「1Q84」

 「1Q84」(村上春樹 新潮社)読了。ひさしぶりに、残りページが少なくなるのを惜しみながらも、早く先へ先へと読み進めたい、ウィントン・ケリーのピアノのようなドライブ感を味わえる小説でした。「作者はこの小説で何を言いたかったのか、二百字以内で述べよ。(ただし句読点は一字とする)」という野暮な問いかけはやめましょう。明確な正解が、帽子から兎を取り出すようにひょいひょい簡単につかまえられるのなら、小説を書く意味なんておそらくないでしょうから。よって私が私なりに村上氏から受け取ったメッセージを綴ることにします。まず、私たちの足元が着実に掘り崩されているという現状認識が、出発点です。自分でものを考える回線を取り外して/されてしまう脳死的な状況、誰にも求められていないという孤立感、土足で踏み込まれる人の魂の神聖さ、遍くはびこる暴力性、といった状況です。これを引き起こしたものを、オーウェルが「1984」で描いたビッグ・ブラザーのような確固とした実体ではなく、リトル・ピープルという謎のような存在に仮託します。それに抗うための武器が、物語だというのが氏のメッセージだと受け止めました。以下、引用します。
 ここは見世物の世界
 何から何までつくりもの
 でも私を信じてくれたなら
 すべてが本物になる (巻頭)

 物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。(Ⅰp.318)
 そうであったかもしれない、もうひとつの世界の可能性を示唆してくれる、それが物語。人の心を奥の方からじんわりと温めてくれる、それが物語。「アンダーグラウンド」以来、氏は"物語の復権"を追い求めているような気がしますが、その一つの到達点が本作だと思います。物語の素晴らしさを語る物語、堪能いたしました。
 もちろん、洒落たレトリックや音楽や食事に関する身体感覚を喚起してくれるような見事な描写も健在、彼が紡ぎ出す世界を十二分に愉しむことができます。余談ですが、アマゾンを見ると、この小説に登場する音楽のCDがよく売れているようですね。ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」、「ルイ・アームストロング・プレイズ・W.C.ハンディ」などなど。でもどういうわけか「マタイ受難曲」は売れていないようですね。そう、記者会見にそなえた練習で、ふかえりが好きな音楽として挙げた「BWV244」です。彼女が見事なドイツ語で歌った一節が気になったので調べたところ、第六番のアリア「悔いの悲しみは罪の心をひきさく」でした。日本語訳は「ざんげと悔いが罪の心を引き裂きます。私の涙のしずくが、心地よい香料となってあなたに注がれますように、尊いイエスよ」 うむむむ、この一節は、小説全体の構造の中でどう位置づけたらいいのだろう。そうした部分と全体の関係について考えるのも、小説を読む愉しみの一つですね。

 それにしても、小説家ってどうしてこんな面白い小説を書けるのでしょうか。悪魔の如く細心に、天使の如く大胆に、なんて想像してしまいますが、その創造の奥底では何が起きているのでしょうか。なんてことを考えていた矢先、たまたま石川淳の「短編小説の構成」という評論で興味深い一節を見つけました。(「石川淳評論選」 ちくま文庫)  夷斎先生の闊達な言葉が語る創作の秘密、村上氏にも共通しているような気がします。
 ペン先がそれ以前の諸因縁を切断したとき、作者はとたんに全身を投げ出して、知られざる別世界の中へと乗りこむ。…書く当人の心理よりも高次に飛翔して、ことばは緊密に精神と結びつく。ときどきペンを休めて、なにか乙な思案をひねり出しては、にやりとほくそ笑んで、それを紙の上に写しつづけるというふうにでもなく、あるいはまずイケぞんざいに考えておいて、たしかなところは追って理性と相談するというふうにでもなく、作者はいきなりことばに於て、ぶっつけに、ぎりぎりに、考え出すのだ。すなわち、作者の努力はつねにまだ判らないところから出発するのだ。…書くまえに、作者に判っていることは、ペンの前途が濛々たる闇だということでしかない。事実、われわれはそれよりほかの経験をもたない。
 前途が闇である限り、作品の世界にあっては、当の作者がかならずしも絶対の支配者とはいいがたい。…数行でも書きえたらば、ただしその数行がかならずレアリテをもっているならば、そこに内包されたものが勝手にぐんぐん伸びて行くはずで、あたかも作者の努力の線に沿って磁場ができたというぐあいに、作品の世界を構成するために必要な原子は向うから吸収されて来て、すでに書かれた部分自体の運動に続続と参加し結合し、そのかたまりがさらに運動をおこしつづけるふぜいである。このとき、かねて取っておきの材料とは何の意味があるのか。小説は生きものだというが、それは作品自体の運動、この波的な運動に於て生きているのだ。そして、一寸先が闇だというところに、波はおこるのだ。…
 さて、作品はつねに闇の戸口からはじまる。そしてその終るところもまた闇の中でしかないので、一つの作品が出来上がったおかげで、ただちに未知の法則の一つが解明されるというような重宝な仕掛にはなっていない。判らないところから書き出して、なにものかの片鱗をうかがいうるに至ることもあり、もしくは何事も判らないなりに切れてしまうこともある。ただ作者の努力が持続されるためには、それらの作品を経過しなければならなかったというだけである。作品が終ったときは、その世界よりも先へ努力が駆け抜けてしまったとき、より高次の段階に乗り上げたときだ。(p.38~40)

by sabasaba13 | 2010-01-31 06:59 | | Comments(0)
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