『WHO?』

 『ヒポクラテスの盲点』と同じく、日本政府のコロナ対策およびワクチン接種の強要を分析し、批判するドキュメンタリー映画『WHO?』がアップリンク吉祥で上映されていました。これもぜひ観てみたい作品です。公式サイトから紹介文を転記します。

INTRODUCTION
 2024年9月28日、有明で大規模なデモがあった。横断幕やプラカード、皆が着るTシャツの文言は、政府が推奨するワクチン(と称する遺伝子製剤)やWHOに対する痛烈な批判が記載されている。実は、その年、有明だけでなく、数万人にも及ぶデモが同様に行われていたが、マスコミはその全貌を報道しようともしなかった。
これだけの人が集まっている異様な光景をなぜ取り上げないのだ? そして参加者たちはなぜこのようなデモを起こしているのか?
 このデモの参加者たちにインタビューをするにつれ、彼らがなぜ、このデモを起こすようになったのか、何に対して問題を提起しているのかが浮き彫りになっていった…。この映画は、コロナ禍になってからの全ての記録が閉じ込められているドキュメンタリーである。これは真実か、あるいは陰謀か? このコロナ禍を裏で操ってるのは誰なのか? 誰も触れてこなかった今世紀最大のやばい映画の完成である。

 まず去年行なわれた大規模なデモの映像には驚きました。しかも若い方々がかなり参加されています。意識してニュースを見るようにしていますが、この政府のコロナ対策やWHOを批判するデモについてはまったく知りませんでした。この大規模なデモを図的に報道しなかったメディア、あるいは報道させなかった権力についての疑念を感じさせるファーストシーンでした。
 そしてさまざまな明証をもって、医師や国会議員がコロナ禍の暗部を追求していきます。さまざまな手練手管を使ってワクチン接種を事実上強要する政府と厚生労働省。さらに彼らは、ワクチンによる副作用や健康被害、そして死をできるだけ軽微なものとして扱い、メディアにも協力させていきます。その背後に蠢くのは大手の製薬会社とWHO(世界保健機関)。
 なおコロナ・ウイルスはアメリカと中国が協力して開発した「生物兵器」だという主張もなされますが、その根拠についてはきちんと説明されていません。陰謀論的な雰囲気もただよいます。

 きちんと根拠をあげた事例と、陰謀論的な事例がいりまじり、すこしモヤモヤ感が残ります。でもすべてをクリアに説明し尽くすことは無理があるでしょう。すべてを疑い、自分で調べて、自分で考えてはいかがという起爆剤としての映画だと思います。一見の価値はあります。

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# by sabasaba13 | 2026-04-12 06:09 | 映画 | Comments(0)

『学校が教えないほんとうの政治の話』

『学校が教えないほんとうの政治の話』_c0051620_08174757.jpg どーも最近気になるのは、「政府あるいは政府が決めた国策に抗うな、黙って従え」という空気が日本全体に充満していることです。戦争に反対するな、大軍拡に反対するな、辺野古新基地建設に反対するな、高市首相を批判するな、政治的中立を忘れるな(=国策を黙認しろ)…etc.
 ま、それもひとつの意見であり思想であるので、その言明を否定する気は毛頭ありません。ただかなり危うい事態を招来する危険があるので、ぜひ反駁したいとおもいます。と偉そうなことを言いながら、むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに説明する能力がないのが無念です。幸いなことに、それを見事に語ってくれたのが斎藤美奈子氏です。政治的中立、左派と右派、個人主義と全体主義、ナショナリズム、いまの日本と世界を理解するために必須の概念を快刀乱麻の如く説明してくれる著書が『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマー新書)です。その切れ味たるや、京セラのセラミック包丁! 心からお薦めしたい本です。

 贅言はやめましょう。なにせ相手は、試合を放棄するは、クリンチで逃げ回るは、反則をくり返すは、真っ向から試合をするつものない輩です。斎藤氏のくりだすジャブとストレートとフックとアッパーカットが相手をリングに沈めるのを期待します。いや、人任せはよくないですね。私たちも斎藤氏のような力強くスピードのあるパンチを身につけ、われらを蔑ろにする方々に立ち向かいましょう。

