大谷康子

c0051620_2201830.jpg 山ノ神が足繁くかよっているマッサージ師さんから、大谷康子というヴァイオリニストが近所に住んでいるという情報を入手してきました。へえー、それはいつか聴いてみたいものだと思っていたら、某コンサートでもらったチラシで、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏することを知りました。垣内悠希指揮の東京ニューシティ管弦楽団で、他の曲目はシベリウスのカレリア組曲と交響曲第1番。いわゆる「国民楽派」がコンセプトですね。ホールも池袋にある東京芸術劇場で我が家の近場だし、山ノ神を誘って聴きにいくことにしました。
 まずはカレリア組曲、以前に拙ブログにも書きましたが、私にとって大切な思い出の曲です。やや迫力が足りないかなと思いましたが、溌剌とした清新な演奏には満足。
 そして大谷康子氏が颯爽と登場。ポルタメントを多用して情熱的に歌うヴァイオリンには聴き惚れてしまいました。常に指揮者とオーケストラとのコンタクトをとって音楽をリードする姉御肌の風格も魅力的でした。次はベートーヴェンとシベリウスのヴァイオリン協奏曲をぜひ聴いてみたいものです。贔屓にさせていただきます。なお文化祭の仮装のようなチープっぽいドレスはいかがなものかと思いましたが、ま、余計なお世話ですね。
 そして15分休憩の後、いよいよシベリウスの交響曲第1番です。頻繁に演奏される第2番(業界用語で言う「しべに」)ではなく、第1番を選んだところに、オーケストラの志と自身を感じます。おうよ、私も第2番だけがどうしてもてはやされるのか理解に苦しみます。もちろん悪い曲ではないのですが、第1・5・6番のほうがずっと素敵なのに。
 さあ始まりです。冒頭、北欧の寂寞とした自然を思わせる清澄で美しい音にいきなり引き込まれました。ダイナミックな第1楽章、穏やかでメロディアスな第2楽章、律動的でロマンティックな第3楽章、そして情熱的な第4楽章はピチカートの静かな和音で終わります。垣内氏の真面目で律儀な指揮ぶりは、作曲者への敬意と愛情にあふれたものでした。曲の最後は弱音で静かに終わるのですが、響きが残っているのに「ブラボー」と叫ぶ不粋な客もおらず、余韻が消えた後のしじままで楽しむことができました。これは稀有なる体験です。
 満足感とともにホールを出ようとすると、出口のところでオーケストラのメンバーがお見送りをしてくれました。初々しくて良いですね。

 それでは夕食をいただいて帰宅することにしましょう。ホールや映画館に行く楽しみの一つは、その付近の店で美味しいものにありつけることです。渋谷アップリンクと「ヴィロン」のパン、ポレポレ東中野と「十番」のタンメン、オペラシティと「つな八」のてんぷら、浜離宮朝日ホールと「磯野屋」の寿司、新国立劇場と「はげ天」のてんぷら、東京文化会館と「池之端藪」の蕎麦、津田ホールと「ユーハイム」の洋食、岩波ホールと「揚子江菜館」の上海式肉焼そば・「スヰート・ポーズ」の餃子、新宿と「中村屋」などなどなど。東京芸術劇場と言えば、そう、「鼎泰豊」の小籠包です。東武デパートにある「鼎泰豊」に寄ったところ、幸い席が空いていました。さっそく小籠包とカニチャーハンを所望。もちもちとした皮と、美味なる餡と、ジューシーな肉汁のトリニティを楽しみながら、山ノ神と音楽談義に花を咲かせました。人生もそう捨てたものではありません。
# by sabasaba13 | 2019-12-14 07:27 | 音楽 | Comments(0)

福井・富山編(80):雨晴海岸へ(16.3)

