ジョージ・オーウェルの言葉

 村上春樹氏の最新作「1Q84」が売れに売れているそうです。私も即購入して一読いたしましたが、あいもかわらないストーリー・テリングの見事さには感服。蟷螂の斧ですが、いつか書評を書いてみたいと思います。それにともない、作中に登場するヤナーチェクの「シンフォニエッタ」や「ルイ・アームストロング・プレイズ・W.C.ハンディ」も売れているとのこと。これまであまり関心をもたれなかったこうした音楽が、彼の筆力によって多くの方々が耳を傾けるようになったのも嬉しいことです。となると、もしや主要モチーフのひとつであるジョージ・オーウェルの「1984」も読まれるようになるのかな、とほのかに期待してしまいます。以前も拙ブログでオマージュを捧げましたが、普通の人間としての幸福を願い、それを脅かすものに対して、言葉を武器として敢然と立ち向かいつづけたdecentにして稀有なる作家・ジャーナリストです。彼の著書を読みながら、心にずしっと沈む言葉をずっと集めていますが、下記のようなものがありました。
 人間であることの本質とは、完全さを求めないことであり、ときには信義のために実際に進んで罪を犯そうとすることであり、親しい交友を不可能にしてしまうほど禁欲主義を推し進めたりしないことであり、個々の他人に対して愛情を注いだ当然の代償として、ついには人生に敗れて破滅する覚悟を持っていることなのだ。

 子供のころ身につけたあの世界観を、私は完全に捨て去ることができないし、そうしようとも思わない。私が生きて丈夫でいるかぎり、私は散文の文体について強い関心を持ちつづけ、地上の出来事を愛しつづけ、まともなものや無用な知識のきれはしなどに出会うことに喜びを感じつづけるだろう。私自身のそういう面を押さえつけようとしてもむだだ。この時代が私たちみなに押しつける公的、非個人的にならざるをえない活動を、どのように自分の持ち前の好き嫌いと協調させるかが、私の取り組まなくてはならぬ仕事である。

 「人間が品位をもってふるまえば世界もよくなるであろう」というのは、陳腐に聞こえるが、実は陳腐ではないのだ。
 こうしてみると、村上氏との思考における共通点が浮かび上がってくるような気がします。個人のもつささやかな世界観や趣味を脅かす全体的な状況に対する怒りと抵抗、と言えるでしょうか。そしてビッグ・ブラザーとリトル・ピープルに仮託してそうした世界を描いた物語が、この二つの作品ではないでしょうか。駄弁はやめましょう。鋼のように強く、水晶のように輝き、陽光のように暖かい彼の言葉のいくつかをぜひ紹介したいと思います。なお、小生の不手際で出典を明示できないことは、ご海容ください。

【ジョージ・オーウェルの言葉】

 当時の私には、強者によって支配されている世界では、弱者はル-ルを破るか死ぬかのいずれかだという、倫理的なジレンマに直面するのだということが、やっと分かる程度だった。私にはまだ、そういった場合、弱者は自分たちのために違ったル-ルを作り出す権利があるということが分からなかったのである。というのは、もしそういった考えが頭に浮かんだにしても、私の周囲にはその考えを確証してくれるような人は一人もいなかった。少年という、何物にも疑問を持たず、より強い者が作った規則を受けいれ、自分よりもっと弱い者にうっぷんを晴らして、自分の屈辱感に復讐している群居性の動物たちの中に、私は暮らしていたのである。

 自分を軽蔑することはできようとも、自分をきらいになることはできない。

 こういうこと(有色人種への差別)を油断なく見張って、実際に起こったら、いつでもできるだけぎょうぎょうしく騒ぎたてることが、きわめて重要である。なぜならこれは、騒ぎたてることが何かを成しとげうるような事柄のひとつだからだ。

 われわれの知識のほとんど大部分は、推論や実験に基づいているのではなく、権威に基づいているものなのだ。

 われわれの思考がばかげているために英語が醜悪かつ不正確になっているのだが、反面英語が乱れているためにくだらない思考をいだくことが容易になっている。肝心なのはその過程を逆転できるということである。現代の英語、とくに書かれた英語には悪臭がしみついている。それは模倣によって広がるのであって、その気になって必要な努力を払えば回避できるのである。そうした習慣から抜け出せば、もっと明確に考えることができるし、明確に考えることは政治の革新に必要な第一歩なのである。                 