 それでは、力強くスピードのあるパンチの数々を紹介します。

 政治参加の第一歩は、あなたの「政治的なポジション(立場)」について考えることです。政治的なポジションは、結局のところ、二つしかありません。
「体制派」か「反体制派」か、です。
「体制」とは、その時代時代の社会を支配する政治のこと。したがって「体制派」とはいまの政治を支持し「このままのやり方でいい」と思っている人たち、「反体制派」はいまの政治に不満があって「別のやり方に変えたい」と考えている人たちです。
 さて、あなたはどちらでしょう。
 どっちでもない? あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、特にこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。
 先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。
 世の人々はとかく「自分こそが中立で、まわりが偏っているのだ」といいたがります。あるいは「自分こそが正義で、まわりがまちがっているのだ」と考えたがります。とんだ誤解というべきでしょう。民主主義とは多種多様な意見を調整し、よりよい結論を導くためのしくみです。人の意見は多様なものである、という前提に立てば、どんな意見も少しずつ「偏っている」のが当たり前なのです。(p.19)

 しかもそれはどんどんエスカレートしていった。昭和に入ってからの日本は、いっちゃなんですが、もはや「頭のおかしい右翼の国」です。
 天皇は神格化されて「現人神」と呼ばれ、政府は天皇を神として崇める「国家神道」を国民に信じさせました。「神道は宗教ではない(国家の祭祀だ)」というのが政府の理屈でした。伊勢神宮を頂点とする神社は、だから宗教施設ではなく公的機関でしたし、戦死した軍人は英霊と呼ばれて、招魂社(現在の靖国神社)という公的機関で祀られ、学校では天皇家のルーツを記した神話を歴史として教えていました(これを「皇国史観教育」といいます)。いまの感覚だと、まるでカルト宗教国家です。(p.92~3)

 なんかよくわかんねーし、自分には関係ねーし、どっちでもいいや、って?
 ダメです。どっちでもいいは許されません。何度もいいますが、政治に「中立」はないのです。どちらかに決めてください。
 よろしいですか。では、診断です。
 どちらかといえば国側を支持するという人は「全体の利益のためには、ある程度個人が犠牲になるのは仕方がない」という考え方ですから、「国益優先派」。住民側を支持するという人は「いくら全体にとって有益な事業でも、個人の生活を犠牲にしたらダメだろ」という考え方ですから、「人権優先派」です。
 そして、もうすこし強めの表現を使いますと、「国益優先派」と「人権優先派」には、すでにちゃんとした名前もついているのです。
 国益優先派は「全体主義」。人権優先派は「個人主義」です。
 とかいうと、「ちがう」といわれるかもしれません。でも、これはほんとの話。辞書を引いてみてください。全体主義と個人主義は「反対語」として載っていますから。
 「個人主義」というと、自分の利益だけを追求する利己主義者、みたいですが、それはまちがい。「個人主義」と「利己主義」は別ものです。
 個人主義とは、ヨーロッパのルネサンスや宗教改革の時代(16世紀ですから、ずいぶん古い話です)に意識されるようになり、近代市民社会の根幹となった思想。個人の自由と権利がいちばん大事だ! という考え方です。
 一方、「全体主義」は、「個人の自由や権利? そんなものは後回しだよ、後回し」という考え方です。個人個人の暮らしより、国家とか民族とかの「全体」の利益を優先させるので「全体」主義と呼ぶのです。
 国家とは何かということについても、個人主義者と全体主義者の考え方はちがいます。
 個人主義者はいいます。国よりも民族よりも、大切なのは個人の自由と権利なんだよ。国家は個人を幸福にするためにあるんだよ。
 全体主義者はいいます。バカだな。国家のおかげで国民があるんだろ。そんなに国家が嫌いなら、国を出ていきゃいいじゃないか。国籍なしで暮らせるのかよ。
 さて、あなたはどちらの考え方に近いでしょう。
 と、いちおう質問してみましたが、この問いの答えはほんとはとっくに出ています。国家と個人のどちらかが大切かという問いの答えも、だから決まっているのです。
 国益よりも人権のほうが上。国家よりも個人のほうが大切。
 これが近代国家の原則であり、国際社会の常識なのです。
 では、「全体主義」とは何だったのかというと、戦時中の日本、ヒトラー政権下のナチスドイツ、ムッソリーニ政権下のイタリア、スターリン政権下の旧ソ連などがこれに該当します。つまり、全体主義は化石みたいな思想なのです。
 ですので「やっぱ、国があっての国民じゃん? 国民は国に従うべきじゃねーの?」なんていうことをいう人がいたら、あきれてもいいのです。
 ですが、国益優先派のいうこともわかります。そうはいっても、人間が集団で生活する以上は、全体のことも考えなくちゃダメなんじゃない?
 それはたしかにその通り。しかし、「全体のことを考える」のと「個人が全体の犠牲になってもかまわない」のとはちがいます。(p.133~6)

