若草山山焼き編(1):奈良へ(15.1)

 この歳になっても、まだまだ見たことがない祭りや行事が多いものです。食指をそそられるものを思いつくまま挙げても、若草山の山焼き、祇園祭、大文字送り火唐津くんち、御柱祭、風の盆などなど。そこで一念発起、小さいことからコツコツと、赤子泣いても蓋とるな、嫁を持たせにゃ働かん、若草山の山焼きを見に行くことにしました、ファイヤー! 時は2015年1月24日~25日、今回は「50+(フィフティ・プラス)」の格安ツァーを利用しました。山ノ神の熱い希望で豪気に奈良ホテルに止まり、一泊二日のフリー・プランです。

 まずは若草山について、スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
 奈良市の市街地東部にある山。嫩草山とも書く。奈良公園の一部で、標高342メートル。地質は三笠山安山岩(両輝石安山岩)であるが、旧火山ではなく侵食から残った火山岩丘である。全山美しい芝で覆われた三層の斜面をなし、かつて三笠山と混同された。頂上には国指定の史跡鶯塚(うぐいすづか)古墳がある。頂上からは四周の青垣山や奈良盆地、遠く吉野連山、山城(盆地などを一望できる。毎年1月15日の山焼きは東大寺と興福寺の境界争いに始まる行事ともいい、午後6時、若草山麓に火がつけられる。古都の夜空を焦がす奈良の代表的な年中行事の一つ。
 "古都の夜空を焦がす"か、これは楽しみです。持参した本は『増補〈世界史の解体〉 翻訳・主体・歴史』(酒井直樹VS西谷修 以文社)です。

 2015年1月24日、午前7時少し前の新幹線「のぞみ」に乗り、一路京都をめざします。東京駅で購入した駅弁、私は「いわて黒豚とんかつ弁当、山ノ神は…何だっけ、をまずたいらげました。
 なお岩手県龍泉洞黒豚についての説明が、弁当に記されていたので転記します。
高橋真二郎(兵庫県出身)・雅子(栃木県出身)ご夫妻 (2人とも東京農業大卒)
 東京農業大学卒業後、茨城県で養豚をはじめましたが、用地が狭く、豚にとって良い環境と、目指す養豚が出来ない為、困っていたところ、東京農業大学の先輩であった前岩泉町長の紹介で、岩泉に来ました。豚にとって、最高の環境で育てることが出来る所です。

高橋真二郎さんの美味しいお肉へのこだわり
■健康であること
 健康でなければ美味しい肉になりません。健康な親豚から、健康な子豚が生まれます。
■豚の旨味が勝負
 旨味のある脂の乗った肉に仕上げることです。脂の質を上げるために、飼料は、大麦とふすまが強化されています。
 雨は降っていないもののあいにくの曇天で、富士山もおぼろげに霞んでいます。「残念だね」と山ノ神に声をかけると、彼女曰く「山焼きは夜だから関係ないじゃない」。おおっなんてザッハリッヒな思考なんだ。ま、でもその通りなんですけどね。関ヶ原を通り過ぎるころから青空となり、雪を戴いた霊峰伊吹山の神々しいお姿を拝むことができました。
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 そして京都駅に到着、近鉄特急に乗り換えて一路奈良をめざします。駅のホームでは、奈良県マスコット・キャラクターの「せんとくん」が、満面の微笑をたたえて吾々を出迎えてくれました。もうだいぶ慣れましたが、まだ夜道では出会いたくないですね。
 そして特急に乗り込みますが、指定席の番号表示が大きくて見やすいですね。さあ出発、青空に屹立する東寺五重塔も吾々を出迎えてくれました。満開の不二桜をいつの日にか見に行きたいと思います。
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# by sabasaba13 | 2017-05-08 07:51 | 近畿 | Comments(0)

『ボタン穴から見た戦争』

 『ボタン穴から見た戦争 白ロシアの子供たちの証言』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 岩波現代文庫)読了。
 裏表紙の紹介文を引用します。
 1941年にナチス・ドイツの侵攻を受けたソ連白ロシア(ベラルーシ)では数百の村々で村人が納屋に閉じ込められて焼き殺された。約四十年後、当時15歳以下の子供だった101人に、戦争の記憶をインタビューした戦争証言集。
 『戦争は女の顔をしていない』は女性の眼から見た戦争でしたが、本書は子供の眼から見た戦争です。子供の眼に焼きつけられた残虐非道な戦争の実相に息を呑むとともに、子供たちを体を張って守り、人間らしく育てようとするベラルーシの人びとの姿に感銘を受けました。そして"過去を忘れてしまう人は悪を生みます。そして悪意以外の何も生み出しません"(p.5~6)と述べるスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの姿勢に、そうした惨劇を二度と繰り返さないためにも過去を記憶に留めなければいけないという強固な意志を感じました。安倍上等兵にぜひ読んでいただきたい本です。
ヴォロージャ・コルシュク 六歳
 お金はいらない。辛い時には人間らしい同情や尊敬の念はどんなお金よりも得がたいものだと。このことは忘れられない。(p.79)

エドゥアルド・ヴォロシーロフ 十一歳
 何の理由もなく誰かをなぐっていいなんて理解できなかった。(p.88)

マーシャ・イワノワ 八歳
 おばあちゃんは、家の中で、嘆いていました。「神はどこにいるの、どこに隠れちまったのさ?」 (p.106)

ファイナ・リュツコ 十五歳
 私はどこかに遠のけられた。それからまず子供たちが撃ち殺されるのを見たんです。撃ち殺して、親たちがそれを見て苦しむのを観察しているんです。私の二人の姉と二人の兄が殺されました。子供たちを殺してしまってから、親たちに移りました。女の人が乳のみ児を抱いて立っていました。赤ん坊は瓶で水をすすっていました。奴らはまず瓶を撃ち抜いて、次に赤ん坊、そのあとでお母さんを殺したんです。
 私は気が狂ってしまうと思いました…私はもう生きていけない、と…どうしてお母さんは私を救ってしまったのでしょう? (p.135)

タイーサ・ナスヴェトニコワ 七歳
 44年の末に初めてドイツ人の捕虜を見ました。大きな隊列を組んで歩いて行ったのです。驚いたことに、人々がその隊列に近寄ってはパンをあげたりしていました。私はあんまりびっくりしたので、お母さんが仕事をしているところへ行って、きいたほどです。「どうして、ドイツ人にパンをあげるの?」 お母さんは何も言わないで、泣き出しました。(p.141)

リーダ・ポゴジェリスカヤ 七歳
 でも、私と妹と弟、三人とも成長して、高等教育をうけました。私たちは意地の悪い人になりませんでした。もっともっと人々を信じ、もっと愛するようになりました。それぞれに子供があります。お母さんは一人の力ではこんなふうに私たちを育てることはできなかったでしょう。私たち、戦中の子供は、皆が大切に、育てあげてくれたのです。(p.146)

リーリャ・メリニコワ 七歳
 とてもかわいがってくれて、行儀も教えてくれました。こんなことがありました。「だれかにごちそうしようという時、チョコレートの袋から一つ取り出してあげるのではなく、袋全部をすすめなさい。もらう方は、袋全部をもらわないで、そこから一つとるのです」という話がありました。この話があった日、一人の男の子が欠席していました。ある女の子のお姉さんがやってきて、チョコレートを一箱くれました。この女の子-孤児院で育った子-がそのチョコレートの箱を男の子のところに持っていくと、男の子はそれを箱ごともらってしまいました。私たちはどっと笑いました。その子は困って、きくんです。「どうすればいいのさ?」「一つだけとるのよ」と教えられて、その子は気がつきました。「どうして一つしかとっちゃいけないか分かるよ、僕が全部もらっちゃうとみんなのがないからでしょう?」 そう、ひとりだけでなく、皆が楽しくなるようにと教えられたんです。(p.198)

