屋久島編(13):種子島(08.3)

 種子島は屋久島にくらべて、とにかく平べったい島ですね。最高点が282mというのですから、最高点1985mの屋久島とはえらい違いです。運転手さん曰く、島の産業は米・さとうきび・安納(あんのう)いも・茶とロケットぐらいだそうです。ろけっとお? ああそうか、この島には宇宙センターがあるのでしたっけ。まずは坂井神社にある日本一の大ソテツを見物。樹齢600年を越すといわれるその雄姿には瞠目です。ご丁寧に、観察するための展望台も設置されていました。なお神社には忠魂碑もあります。中央政府から遠く離れたこんな遠隔の地にまで「徴兵」という触手が伸びていたことをあらためて痛感しました。げに恐ろしきは苛政なり。途中できれいに咲き誇る菜の花畠があったので、車を停めてもらい撮影。
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 いろいろな重しを乗せた屋根をよく見かけるので、台風がよく通過するのでしょう。さらに南下していくと、彼方に山なみが見えてきました。平坦な種子島にあんな高い山があったっけ、と思いましたがすぐに気づきました。屋久島だ… まさしく「海上のアルプス」ですね。
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 そして一時間強で島の最南端、門倉岬に到着です。ポルトガル人によって鉄砲が伝えられた地で、一帯は公園として整備されていました。火縄銃を構える武士の銅像を見て、鳥居をくぐり少し歩くと「鉄砲伝来紀功碑」があります。
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 そして眼下には大きく湾曲した海岸がつづき、波が打ち寄せています。1543(天文12)8月25日、この海岸に見慣れぬ異国船が漂着し、乗船していたポルトガル人から鉄砲が伝えられたと言われています。以下、スーパー・ニッポニカ(小学館)から引用します。
 日本における銃の歴史は、1543年(天文12)に遭難し種子島に漂着したポルトガル人が、2丁のマッチロック銃(火縄銃)を伝えたことに始まる。このときに日本に伝わったマッチロック銃は、火縄が後方から前方に回転する型式で、当時ポルトガルで一般的だった火縄が後方に回転する方式と異なっていた。火縄が前方に回転する方式は中近東やインドで一般的に製造されており、日本に伝えられたマッチロック銃も、ポルトガル植民地だったインドのゴアで製造されたものの可能性が高い。
 当時日本は戦国時代で、ポルトガル人が伝えた火縄銃は、すぐに種子島でコピーされて製造され、種子島銃とよばれるようになった。各大名の新兵器に対する需要は高く、種子島だけでなく、堺や近江の国友、日野などでも製造が始められ、火縄銃は急速に日本各地に広がっていった。なかでも織田信長は、戦闘に銃を大量に使用して戦果をあげた。1575年(天正3)の長篠の戦いで織田信長は、3000丁以上の火縄銃を集中的に使用して甲州騎馬隊を撃破した。
 徳川幕府が成立すると、幕府は戦力としての火縄銃を恐れ、さまざまな制限を加えた。新たに製造される火縄銃の製造台数や口径、購入者などを制約し、新型火縄銃の開発も厳しく禁止した。幕府の銃砲に対する規制と鎖国政策によって、海外の新たな情報が流入しなくなり、日本における銃の発展改良は幕末まで停滞した。
 鉄砲が歴史に大きな影響を与えたこともさることながら、その発展・改良を抑制したことに興味を引かれます。一度手にした武器の性能を意図的に停滞させるというのは、人間の歴史においてレア・ケースだと思います。この公園には異国船の形を模した小さな展望台もあり、そこに上ると屋久島の威容を一望することもできます。また公園内には「慰霊之碑」や「出征者紀念碑」もあったので、遥か南方を見やりながらそこで戦死した島民たちを偲ぶためのものかもしれません。さて、それでは宇宙センターに向かいましょう。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2008-11-21 06:07 | 九州 | Comments(0)
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