本日は最終日、朝飯前に温泉街をすこし散策することにしました。「旧長崎街道」という石標がところどころに立っております。長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉の常盤橋を始点として、肥前国長崎に至り、道程は57里(約223.8km)、途中に25の宿場が置かれたそうです。幕府が外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として、非常に重視され、参勤交代のほか、長崎奉行、日田郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府、そして交易・献上品の運搬にも用いられました。ここ嬉野宿は小倉から17番目の宿場ですね。ちょっと珍しいのが番号石(藩境石)です。このあたりは山地は佐賀藩領、平地は蓮池支藩領として分割支配されていましたが、1781(天明1)年に境界をめぐって紛争が起き、交渉の結果、全藩境40kmにわたって約二千個の番号石が置かれたそうです。経済発展がめざましい18世紀後半という時代だけに、流通をめぐる利権争いが原因なのでしょうか、気になります。

名産の嬉野茶は、江戸参府の際にシーボルトによって伝えられたという解説板もありました。
種田山頭火も1932(昭和7)年1月にここを訪れたそうで、彼の句碑がありました。「湯壺から桜ふくらんだ」 町の雰囲気は何の変哲もない温泉街という感じ、もう少し徘徊すれば何かにでくわしような予感もしますが、そろそろ宿に戻って朝食をとりましょう。宿の裏手には1927(昭和2)年竣工という、小ぶりですが重厚な鉄橋がかかっていました。

朝食をいただき嬉野茶をがぶりと飲み、さあ出発。まずは吉野ヶ里へ向かいましょう。車に乗り込み一時間ほど走ると、吉野ヶ里歴史公園に到着です。三内丸山遺跡が脚光を浴びて、やや影が薄くなった感がありますが、弥生時代における最大級の遺跡であることには変わりありません。一度は訪れてみたかった地です。岩波日本史辞典から引用します。
佐賀県神埼町・三田川町にある、弥生時代から中世の遺跡。1986年以来佐賀県教育委員会が調査。弥生前期から中期前半には、面積約3haの環濠集落とその外に青銅器生産跡,2基の墳丘墓、甕棺の列状埋葬などがある。中期後半にはそれらを囲む外濠などの防御施設が丘陵裾部に作られ、約40haの外郭を形成する。後期には濠を巡らす内槨が2か所新たに作られ、それぞれ要所では濠が張り出して物見櫓が建つ。外濠の西外には高床倉庫群がある。脊振南麓地域の中核集落。99年に九州初の銅鐸が出土した。奈良時代のものとしては官道跡や官衙関連遺構がある。国特別史跡。
というわけでそのスケールの大きさを体感してみましょう。中に入り環濠を渡ると、外敵の侵入を防ぐための逆茂木(乱杭)がリアルに再現されていました。農業の開始とともに戦争が始まったという説が頭をよぎります。

そして鳥居をくぐり、板塀で囲まれた広い空間に入るとここが南内郭。ものものしい物見櫓が四棟建ち並んでいるのが印象的。解説によると吉野ヶ里の「国」の「大人」たちが暮らしながら、政治を執り行った場所と考えられるそうです。竪穴住居・煮炊屋・集会の館などが復元されています。

そして吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられる北墳丘墓へ。外観が復元され、内部に入ると発掘時の様子が再現されていました。

そしてひときわ目を引く巨大建築が復元されている北内郭へ。これは吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要施設=主祭殿で、指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われたりしていたと想定されています。なおこの建物の高さや意匠は、発掘調査の結果および古代中国の事例を参考にして再現したとのことです。
本日の三枚です。