ワーシャ・シガリョフ‐クニャーゼフ 六歳
 大尉は僕に長いこと説明した。「子供は皆いい子なのだ。何も罪はない。戦争が終わった今、ロシア人の子もドイツ人の子も仲良くするのだ」と。(p.255)

訳者あとがき 三浦みどり
 101人の子供たちの話を聞いて、あの国に101人の知り合いができたように感じていただけれることを祈り、どこかの国の人々のことを自分のことのように気遣うことができるというその感覚が、次々繰り出されてくる軍事的な暴力に対する、確実で最終的な歯止めになることを静かに念じている。(p.347)
 気になったのは、アジア・太平洋戦争下において、日本の子供たちは戦争をどう見ていたのでしょうか。そして日本の大人たちは、子供たちを人間らしく育てようと力を尽くしたのでしょうか。後者については、管見の限りではそうではなさそうですね。日本版『ボタン穴から見た戦争』をぜひ読みたいところです。

 追記です。ソ連におけるドイツ軍の凄まじい蛮行が印象的ですが、『第二次世界大戦 1939-45』(アントニー・ビーヴァー 白水社)を読んでいたら、次のような記述がありました。
 (※1941年)6月6日には、ドイツ国防軍の悪名高き「コミッサール指令」が出ている。この指令には「捕虜の扱いにかんするジュネーブ条約」等々、いかなる国際条約の遵守も等閑視すべしと具体的に述べられていた。同指令とその関連規定は、ソ連の"ポリトルーク(政治指導員)"、すなわち軍内部の政治将校やソ連共産党の正規党員、ならびに破壊分子、男性ユダヤ人は、すべからくパルチザンと見なし、残らず射殺すべしと要求していた。(上p.384)

 スターリンは(※1941年)翌7月1日、クレムリンに復帰した。みずからマイクの前に立ち、ソ連人民にむけたラジオ演説をおこなった。かれは直感の赴くまま、人心を見事に掌握してみせた。スターリンはまず「同志、市民、兄弟姉妹のみなさん」と語りかけて、聴取者たちを驚かせた。クレムリンの主が、人々に対して、家族の一員のような挨拶をした例はこれまで一度もなかったから。続いて、この全面戦争においては、焦土作戦を実施し、なんとしても祖国を守らなければならないと呼びかけた。ナポレオン相手の「1812年祖国戦争」の記憶をかき立てる意図がそこにはあった。ソ連人民は、共産主義のイデオロギーなどよりも、愛する国土のためにこそ、命を投げだす可能性がはるかに高いことを、スターリンは熟知していた。この種の愛国主義は、過去の戦争によって形成されたものであり、ゆえに今回の侵略においても、国民のそうした熱き想いをかき立てることは可能であるとかれは踏んでいた。現在の壊滅的事態を、スターリンは隠し立てすることなく国民に伝えた。ただ、その責任の一端が自分にあることはオクビにも出さなかった。スターリンはまた、"民兵大隊"の創設も命じた。大した装備も与えられず、大砲の餌食になることがほぼ確定した素人の集まりだ。かれら"民兵"たちに期待されたこと、それはその肉体をもって、ドイツ装甲師団の進捗スピードを遅らせる-ただその一点だった。
 「焦土作戦」を実施すれば、民間人が戦闘に巻きこまれ、悲惨な目に遭うことは必定だったけれど、そんなことはスターリンの眼中にはなかった。かくして避難民は、それぞれの集団農場から、家畜を追い立てつつ、個々別々に逃避行を開始した。ドイツの装甲師団に追いつかれまいと、当人たちは必死だったけれど、およそ無駄な努力だった。(上p.395~6)

 スターリンは民間人に対しても、いっさい同情しなかった。ドイツ軍が「老人、女性、母子」などを人間の盾につかったり、あるいは降伏を呼びかける使者にもちいたなどという話を耳にすると、ならばいっそのことそいつらに銃弾を浴びせてやれと命じている。「余計な感傷は無用-それが私の答えだ。敵と共謀するものは、病人だろうが健常者だろうが、ただちに粉砕せねばならない。戦争とは本来、容赦のないものであり、弱みを見せたもの、動揺に身を委ねたものが、真っ先に敗れ去るのだ」。(上p.412)

 占領した大地に入植民を送り込み、「エデンの園」を築くというのがヒトラーの基本構想だった。だが、パルチザンの"跋扈"は当然ながら、そこに自分の土地を得て、楽園づくりに勤しむ可能性のあるドイツ人や"フォルクスドイチェ(民族ドイツ人)"の意欲を削ぎ、結果、構想は足踏み状態となった。国境の東方、そこにドイツ民族のための"レーベンスラウム(生存圏)"を建設するという一大構想を実現するには、「浄化」された土地と、徹頭徹尾、従属的な小作人階級という二つの要素が不可欠だった。予期されたことではあるけれど、ナチによる"匪賊討伐"は、しだいにその残酷の度を強めていった。パルチザンの襲撃があると、その周辺の村々が「復仇」の名のもとに焼き尽くされた。取っていた人質は処刑された。パルチザンに手を貸したと見なされた若い女性や少女たちが、敢えて公開の場でつるし首にされるなど、とりわけ人目を引くような、限度を超えた処刑方法も実施された。だが、報復行為が苛酷になればなるほど、当然ながら抵抗への決意もそれだけ強くなった。ソ連のパルチザン指導者は多くの場合、侵略者への憎悪をいっそうかき立てるため、ドイツ側の報復を招くことをあえて狙って、意図的挑発をおこなったりもした。まさに、慈悲の心とは無縁の「鋼の時代」が到来したのである。紛争の当事者たる独ソの両国家にとって、いまや個々人の生活などはなんの価値もなくなってしまった。特にドイツ人の目に、その個々人が"ユダヤ人"として映っている場合は、尚更である。(上p.425)
 ドイツ軍による「コミッサール指令」と「人間の盾」、ソ連による「焦土作戦」と「民兵大隊」。やれやれ、やはり悪魔に鏡を突きつけねばなりませんね。
# by sabasaba13 | 2017-05-07 07:21 | | Comments(0)

『戦争は女の顔をしていない』

 『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 岩波現代文庫)読了。
 前回の書評で紹介したスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの主著です。裏表紙に記されていた紹介文を引用します。
 ソ連では第二次世界大戦で百万人をこえる女性が従軍し、看護婦や軍医としてのみならず武器を手にして戦った。しかし戦後は世間から白い目で見られ、みずからの戦争体験をひた隠しにしなければならなかった…。五百人以上の従軍女性から聞き取りをおこない戦争の真実を明らかにした、ノーベル文学賞作家の主著。
 愛する人びとと故郷を守るための女性たちの奮闘、しかし白眼視される口惜しさ、ドイツ軍の残虐な行為、ユダヤ人への差別と虐殺、過酷な戦場の中でも人間らしく振る舞おうとする崇高さ、女性の眼から見た戦争の諸実相が圧巻の思いとともに語られます。いや、贅言はやめましょう。ぜひ彼女たちの言葉に耳を傾けてください。
マリヤ・セミョーノヴナ・カリベルダ 上級軍曹(通信係)
 1943年の6月、クールスクの激戦で、私たちは連隊の旗を授けられました。私たちの第65軍125通信連隊は八割が女性だった。想像できるように話してあげたいわ…。分かってもらえるように…。私たちの心の中で何が起きたのか、あの頃の私たちのような人たちはもう二度と出てこないわ、決して。あれほど純真で、一生懸命な人たちは。あれほど深く信じ込んでいる人たちは。連隊長が連隊の旗を受け取って、「連隊、旗に跪いて敬礼!」と号令をかけたとき、私たちは幸福だった。信頼されたということで。私たちはこれで他の連隊、歩兵連隊とか戦車連隊と対等の一人前の連隊になったんだわ。突っ立って、泣いていた。みな涙を浮かべていた。信じられないかもしれないけれど、私はこの感動で全身が緊張したあまりに、栄養失調や神経の使い過ぎからなった鳥目が直ってしまったの。すごいでしょ? 翌日には健康になっていた。それほど心からの感動だった…。(p.78)