 それでは雨晴海岸へと向かいましょう。あいの風とやま鉄道のホームに行くエスカレーターに乗ると、脇を富山銀行のキャラクター「Bankenトミー」が流れていきました。犬が金庫番をしている銀行に預金するなんて真っ平御免だと私は思うのですが、意に介さない人が多いのかな。「ゆるキャラ」を面白がって集めてきましたが、最近の猖獗ぶりには不安を覚えてきました。マスコットを餌に子どもを引きつけ売上げを伸ばそうとしているのか、はたまた大人自体がマスコットを好むのか。いずれにせよ、真っ当なこととは思えません。井上章一氏も『日本の醜さについて 都市とエゴイズム』(幻冬舎新書497)の中で、こう苦言を呈しておられます。
 ゾウの人形(佐藤製薬)やウサギの人形(エスエス製薬)も、設置の事情はわからない。どちらも、カエルの場合と同じように、子どもを人形でそそろうとしていた。子どもが親にせがむ、その甘えを売上げの向上へつなげることが、はかられたのである。
 動機は、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダース人形と、かさなりあう。どちらにもつうじる日本的な景観は、子どもをねらった営業に、ねざしていた。日本人は、子どもにふりまわされてきたのかと、考えこまされる。(中略)
 そのいっぽうで、着ぐるみの「ゆるキャラ」は、逆にあふれだしている。こちらは、商店のみならず、行政や学校にも利用されだした。公的機関までふくめ、幼稚になってきたものだなと感じいる。
 私は「ゆるキャラ」事情にうとく、その発達史をうまく説明しきれない。しかし、子どもっぽさという点では、店頭人形をひきついでいるところもあるだろう。ここでは、日本の景観にひそむ幼児性を、着ぐるみの先輩にあたる人形で、論じてみた。そううけとってもらえば、ありがたい。(p.90~1)
 あいの風とやま鉄道に乗ること16分で高岡駅に到着、こちらで食事を取ることにしましょう。駅構内にある「山海亭」でご当地B級グルメ氷見うどんをいただきました。讃岐うどん(香川県)、稲庭うどん(秋田県)と並ぶ日本三大うどん…と言いたいところですが、両横綱を除くもう一つの席は確定していないようです。氷見うどん(富山県)、水沢うどん(群馬県)、五島うどん(長崎県)、きしめん(愛知県)など諸説紛々。ま、美味しければどうでもいいではありませんか。「手延べ」による強い腰と粘り、餅のような感触と風味、のどごしの良さと歯ごたえに舌鼓を打ち鳴らしました。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-13 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(79):富山(16.3)

 気を取り直して歩を進めましょう。駅前には、薬売りの銅像がありました。路面電車を撮影していると、歩道の端にレンタサイクルがずらりと並んでいました。
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 どうやら乗り捨てのできるシステムらしいですね、気になったのでいま調べてみると「アヴィレ(自転車市民共同利用システム)」という試みでした。富山市のサイトから転記します。
 市内各所に設置された「ステーション」から、自由に自転車を利用し、任意のステーションに自転車を返却することができる新しいレンタサイクルのことです。環境にやさしい自転車による公共交通として注目されており、近年欧州を中心に普及しており、日本ではコミュニティサイクルと呼ばれ、各地で社会実験などの取り組みが始まるなど、新たな交通サービスとして非常に高い関心を集めています。
 富山市は環境モデル都市として、「公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり」によるCO2排出量の大幅な削減を目指していますが、特に過度な自動車利用の見直しが大きな焦点となっています。この事業では、中心市街地にIT技術を駆使した自転車を導入し、特定エリアの多地点に狭い間隔でステーションを配置することで、交通網としての利便性を高めることにより、近距離の自動車利用の抑制を促し、二酸化炭素の排出量の削減を図るとともに、中心市街地の活性化や回遊性の強化を図ることを目的としています。
 ブンダバー! 何と高い志操をお持ちなのでしょう、富山市は。現在の日本はさまざまな問題を抱えていますが、その一つが自動車に対する過度の優遇だと思います。詳細は『自動車の社会的費用』(宇沢弘文 岩波新書)をお読みいただきたいのですが、自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設計がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。宇沢氏曰くそれは「日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したもの」です。代表的なものが歩道橋ですね。昨今高齢者の運転による人身事故が問題になっていますが、まずは交通弱者が安心して歩行できる環境を整備することが最優先の課題だと思います。
 富山市は、渋滞緩和と環境問題の解消を図るための新しい軌道系交通システムLRT(ライト・レール・トランジット)を導入するなど、自動車の暴虐を抑え込もうとする施策を意欲的に行なっているようです。さあ各自治体よ、富山市に続け。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-12 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(78):富山(16.3)