 それでも「個人主義」は大切なものの見方だと私は思います。なぜって、国家権力は強大で、放っておくと必ず「全体主義」に近づいていくからです。為政者は国全体のことを考えている(はず)ですから、全体の利益の前ではひとりひとり人権なんかにいちいちかまっていられるか、という発想に、どうしたってなる。
 国の発展のためには、空港が必要なんですよ。地元の農民が反対してる? それは無視だな。大勢の利益のためには、一部の人は犠牲になっても仕方がないんでね。え、座り込みをして立ち退かない? そんなもん排除だよ排除。行政代執行ですよ! というような気持ちに、ぜったいなると思いません?
 個人主義は、国にとってはたいへん面倒で邪魔くさいものなのです。そして邪魔くさいからこそ、個人主義は社会全体にとっても有益だし、必要なんです。(p.137)

 国家を中心に発想する右派の人はいいます。
 そもそも国家あっての国民なんだぞ。強い国家をめざさないで、個人の幸福もヘチマもあるかよ。日本の主権を守るには、国防はすげえ大切なんだよ。中国の経済発展と軍備増強ぶりを見てみろよ。北朝鮮を見てみろよ。ああいうやつらに対抗するには、毅然とした態度が必要なんだよ。それには自衛隊じゃダメなんでね、憲法を変えて軍隊組織をつくらなきゃいかんのだよ。核武装もしたほうがいいのだよ。え、内政? 貧困対策? なにを甘えてんのかね。格差だの貧困だのは、てめえの努力が足りないせいだろ。だいたい福祉福祉っていうけどさ、国家財政が借金まみれなことを知らないのかよ。これ以上、国に迷惑かけるなよ。自立の道を探れってんだよ。
 個人の幸福から発想する左派の人はいいます。
 あのね。国家は個人を幸福にするためにあるんだからね。そう考えれば国家のやるべきことは決まってくるだろ。金持ちからとった税金を低所得者層にまわす再分配政策に力を入れてもらってだな、格差をできるだけ小さくしてさ、貧困対策もしっかりやってもらってさ、高校や大学の学費なんか無料にしてほしいよね。雇用対策も放置できないし、ブラック企業の野放しもマズイでしょ。え、国防? 軍備? そんなのは最低限にしてもらいたいね。戦争を前提に物事を考えること自体おかしいじゃん。話し合いを中心にしたねばり強い交渉こそが、外交の王道でしょ。(p.150~1)

 戦争を遂行する為政者は、必ず国民のナショナリズムをあおります。
 戦争じゃなくっても、自分の悪政をかくすため、仮想敵をつくって国民の目を外に向けさせるのは権力がよく使う手です。中国や韓国が国民の反日感情をあおるのも、国内政治があまりうまくいっていない証拠ともいえ、両国は日本がまた軍国化して攻めてくるということを、自分の国の軍備拡張の理由に使ったりもしています。
 その意味では、どっちもどっち。左派は「必要以上に刺激するな」といい、右派は「反論しないから悪いんだ」という。対立のタネは尽きません。(p.180)

 もうひとつ、注意しておきたいのは、経済の変化です。
 『戦争論』がベストセラーになった1998年から『嫌韓流』がベストセラーになった2005年ごろは、「格差問題」が急浮上した時代でした。
 90年代のなかごろまで、日本は多くの人が中流意識をもち、統計的にも格差の少ない「一億総中流社会」と呼ばれる社会だった。が、経済の落ちこみで2000年代には貧困層が急増。「下流社会」という言葉まで生まれました。ナショナリズムの高まりと格差の拡大は、ほとんど同時進行で進んできたのです。
 持てる者と持たざる者の貧富の差は、世界的な規模で拡大しています。アメリカでもヨーロッパでも日本でも中国でも、いまでは、上位のわずか数パーセントから20パーセントの人がその国の半分以上の富を独占しているという状態です。
 一般に、経済の悪化とナショナリズムは連動するといわれます。
 景気がよいときは余裕があるため、他者にも寛大で、多少問題があっても「いいよ、いいよ」で終わります。しかし、景気が悪いと人は守りの姿勢になりがちです。経済が苦しく、生活に不安を抱えていると「あいつらが俺たちの仕事を奪う」「あいつらが利益をひとりじめにしている」という疑心暗鬼が生じるのです。(p.189)