アリヴィナ・アレクサンドロヴナ・ガンチムロワ 上級軍曹(斥候)
 そして有名なスターリンの命令227号があったんです。「一歩もひいてはならない!」 後退したら銃殺だ! その場で銃殺。でなければ軍事法廷か特設の懲罰大隊に入れられる。そこに入れられた人は死刑囚と呼ばれていた。包囲から脱出した者や捕虜で脱走したものは選別収容所行き。私たちの後は阻止分遣隊で退路が断たれていたんです。味方が味方を撃ち殺す… (p.85)

アンナ・ヨーシフォヴナ パルチザン
 でも…そう言われたの。町はドイツ軍に占領されたって。あたしは自分がユダヤ人だということを知ったの。戦前はみな一緒に仲良く住んでいたのよ。ロシア人もタタール人もドイツ人もユダヤ人も、みな同じに。そうなのよ、あなた。(p.101)

 町中に貼り紙があった。「ユダヤ人には次のことを禁ずる-歩道を歩くこと、美容院へ行くこと。店で何かを買うこと、笑うこと、泣くこと」 そうなんですよ、あなた。(p.101)

ワレンチーナ・パープロヴナ・チュダーエワ 軍曹(高射砲指揮官)
 男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。〈普通の女性の幸せ〉とかいうものにこっそりすり替えられてしまった。男たちは勝利を分かち合ってくれなかった。悔しかった。理解できなかった。(p.182~3)

 みんなが好いてくれた。先生方も学生たちも。なぜって、私の中にみんなを好きになりたいって気持ちが、喜びがたまっていたからね。生きているってそういうことだと思ったんだよ、戦争のあとはそれ以外ないと思ってた。神様が人間を作ったのは人間が銃を撃つためじゃない、愛するためよ。どう思う? (p.185)

 思い出すのは恐ろしいことだけど、思い出さないってことほど恐ろしいことはないからね。(p.187)

第5257野戦病院メンバーの女性たち
 その時も思いました、生き物の見ている前で何という恐ろしいことをしたんだろう、馬は全て見ていたのよ… (p.206)

 私の病室には負傷者が二人いた。ドイツ兵と味方のやけどした戦車兵が。そばに行って、「気分はどうですか?」と訊くと、「俺はいいが、こいつはだめだ」と戦車兵が答えます。「でも、ファシストよ」「いや、自分は大丈夫だ。こいつを…」
 あの人たちは敵同士じゃないんです。ただ怪我をした二人の人が横たわっていただけ。二人の間には何か人間的なものが芽生えていきました。こういうことがたちまち起きるのを何度も眼にしました。(p.207)

オリガ・ヤーコヴレヴナ・オメリチェンコ 歩兵中隊(衛生指導員)
 戦争で人間は心が老いていきます。(p.222)

 道はただ一つ。人間を愛すること。愛をもって理解しようとすること。(p.224)

タマーラ・ルキヤーノヴナ・トロプ 二等兵(土木工事担当)
 私にとって橋は戦略上の施設ではなく、生き物のようでした-私は泣いていました…移動のときに破壊された橋を何百と見ました。大きいのも小さいのも、戦争では橋が真っ先に壊されます。がれきの山となっているところを通り過ぎるとき、いつも思ったのです。これをまた新たに建造するのにどれだけの年月がかかるだろう、と。戦争は人が持っている時間を潰してしまいます、貴重な時間を。(p.267)

 あの人たちが信じたのはスターリンでもレーニンでもなく、共産主義という思想です。人間の顔をした社会主義、と後によばれるようになった、そういう思想を。すべてのものにとっての幸せを。一人一人の幸せを。夢見る人だ、理想主義者だ、と言うならそのとおり、でも目が見えていなかった、なんて決してそんなんじゃありません。賛成できません、どんなことがあったって。戦争の半ばになってわが国にも素晴らしい戦車や飛行機、性能のいい兵器がでてきました。でも、信じるという力を持っていなかったら、強力で規律があって全ヨーロッパを征服してしまったヒットラー軍のような恐ろしい敵を私たちは決して打ち負かすことができなかったでしょう。その背骨をへし折ってやることは。私たちの最大の武器は「信じていた」ということです。恐怖にかられてやったわけじゃありません。(p.267~8)

アナスタシア・イワーノヴナ・メドヴェドゥキナ 二等兵(機関銃射手)
 一つだけ分かっているのは、戦争で人間はものすごく怖いものに、理解できないものになるってこと。それをどうやって理解するっていうの? (p.311)

オリガ・ニキーチチュナ・ザベーリナ 軍医(外科)
 戦争の映画を見ても嘘だし、本を読んでも本当のことじゃない。違う…違うものになってしまう。自分で話し始めても、やはり、事実ほど恐ろしくないし、あれほど美しくない。戦時中どんなに美しい朝があったかご存知? 戦闘が始まる前…これが見納めかもしれないと思った朝。大地がそれは美しいの、空気も…太陽も… (p.312~3)

リュボーフィ・エドゥアルドヴナ・クレソワ 地下活動家
 ゲットーでは私たちは鉄条網に囲まれた中に住んでた…あれは火曜日だったことまで憶えています。それが火曜日だということがなぜか気にとまった…何月だったか何日だったかも憶えていませんが…でも火曜日だった…たまたま窓に近づくと…私たちがいた建物の向かいのベンチで、少年と少女がキスをしているんです。私は胸をつかれる思いでした。ユダヤ人を対象にした焼き討ち(ポグロム)や銃殺のまっただなかで。この二人はキスをしあっている…胸がいっぱいになりました。この平和な光景に。
 通りの向こう、短い道でしたがその端に、ドイツのパトロールが姿を現しました。奴らもこっちに気づきました、とてもめざといんです。何がなんだか分かる間もありませんでした…もちろん、一瞬のことでしたから…悲鳴、轟音、銃声…私は何も考えられませんでした…何も…最初の感覚は恐怖です。私が見たのはただ少年と少女が一瞬立ち上ったとたんに倒れたこと。倒れるのも一緒でした。
 それから…一日たち、二日たって…三日が過ぎました…私の中で一つの考えがぐるぐる回っていました。理解したかったんです。家の中でじゃなくて、外でキスをしていた。どうして? そういうふうに死にたかったということ…もちろん…どうせゲットーで死ぬんだから、ゲットーでの死ではなく、自分たちらしく死にたかったんでしょう。もちろん、恋です。他ならぬ恋。ほかに何があります? 恋しかありません。
 ほんとうに美しかった。でも現実はね…現実はすさまじいものだった…いま思うんです。あの子たちは戦っていた…美しく死にたかったんです。あれは、あの子たちが選んだこと。まちがいありません。(p.313~4)

ヴェーラ・ヴラジーミロヴナ・シェワルディシェワ 上級中尉(外科医)
 毎日見ていたけれど…受け入れることができなかった…若くて、ハンサムな男が死んでいく…せめてキスしてあげたい、医者として何もできないのなら、せめて女性としてなにかを。にっこりするとか。なでてあげるとか、手を握ってあげるとか…
 戦後何年もして、ある男の人に「あなたの若々しい微笑みを憶えていますよ」と告白されたことがあります。私にとってその人は何人もいる負傷者の一人にすぎず、憶えてもいませんでした。でも、その人は私の笑顔が彼を再び生きる気にさせたと言いました。あの世から引き戻したのだ、と。女の笑顔が… (p.346~7)

 もし戦争で恋に落ちなかったら、私は生き延びられなかったでしょう。恋の気持ちが救ってくれていました、私を救ってくれたのは恋です… (p.347)