 資料館付近の街並みを撮影して、さてそれでは10:21発のバスに乗って富山駅へと向かいましょう。車窓をぼんやり眺めていると、ひさしぶりに"私たち「イカのおすし」を守ります"という標語を見かけました。大津島高円寺で見て以来ですね。贅言ながら説明すると、"知らない人について「イカ」ない・車や悪い誘いに「の」らない・助けてと「お」お声をあげる・「す」ぐに逃げる・大人の人に「し」らせる"という「連れ去り」を防ぐ合言葉です。そして富山駅前にとうちゃこ。
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 富山は以前に一度来たことがあるので、二度目の来訪です。なお最近読んだ本により、ここ富山でもアメリカ軍による激しい無差別爆撃があったことを知りました。以下、引用します。
『日本を問い直す -人類学者の視座』 (川田順造 青土社)

 めぼしい都市を焼き尽くした後、八月二日、B29一八二機が、富山市の郊外の軍の施設ではなく、中心部の市街地を、照明弾をまず投下した上で新型のナパーム焼夷弾で集中攻撃し、二時間で民家の99パーセントを破壊し、3000人の一般市民を殺した。東京で罹災した15歳の男性は、母、妹と一緒に富山へ逃げて来て、この空襲に遭い、母と妹は無惨な姿で焼け死んだ。
 こんな地方都市にまで空襲を続けたのは、30億ドルをかけて開発したB29を、アメリカ空軍は2000機発注していて、その多くが、残された唯一の敵国日本空襲のために、マリアナ基地に配備されていたからでもある。軍と石油会社が共同で開発した、多数の筒に分かれ、発火した状態で人家の屋根を貫通し屋内にゼリー状のナパームが飛び散って発火する新型焼夷弾や、酸素なしで2~3000度の高熱と閃光を発して燃えつづけるエレクトロン焼夷弾も、基地に大量に残っていた。(p.36)

 東京に限らず、もはや日本の敗戦が決定的だった8月2日夜間の、B29一七四機による富山市市街地の焼き尽くしなど、非戦闘員の大量殺戮を目的として組織的に行なわれた空襲の犠牲者は全国に多い。富山市の場合、午前零時から先頭機が照明弾を投下し、後続機が周辺部から焼夷弾を投下して火の輪で市街地を囲み、住民の逃げ場をなくした(この方法は東京大空襲の時と同じだ)。この結果、死者2737人(人口当たりの死者は、地方空襲で最多)、負傷者7900人(人口当たりの負傷者は、地方空襲で最多)、被災人口10万9572人、焼失家屋24914戸(市街地の99・5パーセント)という被害を受けた。
 多額の費用をかけて開発した新型ナパーム弾のストックが、当時マリアナの米軍基地には山のようにあり、これをできるだけ消費するという「戦争の経済学」も作用していたらしい。(p.293)


『血と涙で綴った証言 戦争』 (朝日新聞テーマ談話室・編 朝日ソノラマ)

母よ妹よ、狂った孤独の少年よ
 終戦の年の八月一日深夜から未明にかけて、富山市は激しい空襲を受けた。私たち一家(母・41歳、妹・13と1歳、私・15歳)が東京から疎開してきて四ヵ月後のことだった。その夜、勤労動員の疲れでぐっすり眠りこんでいた私は、母がゆり起こしたような声を夢うつつできいていた。ハッと気がつくと、何かが炸裂するような、ただならぬあたりの物音。私は両手に何がしかの物を持ち、防空ずきんの上からかいまき布団をかぶって避難した。しかし、行く手は炎に阻まれ、郊外までは脱出できず、やっとのことで周囲を家に囲まれた田んぼに身をひそめることができた。家族はちりぢりになっていた。
 B29は十数機ずつで波状攻撃をかけ、街中が火の海となった。近くの紡績工場の油タンクがごう音を立てて炎を天高く吹き上げる。
 夜が明けて焼け跡に戻ったが、帰ってきたのは上の妹だけだった。翌日、廃虚の街のあちこちを、竹の棒を手に母たちを探し回った。半日ほどして、ある防空ぼうで二人を見つけた。母は赤ん坊を抱くように両手を少し広げ、体を左側にして横たわっていた。右のほほ骨が焦げて炭のようになっていた。妹は少し離れて、母の両腕から抜け出した形で仰向けになっていた。おなかの皮は胸のあたりからもものつけ根まで裂けてなくなり、腸が風船のように異様に盛り上がっていた。翌日(と記憶している)炎天下で二人を焼いた。
 その日も焼け跡のあちこちで遺体を焼く煙が上がっていた。この空襲で二千数百人の市民の命が奪われた。(8月27日) 東京都 中山伊佐男 57歳 高校教諭 (下p.493)
 言葉もありません。この戦争犯罪の責任を追及せず、あろうことか敗戦後もアメリカ軍に基地を無制限に提供してその無差別爆撃を幇助し続けている恥知らずなこの国の政府と、それを支持する人びと…

