2019 残暑見舞

 残暑お見舞い申し上げます。

 日頃「散歩の変人」を御愛読していただき、ありがとうございます。これからしばらくイタリア旅行に行ってきます。炎熱地を焼く日々がまだ続くかと思いますが、ご自愛を。

 暑気払いに、手持ちの写真の中で涼しそうな一枚をどうぞ。アイスランドのスコガフォスです。

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# by sabasaba13 | 2019-08-17 07:29 | 鶏肋 | Comments(0)

少女像6

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」を主催した愛知県が、8月3日に、「平和の少女像」(少女像)が出品された「表現の不自由展・その後」企画展示全体を中止させました。
 徴用工問題に加えて、これに関しても感情的な発言がされていますが、やはり事実に基づいて冷静に考えましょう。そもそも作者は、なぜこの少女像をつくったのか。なぜ傍らに椅子を置いたのか、なぜ彼女のかかとは地から浮いているのか。AbemaTIMESによると、『Abema的ニュースショー』が少女像の作者の一人であるキム・ソギョンさんに取材を申し入れたところ、「日本の報道では私たちの正しい意図が伝わっていない」などと取材に応じられない旨、そして、取材を受けないことを詫びる気持ちが書かれた手紙が送られてきたそうです。さらにソギョンさんは「少女像は反日の象徴ではなく、平和の象徴であることを知らせるために展示会への参加を決意した。しかし、日本の報道では(少女像は)反日の象徴として映っていた。不快に思うという人がいるのも事実。しかしその不快さは、河村市長の言う"国民全体の総意"なのかは疑問です」と複雑な心境を明かし、今回の中止の決断に対して反論されたそうです。
 この少女像および従軍慰安婦問題については、以前に拙ブログに掲載しましたので、読んでいただけると幸甚です。その第4回で紹介した、作者であるキム・ウンソンさん、キム・ソギョンさん夫妻のことを紹介した「神奈川新聞」(2015.1.28)の記事を再掲します。
 いすに腰掛けた等身大の少女像は静かに前を見据える。穏やかな表情は見る者を鋭く射すくめるようにも映る。2011年、韓国・ソウルの日本大使館前に建てられた「平和の碑(少女像)」。旧日本軍の従軍慰安婦を模したもので、日本では「反日の象徴」と反発する向きもある。「悲劇が再び起きないよう平和を願って作った」。韓国人彫刻家、キム・ウンソンさん(50)、キム・ソギョンさん(49)夫妻は込めた思いをやはり静かに語った。間近で見ると、はだしの少女はかかとをわずかに浮かせていることに気付く。膝の上の両の拳はぎゅっと握られ、左肩には黄色い小鳥が乗る。(中略) 一見しただけでは分からないが、かかとはすり切れているのだという。「大変だった人生を象徴している。遠くに連れて行かれ、故国に戻ってきても居場所がない人もいたから」 ソギョンさんが説明を始めた。
 切りそろえられていない髪の毛も、家族や故郷とのつながりを断ち切られてしまったことを表している。肩の小鳥は平和と自由の象徴。「平和を守る守護神として作った像なのだから」
 そしてソギョンさんが繰り返し口にするのが「共感」の2文字。像の隣に置かれたいすも作品の一部になっていて、「隣に座って慰安婦の心を想像してほしい」。少女と目線の高さを合わせ、動かぬ像のぬくもりを感じ、その時、心はどう動くのか。「元慰安婦は抱えた心の痛みを払拭できない人がたくさんいる。自分が慰安婦だったら、どう思い、何を感じるか。少女の気持ちになって考えるきっかけにしてほしい」
 日本大使館前の像は元慰安婦のハルモニ(おばあさん)を支援する韓国の市民団体が寄付金を集め、設置を企画した。毎週水曜日に大使館前で行っていたデモ活動の千回目を記念するものだった。市民団体は社会問題をテーマに彫刻作品を手掛けてきた夫妻に制作を依頼した。当初は字が刻まれた石碑を建てる計画だったが、夫妻は「元慰安婦を癒す彫刻を作りたい」と少女像を提案した。周囲の受け止めは思わぬものだった。「除幕式当日、日本のメディアの記者が大勢集まり、私たちの一挙手一投足にフラッシュがたかれた。日本政府は「外交公館の尊厳を損なう」として韓国政府に像設置を認めないよう要求。日本の一部保守系メディアでは像を「反日の象徴」とみなす論調が続く。
 学生時代から2人は韓国の民主化闘争に加わってきた。朝鮮半島の統一を願う作品や米軍の装甲車にひかれて亡くなった中学生を追悼する作品を手掛けてきた。「なぜ芸術に政治を持ち込むのか」という批判が寄せられたことがある。ソギョンさんの夫で共作者のウンソンさんは語気を強める。「政治や社会を抜きに、芸術家はどんな活動ができるだろうか」 作品の政治性は日本でも問題になったことがある。2012年8月、東京都美術館で開かれた国際交流展に少女像の縮小模型を出展した。だが、政治的表現物を規制する同館の「運営綱領に抵触する」として会場から撤去された。
 像に込めたメッセージは日本にだけ向けられているわけではない。それは、かかとを上げているもう一つの理由からもうかがえる。地面を踏みしめられずにいるのは、慰安婦として体験しなければならなかった苦難と、韓国社会の偏見や政府の無責任さの結果、罪人であるかのように生きなければならなかったことを表している。ウンソンさんが自身の幼いころを振り返る。「元慰安婦の人たちのことを話すとき、大人たちは声をひそめて話していた。その様子が、ずっと心に引っかかっていた」 やはり共感とは程遠い、さげすみの視線。その後、多くの元慰安婦の当事者たちが声を上げ、問題は広く知られるようになった。日本大使館前に置かれた少女像宛てに手紙が届き、雨の日には少女像に傘を差す人がいる。寒い日には首にマフラーが巻かれる。夫妻は韓国の人たちが少女像に抱く感情を想像する。「それは反日ではなく、共感だ」
 ウンソンさんは、日本で憲法9条を変えようとする動きや米国に置かれた少女像を撤去しようとする動きがあることも知っている。去年、韓国・巨済市に設置された少女像は、いすから立ち上がったものにした。「これ以上、座っているわけにはいかないという意味を込めた」 それでも、少女像が日本で反日の象徴とされていることをどう思うか問われれば、ウンソンさんは努めて穏やかにこう答える。「少女像は歴史を記録し、人々の気持ちを癒すためにある」
 なぜこの「少女像」に対して過剰な感情的反応を起こす方が多いのか、この話を聞いて、この像を謙虚に見つめているとわかるような気がします。言葉にできないような下劣で卑劣で低劣な犯罪的行為をこの静謐な少女像に糾弾されているようで、心底から怯えているのでしょう。『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されている、大沼保昭さんの言葉を再掲します。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 そう、自称愛国者の私としては、この日本が過ちを認めない恥知らずな国になってほしくないのです。失敗や過ちから学ぶことをしないから、この国はいまだに失敗と過ちを繰り返し続けているのではないでしょうか。
# by sabasaba13 | 2019-08-16 07:35 | 鶏肋 | Comments(0)

