「沈黙を破る」

c0051620_663129.jpg 「沈黙を破る」という映画のことを「DAYS JAPAN」誌上の広河隆一氏のコメントで知り、どうしても見たくなりました。監督は、パレスチナ問題を取材しその考究をつづけるジャーナリスト・土井敏邦氏。パレスチナにおいてイスラエル軍が行なった/行なっている非人間的な加虐行為を、元兵士たちが証言・告白するという内容のドキュメンタリー映画です。この問題に多少なりとも関心をもっており、その実態や被害の様子については多少の知識があります。しかし、イスラエル兵たちはなぜこのような行為に及んだのか、その心の奥底はどうなっているのか、そして退役後の人生にどのような影響があったのかなかったのか、それらについては迂闊にも考えたことがありません。要するに、私はイスラエル兵を人間ではなくたんなる"戦い殺す機械"として見ていなかったのですね。しかし人間である以上、いろいろな葛藤や苦悩があったはず、まず彼らを一人の人間としてとらえることが大事なのでは、と思いながらポレポレ東中野に出かけました。なお、その後に柳家小三治をえがいたドキュメンタリー映画「小三治」も上映されるので、こちらも見ることにしました。小さな映画館とはいうものの、客席は七割ほどの入り、若い方もたくさんいて、この問題に関心をもっている方が多いことに驚き嬉しくなりました。最前列の席を陣取り、開演を待っていると、バルトークの弦楽四重奏曲がBGMとして流れています。虚飾や冗舌を排した毅然とした無調の音楽が、これから見る映画のありようを予告しているかのようでした。素晴らしい選曲の妙ですね、敬意を表します。
 イスラエル軍によるパレスチナ人への加害行為を、映画はイスラエル人・パレスチナ人双方の立場からとらえていきます。まず2002年春、自殺攻撃への報復としてイスラエル軍が行なったヨルダン川西岸への侵攻作戦、そのなかで起こったバラータ難民キャンプ包囲とジェニン難民キャンプ侵攻における破壊と殺戮、そして占領地域におけるパレスチナ人の暮らしやイスラエル軍の日常の様子を、カメラは冷徹にとらえていきます。まるで「眼をそむけてはいけない」と語りかけるかのように。圧巻は、戦車砲などにより行なわれたバラータ難民キャンプへの攻撃です。逃げ惑い、傷つく人々、病院につぎつぎと運び込まれる負傷者や死者、過酷な状況のなかで治療を行なう医者たち、そして突然の死を前に泣き叫ぶあるいは沈黙する肉親。悲鳴、嗚咽、絶叫、怒号、恐怖、憤怒、絶望… そこにあるのは、弱い立場にある一般市民とその暮らしを、圧倒的な軍事力で殺戮・破壊する軍隊の姿です。ただそれだけ。イスラエル兵による監視や暴力、検問所における長い行列といった日常生活も克明にとらえられています。なおナレーションも音楽もないことで、まるでその場にいるような臨場感につつまれます。財産を見つけるために瓦礫を掘り続けるある塗装工がはらった白い土埃が眼前にただよってくるようでした。
 その一方でイスラエルの元将兵だった青年たちがテルアビブで「沈黙を破る」という名の写真展を開きます。自らも加わったイスラエル軍の加害行為を写した写真とともに、占領地で絶対的な権力を手にし、次第に人間性や倫理観、道徳心を失い、"怪物"となっていった自分や仲間たちの姿を人々に語りはじめたのです。ぜひともその証言を引用したいと思います。なおこれは映画を実際に見ていただくしかないのですが、この証言を語る際の表情に眼が釘付けになってしまいました。真摯で力強い表情なのですが、しかし怯えや逡巡といった複雑な感情が瞬時影を落としては消え去っていきます。彼らが抱え込んでいる想いの重さと暗さと大きさを垣間見たような気がしました。
○ユダ・シャウール(元将校)
 「多くのイスラエル人は『セキュリティー(治安・安全保障)・セキュリティー』と口を揃えて言います。自分たちの国を守らなければならない、と。しかしこの国がまもなく、まともな国でなくなってしまうことに気づいてはいない。私たち皆の"内面"が死滅しつつあるのです。社会の深いところが死んでしまいつつあるのです。それはここイスラエルで社会と国の全体に広がっています。
私は世界のあらゆる人びとにこう期待しています。ユダヤ人にはヘブライ語の諺で『他人の過ちから学べ。すべての過ちを犯す時間はないのだから』というのがあります。イスラエルのことだけを語っているのではないのです。世界のどこかを占領しているあらゆる軍隊が同じ過程をたどることになります。なぜなら、"占領"をし続けるには、他の方法などないのですから」