 本日の三枚は、八尾の街並みです。
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# by sabasaba13 | 2019-12-11 06:15 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(77):八尾(16.3)

 そして「八尾おわら資料館」に入館、ビデオで風の盆を堪能いたしました。エキゾチックな胡弓の調べにのって、ひめやかに踊る男女。いいですね、ほんとうにいつか見に来たいものです。風の盆で使われる三味線と胡弓も展示してありました。
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 トイレの男女表示はもちろんおわら風の盆。
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 なお新作おわらと、おわら風の盆という名前の由来について解説がありましたので、後学のために転記しておきます。
 おわらのうたは、前囃子・本歌・後囃子で組まれ、七七七五の句で構成されています。現在うたわれる本歌には、「古謡おわら」と「新作おわら」があります。川柳や都都逸などから様々にうたわれていた古謡を、より洗練させるように依頼された小杉放庵が、昭和4年「八尾四季」を発表、以後野口雨情佐藤惣之助ら文人と、町の文壇を率いる青年たちが主となって、新作おわらがうたわれるようになりました。

小杉放庵
ゆらぐ釣橋手に手を取りて 渡る井田川 オワラ 春の風

野口雨情
軒端雀がまたきて覗く きょうも糸繰りゃ オワラ 手につかぬ

佐藤惣之助 「人生劇場」
八尾おわらをしみじみきけば むかし山風 オワラ 草の声


「おわら」、「風の盆」の由来について

 越中おわら節は、江戸時代の元禄年間(1688~1703)から始められたと伝えられており、すでに三百年以上の歴史があります。
 しかしながら、民衆の間で生まれた芸能のほとんどがそうであるように、越中おわら節においても「おわら」や「風の盆」の名の由来を特定することは難しく、これまで様々な説が唱えられてきました。
以下に、その主だったものをご紹介します。


「おわら」について
1 「お笑い節」説
文化九年(1812)の秋、遊芸の達人たちが滑稽な変装をして新作の歌を唄いながら町練りをおこない、歌詞の中に「おわらひ」という語を差しはさんで唄ったことから、当初は「おわらひ節」と言われ、後に「おわら節」になった。
2 「大藁(おおわら)節」説
豊年満作を祈り、藁の束が大きくなるようにとの願いから「大藁節」と言われ、これが「おわら」に転じた。
3 「小原(おはら)村」説
八尾近郊の小原村(桐谷地区)出身の娘さんが唄った「糸繰り歌」がまことに美しく、誰もが聞きほれ、人々は「小原の節」として習い唄いはじめた。一説には子守歌との説もあり。
4 「小原比丘尼」説
文化年間(1804~1817)のころ、学問にすぐれ、諸芸に通じていた京都の尼・小原比丘尼が八尾の近郊・下笹原村に移り住むようになった。ある年の盂蘭盆の時、八尾の町へ托鉢に出た小原尼は、町の中で様々に歌い踊っている人々の様子を見て新しく盆歌をつくり、これが今日に伝わるおわら節になった;


「風の盆」について
1 「風鎮め」説
おわら風の盆がおこなわれる9月1日は旧暦の八朔(八月朔日)で、春分から百十日目に当たり、台風到来のシーズンと重なる風の厄災日とされてきた。この八朔の日に日本各地では様々な農耕儀礼がおこなわれ、八尾の「風の盆」は、風を鎮めることを祈る踊りとして考えられることから、「風の盆」と言われるようになった。