日韓基本条約

 昨今の危機的な日韓関係、そして感情的な嫌韓発言の横溢を見ていて、映画『ハンナ・アーレント』に出てきた彼女の台詞を思い起こしました。
 ソクラテスやプラトン以来、私たちは"思考"をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。"思考の風"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。
 感情的にならず、考え抜いて、危機的状況を脱しましょう。今回の徴用工問題の核心は、日本による朝鮮植民地支配の後始末を、日韓基本条約がきちんと行ったのか/行なわなかったにあると考えます。今回はそれを考える材料を提供したいと思います。冬籠り前の栗鼠のように、読書をして大事だなと思った文章をデータとしてため込んでいますが、「日韓基本条約」で検索をかけたところ、下記の文章にヒットしました。長文ですが、参考にしていただけると幸甚です。

『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』 (田中宏 岩波新書1429)
 ところで、「日韓基本条約」がむすばれた1965年当時の各紙の社説の認識はどうだったのだろうか。3月31日付の『朝日新聞』の社説「『法的地位』には筋を通せ」は、こう述べている。
 「子孫の代まで永住を保障され、しかもそのように広範囲な内国民待遇を確保するとなると、将来この狭い国土のなかに、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。〔中略〕その意味で将来に禍根を残さないよう、法理上のスジを通しておくことがとくに肝要だといいたい。〔中略〕
 韓国併合といった歴史も、これから二十年、三十年の先を考えた場合、それは大多数の日本人にとって、遠い過去の一事実以上のものではなくなるだろう。独立国家の国民である韓国人が、なにゆえに日本国内で特別扱いされるのか、その説明にそれこそ苦労しなければならない時代が来るのではないだろうか。財産請求権のように、いわば過去の清算に属する事柄と、在日韓国人の法的地位のように、それこそ子々孫々につながるものとは性質が違うのである」
 こうした当時の論調をふり返ると、歴史認識なり人権感覚に大きな問題があったのは、単に日本政府当局者だけではなかったのである。越えるべき"心の溝"は深かった。(p.252~3)


『平和なき「平和主義」 戦後日本の思想と行動』 (権赫泰[クォン・ヒョクテ] 法政大学出版局)
 軍備を禁止した憲法を、軍備が支えるという奇妙な構造があるのだ。
 こうした奇妙な構造は、「片面講和」と日米安保条約の締結により生まれたため、冷戦体制と分離できない。憲法の「平和主義」は冷戦体制下での米国の対アジア戦略の産物でもある。米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。そして、この地域では、米国に与えられた役割に適合的な政治体制が必要であった。それが日本の自民党長期政権であり、韓国の反共軍事独裁政権であった。


『岩波ブックレット シリーズ昭和史№12 ベトナム戦争と日本』 (吉沢南 岩波書店)
 このように、派兵や特需によって、韓国の経済は"ベトナム・ブーム"と呼ばれる好景気をむかえることができた。その半面、戦争協力の矛盾も大きく、「朴政権は韓国将兵の"血"を代償にして、アメリカから"お手当"をちょうだいしてい」と韓国内の言論界や民衆からきびしい批判をあびることになった。そうした批判をおさえこみ、不安定な社会状況を乗りきるために、朴政権は軍事独裁的な性格をいっそう強めたが、その朴政権をささえたのが、ほかならぬ日本であった。
 14年間にもわたって難航した交渉が、この時点で急転して妥結にいたり、1965年6月、両国政府によって日韓基本条約が調印された。同年12月に発効した同条約は、日韓両国の国交を「正常化」し、日本が韓国へ5億ドルの資金・借款を提供することを取りきめていた。1945年までの半世紀にわたる日本の朝鮮にたいする植民地支配の歴史を反省し、両国間の友好をきずき、韓国の経済復興に協力して、朝鮮の南北統一実現と朝鮮半島の軍事的緊張の緩和に役立つのなら、同条約は日本の民衆にとっても歓迎すべきものであった。
 たしかに同条約は、"ベトナム・ブーム"とあいまって韓国の高度成長をうながす一つの条件をつくりだした。しかし半面、朴政権への露骨なてこ入れであり、朝鮮の南北分断を固定化し、朝鮮半島の軍事対決に日本を引きこむものであった。同時に、5億ドルの資金・借款を利用して、日本の商品や企業は、購買力がかなりほりおこされていた市場や安価で優秀な労働力をもつ韓国へ本格的な進出を開始した。
 それまで、韓国の貿易相手国はおもにアメリカだったが、60年代後半には、日本がとってかわった。日本の韓国への投資も、化学、電気・電子、機械などの製造業部門を中心に大幅に伸びた。さきに、ベトナム特需の受注合戦で、労働力の安価な韓国が日本に競り勝った、とのべたが、じつは、韓国が南ベトナムむけの生産した軍服、ジャングル・シューズ、亜鉛鉄板などの原料(布地・ゴム・鉄板)は、日本の大手メーカーと商社が韓国に輸出したものであった。これなどは、典型的な日本の間接特需といえよう。
 日韓両国間にこうした経済関係をつくりだした日韓条約の体制は、ベトナム戦争を遂行するアメリカのアジア政策の一部でもあった。1965年1月、アメリカを訪問した佐藤首相は、ジョンソン大統領と共同声明を発表し、アジアの経済開発にたいする日本の「役割の増大」を強調した。つまり、アジア周辺諸国が兵力派遣でも経済の面でも、ベトナム戦争をささえることができるように、同時に、それらの国ぐにの反共政権が安定して存続できるように、日本が経済上の役割をはたし、アメリカの負担を軽減ないし肩がわりすることを、日米間で合意したのである。いいかえれば、アメリカの公認のもとに日本はアジアに進出していったのである。
 こうした経済面での肩がわりは、軍事面にも波及した。日米安保体制下の日本の軍事力は、「自主防衛」の名のもとに増強され、在日・在韓米軍を介して、朝鮮半島の軍事情勢に結びつけられ、日・米・韓の共同作戦計画や共同演習などのうごきがいっそう活発になった。(p.47~9)


『集英社版 日本の歴史21 国際国家への出発』 (松尾尊兊 集英社)
妥結の内容
 1910年(明治43)8月22日以前の日韓間の諸条約、すなわち併合条約をふくむ諸条約の効力について、基本条約第二条は「もはや無効であることが確認される」と明記した。「もはや」を入れることにより、日本側としては当初から無効であるとする韓国の主張を退けて、大韓民国独立の1948年(昭和23)8月15日失効論、すなわち韓国併合合法論を貫いたことになる。過去の植民地支配を合法とする以上、謝罪の文言など入り込む余地はなかった。(p.291)

 日本の朝鮮統治が合法的である以上、日本側としては謝罪も賠償も行う必要はない。(p.292)

 激しい両国の反対運動ではあったが、その理由はくいちがっていた。韓国側の原則的立場を示すものとして、在ソウル文学者一同の批准反対声明の一部を掲げよう(『統一朝鮮年鑑』 1965-66年版)

 国交正常化の原則はどこまでも互恵平等に基づかなければならず、互恵平等の基礎は1910年の合併条約を含む韓日間のすべての不平等強制条約の本源的な否認と無効化を前提にせねばならず日本のわが国に対する過去のあらゆる贖罪を具体的に提示実践することを先決条件とするわが国優位の原則から出発しなければならない。