ワレンチーナ・ミハイロヴナ・イリケーヴィチ パルチザン(連絡係)
 奴らは銃を発射し、しかも楽しんでいた…最後に乳飲み子の男の子が残って、ファシストは「空中に放りあげろ、そしたらしとめてやるから」と身ぶりでうながした。女の人は赤ちゃんを自分の手で地面に投げつけて殺した…自分の子供を…ファシストが撃ち殺す前に。その人は生きていたくないと言いました。そんなことがあったあと、この世で生きていることなんかできない、あの世でしか…生きていたくない…
 私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれて来たのではありません。私は先生になりたかったんです。村が焼かれるのを見たことがあります。叫ぶこともできなかった。大声で泣くことも。私たちは任務に出て、その村にさしかかった。じっと息を殺して手を血が出るほど、肉がちぎれるほどきつくかんでいるしかできなかった。今でもその傷が残っています。人々が泣き叫ぶ声、牛、鶏、何もかもが人間の言葉を叫んでいるように聞こえました。生きとし生けるものがみな、焼かれながら、泣き叫んでいる…
 これは私が話しているんじゃありません。私の悲しみが語っているんです。(p.380~1)

アグラーヤ・ボリーソヴナ・ネスチェルク 軍曹(通信係)
 ドイツの家でははやはり弾丸で打ち砕かれたコーヒーセットを見たことがあります。花が植わっている鉢とか、クッションとか…乳母車とか…でもやはり奴らが私たちにやったのと同じことはできませんでした。私たちが苦しんだように、奴らを苦しませることは。
 奴らの憎しみがどうして生まれたのか、理解に苦しみました? 私たちが憎むのは分かるけど、奴らはなぜ? (p.451)

タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 赤軍伍長(衛生指導員)
 戦場に行ったことのない人にこんなこと分かるかね? どうやって話したらいいのか、どんな言葉を使って? どんな顔をして? 言ってご覧よ、どんな顔してこういうことを思い出しゃいいのか? 話せる人もいるけど、私はできないよ…泣けてきちゃうよ。でもこれは残るようにしなけりゃいけないよ、いけない。伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。(p.480)

 だって、人間の命って、天の恵みなんだよ。偉大な恵みさ。人間がどうにかできるようなものじゃないんだから… (p.480~1)

 戦争中どんなことに憧れていたか分かるかい? あたしたち、夢見ていた、「戦争が終わるまで生き延びられたら、戦争のあとの人々はどんなに幸せな人たちだろう! どんなにすばらしい生活が始まるんだろう。こんなにつらい思いをした人たちはお互いをいたわりある。それはもう違う人になるんだね」ってね。そのことを疑わなかった。これっぽちも。
 ところが、どうよ…え? またまた、殺し合っている。一番理解できないことよ…いったいこれはどういうことなんだろう? え? 私たちってのは… (p.481)
 中でも、もっとも心に残った、おそらく生きている限り私の心に刻まれたエピソードと言葉を二つ紹介します。
 まずはナターリヤ・イワノーヴナ・セルゲーエワ二等兵(衛生係)の言葉です。厳寒の中、涙が凍りついたドイツ軍の少年兵士が、彼女が押すパンの入った手押し車を見つめています。いくら憎んでもあきたらないドイツ兵、しかし彼女はパンを半分に割って彼にあげます。
 私は嬉しかった… 憎むことができないということが嬉しかった。自分でも驚いたわ… (p.129)
 あまりに苛酷で辛い体験に口ごもる女性たちに対して、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは…
 私は、そういう人たちに頼む、話してください…黙っていてはだめ。悪魔には鏡を突きつけてやらなければ。「姿が見えなければ、痕跡は残らない」なんて悪魔に思わせないために。その人たちを説得する…先に進んでいくために、自分自身も説得しなければならない。(p372)
 "悪魔に鏡を突きつける"、この言葉は絶対に忘れません。
# by sabasaba13 | 2017-05-06 06:29 | | Comments(0)

『チェルノブイリの祈り』

 『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(スベトラーナ・アレクシェービッチ 岩波現代文庫)読了。
 最近、彼女の本を立て続けに読んでいます。まずは本書から、彼女の略歴を紹介しましょう。
スベトラーナ・アレクシェービッチ 1948年ウクライナ生まれ。国立ベラルーシ大学卒業後、ジャーナリストの道を歩む。民の視点に立って、戦争の英雄神話をうちこわし、国家の圧迫に抗い続けながら執筆活動を続ける2015年ノーベル文学賞受賞。
 福島の原発事故を、まるでなかったかの如く振舞う安倍伍長率いる自民党、官僚、財界、メディアを見るにつけどす黒い憂慮を憶えます。挙句の果てに、福島の方々に「自己責任」と暴言を吐く大臣も現われ責任を取らない始末です。暴言を重ねてやっと解任されましたが。
 福島の方々は、いまどういう思いなのか。そしてそれに先立つ事故に見舞われたチェルノブイリの方々は、いまどうしているのか。あらためて知りたいと思っていた矢先に出会った本です。本書は、普通の人々が黙してきたことを、被災地での丹念な取材で聞き取ったドキュメントです。
 「あとがき」で、訳者の松本妙子がアレクシェービッチの発言を紹介されているので、引用します。彼女の立ち位置がよくわかります。
 わたしはチェルノブイリの本を書かずにはいられませんでした。ベラルーシはほかの世界の中に浮かぶチェルノブイリの孤島です。チェルノブイリは第三次世界大戦なのです。しかし、わたしたちはそれが始まったことに気づきさえしませんでした。この戦争がどう展開し、人間や人間の本質になにが起き、国家が人間に対していかに恥知らずな振る舞いをするか、こんなことを知ったのはわたしたちが最初なのです。国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことがたいせつなのです。(p.302~3)
 "国家の恥知らずな振る舞いを歴史の中に消さないよう、個々の人間の記憶を残す" 彼女の仕事の真髄はこれに尽きるでしょう。例えば…
セルゲイ・ワシーリエビッチ・ソボリョフ
 国は詐欺師ですよ、この人たちをみすててしまった。(p.146)

ゾーヤ・ダニーロブナ・ブルーク
 私はすぐにはわからなかった。何年かたってわかったんです。犯罪や、陰謀に手をかしていたのは私たち全員なのだということが。(沈黙) (p.189)

 人間は、私が思っていた以上に悪者だったんです。(p.189)

 ひとりひとりが自分を正当化し、なにかしらいいわけを思いつく。私も経験しました。そもそも、私はわかったんです。実生活のなかで、恐ろしいことは静かにさりげなく起きるということが。(p.190)

ビクトル・ラトゥン
 わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです。(p.214)

ワシーリイ・ボリソビッチ・ネステレンコ
 私は人文学者ではない。物理学者です。ですから事実をお話ししたい。事実のみです。チェルノブイリの責任はいつか必ず問われることになるでしょう。1937年〔スターリンによる大粛清〕の責任が問われたように、そういう時代がきますよ。五〇年たっていようが、連中が年老いていようが、死んでいようが、彼らは犯罪者なんです! (沈黙) 事実の残さなくてはならない。事実が必要になるのです。(p.237)

ナターリヤ・アルセーニエブナ・ロスロワ
 でも、これもやはり一種の無知なんです。自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。〈われわれはソビエト的ヒロイズムを示そう〉、〈われわれはソビエト人の性格を示そう〉。全世界に! でも、これは〈私〉よ! 〈私〉は死にたくない。〈私〉はこわい。チェルノブイリのあと、私たちは〈私〉を語ることを学びはじめたのです、自然に。(p.253)
 事故を隠蔽し被災者に救いの手を差し出そうとしない恥知らずな政府、その政府を支持する人びと、あるいは事故について知ろうとしない/考えようとしない人びと。それらに対して血を吐くような言葉を紡ぐ一人の人間。そう、まったく他人事ではありません。そしてこうした声は、聞く耳がなければ虚ろに宙に消えてしまいます。せめてその耳になろうと思います。チェルノブイリの方の声を、福島の方の声を聞こうとする耳に。