2 「風流、風雅」説
日本や中国の古代において、「風」という言葉は野山を吹きわたる風(wind)としてばかりか、「歌謡」、ことに地方に伝わる「民謡」のことを意味した。これは孔子が編纂した中国最古の詩集『詩経』において、各地に伝わる民謡を「国風」と表現し、日本の古代にまとめられた『風土記』の「風」も地方の民謡のことをあらわすことから、古代より「風」と「音楽」が同義であることが理解される。
以上のことから、「風の盆」はまさに、人々が夜を徹して唄い踊る「歌舞音曲の祭礼」として理解することができる。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-10 06:20 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(76):八尾(16.3)

 その先にあるのが「おたや階段」、「おたや地蔵」があるのでそう呼ばれるそうです。風変わりな名前ですが、「八尾町の小路案内」にその由来が記されていました。
 施主は大久保屋角兵衛と云われており、近くに御旅屋があることから、おたや地蔵と呼ばれています。童謡詩壇の第一人者野口雨情がおわら歌詞に詠んだことで有名です。
「おたや地蔵さんこの坂下は 今宵なつかしオワラ月あかり」
 坂の下にある小さな広場では、おわら風の盆で鏡町の演舞場となるそうです。げっ、安倍上等兵がまたいた。
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 上新町商店街は、正面に残雪をまとった山々が見える素敵な通りでした。「刀剣鞘製作 クリーニングのヤングドライ」という摩訶不思議なお店もありましたが。「味噌 醤油 平野醸造元」という商家の千本格子は見事、見惚れてしまいました。
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 「オカメ」という奇天烈な名前の喫茶店があったので、中に入り珈琲を飲みながら一休み。ご主人からおわら風の盆についての四方山話を聞かせていただきました。やはりその時期に八尾で宿をとるのは至難の業のようです。
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 それではもう少し街歩きを楽しみましょう。白壁の蔵が建ち並ぶのは「蔵並み通り」、「八尾町の小路案内」の解説がありました。
 江戸時代の八尾町は富山藩一の物資交易市場として繁栄を極め、富山藩の金の六割は八尾にありといわれた。家屋が密集し大火が多かった八尾町では、商人が火災から財を守るために建てた土蔵や土蔵造りの家屋が多く見られる。この小路は土蔵が立ち並んでいることから、この呼び名で親しまれている。
 公衆便所の男女表示は、もちろんおわら風の盆。
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 そして「日本の道100選」に選ばれている、情緒にあふれた諏訪町本通りへ。いいですね、この通りは。御影石を使った石畳、切妻屋根の出桁造りに千本格子をしつらえた町家、木製の街路灯、そして電柱を地下に埋設しているのですっきりとした相貌。なお雪解け水や防火用水を流すための用水路「エンナカ」が道の片側にあり、その音は「残したい日本の音風景100選」にも選定されているそうですが、気づきませんでした。不覚。

 本日の七枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-09 07:35 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(75):八尾(16.3)

 さてここから町の中心まで歩くと二十分強かかるそうです。時間節約のために、駅前にあったタクシー会社に寄ると、予約のため断られました。しかたがない、歩くことにしましょう。落ち着いた雰囲気の街並みの中を、田園風景や残雪をかぶる山々を眺めながらのんびりと歩いていくと、三十分ほどで井田川に面した町民ひろばに着きました。
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 川の向こうには、高い石垣の上に甍が連なる八尾の町が一望できます。河岸段丘の上にできた町であることがよく分かりますが、この石垣の圧倒的な迫力は半端ではないですね。禅寺橋を渡って、石垣に沿った善寺坂をのぼっていきます。「八尾町の小路案内」という解説板があったので転記します。
禅寺坂
 八尾町の開祖米屋少兵衛は、寛永13(1636)年の八尾町開町と同時に、甚九郎の渡し場から本町(西町・東町)に至る坂道をつくった。山田・保内・室牧の人や富山・高岡の商人が買い物や交易のためにここから町に入った。禅寺(宗禅寺)は寛文年間(1661)に宗圓寺として創立された。
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 途中に「狼地獄」という解説がありました。
 その昔、西町に迷い込んだ一匹の狼を、住民がこの崖下に転落させて退治した。
以後この一帯を俊敏な狼さえ命を落とす危険な場所として「狼地獄」と呼んで語り継いだ。
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 坂の上から後ろを振り返ると、高い石垣と坂道とお寺さんの大きな屋根と町屋の甍の波がほどよく調和して、ピクチャレスクな光景でした。通りに出るとバス停があったので確認すると、富山駅前行きのバスが一時間に一本ほど出ています。これはラッキー、利用することにしましょう。通りには「宮田旅館」がありましたが、ここに吉井勇が逗留したのですね。
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 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-08 08:02 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(74):八尾(16.3)