 つまりは日韓国交回復の前提として日本側の謝罪・賠償が必要だというのであるが、日本の反対運動の理由は半島の南北分断を固定化し、朴政軍事政権にテコ入れし、米・日・韓三国軍事同盟形成につながるおそれがあるというもので、日本政府は韓国に明確に謝罪し、必要な賠償は支払うべきだという意見は皆無であったといってよい。
 このように日韓条約批准に賛成するもの反対するもの双方に共通してみられた過去の朝鮮植民地支配に対する反省の欠如が、今日にいたっても日本を韓国人のもっとも嫌いな国とし、さまざまな緊張関係を両国間にもたらす原因となっている。(p.294~5)


『韓国現代史』 (文京洙[ムン ギョンス] 岩波新書984)
 李承晩政権が倒れた60年は、日本でも安保闘争がたたかわれた年であった。この安保闘争は、日本の軍事的大国化にブレーキをかけ、平和憲法の下での経済大国化という路線(所得倍増路線)を定着させた。このことは、アメリカのアジア政策のなかでの韓国の軍事的役割を否応なしにクローズアップさせた。(p.112)

 日韓会談は64年12月の第七次会談で妥結し、翌年2月仮調印、6月本調印、12月批准となった。学生たちは批准阻止闘争などを展開したが、衛戍令がしかれ、警察と軍の力でデモは封じられた。こうして押し通された日韓基本条約は、条文に植民地支配の謝罪はなく、その第二条に日韓併合条約以前に結ばれた「条約および協定は、もはや無効である」と規定されるのみであった。韓国側は、日韓併合条約は当初から違法で無効であると解釈したが、第二条は、併合条約が締結当時は有効であったとの解釈の余地を残す規定であった。
 日韓条約はアメリカからすればインドシナ戦争の後方支援の体制づくりとして結ばれた条約であった。すなわち、韓国がインドシナ戦争に軍事的に貢献し、この韓国を日本が経済的に支える仕組みがこの条約によってつくりだされた。この時期は、日本経済自体も、資本財と耐久消費財の双方の機械製品に対する大量で安定的な海外市場(前者→アジア、後者→欧米)を必要とする段階にあった。一方で、借款や輸出信用の形で韓国にもたらされた日本の資本財や中間財は、十分な輸入代替工業化を迂回するように輸出指向へと走った韓国の生産力基盤の拡充にも役立った。(p.113~4)


『日本史シブレット68 戦後補償から考える日本とアジア』 (内海愛子 山川出版社)
 「日韓条約」は、1965(昭和40)年6月22日に調印され、同年12月18日発効した。基本条約の調印と同時に、特別取り決めの一つとして「日韓請求権協定」も調印された。この「協定」で、日本が1080億円(3億ドル)の生産物と役務を、むこう10年で無償供与し、720億円(2億ドル)の生産物と役務を、むこう10年の有償供与で支払うことを決めた。これで日韓の両国民の請求権が、「完全かつ最終的」に解決したことになった。日本が経済協力をするかわりに、韓国が請求権を放棄したのである。日本政府は、この協定を受けて、請求権を消滅させる国内法を制定している。
 請求権のなかには、徴用された朝鮮人の未収金や補償金も含まれていた。韓国側は、第七次会談(1962年12月15日)で、未収金が2億5000万円あると主張していた。また、強制徴用された者は66万7684人、このなかで負傷したり死亡した人1万9603人。軍陣・軍属は36万5000人、そのうちに負傷したり死亡した人は8万3000人という数字も出していた。
 韓国は、条約では個人の財産権は消滅しない、たんに外交保護権を放棄したにすぎないのであり、損害をうけた国民の救済措置は別の問題であると主張し、何とか民間請求権を残そうと努力した。しかし、アジア諸国との賠償交渉をつみかさねてきた日本に、経済建設を急ぐ朴正熙政権が押しきられた。こうして、日韓の間の、国とその国民の間にある請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」協定が調印された。
 支払われたのは、賠償ではなく経済協力である。日本側では「韓国併合」は合法的であり「賠償」を支払う理由はない、このカネはいってみれば「独立祝い金」のようなものだとすら言われた。韓国国内では、この条約に反対する激しい運動がくりひろげられた。朴政権は反対運動を押さえ込んで、調印を強行し、条約は批准された。
 「日韓請求権協定」を、戦後補償の観点からみると、次の二点が問題となる。
 第一点は、韓国政府が日本からの経済協力の一部で、個人補償をしていることである。韓国では1971年に「対日民間請求権申告法」が、また74年12月には「対日民間請求権補償法」が制定された。これらの法律は、「日本軍によって軍人・軍属あるいは労務者として招集あるいは徴用され、1945年8月15日以前の死亡者」の遺族を補償の対象としていた。そして75~77年6月にかけて、遺族8552人に、一人あたり30万ウォン(約19万円)が支払われた。その総額は25億6560万ウォンである。また債券1円に対して30ウォンを補償し、7万4967件、66億2209万ウォンの補償をおこなっている。
 しかし、遺族は一人1000万ウォンを要求していた。74年10月には、「補償金受取拒否全国遺族団結大会」を開催するなど、補償金の少ないことに抗議していた。受け取りを拒否したり、情報が徹底していなかったり、書類が不備で受けとれなかった人もいた。時限立法であるこの法律で、補償金を受け取った人は遺族の四割にも満たない。
 一方、怪我をした人や生きて帰った人には何の補償もなかった。何の補償もないなかで、92年11月に元日本兵金成寿さんが日本政府に国家賠償を求める訴えを起こしたが、敗訴している。2001年6月29日には、韓国の軍人・軍属(遺族)252名が日本政府に対し、遺骨の返還、未払い給与や軍事郵便貯金の返還、靖国合祀の取り下げを求めて提訴している。
 第二点は在日韓国人の財産、権利の問題が解決されていないことである。
 協定では、「一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益」には、影響を及ぼさないとなっている(第二条二項a)。在日朝鮮人の請求権は、日韓条約では解決していなかったのである。
 日本政府が石成基(ソクソンギ)さんたち在日の傷痍軍人・軍属に弔慰金を支給したのは、日韓条約の対象から外されていたことも一つの要因であろう。弔慰金の支払いは「在日」に限定されており、韓国居住者は対象となっていない。
 これまで、日本政府は、韓国人からの補償請求はもちろん在日韓国人からの要求にも、「日韓協定」で「解決済み」の一点張りだった。役所でも門前払いだった。だが、戦後補償の運動が起こるなかで、1991年8月27日、参議院予算委員会で柳井俊二外務省条約局長は、次のように答弁している。

 日韓協定は、日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない。日韓両国間で、政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできないという意味である。

 放棄したのは外交保護権の行使であり、請求権は消滅していないとの見解である。92年3月27日には、衆議院法務委員会で武藤正敏外務省アジア局北東アジア課課長が、「協定」の二条一項で、日韓両国および国民の財産及び請求権が「完全かつ最終的に解決した」ことは確認しているが、これは財産権、請求権について、国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認するもので、個人の財産、請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではないと答弁している。
 「協定」では韓国人の請求権は消滅していない。では、どこで消滅したのか。
 「協定」の二条三項には、署名した日に日本の管理下にある財産・請求権に対してとられる措置について、大韓民国は今後どのような主張もしないという内容の規定がある。これにもとづいて日本は、国内法を定めて日本の管理下にある財産などへの措置を決めている。これが法律144号と呼ばれるものである。この「国内法」で日本国内にある韓国人の債権などが消滅した。韓国人の請求権の消滅は「協定」ではなく、日本の国内法でおこなわれたのである。国家がこのように、他国民の権利を放棄できるのか、争点が残る。(p.57~62)

