2月、鳩山が普天間移設代替案の問題で内外から圧力を受けていた頃、米国のお気に入りの前原(国土交通・沖縄および北方対策担当大臣、後の外相)はキャンベル国務次官補とグレグソン国防次官補と会い(ルース公電、10TOKYO247)、普天間問題を米国の都合のいいように進めるための会合を持ち、自らの内閣内の問題分子(社民党の福島瑞穂)への対処等について話している。普天間移設諸案の検討を「信頼できる自衛隊の仲間たち」にお願いしていると、シビリアンコントロールの原則に抵触するような発言もしている。前原は、キャンベルに「日本政府がもっと日米同盟への支持を公的に表明すべき」と言われ、「自分は機会あるごとに日米同盟への支持を表明している」と言い、山岡賢次・民主党国会対策委員長が提案した(小沢一郎が支持し、東アジア共同体を提唱する鳩山の考えにも近い)米日中の「正三角形論」については「ばかげている」と付け加えたとされる。一国の大臣が他国の要人とこのような話をしていたら通常の感覚ではスパイ行為と見なされるが、日米「同盟」下ではこのような異常さが「正常」の範疇に入るのだろうか。(p.125~6)
 "信頼できる自衛隊の仲間たち"にお願いして、沖縄県民の願いを無視してアメリカに有利な普天間基地移設を画策し、アメリカに批判的な社民党を連立から排除し、アジア近隣諸国との友好・協調よりも日米同盟を重視する御仁です。しかもそうした話を米政府の要人にべらべらと語って歓心を引こうとする大臣でもありました。スパイ、売国奴、買弁、奴僕、飼い犬、いろいろ言い様はあるかと思いますが、いずれにせよ政治家としての資質と人間としての品性を疑います。

 さてこのような買弁政治家に率いられた民進党は、どうなるのでしょうか。 インターネットの毎日新聞ニュース(17.9.1)によると、蓮舫元代表は今年6月、共産・自由・社民三党の党首と会談し、次期衆院選に関して「4野党が協力して候補者調整を行う」ことなどで合意しました。新代表選で争った枝野幸男氏はこの合意に基づき連携を進めると主張しましたが、前原氏はその合意を見直す考えを代表選中に示していたそうです。つまり、自民党を政権の座からひきずりおろすための野党共闘はしない、ということですか。あるいはアメリカに批判的な政党とは手を組まないということかな。
 ま、これで安倍でんでん内閣はしばらく安泰でしょう。従米の安倍上等兵が率いる与党と、従米の前原二等兵が率いる野党第一党が、対立するふりをしながら手を取り合い息を合わせて華麗なステップを踏むことと思います。Rock 'n' rollに合わせて… ♪国家を挙げての右習え 核なるうえはGo with you 暗い過去も顧みずに ついて行きましょう♪ もしかすると前原氏はアメリカが送り込んだ「トロイの木馬」かもしれません。
 アメリカの属国として、お金を貢ぎ、基地を好き勝手に使ってもらい、米兵の犯罪を放任し、事故の責任を追及せず、その爪牙となって戦争をする。いやはや、なんて惨めな国なのでしょう。その惨めさを解消するために、中国・韓国・北朝鮮などに居丈高にふるまう。あるいはオリンピックやワールドカップに現を抜かし、スマホやゲームや娘たちの集団舞踏にはまり、その惨めさを忘れる。いや、惨めであることにすら気がつかない。"亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国"、田中正造の言です。

 いやいや諦めません。諦めたら、やつらの思うつぼですから。"もうなにも考えまいとする誘惑"に屈せず、粘り強く粘り強く抗っていきたいと思います。田中正造のように、瀬長亀次郎のように、阿波根昌鴻のように。

 本日の一枚です。あれ? "All for All"じゃなくて、"Japan for America"でしょ、前原さん。
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# by sabasaba13 | 2017-09-03 08:59 | 鶏肋 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 3

 まずは、関東大震災(1923)までの、朝鮮の歴史および日朝の関係史を概観しておきましょう。朝鮮王朝の支配体制が動揺していた19世紀初期以降、欧米列強の船が朝鮮に来航し通商を求めるようになります。しかし朝鮮はこれを拒否して鎖国を守り、攘夷を宣言しました。明治維新をなしとげた日本でも「征韓論」が沸騰するなど、武力を行使してでも朝鮮を勢力下に入れようという動きが起こります。これは不平士族や重税に喘ぐ農民の不満を逸らすための方策でもありました。明六政変で権力を握った大久保利通政権は、1876年、江華島事件を起こして不平等条約(日朝修好条規)を押し付け、朝鮮を開国させました。開国後、渡朝した日本商人は穀物や金の地金を買いたたき、木綿や雑貨を売りつけました。いわゆる「天秤棒帝国主義」ですね。その結果、朝鮮では物価が騰貴し、民衆の生活は苦しくなりました。そういう時期にソウルで兵士が反乱を起こしたのを契機に反政府・反日の大暴動、壬午軍乱が勃発します(1882)。あくまでも朝鮮との冊封関係を維持しようとする清は、軍隊を派遣して暴動を鎮圧し、親中国的な閔氏政権をつくりました。これに対して、近代的改革による朝鮮の独立を目ざす開化派が、日本の支持を得てクーデターを起こし、親日政権を樹立しました。しかし清軍の反撃にあい政権は崩壊し、清の後ろ盾を得て再び閔氏政権が成立。いわゆる甲申政変です(1884)。これで朝鮮に対する日本の影響力は失われます。

 この間、朝鮮の官僚は混乱に乗じて農民への苛斂誅求を加重したために、東学党を中心に反侵略・反封建の甲午農民戦争が起こりました(1894)。農民軍を鎮圧できない政府は清に出兵を要請、それを知った日本はただちに出兵し、ここに日清戦争が勃発しました。この戦争に勝利した日本は下関条約(1895)により、朝鮮の独立=冊封関係の消滅を清に認めさせ、遼東半島・台湾などを割譲させました。こうした朝鮮・満州を射程に入れた日本の動きにロシアが反発。三国干渉で遼東半島を返還させるなど、満州・朝鮮を勢力下に置こうとします。朝鮮でもロシアの助力を得て独立を守ろうとする勢力が伸張しました。危機感に駆られた日本公使三浦梧楼らは日本軍人・浪人を使って反日派の首領・閔妃を殺害し、親日政権の樹立を企てます(乙未事変1895)。しかしこのクーデターは失敗に終わり、日本の対朝鮮政策はここに瓦解しました。なお与謝野鉄幹は、当日たまたま地方にいて暗殺に参加しませんでしたが、壮士として常に暗殺団と行動をともにしていたそうです。(⑤p.73~4) 1897年に国王高宗は皇帝に即位し、国号も大韓帝国と改め、列強の勢力均衡を利用しながら独立を守り抜こうとします。

