仁淀川編(39):大渡ダム(15.8)

 部屋で食休みをし、午前九時ごろ宿を出発。山際の坂道をのぼっていくと、「国道439」という道路標識がありました。ここも「神楽ロードよさく」だったんだ。
c0051620_17331915.jpg

 すこし歩いていくと、茶畑と緑茶加工施設がありました。
c0051620_17333361.jpg

 さらにのぼっていくと大渡ダムや仁淀川や茶霧(さぎり)湖を見晴らせるようになります。荷台に二人の若者を乗せた軽トラックが走り抜けていきましたが、祭の準備でしょう。久米島でも同じ光景をみた記憶があります。道路交通法違反でしょうが、固いこと言いっこなし。すこし先に「道の記 勤王志士脱藩の道」という解説板がありました。
c0051620_17341379.jpg

 後学のために転記します。
 この仁淀村観光センター付近は地名を森の越といい、古来より近郷の交通はもとより、伊予・土佐の交易の道として利用されていた。
 仁淀村史には、養老2年(718年)ころまでは、久万官道も通っていたとの記述もある。又土佐勤王の志士脱藩の道として知られ、土佐勤王党那須信吾は、幕末の文久2年(1862)3月26日坂本龍馬、沢村惣之丞の梼原越え脱藩の際、養父俊平と共にその案内をした後、翌4月8日に時の参政吉田東洋を帯屋町で暗殺。那須信吾、大石団三、安岡嘉助らは伊野より御嶽を越え、この地を通り脱藩、那須信吾は脱藩の道筋を次のように書いている。「(前略)大平通り、御嶽絶頂に到り候ところ、谷々の桜花、高根の残雪と艶を競い咲き乱れ候らえども、無我無心に向(さき)を急ぎ、ゆかり有る森村に下り着き候えども、すべて人家をも叩かず、干飯(ほしいい)を喫(と)り、高瀬村を過ぎり、別枝に到り徳道の関を抜け沢渡りより船渡りし、黄昏前、漸く久万山の内。岩川に付き、止宿仕まつり候。(後略)」 龍馬脱藩を助けた信吾は、その翌年天誅組に参加して吉村寅太郎らと行動を共にし、山和鷲家口の戦いで闘死している。その翌年俊平は、禁門の変で京都境町門に死んでいる。龍馬脱藩の成功の裏には、国事のために自分の命をも惜しまないこのような道案内者があったのである。
 この道を龍馬が歩いたのか、感無量です。蛇足ですが、これまで龍馬関係の史跡にいろいろと出会ってきました。寺田屋海軍操練所跡幕末志士葬送の道千葉さな子の墓誕生地の碑龍馬像浜川砲台いろは丸展示館延壽王院亀山社中跡御手洗「竜馬がゆく」碑新婚旅行の地宿泊所跡下関、よろしければご笑覧ください。

 本日の一枚です。
c0051620_1740026.jpg

# by sabasaba13 | 2018-09-26 06:21 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(38):大渡ダム(15.8)

 午前六時に目覚め、いつものように物干し台に出ると、今日は薄曇り。向こう岸のお宅の方が、窓から釣り糸を垂らしていました。目と目が合ったので、「おはようございます」と会釈をしました。
c0051620_173218.jpg