 さあいよいよ最終日です。カーテンを開けると雨は降っていませんが、相も変わらない曇天。でもテレビで気象情報をみると、午後には晴れ間が出るとのことなので、一縷の期待をかけましょう。本日の旅程は、越中八尾(やつお)を散策して富山へ戻り、雨晴海岸へ。また富山に戻って市内の近代化遺産を見学。そしてタクシーで富山へ、その途中でイタイイタイ病を訪れるというものです。せめて雨晴海岸にいる間だけでも晴れてくれないかなあ、と淡い希望を胸にチェックアウトをしてホテルを出発しました。高岡駅からあいの風とやま鉄道に約二十分乗ると富山駅に到着、高山本線に乗り換えて三十分ほどで越中八尾駅に着きました。まずは『一度は訪ねておきたい日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から、八尾のついての紹介文を引用します。
 毎年9月1日から3日までの間、富山市内やその近辺の宿は満室だそうだ。この3日間は越中八尾の「おわら風の盆」という祭りの日で、全国から観光客が押し寄せるのである。
 越中八尾は富山から髙山本線で20分ほど。8つの尾根が寄り添い、その中央部を幾筋もの渓流を集めた井田川が流れている。小さな町で、いつもは静かだが、この祭りの期間中だけは20万人から30万人もの人出であふれる。
 町中は数千のぼんぼりと万灯、まん幕で飾られ、揃いのはっぴや浴衣姿に網笠をつけて老若男女が踊る。これだけなら全国のどこかにもありそうだが、風の盆は胡弓の音色と三味線に合わせ「八尾よいとこおわらの本場 二百十日をオワラ出て踊る」と唄い、合の手が入る。その胡弓の音色が哀調を帯び、見物客の心を震わせる。また、胡弓が優雅な女踊りを一層盛り上げ、ぼんぼりの灯に浮かぶ舞姿の美しさを際立たせる。
 全国からわざわざやって来るだけの魅力が風の盆には確かにある。300年の歴史をもち、八尾の人たちはこの日のために並々ならぬ稽古をし、3日間踊り、歌い明かす。八尾の一年は風の盆で始まり、風の盆で終わるのである。
 町歩きを目的にするなら、風の盆が過ぎて静かになった頃がいい。まずは、駅から歩いて25分ほど、タクシーなら約5分の聞名寺(もんみょうじ)へ行こう。聞名寺は正応3年(1290)に本願寺第3世覚如上人が北陸巡行のときに創建した名刹。越中八尾はこの寺の門前町として栄えた。江戸時代には飛騨往還を行き交う物資の中継ぎ所で、富山藩の御納戸所と呼ばれていた。旅籠や酒屋が軒を並べ、遊郭もできたという。
 聞名寺から急勾配の坂を下って井田川に架かる禅寺橋に出る。振り返ると累々と積まれた石垣の上に家々が立ち並んでいる。その光景は圧巻のひと言。町中を歩いていると気が付かないが、川面よりはるかに高い河岸段丘にできた町であることがよく分かる。橋から再び坂を上りきり、吉井勇が逗留していた老舗の宮田旅館や福嶋酒造のある道から諏訪町へ歩く。諏訪町通りは日本の道百選に選ばれた石畳の道で、千本格子の家が続いている。(p.114~5)
 駅構内では、さっそく「おわら風の盆」のポスターが出迎えてくれました。古い木造の駅舎で、いま調べたところ、1927年9月の開業時に石川県の七尾線七尾駅を移築したものだそうです。

 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-07 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(73):井波(16.3)