 「朝鮮半島は日本の柔らかい横腹に突きつけられた短刀」と言った官僚がいましたが、この時点で日本政府は、安全保障上の喫緊の課題として、ロシアの勢力を排除して朝鮮を植民地とすることを決意します。東アジアにおけるロシアの南下を恐れるイギリスと日英同盟を結び(1902)、日露戦争に踏み切りました(1904)。日本は開戦と同時に朝鮮に「日韓議定書」を強要し、日本軍の行動の自由と基地使用の権利をとり、続いて「第一次日韓協約」によって外交と財務に顧問を送り込み、朝鮮を制圧しました。戦争は日本の辛勝に終わり、ポーツマス条約で朝鮮に対する日本の支配的地位が国際的に承認されると、ハーグ密使事件をきっかけに「第二次日韓協約」を押し付け、朝鮮を日本の保護国にして外交の権利を奪い、統監府を設けました。初代統監・伊藤博文が、民族運動家・安重根に射殺されると、これを機に司法・警察・通信などの権利を奪い、ついに朝鮮を併合しました(1910)。ここに約500年続いた朝鮮王朝を、日本は滅ぼしたわけです。なお私たちは忘れがちですが、朝鮮人から見れば、日本による侵略は豊臣秀吉による凄惨な朝鮮出兵から始まっているわけで、これを「恨五百年(ハン・オーペクニョン)」と言うそうです。
# by sabasaba13 | 2017-09-02 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

沢田教一展

c0051620_6211113.jpg 先日、髙島屋日本橋店で開かれていた「写真家 沢田教一展 -その視線の先に」を、山ノ神と一緒に見てきました。到着したのは開店五分前、地下入口前に年配の方々がたくさんおられて待っているのには驚きました。そしてうら若き女性店員さんが、一本の赤い薔薇を手にして登場。さては一番乗りのお客さんに進呈するのかなと思ったのですが、なにやら前口上を述べて薔薇とともに立ち去りました。
 ま、それはさておき、8階ホールに行き、写真展を鑑賞しました。まずはチラシのサマリーから転記します。
 1965年からベトナム戦争で米軍に同行取材し、最前線で激しい戦闘や兵士の表情などを数多く写真に収めた写真家、沢田教一(1936-70)。輝かしい実績を残し、「安全への逃避」でピュリッツァー賞を獲得しています。沢田の写真に通底するのは、優しい眼差し。疲れ果てた名もなき兵士はうずくまり、家を追われた罪なき市民は荷物を抱え、故郷・青森の貧しい漁民には寒風が吹きすさぶ…、しかし皆、かすかな希望を頼りに強く懸命に日々を生きていました。その「希望」こそ、沢田が追い続けた被写体だったのではないでしょうか。妻・サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した沢田の業績をたどります。
 ベトナム戦争を報道したカメラマンとして、沢田教一、石川文洋、岡村昭彦、一ノ瀬泰造の名を知っていましたが、中でも沢田による、水の中を逃げ惑うベトナム人母子を撮影した一枚「安全への逃避」が心に残っています。その彼の代表作が一堂に見られるということで、期待してやってきました。

 まずは彼の故郷である青森や、カメラマンとして勤務した三沢の米軍基地を題材とした写真がならびます。彼は常々「そこに生きる人々を、そして風土を撮りたいんだ」(図録以下同p.357)と言っていたそうですが、それがよくわかりました。青森の厳しい風土と、そこで精一杯暮らす市井の人びと、沢田のあたたかい視線を感じます。幼子を背負った母が、粗末な木橋を危なそうに渡る写真を印象的でしが。この母子のモチーフはベトナムにおいてもよく撮影されます。彼が愛したモチーフだったのですね。
 さて青森・三沢とくると、気になるのが同世代の異才・寺山修司(1935-83)との関係です。妻・サタさんの記憶によると、沢田は寺山を鋭く意識していたようです。彼女の証言です。
 上京しUPI東京支局に職を得てからだから、1961(昭和36)年以降のことだ。サタは思い出す。「『年賀状を出したけど、寺山から返事が来ないなあ』と、沢田がさびしそうにポツッと言ったことがあるの。ずいぶんしょげてたから『あっちがペンで頑張っているのなら、こっちはカメラで対抗しなさいよ』と言ったのよ。UPIに勤めてからは生活のめども立ったし、余裕が出てきたころ。寺山さんの名前がグングン出てきたから、自分から連絡したんじゃないのかな」(p.371)
 そして上京しUPI通信に入社、ベトナムへと旅立つわけですが、図録によると、戦場カメラマンとして活躍していた岡村昭彦の影響を受けたようです。岡村の言です。
 おれはまっしぐらに戦場へゆくのだ。戦争の内臓を世界中の人類のまえにさらけだし、地球上からそれをなくすためにはどうすればよいのかを、一人一人に問いつめてやるのだ。(p.359)
 世界的名声を手にするという野心とライカM2と共に、ベトナムの戦場にやってきた沢田は、みごとな写真を撮りつづけます。まず会場に展示されていたのは、アメリカ軍兵士とその戦闘を撮影した写真の数々です。そのおそろしいほどの緊迫感と臨場感に圧倒されました。遮蔽物や戦車に身を隠す兵士、草むらに身を伏せる兵士、砲撃の中突撃する兵士… 毎日新聞特派員・徳岡孝夫が驚いたのは、沢田が、兵士たちが伏せている時に立ち上がり、兵士たちが逃げている時に、ただ一人立ちどまって撮影したいたことです。(p.384)
 そしてひとりの人間としての兵士が抱く、さまざまな感情や思いを、沢田のカメラは掬いとるようにフィルムに記録します。恐怖、不安、怒り、憎悪、絶望、自失、安堵… 図録の中に、アンリ・カルティエ・ブレッソンの言葉がありました。
 ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから、心遣いを欠いては、(写真は)粗野なものになりかねない。(p.360)
 思うに、彼の兵士に対する心遣いが、彼らの心の被膜をとりさり心底を露わにさせたのでしょう。ただ煙草を吸いながら「なぜ俺を撮る」と言わんばかりにレンズを、あるいは沢田を見据える兵士の写真が忘れられません。

 そして彼の写真の真骨頂は、被害者であるベトナムの人びとを写した写真です。米軍に捕らえられた解放戦線の兵士たちの不屈の面構えに、「侵略者を追い出し独立を守る」という強い意志を感じました。この戦争の目的が理解できない米軍兵士とは大きな違いです。
 胸をしめつけられたのは、ベトナムの民衆を撮影した写真です。逃げ惑う母子、泣き崩れる老婆、命乞いをする女性、ナパーム弾で火傷を負った母親にしがみつく幼子、怯える子供。「この人たちにどんな罪があるんだ」という沢田の叫びが聞こえてきそうな写真の数々。その一方で、戦火の中でも、逞しく生きる人びとの姿も心に残ります。彼ら彼女ら、そして子供たちの素敵な笑顔! これもやはり彼の心遣いの賜物なのでしょう。