 追記。いまだノーベル文学賞を受賞していない(私にはどうでもよいことですが)村上春樹氏が、2009年2月にエルサレム賞を受賞した時のスピーチも彼女の発言に共振しています。
 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。(中略)

 さて、このメタファーはいったい何を意味するか? ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。
 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。
 壁といっしょになって卵を割ろうとする卵も増えているのが気がかりです。やれやれ。
# by sabasaba13 | 2017-05-03 07:14 | | Comments(0)

言葉の花綵158

 教師は人格者でなくてはならない。けれども人格者というものが、常に無抵抗でなくてはならないという理屈はない。教師は、人格者であるが故に、その全人格をもって、不法なるものと闘わなくてはならない。(石川達三 『人間の壁』)

 反戦ゼッケンの運動を始めて以来、おおぜいの方からさまざまな意見がよせられています。過激だ、という人もいます。でも、こんにち一万数千キロの海をわたり、他国に五十万の軍隊を送り、あまつさえ連日何百回以上の爆撃をして、病人、老人、婦人、子供を見さかいなく殺している集団が現存しているのです。この集団ほど過激なものはありません。(金子徳好)

 満足した豚であるよりは満足しない人間である方がいい、満足したばか者であるよりは、満足しないソクラテースであるほうがいい。(J・S・ミル)

 われわれの場合、第一の不可欠な要求はわれわれの尊厳ということであります。ところで、自由のないところに尊厳はありません。なぜなら、ひとに隷属すること、束縛を強制されてそれに服することは、束縛される当人の品位をおとし、人間という資格の一部をうばい、ほしいままにその人をいちだん劣ったものにしてしまうからです。われわれは隷属の中の富裕よりも、自由の中の貧困をえらびます。(セク・トゥーレ 『アフリカの未来像』)

 大量生産=大量消費の出現や、資源の浪費は、別の文明の原理がもたらした結果だ。その文明によって現在の地球破壊が起こったのなら、それに対する新しいあるべき文明社会の原理は、われわれの祖先が作り上げたこの文化-清貧の思想-の中から生まれるだろう、という思いさえわたしにはあった。(中野孝次)

 理想を持たないためにほろびた民族はある。理想を持ったためにほろびた民族はない。(むのたけじ)

 戦争というのはいつでも、なかなかきそうな気はしないんですよね。人間は心情的には常に平和的なんだから。しかし国家は心情で動いているのではない。戦争が起きた時にはもう間に合わないわけだ。強行採決につぐ強行採決、…今の政府のやり方を見ていると、いうどういうことが行われるかわからない。権力はいつも忍び足でやってくるのです。(大岡昇平)

 人間の歴史は 虐げられた者の勝利を 忍耐づよく待っている。(タゴール)

 もし母が死んでいたら、私も、私の子どもも生まれていなかった。当然だ。でも、この当然のことを壊すのが戦争だ。生きたい人の命をうばうのが、戦争だ。(石川文洋)

 一人を殺せば、これを不義となし、必ず一死罪にあたる。…百人を殺すと不義は百倍となり、必ず百死罪にあたる。これらのことは、天下の君子がみな知ってこれを非となし、これを不義とする。いま大いに不義をなして他国を攻めるにいたっては、非となすことを知らず、そのうえこれを誉め、これを義とする。ほんとうにそれが不義であることを知らないのである。(墨子)
# by sabasaba13 | 2017-05-02 06:28 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『標的の島』

c0051620_7244787.jpg 先日、山ノ神と一緒に、ポレポレ東中野で『標的の島 風かたか』を見てきました。公式サイトに、三上智恵監督の言がありましたので、引用します。
 2016年6月19日、過去最も悲しい県民大会が那覇で開かれた。炎天下の競技場を覆いつくした6万5千人は、悔しさと自責の念で内面からも自分を焼くような痛みに耐えていた。二十歳の女性がジョギング中に元海兵隊の男に後ろから殴られ、暴行の末、棄てられた。数えきれない米兵の凶悪犯罪。こんな惨事は最後にしたいと1995年、少女暴行事件で沖縄県民は立ち上がったはずだった。あれから21年。そのころ生まれた子を私たちは守ってやれなかった。
 大会冒頭に古謝美佐子さんの「童神(わらびがみ)」が歌われると聞いて、私は歌詞を聴かないことにした。子の成長を願う母の気持ちを歌ったもので、とても冷静に撮影できないと思ったからだ。ところが被害者の出身地の市長である稲嶺進さんが、歌の後にこう語った。「今の歌に『風(かじ)かたか』という言葉がありました。私たちはまた、一つの命を守る風よけー『風かたか』になれなかった」。そう言って泣いた。会場の女性たちも号泣した。
 できることなら、世間の強い雨風から我が子を守ってやりたいというのが親心。でも、どうやったら日米両政府が沖縄に課す残酷な暴風雨の防波堤になれるというのか。しかし勝算はなくても、沖縄県民は辺野古・高江で基地建設を進めるトラックの前に立ちはだかる。沖縄の人々は、未来の子供たちの防波堤になろうとする。
 一方で日本という国は今また、沖縄を防波堤にして安心を得ようとしている。中国の脅威を喧伝しながら自衛隊のミサイル部隊を石垣、宮古、沖縄本島、奄美に配備し、南西諸島を軍事要塞化する計画だ。その目的は南西諸島の海峡封鎖。だが、実はそれはアメリカの極東戦略の一環であり、日本の国土も、アメリカにとっては中国の拡大を封じ込める防波堤とみなされている。
この映画はそれら三つの「風かたか」=防波堤を巡る物語である。
 辺野古の新基地建設、高江のオスプレイのヘリパッド建設、そして宮古島、石垣島の自衛隊配備とミサイル基地建設など、軍事基地建設を強行する米日両政府に対して、断固として抗う沖縄の人びとを描いたドキュメンタリー映画です。時には体を張って激しく、時には歌と踊りをまじえて楽しく抵抗する人びとの姿には感銘を受けました。それを支えているのは、「理はこちらにある」という確固たる自信と、「二度と戦場にはさせない」というぶれない不屈の意志だと思います。
 逆に、抵抗を排除しようとする機動隊員や警察の方々の、自信のなさそうな、不安げな態度も印象に残りました。目をそらす、マスクやサングラスで顔を隠す、あるいは表情を変えない。まるで人間と機械が対峙し闘っているようでした。これを見るだけでも、理非がどちらにあるかは一目瞭然です。

 しかしメディアの報道は、常に「日本の怒り」ではなく「沖縄の怒り」という論調です。攻撃対象となる危険性、米兵によって多発する犯罪、環境破壊、米軍と補助金に頼る歪な経済構造、歴史的経験による軍隊への不信感、沖縄の人びとが怒り抗うのは当然だと思うのですが、私たちヤマトンチューはこの怒りを共有しようとはしません。歯がゆいほどに。
 何故か? 『要石:沖縄と憲法9条』(晶文社)の中で、C・ダグラス・ラミス氏が鋭い分析をされているので紹介します。
 つまり、主流世論を代表している個人は、以下の考えを持っている人だろう。

1 私は平和を愛している人です。平和憲法の日本に住んでいるのは、居心地よい。憲法九条をなくすのは、反対です。
2 日本の近くに怖い国があるので、米軍が近くにいないと不安です。

