高輪編(3):英一蝶の墓(09.10)

 そして裏道に入り、地図を頼りに坂道や狭い路地をかきわけると承教寺に到着、本堂前の左側に英一蝶(はなぶさいっちょう)の墓がありました。 私、この人の絵が好きだなあ。スーパーニッポニカ(小学館)と解説板に依拠して、彼のプロフィールを紹介しましょう。英一蝶(1652‐1724)。医師の子として京都に生まれ、1659(万治2)年ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信に学びましたが、創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛や菱川師宣によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開きます。機知的な主題解釈と構図、洒脱な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。かたわら芭蕉に師事して俳諧もよくし、音曲にも秀でるなど、通人でした。1698(元禄11)年、将軍を風刺したという理由で三宅島に流されたが、1709(宝永6)年に大赦により江戸へ帰り、画名を英一蝶と改名しました。何でも、赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見たことからつけたそうです。晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描きましたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはありませんでした。享年七十三歳。
 ごつごつとした石の台座の上に、ちょこんと佇む小さな墓石に合掌。私の拙い語彙では、洒落て軽くて暖かい絵としか表現できないのですが、時々無性に彼の絵が見たくなります。などと思いながらインターネットで調べていたら、板橋美術館で彼の展覧会が開かれていましたが、つい先日終了したばかり。ああ惜しいことをした。しかもタイトルが「御赦免300年記念 一蝶リターンズ」! 今年(2009年)は、彼が大赦によって三宅島から江戸に戻ってから三百年目の年なのでした。
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 承教寺の隣にあるのが高輪台小学校、モダンな建築だなと思いながら門のあたりをふと見ると解説のプレートがありました。以下、転記します。
設計者 東京市土木局建築課(鈴木忠雄)  建築年 昭和10年(1935年)
 都内の公立小学校は、震災復興を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎に建て替えられるようになった。昭和初期の公立小学校校舎には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)と呼ばれる二つの傾向があった。
 この校舎は、後者の代表作であり日本の新建築の代表例の一つに数えられ、戦後の小学校建築のデザインに大きく影響を与えた建物である。
 大きな窓は、水平美を強調したすっきりとした明るい外観を呈している。地上3階一部地下1階の建物の内部は、天井が高く、広い窓から明るい陽光が差し込み、児童たちがのびのび育つにふさわしい環境を創り出している。
 敷地を巧みに生かして配された校舎は、今では地域の象徴的な存在であり、地域の人々にも親しまれ大事にされている。(東京生活文化局)
 関東大震災後の復興小学校については、いろいろと聞いたことがあります。解説の通り鉄筋コンクリート造りで、無味乾燥に堕さぬデザインで建てられ、場合によっては周辺住民が避難するための小公園も併設されたとか。一概に比較はできませんが、オリンピック誘致に現を抜かす現在の東京よりは、教育に関してははるかに志が高かったような気がします。校門から校舎を見上げると、整然と並んだ大きな窓と、(後年の塗装なのでしょうか)白い壁と黒い窓枠のコントラストが、切れ味鋭いシャープな雰囲気をかもしだしています。ちょっとバウハウスの校舎にも似ていますね。校庭側からも撮影しようとすると、工事関係の警備員の方がいらして、「撮影禁止です」とのたまいます。え? 敷地内には入っていないし、生徒の姿も見当たらないのに… もう一度確認すると、「学校の許可をとってください」という木で鼻をくくったようなお返事。やれやれ、不審者を警戒する学校側の態度も、その意向に機械的に従わざるをえない業者の立場も、理解できないことはありませんが、もうすこし柔軟な対応をとれないものでしょうか。こうした過剰な警戒心が蔓延すると、街歩きをしていても息が詰まりそうでちょっと怖いですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-11-07 06:06 | 東京 | Comments(0)
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