 会場には、愛用のライカとヘルメット、使用した食器など沢田教一の遺品も展示されていました。彼はクラシック音楽が好きだったそうで、プレーヤーと彼が愛聴したレコードもありました。彼を癒した曲は何だったのか、紹介します。ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」(バーンスタイン+ニューヨーク・フィル)、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲(ルドルフ・ゼルキン)、ブラームス交響曲全集(カラヤン+ベルリン・フィル)です。

 命を賭けて戦争のおぞましさを撮りつづけ、そして平和な暮らしの尊さを訴えた沢田教一。忘れられない、忘れてはいけない写真家の一人です。戦争大好きおじさん/おばさんがごろごろいる昨今の日本、彼の写真をときどき思い出すことにしましょう。彼の言葉です。
 平和になったら、ベトナムを北から南までゆっくり撮影旅行したいな。ベトナム人の笑顔って最高なんだよ。(p.365)

 人間は戦場にいたら感覚がまひしてしまう。それが恐ろしいんだ。(p.384)

 戦争を教えるにしても、私自身が戦争を知らない。その本当の姿をわからせるのは、戦場の写真だけなのだ。(p.395)
 ベトナム戦争に関する書籍では、『パクス・アメリカーナの五十年』(トマス・J・マコーミック 東京創元社)と『ヘゲモニー国家と世界システム』(松田武・秋田茂編 山川出版社)がお薦めです。アメリカは、日本のためにベトナム戦争を遂行したという衝撃の事実を明らかにしています。ベトナム帰還兵が告白した『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(アレン・ネルソン 講談社)も素晴らしい。兵士の眼から見た戦争をリアルに感じ取ることができます。今、読んでいるのが『ベスト&ブライテスト』(デイヴィッド・ハルバースタム 朝日文庫)。ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にしても最も聡明な」人材だと絶賛されたエリート達が、なぜ米国を非道なベトナム戦争という泥沼に引きずり込んでしまったのか。賢者たちの愚行を、綿密な取材で克明に綴るベトナム問題の記念碑的レポートです。またベトナム戦争に関するポップスやロックも数多つくられましたが、ボブ・ディランとレオン・ラッセルの「戦争の親玉」と、ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」が出色の出来ですね。

 なおベトナムで戦った米兵たちの証言を集めた『人間の崩壊』(マークレーン著 鈴木主税訳 鶴見良行解説 合同出版)という恐るべき書があるのですが、残念ながら絶版です。この本を読むと、この戦争が、人種主義にもとづいたアメリカ政府と軍、そして戦場の兵士ぐるみの犯罪であることがよくわかります。今なおアメリカ政府は、この国家犯罪を認めていません。その結果、アフガニスタンやイラクで同様の国家犯罪を繰り返しているのでしょう。過ちを認めず、隠蔽し、謝罪もしないし責任もとらない。何と品格に欠けた国であることか。同じく国家犯罪を認めない日本が、アメリカの属国として尻尾を振るのも宜なるかな。いくつかの証言を紹介します。
 まず訓練からはじめることにする。明らかな証拠にうながされる結論は、海兵隊の基礎訓練が野蛮で、非人間的だということである。その訓練の目標は、個人の思想を能うかぎり卑小なものにし、若者を殺人機械の有効な歯車に変えることである。(p.9)

 ベトナムにいる兵士たちへ
 壁にかける野蛮人(クーン)の皮膚を持って帰還せよ。
 -リンドン・B・ジョンソン合衆国大統領の訓戒 (p.35)

リチャード・ダウ
問 君は、自分がなぜそこにいたのか知っていたか?
答 正直言って、わからない。聞かされていたのは、共産主義者の手からベトナム人を救うのだということだった。われわれはだれも救いはしなかった。ただ殺しただけだ。われわれはなぜあそこに派遣されたのだろう? 正直なところ、自分にはわからない。(p.46)

ピーター・ノーマン・マーティンセン
 戦争の場にほうりこまれ、その非人間性、蛮行、そしてとりわけ自分が助けるとされている人びとから憎まれていることが明らかな戦争に加わっていることからくる挫折感に触れれば、だれだって化物に変えられてしまう。ありとあらゆる面で、文字通りの化物になってしまうのだ。(p.165)

ジェームズ・D・ヘンリー
 とにかく、それらの民間人を殺すについては、何の理由もなかった。殺されたすべての民間人は、必要もなく殺された者たちだ。つまり、彼らを殺したところで、まったく意味がなかった。彼らは戦争とは何の関係もなかった。なぜなら、彼らはどちらの側からも殺されていたからだ。ベトコンに殺され、北ベトナム軍に殺され、アメリカ軍に殺され、南ベトナム軍に殺されるのだ。彼らこそが、困難な目にあわされている者たちだ。彼らこそが、逃げ出すわけにはいかない者たちなのだ。(p.174)

 こうしたすべてのことについての重要なポイントは、民間人を殺した兵隊たちには責任があるが、彼らにそんなことをさせないような訓練をしなかったという点で軍隊に究極の責任があるということだ。(p.177)

 だれについても口実はまったく存在しない。人種主義がその大部分を占めている。つまり、そのほとんどは、人種主義のせいだと思うんだ。純粋かつ単純な人種主義だ。ベトナム人は敵ではないからして、グックなのだ。彼らは白人ではなく、ただのグックなのだ。だれでも彼らよりは偉く、二等兵さえもそれより階級が上なのだ。彼らはちっぽけで、遅れていると考えられているが、それでも彼らは私にはできない多くのことをやってのける能力を持っている。とにかく、その理由のおおかたは人種主義なのだ。(p.178)

ビル・コンウェイ
 その男が終わると、別の兵隊が彼女を犯した。娘は悲鳴をあげた。兵隊は彼女を殴り、おとなしくしろと言った。娘は「チェウホイ」と言いつづけた。つまり降伏したいという意味だ。五人全部がその娘を犯すと、あとの二人が彼女を犯し、その間二人の者が残りの二人の娘に銃を向けて見張りをした。それから、その二人の娘についても同じことがくりかえされた。それぞれの娘が何度も強姦されたのだ。彼女らはその間ずっと泣き叫んでいた。強姦がすむと、GIたちの三人が投擲照明弾を取り出し、娘たちの性器につっこんだ。彼女らはその時には意識を失っていた。どの一人ももはや押さえつけておく必要がなかった。娘たちは口や鼻や顔、そして性器から血を流していた。そのあと、彼らは照明弾の外の部分をたたき、それは娘たちの身体の中に入っていった。胃袋が急にふくれあがったかと思うと、弾は身体の中で爆発した。胃袋が破裂し、内臓が身体の外に垂れ下がった。(p.182)