 さて本日は日曜日、大崎までのバスはすべて運休ですので、大渡ダムのあたりを散策することにしました。朝食をいただき、『高知新聞』(2015.8.16)を読んでいると、「小社会」というコラムに素晴らしい文があったのでぜひ紹介します。
 戦後70年目の「8・15」が過ぎた。しかし先の戦争では、日本の敗戦を知りながら「徹底抗戦」を叫んで山中などに立てこもった人たちもいた。作家の故山口瞳さんもその一人だ。当時、18歳の陸軍2等兵で山陰地方の山の中で終戦を迎えた。所属した部隊はそのまま1カ月以上そこにいた。「兵隊は皆が去勢され、日本の女性は全て凌辱される」という流言飛語が流され、隊の全員がそれを信じたからだ。「いまだから笑って話せるのであって…」と、58歳になった山口さんは随筆に書いた。去勢されるときの恐ろしさ痛さを毎夜思い描いた。実際には何の沙汰もなく、「断固抗戦」を叫んでいた上官もそのうち「相手は文明国家だから、そんな野蛮なことはやるめえ」となった。この経験から山口さんは、戦後の「仮想敵国」論やどこかの国を「脅威」とみなす論などに強い不信感を持った。日本が武器を捨てて「マルハダカ」となる無抵抗主義を持論とし、「もし、こういう国を攻め滅ぼそうという国が存在するなら、そういう世界は生きるに値しない」とまで言い切った。根拠のないデマや中傷が流されたり、ときの政権が「〇〇国」脅威論をあおったりすることは現在にもある。特にネット時代には、そんな情報もあっという間に拡散する。山口さんのように、終戦の日は過ぎても「終わらぬ戦争」を生きた人も多かったろう。学ぶべき教訓はまだある。
 無抵抗主義、非武装中立、いいなあ。自衛隊を国営国際救助隊「雷鳥」に全面改組し、武器の生産と輸出入を禁止し、アメリカ軍にはお引き取り願って、在日米軍基地をすべて撤廃する。考えただけでもワクワクしてきます。それでも、日本を攻め滅ぼそうとする国があるとしたら…やっぱりアメリカ合州国だろうなあ。
# by sabasaba13 | 2018-09-24 08:59 | 四国 | Comments(0)

言葉の花綵182

 一張一弛 (徳川斉昭)

 理性に訴えかける広告を作っても、人類の四パーセントにしかアピールできない。(unknown)

 強欲と憎悪と冷酷さよりも、もっとましなものが世界に存在するはずだった。(ドス・パソス)

 戦争は国家の健康である。(ランドルフ・ボーン)

 歴史はお前たちをこう呼ぶだろう。「あのどうしようもない愚か者ども」と。(『戦うクリスチャンたち』)

 体裁を繕ういとまもない試行錯誤の末、かろうじて出来上がり、なんとか成功したこのシステム…、明治国家日本。いきなり競技参加を強制され、じたばたと脂汗を流した末、まぐれ当たりで合格できたかのごとき格好悪さを隠蔽したい…。こうしたシステムでまとまるやり方に千数百年来の必然があったのだと思いこむためには、我らの「国語」が「国史」が「国文学」が、万世一系の皇室が、どうしても必要だったのである。(浅羽通明)

 やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ
 話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず
 やっている 姿を感謝で 見守って 信頼せねば 人は実らず (山本五十六)

 たった一人の子供といえども、その子の苦しみを代償にして社会全体の幸せを得ていいのだろうか? (ドストエフスキイ)

 辛い時には人間らしい同情や尊敬の念はどんなお金よいも得がたいものだ。(『ボタン穴から見た戦争』 ヴォロージャ・コルシュク)

 持続可能な成長をしたければ、国は兵士ではなく学生を増やすべきではないか? (バーニー・サンダース)

 冥府が門を開け、最も卑劣で、最も醜悪な、最も汚れた精神を解き放った。(カール・ツックマイヤー)

 どの世代も一度は戦争を体験すべきだ。(アドルフ・ヒトラー)

 力を持たぬ者は生きる資格を失う。(アドルフ・ヒトラー)

 正しかろうが不正だろうが、われらは勝利しなければならぬ。そして勝利してしまえば、そのやり方をわれらに問う者などいようか。(アドルフ・ヒトラー)
# by sabasaba13 | 2018-09-22 06:21 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『焼肉ドラゴン』

c0051620_628395.jpg 『焼肉ドラゴン』という映画の予告編を何回か見たのですが、なんだかなあ、「三丁目の夕日」みたいだなあと臆断しまったく食指が動きませんでした。ところがぎっちょん、原作はさまざまな賞を総なめした演劇だったのですね。作者は鄭義信氏、『赤道の下のマクベス』も彼の作品でした。その彼が初監督に挑んだのが本作。さらに『週刊金曜日』(18.6.22)に、この映画に関する彼のインタビューが掲載されていました。
 芝居を観た人が、生きて泣いて笑った人(在日日本人)がいたことを誰かに語り、僕が死んでも再演されることで語り継がれ、人々の記憶に残っていくでしょう。それは「記録する演劇」であり、歴史認識を変えることになるかもしれません。(p.56)
 うーん、良いこと言うなあ。たしかわが敬愛するジョージ・オーウェルがどこかでこんなことを書いていました。
 私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。
 兎の逆立ち、耳が痛いですね。「朝鮮人=悪」などという下劣なプラカードを掲げてヘイト・デモをしている方々に届けたい言葉です。そうした忌むべき精神的習慣をなくすには、どんな集団でもひとりひとりの人間に名前があり、顔があり、暮らしがあり、生きて泣いて笑っているのだと知ることです。鄭氏はそれを演劇で、そして映画で表現しようとしているのだと思います。これは見に行かなくては。

