紀伊編(19):加太(08.9)

 そして加太春日神社に到着。実は最近読んだ「寺社勢力の中世 -無縁・有縁・移民」(伊藤正敏 ちくま新書734)という大変刺激的な本の中に、以下のような記述がありました。
 和歌山市の加太港は、大和に発し紀ノ川に沿って西へ延びる南海道が瀬戸内海に没し、淡路島を経て四国に向かう起点、陸上・海上交通の要衝にある港湾都市である。近世には廻船の基地となる。中世では賀太と表記される自治都市で、鍛冶・番匠・紺屋・茶屋・桶屋などの商人・職人が住み、酒屋もある。瀬戸内水軍の一部を構成し、遠洋漁業も行う。NHKが入れた水中カメラの映像によると、海底には十艘以上の中世の貿易船が眠っている。守護不入の守護領として、強い自治権を保持し、紀ノ川河口の自治都市連合の「紀州惣国」(いわゆる雑賀一揆)の指導的立場にあった。

 1537年、賀太で宮座の置かれた春日神社の神前において、二十三人の名主の「永定」が行われた。永久に特権身分の名主をこの二十三家に限るという決定であり、特権層の家筋の固定であった。家格差別を恒久化する家格制の成立である。…無縁の自治都市に有縁の身分制が発生したのだ。
 何でもないことのようだが、身分制を国家でなく、自治都市や自治村落が創設したことは、世界史的に見ても非常に珍しいできごとなのだ。(p.230)
 なるほどねえ、このあたりが織田信長との石山合戦で奮闘した雑賀(さいか)一揆の中核だったんだ。そして加太の宮座が置かれたのがここ春日神社だったのですね。After the carnivalですけれど。なおこちらにも「超安全顔はめ看板」がありました。どうやら町ぐるみで顔はめ看板による事故をなくそうという気概をお持ちのようです。
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 その先には「水用」と刻まれたコンクリート製の防火用水槽がありましたが、戦前のものでしょう。堤川に出て川沿いに海の方へ歩くと、煉瓦造りの倉庫がありました。観光地図によるとかつて醤油屋のものだったそうです。その隣には和風木造建築とギリシア神殿風洋館が合体した奇天烈な物件がありました。建築史家の藤森照信氏が「建築史的モンダイ」(ちくま新書739)の中で「どうして日本人は、伝統の和館の脇に新来の洋館を平気で並べるという世界的には異例な行いを平然と敢行したのか?」と指摘されていますが、その一例でしょう。なお氏の解答は「様式よりも用途の重視」です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-07-27 06:15 | 近畿 | Comments(0)
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