 もちろん、この二つの意見は見事に矛盾していて、一つの社会の中で、または一人の個人の頭の中で成り立つはずがないだろう。その成り立つはずのない、二重意識はなぜ崩れないのか。
 答えは沖縄だ。
 日米安保条約から生まれる基地を「遠い」沖縄に置き、基地問題を「沖縄問題」と呼ぶ。基地のことを考えたいとき(福生や横須賀ではなく)「遠い」沖縄まで旅し、「ああ、大変」と思い、平和な日本へ戻ってくる。つまり、軍事戦略の要石として位置は特によくないが、日本の平和な政治意識をそのまま固定するために、遠いけれども遠すぎてはおらず、近いけれども近すぎてもいない、ちょうどいい距離だ。
 その「距離」とは、地理的なことだけではない。ヤマト日本人の(潜在)意識の中で、沖縄は二つあるらしい。ひとつは日本の一部としての沖縄で、もうひとつは海外としての沖縄、である。日米安保条約の下で、米軍基地を日本に置かなければならない。沖縄は法的には「日本」になっているので、なるべく多くの基地を沖縄に置けば、条約の義務を果たすことになる。また、平和憲法の下で日本本土に外国の軍事基地を置くことはふさわしくないので、なるべく多くの基地を「海外」の沖縄に置けば、自分が平和な日本に住んでいるという幻想を(辛うじて)維持できる、ということだ。
 これは、沖縄が要石となっているアーチの応力図だ。そのアーチが崩れないためには、もうひとつの条件が必要である。それはなるべく考えないということだ。だからこそ、もっとも聞きたくないのは、基地の県外移設のことだ。その話は、アーチの要石を抜くことになるので、極めて怖いのである。自分が支持している(または大して反対していない)安保条約は、米軍基地を自分の住んでいるところに置く、という意味の条約だということを、なるべく考えたくないのだから。(p.233~5)
 考えましょう。I.F.ストーン曰く"すべての政府は嘘をつく"、夏目漱石曰く"国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります"(『私の個人主義』)、アメリカ政府も、中国政府も、北朝鮮政府も、韓国政府も、そして日本政府も、ろくでもない存在であるという事を大前提に、日米安全保障条約の可否、在日米軍基地の可否、それを沖縄に集中させることの可否を真剣に考えたいと思います。

 知的・倫理的怠惰に陥らぬよう、重要な一石を投じてくれる素晴らしい映画でした。

 なお沖縄を描いた映画として『沖縄 うりずんの雨』『戦場ぬ止み』も出色です。
# by sabasaba13 | 2017-05-01 07:25 | 映画 | Comments(0)

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

c0051620_8153447.jpg 先日、新宿の武蔵野館で、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』を山ノ神と見てきました。まずは公式サイトから、あらすじを紹介します。
 イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエル・ブレイクは、心臓の病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり必要な援助を受けることが出来ない。悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供の家族を助けたことから、交流が生まれる。貧しいなかでも、寄り添い合い絆を深めていくダニエルとケイティたち。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追いつめていく。
 まず、主人公ダニエル・ブレイクの人柄にいたく魅かれました。一本気で、職人肌で、権威・権力になびかず、他者を尊重し、ユーモア精神に満ち、困っている人を助けずにはいられない。英語にはこういう人物を表わす素晴らしい表現があります、そう、decentな人間です。例えば、隣人の黒人青年が生ゴミを出しっぱなしにすると、きちんと注意をする。市民としての義務を怠った者を注意するということは、相手を人間として認めているということですね。また遅刻をしたために福祉事務所から援助を断られた子連れのケイティを見るに見かねて、厳しく抗議をするダニエル。
 そしてこの映画のもうひとつの主人公が"官僚主義"です。複雑怪奇な規則を盾にして、弱者を苦しめる福祉行政の姿がきわめてリアルに描かれて印象的でした。理不尽にして残忍、まるでカフカの小説のようなそのやり口には嘔吐感するもよおします。なかなか通じない電話、インターネットによる手続きしか認めない硬直性、繁雑な手続き、相手を小馬鹿にしたような質問の数々。はじめは果敢に抵抗したダニエルですが、官僚制の厚い壁に阻まれやがて無力感に苛まれるようになります。こうした福祉行政の狙いは、もちろん福祉関連の経費をできるだけ削減することにあるのでしょうが、この映画を見ていてもう一つあることに気づきました。弱者の人間としての尊厳を破壊し、無力感と屈辱感を与え、コントロールしやすくすること。そして見逃していけないことは、その官僚主義の背後に大企業の存在があるということです。『〈帝国〉と〈共和国〉』(青土社)の中で、アラン・ジョクス氏はこう述べています。
 国民国家から剥奪された主権は、人民からも事実上剥奪される。今日、主権は「官僚」ではなく企業の手にある。企業という組織が従うのは、どこの土地にも属さず、目先の利益しか追わない金利生活者と、誰にも従うことのない銀行だ。誰もが口にしてやまない、経済「グローバル化」とは、実際には、政治を無に帰することにほかならない。人民主権から主権を奪い、旧体制的な国際貴族に戦利品を与える混沌状況を生み出すことがその手口だ。(p.265)
 大企業と官僚が結託して利益と権力を最大化するために、個人の尊厳を破壊する仕組み、村上春樹氏にしたがってこれを"システム"と捉えましょう。この映画は、systemとdecencyの、壁と卵の闘いを描いた傑作です。

 特に印象に残ったシーンが二つありました。
 二人の幼子を抱え、援助も受けられずに貧困の淵に追いこまれたケイティが、食料品が支給されるフードバンクで、空腹のあまりに無意識にそこに置いてあった食品をむさぼり食べ、気がついて泣き崩れるシーン。ダニエルは「君は悪くない」と慰めます。
 もう一つは、心が折れたダニエルが家に閉じこもっていると、ケイティの幼い娘が訪れて「あなたは私たちを助けてくれた。だから今度は助けさせて」と告げるシーン。ともに涙腺がちょっと決壊しました。

 購入したプログラムに掲載されていたケン・ローチ監督へのインタビューを紹介します。
―この映画は社会の不正義を糾弾しつつも、ユーモアも交えて描いています。

 ダニエルとケイティが直面する問題は英国だけではなく、多くの国で起きています。細かい違いはあっても、どこの国でも問題の根幹は同じ。官僚主義です。生活が困窮した人が、必死の思いで福祉事務所に助けを求めても、官僚主義が立ちはだかる。官僚主義は非効率的ですが、それには理由がある。庶民に無力感を与えるためです。冷酷に、貧困の原因は自己責任だと追いつめる。あなたに仕事がないのは、あなたが悪いんだと責め、とても屈辱的な思いをさせるんです。ダニエルは、非常にばかげた質問をされる。最初は、ばかばかしいことを聞かれると、笑ってしまいます。しかししばらくすると、絶望的な気持ちになり、最後にはみじめになり、破壊的になり、心が壊れてしまう。つまり最初はとても笑えるけれど、悲劇に終わるんです。

―その過程はこの映画そのものですね。

 そうなんです。始まりは、笑えるほどばかばかしい。官僚主義というのは、庶民を無力にすることが目的です。きちんと国や自治体に税金を払ってきて、真面目に生活してきた人が、助けが必要な時、支援を受けるのは当然です。ところが、いざ助けを求めると拒否され、責められてしまいます。

―この映画では貧困問題を客観的な目で描くのではなく、とても主観的に描いていますね。当事者である主人公が声をあげます。

 そうしなくてはならないと思ったからです。大きく声を上げねばならない。他人事ではない、自分たちの問題だと認識してほしいんです。日本も英国も、戦後、誰もが病気になったら適切なケアを受けられる国民総保険をはじめ、社会福祉制度を充実させてきました。お互いを助け合う、敬う、文明的な社会だった。ところが、マーガレット・サッチャーが現れ、状況は一転します。「私は私の面倒を見るから、あなたはあなたで自分の面倒を見て」と自己責任を求めた。「もしあなたが失敗しても私には関係ない」という恐ろしい論理です。ところが1980年代にはそうした自己責任論が社会の主流になってしまった。この自己責任論が、それまで積み上げてきた社会を台無しにした代償は非常に大きい。恐ろしいことです。