 好月好日、山ノ神を誘って「ユナイテッドシネマとしまえん」に観に行きました。まずは公式サイトからストーリーを紹介します。

 万国博覧会が催された1970(昭和45)年。高度経済成長に浮かれる時代の片隅。関西の地方都市の一角で、ちいさな焼肉店「焼肉ドラゴン」を営む亭主・龍吉と妻・英順は、静花、梨花、美花の三姉妹と一人息子・時生の6人暮らし。失くした故郷、戦争で奪われた左腕。つらい過去は決して消えないけれど、"たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる"それが龍吉のいつもの口癖だった。そして店の中は、静花の幼馴染・哲男など騒がしい常連客たちでいつも賑わい、ささいなことで、泣いたり笑ったり―。
 そんな何が起きても強い絆で結ばれた「焼肉ドラゴン」にも、次第に時代の波が押し寄せてくるのだった―。

 いやあ、素晴らしい映画でした。時にはいがみ合い、時には助け合いながら、貧困と差別の中で懸命に逞しく生きる在日コリアン家族を、キム・サンホ(龍吉)、イ・ジョンウン(英順)、真木よう子(長女・静花)、井上真央(次女・梨花)、桜庭ななみ(三女・美花)、そして大江晋平(長男・時生)が見事に演じ切っていました。中でも「南無阿弥陀仏、大観世音菩薩、つけをためている連中が、全部払ってくれるように」と仏壇に祈る、ユーモラスでおおらかな英順がいい味でした。在日コリアンにも、私たちと同じように、顔があり、名前があり、喜怒哀楽があり、人生があるというごくごく当たり前のことを思い知らせてくれました。
 そして「小さな焼肉屋の、大きな歴史を描きたい」と語る鄭監督の言葉通り、この映画を十全に理解するには歴史を知る必要があります。龍吉は隻腕なのですが、これは日本軍兵士として戦わされた結果です。1910(明治43)年に日本に併合された朝鮮では、1944(昭和19)年から徴兵制が施行され、21万人の朝鮮人が戦場に送られました。龍吉もその一人だったのですね。
 さりげなく紹介されますが、彼は済州(チェジュ)島出身です。済州島は第二次世界大戦末期に日本によって要塞化され、島の住民はアルトル飛行場という巨大な日本海軍の航空基地建設のため強制徴用されました。この飛行場は1937年、日本軍の南京への爆撃機が出撃した前哨基地となりました。日本から解放された直後から三年間、島はアメリカ陸軍司令部軍政庁の直接支配下に置かれました。そして朝鮮半島を分断しようとするアメリカの動きに島の住民が抵抗し、蜂起した時に、アメリカは市民の無差別な虐殺を直接命令しました。記録されているだけでも3万人が殺され、87の村が消滅させられました。いわゆる四・三事件です。おそらくこの事件に関連して、龍吉は故郷に帰れなくなったのでしょう。
 日本の植民地支配から解放された後、約60万人の朝鮮人は日本に残りました。植民地支配によって生活を破壊されて故郷を離れなければならなかったわけですから、ただちに朝鮮半島で暮らせるようにはなりません。この人々を管理するため、1947(昭和22)年5月に昭和天皇の最後の勅令として「外国人登録令」が制定されます。朝鮮人などを外国人とし、憲法上の国民の権利義務の枠組みから排除するための法令でした。
 さらに1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、日本在留の朝鮮人と台湾人は日本国籍を失う、と日本政府は一方的に宣言しました。これをもって、在日朝鮮人は、公営住宅入居の権利を含む主要な社会福祉を受ける権利を失います。戦後の数十年間に日本の福祉制度が発達していくなかで、こうした排除の規定はますます強化されていきました。たとえば、1959(昭和34)年に発足した国民健康保険と国民年金制度では、日本在住の外国人は除外すると明確に規定されています。さらに在日朝鮮人は外国籍のゆえに医療などの専門職から排除され、公務員の職からも閉め出され、凄まじい打撃を蒙ることになりました。こうした没義道な行為をした政府と、それを批判しなかったほとんどの有権者、忘れてはいけない歴史的事実です。龍吉をはじめ、映画に登場する在日コリアンたちの貧困を理解する重要なポイントです。
 こうした日本政府による差別・いじめ・嫌がらせが、子どもたちに影響しないわけがありません。長男の時生は、学校で、背中に「キムチ」、机に「チョーセンへ帰れ」と書かれるなど凄惨ないじめにあって失語症となり、最後は死に追い込まれます。
 こうした歴史を知らないと、行政から立ち退きを命じられた龍吉が絞り出すように吐いた言葉、「腕を返せ、息子を返せ」「働いた、働いた。働いた、働いた。働いた、働いた。働いた、働いた」が骨身に沁みてきます。妻・英順の「あたしはまだ頑張れるよ。今夜、息子をつくる?」という言葉が、一抹の希望と微笑みを与えてくれますが。