 良心的な文筆家ならば自分の書く文の一つ一つについて、次のような少なくとも四つの問いを自分に向けるだろう。自分は何を言おうとしているのか、どういう語でそれが表現できるだろうか、どういうイメ-ジもしくは熟語がそれをいっそう明瞭にしてくれるだろうか、このイメ-ジは効果を生じるに足るほど新鮮だろうか。またおそらく、あと二つの問いを加えるだろう。もっと短くできないだろうか、避けられるのに見苦しい表現をしていないだろうか。

 ああいうたぐいの言い回し(決まり文句)をする人間は、いくぶん機械になりかけているのだ。 喉頭から適切な音は出ているけれども、自分で言葉を選んでいる時のような頭の働きがそこには加わっていない。この意識機能の低下こそ、政治的服従にとって不可欠ではないまでも、ともかく好ましいものなのである。

 明瞭な言語の大敵は不誠実である。本当のねらいと公表された目的との間に隔たりがある時、いかが墨を噴出するように、いわば本能的に長い語や使い古された成句にたよる。

 思考が言語を腐敗させるとすれば、言語もまた思想を腐敗させる。

 既成の句による精神の侵略は、たえずそれを警戒する時にのみ阻止できるのであって、こうした句はどれも頭の一部を麻痺させるのである。      

 私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。しかし第二には-そしてこの方がずっと重要なのだが-自己を一つの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。通常どちらも非常に漠然とした意味で使われているので、どんな定義を下しても必ずどこからか文句が出そうだが、しかし両者ははっきり区別しなければならない。というのは、そこには二つの異なった、むしろ正反対の概念が含まれているからである。私が「愛国心」と言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押しつけようとは思わない、特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得すること、といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なり何なりの単位のために獲得することである。

 恐怖、憎悪、嫉妬、権力崇拝といった感情がはいってくるやいなや、現実感覚は狂ってしまうのである。正邪の意識も狂ってしまうのである。どんな犯罪も「自分たちの」側がやったとなれば許されないものはない。ただのひとつもない。その犯罪が行なわれたことは否定しないとしても、またほかの場合に自分でも告発してきたものとそっくり同じだとはわかっていても、そして論理的にはそれが不正だと認めながらも-間違っているとは感じられないのである。忠誠心のからまるところ、憐憫は動きを止める。

 現代の世界ではインテリと呼べるほどの人間ならだれしも、政治に関心を持たないという意味で政治に関わらないでいることはできない。人は政治-広い意味で-に関わるべきだし、好悪、賛否を明らかにしなければならない。つまり、同じ間違った手段に訴えているにしても、ある主義は他の主義よりも客観的にすぐれていることを認めなければならない、と私は考える。ナショナリスティックな愛憎については、われわれたいていの人間が、好むと好まざるとにかかわらず、みんな持っているのである。それが除去できるものかどうかは私にもわからないが、少なくともそれと戦うことは可能であり、それが真の道徳的努力だと信じる。それはまず第一に、自分が実際どういう人間であるか、自分のほんとの気持はどうであるかを発見することであり、次には、そこから来る避けがたい偏向を考慮に入れることである。

 思想の自由が滅びれば文学が死滅することは確実である。全体主義の構造を保つ国において死滅するだけではない。全体主義的なものの考え方をする作家、口実をかまえて迫害や現実の歪曲を認める作家はだれであれ、それによって作家としての自分を殺すことになるのだ。のがれるすべはない。「個人主義」や「象牙の塔」に対するいかなる弾劾も、「真の個性は共同体への帰一によってのみ達成される」といった趣旨の敬虔なきまり文句も、金で買われた精神は毒された精神であるという事実を克服することは出来できない。自発性がどこかで顔を出さないかぎり、文学的創造は不可能であり、言語そのものが動脈硬化を起こす。いつか将来において、人間精神がいまとまったく異なったものになれば、創作と知的誠実とが分けられるようになるかもしれない。いまのところわれわれにわかっているのは、想像力が、ある種の野生動物と同じように、捕われの状態では繁殖しないだろうということだけである。

 非文学的反応というのは、「この本はおれの側に立っている。だからそこに長所を見つけ出さなければならない」といったものである。

 作家が政治に関与する場合には、一市民、一個人として関与すべきであって、作家として関与すべきではない。

 晩年における彼(トルストイ)の主要な目標は人間の意識の領域をせばめることであった。

 これらの劇はすべて、人生は悲哀に満ちてはいるが、なお生きるに値する、また人間は気高い動物なのだという人間主義(ヒュ-マニズム)の前提から出発している。

 彼(シェイクスピア)のあらゆる劇に見られるたわごとは、すべて彼の過剰な生命力の産物にほかならない。シェイクスピアは哲学者でも科学者でもない。しかし、彼は好奇心を持っていた。彼はこの地上とその生活の過程そのものを愛したのである。

