信号からしばらく歩き、二本目の左折する路地に入ると、そのあたり一帯が同潤会住宅地です。釈迦に説法ですが、いちおう同潤会について説明しておきましょう。ウィキペディアからの引用です。
同潤会は、関東大震災後、国策により設立された財団法人で、帝都復興の一環として住宅供給を目的とした。(中略) 1923年(大正12年)の関東大震災により、東京・横浜の市街地は大きな被害を受けた。下町では木造住宅が密集しており、街区の整備も遅れていたことから被害を大きくした。既に震災前から、不燃造の集合住宅の必要性が認識され、東京市・横浜市では鉄筋ブロック造の集合住宅を造り始めていたが、計画的な供給が課題になった。内務省は国内外から寄せられた義捐金の中から1000万円の支出を決定し、震災の翌年1924年5月、財団法人同潤会が設立され、都市計画家、建築家が評議員や理事に就任した。さっそく東京・横浜に木造バラックの仮設住宅を建設し、1925年8月から同潤会最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅である中之郷アパートの建設が始められ、1926年8月に竣工した。(中略) 以後は同潤会の設計部が中心になって東京・横浜に次々と同潤会アパートが建設された。
同潤会が目指したものは主に都市中間層向けの良質な住宅供給(アパートメント)で、それに付帯してスラム対策の住宅建設(改良住宅)も行った。
というわけです。なお
前掲書で教示していただいたのですが、名称の由来は「沐同江海之潤」という漢詩の一節(川や海が広く遍くこの世を潤す)で、震災で傷ついた人を潤したいという高い志をあらわしているそうです。その中心となったのが内務省の初代都市計画課長・池田宏、彼は米騒動など多発する都市騒擾対策として住宅問題の解決が重要であると考え、住宅会社法を議会に提出しようとしますが大蔵省の反対で廃案になってしまいます。その彼が震災のどさくさに紛れて義捐金の一部を使って立ち上げたのが同潤会、いうなれば潰された住宅会社法のリベンジですね。こうした官僚がかつていたことを、そして今や"この世を潤す"といった高潔な志をもつ官僚は(たぶん)存在せず、己の地位と利権を守ることだくに汲々としているのが現状であろうことを、銘肝しましょう。ここだけの話、霞ヶ関には「己潤会」という地下組織があるのではないのかな。
閑話休題、こちらの同潤会住宅地はお馴染の集合住宅形式ではなく、一軒の家に二~四戸の世帯が住む普通住宅が中心だったそうです。残念ながら当時の建物は見つけられなかったのですが、桜並木や小公園に往時の面影を偲ぶことができました。余談ですが、同潤会アパートは2007年の時点で
上野下アパートを残すのみだそうです。これは見にいかなくちゃ。
本日の一枚です。