 なお長女・静花と幼馴染・哲男(大泉洋)夫婦が北朝鮮に移住するというエピソードが挿入されますが、これは「北朝鮮帰国事業」と関連するのでしょう。詳細については、『北朝鮮へのエクソダス』(テッサ・モリス=スズキ 朝日文庫)をご一読ください。

 面白く、悲しく、奥深く、そして考えさせられる素晴らしい映画でした。お薦めです。
# by sabasaba13 | 2018-09-20 06:30 | 映画 | Comments(0)

仁淀川編(37):池川(15.8)

 せっかくなので、長パンを膝までまくり、土居川に入ることにしました、ブヨのいないようだし。うーん、このアングルから見る川と山の景色は素晴らしい。近くでは、家族づれが釣りに興じていました。ほんとに「山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ」です。
c0051620_1655122.jpg

 それでは町をすこし散策してみましょう。酒屋の自動販売機では、日本酒四合瓶を売っていました。さすがは「鯨海酔侯」が藩主をつとめた土地柄です。あるお宅には昭和50年8月17日に襲来した「台風五号記録碑」があり、最高水位点および「死者二名 全壊三五戸…」という被害状況が刻まれていました。池川小学校では清流まつりの準備が酣、これから鳴子おどり、池川神楽、椿山太鼓踊り、安居神楽、餅まき、花火大会というイベントが目白押し、見たいのはやまやまですが宿に帰れなくなってしまう。後ろ髪を引かれながら16:12発のバスに乗りました。16:22に大崎着き、16:27発のバスに乗り換えて16:36大渡に到着。
c0051620_16552247.jpg

 沈下橋を渡って森に着き、「はしもとストアー」で夜食用にカツオタタキを買いましたが、これは宮城県産でした。近くには"主権者国民、またその象徴たる天皇をバカにした傍若無人の"首相・安倍上等兵が、私たち国民から目を逸らし、媚びるような上目遣いで「日本を、取り戻す。」とのたもうポスターが貼ってありました。「日本を、(国民から、官僚・政治家・財界の手に)取り戻す。(そして私物化する)」とはっきり明言してほしいものです。でも上目遣いで誰を見ているのだろう? もちろんアメリカ合州国。ん? よく見ると「自衛隊募集相談員」という小さなプレートが、上等兵の左についています。山田くん、座布団三枚!
c0051620_16553853.jpg

 そして「茶霧湖まつり」というポスターもあり、明日の夜、大渡ダム公園で花火大会があるようです。もし元気があったら行ってみましょう。宿に戻って風呂に入り、夕食をいただきました。部屋に戻ってベッドに寝転び読書三昧、息抜きに物干し台に出て夜風をあびながら紫煙をくゆらし、「ダバダ火振」を飲みながら就寝。♪人生楽ばかり♪
c0051620_16555377.jpg