 ほんとうに重要な違いというのは、暴力か非暴力かということではなく、権力への嗜好をもっているか、いないか、なのである。
 考え方が偏狭で他人には糾弾的な人間がいる。こういった人間は、できることなら他人の頭脳の中にまで入り込んで、ごく細かいことに至るまで、ひとつひとつ彼に代わって決めてやろうとする。
 自分が正しいと思い込めば思い込むほど、ほかの人間をどんなにいじめつけても、同じように考えるようにさせたくなるのはこれまた当然であろう。

 1917年に自分で考え自分で感じる力を持つ人のできたことは、できるなら人間的であり続けるということのほかには何もなかった、というのが真相である。そして無力であるという身ぶり、軽薄さの身ぶりでさえもが、そのことをなしとげる最上の方法だったかもしれないのだ。

 ほぼ確実にわれわれは全体主義的独裁制の時代にはいっていこうとしている。その時代にあっては、思想の自由はまず第一に死に値する罪であり、やがては無意味な抽象概念になるであろう。自律的な個人はその存在を抹殺されるであろう。

 ディケンズが人気作家であり続けているのは、なによりも、滑稽で単純化された、したがって記憶に残る形で、庶民が生まれながらに持っている人間らしさ(decency)を表現することができたからである。この観点から言うと、実にさまざまのタイプの人々を「庶民」と呼べることが重要である。

 ディケンズはやや怒りをこめて笑っているが、その笑い方は勝ち誇ってもいなければ悪意もない。それつねに何ものかと戦っている人の顔であり、おびえずに堂々と戦う人の顔であり、寛大さをもって怒っている人の顔である。別の言い方をすれば、その顔は十九世紀の自由主義者を示し、自由な知性を示していて、われわれの魂を奪おうと競い合っている矮小でいかがわしい正統派のすべてから、等しく憎まれているタイプの顔なのである。

 真の問題は、来世などないことを認めながらも、いかにして宗教的な見方を取り戻すかということである。人間は、人生の目的を幸福と考えないときにしか幸福にはなれない。

 人間の生活からは、ある程度の苦悩は消すことができず、人間にできることは、いつになっても、欠陥だらけのもののなかから比較的ましな方をとるだけで、社会主義の目標でさえ、世界を完全なものにすることではなく、ましなものにするだけなのではないだろうか。

 スウィフトのもっとも本質的なところは、人生を-合理化され、防臭加工された人生ではなく、しっかり地についた普通の人生を-生きがいのあるものになしうると信じられなかったことだ。もちろん正直な人間なら、幸福がいまや成人の間では常態になっているなどと主張することはない。しかし幸福を常態にしようと思えば、たぶんできるのではなかろうか。

 真に土着の文化はすべて、たとえ公共的ではあっても官制的ではないもの-パブ、サッカー試合、裏庭の野菜畑、炉辺、「一杯のおいしい紅茶」-を中心として形作られている。個人の自由というものが、いまでも十九世紀とほとんど変わらないくらい信じられている。しかしそれは経済的自由、つまり利潤のために他人を搾取する権利とは何の関係もない。それは自分の家庭を持つ自由であり、暇な時間に自分の好きなことをする自由であり、上から押しつけられるものではなく、自分で自分の楽しみを選ぶ自由である。イギリス人の耳にもっともいまわしい名前は「おせっかい(ノージー・パーカー)」である。もちろん、こうした純粋に個人的な自由といえどもすでに敗れた主張であるのは明らかだ。近代のすべての国民と同様、イギリス人も番号を付され、レッテルを貼られ、徴集され、「調整」されつつある。しかし彼らの衝動は明らかに反対の方向を向いており、そのため彼らに課されるような規格も自然と修正されるようになるであろう。

 愛国心は保守主義とまったく関係がない。むしろ保守主義とは反対のものである。なぜなら、それはつねに変化しながら、しかも何となく同じものと感じられている何か、に対する献身なのだから。それは過去と未来をつなぐ橋である。真の革命家はかつて国際主義者であったためしがない。

 概して、人間は善でありたいと望むものだが、善でありすぎたり、年がら年中そうありたいとは望まぬものだ。

 何かがおかしいのは、ほんとうに不愉快だったり恐かったりしたのではだめだが、それが既成の秩序をひっくり返すときである。冗談は、すべてささやかな革命なのだ。ユーモアを一言で定義するなら、権威が一本の鋲の上に尻餅をついたところだと言えばいいのだろう。