# by sabasaba13 | 2019-08-15 08:02 | 鶏肋 | Comments(0)

日韓請求権協定

 元徴用工韓国最高裁判決に端を発して、日韓関係が非常に険悪となっています。最高の安全保障は近隣諸国との友好関係だというのに、日本政府が先頭に立って高圧的な発言や政策をくりひろげているのですから呆れます。たいへん気になるのは、メディの報道も含めてその論調が「約束を破った韓国が100%悪い、日本に非はない」という粗雑なものであることです。約束とは何なのか、韓国がその約束を破ったことは事実なのか、破ったとしたら正当な理由はあるのか/ないのか、等々について事実と理路に基づいてきちんと私たちに説明するのが政府・メディアの当然の責務であるべきです。しかしそれを果たそうとせず、子供の喧嘩のように「お前が悪い、僕は悪くない」と繰り返すだけ。やれやれ。
 その約束である日韓請求権協定と、そのもとになった日韓基本条約について、きちんと調べて理解する必要があると考えます。私もいろいろと本を読んで調べたのですが、ポイントは、被害者個人の賠償請求権の有無のようです。これについてはやはり専門家の意見を聞くべきだと思います。『週刊金曜日』(№1209 18.11.16)に掲載された川上詩朗弁護士の意見を、長文ですが引用します。
-韓国の大法院(最高裁)は10月30日、元徴用工4人が新日鐵住金を相手に損害賠償を求めていた裁判で、元徴用工に一人当たり1億ウォン(約1000万円)を支払うよう命じた判決を確定させました。だが安倍晋三首相は、元徴用工の個人賠償請求権は、日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決」しているとし、韓国に「毅然として対応して」いくと述べています。

 これは、明らかに国民世論をミスリードする発言です。あたかもすべての請求権が消滅したかのような言い方ですが、2007年の最高裁の西松建設中国人強制連行訴訟の判決(西松判決)を意図的に無視しています。そこでは、日本と中国との間の賠償関係等について、外国にいる自国民が損害を受けた際に本国がその国に対し外交手続きで救済を要求する「外交保護権」は放棄したものの、被害者個人が賠償を請求する権利は、「実体的に消滅させることまでを意味するものではない」との判断を示しました。西松判決は、裁判所での救済はできないが、個人の損害賠償請求権は消滅していないことから、裁判外で日本企業が賠償金を支払い解決するのは法的には可能だということを示しました。実は、日本政府の見解も西松判決の論理とほぼ同じであり、韓国のケースにも当てはまるものです。

-そうなると、「完全かつ最終的に解決」したのだから賠償金を支払うことはできないというのが首相の発言だとすれば、これまでの政府見解とは整合しません。裁判で救済を求める権能は別にして個人の損害賠償請求権が消滅していないという点については、韓国の大法院と日本の最高裁は、ある意味で判断が共通していますね。

 そうです。韓国の大法院は今回、植民地支配等に直結するような反人道的行為によって生じた損害賠償請求事件は日韓請求権協定の対象外だとの判断を示しました。その結果、被害者個人の賠償請求権のみならず、韓国政府の「外交保護権」も消滅していないと判示しています。その点が日本と違うのですが、個人の損害賠償請求権は実体的に消滅していないという点は共通しています。ですから、日本の最高裁の解釈に照らしても、新日鐵住金が元徴用工に賠償金を支払うのは何の問題もありません。日韓請求権協定は、法的な障害にはなりません。

-しかし多くのマスコミは、安倍首相に歩調を合わせるかのように「完全かつ最終的に解決」という語を繰り返し強調することで、あたかも原告の徴用工が権利もないのに問題を蒸し返していますが。

 元徴用工の裁判を報じるのなら、せめて西松建設強制連行訴訟の事例ぐらいは取り上げるべきですが、それもあまり紹介されていません。多角的な情報が提供されないと判断を誤ります。西松建設の場合、最高裁が附言により和解による解決の可能性を示しました。その結果、西松建設は強制連行の事実を認めて謝罪し、2億5000万円を拠出して基金を設立し、記念碑の建立、被害補償等を行ないました。新日鐵住金にとって、一つの実践例となるはずです。

-西松と同じことをやっても、何の問題もないはずですが。

 何の問題もありません。むしろ、西松建設と違って新日鐵住金の場合は、慰謝料支払いの判決が確定しました。したがって、まずはこれを速やかに支払うべきです。支払わなければ遅延損害金が膨らみ、会社にも損害が出ることになります。ところが現状では、支払うと非難されかねないような雰囲気です。確定判決に従うというのが法治国家として当然のことですが、この法の常識が通用し難い雰囲気がある。民間の争いに日本政府が過剰に反応し、メディアがそれに追随しているような雰囲気があります。韓国の判決に対して日本政府が韓国政府に「何とかしろ」と求めても、三権分立の下、韓国政府は司法の判断を尊重するしかなく、ましてや、判決を覆させることなど不可能です。

-本当に異常です。三菱マテリアル(旧三菱鉱業)も16年、太平洋戦争期に日本に強制連行された元中国人労働者に謝罪し、元労働者本人あるいはその遺族に一人当たり10万元(約170万円)の賠償金を支払うことを承諾しました。なぜ韓国に同じことができないのでしょう。

 韓国は植民地だったが、中国は占領地だったからという言い分ですが、そのことは扱いを異にする理由にはなりませんね。どちらも日本が加害行為を加えたという点では共通しており、被害者を救済すべき点では違いはないからです。私は今回の判決は、新日鐵住金にとって原告4人のみならず、新日鐵住金の下での被害者全員に誠意を示し、新日鐵住金の国際的信用を高めるための良いチャンスだと思います。新日鐵住金が真の解決に向けて踏み出すよう後押しをしたい気持ちです。

-日本は日韓国交回復時に無償3億ドル、有償2億ドルを支払ったのだから、韓国政府の責任でそこから元徴用工に支払うべきだ、というような論調もありますが。

 その計5億ドルはどういう性質のものでしょうか。1965年の日韓国交正常化交渉で韓国は日本に対し、植民地支配における日本の責任を認めた上で、それに対する賠償という形で一定の金額を支払うべきだと提案しました。しかし日本側は責任を認めようとせず、それとは関係のない「経済発展のための資金」という位置づけで、政治決着で5億ドルを支払ったのです。今回の裁判で主張された植民地支配等と直結した日本企業の反人道的な不法行為に対する慰謝料請求と5億ドルとはまったく問題が別なのです。

-日本側が、「なぜ5億ドルから払わないのか」などと韓国に言える筋合いではないですね。

 徴用工問題も含めてすべてのことが日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」したのか否かを改めて検証する必要があります。日韓国交正常化交渉では、日本は自らの植民地支配責任を認めていません。植民地支配責任に関わる問題は積み残されてきました。元徴用工のみならず日本軍「慰安婦」問題などを含めて、日韓請求権協定により何が解決し、何が解決していないのかを整理する必要があるのではないでしょうか。