ジョセフ・グラント
問 ベトナム人の子どもを戦争から保護するために特別な配慮がはらわれていたか?
答 それは不可能だ。彼らは戦争の一部なのだから。(p.193)

ピート・シューラー
 圧倒的に、黒人がていよく利用されているという感情だったと思う。彼らは、戦場にいる自分たちの割合が、国にいる時よりもずっと高いということを知っていたし、自分たちが従軍しているたいていの白人よりも危険の大きい任務につかされているということを知っていた。あるいは少なくともそういう感情を抱いていたと思う。(p.202)

ゲイリー・ジャンニノート
 彼らは来る日も来る日もどこかへ出動させられ、何をしていいかわからぬままに、ベトナム人に矛先を向けるのだ。なぜなら彼らは、それらの人びとは劣っている、自分たちよりも遅れている、つまりただの東洋人だと教えられているからだ。(p.212)

ロバート・H・バウアー
 そのことで裁判にかけられるべき人間は、ニクソンであり、レアードであり、ジョンソンなのだ。それらの犯罪について告発されるべきは、わが国の政府の権力の座についている人びとであって、それを実際に遂行した人間ではないのだ。(p.233)

# by sabasaba13 | 2017-09-01 06:22 | 美術 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 2

 二つめ、被害者の数を明示していないこと。もちろん正確な数字がわからないのは重々承知しておりますが、研究の進展によって概数はほぼ明らかになっていると思います。研究者の松尾章一氏によれば、朝鮮人が六千人以上、在日中国人が七百人以上です。〔『世界史としての関東大震災』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社) p.4〕
 三つめ。事件発生直後から、政府・軍・警察がその真相を隠蔽したこと。そして現在にいたるまで、政府は虐殺の責任を認めず、遺族に謝罪せず、犠牲者やその遺族についての調査を行なっていないこと。これらについてこの教科書は一切ふれていません。
 四つめ。「流言」の内実についてふれていないこと。民衆によるものだけではなく、内務省・軍・警察が率先して流言を発信していたことが明らかになっています。
 五つめ。「人為的な殺傷行為」「多くの朝鮮人が殺傷された」とあるように、殺傷(虐殺)を行なった主体がぼかされていること。これも軍や官憲の責任を曖昧にするための所為でしょう。
 六つめ。戒厳令についてふれていないこと。大辞林によると、戒厳とは「戦時またはこれに準じる非常事態の際、立法・行政・司法の事務の全部または一部を軍隊の手にゆだねること」です。この関東大震災において戒厳令を施行したということは、政府が「戦時またはこれに準じる非常事態」であると認定したことを意味します。つまり朝鮮人に対する戦争ですね。民衆が大規模な殺戮におよんだのも、戒厳令によって「朝鮮人=敵、つまり殺してもかまわない」という意識が蔓延したからではないでしょうか。これはきちんと指摘すべきでしょう。
 そして最後に指摘したいのは「市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使した」という表現です。"例外的とは言い切れない規模"??? このまわりくどい物言いの意図は何なのでしょう。ちょっと穿った見方をすれば、「日本の市民・警察・軍が大規模な虐殺を行なった事例は、例外的なものではなく、しばしばあった」という叙述にしようとした著作者に対して、文部科学省が圧力をかけた可能性もありますね。国家と民衆が犯した罪を明記しようとした著作者と、国家の犯罪をできるだけ隠蔽したい文科省官僚のせめぎ合いによって、このような隔靴搔痒的文章になったのかもしれません。

 というわけで、教科書に頼ってはいられません。自分なりにいろいろと調べたことを披露したいと思います。参考文献を下に列挙しておきました。本文中の丸数字は、当該文献を指しています。

①『関東大震災・虐殺の記憶』 (姜徳相 青丘文化社)
②『戒厳令』 (大江志乃夫 岩波新書37)
③『関東大震災と朝鮮人虐殺』 (姜徳相・山田昭次・張世胤・徐鐘珍ほか 論創社)
④『震災・戒厳令・虐殺』 (関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編 三一書房)
⑤『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』 (山岸秀 早稲田出版)
⑥『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 -虐殺の国家責任と民衆責任』 (山田昭次 創史社)
⑦『関東大震災と戒厳令』 (松尾章一 吉川弘文館)
⑧『関東大震災』 (吉村昭 文春文庫)
⑨『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』 (加藤直樹 ころから)
⑩『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』 (田原洋 岩波現代文庫)
⑪『地域に学ぶ関東大震災』(田中正敬・専修大学関東大震災史研究会編 日本経済評論社)
⑫『大正大震災 -忘却された断層』 (尾原宏之 白水社)
⑬『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』 (関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)
⑭『地域に学ぶ関東大震災 千葉県における朝鮮人虐殺 その解明・追悼はいかになされたか』 (田中正敬・専修大学関東大震災史研究会編 日本経済評論社)
⑮『いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人』 (千葉県における追悼・調査実行委員会編 青木書店)

 追記です。「釜山聯合ニュース」(17.8.30)によると、1923年の関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺事件の被害者遺族が、真相究明と賠償を求めるために遺族会を立ち上げたとのことです。日韓の協力で歴史の闇を、白日の下に晒してほしいですね。期待しています。
# by sabasaba13 | 2017-08-31 07:55 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

不染鉄展

c0051620_6205432.jpg 先日、吉田博展を見て、いたく感銘を受けたことは拙ブログで報告しましたが、その際にこれから開かれる展覧会のチラシを何枚かいただきました。食指を動かされたのが、「鈴木春信展」(千葉市美術館)、「長沢芦雪展」(愛知県美術館)、そして「不染鉄展」(東京ステーションギャラリー)です。ふ・せんてつ? ふせん・てつ? 恥ずかしながらはじめてその名を聞きました。ただチラシに載っていた絵に眼を引き付けられました。威厳ある富士とそれを取りまく村々を鳥瞰して描いた「山海図絵」、陸に打ち上げられた巨大な廃船を描いた「廃船」、一台の古ぼけた自転車を描いた「古い自転車」。心がざわつくような不思議な、そして魅力的な絵です。いったいどういう方なのでしょう、興味をひかれて先日東京ステーションギャラリーに行ってきました。