 ギリシア風の古風な建物は井波美術館、1924(大正13)年に建てられた北陸銀行井波支店を利用したものです。作品の収蔵はしておらず、同人の方が持ち寄った地元の伝統産業である木彫、ブロンズ像や書などが展示してあるそうです。二十分ほどのんびり歩くと、豪壮な石垣が印象的な瑞泉寺に着きました。
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 石段をのぼると噂の山門がありました。山門を飾る精緻で躍動的な木彫のなんと見事なことよ、時が経つのも忘れて見惚れてしまいました。
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 それでは八日町通りを逆方向へ戻りましょう。木彫で飾られたさまざまな看板、電話ボックス、はてはバス停の標識。汲めども尽きぬ泉のように、種々の木彫があらわれて目を楽しませてくれます。
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 一心不乱に木を削る職人さんの姿も、外から見ることができました。
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 細い路地から見る八日通りの景観も風情があります。小雨が降ってきましたが、雨で光る石畳もまたいいものです。
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 交通広場の四阿では、軒にいる木彫の猫をお見逃しなく。あまり可愛くはありませんが。
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 というわけで、井波、いいですね。まだまだ見残したものがたくさんありそうです。先ほどの閑乗寺公園と併せて、必ずや再訪します。
 17:35発の高岡行きバスに乗り込み、一時間強で高岡駅前に着きました。夕食は、もちろんご当地B級グルメ二連発、ブラックラーメンと高岡コロッケです。幸い、駅前の「次元」というお店で両方食べることができました。ブラックラーメンは富山県で生まれたご当地ラーメン、戦後まもないころ。肉体労働者、食べ盛りの若者のための昼食として、"ごはんのおかず"になるような濃い味付けをしたのが始まりといわれています。醤油ベースの真っ黒いスープと大量にきかせた胡椒に舌鼓を打ちました。人によっては毀誉褒貶があるでしょうが、私は好きです。
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 高岡コロッケは、ものづくりの町として発展した高度成長期に共働きの家庭が増え、手軽で安価な惣菜として重宝がられたのが嚆矢のようです。ま、特別変わったコロッケではありませんが、それなりに美味しくいただきました。
 ホテルに戻ってシャワーを浴び、ビールと地酒を呑みながら明日の旅程に思いを馳せました。いよいよ最終日です。

 本日の五枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-06 10:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(72):井波(16.3)

 それでは瑞泉寺に続く石畳の通り、八日町通りを歩きましょう。曇り時々小雨のためか、はたまたまだ知られていないためか、観光客はほとんど見当たりません。静謐で情緒あふれる雰囲気を存分に味わうことができました。古い町屋と、家々を飾る木彫の数々、歩の進みもゆるくなります。
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 途中に史跡「翁塚と黒髪庵」があったので、立ち寄ってみました。解説文を転記します。
史跡 翁塚と黒髪庵
 庵の境内にある翁塚は、元禄13年(1700)に芭蕉の門弟であった井波の浪化が、師を慕って建てた塚である。
 瑞泉寺11代の浪化は、近江の義仲寺にある芭蕉の墓から小石三個を持ち帰り、この塚を建てた。台座に「是本本邦翁塚始也矣」とある。二年後の元禄15年には、芭蕉の遺髪も塚に納められた。この翁塚は伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚の一つとされている。
 黒髪庵は蕉門の心を不朽に残すため、北陸の俳人等が一板一柱を寄進して、文化7年(1810)に建てられた。
 ここでの句会には文台・硯・紙・水引だけが利用され、食事は茶飯と一汁一菜の簡素なものであった。町を訪れた俳人は、この庵で手厚くもてなされ、出発にはタバコ・鼻紙・ワラジが贈られた。
 その後、町の俳人達によって明治15年(1882)に芭蕉堂が建てられ、堂内に芭蕉像が安置された。

しつらひは 旅のやうなり 魂祭り    浪化
 いい話ですね。俳諧という芸術への敬愛、そして俳諧を通して結びついたネットワーク、江戸時代の民衆がもった文化的底力に敬意を表します。スマートフォンにうつつを抜かし魂を奪われ呆けた顔の現代人への、過去からの警鐘と受け止めましょう。
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# by sabasaba13 | 2019-12-05 06:30 | 中部 | Comments(0)