東京の奉安殿編(4):田園調布(08.9)

 さてふたたび東口商店街を歩いて学芸大学駅に戻り、東急東横線に六分ほど乗ると田園調布に到着です。せっかくここまで来たのですから、この駅舎を見ないわけにはいきません。駅舎自体は新しいものに建て替えられていましたが、古い駅舎はそのすぐ近くにきっちりと保存されていました。ドイツ風の腰折屋根が印象的な、垢抜けないけれども愛嬌のあるずんぐりとした佇まいは、まるでまどろみながら日向ぼっこしている老婦人のようです。完成当時は二階が喫茶店で、町の人々の良き社交場となっていたそうな。竣工は1924(大正13)年、いったんは解体されたのですが、近年復元されました。やはりこやつがいないとしまりませんね、関係者の炯眼に敬意を表します。そしてここを中心に広がるのが、日本有数の高級住宅街・田園調布です。この街の来歴について語ったプレートが駅舎前に掲げられていました。
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 ウィキペディアとスーパーニッポニカの解説を参考にしながら、田園調布の歴史についてまとめてみましょう。
 この街の基本理念となったのが「田園都市」です。これはイギリスのエベネザー・ハワードEbenezer Howard(1850―1928)により1898年に提唱された都市で、田園の中に独立した新しい理想的都市のことです。産業革命を最初に経験したイギリスで、大都市の弊害が説かれ、工業の分散、都市の分散を図り、健全な都市発達のために、田園都市運動が起こりました。ハワードは『明日の田園都市』を出版し、田園に囲まれた人口3万くらいの美しい町を、大都市周辺につくることを説きました。その都市では、土地は公有か、さもなくば信託所有であり、同時に社会単位で住民に快適な環境を提供します。従来の都市と田園の長所を備え、自然の美、社会的な機会、公園に近く、低い家賃と物価、高賃金などの特色をもつとしています。この運動により1903年、第一田園都市会社が設立され、ロンドンの北西56キロのレッチワースに第一の田園都市が実現しました。この田園都市運動は、各国の都市計画に大きな影響を与え、衛星都市や都市分散論の先駆けとなります。
 さて明治財界の大御所・渋沢栄一は数回の欧米視察でその必要性を痛感し、1915(大正4)年、田園都市作りの企画検討を始めました。1918(大正7)年に計画は完成し、引退していた栄一に代わり、その息子の秀雄が田園都市会社の支配人となり街の建設が進められます。1923(大正12)年には目黒蒲田電鉄調布駅も開業されます。完全な意味での「田園都市」ではありませんが、扇状の区画、並木、景観への配慮など、その志の一旦は息づいています。なおバブル期に地価の高騰により相続税の納税が困難になり、土地を切り売りせざるを得なくなった例が多く見られ、当初の計画通りの町並みが残されているわけではないそうです。現在は相続税制が緩和された効果もあり、以前よりは保全しやすくなっていますが、相続税が原因の細分化が生じるケースもあるとのことです。
 駅からほんの少しだけイチョウの並木道を歩いただけですが、街の落ち着いた上品な趣を十分に感じ取ることができました。群葉のアーチごしに見やる古い駅舎の佇まいはピクチャレスクな光景です。雑駁でキッチュな町並みもいいですが、こうしたシックな町並みにも心惹かれます。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-06-21 09:19 | 東京 | Comments(0)
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