 まずはチラシにあった展覧会の概要を転記します。
 不染鉄(ふせん てつ)を、ご存じですか。
 不染鉄(本名哲治、のち哲爾。鐵二とも号する)は、稀有な経歴の日本画家です。日本画を学んでいたのが、写生旅行先の伊豆大島・式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。才能を高く評価されながら、戦後は画壇を離れ、晩年まで飄々と作画を続けました。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。画業の多くは、謎に包まれてきました。
 その作品も、一風変わっています。富士山や海といった日本画としては、ありふれた画題を描きながら、不染ならではの画力と何ものにもとらわれない精神によって表現された作品は、他のどの画家の絵とも異なり、鳥瞰図と細密画の要素をあわせ持った独創的な世界を作り上げています。不染は「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」とし、潔白な心の持ち主にこそ、美しい絵が描けると信じて、ひたすら己の求める絵に向きあい続けました。
 東京初公開となる本展では、代表作や新たに発見された作品を中心に、絵はがき、焼物など約120点を展示し、日本画家としての足跡を、改めて検証するとともに、知られざる不染鉄作品の魅力を探ります。
 8月某日、東京駅北口にあるステーションギャラリーへ。初期の作品群から、魅了されてしまいました。山のふところに、海辺に、林の合間に、雪の中に、静かに佇む数件の家々。ときどき部屋の中にいる人影が見えるだけで、人の営みはほとんど描かれていません。しかし何と静謐で満ち足りた絵なのでしょう。人間は一人の個人としては生きていけない、家々=共同体に包まれながら自然に生かされているのだ、という作者のメッセージを感じます。
 そして画業が円熟するにつれて、彼の想像力の翼は大きくはばたいていきます。前述した「山海図絵」、「廃船」、波間にただよう一艘の船を描いた「孤帆」、薬師寺東塔や奈良の古寺をモチーフにした連作。中でも、私が大好きになった絵が二つあります。
 まず「海」(1975)。上部には岩場の海岸が描かれますが、絵の大半は紺碧の海です。深さを増すにしたがって色濃くなる海の中を、楽し気に遊弋する大小さまざまの魚たち。そして魚たちと戯れるかのように、海の中に茅葺きの家々が数軒建ち並んでいます。海と魚と共存する人間の共同体、何とも幻想的であたたかい絵です。
 もう一つは「古い自転車」(1968)。何の変哲もない、古びた自転車が描かれているだけの不思議な一枚です。なお申し遅れましたが、彼自身の朴訥な字で、絵にコメントがつけられている絵があるのも彼の特徴ですが、これもその一枚。こう記されています。
長いあいだ苦労したんだろうねえ。雨の日風の日色々の事があったんだろうねえ。此頃はピカピカの自転車の走るあいだをふらふら心細そうに走るのかねえ。こいつ何だか私に似てるよ。私は七十八だよ、いくらかふらふらだよ。君も少しさびてところどころはげているが私もはだかになれば君と同じさ。友達だねえ。これをかいていると色々思ひ出すねえ。春の櫻や夏の月やそれからそれとつきないねえ。今は冬の枯野かなあ。淋しいけれどこれもいいぜ。身にしみるなあ。仲よくしようよ。

文化館の展覧にお前をだしてやる 色々な人がお前を見るぞ。恥しくはない、恥しいのはきれいに見えるうそだ。お前よく知ってるだろう。眞實こそ天人ともに美しい。これをかいてるうちに信念のようなものが燃えてくる。うれしいなあ。何だかお前と俺とは一つものか自轉車と俺は同一人か。
 そして額縁にも、絵が描かれ、自らの一生をふりかえるコメントが記されています。
明治廿四年六月十六日東京市小石川区光円寺に生れる いてふ寺とも言はれる 秋になると黄色い落葉が雪吹のようになる 小學三年の時生れてはじめての船に乗せられ、房州富浦の漁村 西光寺へ行く 途中風雨はげしくとても恐ろしかった。
東京から来た児だと大事にされ あばれるので少しあきれられる
ようやく中學を卒業する。田端の山田敬中先生の門下生になる 父死ぬ。勉強する気になる。小さい展覧會に賞をもらふ。
廿四の時美術院研究生となる。女を知り身を持ちくずす。人間の淋しさを深く知り、一切のうそをやめようと思うようになる。中々できない。画がわかり始める。
廿七の春伊豆大島に渡る。三年を夢のようにくらす 画かきになりたいと思ひながら漁師の手つだいとなる 楽しい。
廿九の春花の京都へ来る。帝展入選。丗の時美校へ入學。潮風荒い大島の漁師から美しい美術學生となる
首席卒業となる 答辞を讀む 夢ではない。心配をかけたよ父よ母よ先生よ ほんとに一番だよ。これだけで生れた甲斐があったねえ。

戦後正強高校の校長を七年余やる。
校舎より生徒が大事だと思った。

西之京に住む
雪の北国
春の信州
南の国 みかんの丘の港
楽しい思出はつきない。こんな年?生きる。
美しい心のいい人にならなければねえ
七十四の時ここに住むようになる。まあ門番だねえ 役に立たない。とても静かでいい家だ。何不自由なくとても倖せだ。相野様では何の役にたたぬ私をとても大事にしてくれる この画は今ここでかいている 七十八の暮である 人生終りに近い。我まま一パイにくらしてきたのにこんなに倖せになる そこで此の作品は相野様に保存していただく。

昭和四十三年十二月二十九日 不染鉄
 文中にある"人間の淋しさ"という言葉が、彼の作品を理解するキーワードだと思いました。人間は淋しい、一人では生きていけない。だから縁者や知人と寄り添って村や町をつくり、自然や動物や植物と心を通い合わせながら生きていくものだ。あるいは、自分たちが精魂込めてつくった物、例えば古い自転車とも交感しながら。それが人間の幸せだ。彼の絵から、そうした懐かしくあたたかい思いを感じました。
 もう後戻りはできませんが、かつてこうした暮らしがあったのだと、素晴らしい絵として残してくれた不染鉄氏に感謝します。
# by sabasaba13 | 2017-08-30 06:21 | 美術 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 1

 埼玉、群馬神奈川千葉(その一)千葉(その二)、そして東京と、関東大震災時の朝鮮人虐殺を追いかけてきました。これからも探究は続けるつもりですが、すこし立ち止まって、この出来事の全体像をまとめておきたいと思います。かなり長期の連載となりますが、おつきあいいただけると幸甚です。

 まずは受験生御用達の『詳説 日本史B』(山川出版社)から当該部分を引用します。
関東大震災の混乱
 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計の針はすべて吹きとばされた。地震と火災で東京市・横浜市の大部分が廃虚と化したほか、東京両国の陸軍被服廠跡の空地に避難した罹災者約4万人が猛火災で焼死したのをはじめ、死者・行方不明は10万人以上を数えた。全壊・流失・全焼家屋は57万戸にのぼり、被害総額は60億円をこえた。
 関東大震災後におきた朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に類をみないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者10人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。(p.331)
 うーむ、隔靴掻痒というか、奥歯に物をはさむというか、オブラートに包むというか、曖昧模糊とした言い回しですね。責任を問われないようにしながら重要な事実を隠蔽する、まるで官僚が書いたような文章です。

