「魯迅烈読」

 「魯迅烈読」(佐高信 岩波現代文庫)読了。「伝説の日中文化サロン 上海・内山書店」(太田尚樹 平凡社新書436)、そして「暗い夜の記録」(許広平 安藤彦太郎訳 岩波新書215)と読み進めてきて、いよいよ魯迅の作品に真っ向から挑んでみたくなりました。その前にもう一冊くらい彼に関する本を読んでおきたいな、と思った次第です。王道ならば「魯迅」(竹内好 未来社)でしょうが、竹内好は別の機会にまとめて読みたいので、あえて覇道である(佐高さん御免なさい)本書を選びました。
 佐高氏といえば、「社畜」「銀行のヤクザ化とヤクザの銀行化」といった痛烈な言葉で社会状況を撃つ硬骨の評論家、その彼が魯迅から厳しい批判精神のありようを学び取っていたことがよくわかりました。魯迅のいろいろな言葉を紹介しながら、思いの丈を述べておられますが、自らの論敵への批判などは少し鼻白むところがあります。よって佐高氏編集の魯迅アンソロジーとして私は読みました。奴隷根性や主体性と自立性の欠如を嫌い、「希望」や「光明」といった甘い言葉に安易に寄りかからず、権威や権力にねばり強く抗い続けた希代の批判精神の持ち主、魯迅。「眼を覚ませ、自分の頭で考え自分の足で歩け、そしてねばり強く仲間を増やしていけ」というメッセージを自分なりに受け取りました。人が人を支配するというネットワークが網の目のように張りめぐらされ、主人か奴隷になるしかない現代日本において、もっとも必要な作家・評論家が魯迅ではないでしょうか。その一端を垣間見せてくれた佐高氏に感謝するとともに、魯迅の滋養と苦味に満ちた言葉を引用したいと思います。
 思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。「故郷」 (p.17 ※本書のページ数)

 もし虎にぶつかったら、木へよじ登って、虎が腹をすかして立ち去ってから降りてきます。もし虎がいつまでも立ち去らなかったら、自分も木の上で餓死するまでですが、その前に自分を紐で木へしばりつけて、屍体だって絶対にくれてやりません。だが、木がなかったらどうか? そのときは、仕方がない、食わせてやるより手がないが、こっちだって一口くらいは噛みついてやります。「両地書」 (p.59)

 進取的な国民の中では、性急さも結構だが、中国のような麻痺した場所に生まれた以上、それでは損するだけです。どんなに犠牲をはらったところで、自分をほろぼすのがせいぜい、国の状態には影響はありません。…この国の麻痺状態を直すには、ただ一つの方法しかない。それは「ねばり」であり、あるいは「絶えず刻む」ことです。「両地書」 (p.62)

 きれいごとの好きな学者たちが、どんなに飾り立てて、歴史を書くときに、「漢族発祥の時代」「漢族発達の時代」「漢族中興の時代」などと、立派な題を設けようと、好意はまことに有難いが、措辞があまりにもまわりくどい。もっと、そのものズバリの言い方が、ここにある―
一、奴隷になりたくてもなれない時代
二、当分安全に奴隷になりおおせている時代 「灯火漫筆」 (p.74)

 現代の社会では、理想と妄想の区別がハッキリしない。もうしばらくしたら、「できない」ことと「しようとしない」こととの区別もハッキリしなくなるだろう。「随感録39」 (p.82)

 「現在」を殺せば、それは「将来」を殺すことだ。―将来は子孫の時代だ。「随感録57」 (p.83)

 死者がもし生きている人の心の中に埋葬されるのでなかったら、それは本当に死んでしまったのだ。「空談」 (p.93)

 前に羽ぶりのよかったものは、復古を願い、いま羽ぶりのいいものは、現状維持をねがい、まだ羽ぶりのよくないものは、革新をねがう。
大ていこんなところだ。大てい! 「小雑感」 (p.102)

 しかし暗黒であるからこそ、救われる路がないからこそ、革命が必要ではないのか? もし前途に必ず「光明」や「救いの路」という保証書がはりつけられていて、それだからこそ勇ましく革命をやるというのであれば、それは革命家ではないどころか、まったく投機家にもおとる。投機でも、それをやって成功するかどうかは、あらかじめ知りようはないのである。「掃共大観」 (p.110)

 主人である時に一切の他人を奴隷にするものは、主人ができると、必ず奴隷をもって自ら甘んずる。これは天経地義、動かすべからざる真理である。「南腔北調集」 (p.116)

 枝葉を取り除いてしまう人は、絶対に花や実を手に入れることができない。「且介亭雑文末編」 (p.126)
 また、てっきりカート・ヴォネガットのものだと思っていた「神よ、われに与えたまえ。変えることのできないものを受け入れる冷静さと、変えるべきものを変える勇気とを。そしてその二つを識別できる知恵をわれに与えたまえ」という言葉が、アメリカのプロテスタント神学者ラインホルト・ニーバーのものだと判ったこと、鶴彬というプロレタリア川柳人(「修身に ない孝行で 淫売婦」!)の存在を知ったことなども、本書のおかげです。そして、核(原子力)発電を批判し続けた稀有なる物理学者・故武谷三男氏の見事な言葉に出会えたことが何よりの喜びです。日本、いや世界中の教員諸氏に贈ります。
 ウソをつくなという教育は、ウソによってしか武装できない民衆を武装解除させる役割しか果たさない。ウソをつくなというより、権力者のウソを見抜く知恵を授けよ。それが教育だ。(p.17)

by sabasaba13 | 2009-05-19 06:08 | | Comments(0)
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