 労働者の健康と引きかえにしないと維持できない経済って何? 繊維女工や炭鉱労働者の時代と何も変わっていないじゃないの。(p.198)

 だいたいみんな、このごろ、まちがえてんのよね。「偏らないことがいいことだ」「メディアは中立公正、不偏不党であるべきだ」「両論を併記しないのは不公平だ」。そういう寝言をいっているから、政治音痴になるのよ、みんな。
 あのね、政治を考えるのに「中立」はないの。メディアの役目は「中立公正、不偏不党な報道」ではなく「権力の監視」なんです。それ、常識。(p.205~6)

 いずれにしても、選挙のときだけ急に政治について考えろといってもそれは無理。地図をもたずに野原に放り出されたら、誰だって道に迷う。
 ただし、基本はやっぱり私憤ないし義憤でしょう。
 なんでワタシがこんな目にあわなくちゃいけないわけ? どうして彼や彼女がああいう境遇に置かれているわけ? そう思った瞬間から、人は政治的になる。
 その後の政治的リテラシー(読み書き能力、ものごとを批判的にみる力)は勝手に磨かれていくだろうと思います。情報を集め、人と話し、本を読んで、ニュースも見る。結局はそういうことの積み重ねしかないのですが、私憤や義憤と二人連れだと、おもしろいほどパワーが出る。すべてのスタートは「こんちくしょう」です。あなたの行く道が見えた暁には、地図は破り捨ててもかまいません。(p.206~7)

 政治的中立はあり得ない。一部の人たちが憧れる戦前の日本は"頭のおかしい右翼の国"。メディアの役目は権力の監視。すべての基本は私憤と公憤。ナショナリズムは要注意。はい、しかと受け取りました。
 私もパンチ力をみがいていく所存です。

あしたのためのその一 ジャブ 攻撃の突破口を開くため、或いは敵の出足を止める為、左パンチを小刻みに打つ事。この際、肘を脇の下から離さぬ心構えで、やや内角を狙い、えぐり込む様に打つべし。打つべし。打つべし。

# by sabasaba13 | 2026-04-11 06:27 | | Comments(0)

シベリウス×チャイコフスキー

シベリウス×チャイコフスキー_c0051620_09560089.jpg シベリウスのヴァイオリン協奏曲が大好きです。普段、家ではチョン・キョンファ(Vn)、アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団のCDを愛聴しておりますが、常々生で聴いてみたいものだと思っておりました。念ずれば花開く、なんと練馬文化センターで東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートがあり、そこで同曲が演奏されるそうです。やった。私が高く評価する東フィルですから大いに期待できそうです。ヴァイオリンは福田麻子氏、指揮は円光寺雅彦氏…ごめんなさい、はじめて聞くお名前の方です。ま、"聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥"と言いますし(何だそれは)、こちらも期待しましょう。
 それ以外に、グリーグの『ペール・ギュント』第1組曲より「朝」「山の魔王の宮殿にて」とチャイコフスキーの交響曲第5番が演奏されます。なじみ深い名曲なのでこちらも楽しみです。最強寒波のなかで北欧とロシアで生まれた名曲を聴くのもおつなものです。