 本日の二枚です。
c0051620_1656131.jpg

c0051620_16562828.jpg

# by sabasaba13 | 2018-09-18 06:24 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(36):池川(15.8)

 北浦橋を渡ると、清流・土居川を一望できます。そして川で遊ぶたくさんの人びとや子どもたちも。中でも「アカイセ」と呼ばれる遊泳場では、大きな岩で出来た天然の飛び込み台から、思い思いにダイブする子どもたちを見ることができます。郡上八幡でも見かけましたが、無邪気に真剣に川で遊ぶ子どもたちの姿を見るのはいいものです。「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」ですね。
c0051620_16512155.jpg

 そして清流まつりのイベント、「丸太川上りレース」が始まりました。三人一組になって、川に浮かべた丸太をロープで引っ張っていくというレースです。みなさん和気藹々とレースに興じられていました。別のところでは、丸太乗り競争が行なわれていました。花火の準備も着々と進んでいます。
c0051620_16514080.jpg

 川原には「天明逃散集合の地」という看板があったので転記します。
 天明2年(1782)から全国で大飢饉が始まり農民の暮しは困窮の度を増す中、更に池川の農民は藩命により紙の自由売買が禁止された上に年貢取立の重圧に苦しんだ。困惑した池川・用居の農民は松山藩(現久万高原町菅生山大宝寺)に逃散を決意。ここ"安の川原"に男子601人が集まり池川紙一揆を起こした。
 その顛末ですが、大宝寺住職・快豊の骨折りで逃散の罪は問われず、紙の自由販売も元通り許されたそうです。ああよかった。
 また種田山頭火の句碑「野宿 わが手わが足 われに あたたかく寝る」もありました。仁淀川町のサイトによると、1939(昭和14)年、晩年の種田山頭火は四国の歩き遍路に出てこの地を訪れ、思いがけない歓待を受けた喜びを日記に記し、この句をつくったそうです。「山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ」という句もいいですね、実感します。
c0051620_165377.jpg

 本日の二枚です。
c0051620_16533535.jpg

c0051620_16535065.jpg

# by sabasaba13 | 2018-09-16 08:46 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(35):岩屋川渓谷・池川(15.8)

 朝六時に目が覚めましたが、今日も今日とて好天です。物干し台に出て新鮮な空気を吸い、紫煙をくゆらしました。もう橋の上で釣りをしている人がいます。朝食をいただき、部屋で一休み。
c0051620_16225889.jpg

 午前九時半に約束どおりタクシーが来てくれました。十数分で岩屋川渓谷の入り口に到着。ここはなかなかワイルドでした。いちおう遊歩道があるのですが、草むしていたり、消失していたり、足場が悪かったりと、気楽に歩ける道ではありません。さらに巨岩の上を歩いたり、その隙間をくぐったり、冒険心をくすぐられる渓谷です。そのせいか、観光客もほとんど見かけず、雄渾な渓谷美と清冽な仁淀ブルーを十二分に楽しむことができました。
c0051620_1623191.jpg

 さて、午後は池川に行くので途中で引き返し、「秋葉口」バス停へと向かいます。仁淀川の流れる美しい風景を楽しみながら歩き、橋を渡って向こう岸へと向かいます。おっ釣り舟が浮かんでいるぞ、地元の漁師さんでしょうか。なお、ここにも橋の遺構らしき物件がありました。
c0051620_16233831.jpg

 12:02のバスに乗って、12:25に大崎着、12:27発のバスに乗り換えて12:35に池川に到着しました。まずは「いけがわ439交流館」で昼食をいただきましょう。そう、この道は国道439号線、またの名をヨサク、またの名を酷道、またの名を神楽ロードと言います。「土佐ジローの卵かけご飯」を注文し、濃厚な卵の味を堪能しました。"土佐ジロー"が気になったので、いまインターネットで調べたところ、高知特産の地鶏であることが判明しました。高知原産の土佐地鶏の雄とアメリカ原産のロードアイランドレッドの雌をかけあわせた一代雑種として誕生。限りなく自然に近い環境で育てられてのびのびと育った土佐ジロー、なるほど美味しいわけだ。そして「仁淀川町の緑茶」ペットボトルを購入。
c0051620_1624360.jpg

