「レクサスとオリーブの木」

 「レクサスとオリーブの木 グローバリゼーションの正体 (上・下)」(トーマス・フリードマン 東江一紀・服部清美訳 草思社)読了。常日頃、グローバリゼーションには関心をもつようにしており、これまでも関連の書物を何冊か読んできました。ただ世界の悲惨な状況を知るにつけ、その原因の一端はグローバリゼーションにあると考えているので、どうしても批判的・否定的な内容のものが中心でした。しかしその功罪を考えるためには、"闇"の部分だけではなく"光"の当たるところにも刮目すべきだと思い本書を手にしました。著者はニューヨーク・タイムズ記者であるトーマス・フリードマン氏、グローバリゼーションを前向き・肯定的に捉えた上でさまざまな問題点を論じるというスタンスをとられています。

 氏は、冷戦システムの跡を継いで、グローバル化時代が二十世紀を支配する国際システムになったと述べられます。よって冷戦後の世界を把握するためには、グローバル化が根付いた経緯を説明し、それが今、ほとんどすべての国の内政と外交を方向づけているその仕組みを検証することが重要であるということです。さすがはジャーナリストと唸らされたのは、冷戦システムとグローバル化を比較する際の卓抜な説明です。
 冷戦は"敵"か"味方"かに二分される世界だった。これに対して、グローバル化の世界では、敵も味方もすべて"競争相手"に変わる。(上p.33)
 その比喩として、冷戦を相撲、グローバル化をくり返し行われる百メートル競走に喩えられています。私としては、冷戦は綱引きに喩えたほうがよいと思います。アメリカとソ連という二つの超大国が戦略的優位、資源、名誉をかけたグローバルな戦いをくり広げたのが冷戦システムで、その戦いにおいては、一方の陣営の利益が他方の陣営の損失となりました。相手のメンバーをこっちのチームにたくさん引き込めば綱引きに勝てますよね。そのために両国とも、発展途上国を自分のチームに引き入れようとし、資金提供や経済援助を気前よくばらまきました。しかし、共産主義は自由市場資本主義に敗れ去ります。氏曰く、所得の分配という点では公平だったかもしれませんが、その所得を最も効率よく生み出し生活水準を向上させるという点では歯が立たなかったということです。それとほぼ同時進行で、さまざまなシステムや体制を守ってきた壁が三つの根本的変化によって吹き飛ばされます。通信方法の変化、投資方法の変化、世界の動きを知る方法の変化です。そして登場したのがグローバリゼーション。敵も味方も壁もないオープン・スペースで、無数の競走相手と毎日開催される百メートル競走です。ある意味ではとてつもなく大きなビジネス・チャンス。全世界の顔の見えないライバルたちとの熾烈な競争に勝てば、個人でも富裕になれますが、敗れれば貧困のどん底に突き落とされます。またグローバル化は、世界中で一時に同じ事業を行なうか同じ製品を販売すれば得になるような大規模経済によって、単一の市場を作り出しているので、世界中の消費さらには文化をいっせいに均質化しかねません。著者は繁栄や進歩を求めてこうした魅力的な商品を作り出そうとする動きを、トヨタの高級車「レクサス」に喩えます。それに対して、自らが帰属する文化・共同体・故郷を守ろうとする動きを「オリーブの木」に喩えます。

 結論としては、このグローバル化という動きは不可逆のもので避けることはできない。しかしシステムの暴走・崩壊の危険性と、文化の画一化・均質化という問題も放置できない。よって、競走を阻害しない範囲で、このシステムのあらゆる側面をできるだけ改善して、崩壊を食い止め衝撃をやわらげること。「レクサス」と「オリーブの木」の間に健全なバランスを保つよう不断の努力をすること。そしてこの両者を実現するための中核となれるのはアメリカしかないということ。要約の拙劣さは小生の責任です、ご海容あれ。

 凡庸な結論と言っては失礼ですが、リアリティはありますね。ただいくつかの疑問が脳裡に浮かびます。例えば、著者は自由市場資本主義によって、金持ちと貧乏人の格差が広がっていったが、一方で、世界各地で貧困層の底辺は確実に上昇してきたと主張されています。(下p.138) 「DAYS JAPAN」や「貧困の世界化」(ミシェル・チョスドフスキー 郭洋春訳 つげ書房新社)などを読むかぎり、とてもそんな牧歌的なことは言えないのではないかというのが実感です。またグローバル化にともなう環境破壊についてもそれほど紙幅があてられていません。グローバル化を全否定することは無理だとしても、この悍馬によほど強力な轡をはめないと取り返しがつかないことになるのではと懸念します。そして根本的な疑問。人間というものは、繁栄を求めて見ず知らずの他者と激しい競争をくりひろげなければならない存在なのでしょうか。それに耐えられるものなのでしょうか。写真家の藤原新也氏が「日本浄土」(東京書籍)の中で、「消費行動が少なくしたがって生産性も低い過去の時代においては、衣食住足りれば人は遊んでいるかのような悠長な時間の中に身を置くことができた」と語られています。人間ってそういうのんびりとした「なまけものの世界」の中でこそ幸せに暮らせるのだと思いたいですね。「レクサス」と「オリーブの木」と「なまけものの世界」、何とかしてこれらを鼎立させることはできないものでしょうか。
by sabasaba13 | 2009-09-18 06:09 | | Comments(0)
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