「ポー川のひかり」

c0051620_862696.jpg 先日、山ノ神と神保町の岩波ホールで「ポー川のひかり」を見てきました。監督はエルマンノ・オルミ、そうあの名作(といっても未見ですが、汗顔…)「木靴の樹」をつくられた方です。なんでも本作を最後に長編映画からは手を引き、ドキュメンタリーに専念するそうな。実は予告編を見た時に衝撃を受けたのが、この映画を見るきっかけです。イタリアのある古い大学の図書館(パンフレットを読んでボローニャ大学だと判明)、床にぶちまけられた無数の古書、その一冊一冊の開かれたページに太い釘が打ち付けてあります。本と図書館を愛する小生を戦慄させるのに十二分な光景でした、しかしなぜ? 誰が?
 犯人は、若き俊英の哲学教授です。彼は、知識や書物が、世界の人々を救うために無力であるどころか、皆を欺いていることに絶望します。講義の際に彼が引用したヤスパースの言葉が印象的でした。「我々の時代は、精神性が利益に置き換えられ、儲けることが全てになった。人生そのものが虚構であり、生きる喜びも偽りだ。芸術も偽りである。純粋性が失われた時代には、われわれの実存を解明するのは狂気なのか?」 そして彼は"道徳上の義務"として古書に釘を打ち込み放浪の旅に出ます。やがてポー川のほとりにある廃屋に住み着いた彼は、若い郵便配達人やカフェのウェイトレス、付近で暮らす老人たちと懇意になります。彼はその風貌から「キリストさん」と呼ばれ、やがて暖かい人間味と叡智あふれる言葉から、かけがえのない存在になっていきました。ワインを飲み、語らい、音楽を聴き、皆と踊る、平和な暮らしが彼に訪れます。しかし行政は、彼らに対して国有地の不法占拠であるとして立ち退きと罰金を命じます。教授は身元がばれるのを承知で、クレジットカードで罰金を支払いそして身柄を拘束されてしまいます。そして… 何ともいえぬ余韻があふれるラスト・シーンにはふれずにおきましょう。

 岩波ホールが好きなのは、パンフレットに採録シナリオを掲載する見識です。教授が語った言葉をいくつか紹介しましょう。
 我々は知識に囲まれている。多くの真実が著されたが、何かに役立ったか? 我々を欺いただけだ。

 偉業を成せると錯覚する者は多いが、人生を支配するものを忘れてる。

 自然が人間の侮辱に反抗する時が来る。自然は万物を侮辱する全てを消し去るだろう。

 世界中の本よりも、友人と飲むコーヒーのほうがいい。

 神が! 神こそこの世の虐殺者だ。息子さえ救わなかった。

 審判の日には、神こそこの世の苦痛について釈明すべきです。
 そう、自然と人間を破壊する現代社会をどう再生するか、静かに語りかける映画なのです。過去の知識にも、神にも、もはや頼ることはできない。ではどうすればよいのか。教授が警察に連行される際、仲間たちに語る別れの言葉から、監督のメッセージが響いてきます。「別れの時が来た。自分の領分に戻るべきだ。皆がここに残って平和に暮らせるように祈っている。その平和は外から来るものではない。皆で作るものだ」 滔々と流れ行くポー川の美しさ、思わず頬が緩む仲間たちとのふれあい、そして余情にあふれるラスト・シーン。深く、優しい映画でした。
by sabasaba13 | 2009-08-09 08:07 | 映画 | Comments(0)
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