-植民地支配の責任を認めず、被害者に向かい合おうとしないのなら、実に恥ずかしい。日本が問われていることは多いはず。

 あたかも韓国側に非があるかのような一連のマスコミ報道に最も抜け落ちているのは、元徴用工の問題の本質とは人権問題なのだという視点にほかなりません。彼らは賃金も支払われず、過酷で危険な労働を強いられ、ろくな食事も与えられずに外出も許されなかった。逃亡を企てたら体罰が加えられる奴隷状態であり、日本本土で重大な人権侵害を被ったのです。国民の知る権利に応えるためにも、そうした原告の被害実態がきちんと報道されるべきでしょう。

-そうした報道に、最近接した記憶はありません。

 今回の裁判は、人権侵害を受けた被害者が救済を求めて提訴したのが出発点です。そこが完全に無視されています。高齢の被害者がまだ生存しているうちに、早急に被害者らの救済が果たされなければなりません。国家と国家の争いのみに焦点をあてるのではなく、如何にして被害者救済を図るかという課題が早急に検討されるべきです。問題の広がりを防ぐためにも、今回の判決を機に、新日鐵住金のみならず韓国で被告とされている他の日本企業も含めて、自発的に被害者全体の人権救済の取り組みを開始し、経済界としても、そのような取り組みを支援すべきでしょうね。(p.14~5)
 いかがでしょう。この意見を叩き台にして、「それはこういう理由で違う」「これは論理的に正しい」というような生産的な議論ができないものでしょうか。そして日韓両政府も同様の議論を交わし、平和裏にこの問題を解決してほしいものです。E.H.ノーマンもこう言っていました。
 説得はただ理性と人間性にかなった方法であるだけではありません。それは、今日では自己防衛の唯一の方法でもあります。ですから、われわれはみな、国や身分を問わず、きびしい二者択一の前に立たされています。説得せよ、さもなくば破壊あるのみ(Persuade, or perish.)。
 そのためにも、明治政府と朝鮮との関係、韓国併合以降の植民地化の実態、敗戦から現在に至るまでの日韓関係について、せめて基本的なことだけでも知ることが肝要だと考えます。理由はわかりませんが、もしそれすら拒否するような方がいたら… 『週刊金曜日』(№1192 18.7.13)に掲載されていた斎藤貴男氏の意見に真実味が出てきます。
 新自由主義経済の時代ですから、個々はバラバラにされ、貧困層が蓄積して「経済的徴兵制」さえ実現しつつあるようです。当然、拠り所がなくなって各自のアイデンティティも喪失しますが、そこで国家にすがりついたり、「日の丸・君が代」や天皇、靖国神社に執着することに癒やしを求めようとする人も現れる。
 しかし、本当の大日本帝国などできるはずもない。だから、不満のはけ口として大日本帝国時代に下に見ていた中国や韓国を支配者みたいな顔をして蔑視したり、威張り散らす。「嫌中・嫌韓」という言葉に象徴される歪んだ心理は、安倍首相と共通しています。(p.24)

# by sabasaba13 | 2019-08-14 07:54 | 鶏肋 | Comments(0)

世界報道写真展2019

c0051620_14414625.jpg 山種美術館で「速水御舟展」を見た後、東京都写真美術館へ行き、知人に招待券をもらった「世界報道写真展2019」を見てきました。まずは公式ホームページから、展覧会の概要についての紹介文を引用します。
 世界報道写真コンテストの受賞作を紹介する「世界報道写真展2019」。62回目を迎える今回のコンテストには、129の国と地域から4,738人のフォトグラファーが参加し、78,801点の応募がありました。
 今年は、「現代社会の問題」、「一般ニュース」、「長期取材」、「自然」、「環境」、「スポーツ」、「スポットニュース」、そして昨年の「人々」にかわり「ポートレート」の部の8部門において、25カ国43人が受賞しました。また新たに、複数の写真で様々な事象を表現した作品を評価する「世界報道写真ストーリー大賞」が設けられ、報道写真の表現が広がりを見せています。
 「スポットニュース」の部では、ジョン・ムーアがメキシコとアメリカの国境で、母親の取り調べ中に泣き叫ぶホンジュラスの少女を捉えました。また「一般ニュース」の部では、サウジアラビアのカショギ記者が行方不明になった事件で、サウジの総領事館に押し寄せる報道陣の姿を写しています。ほかにも、シリアで続く内戦やコロンビア革命軍の元女性兵士の暮らし、オランダ領キュラソーのベニイロフラミンゴを捉えた作品など、地球上で「いま」起きていることを伝える写真の数々を紹介します。
 今、世界で何が起きているのか、そしてそれと日本がどのように関わっているのか。常に関心を持ち、調べ、考えていきたいと思っております。そのきっかけとなるのが、やはり写真です。いろいろな経緯があったとはいえ優れた報道写真誌であった『DAYS JAPAN』が廃刊となったため、世界のさまざまな事件や出来事を伝えてくれる報道写真を見る機会が減ってしまいました。こうした写真展はできうる限り見にいくように心掛けてします。
 どの写真も、今の世界を鮮明に伝えてくれる力作で、一つ一つキャプションを読みながらじっくりと鑑賞しました。その中でも、人権を奪われ虐げられる子どもたちの写真には胸がひきさかれます。ゴミの上で眠る少年、母にすがって泣き咽ぶ少女(ポスターの写真)、恐怖に怯える子どもたち。それぞれに下記のキャプションが添えられていました。
環境の部 マリオ・クルス(ポルトガル)
 フィリピンの首都マニラに流れるパッシブ川に浮かぶゴミに囲まれたマットレスに横たわる子ども。パッシブ川は2017年の『ネイチャー・コミュニケーションズ』の報告で、世界で最も汚染されている20本の河川の一つに挙げられた。現在は浄化に努力がなされているが、河川の一部は依然として廃棄物が密集しているため、ゴミの上を歩くことができるほどの状況にある。

スポットニュースの部 ジョン・ムーア(アメリカ)
 2018年6月12日、米国テキサス州マッカレンで、母親サンドラ・サンチェスが国境監視員の取り調べを受けている間泣き叫ぶホンジュラスの子どもヤネラ。メキシコからリオ・グランデ川を渡ってきた移民家族らは、当局に拘束された。母親のサンドラ・サンチェスは、亡命のためアメリカに到着するまで、1か月にわたり娘とともに中央アメリカおよびメキシコを旅してきたと話した。トランプ政権は、「ゼロ・トレランス(不寛容)」移民政策を発表し、不法に米国に入国し拘束された者を刑事訴追すると述べた。その結果、逮捕された親の多くは子どもから切り離され、多くの場合異なる収容施設に送られた。この写真が世界に公開された後、米国の税関と国境保護は、ヤネラと彼女の母親が米国によって分離された何千人もの人の中にいなかったことを確認した。それにもかかわらず、物議をかもしている政策に対する一般の人々からの抗議により、ドナルド・トランプ大統領は2018年6月20日に政策を覆すことになった。