―日本も状況は似ています。自己責任が当たり前となり、社会格差が進み保守的な考えを支持する若者が増えてきました。英国はEU離脱問題に揺れています。あなたはEUに残留するほうが安全だとカンヌの記者会見で言っていましたね。

 離脱も残留も、どちらも良い選択だとは思えませんが、残留したほうがまだましだと言えます。たしかにEUは問題を抱えています。EUは右派が台頭しており、ギリシャに対する扱いは最悪です。EUを抜本的に改革する必要があるのは確かです。しかし、英国がEUを離脱すれば、英国政府はもっと右傾化することになり、いかなる保護も受けられなくなるでしょう。労働者の賃金はより低くなる。そうなったら、英国社会は根底から崩壊します。これは悪魔の選択なんです。どちらかがより酷いか、という。しかしEUに残れば、他国の左派グループと連帯が取れる。その方がまだマシだと考えます。

―ダニエルやケイティのような弱者が生まれる今の社会は、まるで19世紀に逆戻りしたかのように見える時があります。

 それは大企業による意図的なものなのです。いかに利益を最大化できるかが、大企業の目的です。そのためには、安い労働力、安い原料で作った物をできるだけ高く売り、市場をできるだけ占有する。その仕組みを支えるために、税金を抑え、労働者保護などの規制をゆるくしてくれる政治家をサポートする。海外でより安い労働者を使えるなら、そちらに流れる。適正な賃金で適正な労働力を得ようとはしませんから、まともな人間は失業してしまいます。でも、それが大企業にとっては当たり前。そしてどれだけ儲かっても、もう十分とはなりません。ライバルが現れれば、売れなくなるから、さらに原価を下げて競争する。こうした仕組みが、政治家を動かし、貧困を生み出しているわけです。なにも悪徳政治家の話をしているわけではないのです。まあ悪い人かもしれませんが(笑)。でも、こうした仕組みを動かすのは、悪人とは限らない。それこそが問題の核心なんです。

―問題の解決方法は存在するのでしょうか。

 あります。共同でものを所有し、決断も共同でする。独占しようとしないこと。過剰な利益を追求せず、誰もが協力しあい、貢献し、歓びを得られるような仕組みを作り、大企業とは違う論理で、経済をまわしていくこと。それは、社会主義と呼ばれるものです。ここで言う社会主義は、旧ソ連のものとは違います。あくまで民主主義の上で成立する、社会主義なんです。

―そうあってくれればいいと思う一方、理想的すぎるようにも聞こえますが。

 ただ単にこの状況をサバイバルできる、というのならファンタジーでしょう。でも大企業は利権を手放そうとはしない。そのために彼らは自分たちに有利な政治家をホワイトハウスに入れ、EU議会に送り込んでいる。彼らをどうしたら止められるのかを考えなくてはなりません。

―映画では悲劇も起きますが、ケイティを通して希望も感じます。

 一歩踏み出せば、助けてくれる人は必ずいます。フードバンクのボランティアの人たちのように、あなたを助けてくれる人が必ずいるんです。
 「問題の解決方法は存在するのでしょうか」という問いに対して、すぐに「あります」と答えたところにケン・ローチ監督の見識を感じます。『私物化される世界』(ジャン・ジグレール 阪急コミュニケーションズ)の中で紹介されているのですが、ノーム・チョムスキーは、掠奪的なこのシステムが使う殺し文句は"TINA"だと指摘しています。つまり、"There is no alternative"(選択の余地はない)の略語です。いや違う、他の選択肢はあると、監督とともに抗いたいものです。

 なお気がかりなのは、システムや壁の側に立つ人びとが増えていることです。安倍上等兵内閣への支持、トランプ大統領の当選、フランスにおける国民戦線の躍進、そして移民・難民の排斥などの動きは、それを象徴するものだと思います。システムによって与えられた無力感と屈辱感、あるいは個人の尊厳の崩壊によるストレスを、強者の一員に連なることで解消しようとするのでしょう。いや、絶望はしません。『永続敗戦論』(太田出版)の中で、白井聡氏がこう述べているように。
 あの怪物的機械は止まる。なぜならそれは、われわれの知的および倫理的怠惰を燃料としているのだから。(p.185)
 追記です。同じような内容の傑作映画として『ブラス!』があります。
# by sabasaba13 | 2017-04-30 08:16 | 映画 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(10):円福寺大利根霊園(16.12)

 そして二十分ほどペダルをこいで八千代緑が丘駅へ、ブロンプトンを折りたたみ、東葉高速線に乗って西船橋へ。武蔵野線に乗り換えて南流山へ。つくばエクスプレスに乗り換えて流山おおたかの森へ。東武アーバンパークラインに乗り換えて梅郷へ。あーややこしかった。
 向かうは、日本人9名が朝鮮人と誤認されて自警団に虐殺されるという「福田・田中村事件」の慰霊碑のある円福寺大利根霊園です。ブロンプトンを組み立てて地図を頼りに三十分ほど走ると、左手に〒印のついた古いお宅がありましたが、たぶん旧福田郵便局なのかな。余談ですが、このマークは「逓信」の「テ」からとられたもので、世界共通ではありません。そして円福寺大利根霊園に着きました。
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 広大な墓地ですので探しあてられるのか心配でしたが、幸い事務所がありました。係の方に慰霊碑の場所をお聞きすると、ご丁寧にそこまで案内してくれました。事務所の前の道を奥へすこし歩くと駐車場で、そこの右手にありました。「関東大震災福田村事件犠牲者 追悼慰霊碑」と刻まれた、黒い石の慰霊碑です。