 というわけで、先日(といっても一年以上も前ですが)、山ノ神を誘って練馬文化センターに行ってきました。けっこうたくさんの人が聴きにきているのは嬉しい限り。やはり身銭を切って良い文化を育てないとね。
 まずはエドヴァルド・グリーグ(1843~1907)の『ペール・ギュント』第1組曲Op.46より「朝」「山の魔王の宮殿にて」です。ノルウェーの劇作家イプセンが書いた戯曲『ペール・ギュント』に、彼がつけた音楽です。「朝」は、自由奔放に生きる主人公ペール・ギュントが、北アフリカで砂漠の日の出を見ている場面の音楽。「山の魔王の宮殿にて」は、ノルウェーの山中でペールが魔物たちに取り囲まれる様子を描いています。前者のほのぼの感と後者のおどろおどろ感の対比が面白いものでした。指揮とオケも、それぞれの雰囲気を上手く表現していました。
 そして待ちに待ったジャン・シベリウス(1865~1957)のヴァイオリン協奏曲ニ短調Op.47です。情感豊かな旋律の第1楽章、ロマンティックなメロディーの第2楽章、躍動感あふれるエネルギッシュな第3楽章。もうたまりません。さて、肝心の演奏ですが、テクニックや歌心は申し分ありません。惜しいのは線が細く、伴奏の音に埋もれて聴き取りにくいことが時々ありました。指揮者もオケも気をつかっていたのですが。さらなる精進を期待します。なおアンコールとして、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番のラルゴを弾いてくれました。心に積もった塵が洗い流されるような、静謐な演奏にうっとり。
 ここで20分間の休憩。練馬文化センターが好きなのは、一階に喫煙室があることです。さっそく中に入り紫煙をくゆらしました。ぷかー。絶滅危惧種としては助かります。誰も危惧していないと思いますが。
 そして後半、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~93)が1888年に作曲した交響曲第5番ホ短調Op.64です。流麗で美しいメロディーや力強いモチーフの第1楽章、柔らかなメロディーの第2楽章、優雅なワルツの第3楽章、行進曲のような力強い第4楽章、心も体も踊る名曲です。気合いと情感に富んだ素晴らしい演奏でした。とりわけ見事だったのが管楽器の演奏です。これまで日本のオケを聴くときに、金管楽器が音の出だしでヘクる(※業界用語:ミスをおかす)のではないかとヒヤヒヤしたものでした。しかし日本の管楽器奏者の上達には目を瞠るものがあります。特に東フィルの管楽器は実にいいですね。ほぼノーミス。充実した分厚い音によるアンサンブル。強音の迫力、際立ったのが、ピアノやディミニヌエンドなど弱音の美しさと安定感です。弦楽器・打楽器と一体となって、素晴らしい音楽を紡ぎだしていました。ぶらあび!
 アンコールは弦楽合奏によるアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」、懐かしき調べに心の底まで癒されました。私の大好きな映画『ブラス!』の名シーン、グリムリー・コリアリー・バンドが指揮者ダニーの病室の窓の下で演奏する場面を想起し、涙腺は決壊寸前。
 というわけで素晴らしい演奏会でした。東京フィルハーモニー交響楽団、また聴きにいきたいな。

# by sabasaba13 | 2026-04-10 06:31 | 音楽 | Comments(0)

時をちぎれ

時をちぎれ_c0051620_09431864.jpg 先日、劇団青年座による劇『時をちぎれ』を、練馬文化センター小ホールで山ノ神と観てきました。チラシから紹介文を引用します。

 サプリメントの販売で急成長を遂げた「嶺岡幕府商事」。社長がちょんまげ姿で登場するCMが大人気で、主力商品「減量丸」はヒットを続けている。社長の嶺岡義政とその元妻である富子、この二人、なぜか異常な「室町幕府」好き。京都室町の本社を「室町御殿」、東京事務所を「鎌倉御殿」と名付け、社長義政を「将軍」と呼ばせる徹底ぶり。「室町幕府」偏愛による奇妙な会社経営が行われていた。この会社には一年間だけ「鎌倉御殿」で研修する制度がある。ある日、一人の女性がこの制度でやって来た。さて、そこで待ち受けていたものは!?