 これまでたくさんの茶畑を見かけましたが、最近読んだ『自由民権運動 〈デモクラシー〉の夢と挫折』(松沢裕作 岩波新書)で、その理由がわかりました。以下、引用します。
 …彼ら(※立志社)の主な目的は、藩という所属すべき団体を失ってしまった士族の没落を防ぎ、その政治的な影響力を維持する点にあった。片岡健吉ら高知出身の軍人たちも、板垣らとともに、政府から離れて高知に帰郷してきた。藩を失い、さらに政府での官職も追われた彼らにとって、生き延びるために結社をつくることは切実な意味をもっていた。
 その切実さを物語るのが、結成当時の立志社の主要な活動が経済的活動だったという事実である。(中略)
 これ以外にも立志社は高知県内で製茶業を営んだり、政府から山林の払下げを受けたりするなど、士族の生活を支えるための士族授産事業をおこなっている。経済的事業以外に「立志学舎」という学校教育事業もあった。設立当初の立志社はなによりも高知の士族たちが新しい時代を生き延びるための組織だったのであり、経済的事業はその前提であった。(p.53~5)
 なるほど、士族授産事業の一環だったのか。なお交流館には「日本一の分校で一緒に青春しよう! 高知県立追手前高等学校吾北分校」というポスターが貼ってありました。もう一枚のポスターは「第58回池川清流まつり」で、8月15日(土)に開かれ…ん?…今日じゃありませんか。こいつはついています。
c0051620_16251942.jpg

 本日の七枚です。
c0051620_16254464.jpg

c0051620_16255850.jpg

c0051620_16261743.jpg

c0051620_16263634.jpg

c0051620_16273212.jpg

c0051620_1628188.jpg

c0051620_16281923.jpg

# by sabasaba13 | 2018-09-14 06:19 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(34):中津渓谷(15.8)

 ジュースを飲みながら観光パンフレットを見ていると、「四国の神楽ロード、R439(よさく)」という記事がありました。これは興味深い、後学のために転記します。
 徳島市から剣山の麓を経由し四万十市内まで、四国山地を東西に結んで走る古くからの道が、国道439、通称ヨサク。全長は342.4km、仁淀町の中心部を通り、四国カルスト山系へと続くおなじみの道です。国道にもかかわらず狭い所が多いのですが、酷道と呼ばれて全国のファンに親しまれています。
 このサヨクに沿って、高知の神楽が残っていることは、道が運んできた文化の豊かさと言えるでしょう。大豊町に伝わる岩原・永渕の両神楽、いの町の本川神楽、仁淀町の安居神楽、池川神楽、名野川磐門神楽、そして梼原町の津野山古式神楽もやはり、ヨサクとともにあります。四国の神楽ロード・ヨサクよ、いつまでも。
 そしてバス停「名野川」へ、♪バスを待つ間に涙を♪拭かず、あたりの風景を写真におさめました。そういえば、中津大橋から川原を見下ろすと、笑う魚のような川石があるとの情報を得ています。どれだ…あった、あれだ。
c0051620_16182342.jpg

 「ようこそ中津渓谷へ」という看板にはパラグライダーをする人形がついていたので、このあたりはパラグライダーを楽しめるところなのでしょう。13:44発のバスに乗り、車窓を流れる仁淀川やダムや発電所を眺めていると、橋の遺構らしき物件がありました。気になりますね。
c0051620_1618393.jpg

 そして13:46に大渡に着きました。バス停の近くに、立派な角柱をしつらえたトンネルがありましたが、これも気になる物件です。昨日発見した沈下橋をふたつ渡って森へと向かいますが、橋のたもとで楽しそうに川遊びをしている家族を見かけました。
c0051620_16185991.jpg

 十五分ほどあるいて宿に到着。部屋に戻って物干し台に出ると、ここでも釣りをする人、水遊びをする人、水中メガネを使って何かを獲っている人、三々五々みなさん長者川と戯れています。ほんとうに豊かな川なのですね。
c0051620_16191349.jpg

 夕食まで宿の周辺をお散歩。例の「水切り大会」選手募集のポスターが貼ってありましたが、あるお宅には「石投いで」という貼り紙。まさか家に石を投げつける不届き者がいるのでしょうか。
c0051620_1619346.jpg