スポットニュースの部 モハメド・バドラ(シリア)
 内戦下シリアで、最後の反体制派支配地域となっているシリアの首都ダマスカス近郊東グータ地区の住民は、2018年2月までの5年にわたり政府軍の包囲下にある。東グータの最終攻撃では、2018年2月25日のシフォニエ村に対する毒ガスと思われる攻撃少なくとも1回を含め、ロケット攻撃と空爆が行われた。
 人類にとって唯一の、そして最後の希望である子どもたち。いま、その子どもたちの命と人権が、全世界規模で脅かされているように思えます。日本も例外ではありません。厚生労働省の調査によれば、日本の子どもの貧困率(2015年)は13.9%。さらにひとり親家庭の貧困率は50.8%と、先進国の中でも最悪な水準だと言われています。自然に加えて子どもたちをも壊している人類、それはもはや緩慢なる自殺です。カ-ト・ヴォネガットの言葉が耳朶に響きます。
われわれは自分たちを救えたかもしれないが、
呪わしいほどなまけものであったため、その努力をしなかった。
それにわれわれは呪わしいほど下劣だった。
 そうした現状を知り、調べ、考え、変えるためにも、こうした報道写真を見ることは良い契機となります。世界を股にかけて撮影を続けるフォト・ジャーナリストの方々に敬意を表するとともに、応援をしていきたいと思います。微力だが無力ではないと信じつつ。

 写真展を見終えて外へ出ると、何やら長い行列ができています。しかもほとんどの方がスマートフォンの画面を眺め弄りながらの、静かで不気味な行列です。山ノ神と見合わす顔と顔、よろしい、行列の先頭に行ってその正体をつきとめましょう。はい、アニメのグッズを買い求めるための長い長い行列でした。非難や嘲笑をする気は毛頭ありませんが、ただ今見てきた世界との落差には愕然とします。ゴミの中で暮らし、難民となり、空爆に怯える子どもたち。炎天下、アニメのグッズを買うために長い行列をつくる若者たち。
 ちなみにこの日は参議院選挙の投票日、私たちは期日前投票をすませていますが、ここに並ぶ方々は投票したのでしょうか。
# by sabasaba13 | 2019-08-13 08:01 | 美術 | Comments(0)

宇都宮編(9):宇都宮(15.12)

 見るべき程の事をば見つ、それでは帰郷の途につきましょう。なお宇都宮は「カクテルの街」「ジャズの街」としても名をあげているそうです。
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 宇都宮観光コンベンション協会の公式サイトから転記します。
 カクテル技能競技の全国大会で、数多くの優勝者を輩出してきた宇都宮。バーテンダーの業界では、その人数とバーテンダーのレベルは、銀座と比肩するほどといわれています。
 その理由は、水割りを作れればバーテンダーといわれていた1970年代、ある老舗のオーナーバーテンダーが「バーテンダーの使命・役割・ステータス・アイデンティティを確立する」と技術向上と人間育成に力を注いだからです。その結果、宇都宮で技術を磨いたバーテンダーが全国大会で史上初の4連覇を達成し、市内のバーテンダー全体のレベルが向上したのです。
 このような背景から、1999年に市内のバーなどにより「宇都宮カクテル倶楽部」が発足し、各種イベント・学会などへの出展や他団体との事業協力などを通じて「カクテルの街 宇都宮」のPRに努めています。

 世界で活躍するジャズプレーヤーを数多く輩出する宇都宮。世界的なアルトサックス奏者の渡辺貞夫氏、トランペット奏者の外山喜雄氏、ギタリストの高内晴彦氏をはじめ、様々なミュージシャンが現在も国内外で活躍されています。
 市内には数多くのジャズライブハウスが点在し、夜にはジャズライブが実施され、飲食をしながらジャズを楽しむ方たちが年々増えています。
 このようなことから、本市を日常的に街角に音楽があふれる街にしようと、2002年10月にジャズライブハウスなどによって構成された「宇都宮ジャズ協会」が設立されました。その結果、毎日加盟店のどこかの店ではジャズライブが開催されており、現在は今まで以上にジャズの街宇都宮が推進されています。
 カクテルにジャズ、宇都宮は大人の街なのですね。「嵐」の活動停止が一大ニュースになるほど文化の低年齢化が顕著なこの国で、貴重な存在です。いつの日にか、ギムレットを飲みに、ジャズを聴きに、再訪しましょう。

 帰りの列車の中で『ひとはなぜ戦争をするのか』(A・アインシュタイン S・フロイト 講談社学術文庫)を読んでいたら、次のような「アインシュタインへの手紙」がありました。
 ともあれ、あなたもご指摘の通り、人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいのです。
 ですから、戦争を克服する間接的な方法が求められることになります。そして、精神分析の神話的な欲動理論から出発すれば、そのための公式を見つけるのは難しくはないのです。人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊欲動のなせる業だとしたら、その反対の欲動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。だから、人と人との間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。(p.46)
 なるほど。攻撃性や破壊欲動を喚起しやすいスポーツよりも、エロスを満たす音楽や食べ物のほうが、戦争を阻むきっかけになるのかもしれません。あらためて2020東京オリンピックに反対するとともに、餃子とカクテルとジャズの街・宇都宮を賞揚したいと思います。
# by sabasaba13 | 2019-08-12 10:59 | 関東 | Comments(0)

速水御舟展

c0051620_21543724.jpg ちょっと忘れられない思い出があります。高校生の時、数学の先生がニコニコしながら早引けして校門を出ていくので、「先生、どこに行くんですか」と訊いたところ、満面の笑顔で「"はやみぎょしゅう"の展覧会を見に行くんだ」と答えてくれました。昔はきっと、先生方にもさまざまな余裕があったのでしょうね。そして私を対等な人間として接し、高校生には馴染の薄い画家の名前を告げてくれた先生に感謝します。
 それ以来、喉に刺さった小骨のように、"はやみぎょしゅう"という名前が心の片隅でうずくようになりました。やがて知識も増え、速水御舟という日本画家であることが分かり、山種美術館で彼の作品をいくつか見ることもできました。しかし管見の限り彼の展覧会は開かれておらず、御舟の作品をまとめて見る機会はありませんでした。しかしその機会が到来しました。速水御舟生誕125年を記念して、山種美術館が所有する御舟コレクションの全貌が紹介されるそうです。同美術館の公式サイトから引用します。
 本年は、日本画家・速水御舟(1894-1935)の生誕から125年、そして山種美術館が現在の渋谷区広尾の地に移転し開館してから10年目にあたります。この節目の年を記念し、当館の「顔」となっている御舟コレクションの全貌を紹介する展覧会を開催いたします。
 当館創立者の山崎種二(1893-1983)は御舟とは一つ違いでしたが、御舟が40歳という若さで早世したため、直接交流することがかないませんでした。しかし、御舟の芸術を心から愛した種二は、機会あるごとにその作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。
 一方、御舟は23歳の若さで日本美術院同人に推挙され、横山大観や小林古径らにも高く評価された画家。「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という御舟の言葉どおり、彼は生涯を通じて、短いサイクルで次々と作風を変えながら、画壇に新風を吹き込んでいきました。
 御舟は40年という短い生涯に、およそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」とも称されていました。1976年、旧安宅産業コレクションの御舟作品105点の一括購入の相談が種二のもとに持ち込まれ、種二は購入の決断をします。その結果、すでに所蔵していた作品とあわせて計120点の御舟作品が山種美術館の所蔵となり、以来当館は「御舟美術館」として親しまれてきました。
 本展では、御舟の代表作ともいえる《炎舞》、《名樹散椿》(ともに重要文化財)をはじめとして、《錦木》など初期の作品から《牡丹花(墨牡丹)》など晩年の作品まで、各時代の作品をまとめてご覧いただきます。
 当館の御舟コレクション全点公開は2009年の広尾開館以来10年ぶりとなります。この機会に、御舟芸術の真髄をお楽しみください。
 最近、油絵にはまっている山ノ神を誘うと、即快諾。とある日曜日に二人で山種美術館に行ってきました。JR恵比寿駅から、駒沢通りのだらだらとした坂を十数分のぼると、山種美術館に到着です。会場は思ったよりは混雑していましたが、絵を見るために行列に並ばねばならないほどではありません。御舟の絵を見たいという、静かな熱気に包まれた良い雰囲気でした。