 合掌

 それでは『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)所収の、石井雍大氏の論文をもとに、事件の概要を紹介します。1923年9月6日午前10時ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀において、香川県の売薬行商人の一行15名が朝鮮人とされ、女、子どもを含む9名が、福田、田中村(現・柏市)の自警団によって殺害されるという事件が起こります。生存者・太田文義氏の証言によると、三ツ堀近くの香取神社で、船賃のことで交渉していると渡し場の船頭が騒ぎだし、福田村・田中村の自警団が押し寄せてきて、「君が代を歌え」「教育勅語」「『一五円五〇銭』をいってみろ」等のやりとりがあった後、「怪しい者はやってしまえ」ということで虐殺しました。言葉づかい(讃岐弁)や、めずらしい黒い羽の扇子を持っていたことも疑惑のもとだったそうです。
 事件後間もなく、千葉地方裁判所で裁判が行なわれますが、被告たちは、例外なく「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と陳述しています。驚くべきことに、予審判事は裁判の始まる前から「量刑は考慮する」と新聞紙上で語っています。さらに大正天皇の死去による恩赦で、一番長く刑務所にいた者でも、拘留期間を除くと一年半ぐらいの服役にしかなりませんでした。
 懲役三年の実刑判決を受け服役した田中村のT氏は、その後村長選挙に当選して村長に就任しています。また、検挙が始まった10月2日、田中村の会議で四人の被告に対し、見舞い金の名目で一人90円の弁護費用を出すことを決め、それを村の各戸から均等に徴収しています。(同書 p.76~8)
 なお石井雍大氏は、行商団の人たちが日本人であると分かっていて虐殺したのではないかと指摘されています。そのうえでの氏の論考を引用します。たいへん重要な論点だと思いますので。
 それでは、福田・田中村事件の場合、行商団の人たちが「朝鮮人ではないのでは」と、少なからずわかっていたにもかかわらず、殺害に及んだのはどうしてか。そこにもまた同じ日本人であっても貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造があったと考えられるのである。
 事件に巻き込まれた香川県の行商団の人たちは、被差別部落の人たちであった。香川県の場合、所有農地が少ない農家(平均五反)が多く、小作率も全国一である。したがって、被差別部落の人たちが、たとえ土地を買いたくてもなかなか売ってもらえない、また小作をしたくてもさせてもらえない状況があった。そのような理由から、少なからぬ被差別部落の人たちは行商に出ざるをえなかったのである。
 部落差別を受け、行商を生業とせざるをえなかったため、大方は貧しい境遇であった。このことも行商人一行に対する目に見えるかたちでの蔑視、偏見、差別の要因になった。「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」こんな意識が働いたことは十分考えられる。
 事件が「朝鮮人と誤認され」といわれているが、単に日本人の民族排外心理一般の中での誤認事件ということだけではカバーしきれぬ問題があると考えざるをえない。(同書 p.79~80)
 碑の裏面に犠牲者の氏名と年齢が刻まれていますが、その中に「晴好 六歳」「つ多江 四歳」「イソ 二十三歳」「イソ 胎児」という文字を見出して固唾を呑んでしまいました。四歳と六歳の子供、そして妊婦を殺したのか。卒塔婆の一つに「惨死」と書かれていたのも印象的でした。
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 貧しげなよそ者をみんなで面白がって殺した、ついでに子供と妊婦も… そうとしか考えられません。この恐るべき非人間的な残虐性を、どう説明すればよいのでしょうか。言うまでもなくこうした残虐な行為は、後のアジア・太平洋戦争において、中国人をはじめアジアの人びとに対して繰り返されます。たとえば『中国の旅』(本多勝一 朝日新聞出版)におさめられている馮景亭さんの証言を紹介しましょう。
 強姦された二人の女性のうち、気娘は局部に箒(ほうき)をさしこまれ、さらに銃剣を突き刺されて殺された。妊婦のほうは腹を銃剣で切り裂かれ、胎児が外にえぐりだされた。放火された自分たちの家々に火の手が大きくあがるのを見て耐えられなくなった三人の男が、日本兵のかこみを命がけで突破して家の方へ行こうとした。行かせまいとする兵隊たちともみあいになったが、まもなく三人は燃えさかる一軒の中へ押しこまれ、扉を外から閉められた。ほとんどその直後にその家は屋根が焼けおちた。二歳の男の赤ん坊がいた。騒ぎに驚いて大声で泣きだした。抱いていた母親から赤ん坊を奪った兵隊が、火の中へ放りこんだ。泣きさけぶ母親は、水路の中へ銃剣で突き落された。
 この非人間的な残虐性から目を逸らさず、真っ向から受け止め、そして何故なのかを考え抜くこと。自分の課題としていきたいと思います。さもないと、これからもずっと私たちは、さまざまな形での"残虐性"に苛まれ続けることになってしまいます。
思うに、歴史を修正したがる方々は、日本人のもつこうした"残虐性"を認めたくないのかもしれません。でも仕方ありません、歴史的事実なのですから。

 さてこの事件で、犠牲者たちは利根川に投げ込まれ、遺体はおろか遺骨も見つかっていません。そして事件の全容がほぼ明らかになった現在でも、いまだ遺族に対して謝罪がなされていません。福田村(現・野田市)でも田中村(現・柏市)でも、一切の記録・資料を残しておりません。
 ただ、2000年に、「福田村事件真相調査会」(香川県側)と「福田村事件を心に刻む会」(千葉県側)が設立され、多くの方々からの浄財を得て、結実したのがこの慰霊碑です。なおその過程で、香川県から碑の裏に「関東大震災直後の1923年9月6日、おりからの流言蜚語を信じ、行政機関によって組織された旧福田村、田中村の自警団によって、ここ三ツ堀において、香川県三豊郡出身の売薬行商人一行十名が非業の死を遂げた。私たちは、二度と歴史の過ちを繰り返さぬことを誓い、ここに芳名を記し、追悼の碑を建立するものである」という一文を刻む提案があったそうです。しかし結果的に刻まれませんでした。ただ裏面の左側にやや広めの空白部分があり、いつの日にか、この一文を刻むことを想定しているのかもしれません。

 そして夕闇が刻一刻と心身を包みゆく中、一心不乱にブロンプトンのペダルをこいで梅郷駅に到着。一路、帰途につきました。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-29 08:11 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(9):なぎの原(16.12)

 そして本に掲載されている地図を頼りに二十分ほどペダルをこぐと、虐殺の現場となった「なぎの原」に着きました。しかし私有地か共有地なのでしょうか、柵で囲われており中には入れません。
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 ここが先述した『震災日記』に"又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定"と記されていた場所です。合計六人の朝鮮人が殺害されてここに埋められました。

 合掌

 『地域に学ぶ関東大震災』によると、聞き取り調査によってこの事件が明らかにされたのが1973年、それ以来住民の方々は毎年慰霊祭を行なわれているそうです。それから25年経った1998年9月24日に「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」によって遺骨の発掘が行なわれました。大竹米子さんによると、地域住民を説得するのに時間がかかり、記録を残さず写真を撮らない、マスコミなど関係者以外は入れない、という条件で行なわれました。そして土に還る直前の遺骨六体が見つかりました。大竹さんによると、遺体はバラバラではなくきちんと重ねられて埋められていたそうです。なお発掘の費用は、「自分たちの問題だから」ということで全額この地区の方々が負担しました。
 そして遺骨を火葬にし、高津観音寺の納骨堂に納め、1999年には「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建立されましたが、その費用も地区の方々が負担したとのことです。なお実行委員会は、慰霊碑の裏に事件の概要を刻んで欲しいと望みましたが、「軍隊にやらされたとはいえ、今でも辛い」という住民の方々の思いにより、それはなされませんでした。

 ブロンプトンにまたがり十五分ほど走ると、大和田新田にある「無縁仏之墓」に着きました。1972年に付近の住民によって建てられた墓で、このあたりで交通事故で行き倒れになった無縁の方との合葬だそうです。なお石の下に骨はおさめられていません。碑文には「大和田新田下区有志一同建立」とありました。

 合掌

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-28 08:25 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(8):八千代(16.12)

 それではこの事件に関する慰霊碑を訪ねましょう。これらは広範囲に点在しているので、ブロンプトンの威力が発揮されました。まずは八千代中央駅からほど近い萱田長福寺にある「震災異国人犠牲者 至心供養塔」です。幸い、境内をお掃除されていた女性がいらっしゃったので場所を尋ねると、墓地の一番奥にあるとのこと。指さす方向に向かって進むとすぐにわかりました。
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 1983年に建立、村の共同墓地移転の際、そこに埋められていた三人の朝鮮人の遺骨が移され、納められています。事件を目撃した住民の提案で建てられました。

 合掌

 そして京成線のガードをくぐって八千代市市民会館へ。入口右側に中台墓地があり、中へ入ると「無縁供養塔」がすぐに見つかりました。関東大震災七〇周年記念集会で、目撃者が証言した後、1995年に地区の発意で建立されました。これだけでは朝鮮人慰霊のためとはわかりませんが、後ろにまわると、卒塔婆の一つに「関東大震災朝鮮人犠牲者」と記されていました。
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 合掌

 さて、さすがに空腹になりましたが、渡りに舟、すぐ近くにラーメン屋「こてメン堂」と和食「味の民芸」がありました。ラーメン屋は店内で行列ができていたのでパス、それにしても風変わりな店名ですね。こてメン堂…こてめんどう…こて・めん・どう… そうか! (パンッ) 篭手・面・胴、剣道の決まり手ですね。ま、それはともかく隣にあった「味の民芸」で皿うどん定食をいただきました。
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 ふたたびブロンプトンにまたがって、近くにある村上橋を渡って土手をすこし左に走ると、「戦災水難横死萬施餓鬼流灯供養菩提也」と記された角塔婆があります。"横死"という表現ですが虐殺された朝鮮人を慰霊するためのもので、八千代仏教会が毎年たてかえているそうです。
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 合掌

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2017-04-27 06:31 | 関東 | Comments(0)