 水槽のウナギに挨拶をして、さあ夕食をいただきましょう。本日は食堂貸し切りの宴会があるため部屋での夕食、地元産の魚や野菜に舌鼓を打ちました。そうそう、明日は岩屋川渓谷にタクシーで行くので、山ノ神の携帯電話で予約をしておかなければ。午前九時半に宿に来てもらうようにしました。
c0051620_16195585.jpg

 ベッドに寝転んで読書三昧、息抜きに物干し台に出て夜風をあびながら紫煙をくゆらし、「ダバダ火振」を飲みながら就寝。♪時間よ止まれ♪

 本日の三枚です。
c0051620_16203225.jpg

c0051620_16205399.jpg

c0051620_162171.jpg

# by sabasaba13 | 2018-09-12 06:30 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(33):中津渓谷(15.8)

 さて本日は中津渓谷を散策することにしましょう。朝食の時、宿の女将と談笑した際に、「大渡」バス停まで歩いていって、バスで中津渓谷に行く計画だと話すと、車で送ってくれるという嬉しいオファーがありました。かたじけない、有難くご厚情に甘えます。それにしても高知の方々のホスピタリティには頭が下がります。やはりお遍路さんをもてなすという伝統文化のなせる業なのでしょうか。出発の時刻まで宿の周辺を散策、長者川にかかる橋の上から写真を撮影。おっ妖気漂うマネキンにご令嬢がいることに気づきました。
c0051620_1684747.jpg

 そして午前10時、女将の車に乗せてもらい、十分ほどで中津渓谷に着きました。国道33号線から坂をのぼると、すぐそこが渓谷の入り口でした。中津山(明神山)を源に流れる中津川がつくりだしたのが中津渓谷。約2.3キロにおよぶ遊歩道が整備されているので安心して歩けます。ブヨもいないし。巨岩や奇岩を縫うように歩きながら、美しく青い水のさまざまな表情を堪能。
c0051620_16933.jpg

 途中にあった展望台からは、畳々とした山なみを眺望することができました。
c0051620_1692339.jpg

 そして神秘的な青い水をたたえる竜宮渕へ。
c0051620_1694262.jpg

 遊歩道の最上流部は、渓谷の中で最も幅が狭く、険しい岩盤が切り立っています。その岩盤をえぐるようにしてできているのが、高さ約20mの石柱です。かつては鳥しか近づけなかった秘境ですが、遊歩道が整備されて手軽に見られるようになったということです。中津渓谷のハイライトは雨竜の滝。多方向へ勢いよく吹き出す水は落差20m、その雄大な姿から「竜吐水」とも呼ばれているそうです。雨が降らなかったためか水量が少ないのがちょっと残念でしたが、間近で自然がつくりだした美を愛でることができました。
c0051620_1610121.jpg

 というわけで約二時間半、渓谷美と仁淀ブルーを心ゆくまで満喫。ここ中津渓谷はお薦めですね、ブヨもいないし。入り口のところにある「中津渓谷ゆの森」という温泉・宿泊施設に入って昼食をいただこうとしましたが、大勢の観光客がおしよせて三十分待ち。はい、やめやめ。「土佐地産地消ドリンク とまとぶんたん」を飲んで一休みするだけにしました。
c0051620_16102055.jpg

 本日の九枚です。
c0051620_16113397.jpg

c0051620_16114725.jpg

c0051620_1612312.jpg

c0051620_16121996.jpg

c0051620_16132861.jpg

c0051620_16134694.jpg

c0051620_16142096.jpg

c0051620_16143729.jpg

c0051620_16145513.jpg

# by sabasaba13 | 2018-09-10 05:51 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(32):森(15.8)

 午前六時ごろに目覚めて物干し台に出て、朝日と長者川にご挨拶。今日も天気は良さそうです。朝食をいただき、食堂に置いてあった『高知新聞』(2015.8.14)を読んでいると、「奇妙な敗戦国 日本」という記事がありました。
c0051620_20312160.jpg