 例えば、"虐殺"を"人為的な殺傷行為"とする言い換え。人間の尊厳をふみにじるような殺し方を"虐殺"と定義するならば、数多の証言がその多発を示しています。例えば『関東大震災 記憶の継承』(関東大震災90周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)によると…
 首が肩の際から切り取られている(永代橋)
 二十人位の首を日本刀で切っていた(砂町小学校)
 土手の桜並木に一人ずつ縛りつけ兵士が「今夜ぶった切る」(赤羽土手)
 電柱に縛られ傍らに「不逞鮮人なり、殴る蹴るどうぞ」と棍棒まで置いてある(洲崎)
 堀に飛び込んだ人に石を投げつけ、沈み、浮いたらまた投げる(上野科学博物館裏)
 遠くから石を持って打ち殺した(下谷)
 蓮田で女性の急所を竹槍で突き通して殺したのを見た(墨田雨宮ヶ原)
 腹を裂かれ胎児がはらわたの中にころがっている妊婦の陰部に竹槍が(大島)
 針金で縛り焼け残っている火の中へ放り込む(浅草公園)
 材木に縛りつけて燃えている上野駅の火中に投げ込んで焼殺(上野)
 四人を針金で縛し一升瓶の石油をぶっかけて火をつけた(被服廠跡)
 五~六人を石炭の焼け残りの火中に投げ込んだ(月島三号地) (p.141~2)
 また『関東大震災と朝鮮人虐殺』(山岸秀 早稲田出版)では次のような証言が紹介されています。
 朝鮮人は、元荒川にとび込みました。…水の中でずいぶん苦しんでがまんしていたようですが、土手に引き寄せられたとおもうと、また水の中にしゃがんでしまいました。そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、それを脳天にぶっ刺し、引き寄せたのです。血と脳漿がふき出した。脳天から四筋も六筋も血が流れ、口の中へ入っていくのが目のあたりに見えました。(p.153)
 これが"人為的な殺傷行為"ですませられる殺し方でしょうか。撤退→転進、自殺攻撃→玉砕、敗戦→終戦、占領→進駐、核発電→原子力発電と同様、責任と真相を隠蔽するための官僚的言辞ですね。
# by sabasaba13 | 2017-08-29 07:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

パリ・マグナム写真展

c0051620_6242651.jpg 先日、山ノ神と京都文化博物館で「パリ・マグナム写真展」を見てきました。「なぜ京都で?」と思われる方のために、話せば長いことながら説明いたします。先日、はじめて祇園祭を見てきたのですが、その際に参考としたのが『祇園祭の愉しみ』(芳賀直子 PHP)です。その中で紹介されていたのが大極殿本舗六角店の甘味処「栖園」の提供する美味しそうなスイーツ「琥珀流し」。宵山の日に寄ったところ、やはり長蛇の列でした。しかし名簿に名前を書いておけば順番が過ぎても優先して案内されるというでした。さあどこで時間をつぶすか、その時にすぐ近くに京都文化博物館があり「パリ・マグナム写真展」が開催されていました。しかし船岡温泉でひとっ風呂浴びて彫り物とマジョリカ・タイルを拝見することに決していたので、こちらはカット。そして銭湯で汗を流して「栖園」へ戻ると、長い行列にも拘らずすぐ席に通されて「琥珀流し」を楽しめた次第です。上質の寒天ゼリーにペパーミントのシロップ、舌をくすぐる官能的な触感と爽やかな香り、これは病みつきになりそう。なおこのシロップは月替り、八月には生姜味の冷やし飴。実は、五山送り火にも行く予定でしたので、ぜひ再訪しようと二人で誓い合いました。
 そして五山送り火の当日、午後四時半ごろに「栖園」に行くとやはり長蛇の列、しかも午後五時まで入店ということでした。うーむ、三十分か… とりあえず名簿に名前を書いて、「パリ・マグナム写真展」を鑑賞、三十分弱で鑑賞が終われば「栖園」へ、展覧会が面白ければキャンセルしてそのまま鑑賞を続行、という結論に達しました。結局、写真にひきこまれて「琥珀流し」はキャンセル、再訪を期すことになったわけです。
 長口舌で申し訳ない、何が言いたいかというと、この展覧会がおもしろかったということと、「琥珀流し」は美味しいということです。

 まずは「マグナム」について、博物館HPに掲載されていたサマリーを転記します。
 1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成されました。以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。
 本展は、2014年12月から翌年4月までパリ市庁舎で開催され、大きな反響を呼んだ展覧会の海外巡回展として企画。マグナム・フォト設立70周年にあたり、60万点に及ぶ所属写真家の作品の中から、パリをテーマにした作品131点を選び展観するものです。
 芸術の都・パリは多くの歴史的事件の舞台でもあり、かつ、写真術発明以来、常に「写真の首都」でもありました。20世紀の激動を最前線で見つめ続け、現代においても現在進行形の歴史をとらえ続けるマグナムの写真家たちが提示する豊穣なイメージは、都市とそこに生きる人々の歴史にとどまらず、写真表現の豊かさをも我々に提示してくれると同時に、世界を発見する驚きに満ちた写真家たちの視線を追体験させてくれます。
 第一部は「マグナム・ビフォア・マグナム 1932-1944」。マグナム設立以前に撮影されたロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真が中心です。水たまりを跳び越す男とその影、ブレッソンの有名な作品「サン・ラザール駅」(1932)を見ることができました。そしてナチス・ドイツによるパリ占領と傀儡政権の樹立、それに対するレジスタンスとパリ解放を記録した数々の写真も印象的でした。
 第二部は「復興の時代 1945-1959」。戦争は終結しましたが、荒廃したパリで、明るくたくましく、あるいは苦難に打ちひしがれて生きる人びとの姿がカメラにとらえられています。ポスターに採用された写真は、ロバート・キャパの「凱旋門」(1952)です。
 第三部は「スウィンギング・シックスティーズ 1960-1969」。社会に対する若者たちの怒りが爆発した「五月革命」をとらえた写真が心に残りました。投石やバリケードのためにはがされた歩道の敷石、壁をうめつくす政治的主張をこめたポスターやビラ、そして若者たちの怒りと不安に満ちた、しかし真摯な表情。この出来事を歴史にとどめようとするマグナムの写真家たちの気持ちあが、ビシビシと伝わってきます。
 第四部は「多様化の時代へ 1970-1989」。社会秩序の回復を求める声が高まる一方、慣習からの脱却を求める動きも活性化します。常識や慣習を疑い、人間についての考究を続けた思想家たち、ジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ミシェル・フーコーたちのポートレートが印象的でした。
 第五部は「解体の時代 1990-2014」。マグナムの写真家たちは、現在のフランスが抱える諸問題を四角いフレームに切り取り記録として残すことを継続します。移民・難民問題、あいつぐテロリズム、そして極右勢力の台頭とマクロン候補の勝利。とくに目を引き付けられたのが、パリ郊外の集合住宅に押し込められた移民たちの様子や暮らしを撮った写真です。絶望、諦め、怒り、不安、微かな希望、その表情やしぐさからさまざまな感情が伝わってきますが、テロリズムが蔓延する理由の一端を雄弁に物語っているように思えました。