 驚いたのは、四十歳で早世したにもかかわらず、次々と作風を変えていったことです。まず徹底した細密描写による精緻な写実。次に琳派的な装飾的構成。そして十ヶ月にわたる渡欧によって西洋の人物画に触れ、日本画家の人物デッサン力不足を痛感した御舟は、帰国後は人物画に意欲的に取り組みます。同時に花鳥画の佳品を制作しますが、彼は「自分の作品に主張がなくなった」「絵が早くできすぎて困る」と友人に語ったそうです。そして「これからは売れない絵を描くから覚悟しておいてくれ」と夫人に語り、写実を離れた抽象的な形態を追求していきます。その直後の死。彼の言葉です。
梯子の頂上に登る勇気は貴い、
更にそこから降りて来て、
再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。
大抵は一度登ればそれで安心してしまう。
そこで腰を据えてしまう者が多い。
登り得る勇気を持つ者よりも、
更に降り得る勇気を持つ者は、
真に強い力の把持者である。
 「半年も前と同じことはやれない」と語ったマイルス・ディビスのようですね。

 そしてどれほどスタイルが変わっても、ぶれずに一貫しているのが、絵が発する気品です。一筆一筆に込められた彼の気持ちが、静かに熱く伝わってくるようです。見ているだけで、気持ちが落ち着てくるような、素敵な絵ばかりです。
 「炎舞」は別格として、私のお気に入りは三枚。まずは「葉蔭魔手」、ヤツデの木陰に巣をはって獲物を待つ蜘蛛を描いたものです。蜘蛛とヤツデの葉のリアルな描写、装飾的にみごとな空間構成、獲物を待つ蜘蛛がただよわせる心地よい緊張感。何よりも凄いのは、蜘蛛の糸です。ぶれもかすれもせず、これほど細い線を生き生きと描けるものなのか。どれほどの研鑽を積んだのか。恐れ入りました。
 二枚目は、「昆虫二題」として対をなす「粧蛾舞戯」です。「炎舞」と同じく、群れ飛ぶさまざまな蛾を描いた作品です。「炎舞」はたしかに傑作だと思いますが、蛾たちが炎に飛び込んでしまうのではないかという、死の気配を感じてすこし切なくなります。それに対して「粧蛾舞戯」は、おぼろげに渦巻く光の中心へ向かって、色とりどりの蛾たちが楽し気に舞いながら上昇していく姿を描いています。解放感にあふれた、心が愉悦に踊るような素敵な絵です。
 三枚目は「春昼」、春霞でしょうか、もやったような空気のなかに佇む茅葺の家一軒。そして屋根の上でくつろぐ数羽の山鳩。ただそれだけの絵なのに、なぜ心惹かれるのでしょう。うーむ、やはりマチエールですね。茅葺屋根、土壁、木の壁、いずれも脈打ち息遣いをしているような質感です。とくに猫の毛を思わせるような柔らかな茅葺がいいですね。手で触れ、頬ずりをしたくなるような絵なんて、なかなか巡り合えません。私も山鳩になりたい。

 というわけで、絵を見る喜びを堪能できたひと時でした。さて、知人から招待券をもらったので、これから東京都写真美術館に行き「世界報道写真展2019」を見てきます。展覧会の梯子も、おつなものです。
# by sabasaba13 | 2019-08-11 09:10 | 美術 | Comments(0)

8月9日に寄せて

 以前に読んだ『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(オリバー・ストーン&ピーター・カズニック ハヤカワノンフィクション文庫)の第一巻に、下記のような記述がありました。
 しかしアメリカ国民の大半が知らされていなかったのは、アメリカ軍の最高指導者の多くが原爆使用を軍事的には不必要であるか、道徳的に非難されるべき行為ととらえていたという事実だった。トルーマン大統領付参謀長であり、統合参謀本部の議長でもあったウィリアム・リーヒ提督は、「キリスト教的倫理にもとづくあらゆる道徳律や戦争をめぐるあらゆる規律」に反する兵器として、原子爆弾を化学兵器や生物兵器と同類と見なすことにきわめて前向きだった。「日本はすでに敗北しており降伏する用意ができていた…広島と長崎に野蛮な兵器を使用したことは日本に対するわが国の戦争になんら貢献していない。はじめてこの兵器を使用した国家となったことで、われわれの道徳水準は暗黒時代の野蛮人レベルに堕した。私は戦争とはこのようなものではないと教えられてきたし、戦争は女子どもを殺して勝利するものではない」。怒りに燃えたリーヒは、ジャーナリストのジョナサン・ダニエルズに1949年に語っている。「トルーマンは、われわれは原爆の使用を決定したが…目標を軍事施設に絞ったと私には言った。むろん、彼らはかまわず婦女子を殺しにかかったのであり、はじめからそのつもりだったのだ」。
 ダグラス・マッカーサー元帥は、アメリカが降伏条件を変更したなら戦争は数ヵ月早く終結しただろうと一貫して主張している。彼は1960年にフーバー元大統領に次のように語った。フーバーが1945年5月30日にトルーマンに送った、降伏条件の変更を提案する意見書は、「賢明でまことに政治家らしい」ものであり、もしこの意見書が聞き入れられたのであれば、「広島と長崎の虐殺も…アメリカの空爆による大規模な破壊もなかっただろう。日本が躊躇することなく降伏を受け容れたであろうことを私はいささかも疑っていない」というのである。
 ヘンリー・「ハップ」・アーノルド元帥は「原爆投下の如何にかかわらず、日本が壊滅寸前であることはわれわれには以前から明白に思われた」と述べた。戦後ほどなくして、カーティス・ルメイ大将は「原爆もソ連参戦もなくとも、日本は二週間もあれば降伏していただろう」とも、「原爆は戦争終結とはまったくかかわりがない」とも述べている。太平洋戦略航空軍の指揮官カール・「トゥーイー」・スパーツ大将は、長崎の二日後に日記に綴った。「ワシントンではじめて原爆使用を検討したとき、私は投下に賛成しなかった。私はある町の住人を殲滅するような破壊を好んだことは一度たりともない」。
 海軍将官の多くはこれらの空軍参謀長たちと意見を同じくしていた。合衆国艦隊司令長官のアーネスト・キング提督は「私は今回の投下はすべきではないと思う。それは無益だ」と補佐に話した。彼はインタビューで「私はとにもかくにも原爆を好まなかった」と答えている。太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督は、戦後しばらくしてワシントン記念塔で行なわれた会議で発言した。「実際、広島と長崎の破壊によって核の時代到来が世界に宣言される前に、そしてソ連が参戦する前に、日本はすでに講和を求めていた」。南太平洋方面軍司令官のウィリアム・「ブル」・ハルゼー提督は翌年に語った。「最初の原子爆弾は不必要な実験だった…いや、どちらの原爆であれ投下は誤りである…多くの日本人が死んだが、日本はずっと以前からソ連を通じて和平の道を探っていたのだ」。
 傍受された外交電報の概要を作成する任務についていたカーター・クラーク准将は語った。「われわれは商用船の撃沈や空腹のみによって彼らを惨めな降伏に追い込み、もう誰が見ても原爆は無用であり、われわれ自身がそのことを承知しており、われわれがそう承知していると相手にもわかっているにもかかわらず、そのような人々相手に原子爆弾二個の実験をしたのだ」。
 アメリカの五つ星階級章将官七名のうち、第二次世界大戦で最後の星を獲得した六名-マッカーサー元帥、アイゼンハワー元帥、アーノルド元帥、リーヒ提督、キング提督、ニミッツ提督-は、戦争終結に原子爆弾が不可欠であるという考えを拒絶していた。残念ながら、これらの軍人が投下に先立ってトルーマンに自身の意見を強硬に訴えた形跡はほとんどない。
 しかしグローヴスは彼らの考えを承知していた。広島に先立ち、彼は原爆にかんして国防省と交わしたあらゆる文書を廃棄するよう戦場の司令官に命じていた。なぜなら彼自身も認めていたように、「マッカーサーらに原爆を使用しなくても戦争に勝てたと主張させるわけにはいかなかった」からである。
 8月末、ジェームズ・バーンズまでもが戦争終結に原爆は必要なかったと認めた。《ニューヨーク・タイムズ》紙によると、「バーンズは、広島に最初の原爆が投下される前に日本は敗北を覚悟していたことをソ連はつかんでいたと述べている」。(p.390~3)

