「民族とネイション」

 「民族とネイション -ナショナリズムという難問」(塩川伸明 岩波新書1156)読了。20世紀が「憎悪の世紀」と化した大きな要因は民族問題やナショナリズムの暴走だと考えます。そして21世紀になってもその猖獗がおさまる気配がない以上、いかにしてその暴発をくいとめるかわれわれ人類にとって喫緊の大きな課題でしょう。そのためにも、この問題について冷静に把握・分析することが必須です。しかしそもそも"民族"とは何ぞや? 例えばnation stateを「国民国家」と訳したり、「民族国家」と訳したりと、学者諸氏の間でも理解にぶれがあるようです。同時に、国や文化によってニュアンスも微妙に違うような気もします。この問題について過去の研究をふまえながらわかりやすく解きほぐし、そしてさまざまな歴史上のケース・スタディとともに考察をくわえたのが本書、大変勉強になりました。
 まず著者は問題群を整理するために、人間集団を「エスニシティ」「民族」「国民」という三つのカテゴリーに分けられています。
エスニシティ。血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、「われわれは○○を共有する仲間だ」という意識―逆にいえば、「(われわれでない)彼ら」はそうした共通性の外にある「他者」だという意識―がひろまっている集団を指す。(p.4)

民族。エスニシティを基盤とし、その「われわれ」が一つの国ないしそれに準じる政治的単位をもつべきだという意識が広まった集団。(p.6)

国民。ある国家の正統な構成員の総体。(p.7)
 うん、これでかなり見通しがよくなりました。そして「国民」の定義や内実が大きなポイントであることもよくわかりました。つまり、何をもって「国家の正統な構成員」の根拠とするかについて、二つの考え方があるのですね。一つはエスニックな共通性が国民全体に行き渡ることが国民の一体性の基礎だと考えるケース、日本が典型的ですね。もう一つは、多様なエスニシティに属する人々が、その差異を超えて、一つの国の市民としての共通性をもつと考えるケース、これはフランスやアメリカが典型。いずれにしても「国民」と「民族」のあいだには、常にズレが生じます。そして、そのズレを埋めようとしたり、強引に切り捨てたり、無視したり、あるいはそれに反撥したり等々の現象を包括した問題群を、「民族問題」だと著者は延べられています。特に先進国からの衝撃を受けつつ、その模倣を急速に進めることを迫られた地域では、国民国家形成に伴う矛盾(どの民族集団が優位に立つのか)がよりあらわとなり、尖鋭な紛争を伴うことが多いという指摘には納得です。
 そして、本来、民族的差異は固定的でもなく敵対感情をもたらすものでもないのですが、何らかの紛争のために民族感情が動員され煽り立てられると、その狙いや意図を超えて収拾がきわめて難しくなります。この事態を「魔法使いの弟子」とする比喩は秀逸! よって、抗争が起こりかける直前の段階で、こうした民族感情の暴走に歯止めをかけるのが非常に重要であるというのが著者の主張です。

 ナショナリズムを危険なものとして排斥するのではなく(現状では不可能)、またそれを賛美して身も心もどっぷりと浸るのでもなく、どのような条件だと危険になり、どうすればそれを防げるのかを考えるのが大事。つまり「ナショナリズムを飼いならす」べきだという穏当な、しかし困難にして重要な結論です。こやつが暴走を始めたら、ほんとうに取り返しがつかないことになるのをあらためて銘肝しましょう。よって民族的な敵対感情を煽り立て動員する動きや人物に対して、常日頃警戒をし続けることが肝要だと思います。そういう意味では、石原強制収容所所長の差別発言に大きな批判が起こらない日本の現状は、ちょっと心配だなあ。
by sabasaba13 | 2010-01-17 08:07 | | Comments(0)
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