○アビハイ・シャロン(元兵士)
 「平日はトルカレムのような占領地でAPC(装甲人員輸送車)を運転してパレスチナ人の車を踏み潰して走っていました。単に楽しみのためです。車の上を走るというのは面白いものですから。そんな自分が週末の休暇にイスラエル内を車で走るとき、通常の運転ができると思いますか。赤信号でちゃんと誰かの後ろにじっと止まって待っていると思いますか。できるわけがありません。わかってもらいたいのは、占領地で兵士として任務に就いている『アビハイ』という自分と、休暇で帰ってきたときの『アビハイ』は、同じ人間だということです。つまり兵士たちは占領地から、暴力や憎悪、恐怖心や、被害妄想などをすべて抱えたまま、イスラエルの市民社会へ戻ってくるということなのです」

○ノアム・ハユット(元将校)
 「私は、その朝の光景を今でも思い出します。軍のブルドーザーがオリーブの木々を全部破壊した後に、80歳ほどの老人が50代の息子そして孫たちと破壊された畑にやってきました。その前夜にすべてのオリーブの木々が破壊されてしまったことを、この家族はまったく知りませんでした。畑の木々が切り倒されるということが農民にとってどれだけ辛いことか、農村出身の私にはそれがわかっていました。そのオリーブの木々はその老人の父親か祖父が植えたものなのでしょう。それは単に日々の糧を得るためのものではなく、彼らの"人生"そのものを失うことだったのです。イスラエル国民はラジオで『イスラエル軍が入植者の通行する道路の安全を確保した』というニュースを聞くことでしょう。それは理屈にかない、道徳的にも何の問題もないように聞こえます。しかし、それはパレスチナ人の生活を破壊することだったのです。
 これが、"占領"とは何かを私が実感する最初の体験でした」

○ドタン・グリーンバルグ(元兵士)
 『母は『(占領地での兵士たちの任務は)とても大変』といいます。しかし兵士たちにとってそれほど大変なことではありません。これが重要なことです。兵士が占領地で"怪物"になるのはとても簡単なことなのです。
兵士たちは心理療法士が必要なのではありません。『このような状況のなかでは心理療法士が必要だ』と言うのは、『イスラエル内は平穏な状況なのに、占領地でそういう任務をしているあなたたち兵士のことを考えると、とても辛い』と言うようなものです。違うのです。あなた方自身を"鏡"に映し出し、見つめなければいけない。あなた方は自分自身のあり方を心配しなければならないのです。なぜなら私たちは、あなたたちイスラエル国民によって送られた"兵士"なのです。単なる息子ではなく、"あなた方が送った兵士"です。あなた方が"敵"だとみなすパレスチナ人に対する、あなたたちの"拳"なのです。イスラエル政府の"拳"なのです」

○ラミ・エルハナン(「沈黙を破る」顧問)
 「イスラエル国民が理解できないでいることは、占領地の350万人のパレスチナ人を制圧し、片隅に追いやり、どんどん押し込んでいけば、彼らは噛み返すということです。それは世界中のどの歴史にも共通する普遍的な事実です。そんな彼らを『テロリスト』と呼ぶ人もいれば、『自由の戦士』と呼ぶ人もいる。どんな名前で呼んでもいいのです。しかし、それが現実なのです。
彼らは『テロリスト』かもしれない。同感です、テロリストが私の娘を殺したのですから。ではそのテロリストにどう対応するのか。テロリストを完全に消滅できたという実例があるのなら、一つでも見せてほしい。彼らの自由への願いを消滅できたというような、喜んで占領を受け入れているというような実例をです。ではそのテロリストとどう闘うのですか。どうすることが"賢い"闘い方なのでしょうか。すべての争いの解決には、結局、話し合うしかないのです。ハマスであろうと、PLOであろうと、敵と話し合いをするしかないのです」
 駄弁はやめましょう、つけくわえる言葉はありません。ただ、この問題は決してイスラエルだけの問題ではないことは銘肝しましょう。「軍隊による一般市民の殺戮、そして見て見ぬふりをして内面を蝕まれていく国民」という図式、いやもっと大きくとらえると「ある集団による他の集団への加害・加虐、そして見て見ぬふりをして退廃していくその集団の構成員」という図式は、日本はもちろん世界中で過去も現在も見られる事態です。例えば、"怪物"と化した日本兵がアジアの民衆に対して行なった破壊と殺戮と加虐、そしておぼろげながらもそれに気づいてはいたが見て見ぬふりをした国民。日本社会の深いところが死んだわけですが、戦後、日本人はそれを真摯に癒そうとしたでしょうか。少数の方々の努力はありましたが、社会全体の合意にはいたっていないと考えます。ということは、私たち皆の"内面"はいまだ死滅しているのでは…