 というわけで、たいへん充実した、心に残る写真展でした。写真家たちが切り取った現実の一部を、それにきちんと向き合い力を尽くして読み解くのが私たちの仕事なのだと思います。そして、過去に世界で何が起こって、現在の世界で何が起きているのか、人間がどういう状況に置かれているのかに思いを馳せる。そうすれば「DAYS JAPAN」の表紙に掲げられた言葉のように、「1枚の写真が国家を動かすこともある」かもしれません。あらためてフォト・ジャーナリズムに期待します。
 また錚々たる手練れのさまざまな写真を見て、構図の重要性をあらためて痛感しました。ちょっとした工夫で、安定感・緊迫感・スピード感などを表現できるのですね。アマチュア・カメラマンのはしくれとして、たいへん参考になりました。お土産のポストカードとして、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」、チェ・ゲバラ、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィスのポートレートを購入。

 マグナムの詳細な歴史と現状、所属した写真家のプロフィールと作品などについて知りたい方は、マグナム・フォト東京のサイトがたいへん参考になります。

 追記。以前に拙ブログで紹介したジョセフ・クーデルカの写真もありました。彼もマグナムの一員だったのですね。
# by sabasaba13 | 2017-08-28 06:25 | 美術 | Comments(0)

追悼しないの? 小池知事

 わが目を疑うような、信じ難い記事を読みました。インターネット版「毎日新聞」(17.8.24)の記事です。以下、引用します。
小池知事 朝鮮人犠牲者慰霊式典へ追悼文送付を取りやめ

 東京都の小池百合子知事が、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する9月1日の式典への追悼文送付を取りやめていたことが分かった。歴代知事は毎年送付し、昨年は小池知事も送付していた。都の担当課は「知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。

 式典は市民団体などで作る実行委員会の主催で、都立横網町公園(墨田区)の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で毎年9月1日に実施される。この日は同公園内の慰霊堂で関東大震災と東京大空襲の大法要も開催され、歴代知事は毎年出席して哀悼の意を表した。都によると、少なくとも石原慎太郎氏ら歴代知事は、主催者の求めに応じて朝鮮人犠牲者の慰霊式典に追悼文を送付してきた。
 追悼文を巡っては、3月の都議会第1回定例会の一般質問で古賀俊昭都議(自民)が虐殺された人数に異論があるとして、「追悼の辞の発信を再考すべきだ」と発言。小池知事は「犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知している。毎年慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方が慣例に従って送付した。今後は私自身が目を通した上で適切に判断する」と答弁していた。
 都公園課の担当者は「(見合わせは)以前から検討していたこと。この答弁で決めたわけではないが、きっかけの一つとなったのは事実」としている。
 関東大震災50年の1973年に設置された追悼碑には「あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。【柳澤一男】
 いったいどういうことなのでしょう。理解できません。虐殺された人数がはっきりしなから、追悼しなくてもよいということなのか。あるいは地震と火災等でなくなった方々と一緒に追悼すれば事足りるということなのか。古賀俊昭都議(自民)と小池百合子都知事の言動から透けて見えるのは、「日本は素晴らしい国だ、その誇りを守るために過去の過ちはなかったことにしよう/忘れてしまおう」という発想です。やれやれお二人さん、ちょっとここに座って、『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されている、大沼保昭さんの言葉をよくお聞き。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 そう、過ちを認めない恥知らずな国になってほしくないのです、私は。失敗や過ちから学ぶことをしないから、この国はいまだに失敗と過ちを繰り返し続けているのではないですか。
 それにしても腑に落ちないのは、国家が犯した過去の過ちを認めない御仁が、なぜたくさんいるのかということです。素晴らしい国・日本が過ちを犯すはずがないという、単純かつ夜郎自大に思い込んでいるだけなのか。あるいはもっと深い狙いがあるのか。片山杜秀氏は『大東亜共栄圏とTPP』(ARTES)の中で、こう指摘されています。
 …福祉国家モデルが、いまつぶれようとしています。とくに日本。では、どうするのか。
 国が「面倒みます」とはいったものの、もう面倒をみられなくなった。面倒をみられなくなったのなら、同じ国で国民だとかいう必要ももうありません。道州制どころか国は分裂して、昔みたいな薩摩藩とか何藩だとかに分裂しちゃえばいいじゃないか、食えるところだけ食っていけばいいじゃないか、みたいな話になってきます。オレだけ食えればいいじゃないか、ということですね。そうなってしまったら、歴史は浅いけれども、今まで積み上げてきた近代国家のシステムは壊れてしまいます。国家を壊さないとするなら、どうするか。やはり福祉国家の破産後には、安上がりな連帯のしかけがまた帰ってくるでしょう。
 橋下市長がいっている《君が代》とかのポーズは、また戦争しましょうとか、また帝国主義のモデルに帰ろうといっているわけではありません。たんに、もう面倒はみられないんだけれども、だからといって、社会を壊してもらっては困るんですといっているわけです。いちおう日本国民じゃないですか、まあ仲良くして絆があるようなふりをしようじゃありませんか、錯覚して一生生きててくださいということなんですね。
 そのためには国旗とか国歌とかで、仲間だということにしておくのがよい。お互い面倒はみないけれど、仲間なんだよと。お互いが面倒をみないのになんで仲間なんだかわかりませんが、一緒なんだよ、日本人なんだよというわけですね。やはり、われわれはバカですから、国旗や国歌でなんとなく仲間かなと思っていると、何年かはごまかされます。やっぱり、おかしいかな、と思っているうちに死んでいく。この国はそういう段階にきてしまっているんです。
 橋下市長がいっていることは、大阪維新の会の維新八策とかのスローガンを見ればわかるように、基本的には新自由主義です。自助、自立、自由、自己責任。国家や自治体は面倒をみません。勝手にやってくださいと。そのぶん、役人とかがいらなくなるから給料を減らしますよと。だから、お金がかからないようにしますと。お金がかからないということはサーヴィスも低下します。あんたたちの面倒はみないんですと宣言しているに等しいですね。でも、同じ日本人じゃないですか、国旗、国歌があるから、仲良くしましょう、社会を壊して反乱を起こさないようにしてくださいね。いっていることは結局これだけではないですか。
 ひどい国ですね。私は本当にもう、泣けてくるというか、ついにここまできたかという感じがいたします。いま《君が代》がどうとかいっているのは、戦争をしようとか、そんな話とはまったく関係のない、ただこちらは面倒をみないけど、少しでも連帯心を低下させないような安上がりなしかけをひとつでも多くもっていたい、というそれだけの話にすぎないわけでしょう。
 左翼の人は、「また戦争が」とかいって心配してますが、どうも違うのではないか。ただ、安上がりで絆があるように見せかけようという話だけなんですから。そこをわかっていただいて、今の日本を考え直すことが大事なんだと思うんです。(p.52~6)
 まさかここまで下劣な意図があるとは思いたくありませんが…可能性はありますね。