 ローマ教皇庁は速やかに原爆投下を糾弾していた。《カトリック・ワールド》誌は原爆使用を「残虐非道で…キリスト教文明と道徳律に対する前例を見ぬ打撃である」と述べた。全米教会協議会のジョン・フォスター・ダレス会長は、のちにアイゼンハワー政権のタカ派国務長官を務めた人物であるが、その彼が次のような懸念を表明している。「仮に敬虔なキリスト教国家であるわが国が、このような核エネルギー使用が人倫にもとっていないと考えるのであれば、他の国の人々も同じような考えに走るだろう。核兵器は通常兵器の一種と見なされるようになり、人類が突如として永久に破滅する道がひらかれるに違いない」。
 ほかにも原爆投下を非難する声が上がった。シカゴ大学のロバート・ハッチンス学長は、長崎に原爆が落とされたわずか三日後の8月12日、NBC放送で放映された「原子力-それが人類に対してもつ意味」を論じるシカゴ大学円卓会議に出席した。この席でハッチンスは明確に述べている。「万に一つ、この兵器を使用することがあるとしても、それは最終的な自己防衛手段に限定すべきである。しかるに原爆が投下されたとき、アメリカ当局はソ連参戦の予定を承知していた。日本は陸路も海路も封鎖され、諸都市は焼け野原になっていた。すべての証拠が原爆使用は無用であったことを指し示していた。したがってアメリカ合衆国はその道徳的威信を失ったのである」。(p.393~4)

 また広島と長崎への原爆投下はソ連に対するイニシアチブにつながったわけでもなかった。それは、"アメリカはその意思を貫くためならどんな手段をとることも厭わないのだから、血に飢えたアメリカに対する抑止力としてソ連独自の原爆開発を急がねばならない"という確信をスターリンに植えつけただけだった。(p.395~6)
 安倍首相のスピーチに注目しましょう。ま、だいたい想像できますが。
# by sabasaba13 | 2019-08-09 07:28 | 鶏肋 | Comments(0)

宇都宮編(8):鹿沼(15.12)

 お目当ての物件に向かって歩いていると、「三峰神社」という解説板がありました。後学のために転記します。
 「三峰神社」は麻苧町の氏神で、安政6年(1859)コレラが流行したとき、埼玉県秩父の三峰神社から眷属の神犬(神札)を迎えて、今宮通り(現屋台蔵)に祀ったといわれている。戦前は踊り・芝居などが催されて賑わった。戦後、安房神社を合祀して「安房三峰神社」と社名を改めた。
 階段をのぼると建物の二階に小さな祠がありました。伝染病に対して無力だった当時の庶民の、藁にもすがるような切ない思いをひしひしと感じます。
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 そしてお目当ての駒橋歯科医院に到着。切妻造の棟が並ぶハーフティンバー風仕上げの洒落た建物です。幾何学模様の装飾もいいですね。1925(大正14)年に、初代院長の駒橋寅春が自ら設計して建設したそうです。
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 その近くにあるのが「大谷好美館」という元写真館です。下見板張り、入母屋造妻入の洋館で、妻壁には植物模様や「美」の文字を鏝絵で飾っています。採光のための天窓も設けられています。明治期に、同志社大学で学んだ大谷養三が帰郷後、神戸の異人館を参考にして建築したそうです。
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# by sabasaba13 | 2019-08-07 06:52 | 関東 | Comments(0)

8月6日に寄せて

 昨晩読んだ『責任について 日本を問う20年の対話』(徐京植/高橋哲哉 高文研)の中に、高橋哲哉氏による以下の一文がありました。
 …広島と長崎で被爆した人の国籍を数えれば20以上あるそうですから、日本人しか被爆しなかったみたいなイメージが日本社会で定着しているのは間違っているし、そして被爆国でありながら、戦後、核についてどのような政策をとってきたかを考えると、何も学んでこなかったとしか言いようがないですね。
 被爆者運動があり、メディアも被爆者の言葉を取り上げ、研究者も証言を取り、記録してきました。憲法九条の下で非核三原則を導入もしてきました。にもかかわらず、実際の国策としてはアメリカの核の傘の下にありますし、原発政策自体も導入時から潜在的核抑止力を保持するという動機が強く働いています。日本政府は、核兵器の保有も必要最小限度の防衛力に限っては認められるという立場です。核兵器禁止条約にしても、アメリカの顔色を忖度して参加しないとなると、これはもう、戦後日本の原発も含めた安全保障政策において核は否定されなかったどころか、本質的には肯定されてきたのだと言わざるを得ませんね。「核なき世界」を目指そうとしたオバマ大統領から小型の戦術核使用を志向するトランプ大統領に代わったいま、核から解放された世界はまったく見通せない状況になっていて、私は人類が自滅する可能性は十分あると思います。(p.179)
 安倍首相のスピーチに注目しましょう。
# by sabasaba13 | 2019-08-06 07:17 | 鶏肋 | Comments(0)