 脚本は土田英生氏、演出は金澤菜乃英氏です。室町幕府への偏愛、ユニークな設定ですが、舞台装置や衣装もユニークでした。和風に設えた会議室、正面には大きな花頭窓、その向こうには鴬張りの廊下。人が通るたびにその影が窓に映り、キュッキュッという音が聞こえます。社員の衣装や物言いやしぐさも、当時のものを基にした時代がかったもの。
 そして京都本社(室町幕府)の将軍(社長)・嶺岡義政(山路和弘)が、ちょんまげ姿で登場。飄々としたキャラクターで笑いを誘います。やたらと諺を引用するのですが「弘法も木から落ちる」「馬の耳に真珠」など、間違いだらけ。部下は意を畏れて間違いを指摘できません。
 このまま劇は展開すると思いきや、意外な方向に話は進みます。実はこの室町幕府への偏愛は、元妻である東京支社長(鎌倉公方)・嶺岡富子(野々村のん)の趣味のようで、彼はそれほど拘りを持っていません。ちょんまげの鬘をとり、時代がかった衣装を脱いでしまいます。ここからが予想外の展開。東京支社長(鎌倉公方)・嶺岡富子の強引な経営、部下へのハラスメント、そして彼女にすりよる中枢の社員たちに危機感を覚えた京都本社社長(室町幕府将軍)・嶺岡義政は、侍所の北村佳奈(麻生侑里)や新入社員の間島七海(小暮智美)と手を組んで、彼女を排除しようとします。ところが返り討ちにあい社長(将軍)の座から引きずり降ろされ、佳奈と七海も左遷されてしまいます。隠忍自重して時を待つ三人の起死回生の策は…

 芝居の後半では、室町時代のテイストをまじえながら、現代的なテーマをもりこんでいきます。本社と支社の対立(室町幕府vs鎌倉府)、イエスマンを軸にした派閥人事、強引な経営、それに抗う社員への報復とハラスメントなどなど。間島七海の出身地である間抜島の環境を破壊してサプリメントをつくり島民を分断するなど、公害問題にも通じるテーマも登場。
 嶺岡富子を悪役として切り捨ててしまわずに、システムの犠牲者として遇するのも爽やかな後味でした。

 権力の濫用や身分制度、派閥によるシステム運用など、私たちの生きる現代は、室町時代とそれほど隔たっていないというメッセージを受け取りました。うん、なかなか面白い芝居でした。

# by sabasaba13 | 2026-04-09 06:30 | 演劇・落語 | Comments(0)

言葉の花綵320

 彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。(孫子)

 量子力学の成果はたしかに刮目に価します。ただ、私の内なる声に従えば、やはりどうしても本物ではありません。量子論のもたらすところは大なのですが、われわれを神の秘密に一歩とて近づけてくれないのです。いずれにしろ、神はサイコロばくちをしない、と確信しています。(アルバート・アインシュタイン)

 されば今ここで諸君の決心を要求する。身に害を蒙るまえに屈服するか、それとも、私がよしと判断するように、戦うか、そして若し戦うとすれば、原因の軽重いかんにかかわらず妥協を排し、汲々たる現状維持を忌否する態度を決して貰いたい。なぜならば、対等たるべき間柄の一国が他の国に、法的根拠もない要求を強いれば、事の大小にかかわらず、これは相手に隷属を強いることにひとしい。(『戦史』 トゥキュデイデス)

 行動をほこる君たちフランス人よ! このことはよくおぼえておきたまえ。君たちは知らぬまに、思想家の助手になっているのだ。思想家はごくつつましやかに静まっていながら、君たちのすべての行動をきわめてはっきりと、まえもってきめてしまうことがある。マキシミリアン・ロベスピエールはジャン・ジャック・ルソーの助手にすぎなかった。ルソーがたましいをあたえておいた胎児を、時代の母体からひっぱりだした血まみれの助産婦だった。(ハインリヒ・ハイネ)

 しかし、ぼくはカテドラルよりは人びとの眼を描きたい。カテドラルがいかに荘厳で、圧倒するような印象を与えようと、そこにはない何かが人間の眼にはあるからだ。一人の人間-それが哀れなルンペンであろうと、夜の女であろうと-の魂はぼくの眼にはもっと興味深いものなのだ。(フィンセント・ファン・ゴッホ)

 天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然かし、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屡々起るのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだという事になろう。(小林秀雄)

 もし一人の人間を殺せば、それは人殺しになる。だが数百万の人間を殺せば、英雄としてほめたたえられる。女や子供たちを虐殺する爆弾を発明したやつは祝福される。この世界で成功するためには、組織的にやりさえすればいいのだ…。(『チャップリンの殺人狂時代』 チャールズ・チャップリン)

 私は、自分が日本という国から受けた被害が、天皇の名の下に行なわれた悲惨で残酷な戦争のために死んでいった多くの日本人よりも比較的に少ないことを、無条件に手放しで喜びながら生きていくことができないような気がしました。(奥崎謙三)

# by sabasaba13 | 2026-04-08 06:24 | 言葉の花綵 | Comments(0)