 以下、引用します。
「永続敗戦論」著者 白井聡さんに聞く
 明日の15日で70年になる「戦後」とは、どういう時代だったのだろう。
 一昨年、「永続敗戦論」(太田出版)を出版し、大きな議論を巻き起こした政治学者の白井聡さん(37)=京都精華大学講師=は、こう訴えた。「敗戦という事実をごまかし、戦後も対米従属がずっと続いている」-。
 焦土から再出発し、急速な経済発展を遂げてきた日本。一方で、2011年の東日本大震災と福島第1原発事故をめぐる混沌とした状況は「この国の『統治構造』を露呈させた」という。
 白井さんの主張する本当の統治構造とは、対米従属の特殊性にある。それはどんなかたちで、どこに存在し、どうして続いてきたのか。白井さんは「これほど奇妙な敗戦国は世界史上、類を見ない」と言う。その核心である「永続敗戦レジーム(統治の枠組み)」について、じっくり語ってもらった。
 内容については、拙ブログに掲載した書評を見ていただきたいのですが、現在の日本に対する歯に衣着せぬ舌鋒鋭い批判には、共感を覚えます。例えば…
 …現在問題となっているのは、われわれが「恥知らず」であることによる精神的堕落・腐敗のみならず、それがもたらしつつあるより現実的な帰結、すなわち、われわれが対内的にも対外的にも無能で「恥ずかしい」政府しか持つことができず、そのことがわれわれの物質的な日常生活をも直接的に破壊するに至る(福島原発事故について言えば、すでに破壊している)ことになるという事実にほかならない。(p.50)
 なお白井氏の最近作『国体論 菊と星条旗』(集英社新書0928)と、矢部宏治氏の『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書2439)と『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(加藤典洋 幻戯書房)を読むと、この国と国民が骨の髄まで腐敗し劣化していることが、嫌になるほどよくわかります。たとえば前掲書の中で加藤氏はこう述べられています。
 ここではキリがないので例は出さないが、明治以来の憲政史上、たぶん軍国主義下を含んで、現在の安倍内閣ほど、主権者国民、またその象徴たる天皇をバカにした傍若無人の内閣はないだろう、と思われる。とはいえ理解を絶するのは、そうした内閣を奉戴して、世論調査でその支持率がなお半数を超えている、というもう一つの事実、国民というものに関する憲政史上例の少ない事実である。
 個人の自由、平等、人権といった戦後的な価値だけではない。国家主権、国の独立、「愛国心」、さらに「廉恥心」といったかつての国家主義、復古主義、保守主義に通底する感覚までが、この政府にあってはうっちゃられている。しかも、そのことへの国民の反応は鈍い。メディアが悪いというよりは、メディアも野党も内閣も、こぞってこの世論調査の主、国民動向にしたがって動いている。その結果が、これなのである。(p.315)
 そうそう、余談ですが、最近読んだ『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(孫崎享 講談社現代新書)の中に、高知新聞に関する話が出てきました。以下、引用します。
 (高知新聞は警察の)捜査費問題を2003年7月に報道します。…警察の裏金問題というのは、大変なエネルギーが必要だったようです。…(担当の記者は)書くか、書かないかで究極の選択を迫られていた。警察幹部から「書いたらおまえは敵になる」「尾行する」「携帯電話の履歴を調べる」と言われ、「書かなかったら一生おまえにネタをやる」と言われます。そこで彼は悩む。…書いたら…他社がガサ入れに行っているのに、高知新聞だけが知らないということもあるかもしれない。反対に、書かなかったら…。おそらく本当にネタを一生くれるだろう。彼が迫られたのは、新聞社員として生きるのか、新聞記者なのか、ということだったと思います。(中略)
 社員として出世しようと思ったら、会社の嫌がる原稿は、会社の思いを忖度して取り下げるという選択があったかもしれません。捜査費のときにも、社員として出世しようと思えば警察と取り引きする手もあった。(中略) 抜かれないため、組織の中で何とか生き残っていくための仕事をやって、それだけで手いっぱい。(中略) しかし自己保身のために忠実な会社員の道を選んだら、つまり新聞記者を捨ててしまったら、新聞記者になった意味はありません。(依光隆明高知新聞社編集局次長「新聞記者なのか、新聞社員なのか」 『朝日総研リポート、2008年5月』)  (p.106)
 もちろんこれは高知新聞だけの話ではないでしょう。この国と国民がここまで劣化した責任の一端は、ジャーナリズムにあると思います。新聞社員ではなく新聞記者として、社会の木鐸、炭坑のカナリアとしての重責を果たしてほしいと強く望みます。
# by sabasaba13 | 2018-09-08 06:21 | 四国 | Comments(0)