それでは山手線をまたいで根岸へと行きましょう。日暮里駅前で山ノ神に奉納する羽二重団子を購入し、線路ぞいに右へ歩いていくと韓国語のフリーペーパーやキムチを売る店を見かけました。このあたりはコリアン・タウンなのでしょうか。
そして羽二重団子本店、さきほどの店は分店だったようです。正岡子規や泉鏡花も好んだ名物で、店のわきには子規の石碑がありました。
このあたりで元三島神社の祭礼に遭遇。
さらに歩いていくと中村不折旧宅跡と書道博物館に到着、そしてその前にあるのが子規庵です。
1894(明治27)年に子規はこの地に移り、故郷
松山より母と妹を呼び寄せ、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが、1945年4月14日の空襲で焼失、その後再建されたのが現在の子規庵です。それではさっそく入ってみましょう。小さな庭に面して八畳と六畳の部屋があり、後者が子規の書斎・病室です。伸ばせなくなった左膝を入れるために板の一部をくりぬいてある子規愛用の机が置いてありました。高浜虚子が冬でも庭を見られるようにと、子規のためにガラス戸を入れたとのこと。病状が悪化し寝たきりになってからは、この狭い庭が子規にとって全世界だったのですね。「小園の記」にこうあります。
我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。
「
仰臥漫録」を読んでよくわかった、彼の凄まじい闘病生活がここでくりひろげられていたのか… 「衰弱ヲ覚エシガ午後フト精神激昂夜ニ入リテ俄ニ烈シク乱叫乱罵スルホドニ頭イヨイヨ苦シク狂セントシテ狂スル能ハズ独リモガキテ益苦ム(1901. 10. 5)」 解説には、掃除のために隣の八畳間に移動するとき、千里を行く思いで敷居の難所を越えたとありました。そしてガラス戸ごしに、いくつかの糸瓜が微風に揺れていました。絶筆三句「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」「痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず」「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」がふと頭をよぎります。玄関を出て家の脇をまわると、庭にでることができます。彼を支えたのは、この小園に自然の奇跡的な営みを感じ取る
センス・オブ・ワンダーなのかもしれません。律がガラス戸を開けて、庭の景色を見ようと顔をこちらに向ける子規の姿が目に浮かびます。
そしてラブ・ホテル街を抜け、萩の湯、豆腐料理の名店「笹乃雪」の前を通って、祭礼に集う人々の間を抜け、鶯谷駅に到着。
というわけで、史跡あり、坂あり、寺あり、樹木あり、猫ありのなかなか楽しい小旅行でした。これだけの充実した景観がありながらも、それとの調和を乱すように乱立する建築物の多さには、今更ながらうんざりさせられます。もうわれわれには"美"と"趣"をもった景観を紡ぎ出そうという意欲がなくなっているのでしょうか。最後に荷風の言を引いて、筆を置きましょう。
新時代の建築に対するわれわれの失望はただに建築の様式のみに留まらず、建築と周囲の風景樹木等の不調和なる事である。(「日和下駄」p.38)
本日の一枚です。