言葉の花綵5

 みんなはそれぞれの住む地区にしたがって、べつべつに<子どもの家>にほうりこまれました。こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びをきめるのは監督の大人で、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。しだいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくもなさそうに、ふくれっつらでやります。そしてじぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。たったひとつだけ子どもたちがまだやれたことはといえば、さわぐことでした。-でもそれはもちろん、ほがらかにはしゃぐのではなく、腹だちまぎれの、とげとげしいさわぎでした。
 「そんなことがおもしろいの?」とモモは、いぶかしそうにききました。
 「そんなことは問題じゃないのよ。」と、マリアはおどおどして言いました。
 「それは口にしちゃいけないことなの。」
 「じゃ、なにがいったい問題なの?」
 「将来の役に立つってことさ。」とパオロがこたえました。

 「はじめのうちは気がつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそ何も感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」 (ミヒャエル・エンデ 「モモ」より)


 死んだ人々は、還ってこない以上、
 生き残った人々は、何が判ればいい?

 死んだ人々には、慨く術もない以上、
 生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

 死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
 生き残った人々は沈黙を守るべきなのか? (ジャン・タルジュ-)

 今は両方の世界が、たがいに破壊しあっていますが、それと同じように、たがいに癒しあうこともできるのです。(ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」より)

 イングリッド・バ-グマンはそういった大がかりな撮影方式が気に入らず、しょっちゅうわたしに「なぜ」「なぜ」といって追求し、文句をいった。私は議論をしてもはじまらないと思ったから、彼女にただこう言ってやったんだよ。「イングリッド、たかが映画じゃないか。」(アルフレッド・ヒッチコック)

 住民は逃げてしまって猫の子一匹いなかった。しかし城郭は、石畳は生きていた。石畳というのは、ハルピンで見たときもそうだったけど、やりきれないほど、おれの心をひきつける。石畳には文化のカオリがあるのだ。日本は戦争に負ける。負けるべき国家だ。そのときそう思った。日本も日本人もアカンわい。日本には城郭がない。だから守るべき美しい町も存在しない。市民精神なんて生まれるわけがねえ。みんなバラバラや。ほんまにおかしな国だぜ。こんなミットモナイ国に生みやがった、オヤジやオフクロを、おれは殺してやりたい。
 「こんなとこに住んでみてえなア」…
 「隊長はココも燃やせっていうかね」…
 「そんな命令をしやがったら、俺あアイツを撃ってやる」(殿山泰司)
by sabasaba13 | 2009-04-20 06:06 | 言葉の花綵 | Comments(0)
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