 過ちから学びましょう。しかし意外と知られていないのは、この関東大震災時における虐殺が、とてつもない過ちだということです。デマを信じた民衆が朝鮮人を虐殺したというイメージが流布されていますが、それは事実のほんの一部です。
 この事件に興味を持ち、去年は、埼玉・群馬神奈川千葉1千葉2東京と、慰霊碑や史跡を経巡ってきました。それと同時進行で、かなり集中して研究書を読んだのですが、この事件の底知れぬ暗部を知ることができました。
 この虐殺事件には二つの側面があります。まず国家的犯罪としての側面です。まず「三・一独立運動の再来=朝鮮人による暴動・放火」という予断による誤報を、国家権力が意図的・組織的に流布したことです。そしてその予断に基づいて戒厳令を施行したこと。これにより、社会は一気に戦争状態となり、敵=朝鮮人を殺してもよいという状況が生まれました。そして軍・警察が自ら虐殺を行なうとともに、自警団による虐殺を黙認、場合によっては教唆したこと。情報が誤りであると判明すると、国家権力の責任を隠蔽するためにさまざまな手段をとったこと。軍隊・警察による虐殺については徹底的に隠蔽し、一切の責任を取っていません。そして誤報を流布した責任を免れるために、架空の朝鮮人暴動を捏造しました。さらに虐殺された朝鮮人の遺体を徹底的に隠し、虐殺数や虐殺状況を隠蔽しました。そして虐殺の責任をすべて自警団・在郷軍人会・青年団・消防団など民衆にかぶせ、かつ民衆からの批判をかわすために極めて微温的な刑罰にしか処さなかったこと。朝鮮人を保護する過程で、民族運動家・労働運動家・社会主義者などを選別して殺害したこと。そして関東大震災に関する歴史書を編纂する際に、朝鮮人虐殺の責任を朝鮮人自身と日本人民衆に押し付け、国家の責任を歴史から抹消しようとしたことです。
 もう一つは国民的犯罪です。官憲による誤報の流布があったとはいえ、朝鮮人犠牲者の圧倒的多数は、日本の民衆によって虐殺されました。そして証拠を隠滅し、加害者を庇い、その責任を免れようとした事例も多々ありました。
 言わば、レイシズムにもとづいた国家と国民の共同犯罪だったのですね。そして国家は、調査もせず謝罪もせず責任もとらず、今に至ります。つまり日本という国家は、この過ちをまったく反省もしていないし、この過ちから何も学ぼうともしていないわけです。ということは…また同じ過ちを繰り返す恐れがあるということです。

 これは居ても立ってもいられない。いつの日にか拙ブログに上梓しようと準備していたのですが、小池知事がこのような挙に出る以上、猶予はありません。私なりに調べた事件の概要を隔日で掲載することにしました。ぜひお付き合いください。

 追記。「朝日新聞DIGITAL」(17.4.23)によると、虐殺の舞台となった群馬県で、下記のような事件が起きていました。朝鮮人に対する加害責任を頬かむりしようとする動きが、静かに静かに進んでいるようです。
 群馬県立近代美術館で22日から展示予定だった、県内の「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフにした造形作品が、同館の指導で解体撤去されたことがわかった。追悼碑をめぐっては、存廃が法廷で争われている。同館は「県は碑の存廃をめぐる裁判の当事者。存否の両論を展示内容で提示できない以上、適さないと判断した」としている。
 撤去されたのは、前橋市の作家白川昌生さんの作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」。布を使って追悼碑を表現した直径5メートル、高さ4メートルほどの作品で、同県在住の芸術家の作品を集めた展示の一つに予定されていた。同館と白川さんによると、同館幹部らが21日夕、展示前の最終点検で不適と判断。白川さんと修正を模索したが、最終的に同館側が撤去を求めたという。
 碑は、戦時中に動員・徴用され、建設現場などで働いて死亡した朝鮮人らを追悼する目的で、市民団体が2004年、県立公園内に建立。県は14年、碑の前で開かれた追悼集会の発言が「政治的」で設置許可条件に違反したとして許可更新を不許可とした。市民団体が処分取り消しを求める行政訴訟を起こしている。白川さんは「群馬の問題だから、群馬で展示できれば良いと思った。残念だが、仕方がない」と話している。

# by sabasaba13 | 2017-08-27 07:57 | 鶏肋 | Comments(0)

五山送り火

 京都の夏をいろどる行事、祇園祭につづいて五山送り火を見てきました。どこで見るかについては、逡巡しましたが、結論は宿泊客に解放される「ホテル平安の森京都」の屋上です。祇園祭の際に泊まって施設やサービスは合格点、岡崎神社のとなりに立地するので大文字とほど近く、船形・左大文字・鳥居形も遠望できるそうです。アクセスが少々わるいのが難点ですが、大きな瑕疵ではありません。運良く予約もとれ、8月16日から一泊二日で上洛しました。
 去年は大雨という災難に遭ったそうですが、今年は晴れ。午後八時、ホテルの屋上から、至近距離の大文字送り火、そし遠くに灯された船形・左大文字・鳥居形の送り火を、きれいに見ることができました。精霊を冥府に送るという宗教的な意味合いを肝に銘じながら、山ノ神と二人で一時間ほどの京の夜空を焦がす炎の舞に酔いしれました。
 なお翌日にモーニングサービスをいただいた白川通の喫茶「アッコ」の御主人アッコさんによると、今年の点火はたいへん上手くいったそうです。

 夜の火を撮影するのは難しいものですね。三脚も持参せず、技術的な知識もなく、撮った写真です。勉強し直して再訪を期したいと思います。
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# by sabasaba13 | 2017-08-26 08:47 | 鶏肋 | Comments(0)