 スポーツが全面的に民族主義の勃興と-すなわち個人がより大きな権力単位に帰一し、すべてを威信の競争という観点から眺める近代の狂気じみた習慣と-結びついていることは、ほとんど疑いの余地がない。

 現実の生命現象に対する喜びをなくしてしまえば、われわれの前途にどういう未来を用意することになるだろうか。めぐりくる春を楽しめなくて果たして省力化されるユートピアで幸せになれるのだろうか。機械が与えてくれる余暇を何に使うのだろうか。私はかねがね考えているのだが、われわれの経済的政治的問題が真に解決されるならば、生活は複雑になるのではなくて簡素になり、最初の桜草を見つけて得られる喜びの方が、ジュークボックスの調べに合わせてアイスクリームを食べる楽しみよりも大きく思われてくるのではなかろうか。木や魚や蝶やひきがえるなどに対する幼少時代の愛を保持すれば、平和で穏やかな未来が到来する公算がいくらか大きくなるであろうし、鋼鉄とコンクリート以外の何物も賛美すべきではないという教義を説けば、人類には憎悪と独裁者崇拝しか余った精力のはけ口がなくなる確率が、いささか高まるだろうと私は思う。
 とにかくここロンドン北第一区にすら春が訪れており、それを楽しむのを彼らもやめさせることができない。そう思うと気がはればれする。

 人間はぬくもりと、交際と、余暇と、慰安と、安全を必要とするのである。と同時に、孤独と、想像的な仕事と、驚異を感じる感覚も必要なのだ。この事実を認識すれば、あるものが自分をさらに人間的にするか、非人間的にするかというただ一つのふるいにかけて、科学や産業主義の成果も、選びながら利用することもできるだろう。そうなれば、のんびり休息をとり、ポ-カ-と酒とセックスを一度にやるのが最高の幸福などではないこともわかるはずである。そして、賢明な人たちが進行しつつある生活の機械化に抱いている本能的な不安も、単なるセンチメンタルな回顧趣味ではなく充分根拠のあるものだということが、わかってくるだろう。というのも、人間が人間にとどまるためには、生活の中にシンプルなものを多分にとどめておく必要があるのに、現代の発明-特に映画、ラジオ、飛行機-といったものの多くは、意識を破壊し、好奇心を鈍らせ、だいたいにおいて人間をますます動物に近づける傾向を持っているからである。

 自由とは、人の聞きたがらないことを言う権利である。
by sabasaba13 | 2009-07-09 06:10 | 鶏肋 | Comments(3)
Commented by 出がらし紋次郎 at 2010-04-26 17:07 x
 初めまして、旅や街歩きが楽しくなるブログですねぇ。
 いつも見させていただいています。

 最近、平凡社から出ているオーウェルの評論集を読んでいます。
 あっしも、大学時代は部落解放運動などをやっていたいわゆる「サヨク」でしたが、運動の世界がいやになり卒業後は一切辞めてしまいました。
 その後も右の世界に行ったりフラフラしていたのですが、最近になり
以前読んだ「1984」「動物農場」つながりから、オーウェルの著作集を
読み直しています。
 以前発行されていた岩波の「オーウェル著作集」には、ユダヤ人差別を分析した論考があり、従来からの反差別運動からの視点ではなく、
人間誰もが持っている(!)差別感情を見据え、深く検討してみることから、問題を考えようと試みています。

 英国のフットパスも歩きたいですな、野宿しながら。
 いつになるやら。
Commented by 出がらし紋次郎 at 2010-04-26 17:13 x
追伸。
オーウェルの差別問題に関する論考の正しい名称は
「英国におけるユダヤ人差別」です。
岩波文庫「オーウェル評論集」小野寺 健編訳(’82年刊)。
Commented by sabasaba13 at 2010-04-28 19:28
 こんばんは、出がらし紋次郎さんご丁寧なコメントをありがとうございました。これからももりもりと徘徊し著述する元気がわいてきました。
 オーウェルに関しては、私も一生つきあっていくつもりです。humanityという言葉が死語になりつつある今だからこそ、読み継がれてほしい思想家ですね。
 イギリスのフットパス、嗚呼なつかしい! 十数年前にコッツウォルズや湖水地方で歩きまわった思い出がよみがえります。軟弱な私、野宿はパスですが、またいつか訪れてみたいものです。
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