 希望と救いを感じたシーンを二つ紹介しましょう。破壊されつくした難民キャンプを訪れ救援活動をしているアメリカ人の女性ボランティアを、人々はなじります。「イスラエルを擁護し武器を援助するアメリカの責任でもある」と。彼女は罪悪感に苛まれ、絶叫し号泣し悶え苦しみます。するとある男性が周囲に何度もこう語ったそうです。「私たちが苦しんでいるように彼女も苦しんでいるんだ」 苛烈な状況にありながら、たとえ敵対する立場にあっても、相手を生身の人間として遇し共感する。港の倉庫の薄暗い片隅に放置されている"人間の尊厳"という死語を、思い出してしまいました。もう一つ。自殺攻撃を防ぐためにオリーブの古樹を切り倒したイスラエル軍。「沈黙を破る」活動に加わっている兵士が、その場所を訪れ、農作業を手伝い、年老いた主と共に食事をし談笑するシーン。周知のように、2008年12月27日から2009年1月17日まで、イスラエル軍によって行なわれたガザ地区に対する大規模な空爆が行われました。パレスチナ人権センターが発表した統計(09.3.19)によると、パレスチナ人の死者は1417人、うち一般市民は926人(女性116人、未成年313人)です。事態は一向に良い方向には進んでいませんが、この二つのシーンを胸に刻み、自分にできることをしていきたいと思います。知り、考え、沈黙を破り(Breaking The Silence)、そして話し合う。
 重く堅く深く、そして微かだけれども美しい光をはなつ映画でした。

 なおこの問題に関しては、「戦争の世紀を超えて」(森達也・姜尚中 講談社)が大変参考になると思います。森達也氏はこう語っておられました。「被虐と同時に加虐を語り継がないから、モンスターは何度も登場する。当たり前です。何がどうなったら、人はモンスターになってしまうかという記憶が途切れているのだから」 そして氏は何かの回路が駆動して虐殺を行うのではなく、何かの回路が機能停止した結果ではないかと分析します。その回路とは、一人称の主語を保つこと、つまり「私は○○であり、こう考え、それに基づいてこう行動する」ということでしょう。それによってリアルな感覚が欠落し、非人間的は行為も平然と行え、そしてそれを行った主体を今の自分と隔絶でき、事件を忘却することができる。
 それではなぜそうした回路がいとも簡単に機能停止してしまうのか。姜尚中氏の言葉が考えるヒントとなります。「我々はこの時代に生きていて、価値がないから抹殺するということはやっていないけれども、でもどこかに価値のないやつが生きていても仕方がないという考えが、人々の意識に巣くっていると思う。つまり憎悪でこれは敵だ悪だというのとは別に、もう一つ、価値がないから生存する必要がないという考えがあると思います。で、僕はその価値がないから抹殺するメカニズムは、ナチスでなくても資本主義の淘汰によってそうされているんじゃないかと思えるのです。…例えば、市場の機械的なメカニズムでね。人間が手を加えなくても、そのメカニズムは働いている。それは誰かが手を染めなくても淘汰のメカニズムとして存在するわけです。その最大の場所がアフリカになっていて、ナチスみたいにむだだから消そうとしなくても、何もしなきゃ死んじゃうという状態」 私たちは、緩慢にしてマイルドなホロコーストの只中にいるのかもしれません。その状況を何とかして打開しようと沈黙を破ったイスラエルの若者たち、あらためて敬意を表したいと思います。
by sabasaba13 | 2009-06-16 06:07 | 映画 | Comments(0)
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