「生物と無生物のあいだ」

 「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一 講談社現代新書1891)読了。科学関係の本を読むなんて何年ぶりだろう、実は屋久島で縄文杉に出会う前に、"いのち"に関する研究の最先端を知っておくのも悪くないな、と柄にもないことを思って手にした次第です。けっこう本書は話題になっているそうですね。結論、面白かったあ!
 著者は分子生物学を専攻されている第一線の研究者です。四の五の言う前に、プロローグの要約を紹介した方が本書の魅力を伝えられると思います。生命とは何か? DNA構造の解明などを通して20世紀の生命科学が出した答えが、「自己複製を行うシステム」というものです。つまり生命体とは、ミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎない。ということは、それを巧みに操作することによって生命体を作り変え、"改良"することも可能であるということを意味するのですね。著者は、こうした生命の仕組みを分子のレベルで解析する研究に取り組みます。具体的には、遺伝子操作技術を駆使して、膵臓のある重要な部分の情報だけをDNAから切り取ったマウスをつくり、その受精卵からできた子供がどのような異常をもつかを調べました。(こうしたDNAの部品情報を壊したマウスを、ノックアウト[叩き壊されている]マウスと言うそうです) 栄養失調か、糖尿病か。しかし… 何の異常も見つからない。生命を「分子機械」と捉えている限り、理解できない実験結果です。遺伝子ノックアウト技術によってパーツをひとつ取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体が組みあがってみると何ら機能不全がない、ここに生命の本質があるのではないか。このダイナミズムが、生物と無生物を識別するポイントではないか。生物が摂取した分子は、瞬く間に全身に散らばり、一時、緩くそこにとどまり、次の瞬間には身体から抜け出ていく、つまり生命体の身体はパーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。著者はこれを「生命とは動的平衡にある流れである」と表現されています。形は変わらない(ように見える)が、それを構成する砂粒は刻々と入れ替わっている"砂上の楼閣(sandcastle)"という、美しい比喩も秀逸ですね。(福岡さんはアイリス・マードックのファンなのかな) そして生命の仕組みについて、まるで不出来でやる気のない中学生を相手にするかの如く、図を駆使しながら優しく根気よく丁寧に伝えようとする姿勢には頭が下がります。十全に理解できたとはとても言えませんが、生命の凄さについてはその一端に触れえたと思います。
 また生命の神秘について究明を試みた先達たち(オズワルド・エイブリー、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、ロザリンド・フランクリン…)が織り成してきたドラマも興味深いし、ロックフェラー大学での経験をもとに最先端の生命科学研究の現場について紹介するくだりも面白い。その生々しい人間臭さには唸ってしまいます。

 さて遺伝子組み換え食品が普及しつつある昨今、福岡さんはどのように考えておられるのか気になるところです。(私は自らの「胡散臭い」という直観を信じて、全力で手を出さないようにしていますが) 直接の言及はありませんが、本文中に以下の二つの言葉がありました。
 知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということにある。

 私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。
 自然の流れを踏みにじる好意に毫も懐疑心をもたない企業や科学者の知的荒廃に対する呪詛の言葉だと受け取りました。自然・生命による手痛いしっぺ返しがそろそろ起きそうな、戦慄すべき予感におそわれます。

 余談。第6章に「ダーク・サイド・オブ・DNA」というサブタイトルがつけられていますが、もしや福岡さんはピンク・フロイドのファンではありませんか。"ONE OF THESE DAYS"にあわせて試験管をふりまわす氏の姿がふと目に浮かんでしまいました。
by sabasaba13 | 2008-11-03 07:18 | | Comments(0)
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